基本データ
取材日:二〇二二年四月十二日
取材場所:中央区久松町区民館
取材:神山彰・児玉竜一・日比野啓・和田尚久
編集・構成:日比野啓
監修:和田尚久
イントロダクション
春風亭一朝師は東京落語を代表する噺家として、寄席に落語会にと縦横な活躍を見せている。噺の運びは停滞なく、言葉は歯切れよく、タッチはあくまでも軽く、いつも若々しい高座ぶりではあるが、一九六八年に十八歳で五代目春風亭柳朝に入門しているので、すでに高座生活半世紀をこえた大ベテランである。
持ちネタは豊富で、「祇園会」「紙屑や」「転宅」「野ざらし」「片棒」などの滑稽噺のほか、「芝浜」や「死神」といったじっくり聴かせる演目、「魂の入換え」「植木のお化け」といった珍しい噺まで幅広い。なかでも近年は「芝居の喧嘩」「蛙茶番」「掛取り」「淀五郎」「中村仲蔵」など歌舞伎を題材にした芝居噺の評価が高く、ホール落語などで予告演目に出される〈一朝十八番〉となっている。
門弟には師匠の名跡を継いだ六代目柳朝、独演会やテレビなどでも旺盛な活動を見せる一之輔、さらには三朝、一蔵、一花など個性豊かな人材が揃い、一朝一門は東京落語のなかですでに重要な一画を占めている。一朝はみずからがすぐれた実演家というだけでなく、若手の素質を見抜き、育てあげることのできる名伯楽だと言うことができるだろう。
ところで、近ごろは春風亭一之輔が長寿テレビ番組「笑点」のレギュラーに抜擢されたことが話題である。テレビでの活動は落語家の本筋から見て脇道のようにも見えるので、一之輔は出演決定を報告するまで、一朝からどのようなリアクションが返ってくるか、些かの危惧もあったらしい。しかし、本人がラジオ番組で語ったところによれば、レギュラー入りを告げるや「おお! よかったじゃない。若いうちは何でもやったほうがいいよ」と拍子抜けするほどのあっさりしたリアクションだったという。面白いのは一之輔が、これからも落語も寄席もきちんと勤めますと神妙に述べると「そんなこと、なんで俺が心配しなきゃいけないんだよ!」と一朝は返し、おしまいに「お前なら大丈夫だよ」と付け加えたという。その一言で、テレビ出演の迷いが吹っ切れたと一之輔は語っている。(※)
落語家が落語以外の仕事をすることは古くからあり、たとえば林家彦六(一朝の大師匠)など、蝶花楼馬楽といっていた戦前の一時期、俳優としてPCLの映画に出演したりしている。戦後でも古今亭志ん朝など俳優、テレビタレントとしても活躍した。俳優業は広く見れば落語家という職分に隣接した役割であるともいえようが、なかにはもっと離れた活動をしている噺家もある。よく知られたところでは、四代目桂米團治の代書屋がある。落語の「代書」は米團治の実体験からつくられた創作である。戦後の東京では立川談志の参議院議員も特異なケースであろう。噺家の国会議員はいまだこの一例しかない。ほかにも色々な事例があるが、以上の顔ぶれを見てもはっきしているのは、落語家にとっての兼業は、高座を損ねるものではなく、むしろ藝にフィールドバックされ、噺に奥行きを与えるものであるということだ。これは落語が、実演家の経験や知見といった〈地金〉のうえにはじめて像を結ぶ芸能であるからだろう。
その点、春風亭一朝はかなりユニークな経歴をもっている。彼は二つ目時代の一九七三年(昭和四十八)から、真打昇進直前の八二年(昭和五十七)まで、十年近くにわたって歌舞伎の囃子方に出勤をしていた。職分は笛方で、囃子方としての名を「鳳声克美」という。
その間、言うまでもなく落語の仕事も続けながらで、忙しい時期には昼は歌舞伎座の御簾内で演奏し、夜は寄席に出るというような生活をしていた。文字通りの二足のわらじだ。そこにはさまざまな苦労もあったと想像できるが、しかし御簾内から参画した芝居での経験が、芝居噺はもとより、一朝の藝すべてに影響を与えていることは想像に難くない。今回の聞き書きでは、これまで断片的に語られてきた囃子方時代の記憶をぞんぶんに伺った。
また、一朝は真打昇進後、歌舞伎俳優・五代目片岡市蔵の娘さんと結婚をしている。そのため、五代目市蔵は義理の父、当代の六代目市蔵、亀蔵は義兄弟という間柄になる。こうした環境によって蓄積された〈幕内の話〉も今回は伺うことができた。
東京落語を代表する真打によるとっておきの芝居噺をお楽しみいただきたい。(和田尚久)
※ 一之輔の逸話は、「Yahooニュース」二〇二三年四月二十三日付に拠る。当該記事はTOKYO FMのラジオ番組「SUBARU Wonderful Journey 土曜日のエウレカ」での発言をまとめたものである。
囃子方になるきっかけ
神山 師匠は昭和二十五年(一九五〇)生まれでしたっけ。
一朝 昭和二十五年(一九五〇)です。
神山 私も昭和二十五年(一九五〇)なので、子供のころの風俗とかは、記憶としてはだいたい共通するところもあると思うんですけれども。
一朝 はい。
神山 お芝居は子供のころからご覧になられていましたか、とくに歌舞伎に限らず。
一朝 歌舞伎は、何をやっているというのは分からないんですけれども、歌舞伎をやっているというのは見て分かっていました。
神山 それはご両親とか、おじいさん、おばあさんと一緒に行ったとか、そういうたぐいですか。
一朝 たぶんおやじだと思うんですけど。
神山 そうですか。お父さんは、わりと芝居が好きだった。
一朝 もう落語も大好きですし。刺繍の職人で。
神山 そうですか。新派や新国劇はご覧になった?
一朝 テレビで知っています。
神山 テレビですね、やっぱりね。僕も新国劇はだいたいテレビなんですね、新派までは劇場での記憶ありますが。昭和三十年代の末、オリンピックの前も覚えていらっしゃいます?
一朝 あの辺はちょっと。
神山 オリンピックの前がちょうど中学校へ入る前ですよね。
一朝 そうですね。そういうのを分かるようになったのはやっぱり中学になってからですかね。
神山 なってからですね。ちょうど中学三年のときに十一世[市川]團十郎が亡くなったんですよ、海老様がね。海老様はご記憶はありますか。
一朝 もう全然分からないです。
神山 ないですか、そうですか。
一朝 ええ。
神山 やっぱりそうするとあれですかね、[十七世中村]勘三郎、[六世中村]歌右衛門、[二世尾上]松緑、[七世尾上]梅幸。
一朝 僕が好きだったのは[十三世片岡]仁左衛門さんが好きだった。
神山 仁左衛門が好きでした。そうですか。仁左衛門は、ただ、当時はあんまり東京へは来てなかったですね。
一朝 そうですよね。
神山 僕も仁左衛門は好きだった。仁左衛門は言っていることがよく分からないのがよかったんです(笑)。
一朝 そうなんです。「できたー」とか何か言うね(笑)。
神山 それが晩年全然変わっちゃった。松嶋屋[仁左衛門]は菅丞相がいいとばかり言われるけれど、あの昭和四十年代までの何かこの世のものとは思えないような口跡や独特の表情、あれが面白かったんですけどね。あそこ、あれを言わないで晩年の神技みたいに言うだけなのは残念です。あと、日劇や国際のNDTとかSKDのレビューとかはあんまり?
一朝 ああいうものはだめですね。
神山 行かなかったですか。今でもレビューみたいなものはあんまりお好きじゃない。
一朝 あんまり好きじゃないですね。
神山 そうですか。私なんかは、逆に寄席はそんなに行ってないです。子供のときはテレビで、その代わりずいぶんあのころはテレビはもう毎日のようにやっていましたから。囃子方になるきっかけというのは、噺家さんになってから……。
一朝 そうです。噺家になって、祭り囃子を最初におけいこしたんです。若山胤雄(たねお)さんです。
神山 若山さんが。
一朝 芸名が鳳声(ほうせい)晴雄。そこへお稽古に行って、何年かやって、もう本当はその祭り囃子を上がったらもう辞めるはずだったんですけど、君は素質があるから、笛全般をやらないかと言われて、それから長唄とか、能管物をちょっと。兄弟子が鳳声晴由(はるよし)さんというんですけれども、芝居に入っていたんですね。
神山 晴由さんって、あの砂押[伐(すなおし・いさお)]さんですか。
一朝 そうそう。砂押さん。ちょうど笛の方がお年寄りで代わるときだったんですね。「着到」だけでも吹きに来てくれないかと言われて、ああ、いいですよというので、二つ目で暇だったから。それがきっかけなんです。
神山 なるほどね。晴由さんは、ほら、本名が砂押だから昔はみんな立教野球部、国鉄の監督だった砂押[邦信]を知っているから、監督、監督と言っていました。そんな話をしていると切りがない。鳳声晴光さんは亡くなって。
一朝 晴光さんは亡くなりました。丸さん。
神山 丸謙次郎さん。丸さんは僕の大学の二年先輩です。
一朝 僕のすぐ上の兄弟子です。
神山 晴光さんは口跡が立派で、声色を聞いたことがあるけど。
一朝 芝居の声色がうまいんです。
神山 うまかったですよね。僕は[三世市川]壽海の声色で、あんなうまい人は見たことがない。
一朝 壽海はうまいですよ。新橋の自分のあの飲み屋さんで。
神山 そうそう。「末げん」の息子さんでね。
一朝 芸達者でね、あの人は。一緒に飲みながらやってもらいました。
神山 壽海の声色はなかなかできないですよね。
一朝 うまかった、うまかったですよ。
神山 あれだけの名調子でね。でも声が響くから隣の座敷にも響いて迷惑なんですけどね。うれしいですね、久々に丸さんのお話が出て。
一朝 懐かしいですね。
神山 そうすると当然、鳳声の方でお弟子になって芝居の世界に入るきっかけ、記録だと、一九七四年(昭和四十九)ごろからですが、もっと前からですか。
一朝 一九七三年(昭和四十八)。
児玉 [七世尾上]菊五郎襲名のちょっと前ぐらいですか。
一朝 菊五郎さんは何月でした?
児玉 十、十一月です。
一朝 じゃあ、前ですね、前だ。
神山 ただ、菊五郎劇団の方はあんまりお出にならない。田中さんだから。
一朝 僕は[菊五郎]劇団じゃなくて、歌右衛門さんの方だったの。
神山 歌右衛門さんだから[歌右衛門付きの囃子部長、十一世]田中傳左衛門先生。私が国立劇場へ入ったのが昭和五十三年(一九七八)ですが、傳左衛門さんと奥様と仕事で毎月のようにお会いしました。だいたい人頭(にんとう)[人数]のこととかは奥さんが全部やるから。傳左衛門さんは面白い方だったですね。
一朝 ええ。傳左衛門さんのおじいさん、噺家なんですよね。[三代目]三遊亭金朝という。
神山 そうですってね。お父様のことを国立劇場で一冊[『田中凉月歌舞伎囃子一代記』]本に出していて、あれの中に出てきましたね。
一朝 だから僕が真打ちになったときに口上書きをお願いしたんです。
神山 そうですか。傳左衛門さんは相撲が好きだった。
一朝 もう必ずあそこに映っています。
神山 花道のね。
一朝 東方の。だから歌右衛門さんにばれちゃったの。
神山 そう。だって頭取部屋でテレビ見ているじゃないですか、相撲中継を見ていると、毎日のように傳左衛門さんが映っているんですよね、花道の際に。
一朝 そうなの。
神山 あれでもう……
一朝 歌右衛門さんに見つかっちゃったの。
児玉 あと寮歌が好きだったと聞きました。
一朝 そうですか。それは知らなかった。
神山 それは知らなかった。あの相撲は有名でね。しかもちゃんと理由をつけて「立ち合いの勘を養う」とか言うのでおかしいんだ(笑)。
一朝 物は言いようですね。
神山 頭取部屋はみんな口が悪いから、横綱の前田山の引退[と同じじゃないか]だよと言っていましたよ。
一朝 そう。誰か囃子でしくじったのかな、家元を呼べというので、探したら、テレビに映っている。「今、相撲を見ています」。「それ、呼びなさい」と言われてね。
神山 面白いことは色々ありますね。普段はどうですか、傳左衛門さん。
一朝 時々すごいしゃれを言うんですね。おかしいですよ。
神山 そう。あの顔で言ったらおかしいですね(笑)。でも傳左衛門さんは本行(ほんぎょう)のことをよく言うでしょう。お弟子さんたちに「本行では……」とおっしゃいませんでしたか。
児玉 お能の方の囃子のことを。
神山 お能の囃子の、本行ではこうだからとか言って。それでよく稽古場でもめてね。師匠はあの時、いらっしゃらなかったかもしれないけど、坂東八重之助さんとかとけんかをしちゃったりね。
一朝 そうだったんですか。
中村歌右衛門から祝儀をもらう
神山 あのころの囃子方で私が印象的だったのは[田中]傳兵衛さん。
一朝 傳兵衛さん、はい。
神山 まだ長十郎さんとかは若かったですよね。
一朝 三兄弟でね。傳兵衛、勘四郎、長十郎。真ん中が勘四郎。
神山 お二人ともお元気でしたっけ?
一朝 お元気です。勘四郎さんは僕と同じ年ですよ。
神山 そうですか。そのほかの方もいっぱいいらした。失礼ですけど山台には?
一朝 乗りました。晴由さんと一緒に。
神山 晴由さんも一緒に、そうですか。
一朝 歌右衛門さんのあの『道成寺』。ワキ笛で。あと、たまに晴由さんの代わりで。晴由さんがお浚いへ行っちゃうと。
神山 なるほどね。
一朝 君、やってくれと言われて。
神山 それはそうだ、お浚いの方が[収入が]いいですからね。
一朝 「勘弁してくださいよ」。「大丈夫、分かりやしないよ」と言って。分かるよ(笑)。
神山 そういうのはよくありましたよ。
一朝 太鼓はテンといえば誰でも同じだけれども、笛はみんな違うから。
神山 そう。
一朝 その個性があるから。
児玉 役者さんのお好みもあるわけですよね。
一朝 そうなんですよね。すぐ分かっちゃうんだ。
和田 その『道成寺』のときですか、歌右衛門さんにご褒美か何かをいただいたというのは。
一朝 それは違うんです。あれは…息子さんの、あのころは[八世中村]福助さん[現・四世中村梅玉]だ。今の梅玉さんが笛を吹いている。それを聴きながら歌右衛門さんがこう入ってくる。そういう芝居があって、そのときに僕が笛をつけたんです。
児玉 『狐と笛吹き』ですか。
一朝 何だったかな、ちょっと題名を忘れたんですけどね[『須磨の写絵』一九七八年十月、歌舞伎座]。それで中日[祝儀]をもらった。家元がこれは珍しいと言うので、二人でお礼に行ったの。もう次の間付きですよね。初めてあそこに入ったから。
児玉 欄間がすごい(笑)。
一朝 欄間がすごい。こちらは家元と二人で次の間で「ありがとうございました」。もう何十畳のはるか奥の方から「ご苦労さま」と言われて。ところがその次の日から三日間、僕は落語の仕事で休んじゃった(笑)。
神山 そう(笑)。
一朝 そうしたら歌右衛門さんに「あなた、休んじゃだめよ」と言われて(笑)。
神山 あの成駒屋というのはいわゆるオーラみたいなものがありましたね。
一朝 ありましたね、いいですね。
神山 国立劇場の成駒屋の楽屋は決まっているでしょう、あの楽屋は成駒屋がいないときはほかの方が入るんだけどね。成駒屋が入るときだけは楽屋自体にオーラがあってね。
一朝 そうなんですよ。
神山 入るのに、ちょっと一息入れてからじゃないと入れないですね。あれは不思議な人でしたね。
一朝 不思議だね。
神山 あれは出そうと思って出せるものじゃないですね。
一朝 すごいなと思ったのは、ご存じかと思うんですが、舞台へ行く途中、鏡がね。
神山 そうですね。
一朝 何かこういう感じになっているんですよね。突き当たりに幸四郎さんの部屋があるから、そこを右に曲がってすぐにずっと舞台へ行く、そこに十七代目の勘三郎さんがよくわざと立っているんですよ、通さないようにね。我々はシャギリがあるので行かなきゃならないのに、わざと邪魔をしてね。慌ててぎりぎりまでそこに立って、駆け出していくわけですよ。歌右衛門さんはどいてくれるんです。どうぞ、どうぞと。
神山 そんなことがありました? それは僕も知らない。
一朝 わざと意地悪をすると。家元と仲が悪いから。こっちまで当たっているのかなと思うんですね。
神山 当時はそうだったんじゃないですか、特に田中さんの社中だとね、あれですね。
一朝 構わないから行きましょうよと、タタタタと連れてね(笑)。
児玉 基本的には舞台に行く人が最優先ですね、当然ね。
一朝 そうなんですよ、本当にそうなんです。だから結局最後はどくんですけれどもね。それまではからかって行かせない。
「鳳声克実!」と掛け声がかかる
児玉 『道成寺』にお出になったのは歌舞伎座で?
一朝 そうです。
児玉 これがそうじゃないでしょうかしら(写真を示す)。
一朝 ええっ? 何ですか。
児玉 歌右衛門の『道成寺』、こっち側。
一朝 これは何年ですか。
児玉 これは昭和五十三年(一九七八)四月です。
一朝 じゃあ、そうかも分からない。全員が太っているな。ここはこんな感じですよ。
児玉 歌右衛門が歌舞伎座で最後に一人で踊ったときはこれですよね。
一朝 そうだったんですか。あと雀右衛門さんと延若さんの『男女道成寺』[一九七五年五月、歌舞伎座]ありましたよね。
神山 ありました。
一朝 あれは出ました、あれにもワキ笛で。
神山 山台に?
一朝 山台で。そのときですよ、柳家小里んと古今亭志ん橋の二人が見に行きたい、ちょっと見せてくれと言うから、お金を払ったのかな、払ったかと思うんですけど、二階[席]の奥の方で見ていた。僕は鳳声克実ですね。その幕がふーっと開いたら普通、「京屋!」とか何か言うでしょう、そうしたら「鳳声克実!」と言ったの(笑)。
神山 掛けられた方が困っちゃいますよね。
一朝 傳左衛門さんが「今日はお友達がおみえになっていた?」。「相すみません」と謝っちゃった。
神山 あのころは[十一世田中傳左衛門の三女で、現在の十三世田中傳左衛門の母親である田中]佐太郎さんも若かったですね。
一朝 ああ。
神山 今は偉い人になったけど、佐太郎さんには私は本当に助けてもらいましたね。
一朝 佐太郎さんが、まだ赤ん坊の頃の今の傳左衛門さんを連れてきたんですよ。黒御簾へね。ちょうど『勧進帳』で飛び去りのところだった。一緒にこう入ってきたら、みんな大きな声を出すでしょう、ほーっと言って、そうしたら赤ん坊、今の傳左衛門さんがギャーッと泣いちゃって、慌てて飛び出してね。そんな話がありました。
神山 あの家元は神楽坂の上の、何と言うんでしたっけ。
一朝 あれは中町。
神山 中町だ、中町にお住まいでしたね。あそこも何度か、私は玄関で何か渡すだけでしたけど。
一朝 突き当たりが[大鼓方の]亀井[忠雄]さん一家なんですよ。だからその敷地内に一緒に住んでいるわけです。
神山 そうですか。傳左衛門さんの奥さんも、仕事柄、お身上[給金]のことなんかを私とかにいろいろ話すんですね。当時は大変でした、懐かしいといえば懐かしいんですが。菊五郎劇団の方の方とはあまり付き合いはないですか。
一朝 いや、そんなことはないです。
児玉 歌舞伎座だと一緒ですものね。
一朝 ええ。
神山 国立は大体、別ですけどね。
一朝 だからたまに頼まれて手が足りないと来てくれと言われて。
神山 そうでしょうね。
一朝 劇団にも行ったことはあります。
出トチリで吉右衛門に謝る
児玉 そうです。その前後で歌右衛門さん、あるいは、ほかの方でも、ご記憶に残る舞台というと何でしたでしょう。
一朝 天王寺屋[五世中村富十郎]のときに、やっぱり演舞場でしたけど、代わりで出たことがあるんですよね。
児玉 『[京鹿子娘]道成寺』[一九七七年十月]ですか。
一朝 そうです。引き抜きのときにお弟子さんがいつもしくじるんですよ、手際が悪くて。そのお弟子さんが、天王寺屋にぼろくそに言われて、「今度間違えたら十万円取る」とか何か言ったのかな、冗談でしょうけどね。いなくなってから弟子が「十万円出して、こっちが辞めたいよ」と言った。「よく言った」と言ってね(笑)。
神山 富十郎ご本人は台詞を覚えないでしょう。毎日違うので面白かった。キッカケの台詞が全然違うのね。
児玉 富十郎はテレビの収録が来ても違う。みんな収録のときは結構気が入るんだけれども(笑)。
一朝 そういう人はいますよね。
神山 これは仕事じゃないんですけど『関の扉』で[富十郎が]宗貞をやっていてね、「こりゃ、血の汚れ」というのが出ないので、それで後ろで狂言作者が、「これ血の汚れ、血の汚れ」と台詞を付けてるんですけど、「うん、何、父、実朝の何とか」で、『関の扉』と関係ないことを言った。でも、お客さんは『関の扉』なんか本当の台詞を言ったってね。
児玉 分からないです。
神山 何か言っていればいい。[三世河原崎]権十郎さんにしても、めちゃくちゃなことを言っているんだけど、何か言うからね。絶句したらだめなんですね。
一朝 もう何か分からなくても言っていないとだめなんですよ。
児玉 河内屋[三世實川延若]は絶句しちゃうからばれちゃうよね。
一朝 なるほどね。
神山 キッカケで困ったこと、間違っちゃったこととかありませんか。たとえば菊五郎劇団だと、『[南総里見]八犬伝』をやったとき[一九八二年三月・国立劇場]。片市[片岡市蔵]さんと市村𠮷五郎と菊蔵さんと、もう一人、鶴蔵、が芝居をしている。四人とも台詞が全然だめな人ばかりじゃないですか。そこへ捕手が出てくるんですよ。
一朝 ああ。
神山 四人とも台詞を覚えてないから、捕手頭の菊十郎が怒っちゃってね。「おい、どうするんだよ、これじゃいつまで経っても出られねえよ」って。そしたら下座の太鼓の人が、[菊五郎]劇団の人でしたけど、来て、僕は「それじゃもう台詞なんかいいから、とにかくドンドンと太鼓を打っちゃってください、それで出ましょう」と言ったのね。それで片市さん以下の四人に聞いたら、それでいい、それでいいと喜ばれたことがあるんですね。
一朝 [台詞を覚えないのは]もう有名ですからね。そういえば、吉右衛門さんの何かの芝居で、幕切れが「中の舞」なんですよね。〽︎テンテンオヒャラリ、あそこをそっくり抜いたことがある。
神山 完全にトチっちゃったんですか。
一朝 そう、トチったの。楽屋でお菓子を誰か買ってきたので、みんなで「これはおいしいですね」「何かジュースを飲む」「いいですね」なんてやっているうちに、チョンと来たから「ええっ」と(笑)。もう間に合わないです。
神山 役者だったら、[トチリ]蕎麦を配らなきゃならなくなるんですけどね。
一朝 ええ。吉右衛門さんのところに謝りに。
神山 吉右衛門さん、大変だ。
一朝 申し訳ございません。そのときに吉右衛門さんが、俺のときにやらないでくれよと言われて(笑)。
神山 国立劇場では昭和五十五年(一九八〇)[十一月]の『貞操花鳥羽恋塚』が鳳声克実さんのお名前が記録に残っている最後ですけれども、芝居の仕事をなさっていたのはこのころまでですか。
一朝 いや、昭和五十七年(一九八二)までやっていたんじゃないかな。
神山 じゃあ、歌舞伎座と松竹の方じゃお出になっていたんですね。踊りのお浚いの会なんかも、抜けていらしたりしていました?
一朝 鳳声のうちのお師匠さんの方から頼まれて何回か行ったことがあります。
神山 お浚いは、それはね、こう言っちゃ何だけどやっぱり[収入がいい]。
一朝 まあね。ただ、休んだのがみんなに分かりますよね。
神山 そう(笑)。
東宝歌舞伎に出演
児玉 そのころは、お浚いもたくさんあったんじゃないですか。
一朝 毎週のようにありました。それから頼まれて東宝歌舞伎にも行きました。長谷川一夫さん。
神山 そうですか。東宝の下座は、杵屋五叟さんが仕切っていましたね。あとは花叟さん。
一朝 初めて入りました、あの銀橋のオーケストラボックス。こうなっているのかと思ってね。あのときは『秋の色種』か何かを踊っていたんですよね。長谷川さんが。
児玉 でも和洋合奏じゃないんですか。
一朝 和洋です。和洋。
神山 長唄でも人間国宝になった[三世]杵屋五三郎、あの人も終戦後は仕事がなくて、SKDのオーケストラボックスで弾いていたんですよね。
一朝 そうなんですか。
神山 五三郎さんなんて、見た目が真面目そうなんで、面白い話題はなさそうに思って、話を聞かなかったんですが。後で国際劇場の、川路龍子なんかがいたころにやっていたと言うんだから、
それなら五三郎さんにSKD時代のことを聞いておけばよかったと思ってね、失敗したなと。
一朝 杵屋栄左衛門さんね。聞いた話なんですけれども、踊りはちょっと忘れましたけど、やっている最中に三味線を置いて山台から降りちゃったんです。
神山 ええっ。
一朝 いなくなっちゃった。みんな、どうしたの、どうしたのと。そうしたら、しばらくしてまた戻ってきて悠然とやるから、そういうものだと思っちゃうんですよ、みんなね。もう全然おかしくなかったらしいんですよ。
神山 そうですか。
一朝 終わってから、どうしたんですかと言ったら、うんこがしたくなったんですよと(笑)。
児玉 それは聞いたことがある(笑)。
神山 そういうのは堂々とやれば分からないですよね。
一朝 それも当たり前のようにこう立ち上がって降りてくるんですね。みんな、ええっ、何、何みたいな周りが驚いちゃうと(笑)。
一朝 黒御簾の方で主にやっていましたよね。舞台は栄二さんがやっていました。
神山 そう。栄二さんがね。
児玉 でも、昭和五十年代前半の東宝歌舞伎は、まだまだいいころですね。
一朝 そうですね。
神山 あのころはまだ帝劇でも高麗屋が歌舞伎をやっていたんですが、帝劇はお出になったことはないですか。
一朝 ないです。
児玉 歌右衛門が帝劇に出たのは、高麗屋の吉右衛門襲名だけだから[一九六六年十月]。そのときは確かに傳左衛門さんだけれども、まだですよね。
神山 そうそう。昭和四十一年(一九六六)ですものね。まだ高校生ぐらい。
一朝 あと、今、思い出したんですけど、澤瀉屋の[八世市川]中車さんの弟さん。
神山 [二世市川]小太夫。
一朝 小太夫さん。小太夫さんと[四世市川]段四郎さんの…。
児玉 『橋弁慶』[一九七五年七月・歌舞伎座]。
一朝 『橋弁慶』。朝の序幕で、それに出たことはあります。
神山 小太夫さんは自分で作った琴吹流という流派の家元なんですよ。小太夫さんは何か面白かったですね。兄貴の中車もうまくはないんだけど、踊りは独特でよかった。
一朝 いや、何かいい味をしていましたよね。
神山 あの人の踊りなんてあんまり評判にならないけどね。
一朝 僕は好きでしたね、中車さんは。
神山 踊りも面白かったな。
児玉 『鬼次拍子舞』[一九五七年十一月・歌舞伎座]なんかをやっちゃっています。
神山 僕は映像でしか見たことがないけど『鬼次拍子舞』は中車のが面白いですね。八代目の三津五郎も面白かったけど。白鸚さんの『元禄忠臣蔵』のとき[一九七九年十一月・国立劇場]は覚えていらっしゃいますか。記録に鳳声克実さんの名前が残っております。
一朝 そうですか。たぶん置いているだけで…。
児玉 黒御簾の仕事はほとんどないですからね。
神山 序幕の『伏見撞木町』という[『仮名手本忠臣蔵』七段目の]一力茶屋に当たるところに、ちょっと入るんですよ、下座が。
一朝 何かありましたね、そういえば。
神山 それと最後の方に何だっけ。
一朝 ヒー天[来序]があったんですよね。
児玉 『御浜御殿』。
一朝 『御浜御殿』、これもあった。
児玉 白鸚さん、当時の八代目幸四郎が初日だけで休んじゃったときですよね。
神山 あのときは真山美保さんともめて大変だったんですよ。
児玉 それで吉右衛門が代役になったので、最初からそう仕組んだと言って怒った(笑)。
一朝 なるほど。
神山 あのとき装置の、中嶋八っちゃんと呼んでいた、中嶋八郎さんって覚えていらっしゃいますか。
一朝 何か聞いたことがあるな。
神山 中嶋八郎さんが黒御簾の前に、「囲い」を置くじゃないですか、そこに、連子窓を開けた。
児玉 開けなきゃ見えないからね。
神山 見えないから。だけど、中嶋さんが連子窓を開けるのは嫌だと言って、困ったことがあります。「じゃあ、君は展覧会に飾ってある絵のあれを切るか、それと同じだ」と言うんですよ。「俺の作品に穴を開けるとは何だ」と。もちろんご本人も分かっていて言うんですし、最後は折れてくれるんですけどね。それが一番覚えているな、あの『元禄忠臣蔵』の下座のことだと。ところでご自分たちでは下座とはあんまり言いませんか。やっぱり黒御簾ですか。
一朝 そうですね、黒御簾。
神山 黒御簾ですよね。地方(じかた)の方が自分で下座と言うのはあんまり聞いたことがないですね。
一朝 言わないですね、あんまりね。
児玉 山台に乗られたときは、そのまま黒御簾にお出になったりすることもありますか。
一朝 ありますよ。
児玉 例えば先ほどの『橋弁慶』だと、その後『御浜御殿』[一九七五年七月・歌舞伎座]になっているんです。
一朝 じゃあ、たぶんそれです。
児玉 今の[二世市川]猿翁[当時は三世猿之助]と[十五世片岡]仁左衛門[当時は孝夫]の『御浜御殿』で、たぶんそれも黒御簾でお付きになったということですね。
一朝 たぶんそうだと思います。一つで終わりということはないでしょう。
児玉 確かにそうですね。
一朝 そんな高給取りじゃないですから、散々働かされると(笑)。
児玉 夜『助六』までやっていますけど、それはご記憶にありますか。
一朝 そこまではやってないと思う。
児玉 そうですか、なるほど。黒御簾で何かご記憶に残るということって何かありますか、それこそさっきの、きっかけがどこで、あるいは役者さんからどんな注文が付いたとか。
落語と囃子方の両立
和田 落語の活動と芝居と両方やっていらして。その芝居で何月にここに入ってくださいというのは、どのぐらい手前に言われるんですか。
一朝 二月ぐらい前かな。
和田 そうすると、じゃあ、例えば四月だとしたら六月にこの出し物があるので、そこでというような話がある?
一朝 出し物は聞いてないです。
和田 聞いていなくて。
一朝 ええ。「六月、空いていますか」と言われる。僕が「この日と、この日と、この日は落語のあれで、ちょっと地方へ行きます」と。「じゃあ、構いません。その日は誰かに代わりを頼みますから、来てください」。よっぽど手が足りなかったんでしょうね、あのころは。笛吹きは晴由さんと僕と、あと、おじいさん、いや、二人いたかな、それだけなんですよ。あと、あっちの劇団の方から誰か来るか。
神山 僕も笛方の方は印象があまりないです。
一朝 少なかったんですよ。だからずいぶん働きましたよ、私も。
和田 そのときは、朝なのか昼なのか夜なのかわからないまま「空いています」と返事をするんですか。
一朝 そうです。噺でつまっているこの日とこの日はだめですと言っておいて。
児玉 事情はちゃんと聞いてくれるわけですね。
一朝 聞いてくれます。そのかわり、僕も兄弟子の代役をやりますから。
児玉 今は二月前にきちんと演目が出ますけれども、そのころそんなのは出てないですものね。
一朝 空いているかどうかだけ聞かれて。
和田 その逆はありませんか。芝居に出る予定を入れていたら、その後になって寄席にこの十日日間入ってくださいとか、落語会のゲストに呼ばれるとかは。
一朝 そういうときは「今、芝居に出ていますからだめです」と。
和田 よほど近くなって芝居が昼で、夜の落語の高座となったら、それは行ける。
一朝 行ける。
和田 行けるわけですよね。それはその状況によりという。
一朝 そうなんですよ。ただ、あのころは二つ目で、そんなに高座はなかったですからね。一本で入るなんていうのはね。せいぜい入って誰それの代打ちで高座の何日目とか、そんな程度。
和田 旅[地方巡業]を打診されても、先に入っているものを優先して。
一朝 そうです。これはもう必ずそういうふうにしていますから。
児玉 だから一九八二年(昭和五十七)に真打ちにご昇進で、そこでもう芝居の方は出ないということになったということですね。
一朝 辞めました。
神山 田中傳左衛門さんは、そのころはまだご健在でしたよね。
一朝 元気でした。
神山 もちろんね。平成になっても……
児玉 平成になって生きていらしたんだけど最晩年は舞台からちょっと離れていらしたんですよね。
神山 そう。舞台は出てないですね。稽古場にもあまりもうお出にはならなかったけどね。
児玉 たぶん昭和の五十年代ぐらいじゃないですかね、出ていたのは。
義父・五世片岡市蔵と二世尾上松緑の思い出
児玉 片市さんのお嬢様とのなれそめを伺ってよろしいですか。どういうふうにお知り合いになったんですか。
一朝 うちのかみさんがスナックを始めたんですよ、湯島で。そこへ噺家がみんな通って。
児玉 なるほど。
一朝 そうしたら役者さんもみんな通って、そこでみんな知り合って。
児玉 なるほど。
神山 そのころ[現・六世片岡市蔵で、五世片岡市蔵の長男、当時の六世片岡]十蔵さんはもう二十代ですか。
一朝 そうですね。確かこの国立で初めて今の十蔵に会って、まだ、そのころはもう十蔵でしたけど[一九六九年十一月襲名]、ああ、せがれだと思って。
日比野 それは結婚される前?
一朝 前です。まだ。
神山 ご結婚なさる前は、片市さんは個人的にはご存じなかったんですか、もちろん舞台は…。
一朝 舞台は知っていますけど。
神山 稽古場でも一緒になるけれども。
一朝 ええ。
神山 それ以上は、そうですか。
一朝 ただ、僕は好きだったんですよね。あれはいいなと思ったのは『忠臣蔵』の『七段目』で九太夫をやりますよね。普通の人は前半が終わると帰っちゃうんですよね。
児玉 なるほど。
一朝 代役が羽織をかぶって出てくる。
神山 そうですね。
一朝 ところが片市のお父さんだけはずっと残って。だから顔を出したまま出てくるんですね。すごいなと思って、あれはやっぱりやっている人はいいですよね、うれしいですよね。最後までいてくれるというのは。
神山 それはそうですよね。市蔵さんは若いころは嘱望されていてね。ナリは、大正五年(一九一六)生まれにしては本当に立派ですしね。口跡はとにかくよくて。歌舞伎座の重役さんの井上伊三郎さんのご養子になったんですよね。
一朝 そうです。
神山 一時、井上太郎という名前でしたよね。その辺の事情はお話しにならなかったですか。
一朝 うちのかみさんから全部聞いています。
神山 そうですか。戦後もよかったと戸部銀作さんが言っていました。大正五年(一九一六)生まれだからまだ三十歳ぐらい。[その後の変貌の原因は]酒だったのかな、なんて言っていましたね。
一朝 酒が好きでね。戦争から帰ってきて紀尾井町[二世尾上松緑]のところへあいさつに行ったら、お前、だいぶ人を殺してきたなと言われたという。
神山 そうそう。それもいけなかったんだという話は私も聞きました。
児玉 ノモンハンの生き残りでしょうね、だってね。
一朝 あんまり戦争の話はしなかった。嫌がっていました。
神山 [四世中村]雀右衞門さんにしても、あまりしませんでしたね。無名ですけど私の父親も大正九年(一九二〇)生まれですが、やっぱりそんなのはしません。
児玉 負け戦の人はしない。勝ち戦の人はするんですよ。
和田 今のお話だと、松緑さんはそういう[人を殺してきたという]雰囲気を感じたということなんですかね。
一朝 でしょうね。
児玉 それはやっぱり六代目譲りでしょうね。
神山 師匠がご結婚なさったのは…。
一朝 ですから昭和六十年(一九八五)。
神山 三十五歳ぐらいのときですね。
一朝 そうです。三十五歳。紀尾井町にかわいがってもらっていたんですよ、うちのかみさんが。あいさつに一緒に行こうと言うので楽屋へ。
神山 そうですか。そのころはもう本名も井上から片岡に戻っていらっしゃいました?
一朝 片岡太郎。
神山 そうですか。お弟子さんが、私などが知っていたのは市松さんがいましてね。
一朝 市松さんね。
神山 市松さんね。市松さんは亡くなっちゃったけど、覚えているのは市松さんと、付き人の広田さんという人。
一朝 広田さん。
神山 みんな印象的でしたね、あの人もいかにも片市さんのところの付き人さんという感じがしましたね。ぎょろっと目がしていてね。
一朝 そうそう。
神山 やせ形でね。本当にもうがい骨みたいにやせて、なかなかいかにも……
一朝 いましたね、広田さん。
神山 市松さんって前進座にいたんですってね。
一朝 そうなんですか。
神山 そうなんですって。市松さんもあんまり昔話をしなかった。
一朝 ずいぶん馬の脚で稼いだと。
神山 そうそう。馬の脚で稼いだ。前が社長[十七世勘三郎の弟子で、晩年は頭取として楽屋を取り仕切っていた中村仲太郎の愛称]で、後ろが市松さんでした。
児玉 昭和六十年(一九八五)というと、團十郎襲名の年ですね。何月ごろに紀尾井町にごあいさつに行かれましたか。
一朝 結婚したのが二月でしたから、たぶん前の年、昭和五十九年(一九八四)の暮れかな。みんなお弟子さんが並んで笑っているんですよ。紀尾井町を前に、うちのかみさんが、「おじさん、連れてきたよ」。「おっ、あなたでしたか、いや、お気の毒にと、ご苦労なさいますよ、あなたは」と言われてね(笑)。
児玉 なるほど。へえ。
一朝 みんなくすくす笑っていたけど。
神山 でも、ああいう楽屋の雰囲気というのは、もうなくなっちゃったんじゃないですかね、あの芝居の世界はね。成駒屋みたいなあれも、紀尾井町も。
一朝 紀尾井町は面白かったですね。染升さんという人がお弟子さんにいて、何かしくじったら入口に染升入室禁ずと書いてあるの。それから、[五代目柳家]小さん師匠の浴衣は柄がタヌキで、僕はそれを着て夏は働いていたんですよね。
神山 そうですか。
一朝 歌舞伎座で。そうしたら紀尾井町も知っているんですよね、そのタヌキのを。たぶん[松緑本人も]もらっているんだと思うんだけど、ぱっと見つけて「おい、ちょっと待て」と言う、こちらはそのころはまだ全然分からないから「はい」。「お前、何でそれを着ているんだ」と言うのね。「ええっ。」「いや、何で着ているんだよ」と言う。「いや、これは。」「これはお前、柳家小さんさんと言って、お前、落語の偉い人が作ったやつを何でお前が着ているんだよ」と。「すみません、私本当は噺家なんです」「ああ、噺家か、じゃあ、しょうがねえな」と言われて(笑)。
日比野 それも結婚する前ですね。
一朝 前です。
児玉 紀尾井町は、酔った芝居はよく飲める人の方がいいか、それとも飲めない人の方がいいか、小さんと話したと。六代目[尾上菊五郎]は、飲める人じゃないと、酒を飲むという了見そのものが分からないと紀尾井町に言ったらしい。でも小さんはどっちだろうね、と当時テレビで言っていましたね。そもそも『らくだ』をやるとき、三代目の小さんが菊吉[六世尾上菊五郎と初世中村吉右衛門]に教えたか何かして、付き合いがあるんですよね。
一朝 そういうあれがあったんだ。
神山 片市さんはもうずっと昔から湯島にお住まいだったんですかね。
一朝 そうです。途中からマンションを買って千駄木へ移りました。
神山 何か送るのでも湯島の住所の記憶しかないですけど、そうでしたか。
一朝 千駄木から湯島、あの辺を飲み歩いていました。
神山 そうでしょう。だからさっき言ったようにね、昨日行った飲み屋のマダムの名前を言っているんだということでね。
一朝 そうなんですね。
児玉 歌舞伎座までは地下鉄でいらしていたんですよね。歌舞伎座がハネて、我々観客が銀座線の銀座にいると、時々市蔵さんがふらふら歩いているのを拝見しました。
一朝 井上のおじいさんは銀座の七丁目のところにいたんです。うちのかみさんは七丁目のことをよく覚えている。
神山 そうですか。片市さんは、お父様の片市さんとか、そういう昔話はあんまりなさらなかったですか。
一朝 私は全然聞いてないですね。息子たちにも言ってないんじゃないですかね。芝居の話はほとんどしなかったみたいですよ。
神山 そうでしょうね。今の市蔵さんが十蔵さん時代に伺ったことがあるんですが、そんな昔話は全然しないと。親子でする人はあんまり知らないですね。我々が聞きに行くとかえって話してくれます。[二世尾上]松緑さんと死んだ[息子の初世尾上]辰之助さんだって、そんな話はしてないですよね。[七世尾上]菊五郎さんも、[実父の七世尾上]梅幸さんが亡くなったときに、おやじは俺とどうやって話していいか分からなかったんじゃないかななんて言っていましたものね。
一朝 これは辰之助さんから聞いた話なんですが、『弁天小僧』で南郷力丸をやるというとき、お父さん[松緑]に「お前、どういう了見でやるんだ」と聞かれて「弁天小僧に負けないように」と言ったら「ばかやろう、そうじゃないんだと、目立っちゃいけないんだ」。
神山 なるほどね。
一朝 だから南郷力丸も張っちゃいけない、もう要するに辛抱立役じゃないけれども、そういうふうに見得を切るみたいなね。
神山 菊五郎劇団系の方、[五世尾上]新七とか[三世尾上]多賀蔵とか明治生まれの六代目以外の人は、幕開きの台詞をもう本当にちっちゃな声でぼそぼそと言っていた。今は世話物なのに、やたら声を張り上げて「このうちじゃ何とかの娘が何とか何とか」ってやる。そんなのじゃなくてね。
一朝 そうなんですよね。
神山 あれは六代目が声量がなかったということもあるんでしょうけどね。やっぱり説明したってあれは分からないですよ、役者さんもいくらそういうふうにやったってね。
児玉 何となくほこり鎮めてればいいわけですよね。
一朝 そうなんです。
神山 黙阿弥なら黙阿弥の世界に入っていく。その世界に自然に導いていくのが歌舞伎の仕出しの役割なんですけどね。映画の導入部の音楽と同じ。噺家さんを前にして言うのはあれですけど、噺だってそうだと思います。
一朝 そうなんですよね。いきなり大きな声ではあんまりやらない。
神山 最近は大きな声で自分の名調子を誇るみたいなね、あれはおかしいと思いますよ。
一朝 これは囃子の先輩に聞いた話で、六代目と初代の吉右衛門さんの違いというか、吉右衛門さんは、例えば『加藤清正』をやると、もう舞台の脇から清正になっちゃう。
児玉 そうそう。
一朝 そうなったら「親方」と言っても返事をしない。でも「殿」と言うと「んん」って。もうそのまま舞台にこう入っていくのね。六代目は、もう舞台の袖までぺらぺら[喋って]、それだよ、どうのこうので、ぱっとすぐ舞台に入っちゃう。それの違いだと言っていましたけどね。
神山 そうですね。
児玉 でも、そのじかの薫陶を受けた方が、まだお囃子にいらっしゃるころに、中にいらっしゃいますよね。
一朝 そうです。そういう話はずいぶん聞きました。
神山 傳左衛門さんは明治でも四十年(一九〇七)生れ、二十世紀でしょう。それよりもまだ上の方がいましたからね、菊五郎劇団の[二世]柏扇之助[一八九九年生まれ]さんなんか。
一朝 柏扇之助さん、いましたね。
神山 普段は無口な方で、僕はそんなに話を聞けなかったですけどね。それこそさっき話をした栄左衛門さんなんかもそうでしょう[一八九四年生まれ]。清元で言えば志寿太夫さんも一九世紀じゃないですか[一八九八年生まれ]。
児玉 そうですね。
神山 志寿太夫さんとか栄左衛門さんとか、ああいう方がいたんですからね、あのころはね。
一朝 そう。紀尾井町の『魚宗』で酔っ払って酒樽を落として台詞へ入るときに、いつも三味線が遅れる。違うよ、ここでトンチンチンチンと入ってくるんだよと言われてね。どうしてもできないので紀尾井町が自分で弾いていました。
神山 あの人は、そうそう。
一朝 やっちゃうんですよね。
児玉 清元もやりましたね。
神山 清元も、俳優祭でも、やっていました。
一朝 すごいなと思って(笑)。
神山 そうですね。やっぱりそういうところの蓄積は違いましたね。蓄積というより、もう身に付いちゃったんですね。
一朝 だろうね。「俺はな、番卒をやったんだから」と言っていましたよ。
神山 おっしゃる通りですよ。今の御曹司はいきなりもう義経や富樫や弁慶をやって。
児玉 いきなり義経、いきなり富樫、そうそう。
神山 あれは番卒をやって、せいぜい今の白鸚とかなんかでも、やっぱり四天王をやってからね。番卒はやってないけど四天王をやってから弁慶をやった方がいいんじゃないですかね。それで覚えるんだけど、今はビデオでみんな覚えちゃうんですよ(笑)。
一朝 そうだね(笑)。
神山 師匠がお入りになったころは、噺でも芝居でも、ビデオなんかないですものね。
一朝 ええ。
神山 それがいいんですよね、記憶として残っているから。今は歌舞伎の人たちは「私の師匠はビデオです」と堂々と言いますものね。驚いちゃいました。冗談で言うんならいいけど、ちゃんと活字で残るところで「師匠はビデオです」なんて、何か悲しくなっちゃいますね。
児玉 落語のお稽古にカセットテープが入ってきたのって、いつごろからですか。
一朝 もう前座のころにはありましたね、そういえば。オープンリールが主流でしたけれども。
児玉 オープンリールは持って歩くのが…。
一朝 みんな[デッキは]各うちにあるんですよ。
児玉 なるほど。
一朝 だからあのテープだけ持っていく。
児玉 そうか、それで。
神山 黒御簾の仕事もきっかけですものね。[芸の]巧い、下手は私は分からないけど、きっかけの、巧い、まずいは感じましたね。松竹の方がいいんですよ、国立劇場は、ご記憶か分からないけど音響担当者がいるんですよね。音響担当者も一緒に行くからかえって面倒くさい。
一朝 そうなんですか。
神山 成駒屋が何かできっかけが違うというのを言ったんですよ。そうしたら、「あなたね、間が違うのよ」と言ったら、音響さんが「はあ、タイミングですね」と言うんですよね(笑)。
一朝 「タイミング」(笑)。
神山 だから成駒屋が一息のんで、「そうよ、間よ」と。「ですからタイミングですね」の繰り返し。当人は何にも気が付いてないからいいんですよ、横にいるこっちの方がもう冷や汗をかいて、「間が大切、間が違うということですから、そこのところは明日ちょっとあれして」と、もうほかの話に持っていきましたけどね。ああいうところは本当に当人も全然悪気がないんですよ、音響の人にしてみればタイミングなんですよ。あれもおかしかったですね。
一朝 成駒屋は馬が好きでしょう。昔の頭取の部屋で菊花賞か何かね。ハイセイコーとタケホープの一騎打ちをこう、おお、行け、行け、行け、行け、直線で行け、行け、頭取が言うわけ、どけと言う。何を言ったの。後ろにいたんですよ。二人で頑張れ、頑張れ、まずいなこれはと思って、どけと言われちゃった。
神山 傳左衛門さんの相撲とか、ああいうのは面白かったですね。
児玉 そういえば亀井さんがよく相撲を見ますね。
一朝 その後を引き継いで同じところに。
神山 だからあの位置に……
一朝 そう。同じところに座っています。
児玉 先ほどの『鳥羽恋塚』というのはご記憶はありますか、[四世鶴屋南北の]復活物なんですよ、『袈裟と盛遠』。
一朝 もうだいたい国立はそんなものばかりでしたからね。
神山 『鳥羽恋塚』のとき片市さんが出ていたんですよ、相手役は今の[二世中村]魁春さん。当時は[五世中村]松江で、その役が待宵(まつよい)という名前なんですよ。それを片市さんはどうしても覚えられない。
児玉 マツエと言って。
神山 あの人らしいけど、最初稽古場では、マツヨイをヨイマチと言うんです。僕があれはマツヨイですからと言いに行くと「分かった」と言うんですが、その次は、また間違える。初日になったらマツエと言うの、マツヨイのことをマツエ、これマツエ殿と言う。マツエは役者さんですから、マツヨイですと言ったら、翌日は何か全然キヨエとかね、頭取部屋で、「あれは昨日、飲みに行ったマダムの名前だよ」。「でも毎回違いますね」「毎日違うんだよ、あの人」(笑)。
一朝 それはもう有名ですからね。
神山 おかしかったな、あれ。片市さんには悪いけど。
一朝 おかしいね。
神山 言っても楽しい言い間違いだった。
児玉 そうですよ。本当にそうですよね。
神山 周りの役者さんも、それでも片市さんじゃなきゃだめだと言うの、だからこれは大したものですよね。
一朝 いや、もう本当に変な話、あのころの幸四郎さんと吉右衛門さんが『河内山』をやるときに、北村大膳はお義父様じゃなきゃだめだと言うの。取り合いをしていたんですね。
神山 『一谷』の「熊谷陣屋」を、梶原の入りからやった時も、片市さんそのころはもう晩年で、全然台詞が入らないんですよ。だけど成駒屋が監修で、これはいつもの「聞いた、聞いた」から出るだけならばいいけれども、入りからあって、ちょっと長ぜりふがあるから、ほかの役者さんの方がと言ったんです。
そうしたら、ああいうところは成駒屋は偉いですね、「だめだよ、そんなものじゃないよ」と言って、「片市さんだから、後ろで[台詞を]付けてやればいいんだ、付けてやればどうにでもなるよ」とそう言ったんですよ、本当にその通りですよ。
梶原の普段出ない「入り」のところは、何を言っているんだかよく分からない。でも、「聞いた、聞いた」のところは、いつも通りだから頭に入っている。片市さんの代りに想定したのは、ある方なんですが、その方ではつまらなかったと思いますね。ああいうところは本当によかった。
一朝 成田五郎をやって刀を落っことしちゃったの、そうしたらお客が拾ってくれた。「どうもすみませんでした」(笑)。
神山 それは知らなかった、それは笑いますね。あと、おかしかったのは『河内山と直侍』で金子市之丞って出るじゃないですか。
一朝 はい。
神山 金子市之丞を二代目の[尾上]松緑さんがやったんですよ[一九八三年一月、国立劇場]。後ろに居並ぶ子分の筆頭が片市さんで、「新陰流の達人にて誰もかなわぬ金子氏」という台詞がある。それを片市さんは、稽古のときから「新陰流の達人にて誰にもかなわぬ金子氏」とずっと言ってるんです。意味が逆になっちゃうんだけど、紀尾井町[松緑]も何にも言わないんですよね。ですから私が何度も言いに行きました。「誰もかなわぬ金子氏です」「そうだな、分かった」。でも初日から千秋楽まで全部「誰にもかなわぬ金子氏」でね。
一朝 分かってないです。
神山 お客さんも誰も笑わないの(笑)。
児玉 [初世尾上]辰之助の直侍でですね。
神山 そう。辰之助の直侍、雀右衛門の三千歳。
神山 [市村]鶴蔵さんも台詞覚えが悪かったですね。
一朝 よく間違えていましたね。
神山 むちゃくちゃだったですね。鶴蔵さんは見ていたら気の毒になっちゃうんだけど、片市さんは気の毒にならないところがいいところでしたね。周りの役者さんも本当に楽しんでね。
一朝 そうですね(笑)。
昔のお客はいろいろ
神山 昔、見物でも変なのがいて。我々が子供のころかな、花道で、横綱が土俵入りをやるとね、女性のファンで同じことをやるのがいたんですよ。
児玉 土俵入りをしているんですか。
一朝 へえ。
神山 女性でもう大正の初めか明治生まれぐらいの年配のおばちゃんがやっていたね。
児玉 最近コロナ禍になって砂かぶりのところに微動だにせずに座っているうら若き女性がいるという。砂かぶりの君と呼ばれているのがいるらしい(笑)。
神山 そういう独特のお客さんって今もいるんだな。
一朝 いろいろな人がいますよ。芝居でちょっと空いている時間があったので踊りを見ようと思って、誰の踊りだったかな、玉[三郎]さんかな、演舞場の三階へ上がって見ていたら、三階の端っこの方でもって一緒に踊っている人がいたよ。
神山 やっているんですかね。
一朝 おお。あれっ、同じ手だ、うまいなと思って(笑)。
神山 そう。それはお浚いの会で? お浚いじゃなくて本興行ですか。
一朝 本興行。
児玉 大向こうさんかもしれないね、時々いますよ(笑)。
一朝 同じ手で踊っていましたよ。大したものだなと思った。
児玉 松緑さんが言っていましたね、最前列でそれをやる人がいると。
一朝 最前列はね。
神山 それはたまらないよね。
児玉 そう。それで熱心なのは分かるけれども、踊りにくくてしょうがない。六代目はそれを見つけると、わざと踊りの手を変えると(笑)。
一朝 なるほどね。それをできればいいよね(笑)。
神山 できればね、本当ですよ。
一朝 自分がめろめろになっちゃったら。
児玉 そうですよね。
一朝 辰之助さんがもう亡くなる前だったのかな、二日酔いで『三社祭』、天王寺屋と踊る[公文協・名作舞踊公演、一九八五年三月、浅草公会堂]んですが、もうふらふらなんですよね。
児玉 そうそう。
一朝 あれは何か見ていて痛々しかったな。
児玉 テレビに残っちゃったんですよね。本当にハー、ハー、ハー、ハーと。
一朝 そう。もう何か痛々しかったな。
神山 辰之助さんは、あのころは芝居が本当によくなかったですね、荒れちゃって。『菊畑』の智恵内[一九八五年十一月、国立劇場]なんかだって絶句しちゃったりね。これも八重之助さんがやっぱり「ああなるもんかねえ」なんて言ってね。何と言ったっけな、「怖いものだね」とか言っていたけどね。成駒屋が『牧の方』ってやったんですよね[一九八五年十月、国立劇場]、あのときも舞台に穴をあけちゃって、成駒屋が怒ってね。辰之助さん当人には怒れないでしょう、だから我々に怒るんですよ、「あんなことをしているから芝居に出るんだよ」と。
児玉 あのとき『喜撰』も踊っていますけど『喜撰』じゃなくて。
神山 『喜撰』じゃなくて『牧の方』の朝雅、あれでもうとちっちゃってね。
児玉 『牧の方』が十月で、智恵内が十一月で、国立に連続で出て。『三社』が三月ぐらい。だから昭和六十年(一九八五)は色恋沙汰のことと、團十郎襲名で自分だけ置いていかれたというので荒れちゃったんですね。
一朝 『菊畑』で思い出したんですけど。誰だったかちょっと忘れたけれども、[七世尾上]菊五郎さんの劇団。後ろに腰元が並びますけど、みんな下駄を履いている。
神山 履いています。
一朝 後ろ幕か何かを外す長い竹の棒があって、菊五郎さんがそれで一人の下駄をぽんと外したの(笑)。
児玉 悪いことをするね。
神山 あの人は悪いいたずらをします。
一朝 おかしかったですね。引っ込むときにこんなになっちゃう、飛んできまして「若だんな、やめてくださいよ」と(笑)。
児玉 菊五郎さんはそのころだと皆鶴かもしれないですね。
神山 そのときはもう牛若では…。
一朝 いや、用はなかったような気がする。
児玉 なるほど。そうか。
神山 役にでているんじゃなくてね。
一朝 うん。
児玉 菊五郎さんは、仁木弾正[『梅照葉錦伊達織(裏表先代萩)』]を国立でやったとき[一九九五年十二月]に千秋楽に、かごの中の死骸になって出てきたんです。勝元公、乗り物これへと言ってやって、開けたら仁木弾正が死骸で入っているの、悪いことをするなと思っていました。
一朝 そう。劇団でだいたい十一時ごろか十一時半から着到なんですよね。もう十分前、じゃあ、そろそろ行きましょうかと言ったら、テンテンと入ったんですよ。あれっ、誰がやっているのと、そうしたら菊五郎さんと辰之助さんが二人でやって飛んできましたよ。遅いよ、ばかやろうと言いながら(笑)。
鹿芝居の思い出
一朝 [二世中村]吉之丞さん、前の万之丞さんにお芝居を稽古してもらったんですよ。『籠釣瓶』。本当にもう丁寧に教えてくれてね。でも噺家というのはひどいね、当日になると変えちゃうんですよね(笑)。
神山 教えてもらっていて。
一朝 そう。ソデで見ていて、気の毒になっちゃって、せっかく教えたのに(笑)。次の年はもう嫌だと言うから、違う人に来てもらったの。その人も一生懸命教えてくれる。そしたらやっぱり心配で万之丞さんが来て、「いいのよ、あなた、適当にやりなさい、どうせ当日変わるんだから」と言って。読まれちゃったよと(笑)。
神山 読まれたんですね。
児玉 鹿芝居をお始めになったころというのは、ご結婚なさった後ですよね。
一朝 そうです。
児玉 片市さんがまだご健在のころ。
一朝 そうです。来ていましたよ。
児玉 鹿芝居のときに教えてもらったりしたものですか。
一朝 いや、ただ見に来るだけです。おひねりをこう作って投げるんですよ。
児玉 なるほど。
一朝 一回、幸ちゃんって今の市蔵に、[当時の片岡]十蔵に来てもらったことがある。
児玉 そうですか、へえ。
一朝 僕にはやっぱり義理の兄だから結構丁寧に。一朝さん、こうやってね、こうですよ。ああ、なるほどね、ありがとう、分かりやすくていい、どうもありがとう。ほかの連中が「十ちゃん、僕に教えて」。「ちょっと私は急ぎますので」と言う。何だ、この野郎と言って、えこひいきだ、あいつはと言って評判が悪かったけど(笑)。
児玉 十蔵さんは、わりと教え上手じゃないですか。
一朝 うまいですよ。今、[柳亭]市馬さんが「俵星玄蕃」を歌うんですよ、やりを持って。
神山 三波春夫のを?
一朝 そうそう。あれがあまりうまくなかった。それを十蔵が教えたんですね。こうやるといいですよみたいな。
日比野 市馬師匠の高座を見て、十蔵さんが自分から進んで教えた。
一朝 そうそう。うちのかみさんに、「姉ちゃん、あれを直した方がいいよ」と。「あなたが言いなさい」(笑)。
児玉 [六世片岡市蔵は]教えるのが上手だと聞きましたけどね。勘三郎のところの鶴松が、部屋子披露のときに『車引』の杉王丸をやって。今の市蔵がとにかく一生懸命教えて、子役なのにすごくしっかりしているという評判で、市蔵株が上がった。
「片市さん」再び
児玉 『助六』の国侍の股くぐりなんかは[五世市蔵に]そっくりになりましたね。
一朝 まあね。ほかの人がやるのも見たけど、やっぱりお義父さんはいいんですよね。
児玉 そうですよね。
一朝 田舎侍でも違うのかなと。
神山 そうです。本当に違うんです。あんなの「アア」というだけで、台詞なんかないんですからね。
一朝 そうなんですよ、あれだけなのに何でこんなに違うんだろう。
神山 だから台詞はさっき言ったように間違っていてもいい、片市さんの方がいいというのは本当にその通りです。
一朝 いや、よかった。
神山 『[一谷嫩軍記]陣門・組打』の平山武者所[秀重]なんかは今の人と全然違いますね。
一朝 平山はそうだったですね。
児玉 そう。それから『籠釣瓶』の釣鐘権八とかね。
神山 釣鐘権八だね。
一朝 僕は鹿芝居で、その釣鐘権八をやったの。
神山 やっぱり直伝ですね。
一朝 衣裳は松竹からのね。お義父さんがのぞきに来て、「あれっ、何だ、その衣裳は新しいじゃないか」と。「ええ、まだ、お義父さんは着ていませんから」。おいおい、まずいよ、おい、先に着ちゃった(笑)。
児玉 もう本当にもうあれ、権八その他みんな代替わりしたら、もう違うお店に来ちゃったみたいなね、本当に。
一朝 蝙蝠安もよかったですよ。もう本当に小悪党という感じが。
児玉 ごろつきの。でも蝙蝠安も釣鐘権八も時々やっぱり台詞が怪しいんですよ。
神山 台詞は怪しいんだけどね。
児玉 だけれどもいいんです。
一朝 それはもういつものことですから。
児玉 そう。本当にそうですよね。
一朝 だからみんなお父さんが間違えると大道具でも何でも、ああ、夕べ飲み過ぎだよとかね。いいよな、それで済んじゃうんだからなと言って(笑)。
神山 そう。それでまたね、口跡が立派だからよく響くんですよね、間違った台詞(笑)。
児玉 そうそう。
神山 どこにいても。
児玉 久しぶりのものなんかをやった日にはね、『一本刀』の船戸の弥八か何かの台詞がこれがまた出てこない、出てこない。
一朝 うん。
神山 出てこないでしょう、そうそう。国立でやったとき[一九八五年十二月]も駒形茂兵衛は中村屋[十七世中村勘三郎]で、やっぱりあれ[船戸弥八]は片市だというので。
児玉 そうですね。
神山 もう絶対ほかの人ではだめだったですね。
一朝 よかったですね。
神山 中村屋や成駒屋や紀尾井町の、自分が若いころの片市さんの記憶があったこともあるんでしょうね。将来、嘱望されていたころの立派な口跡とあれでね。僕は見てないけど東横[劇場、一九五六年二月]での[『御所五郎蔵』の]星影土右衛門なんかはよかったと言っていますものね。
一朝 らしいですね。俺も見たことがないんですけれども。
神山 面白いなと思ったんですね。山崎屋[三世河原崎権十郎]の五郎蔵よりもずっと立派でね。
児玉 そうですよね。十一代目團十郎[当時は九世市川海老蔵]の与三さんで赤間源左衛門[『与話情浮名横櫛』一九五五年十月、歌舞伎座など]でしょう。
神山 そう。源左衛門。
児玉 でも、普段あらたまって芸の話はなさらないですよね。
一朝 全然しないです。
児玉 そうですよね、ですよね。
一朝 もうまったくそういうことは。[そのかわりに]あそこの店はうめえぞとかね。おかしいですよ、しらふで店を探したら分からないんですよね。「お義父さん、どこですか」「確かこのあたりだと思ったんだがな、まあ、いいか」というので違うところで飲んでいたら、突然「あっ、思い出した」と言う(笑)。
神山 飲めば思い出す(笑)。
一朝 こっちだ、こっちだなんて言ってね。
神山 さっき話に出たお弟子さんの市松さんなんかは、そういうとき一緒に飲みに行かないでしょう。
一朝 行かないです。
神山 行かないですよね。市松さんは何か飲む感じじゃなかったんだな。でも、あのころは、お弟子さんもそれぞれ特徴があって
日比野 私はCDで聴いただけですけれども、奥様の荷物を持って歩いていたら片市さんと偶然出くわして、怒られたけど、向こうも買い物に出ていたという話。
一朝 そうそう。
日比野 怒られた場所というのは、じゃあ、湯島の方ですかね。
一朝 鈴本[演芸場]へ出て、一緒に歩いていたんですよね。おなかが大きかったので僕が荷物を持って歩いていたら、お義父さんが「何をやっているんだ、お前」と言うから、「いや、これからちょっと買い物に」。うちのかみさんに「お前、亭主に、そんな物を持たせるやつがあるか、みっともないぞ」。「お父さん今おなかが大きいの」。「そういうものじゃないんだ、お前な、重いものはみんな女房が持つんだよ」と。お義父さんを見たら鍋を持っているんですよ。「どこへ行くんですか」と言ったら、かみさんに頼まれて豆腐を買いに行く。だめだこれはね(笑)。
神山 あの人らしいですよね。
一朝 説得力がないですよね。
児玉 いい話ですね。
神山 いや、しかし、片市さんが豆腐を買いに行くところは見たかったな。
日比野 自分の酒の肴なのかな。
一朝 料理がうまいんですよ。
日比野 そうなんですか。
一朝 料理が好きなの。うん。
神山 意外ですね、そう見えないわ、そうですか。
一朝 子供たちは、お母さんが作るより、お父さんが作った方がうまいと言う。
神山 そうだったんですか、へえ。
一朝 だけどおかしいですよね、作っているうちに酔っ払ってくるんですよ。
神山 味見ばかりしちゃう。
一朝 飲んでね、飲みながらやっているから。
神山 飲んで味見ばかり。もうできたころには自分も出来上がっちゃっている感じですね。
一朝 そろそろできるぞって、おお(笑)。
日比野 もちろんお手製の料理をごちそうになったことは何度も?
一朝 あります。
日比野 それはあれですか、もう今日は、じゃあ、俺が作るからと言って師匠と奥様をご招待するんですか。
一朝 いや、もうそれは成り行きで。
日比野 成り行きで。
児玉 成り行き、へえ。
一朝 お母さんが帰ってこない、じゃあ、俺が作るかみたいな感じで。
日比野 なるほど。
神山 ちょっと伺いにくいけど最期は地下鉄の事故[一九九一年六月、千代田線湯島駅でホームから転落]ですよね。
児玉 そうだね。
一朝 そうなんですよ。だから湯島にいれば、そんな電車に乗ることもない。事故も起こることがなかったんですけれどもね。
児玉 そうだね。
一朝 飲む場所はもう決まっているから、そこの千駄木から電車に乗ってくるわけですよ。
日比野 そうなんですか。
一朝 そうなんですよ、湯島までね。
神山 二駅ですもの。
一朝 二駅なんですよね。
神山 根津、湯島ね。
一朝 だから、うちのおかみさんが、なぜタクシーに乗せないんだよと、うちのお母さんにね。
日比野 そうですね。そう。
一朝 なぜタクシーで通わせないんだと怒っていましたけどね。
児玉 そうそう。お年なんですものね。
一朝 電車なんかで、そんな酔っ払って、あんなふらふらしているのに電車なんかで帰すやつがあるかみたいなね。惜しいことをしましたよね。
神山 本当に惜しいことで。
児玉 というか本当にもう直前まで現役バリバリでしたものね。
一朝 そうですよ。あれは平成三年(一九九一)かな。
神山 そうですね。僕は平成八年(一九九六)まで幕内にいたのでよく覚えています。
児玉 あのころはみんな老巧の脇役さんがバタバタ亡くなったんですよ。
神山 そうなんですよね。だけど片市さんは本当に元気だったからな。
児玉 現役だったから、そう。
歌右衛門の思い出
日比野 歌右衛門さんとのことをもう少し伺えれば。
一朝 ですから、さっきの祝儀の話とか。
児玉 歌右衛門さんがそうやって祝儀を出すことは、めったにないということですね。
一朝 ないんでしょうね、たぶんね。
児玉 あんまり聞いたことがないです。葵太夫がおねだりして、三味線の胴に何か絵を描いてもらったとかは聞いたことがあるんですけれども。
神山 子役にはあげていました。[『伽羅先代萩』の]政岡であれば千松と鶴千代の子役に。それは見ましたけど。でも成駒屋は本当に楽屋でも面白かったな。実生活も演技。楽屋入りするときから、もう歌右衛門になってね。役者さんも、噺家さんもそうかもしれないけど、舞台と同じイメージの人と、全然違うイメージの方がいるじゃないですか。
これは私のつまらない話ですけど、舞台稽古でダメが出て成駒屋に聞いてこいと言うんですよ。一言「了解した」「ああ、いいよ」と言われればいいので、走っていったら、成駒屋が「待っておくれ、ちょっと薬を飲むから」と言うんですよ。薬を飲むってのも、錠剤でぽんと飲むんじゃないんです。今の歌女之丞が恭しく、目八分目にお水を持ってきておいて、粉薬を『四谷怪談』のお岩様と同じようにトントントンとする、それで飲んでね。
こっちはいらいらするけど、言うわけにいかないでしょう。それから「何だい」と言ってね。何とかでと言うと、「構やしないよ」と。ようやくその返事がもらえて、僕は大道具を待たせてますから、すぐに走って戻ったんですが、怒られちゃってね。お前、何十分掛かってんだって。成駒屋が薬を飲むのに話をするわけにいかないから。
一朝 風音か何か入れたいですね、ドンドンドンと(笑)。
児玉 本当にそうですよね。
神山 今あんな薬の飲み方をする人はいないですよ。噺家さんも、ちょっと高座でやってみたらどうですか。いや、本当にあれはもう大した時間じゃないんだけど長かったな。あの人の間の長いのは独特で芝居にもあったじゃないですか、成駒屋はやっぱり間が長いから、『加賀見山』は長かった。
一朝 あります。
神山 『加賀見山』は長いですよね。よく言えばたっぷりですけどね。
児玉 『道成寺』とかも、ほかの人とノリが違うとか、そういうことはあったりなさいます?
一朝 どうだろうな。
神山 でも梅幸さんのときは、お出になってないでしょう、『道成寺』にはね。
一朝 ええ。
神山 また梅幸さんは早かったからな、間が。あれがよかったんですね、あの早間の。
一朝 なるほどね。
神山 辰之助さんも台詞は早かった。あれは本当に気持ちいいぐらい早かったですよね。今はやっぱり思い入れが長過ぎますよ、今はね。ここで悪口を言ってもしょうがないけど。
一朝 一度[二世芳村]五郎治さんが具合が悪くて入院しちゃって、若い人が、若いといったって、もう四十歳か五十歳ぐらいの人ですけど、代わりに『道成寺』のタテ[唄]をやって。でも三日目ぐらいに代わりました。
神山 そうですか。
一朝 [歌右衛門が]五郎治さんを呼んでと言って、病院から通っていた(笑)。あれじゃ踊れないわとか言われて。
神山 成駒屋は独吟が大変だったんですよ。一度、[七世鳥羽屋]里長さんに代わっても、里長さんはもちろん[芳村五郎治の]息子さんですね、それでも何かだめで行っていたのを覚えていますよ。
一朝 いや、五郎治さんはもう大好きでしたね、私は。もう実に気持ちよかった、聴いていて。
神山 本当。五郎治さんは本当に思い出があるな。
児玉 五郎治にしろ、[五世竹本]雛太夫にしろ、成駒屋は一度ほれ込んだらずっとその人ですよね。
一朝 そうだと思う。
神山 五郎治さんはやっぱりその前の[七世芳村]伊十郎とか、ああいう人に比べれば、声量はあまりなかったと思いますね。別に声に色気があるわけじゃないけれど、風格はものすごいある。
一朝 そうでしたね、何か。
神山 あの人がいると本当に歌舞伎座のタテ唄という感じがするんですよね。やっぱり芝居だからそれも大切ですよね。
一朝 すごい、また何と言うんだろうな、いつもにこにこしてね。人柄がいいんですよね。お前は誰だというような顔を絶対しない。
児玉 なるほどね。
神山 自分から制作室へ入ってきて、よく雑談をしてくれてね。話し好きということもあったんですけどね。
一朝 すごく気さくな人でしたね。
神山 そう。気さくな方ですね。身内よりも他人の私たちの方がかえって話しやすかったのかもしれませんけどね。今国立劇場は、芝居の仕事をしているところに芸人さんが、そうやって入ってきて話すという感覚、雰囲気がないんですよね。
一朝 そうですね。
神山 そういうところからいろいろ芝居のヒントとかが出てくるんですけどね。それがなくて、こうやってパソコンに向かって何か一生懸命やっているだけじゃ、だめだと言うんですけどね。
児玉 確かにね、本当にそうですよね。
神山 もう本当にもう芝居をだからやっていたってね、山崎屋[三世河原崎権十郎]なんかだって、話し好きで制作室まで来て話しているでしょう、だからお弟子さんの権一さんが迎えに来るんですよ。山崎屋に「だんな、顔[化粧]の時間ですよ」と来るんですよ、翌日どうしたと思います? 山崎屋は翌日はもう顔をしてから来るようになる。
一朝 なるほどね(笑)。
神山 今月の役や芝居の話なんか全然してない。ただ東横ホールでどうだったとかね。僕は貴重ですけどね、思い出話みたいな話をしているんだけれども、顔までして来てくれる、おかしかったな、あの顔をしてから来たのはー。
日比野 これも師匠のCDで聴いただけですが、歌右衛門の台詞を付けるのに、弟子が無線でやろうとしたら、混線して警察無線が入ってきて大変だったという、あれは本当だったんですか。
一朝 無線は本当ですね。
日比野 警察無線と混ざったというのはさすがに?
一朝 あれはうそです。
日比野 そうですか(笑)。
一朝 そこで終わっちゃうと面白くも何ともないので、警察無線が入ったようにして。ところが松竹から、それは困ると言われて(笑)。
和田 それは松竹が、師匠がこんなことを言っているよというのをどこかから聞いてきて。
一朝 いや、そうじゃなくて池袋[演芸場]で、松竹関係の仕事でそういう番組を撮ったんですよ。「芝居の喧嘩」のマクラでそれをやったら、だめですからと言われて。
日比野 でも歌右衛門も亡くなってからのことでしょう?
児玉 いや、たぶん歌舞伎座の中に警察無線が混線しちゃうというのが松竹的にまずいんじゃないのかな(笑)。
和田 今、一朝師匠じゃない方も、そのネタをされていますよね。
一朝 ええっ。
和田 されていますよ。警察無線が入って歌右衛門さんが了解、了解と言うのを。
一朝 うちの弟子?
和田 いや。別の一門ですが芝居好きの若手真打で。じゃあ、それは無断ですね。
一朝 私は了解と言っていませんよ(笑)。
児玉 みんな歌右衛門の話は作りたくなるんですよね(笑)。
日比野 歌右衛門の声色は、幕内ではみなさんやっていたんですか。
一朝 噺家はやっていますよね。
日比野 さすがに黒御簾で、そういうことをやったりはしない?
一朝 それはしないです。ただ歌右衛門さんのお弟子さんで加賀屋歌江さんがいて。あちらがまたそういう芝居の役者さんの真似をやる。
神山 そうそう。
児玉 名人でしたからね。
一朝 自分の師匠の歌右衛門さんの真似もする。それを聞いてみんなやるんですよ。その人の真似なのね。
神山 歌江さんのは、成田屋のところの市川鯉紅さんが司会役を務めるんですよね。口番(くちばん)で履物を出すのは有名ですが、一度見たので面白かったのがバレーボールを女形さんでやる。成駒屋、梅幸、我童、芝翫、芝鶴…。
一朝 なるほどね。
神山 こうやるだけなんですよ、バレーでトスするだけ。
日比野 一人一人声色を使い分けるんですか。
児玉 そうそう。
神山 それだけですよ、あれも可笑しかった。
一朝 おかしいね、本当に。
神山 歌江さんというのもおかしかったですね(笑)。
一朝 いや、本当にあちらはそういうのはうまいですよ。
神山 歌江さんも上野だったな、そういえばな。
一朝 そう、中山酒店の。
神山 そうだ、中山昭二の?
一朝 弟さんです。
児玉 でも近ごろ、舞台で声色をやってもお客が分からない。
一朝 分からないよね。
神山 やりたくなるような特徴のある人がいなくなっちゃったんですよね。
一朝 そうですね。
神山 いくら名調子とか言ったってね。
児玉 團十郎が最後ですよ。
神山 そうそう。
児玉 そう。先ほど子どものころ仁左衛門がお好きだったというのは、何の演目での印象ですか。「できた」という台詞は『[名工]柿右衛門』ですね。
一朝 『柿右衛門』。
児玉 ですよね。なるほど。
一朝 あれがおかしくてね。「できた」というね(笑)。
児玉 そうそう。私は最晩年にやったときに見ましたね。あれは東京であんまりほかの人がやらない芝居ですからね。
一朝 やらないですよね。
児玉 そうですね。六代目菊五郎しかやってないですものね。
一朝 あそこだけ、よく子供のころまねをしていたの、おやじの前で、できたと。うまいね、お前と言われて(笑)。
児玉 なるほどね。
一朝 あれは何という人。仁左衛門だよとね。大阪の人だって知らなかったから。
児玉 そうですか、なるほど。ほかの例えば左團次とか、それこそ寿海とか、その辺のご記憶はおありでいらっしゃいましたですか。
一朝 左團次さんはあります。「あっちで五合、こっちで…」。
神山 『丸橋忠弥』。
児玉 『丸橋忠弥』で左團次が松平伊豆守を勤めたときですね。
一朝 何か端正な人だなと思っていた。
児玉 なるほどね。
神山 さっき、ほら、鳳声晴光さんの丸謙次郎さんが寿海の声色をやっていたでしょう。寿海の声色でも僕も何度も聞いたけど、珍しいのは、『勧進帳』の富樫の名乗りをやってくれたんですね。
児玉 へえ。
神山 あれは珍しい声色で立派だったですね、「かように候者は」からやるんですよ。寿海ばりであれをやるというのは大変な力量ですね。
児玉 そうですか。
神山 あの人は芝居もうまかったんですよ。歌舞伎研究会でも。
一朝 いや、うまかったですよ。うちのお師匠さんがやらせるんですよ。
神山 そう。柳朝さんが?
一朝 違う、違う。鳳声の。
神山 鳳声晴雄さんが。
児玉 へえ。
神山 なるほどね。それは楽しいですものね。そうですか。
一朝 やんややんやです。
神山 ですね。あの人は義太夫もやっていたんですよね。
一朝 うん。
神山 義太夫をやっていて、やっぱり歌舞伎の竹本からも誘いがあったと言っていましたよ、あれだけ立派な声量だから。
一朝 考えたらあれですよ、我々の鹿芝居に葵太夫が出ていたんですから。
神山 そうですってね。
一朝 そうです。まだ駆け出しのころの。俺たちの芝居を見て笑っちゃうんで、みんなで小言を言ったんですから。「だめだよ、そんなのじゃ修業が足りないよ」と。偉いことを言っちゃったなと(笑)。
児玉 いまや人間国宝、芸術院賞だもの。
一朝 懐かしいですよ。
女形のけんか
一朝 女形のけんかを見たことがあります。
児玉 へえ。
神山 怖いでしょう。
一朝 うん。毛をこう引っ張り合い。
神山 毛を引っ張ってね。
一朝 痛い、痛い、痛いと言ってね。なかなかやめないから「姉さんを呼んで、姉さんを」と。どんなのが来るのかと思ったら、おじいさんが出てきて「ちょいとお待ちよ」と言って。「だって姉さん」、「私の言うことが聞けないのかい」と。勝手にやっていろよ(笑)。
神山 本当にそういうのをやっていたんですよ。
一朝 芝居だよ、これじゃと言ってね。
児玉 そういう芝居がかった楽屋がまだあったんですよね。
一朝 いや、おかしかったですよ。
児玉 今そうやって芝居をよくご覧になっている若手の噺家さんはいらっしゃいますか。
一朝 どうなんですかね。若手のあれはよく分からないですけどね。僕らはみんな一幕見を見に行ったりしましたけれども。
日比野 お弟子さんに見に行けとおっしゃっていますか。
一朝 言っています。うちはみんな見ているみたいですよ。
和田 一朝師匠は笛だけでなく太鼓も相当な名手でいらっしゃいますけれども、本当にプロとしてやったのは笛の方。太鼓はおけいこをされて、あとは寄席でという感じですか。
一朝 太鼓はもうほとんど付随して、太鼓が分からないと笛のきっかけが入れないので。
神山 まあ、それはそうですね。
一朝 鼓もそうですけれどもね。もう要するに、そういう専門用語を使うので、三ツ地どうのこうのと、それが分からないと何を吹いていいか分からなくなっちゃうので、そういうあれはみんな教わるんですけれども、一応。
和田 その鳴り物、太鼓の方に関しては笛のお師匠さんが教えてくださる? それとも太鼓の方に習うんですか。
一朝 芝居のときに教わりました。楽屋でもって時間を見て余裕があるときに、これはどうやって打つんですかみたいに、それはこうやってやるんだよみたいなね。
和田 今、落語協会では師匠が指導者なんでしたっけ。
一朝 もうやっていません。
和田 そうですか。
一朝 『稽古屋』で『喜撰』をうたうので、本職から習った方がいいなと思って、清元の若手に「ちょっと教えてくれない」と。「何ですか」と言うから「『喜撰』のあの「世辞で丸めて浮気でこねて」のところ、あそこを落語でやるところがあるので教えて」。「ということは何、稽古ということ? 稽古はね、そういう頼み方をしちゃだめだよ「と言われて。俺が「ここだけでいいから教えてよ」と言ってね、テープに入れてもらって。
神山 昔の俳優祭でも役者がそういう楽器と、そういうのをやるのが普通でしたものね。
一朝 やっていましたね。
神山 今ああいうのは見られないね。
児玉 そうそう。松緑と菅原謙次が三味線を弾いて。吉右衛門と権十郎と宗十郎が清元を語って。
一朝 おかしかったのは今の雀右衛門さんが助六をやって、揚巻を左團次さん。
児玉 昭和六十一年(一九八六)の俳優祭で、それで旗本退屈女となって歌右衛門が出てきて。
一朝 出てきた。
児玉 『鞘当』の相手が旗本退屈男の右太衛門で、八月に出る予定だったんですけど。
神山 ああ、やった、やった、市川右太衛門とやったのは覚えている。ああ、あのときですか。
児玉 そうそう。それで勘三郎が留め男に入っていて、そんな遊びができたんですね。
神山 あの写真も覚えている、面白いね。
一朝 面白かったですよね、あのころ。
和田 やっぱり一朝師匠が、お仕事でも関係されたから難しいような気もするんですけど、名優というとやっぱり歌右衛門さんとか、その辺になりますか。
一朝 まあ、そうでしょうね。安心して見ていられるというかね。
十七世・十八世中村勘三郎の思い出
和田 逆に勘三郎さんなんかは、そのほかの仕事で見た印象も、ちょっと入っちゃう部分もありますか。
一朝 勘三郎というのは十七代目?
和田 十七代目。
児玉 十七代目。
一朝 いや、でも勘三郎さんも面白いですよね。勘三郎さんは馬券を買って、『金閣寺』をやっている最中、[勘三郎の羽柴]久吉が上に登っていく芝居があるんですよ。弟子がばーっと袖へ来てパンパンパンパン、手をたたいて指で三と四を出して指で◯を見せて勝った、おーっ。客は全然分からない、何をやっているんだ、あれは(笑)。つまり3―4が当たったという知らせ、それを見た勘三郎さんが大手を広げてよろこんだ。
神山 分からないですよね、そうそう(笑)。
一朝 何を手を上げているんだよと言って(笑)。
児玉 なるほどな、やりそうで。
一朝 あの人はおかしかったよ、そういうことを平気でやっちゃう人だからね。
神山 やっていましたね。
一朝 そう。自分のせがれに勝奴か何か、これを、お前、何という花だとか何か言う。芝居の中で聞いて、ええっ。
児玉 それはたぶん自分が六代目にやられたんですよね、きっとね。
一朝 そうなんだね。
神山 十八代目の勘三郎さんが勘九郎で『髪結新三』を初役でやったときは、十蔵さんが勝奴でね。その前の月に、当時の勘九郎[十八世中村勘三郎]さんの楽屋に十蔵さんが挨拶に見えたら、勘九郎がその調子でやっていましたよ。それも稽古のうちだみたいな感じでね(笑)。
一朝 そう(笑)。
神山 もちろん十蔵さんも臨機応変に答えていました。
一朝 勘九郎チームと野球をやったことがあるんですよ、僕は囃子チームに入って、センターを守ってた。勘九郎さんはその前まで二打数ノーヒットで、三回目にパーンとセンターライナーが来た。おお、来たなと思って、ぱっと捕っちゃったんですよ。二塁まで来たときに、「ばか、この野郎、捕るんじゃないよ」(笑)。
児玉 お父さんのマージャンと一緒ですね(笑)。
一朝 怒った、怒った。
児玉 十八代目ともそういうお付き合いがおありになったんですね。
一朝 子供さんが青山[学院]の初等科へ行っていたころ、謝恩会か何かで踊るんですよね。僕も頼まれたんです。一席やってくれと。僕の後で勘九郎さんが踊りを踊る。それで行ったら、何か仕事の都合で「一朝さん、僕にちょっと先にやらせて」と。「ええっ、勘弁してくださいよ。僕の後にどうぞ」。「いや、それが間に合わないんだよ、頼むよ」と言うから「分かりました」と言ってね。勘九郎さんが踊って、その後、僕が高座へ上がる。司会はあのジャネット八田さん。
神山 [プロ野球選手の]田淵[幸一]と結婚した。
一朝 そう。その人が司会でもって、「次は皆様、一朝様の落語でございます。どうぞ皆さん、盛大な拍手でもってお迎えください」。お母さんばかりで、いいのかな、まあ、いいやとやったら、うんともすんともこない。みんな笑うんだけど声を出さない。声を出してくださいよって(笑)。
児玉 やりにくいところですね。
一朝 もう品のいいこと。
日比野 私立の小学校だと、落語家さんを呼んで余興をやるんですね。
神山 司会がジャネット八田というのがいいですね。
児玉 そこか(笑)。
一朝 僕のときじゃなくて一之輔のときかな、初等科でやったときに、子どもたちから選ばれた司会役で、高座返し[次の演者のために座布団をひっくり返すこと]をしてたのが[五世]市川團子。
児玉 へえーっ(笑)。
一朝 そうか、自分は向こうより格が上なのかと(笑)。
日比野 團子は初等部に通っていたんです。
児玉 近場の青山が多いんですね。
神山 そうだね。昔は暁星だったけど、一人もいなくなっちゃった。
一朝 今はみんな青山になっちゃったね。
児玉 そうそう。
日比野 真打ちになって辞められるとき、迷いはありませんでしたか。それとも本業は落語家だからとスパッとお辞めになったんですか。
一朝 落語の仕事がだんだん増えてきたんですよ、これはもう両方は無理だなと思って。
日比野 当然、引き留められた。
一朝 しました、しました。
日比野 それでも迷いなく、もう無理ですと。
一朝 うん。だってうちのお師匠さんに「君は落語家を辞められないか」と言われて。「師匠、それは勘弁してください」(笑)。
児玉 でも、アルバイトみたいなおつもりというよりも、もう少し気持ちはあったわけですよね。
一朝 最初はアルバイト。ところが芝居を見ているうちに、これはもったいないなと思ってね。ただで毎日見られる、これはやっぱり毎日見なきゃ損だと思ってね。それからもう、入るたびに毎日見ていました。自分の仕事がない限りは一日中芝居を見ていました。
児玉 毎日お芝居が変わる人はいましたか。毎日同じ芝居の方のほうが多いでしょうが。
一朝 勘三郎さんぐらいですよね。
児玉 勘三郎は毎日違いましたか。
一朝 毎日というか、その日の気分によって。
児玉 もう出た瞬間に「今日はだめ」という。
一朝 団体のお客のときは、十五分から二十分ぐらい早いですよね。
神山 早く終わりますよね。
一朝 [場面を演じずに]抜いちゃうんです。
児玉 はいはい。
一朝 おかしかったですよ、仁左衛門さんが孝夫さんのころ。花四天と立ち回りがある。みんな袖で控えているわけですよ。ぱっ、あれっ、抜いちゃったよと言って、しょうがないなとみんな帰ってね。
神山 歌舞伎鑑賞教室も。高校生の団体でしょう、あの頃の高校生はうるさかった。初代辰之助が『夏祭』の団七をやった[一九八一年六月]んですよ。そうしたらね、あるとき時間が二十分ぐらい早く打ち出して、何かと思ったら、義平次だった左團次が出てきた途端、辰之助の団七が切り付けちゃったんです。本公演でも、地方へ行くと手を抜いたりしていましたね。一度、予定よりかなり早く打ち出して、お客さんから「旅だと思って舐めるな」と苦情が来たことあります。
一朝 勘九郎さんが一度「供奴」を踊った。それが早いのなんの。そうしたらタテ唄がむせちゃってね。
神山 それはそうですよね。
一朝 うたえなくなっちゃったんですよ。笑いながら踊っていましたよ。うわっ、うそ、かわいそうに(笑)。
神山 かわいそうに。
囃子方の経験と芝居噺
日比野 [柳家]さん喬さんが師匠の『淀五郎』を評して「あれは芝居の中にいた人じゃないとできない」とおっしゃってました。「たまたま聴いた師匠の『淀五郎』がすごかった。当人にも言ったけど、あんないい『淀五郎』は後にも先にも聞いたことがない」。さん喬さんがうらやましいと思った、というのは、あれは芝居にいたからだろうと。
一朝 なるほどね。
日比野 幕内にいた人だから、役者の心がつかめるんだと。師匠はご自分ではどう思われてますか。
一朝 『芝居の喧嘩』という噺があるんだけど、舞台のどこに水野十郎左衛門がいて、どこに誰がいてというのが自分の頭の中にはしっかりと入っているわけです。だから目線がすぐそこへいくわけですよ。ほかの人に噺を教えてあげると、それが分からない。
日比野 なるほど。たしかに『芝居の喧嘩』はそうですけど、『淀五郎』だと、心理の描写だけでもやれちゃう。私がやれちゃう、なんていうと素人が何を偉そうにってことになっちゃいますけど、さん喬師匠もそんなふうにおっしゃっていたと思います。それで、『淀五郎』であっても、お弟子さんたちに教えていて、こいつ芝居心が分かってねえな、と思ったりされることはありますか。
一朝 芝居を見ていると、その情景が浮かぶんですよ。どうしてもできちゃう。というのはおかしいけれども、[その状況に]入れるんですよね。
日比野 でもそういうことは、笛をアルバイト気分でやっていたときは予想されていなかった。
一朝 ええ。終わったらすぐ帰る、そんな感じだったのが、だんだん変わってきたというか、ああ、いい勉強になるなと思って。『七段目』をやっていても、例えば「お主(しゅう)のあだを討とうという」、お主って上手を指すんですよね。「お主のあだを討とうという」、必ずこうやる、そういうあれができないんですよ、知らない人は。一つの所作に意味があるんだと、だんだん分かってくるんですよね。弁天小僧が手ぬぐいをやるときに、あれはどこから来たんだという、頭が放るんです。それをこうやるんですよ。だからそういう小道具がみんなそういうちゃんとつながりがあって、なるほど、そういうことになっているのかみたいなね。
日比野 歌舞伎を一度や二度見に行っただけでは分からないですよね。毎日でも一緒に役者さんを見てないと、なかなか身に付かない。
一朝 猿之助さんの『十役』、早替わりなんて見ているとすごいですよ。もう途中転んだらもうおしまいですからね、だからもうみんなはもう絶対人を通さないですよね。その下を走り回っているんですから、すごいなと思って。
児玉 そうか、『伊達の十役』、歌舞伎座のころも中[幕内]にいらっしゃって?
一朝 いました。
児玉 いましたか、そうですか。昭和五十四年(一九七九)ですよね。
一朝 ええ。
和田 小屋でいうと、歌舞伎座があって、国立で、先ほどおっしゃっていた演舞場で、明治座なんかもある?
一朝 猿之助さんは初めずっと明治座だったんですよ。
児玉 明治座、そうですね、だから。
一朝 明治座は大変でしたよ、お稽古がもう一晩中。
児玉 「三時の稽古は猿之助」と言われた(笑)。
一朝 そうそう。朝、電車が動くまでやっているんですよ。そうすれば車代を払わなくて済むから。
神山 「給料一杯、稽古は二杯、三時の稽古は猿之助」と頭取がよく言ってました(笑)。
一朝 うまく考えたよね(笑)。
児玉 だから明治座の『伊達の十役』の初演[一九七九年四月]も。
一朝 『弥次喜多[道中記・東海道の巻]』もやりました[一九七四年五月]。
児玉 そうですか。それからあとは何だろう。
一朝 ジョーズが出てきた[『喜劇・四谷怪談』一九七六年七月、明治座。「隠亡堀」の場面に前年十二月に日本公開されヒットした映画『ジョーズ』のサメが登場した]。 あのとき。
児玉 それからあとは何だろうな、『[南総里見]八犬伝』[一九七五年四月]とか。
一朝 『八犬伝』もやりましたね。
児玉 あとは『宇和島騒動』[一九七七年四月]。
一朝 『宇和島騒動』、ありましたね。
児玉 ですね。なるほど。
一朝 いや、もう大変で。笛、太鼓、もうフルに使われてね。
児玉 それで[杵屋]栄左衛門が大活躍ですよね、「この曲を使いましょう、あの曲がいいです」と。
一朝 すごいですよ、一つの芝居に「飛び去り」が三回も出てくる。そんなばかなと言って(笑)。
児玉 確かにそうだ、そうだ。
神山 今では、誰も飛び去りもしないのに、「飛び去り」をやっているんですよ。みんな引っ張りの見得で絵面に極っているのに、「飛び去り」をやっているとね。
児玉 なるほど。
一朝 あれはもう。
和田 猿之助さんの場合、半分新作だから、徹夜になるんですか。一晩中、じゃあ、ここはこれを付けてみてとか、そんな感じになるんですか。
一朝 そうではなくて、引き延ばし作戦。普通なら十二時か一時ぐらいに終わるんですよ。ところが、それだと車代を出さなきゃならない人もいっぱいいるので、暗黙の了解でみんな長くやって朝までやっちゃう。僕も初めのうちは何をやっているんだよと思っていたけれども、もうそのうち慣れっこになる。ああ今日は四時だな、五時だなとかね。
神山 国立[劇場]であれば車代が出た。僕は新入りだったから十一時から十二時近くになってタクシーの手配をしてました。
一朝 僕らは[明治座の]楽屋口の前に日本旅館があったんですよ。
神山 旅館がありました、ありました。
一朝 そこがもう楽屋だったんですよ、我々。そこでみんな用のない人は寝ていましたから。
日比野 新作だと、下座の人も付き合うんですね。
一朝 付きますよ、もちろん。
神山 澤瀉屋は特にそうでしょう。
一朝 ええ。
神山 普通は付立(つけたて)からですけど、澤瀉屋は最初から。新作のときは国立でも最初から付けましたね。
一朝 その量の多さにはもう干上がっちゃうの。
神山 本当にすごかったですよ、ドンチャンドンチャンね。
児玉 この時期は明治座で毎年、夜の部は通し狂言で復活[狂言]を作っているころですよね。それで、それが歌舞伎座に来てというころですよね。
神山 あのころは不思議だったな、戸部銀作補綴とか何とか、藤間勘十郎演出とスタッフ名がやたら多くてね。
児玉 そうそう。また戸部銀作さんの口調が何を言っているか分からないしね。
和田 でも、やっぱりそんなに忙しくなかったとおっしゃっていましたけど、落語もやり、こっちもやりだから、やっぱり才能はあるんですね、両方できちゃうんだから。だって大変じゃないですか。
児玉 それで真打ちに昇進されているんだものね。
和田 猿之助さんのだとか、そういうものって国立のにしても半分新作っぽいものをこれこれこうだよと言って、その前の月に曲をマスターしなきゃならないわけじゃないですか。
一朝 だいたいやるものというのは決まっているんですよ。
児玉 ありものの引き出しなんですね。
一朝 新しいものといっても、やっていることは昔からあるやつなんです。それをいろいろはめ込むわけですよ。その基本を知っていれば全部できる。
和田 ここはこれだよということですか。
一朝 そうそう。
児玉 なるほど。ただ、それをどこに何をはめるかが決まるまでが時間がかかるんですね。
一朝 そうなんです。これは何をしようかみたいなね。
神山 あのころ作調はどなたでしたか。
一朝 一応、名前は五郎治さんとか。囃子は傳左衛門さん。
神山 傳左衛門さんが作調ですよね。でも伝兵衛さんが全部やっていましたね。
日比野 それだけお忙しいと、柳朝師匠から「お前、辞めろ」みたいなことは言われたりしないんですか。
一朝 それはないです。
日比野 やっぱりそれは柳朝師匠だから…。
一朝 いや、全部落語の仕事はやっていましたから。
日比野 でも歌舞伎座に出ていたり、明治座に出ているということはご存知だった。
一朝 知っています。
日比野 もともと放任という感じ?
一朝 うちの師匠はもうそういう人でしたからね。うちへ絶対縛る人じゃなかったので、俺のうちに来る暇があったら稽古をしろみたいな、そんな人でしたから。