基本データ

二〇二〇年十一月二十二日
取材場所:国際文化会館
取材者:神山彰、児玉竜一、日比野啓、川添史子
編集・構成:川添史子

イントロダクション

 ある世代以上の人なら、林与一の名前は、説明するまでもない著名スターである。
 私が初めて、その名を知ったのは、一九六四年(昭和三十九)のNHK大河ドラマ『赤穂浪士』の堀田隼人役を演じて、「茶の間の話題」となった時である。「オリンピック東京大会」の年で、私は中学二年。不思議に、今でも、与一氏を見ると、「あの年」の様々な濃密な記憶が甦るのである。
 私は、既に歌舞伎ファンだったから、多くの歌舞伎役者が出ている『赤穂浪士』を毎回楽しみに見たが、「林与一」が林又一郎の孫というのも、それで知ったと思う。又一郎は、私はテレビでしか見ていないが、その前年「仁左衛門歌舞伎」の『伊勢音頭恋寝刃』の喜助を見て、その体捌きや台詞の間の面白さに、「へえ、これが、又一郎か」と感嘆していた。
 当時の与一氏の堀田隼人は、宇野重吉の蜘蛛の陣十郎役とのコンビが独特で面白く、その人気ぶりは、寄席の声帯模写で両者のヤリトリが芸になるくらい、知られていた。
 その年の『演劇界』連載「スター24時間」で、与一氏が取り上げられたのも憶えている。
 その頃、与一氏は既に東宝に在籍していたわけで、そのいきさつや実際の舞台は、今回のインタヴューでも興味深いところである。
 与一氏は、やがて、映画でも主役で活躍する。映画は既に「斜陽」と言われた時代だったが、それでも、与一氏は、一九六〇年代半ばからの「商業演劇とテレビの黄金時代」を正に生きた方であり、映画も加えて、その言の端々に、昭和の大衆芸能の「よき時代」の面影や息遣いが実感される。
 人気が出るにつけ、与一氏に、「歌舞伎に戻ってほしい」という声はよくあり、実に与一氏が傘寿を超えた今でも、歌舞伎ファンの中にはある。いつの頃か、テレビの「スター千一夜」に、片岡孝夫(現仁左衛門)と与一と(もう一人いたが失念)が出て、孝夫氏が与一に「お願いやから、歌舞伎に戻って来てえナ」と「懇願」して、与一が無言でいたのも、憶えている。私とて、与一氏のような役者振りの際立つ俳優が、関西歌舞伎に戻っていて、孝夫と両輪で活躍していたらーーと夢想にふけることはあった。
 しかし、私は、与一氏は歌舞伎に戻らなくて、ほんとうによかったと思う。
 広く「演劇」として考えれば、与一氏が半世紀にわたって活躍した、数多くの舞台は、単に「歌舞伎」という枠での評価など超えて、夥しい商業演劇の観客の思い出に残ったからである。
 かつては祖父の門下であり、後にはその孫の与一氏の師ともなった長谷川一夫のような大スターの、最も身近な存在に居たことは、単に芸としてというのでなく、生活や人生的な面での財産だった。
 そして、与一氏が多く共演した、もう一人の天才が、美空ひばりである。長谷川一夫は元来歌舞伎出身であり、「東宝歌舞伎」を始め、歌舞伎座でも多くの歌舞伎俳優と共演している。しかし、歌舞伎俳優などが絶対に舞台で共演できない、庶民が愛した大スターが、美空ひばりであり、こればかりは、与一氏が歌舞伎俳優のままだったなら、絶対に実現しない顔合わせだった。与一氏自身が、最初は「歌手芝居」などイヤだと断り、長谷川一夫に叱られて共演することになった次第を語っている。
 長谷川一夫と美空ひばりと――この二人の天才スターと、大きな役、相手役で共演したスターは、与一氏以外に思いつかない。しかも、それに加えて、山田五十鈴、山本富士子、京マチ子を始めとして戦後の庶民の憧れを一身に集めた、銀幕の大女優とも共演を重ねてきた。正に、与一氏は、演劇を「大衆文化」の側面で考えるとすれば、重要なキー・パーソンだと思う。観客が、舞台に何を求め、それを如何に表現していったかを探るという文脈でも。 
 スターになる前の、十代の与一氏も、勿論「成駒家の御曹司」だから、関西の歌舞伎雑誌『幕間』などを見直すと、随分多くの記事やグラビアで扱われている。林又一郎の孫という以上に、「初代鴈治郎の曾孫」という出自は、梨園にあっては、それだけで輝かしい存在である。
 だが、与一氏の真髄は、それを表に出さないところにある。テレビ番組で、あるタレントが「与一さん、歌舞伎に出てたんですってねえ?どうしてです」という不躾というか見当違いの質問をした際に、与一氏は、成駒家だの鴈治郎だの、そういう「名門の権威」名をオクビにも出さず、さりげなく「ギャラがよかったからですよ」と答えたのに私は「感動」した。
 私が「商業演劇」好きなのは「人気と実力」の世界だからだ。出自は勿論、新劇の著名劇団養成所で演技メソッドを云々だのは、全く関係ない場所である。
 四代目鴈治郎襲名興行が大阪松竹座で行われた月、与一氏は大阪新歌舞伎座の舟木一夫特別公演に出ていた。私は、鴈治郎襲名の「口上」だけでも与一氏を出演させるべきでは――と些か「義憤」に駆られていた。しかし、舟木一夫公演の芝居の助演は勿論、第二部歌謡ショーで、舟木の衣裳の拵えのツナギに踊る与一氏を見て、実に立派だと思った。ひとつはいつもながらの、初代鴈治郎から長谷川一夫の面影を連想させる役者振りの良さや芸格が、実に見事で立派という事である。しかし、それ以上に、与一氏がごく当たり前のこととして、「ツナギ」の踊りを勤めていることそのこと自体に「立派さ」を感じた。歌手のショーの繋ぎに踊ることなど、並みの「名門歌舞伎の御曹司」の出来る事ではない。ひたすら踊り、さりげない振りを見せることで、与一氏は、無言で無意識に、上方歌舞伎の何よりも色濃い面影を表現していたのである。(神山彰)

劇場が遊び場、やんちゃな子供時代

神山 お父様[林敏夫]は京都の島津製作所に入って、そのあと兵隊に取られたんですね。
林 はい。父は私と同じで短気で、何か事があって松竹さんとケンカしまして、舞台を辞めたんです。それですぐ就職するというので、島津製作所を受けたら受かったらしいんですよ。ところが入って二、三カ月しないうちに召集令状が来て、戦争に行っちゃった。おじいちゃん[二世林又一郎]は死ぬまで、「あのときに俺が松竹と敏夫の間に入ってケンカを止めていたら、殺さなくて済んだ。俺が殺した」と言っていました。
神山 お母様[北見礼子]は戦後も映画に出ていらっしゃいます。撮影所に着いて行ったご記憶はありますか。
林 物心ついて、中学校に行ってからですね。「御存じ快傑黒頭巾」シリーズの[北見礼子が出演した第三作]『マグナの瞳』(一九五五)を見に行って、ああ、これが大友柳太朗だと思った。子供心に「かわいい子がいるな」と思ったのは[「御存じ快傑黒頭巾」シリーズ第二作『新選組追撃』(一九五五)に出演した]丘さとみさん。その翌年か翌々年だかに、島倉千代子さんが映画に初めてお出になった時だったか、[相手役は]萬屋錦之介さんかな、「りんどう峠」か何かを歌っていらっしゃった記憶なんですけど、そのときも見に行きまして。よく遊びに行っていました。
神山 京都の撮影所ですよね。小児結核でしばらく休んでいらしたというのは小学生のときですか。
林 小学一年が終わった頃からの三年間です。
神山 一番遊びたい盛りでおつらかったですね。
林 府立病院に入ってダメで、自宅療養しなさいとあきらめられて。それで日生病院から、「新しくヒドラジットという薬ができて日本に入ってくる。試作品で十何人使えるから」という話がきた。当時は役者もお医者様と親しく付き合っていましたから「与一が来るんだったら使うよ」と言ってもらって。忘れもしない、院長さんが鏡山さんという方でした――よく覚えているね、昔のことは(笑)。それで日に日によくなったそうです。
神山 市川雷蔵さんがお見舞いに来たというのはそのときですか。
林 京都の府立病院のときにお見舞いに来てくださいました。僕の[病室の]奥に市川九團次さんの奥さんが入っていらっしゃったんですよね。当時はまだ、雷蔵になる前。
児玉 市川莚蔵ですね。
林 そう、莚蔵のときに来てくださいました。「いつまで入るのか分からない」と言ったら「じゃあ、漫画持ってきてやろう」と『のらくろ』の、二等兵から一等兵、上等兵、連隊長、『のらくろの忠臣蔵』という本までもらって。確か「莚蔵」と書いてあったので、とっておけば良かったですね。
神山 残っていたら貴重でしたね。プライベートなお話ですけれど、お母様とおじい様があまり反りが合わないと言うので別にお暮らしだったとか。
林 うちのおじいちゃんが兵庫県の西宮市、郷免町に住んでいたけれども、僕は京都のうちにいました。長谷川一夫さんが大覚寺の横で、東京へ行くからうちがいらなくなっちゃうからというので、母親は映画の仕事で貯めた、たんす預金で買った。後に鎌倉へ引っ越してから引き出しを開けたら、新聞紙の下にまだ百円札が何十枚かありました。
神山 お母様偉いですね。それで横のお宅に移られた。
林 まだ村子さんという、前の鴈治郎の娘の奥さん、それと娘さんの長谷川季子さんがいらっしゃって。
神山 ええ、小野道子さん[長谷川季子の本名]ですね。
林 そこで共同生活していました。僕が中学へ行ったときに村子さんが東京へ引っ越されたのかな。季子さんと一緒に、世田谷のうちにね。
神山 [長谷川の息子・林]成年さんはそのころはもう東京ですか。
林 成年さんはもう、お父さんと一緒に東京へ行ってらっしゃいました。それで学校へ行って、慶応へ入れたみたいです。
神山 余談ですけれど、昔、関西歌舞伎の運動会で山本修二さんなんかもいて、又一郎さんがスプーンレースに出ていらしたんですけれど。これが、すごい格好がいいんですよ。
林 しゃもじレースみたいな。
神山 そうそう、しゃもじでボールを運ぶ競技ですね。あれで又一郎さんが、『廿四孝』、『十種香』の勝頼の引っ込みみたいな感じで行く。あれがすごい格好が良かった。
林 うちのおじいちゃんは、ああいうことも好きでした。新しい時計、新しいカメラとか。僕が生まれた当時に住んでいたところも、ヒュッテというドイツ人が住んでいらっしゃった洋風の家を買ったものだったり。ベッドを置かずに、布団を敷いて寝ていましたけれど。
神山 洋館に布団をひいて寝ていた。それは京都ですか?
林 兵庫の西宮です。雲井町というところ。[花柳]壽應さんのお父さんもその近くに住んでいらっしゃいました。
児玉 『夙川夜話』の[四世花柳]芳次郎。
林 はい。
神山 おじい様は、宝塚義太夫歌舞伎研究会の指導にもいらしてたとか。
林 はい。僕もけいこについて行きました。
神山 それは貴重な経験ですね。
林 余談ですけど僕、宝塚では明石照子さんが好きでしたね。長谷川季子が宝塚のうちにいるとき、夏休みによく遊びに行って、明石さんが遊びに来ていたんです。「似ているけれども違うだろうな」と思ったら、明石照子さんだと。二代目[實川]延若の次に顔が大きいなと思ったのは明石照子さん(笑)。
神山 二代目延若さんといえば、延若さんの『山門』に、子供のころ一緒に乗っかって、上がったご経験もあるとか。
林 中村松若というお弟子さんが「カラミ」[の役を]をやっていまして「山門に乗ってみたい」とねだったら、延若さんのところへお願いしてくれたんです。「成駒家の孫だったら乗せてやれ」と言っていただいて、こっそり後ろに乗っけてもらってせりを上がったはいいけど、トイレに行きたくなっちゃった。松若に「おい、トイレに行きたい」と言ったら「だめだよ、行けないから、もうここでしちゃいなよ」と言って。我慢したんだけど。そのころはもう延若さんはおむつをしてらっしゃって、臭いおじちゃんだなと思った印象があったんだけど。表から見てもすごい人に見えたんだ、延若という役者は。山門よりも大きな役者に見えました。あんなふうに見える役者さんは何だろうと、乗ってみたくなったんですね。六歳ぐらい。もうやんちゃでしたね。
 ちょうど[市川]寿海さんが丸橋忠弥をおやりになったのを見て。屋根の上の立ち廻りで、後ろでトタン[板]を踏むんですね。ガチャガチャ音をするときに。それ、やりたいと、やってみてね。それで頭取さんに怒られた。立ち廻りが終わっても音がしているんだ、あれ、何だと(笑)。旦那が怒っているから、あれ、やらないでくれと。そういうことばっかりやっていた。裏が広いでしょう、昔の[大阪]歌舞伎座って、今の国立ぐらい。亡くなった中村栄治郎君なんかと……。
神山 ああ、先代の[中村]亀鶴さん。
林 亀鶴。それと[片岡]孝夫[十五世仁左衛門]、[片岡]秀太郎、それから[坂東]弓田加って、[尾上]菊次郎さんの息子、それから、[嵐]吉松郎とか六人で立ち廻りして、後ろでギャーギャー騒いだら、これも怒られた。ろくなことしてないです。
神山 千日前の歌舞伎座ですか。
林 はい。出ていなくても、遊びには行っていたということですね。
神山 千日前の歌舞伎座の上はスケート場だったとか。
児玉 スケートリンクがあったそうですね。
林 スケートリンクとね、一番上にユメノクニってキャバレーがあった。
児玉 あそこは客席はがらんどうですごく大きいんですよね。
林 大きいですよ。僕の感覚では三階あって、四階が立ち見席というか、一幕見だったような。オペラハウスみたいに空間が大きい。
神山 大劇[大阪劇場]はいかがですか。
林 大劇の三階から高田浩吉、美空ひばり、ジョージ川口、白木秀雄のドラム合戦、江利チエミを見ました。
神山 それはもう中学生ぐらいですね。
林 はい。タダで入れたんですね、その時分。千土地[建物]の持ち物だったから。空いている席に座りなさいと言われていたんだけれども、三階の一番奥の席で見ていました。
神山 そのころ千土地は、社長は白井昌夫さんですか。
林 いいえ、松尾國三さんでした。

初舞台――関西歌舞伎の俳優たち

神山 初舞台は昭和三十二年(一九五七)、十五歳の時。大阪歌舞伎座・今東光『お吟さま』[一九五七年六月・大阪歌舞伎座]での長者の娘役となっております。
林 本当に初めて舞台に立ったのは、九歳の時に巡業で出た『時雨の炬燵』[一九四八年]なんです。勘太郎をやる役者が行けなくなり、急拠どうだと言われて。「お菓子を毎日買ってあげる」と言われ、それに釣られて行きました。
神山 そうですか。もちろん治兵衛は[林]又一郎さんだと思いますが、おさんはどなただったか覚えていらっしゃいますか。
林 [中村]成太郎さん。小春が[嵐]雛助さんだったと思います。
神山 『お吟さま』の前にも、おじい様と舞踊会なんかに出ている写真が残っていますね。
林 御園座の当時社長だった長谷川栄一さんが当時まだ支配人で、役者の家に生まれたんだから、一回でいいから舞台に出なよ、と言われて、昭和三十一年(一九五六)ぐらいから、踊りのけいこをしていました。初舞台前の昭和三十二年(一九五七)には、『操り三番』、それから『連獅子』を舞台で踊って、度胸を付けるんだと言われて。
神山 『お吟さま』の原作の今東光、演出の村山知義は覚えていらっしゃいますか。
林 覚えてないです。村山さんは……確か『女形の歯』[一九六九年六月・東横ホール]もそうですよね。
神山 そうそう、澤村藤十郎さんの。
林 それと『富樫』。これが坂東鶴之助[五世中村富十郎]主演で見ました。野口達二作ですが、これで村山さんは面白い演出だなと思ったの。それとね、森雅之さんが新派へいらっしゃったときに、『小暴君』[一九六四年五月・新橋演舞場]という、地の悪い子爵か伯爵の役をやったの。これも村山さんだ、確か。
神山 そうでしたか。初舞台にお話を戻しますが、『お吟さま』では女形、娘役ですね。
林 出演していたのは三分ぐらいですね。大坂城に余興に来る娘の役。おじいちゃんが業平みたいな格好、僕は村娘みたいな格好して。ちょうど変声期で「〜じゃわいな」の「な」の声が出なくて、音調部[黒御簾]の梅屋勝之輔さんという方が「坊ちゃん、せりふ言いましたか」って。もう真っ赤になっちゃってね。だからおじいちゃんが「与一がじゃわいな」と言ったら、うん、とうなずくから、それを掛かりにしてくれよといって、助けてもらった。
神山 吉三郎さんのご養子さんの[嵐]吉松郎さんも一緒に初舞台。北上弥太郎さんより若いですよね、ずっと。
林 一緒の初舞台でした。あの時僕は夜の部『白浪五人男』[一九五七年六月・大阪歌舞伎座]で、高熱で立てなくなったおじいちゃんの代役で赤星十三郎を勤めたんですね。そんなわけで初舞台で大役をしたので、軒並みどんどんいい役が付く。向こうは一年も経たないうちに辞めちゃった。その後の、菊次郎さんの息子で弓田加ちゃんというのもお出になったけど、僕があんまりいい役をするので、ああ、だめだなといって。弓田加ちゃんは二、三年おやりになっていたかな。東京へ来ちゃいましたね。
 僕、孝夫、秀太郎、弓田加という、この四人で実盛のお迎えを確かやったこともある。
神山 寿海さんの『実盛物語』[一九六〇年四月・御園座]でね。
林 ええ、御園座で。そのときに『松風村雨』の、後の雀右衛門さん、雛助さんなどの『松風村雨』で、海女で出ています。孝夫、与一に中村太郎と、この三人で。
林 それで、[舞踊の西川流家元]西川[鯉三郎]さんのところ、古いお弟子さんたちが三人組か、五人かな、いらっしゃって、仁左衛門さんの部屋へ呼ばれて怒られました。あんたたちはいいかげんにやっていると。その年から一生懸命やらなきゃよくならないよ、と怒られて、怖いおばちゃんたちだなと思った覚えがある。西川さんのお名取さんの、四天王とか何とかという中で、その中の一人が、東宝現代劇の松波寛のお母さん。松波に言ったんだ、お前の親にずいぶん怒られたと。昔は楽屋も怖かったです。あるいは、銀座のクラブへ行って、ママさんたちが、あんたの踊りよくないよ、あそこの格好はこうじゃないのと、もうママさんたちがみんな踊りができて、うまくて、役者が行ったらみんな意見していた。
神山 そういう時代ですよね。
林 あんた、ニンじゃないからあんな役やっちゃだめ、とか言う。だから怖かった、昔の銀座のクラブというのは。
神山 お小さい頃ですから、壽三郞さんはほとんどご記憶ないですか。
林 僕はね、初舞台前から壽三郞さんのお部屋へ遊びに行っていました。壽三郞さんの部屋へ行くと、奥さんが、その当時、だしじゃこというの? これを「体にいいから、食べなさい」とくれる。それでね、寿海さんのところに行くとケーキとかチョコレート。延若さんのところに行くとおまんじゅう。だから、その日その日で、人を選んで行っていた(笑)。どこも行くところないからと壽三郞さんのところに行くと、だしじゃこばっかり食わされた(笑)。
神山 そのころ、今の市川齊入さんもいましたか。当時の市川右之助さん。
林 僕の記憶では、初舞台当時に初めて知ったんだ。実盛のお迎えの太郎吉をやっていて、しっかりしている子役がいるな、と思って。
神山 何か右之助さんに聞いたら、壽三郞さんのところに部屋子に行くはずだったのが、亡くなったので寿海さんのところに行ったとか。
林 そうですか。
神山 その後、翌年、昭和三十三年(一九五八)になりますと、『茨木』[一九五八年三月・大阪歌舞伎座]の士卒なんかにもおじい様と一緒に出ている。写真も残っています。
林 そういう役は覚えていないです(笑)。
神山 それで、千日前の[大阪]歌舞伎座はもう閉館になっちゃって。それで新歌舞伎座ができるわけですけれども。
林 花梢会はその時期にできたんですか。
神山 花梢会もこのぐらい[第一回披露公演は一九五九年六月・南座]です。それで、そのころに映画の『七人若衆誕生』[一九五八年八月]などにご出演されています。
林 大谷竹次郎社長に「変声期で舞台の声がだめだから、映画に一年行きなさい」と言われた。それで、昭和三十三年(一九五八)に行って、『七人若衆誕生』、『七人若衆大いに売り出す』、それから『暁の陣太鼓』とか何本か出まして。それで撮影所がね、その当時大谷隆三さんじゃなくて、誰だったっけな……その人が所長で、竹次郎さんに「林与一はそろそろ声が落ち着いたよ」というので、その昭和三十二年の顔見世が『紅葉狩』[一九五七年十二月・南座]かな。それで[三世中村]時蔵さんの更科、[三世市川]寿海さんの維茂、それで、八代目三津五郎さん[当時は六世坂東簑助]の山神、それで右源太が当時の鶴之助さん[五世中村富十郎]、左源太が僕。
神山 それが居眠りしちゃって鶴之助さんに起こされたというときですね。
林 そう、寝ちゃったの。ちょうど常磐津さんの下で寝るんですよ。その山神の足拍子がいい気持ちなんだ。うまいことあんな足拍子踏めると、見たいんだけれども、裏向きで寝ているから見られなくて、いいな、と思っているうちに分からなくなっちゃって。そうしたら、袴を引きずられて「兄さん、何するんだ」「寝ちゃだめだよ、君。君の分も二つ踊っちゃったよ、俺は」なんて怒られて(笑)。そうか、寝ちゃったんだと思った。
神山 鶴之助さんとは十歳以上、一回りぐらい違うわけですからね、大先輩ですものね。
林 はい。
神山 関西歌舞伎のベテランの方の思い出を少しずつでも伺いたいんですけれども。
林 はい。
神山 [澤村]訥子さんはそのころはもう、せりふ覚えは悪くなっていましたか。
林 悪かったです。延二郎さんの『高坏』[一九六〇年三月・中座]のときに大名をおやりになって、ほとんど僕が[せりふを]付けていました。
神山 ああ、そう(笑)。それはお役で出ていたんじゃなくて、後ろで付けていたんですか。
林 いや、次郎冠者で出ていた。僕、そばで付けていたんですけど、どこか聞こえなかった時に、「うん?」と俺の顔を見られて、えっ、ばれちゃうじゃない、と思った覚えがある。
神山 何か寿海さんみたいなまじめな方でも、客席に向かってね、「これは私じゃありませんよ、この人が忘れたんです」なんて言ったとか。森本[房太郎]さんって頭取さんがおっしゃってました。
林 でも、やっぱり何度もなさった『実盛物語』の瀬尾とか、師直とか、おやりになった役はよかったな。立派で。
神山 『石切梶原』[一九五七年十月・大阪歌舞伎座]の六郎太夫なんかもね、写真でいいなあと思って。
林 六郎太夫、よかったですね。
児玉 『実盛物語』でやぶ畳に引っ込むときに、かみしものところを脱いで上にばっとやるのを、あれは訥子さんの型だと、段四郎さんから伺いました。
林 そうですか。訥子さんの型というのは結構残っていますね、いろいろ。
神山 市川新之助[五世]さんも関西歌舞伎にいたとか。
林 僕は新之助さんにかわいがっていただきました。その当時はね、成太郎さん、新之助さん、霞仙さんという方が非常にかわいがってくださいましたね。
神山 そうですか。新之助さんはもちろん翠扇さんのお父さんですね。
林 そうです。
神山 あのころに新之助さんと一緒に関西に行っていた弟子が、亡くなった市川鯉紅さんって、当時は市川新二郎といっていた……。
林 知りません。
神山 そうですか。あの方が付いていたらしいんですけどね。
林 怖かったのは、[十世嵐]雛助さんに[嵐]みんしさんという女形さん、怖かったね。
神山 みんしさんは怖かったですか。
林 僕はね……。『お夏清十郎』[一九五九年六月、南座]か何か、手代をやってね、小女(コオンナ)としゃべるところがあるんですよ。火鉢を挟んでね。「下手だねえ、家柄がいいか知らないけど。冗談じゃねえ」って、人が言っているうちに言うんでね……。
神山 聞こえるように言う。
林 しまいに「うるせえな」と舞台で言ったことがある。それから何も言わなかった。お客さんに分かったんじゃないかなと思うんだけれども、小言を言われている役だから、それでも許されたんだろうけれども、えらい大きい声で怒ったような気がする。
神山 僕はね、みんしさんは仁左衛門歌舞伎での『伊勢音頭』[一九六四年七月・朝日座]のお鹿を見たことがあります。昭和三十八年(一九六三)ぐらい。
林 (資料を見ながら)[嵐]獅童君というのは、今の獅童と同じ字を書くんじゃないですかね。
神山 お父さんの先代じゃなくて?
林 いや。お弟子さん。
神山 お弟子さんでいたんですか。[一九五七年一月に嵐獅童から嵐京十郎と改名]
林 それがね、僕、忘れもしない。何かのお芝居のときにね、坊ちゃん、危ないから通りなさいと、舞台から楽屋へ行くところへ行ったときに、ドターンと音がして、どうしたのといったら、船が落っこちてね、吊ってある。そこの下敷きになってけがなさって、そのまま寝たきりで亡くなったの。
児玉 嵐獅童ということは、姫路系のお名前ですね。播州歌舞伎系のお名前ですかね。
林 そうかな。
神山 霞仙さんはね、なかなか、松竹のプロデューサーに中川[芳三]さんっていたでしょう。中川さんが、霞仙さんだけは苦手で打ち解けなかったと言っていたけど、そうですか。
林 かちかちの人だったらしいけど、僕にはいいおじいさんでした。あの方の勘平切腹のおかやなんていうのはもう、子供心に、いいお母さんだなと思っていました。
神山 いや、私も幸せなことに見ていますよ。延若さん[の勘平]で。
林 その前が奥山だったらしいんですよ。
児玉 浅尾奥山。
神山 奥山はね、『夏祭[浪花鑑]』[一九六八年七月・歌舞伎座]の義平次を中村屋さんがわざわざ東宝から呼んでやったんですよ。あれは見ました。
児玉 そうそう、[十七世中村]勘三郎、東京まで呼ぶんですよね。
林 あのね、長谷川が『ぢいさんばあさん』[一九七三年三月・歌舞伎座]をやったときに、しわを描いていたら、[伊織役の勘三郎が]「長谷川さん、何してんねん」と。「いや、しわ描いてんねん」と答えたら「しわがあるのに何で描くの」と言われて、かーっとおやじが怒った覚えがある。
神山 あと有名なのに話題にならないのは、四代目の富十郎。
林 ぽちゃっとしていい男でした。
神山 [吾妻]徳穂さんと、初代鴈治郎の娘の中村芳子さんと、二人と結婚するくらいだから、いい男ですよね。
林 あのね、梅幸さんみたいな感じ。五条の三年坂というところに住んでいて、本名、渡辺というんですね。それで、うちのおじいちゃん、二代目鴈治郎、菊次郎、まあ、富十郎さんはうちだけれども、あと誰がいたかな。何人かいてね、八人ぐらいでね、とにかく休みというと毎晩八八というの、花札の。
神山 ああ、花札ね。
林 八八やっていて、僕はいつも連れていかれて、栄治郎[初世中村亀鶴]君と遊んでいたりして、八八見ているんだけど、あんなことやりながら、怒っているのね。「お前、そんなの捨てちゃだめだよ」「それを捨てると俺が困っちゃう」なんて(笑)。あんなばくちであんなケンカしなくてもいいのにと思う。そうするとこの間ね、扇[千景]さんとしゃべっていたら、「そうなのよ、八八ってね、人が捨てたものでケンカするのよ」と(笑)。とにかく富十郎さんのうちに集まってやっていました。
神山 富十郎さん、調子はどうなんですか。声は何か悪いんでしょう、あんまりよくないんでしょう、調子は。
林 うちの成駒家系ほど悪くないですね。
神山 悪くないですか、そうですか(笑)。だけど、関西の方はだいたい、僕の知っている限りでは、本当に悪声が多かったんですね。
林 うん、だからひときわ寿海さんがいい声に。壽三郞さんもいい声じゃなくて、それから、二代目延若さんも――。
神山 まあ、年ですからね。
林 それから、菊次郎さんもあんまり調子が。
神山 菊次郎さん、よくなかったですね。
林 雛助さんもあんまりいい声じゃない。
神山 雛助さんほどの悪声だと、それが魅力。
林 うちのおじいちゃんがかわいがっていた、[六世尾上]菊五郎さんのところの弟子で、関西へ来た、實川延太郎というのも悪声でしたね。踊りはうまかったけれども。
神山 悪声なんですか。見た目はきれいですけどね。
林 きれいです。だから、『角兵衛』を踊ると、必ず相手は延太郎でしたから。
神山 踊りはやっぱりうまかったんですね。
林 うまかったです。だから僕は、僕のお師匠さんのうちに居候していらっしゃったので、あげざらいは必ず延太郎が見てくれて、ああじゃない、こうじゃないと言ってくれました。
児玉 雛助さんというのは怖い方なんですか。
林 僕はあんまり近寄らなかった。
児玉 そうですか。
林 雛助さんとみんしさんはあんまり近寄らなかった。雛助さんは、十七代目[中村勘三郎が番場の忠太郎]の『瞼の母』のときに夜鷹[老夜鷹おとら]をやっていいなと思ったの[一九六二年十二月・南座]。
神山 あれはよかったですね。
林 必ずあれをやるときには十七代目が雛助を引っ張ってきた。
神山 錦之助さんのときも、雛助さんがやったような気がするな[一九六六年六月歌舞伎座。ほかに一九六五年六月新歌舞伎座の六世竹之丞、一九七六年十月新橋演舞場、一九七八年十一月中座、一九七九年七月歌舞伎座の三世猿之助など]。
林 緋多景子というのが一回やっています[一九七二年十月・明治座。中村勘三郎演出]。
神山 あと、[十世嵐]三右衛門さんはどうですか。あんまり覚えてない。
林 三右衛門さんって、僕が知っているときにはもう宝塚の新芸座にいらっしゃった[入座は一九五四年三月]。そこで僕は『夏祭』「一九五四年七月・宝塚新芸劇場」を見たことある。これがね、何で歌舞伎にないんだろうというぐらいよかった。
神山 よかったですか。あと、[宝塚新芸座に]片岡右衛門さんというのがいたの、覚えていらっしゃいますか。
林 いや、わからない。
神山 そうですか。これ、どなたも覚えてないんです。中川芳三さんくらいです、ご記憶されているのは。羽左衛門ばりのいい男で、売ったらしいんです。
林 新芸座に行って覚えているのは、嵐冠十郎とか。市川小金吾は後に青虎と名乗って……。
神山 小金吾改め市川青虎。
児玉 後に青虎で。それがもう昭和五十年代ぐらい[一九七七年(昭和五十二)]。
林 そのときに、新歌舞伎座に座付きがいて、大衆演劇の人とか、いろいろなのが入って、その中に西川花助とか京町健とか、そういうのがいたわけですよね。
神山 ご親戚の中村芳子さんはどうですか。
林 芳子さんはね、僕は歌舞伎ではお会いしたことないんですが、いろいろな舞台で一緒になりました。僕は出ていないけど、両腕を切られる芸者さんの役をやりましたよね。
神山 ああ、明治時代の実録でありましたよね。『堀江六人斬り』でしたか。
林 それをおやりになったときに、すごいおばさんだなと思ったのと、その後に僕は、山本富士子さんのところで梅川忠兵衛[『恋草からげし・遊女梅川』一九七三年一月明治座]をやらせてもらったときに、義理のお母さん役[亀屋の後家]をやったのと、あと、『静御前』のときの北条政子[『静御前』一九七二年十一月・大阪新歌舞伎座]。頼朝が半四郎さんで、その政子のときにやっぱり、大きく見える人だなと思ったの、女の方なのにね。やっぱり血があるのかなと思うぐらい。
神山 [中村芳子は]初代の鴈治郎さんが六十いくつになってからのお子さんですからね。
林 そうなんです。それで非常にかわいがっていて。
神山 そうでしょうね。
林 六代目[菊五郎]が東京から来たり、[七代目]幸四郎さんが来ると必ず、長三郎にあげずに「これ芳子さんに」と芳子さんに[お土産を]あげるともう、一カ月鴈治郎は機嫌がよかった。女の方で歌舞伎をやっていたのは、芳子さんが初めてでしょう。それから、僕の知っているのでは、勘三郎さんのお弟子さんで……。
神山 中村弥生さんが出たことはありますね。
林 狂言は憶えてないけど、「えっ、女が出るんだ」と言ったら、何を言っているんだ、お前、なにかしら舞台に出たことあるんだ。宝塚も昔は男が出たことあるんだって言われた。
児玉 中村芳子さんは最晩年に夕霧太夫を襲名されました。
林 あれ、びっくりしました。
神山 扇屋。
林 うちの先祖が[京都・島原の置屋]扇屋なんです。
児玉 ああ、それで、なるほど。
林 初代鴈治郎。それで、[島原の置屋兼お茶屋の]輪違屋さんというのが、うちの何か縁故関係になっていて、輪違屋さんと、島原の角屋もかかわりがあって、みんなが芳子さんを持ち上げてしてくれたというか。
神山 芳子さん、僕は映画でね、『鏡山』の尾上をやっているんですよ。あれ、すごい。森光子さんが大姫でね。戦前の映画ですけどね、もちろん。[寿々喜多呂九平監督『鏡山競艶録』]
児玉 鈴木澄子が岩藤で。
林 うわあ、いいかもしれない。
神山 すごい立派なんですよ、当たり前ですけど。まあ、こういう話をすると切りがないから、先へ進みます(笑)。これは二代目鴈治郎さんがね、ちゃんと芸談、自分でおっしゃっていることだからいいと思いますけど、坂田藤十郎さんの弟になる林雄太郎さんはいつごろまでお出になっていましたか。ご記憶では。
林 雄ちゃんはいつまで出ていたのかな。僕ね、結構、東宝歌舞伎とか、コマでもご一緒しているんだ。ただ、僕が覚えているのは、成年さんが十郎をやって、僕が五郎をやって、五郎を捕まえる御所五郎丸というの、ありますね。あれを雄ちゃんがおやりになった。
神山 そうですか。何かね、二代目鴈治郎さんの芸談で、カメラマンになったとかいうようなことを話してました。
林 カメラマンになって、僕なんかの踊りの会とか何かで来て、撮っていてくれました。今は息子さんも上賀茂の方でカメラ屋をやっているはずです。
神山 雄太郎さんはまだご健在なんですかね。
林 三、四年前に亡くなりましたね。

関西歌舞伎、ごひいき筋の思い出

神山 当時、まだ初代の鴈治郎さん以来のごひいき筋の方というのは、結構来ていましたか、楽屋とか、芝居、お宅とかに。
林 又一郎のところに来ている人が多かったですね。僕が覚えているのは、吉本せいさんの娘さんで……吉本峰子さんという方がいらっしゃって、派手な格好をしてくる方で、必ずお小遣いをくれるのでね、もうどこかに行っていても、部屋を探して、おばちゃん、こんにちはと、わざわざお小遣いをもらいに行く。
神山 抜け目ないですね。
林 うん。「与一ちゃんにはこれね」ともらうために、あっちこっちの部屋へ探し歩く。それは覚えています。
児玉 井上甚之助というのは、京都の大丸の方じゃないですか。七代目三津五郎の本[『三津五郎芸談』、和敬書店、一九四九年]とか出している。
林 そうですか。僕は覚えてないです。
神山 関逸雄さんにはお会いになっていますか。
林 関さんは僕ね、『幕間』の会社へよく遊びに行っていたの。お茶を飲みに。隣が八つ橋屋だったでしょう。
神山 ああ、そうか。なるほどね。
児玉 京都の。
林 だから八つ橋が必ず置いてあって、お茶を飲めるものだから、しょっちゅう。
神山 松竹はもう、さっきの白井昌夫さんですか、一番お会いになった人。
林 僕の預かり親は昌夫さんです。
神山 [白井]信太郎さんはあまり……。
林 知っています。とっても穏やかでいいおじちゃんで。
林 今の信彦君がお孫さんですか。
神山 お孫さんですね。
林 昌夫さんが、僕が国立出ているときにご存命だったら、松竹へ帰っているかもしれませんけれども。昌夫さんがいなくなったので、歌舞伎へ帰りますという一筆がね、どこかへ行っちゃって、なくなったんですけど。
神山 そうか、さっき映画に出るときも、大谷さんから話があって、昌夫さんがその、一年で戻るというね。
林 全部昌夫さん経由でした、僕は。
神山 それは残念というか、ねえ、ちょっと運命ですね。
林 うん、だから人間の運命ってそういうものです。

松竹演劇塾での大きな役

神山 昭和三十一年(一九五六)に始まった松竹演劇塾では、ずいぶん大きな役をされています。
林 紙治[『河庄』の紙屋治兵衛・一九六〇年十一月中座・第九回]もやりましたですね。その前後が『忠臣蔵』の通し[一九五九年十一月・文楽座]をやって、その次の年が『宿無団七[七時雨傘]』[一九六〇年七月・中座]。このときにいろいろな話があって、東宝へ行くことになりました。
神山 紙治はやっぱりおじい様に教わるわけですか。
林 十三代目仁左衛門さんのところへ行きました。とにかくうちのおじいちゃんは、何か役をやるときに、松嶋屋のところへ行け、成田屋[寿海]へ行けと、よそへ全部行かせて、ここのところはこうやってやれよと直された。
神山 それで、判官も若狭[之助]もやっているんですけど、判官が先でしたね。
林 判官が先でした。
神山 判官が先ですね。若狭が孝夫さん。
林 若狭が孝夫で、由良之助が[中村]太郎さん。それから、顔世が……。
神山 顔世は中村章とあります。
林 それで、大谷の連中[学士俳優]が出ているでしょう。
神山 出ています。大谷山三郎さんって、市川箱登羅になった人が[高]師直でね。
林 大谷の連中と僕たちを修行させようというので、大谷竹次郎さんが演劇塾をやりました。だから、紙治のときは小春が大谷正弥ですし。それで太郎さんが孫右衛門というふうに。それで、善六、太兵衛も確か、山三郎さんと橋十郎か何か、そんなかな、確か。田文治かな、その辺が。それで、『宿無団七』のときは、おとみってあの女を、ひと江[嵐徳三郎]がやっていますね。
神山 『宿無団七』のときは、おじい様が並木正三で出ていらしたんですね。
林 はい出ていました。演劇塾なのに、「この役やったことないから出たい」と言う。いや、勉強会ですよと。俺も勉強するからと、それで出たの。
児玉 確かに、並木正三は若手の役じゃないですしね。
神山 松若さんなんかが具体的には教えてくれたんですか、『宿無』は。
林 『宿無』のときは松若で、仕上げはうちのおじいちゃんですね。
神山 珍しくその後で松緑さんがやったんですよね、一度歌舞伎座[一九六三年六月・歌舞伎座]で。
林 今の鴈治郎さんも確か二度やっているはずです[一九九二年八月・国立劇場(小劇場)、一九九八年九月南座]。
神山 僕、松緑さんのとき、初めて見たんですけどね、そのときも松若さんが敵役で出ていました。与一さんは、昭和三十四年(一九五九)から三十五年(一九六〇)あたりは、『高坏』とか、『少将滋幹の母』の滋幹ですね。あれ、最後に出てくるだけだけど。きれいな役ですよね。
林 友右衛門[四代目雀右衛門]さんがきれいな女形なんでね、花道で見ていたら、出とちりしましてね。友右衛門さんが木の裏からのぞいたり、出たりしていてなんだろうなと思ったら、「坊ちゃん、出ていますよ」と。えっ、出だったんだと。すみません、あんまりきれいなので見とれて、とちりましたと。ああ、そう、と、機嫌よくて怒られなかった(笑)。
神山 友右衛門さん、あの太い声で言いましたか、女形の声で。
林 うん。本当にね、何分も出なかったそうです。
日比野 見とれるくらい。
林 きれいだったね。その当時はたいてい延二郎さんか友右衛門さんと部屋子だから。うちのおじいちゃんはもう一人部屋で「抱かないよ」[一緒の楽屋に入らないの意]と言われて。だから、メーキャップも、雀右衛門さんのメーキャップを見たり、延若さんのメーキャップを見たりね、いろいろして。だから、僕、そのときはね、おそらく友右衛門さんの部屋子だったと思うんだ。
神山 よそのうちの楽屋にいるというのはいいことです。将来役に立ちますね。
林 覚えますね。お弟子さんに対しての礼儀も覚えるし。
神山 そのころ莟会に突然、ご出演されています。昭和三十四年(一九五九)。あれは成駒屋[六世中村歌右衛門]さんから[声が掛かった]?
林 その前年あたりに、顔見世だったかでご一緒しての流れだったかと思います。うちのおじいちゃんの『妹背山』の求女[一九五七年六月・新橋演舞場]をご覧になってね、ああいう役者が東京に欲しいねという話をしていたという話を、僕は知っているの。僕は、東京行けばいいのにな、と思っていたの。
神山 ねえ。
林 そうしたら、その後、莟会でこういうのをやるんだけれども、山田[五十鈴]先生の弟の役、北條秀司さんの『落葉の宮』[一九五九年六月・歌舞伎座]の弟役。それで、[同時に上演された久保田万太郎『一葉伝』の]『たけくらべ』の信如の役。あの頃、御園座でも吉右衛門劇団に出していただいたんですけれども。八代目中車さん『連獅子』[一九五九年十月・御園座]の間狂言に、[十六世]市村家橘[のち二世市村𠮷五郎]と、それから[五世]市川九蔵さんと三人で間狂言に出ています。それともう一つは、歌右衛門さんの狂言で、幸四郎[初世松本白鸚]さんとおやりになった、『おちくぼ物語』[一九五九年十月・御園座][で演じた四の君]かな。それがきっかけで莟会に呼んでいただいたような記憶があります。その前は何か、錦之助のお兄さんの[四世中村]時蔵さんが三の宮をおやりになったとき、訥升さんがなさった役だけれども、この役を与一ちゃんにといって振ってくださった。この二役、出ていました。それで宿が、大須にある「御園寮」という。
神山 名古屋の大須の。
林 うん。それで、上に三つ部屋があるんですけど、僕がうちのお母さんと入って、一つは時蔵さんが入って、一つは家橘さんが入って。
神山 時蔵さんって、当時はまだ芝雀さん。
林 そうそう。この二人が隣で夜中酔っぱらってうるさいんだ。兄さんたち、ちょっとうるさいんじゃないのと言ったら、おう、こっち来て座んなよと呼ばれた。飲めないのに座って。そういえば今の猿若さんの豊さん[猿若清三郎の本名]は今どうしていますか、今の清方さんのお父さん。
神山 清三郎さんの、お父さん、先の猿若清方[二世]さん。
林 それを豊ちゃんといって、彼は勘三郎さんのお弟子さんだった[芸名・中村豊]。それで、時蔵さんのお弟子さんでね、今清元の、志寿朗、志寿[太夫]さんの息子なんだけれども、今三味線を弾いているな。その当時は[歌舞伎俳優で中村]蝶之助といった。今三味線弾いている。
神山 それは知らなかった。それで、もう、その間に『新納鶴千代』[一九六〇年一月・新歌舞伎座]に出ているんですけど、覚えていらっしゃいますか。新歌舞伎座で。
林 その当時は二年続けて僕、中座と新歌舞伎座と掛け持ちしてました。一年目は『忠臣蔵』の若狭之助と伴内をやって、新歌舞伎座へ行って出ていました。二年目が、序幕に[六代目]藤間勘十郎[二世勘祖]さんの『寿櫓三番叟』というのを、与一ちゃんに作ってあげるわと、作ってもらって、僕と雛助さんと、うちのおじいちゃんと。おじいちゃんは翁みたいな格好で、役者の格好をして、僕が木戸番の格好をして、木戸の木をこう数字にしたやつで、鈴を振って。それから雛助さんが女千歳みたいな格好して、女役者で。掛け持ちだから僕、全然覚えなくて。初日、三日目ぐらいまで一番前で藤間勘五郎さんが踊ってくだすって、それを見ながら踊れと。若いというのは、それを見ながら踊れるんだね。
神山 師匠が助けてくれた。
林 一番最初に踊ってくださった。それが終わって、人力車で、顔[舞台化粧]を落としながら新歌舞伎座に行って。着いたら序幕を開けますよといって、間に合ったことは覚えています。中座は十時開演だから。
神山 「毛抜き合わせ」[ギリギリで合わせる例えの幕内用語]みたいな感じ。
林 中座で『寿櫓三番叟』[一九六〇年一月・中座]を踊って、新歌舞伎座は昼夜入れ替えで三本[『稚児桜[雪月花〕]、『新納鶴千代』、『船乗込み[春夏秋冬]』一九六〇年一月・新歌舞伎座]。最後はまた中座へ戻って一本。雀右衛門さんの友右衛門時分の『西鶴五人女』というので、そこで「樽屋おせん」の樽屋庄助をやっています。
神山 「行って来い」ですね。
林 「行って来い」。だから、新歌舞伎座の夜の始めの踊りは、中座のお化粧をして出ている。こっち間に合わない。
神山 顔したまま[舞台化粧のまま]人力車に乗って行くんですね。
林 はい。
神山 そういう話は、昔はよく古い方から聞きますけど、さすがにね、いい時代ですね。
林 [藤山]寛美さんもね、演舞場とどこかと、歌舞伎座とやって。
神山 そうそう、やっています。
林 [三代目河原崎]権十郎さんも歌舞伎座と国立とやったりね。
神山 花ノ本寿さんからも帝劇と演舞場の話を聞きました。それでね、『新納鶴千代』をやったときに、野淵昶さんという人が演出なんだけど、覚えていますか。映画で有名な。
林 覚えてないですね。
神山 ああ、そうですか。それは残念ですね。それから、その間に『妲己』[一九五九年二月・新歌舞伎座]って、白井鉄造さんが演出されてます。
林 『妲己』、これよかった。
神山 これよかったでしょう。[妲己を演じた四世中村雀右衛門、当時の中村]友右衛門さんが。
林 何で今、これを出さないのかね。僕、坂東玉三郎君に何度も言ったの、『妲己』やらないのと。
神山 白井鉄造はご記憶にありますか。あんまり来なかったのかな。
林 もう頻繁に来て、細かい演出があって。僕、伯邑考というお琴の名手の役で、それで総ざらいが終わった時に、「与一君、そのお琴は本番では生で弾くんだよ」と急に言われて、「えっ、聞いてない」となった(笑)。歌舞伎は全部つけです。それで、うちのおじいちゃんと会社が手配して、お琴の先生を呼んできて徹夜でやって、お琴の胴に譜面を張って、それで弾きました、初日。
神山 実際に生で弾いたんですか。
林 はい。鉄造さんに「よく覚えた」と言われました。一晩寝ないで覚えて、舞台に出て、終わってから寝た。そんなことができたんだもの、若いときは。白井先生はとにかく丁寧で、優しくてね。優しい言い方なんですけれど(笑)。
神山 かえってそう言われると逆らえないですね、優しいとね。
林 ひっくり返った覚えがありますね、僕。
神山 はっきり言ってお客さんの入りはちょっとという感じしましたか。
林 あのね、歌舞伎座時分はよく入っていました。
神山 千日前の[大阪]歌舞伎座はね。
林 はい。新歌舞伎に行ってからは六分、七分ぐらい[の入り]かな。猿之助さんと二代目鴈治郎がおやりになっていて、『黒塚』[一九五九年三月・新歌舞伎座]を最初に見たのはそこでしたから。僕は[同じ昼の部の]『紙治』の丁稚か何かやっていましたね。丁稚で、「横丁の何とかですけれども、紙届けとくなはれ、お代払いますよって、おさんさんに来てもろうとくなはれ」と言ってね。亭主に渡すとだめだというので、そんなようなせりふを言って帰る丁稚三五郎をやっていました。
神山 年ごろからいったらそうかもしれませんね。
林 うん。僕、三五郎をやりたいなと思っていたの。それで後に、長谷川が北條さんの『紙屋治兵衛』をやったときにも、名古屋で三五郎をやらせてもらった。
神山 そうですか。ちょうどそのころに『幕間』という雑誌で、今の白鸚さんと吉右衛門さんと、孝夫さんと秀太郎さんと与一さんで、座談会をやったりしていますね。当時の若手の、昭和十六年(一九四一)ぐらいから十九年(一九四四)生まれぐらいの方で、十代の意見というのでね。
林 とにかく僕、十七歳のときに、踊りのおけいこで東京へ来たかで、今の白鸚さんと吉右衛門君と團子さん[現・猿翁]、当時の染五郎、萬之助、團子の『勧進帳』を見たときに、十七歳でこんなことができるのかと思って、もう打ちのめされた。俺はだめだと思った。
神山 ですけど、本当に松竹演劇塾があったころは、ずいぶんいろいろな役をやってらっしゃった。有吉佐和子さんの『綾の鼓』[一九五八年十一月二五日、二六日中座]というのは。
林 『綾の鼓』、やりました。
神山 有吉佐和子はご記憶にありますか。
林 覚えています。後にテレビで有吉先生の『出雲の阿国』[一九七三年一月・NET]をやったときに、佐久間良子さんの阿国で、僕が山三をやらせてもらいました。そのときの伝介が緒形拳でしたから。テレビ朝日で。そのときに有吉先生が、これ、林与一にといって、やらせていただきました。『綾の鼓』のときは、亡くなった[四世坂田]藤十郎さんの演出で、有吉先生はいらっしゃらなかった。それで、振付が藤間勘十郎[二世勘祖]さんだったものだから、藤間勘五郎さんが代わりにいらっしゃって。それで、そのときのお母さんが嵐獅童さん[既に獅童改め嵐京十郎と改名]、確か。これがよかったなと。お姫様がね、誰だったんだろう[大谷正弥]。お姫さんにこの綾の鼓を打てるかと、打てますと言って、打つ話なんですよね。それで、お母さんが願って願って死んだときに、ちょうど姫様のそばへ行って打つと、音が鳴ったという、そういう話なんだけど。
神山 演劇塾ですから、若い方ですよね。
林 僕ね、それを岡山の天満屋という百貨店で、扇雀[四世坂田藤十郎]さんのを見て、あれやりたいといって、懇願してやらせてもらった。
神山 昭和三十五年(一九六〇)になりますと、もう歌舞伎役者として出た最後の顔見世で、福山のかつぎで、勘三郎さんの『助六』[一九六〇年十二月・南座]で福山のかつぎ。あと、『一本刀土俵入』の若い者なんですけど。福山のかつぎでは、何か中村屋が後ろでぶつぶつ言うんでしょう。
林 「そこ、違う」「なまったよ」「違うよ、江戸っ子じゃねえ」と言うから「うるせえ」と返す(笑)。
神山 大したものですね。
林 でも、「うるせえ」って短気を出して本当にあの世へ行って謝らなきゃいけないのは、美空ひばりさんの公演で、御園座で清十郎をやっていたとき[一九六五年四月・御園座]のこと。一言一言返すお客がいたんですよ。ずっと客席を探して、こいつだなと思って、「うるせえ、ばか野郎」と言ったの。そうしたらね、その次の場から、僕が出るとしーん(笑)。僕は悪いことしたなと思ってね。それで、[美空ひばりの]おふくろさんのところへ「すみません、今日はご迷惑掛けるようなことをいたしました」と。怒らなかったね、おふくろが。
神山 ああ、[加藤]喜美枝さんが。
林 うん。「与一、分かるよ、でもあれでお客を逃すからね、気を付けなよ。」怒らなかった。俺はもう絶対に罵倒されるかと思って行ったんだけど、お嬢は黙って聞いていて。それで、忘れもしない、明くる日ひばりさんが、「与一、今日は機嫌どうだい」と言われた。これもこたえた(笑)。これはもう一生背負っていくことです。昔初舞台当時に、ちょうど反抗期で、テレビを買ったよと言われて、そのテレビに向かって灰皿を投げてボカーンと割ったこともあって。すごい音するんだよ、ボッカーン。
日比野 ブラウン管。
林 ひばりさんの舞台で怒鳴ったのと、テレビを割ったのと、もう一つ……俺は地獄行きだなと思ったことが三回あります。
神山 「七人の会」は、一度だけお出になっていますよね。又一郎さんの[『冥途の飛脚』]「羽織落とし」[一九五九年七月・大阪毎日ホール]のときですか、下女おりん役で写真が出ていました。
林 [市川寿海の]「花梢会」では僕、『大石最後の一日』[一九五九年四月・毎日ホール]の細川内記というのをやらせていただいた。寿海さんのところに習いに行きましたね。
神山 「七人の会」はおじい様は三回ともお出になっています。
林 北條先生が『伊左衛門』[一九六一年八月、毎日ホール]のときに、どうしても又一郎君にといって、役をいただいたこともありました。新作でせりふが覚えられなくて、覚えられなくて。
神山 ああ、そうですってね。
林 やっと覚えて初日明けて、あれ、一週間ぐらいですかね、公演が。
神山 そうですね、一週間ぐらいですよ[八月二十五日から三日間]。
林 それで、僕は東京へ行っていたものだから、うちのおばあちゃんから、おじいちゃんが倒れたよと聞いた。公演が終わってそのまま病院へ入ったみたい。もう何か神経をやられていてね。でもうわさに聞くと舞台は見事だったと。
神山 そう。ものすごい評判もいいしね。
林 北條先生も褒めてくださって、この次に何かやろうねとおっしゃってくださったけど、いや、もう勘弁してくれというふうに、お断りしたというふうに聞きましたけど。
神山 でも、おじい様、若いころは別にせりふ覚えが悪いとかなかったんでしょう。やっぱりお年になって。
林 覚えるのは早かったですね、踊りも早かったし。
神山 そうでしょう、ねえ。
林 『妹背山』[一九五九年一月・中座]の道行のときは、井上八千代先生が振り付けで、京舞でやるというので、俺は行かないからお前習ってこいといって、僕が修行のために習いに行って。それでうちに帰ってきて、テープをかけてやったら……。
神山 ああ、移すわけですね。
林 京舞は違うよ、逆足だろう、歩くのが、と言われて、うん? よくこの人分かっているなと思って。振りを渡したら、全部やっぱり京舞のように踊ったので、はあ、すごいなと思ったことがありますけどね。一回もだから井上先生のところにいらっしゃらずに、僕が振り移しして、そのまま舞台へ。舞台けいこだけは井上先生がいらっしゃっていましたが。
児玉 「七人の会」というのは、中の雰囲気というのはもう、最終公演ともなると、何となくこれでおしまいになるのかなという感じは何か、お感じになりましたですか。
林 いや、分からなかったです。この間、何かの写真を見ると、うちのおじいちゃんが一番上に写真が載っている。二代目[鴈治郎]さんが下の方で、仁左衛門さんが脇で。こんな位置でうちのおじいちゃん、やっていたんだと思いました。
神山 このときの『三ツ面椀久』[一九六一年三月・大阪毎日ホール]とかも、ずいぶん評判になっていますね。
林 ああ、『三ツ面椀久』ね。それと、うちのおじいちゃんでよかったのは、僕、見てないけど、『狐噲(こんかい)』という踊りがあって。猟師とキツネとやって、後ろ面といって、後ろ向きで踊って、面は人間で、裏向きでキツネ。裏向きで全部指さしたり、つえを持って踊ったという。僕なんか手回らないけれども。
神山 それは仁左衛門歌舞伎でなさったんですよ、確か[『後面白蔵主』(うしろめんはくぞうす)一九六三年七月・文楽座、第二回仁左衛門歌舞伎]。
林 ああ、そうですか。それがとてもよかったというのと、それと、[又一郎は]五色座という自分の会を持っていて、OSKの方と『蜂』[一九二五年七月松竹座]というのを踊ったとかね。創作舞踊とか、いろいろなことが好きだったみたいでね。
神山 『保名』もずいぶん違う感じの、六代目と違う『保名』でやっていますものね。
林 『吃又』[一九四〇年十一月大阪角座以後、戦前四回]もやってました[お徳は戦前は四回とも四世中村富十郎]。二代目[鴈治郎]さんのお徳がよかったというのは……。
児玉 『吃又』は確か戦後もおやりになっていました[一九四七年二月・南座で]。初代の当たり役ですものね。
神山 戦後もやっています、写真残っています。
児玉 あと、『筆屋幸兵衛』[一九四八年六月・中座]がよかったと。
林 ああ、幸兵衛、よかったですね。
児玉 中川[芳三]さんがいつもそれをおっしゃっていましたね。
林 あの、狂ったときが分かったという。
神山 『吃又』は、山田庄一さんがすごくよかったとおっしゃっていました。
林 それで、そのときは確か、将監が九團次さん。
林 僕はやっぱり、紙治でもそう、うちのおじいちゃんに習ったとき、もっとちゃらちゃらしなきゃだめだと言われた。
神山 それはおじい様から言われた。
林 はい。松嶋屋はそうだろう、だけど、うちはもっとちゃらちゃらしないとだめだよ。袖がこう動くぐらいにやらなきゃだめだよと。だから、あっ、関西の和事ってそうなんだなと思って。
神山 確かに、松嶋屋よりもそんな感じしますね。それはいい話ですね。

東京へ移住、東宝時代

神山 与一さんが東京に行かれた後、東宝の話題に移ります。これは長谷川さんとの関係ではなくて、東宝から話があったわけなんですか。
林 東宝から話があって入ったんですけれども、芸術座であんまり役が付かないので、長谷川さんが東宝歌舞伎へ引っ張ってくださって。でも、役ではなかったんですけどね。
神山 最初に東宝と契約して、菊田先生とお会いになって、行くわけでしょう。
林 はい。だから、本当は『がめつい奴』[一九五九年十月・芸術座]という舞台の続きでやる予定だったのが、お客さんの足が落ちたので、林与一を抜いてきたんだから、『続がめつい奴』というのを作ろうといって。これもこけちゃったんだけれども。
神山 [演劇評論家の]三宅周太郎さんの推薦であったというような話を聞いていますが。
林 はい。それまでに、東宝であろうが、映画であろうが、何か三宅先生があちこちに、関西歌舞伎で埋もれさせておくのはもったいないから、何とか林与一でできないかということを言ってくださった。東京の安藤鶴夫さんとか、何人かに言っていたらしいんだ。関西にこんな子がいるからと。僕が思うにやっぱり、中村屋が[『助六』の]福山をやらせてくださった[一九六〇年十二月・南座]のも、三宅先生から安藤さんとか、そういうことがあったんじゃないかなと思うんです。
神山 東宝へいらっしゃる前、昭和三十五年(一九六〇)の十二月の『幕間』の人気投票ですと、与一さんが延二郎、芝雀[四代目時蔵]、鶴之助、扇雀、友右衛門の後に次いで、六位に入っていますからね。
林 そうですか。知りませんでした。
神山 大したものですよ、十代でここに入っているというのは。菊田一夫さんとお会いになったのは、東京に出てからですか。
林 東京で初めて会いました。ずっとお使いの藤野善臣さんという方がいらっしゃっていて、とにかく会ってくださいというので、うちの母親は、あんたのことだから私は行かないと。僕は初めて東宝へ行って、第一声が、本当に菊田先生ですかと聞いてしまった(笑)。全く『君の名は』を書く人に見えないと。ばか、と言われた(笑)。
神山 いいですね、そこまで言い切れる。
林 忘れない、あの「ばか」は。愛情のある「ばか」だったんで、ああ、僕はここへ来られるなと思った。
神山 それはいい話ですよ。東宝に当時は演劇部という所属はないんで、芸術座、東宝現代劇付きですか。
林 ちょうどそのときに、東宝劇団というのが入ってきたんです[一九六一年三月]。
神山 ああ、高麗屋のね。
林 それで、東宝劇団というのがあって、演劇部がなくて、映画契約かテレビ契約。
神山 映画かテレビか、その東宝劇団に入るかしかないんですか。
林 東宝劇団。東宝劇団は、染五郎と当時の萬之助[二世中村吉右衛門]がいるから、ここは若手いらないよ、映画契約で演劇やらないかと言われました。「いや、僕は演劇をやりたいんです」と答えましたが、これ、映画契約したら、うんと高いお金が来ました。
神山 そうですね、五倍ぐらい違いますね。
林 後に言われました、[坂田]藤十郎に。あほやな、映画契約しておいて受けておいたら、五倍か六倍違うのにって。
神山 そうですよね。
林 えーっ、教えてよ、と言ったんだけど(笑)。当時、井上孝雄が人気が出て、演劇部に外れて東宝現代劇、特別待遇という待遇になっていた。じゃあ、井上と同じ位置にしようかとなって、四六時中井上と部屋が一緒。だから井上のところの一番弟子です。しょっちゅう一緒だった。
神山 井上さん、ずっと、お年は上ですよね。昭和一けたですか。
日比野 昭和十年(一九三五)です。
林 七つ上ですね。
神山 そのときは何か、東映からの話もあったと聞いたんですけれども。
林 ちょうど一日遅れでね。片岡千恵蔵さんの植木源次郎さんという親戚の方、プロデューサーが来て、東映どうですかと。いや、実はちょっと、ほかにもお話をいただいているので、考えさせてくださいと言ってお帰りいただいて、菊田先生と会って、その「ばか」の愛情で、僕は演劇をやろうというので、東映をお断りしました。だから、後に東映に出たときに千恵蔵さんが会社に来てマージャンしていらっしゃると「林与一、またお世話になります」と必ずごあいさつに行くと、千恵蔵先生は「本来ならな、この会社にいるんだけどな」と行くたんびに言われて(笑)。
神山 それで、東宝で『お鹿婆さん東京へ行く』[一九六一年六月・芸術座]にお出になって、それですぐ『放浪記』[一九六一年十月・芸術座]ですよね。昭和三十六年(一九六一)。
林 「瓢簞池」[『浅草瓢簞池』、一九六三年三月・芸術座]はその後ですか。
神山 「瓢簞池」はその二年後です。
林 『丼池』[一九六三年一月・芸術座]とか。
神山 『丼池』も二年後です。だから、すぐ『放浪記』はすごいなと思って。
林 八カ月やりました、あれ。最終の公演が終わって、菊田一夫さんに「お前だけがこの役できなかったね」と言われたのが、もうずっと心残りで。それを[三木]のり平さんに言ったら、一千回か一千五百かのときに出してもらって。
神山 ああ、しばらくぶりにね。
林 それで舞台げいこが終わって、もう今でも泣きそうなんだけれども、のり平さんが、与一ちゃん、今だったらこの役褒められるよ、と言われて。泣きましたね、僕は、うれしくて。
神山 いいですね、その話もね。それまで『放浪記』のような現代劇ってやってないわけでしょう。
林 全然やってない。だから怒られました、とにかく。何十回やったか分からないです。
神山 それは菊田さんに怒られた。
林 「あのね、ふみさん、覚えてなさるね。あのボー、ボーという汽笛の音がね」、そこまでが、何回も何十回もやってもできなくて、ここにしがみつかなきゃいけないと思ってやっていたら、森さんが「与一ちゃん、菊田先生はできるまで待つからね、私も付き合うから何回でもやろう」と言ってくださったのがこたえて。どんな芝居に行っても、子役さん、相手役が怒られて、残ってけいこだというときに、全部付き合うようになったのはこれがきっかけ。自主けいこは相手がいないとできないから、僕付き合いますよ、というふうに付き合えるようになったのは、森光子さんのその言葉が今も残っているから。自主けいこに僕が絡んでいるところは全部残ってあげるようになりました。
神山 『放浪記』のときは、芝鶴さんとか、段四郎さんまで出ているんですね。
林 あの初演はよかったですよ。
神山 ねえ、安岡信雄役の芝鶴さん、よかったでしょうね、ああいう役はね。
林 芝鶴さんのあの役が、本当にね。ナメクジみたいでねというのが、これは女形さんでなきゃできないなというのが。福地貢役は後に井上[孝雄]がやったけれども、段四郎さんもよかった。
神山 いや、私はね、段四郎さんってその後すぐ病気になっちゃったんで、私、昭和三十八年(一九六三)から見ているんですけど、段四郎さん、全然記憶にないんですよ。
林 ぱっと見、結核を患っているように見えない。でも、僕の知っている結核の人、みんなこんなだから。ああ、これもいいんだと思って。よかったな。
神山 初演のときは、十一時ごろまでやっていたとか。
林 四時間半ぐらいあったんじゃないですか。東宝歌舞伎だって五時に開いて、十二時にまだ閉まらなかった。
神山 何で長かったのか分からないですけど、本当に長かった。新劇も長かったです。その後、染五郎さんと『蒼き狼』[一九六三年九月・読売ホール]をやっています。ベルグダイという役。
林 菊田先生は、「お前を見ていると、本妻の子供よりも、二号さんのところにできた子供みたいに卑屈に見えていい」というので、その、外にできたベルグダイという子供をやった。初演は読売ホールです。全員、楽屋が一緒で、ジェリー藤尾から、萬之助、染五郎。ジェリーが「おい、染五郎」なんて言うから、「そんな言い方するんじゃない、お前、歌舞伎の人間に。染五郎さんだろう」「俺から見りゃ染五郎だろう」というやりとりをしたのを覚えています(笑)。全部呼び捨てなの。
神山 呼び捨て、ああ、ジェリー藤尾がね。
林 夏だったと思うんだ。暑くてね、部屋に入れられて、屋上へ行って涼んでは、扮装して出たような記憶があります。
神山 『蒼き狼』って、全部あのカタカナの役名、お客さんは聞いて分かったんですかね、あれ。
林 分からないでしょう。でもね、神山[繁]さんとか北村和夫が来て。
神山 ああ、新劇の人は全然覚える。
林 あの連中は何なのと言ったの(笑)。片仮名をどんどん覚えていく。
日比野 なるほどね。面白いですね。
林 すごいんだ、文野朋子さんとかすごいんだ。
日比野 学校の違いって怖いですね。
林 そう。それでよく入ったので、宝塚劇場で再演[一九六四年二月・東京宝塚劇場]したんです。
神山 そうそう、宝塚でやったんですよね。でも、そのころ、ちょっと後かな、東宝では日劇にも一度か二度お出になっている。
林 日劇の『春のおどり』[一九六五年三月・日本劇場]。一度出ています。朝丘[雪路]さんと僕とやって、二カ月公演だけれど後の月は僕が出られないんで、東千代之介さんがやって。僕は日劇やりながらけいこして、ほかへ行ったはずです。
神山 そうですか。日劇の話はもちろん自分からじゃなくて、東宝から出てくる。
林 東宝からです。はい。
神山 あれ、『みやらび太鼓』か何か出ていました、沖縄のね。
林 あの、川田舞踊団の。はい、覚えています。それと、アクロバットみたいのをやるようなトミ譲二。
日比野 トミ譲二さん。
林 トミ譲二のグループも出ていた。
神山 日劇のときは山本紫朗さんですか。
林 紫朗さんです、東宝歌舞伎の。
神山 東宝歌舞伎もやっていますよね。舞踊のね。
林 舞踊の構成をやっていらっしゃって、『春のおどり』をやるんだけれども、東宝に朝丘雪路の踊りの相手をする人がいないから、じゃあ、与一ちゃんにしようかというので声がかかったんです。
神山 そういうことだったんですか。
林 僕と成年と[花柳]芳次郎、北上弥太郎というのが候補に出たんだけれども、僕が。
神山 ああ、芳次郎さん、この間死んだ壽應さん。
林 一番安かったの、僕。みんな高いから。
神山 そんなことないでしょう。朝丘さんは歌も歌ったでしょうけど、与一さんは踊りだけで?
林 踊りだけでした。そのときに、あんまり『深川マンボ』がはやるんで、芳次郎さんが、違うものを作ろうと。『安来節』をガラーチャ[ラテン音楽の一ジャンル]にしようといって、『安来節』のガラーチャにしたんです。ほとんど『深川マンボ』みたいな踊りでしたけどね。
神山 いや、『深川マンボ』、僕も見ていますけれども、それ、最初は西崎緑さんだったんですってね。
林 西崎緑さん。それで、明石照子、長谷川季子でやって、受けたんで、ほかへこう、ロングランして。
神山 それで扇雀さんとかいろいろやりだしたんですね。
林 それで、コマ歌舞伎で扇雀さん[坂田藤十郎]がおやりになったりして。扇雀さんがおやりになったとき、季子さんが買われて行っていた。
神山 ところで山本紫朗さんはどういう印象ですか。
林 演者に対してうるさいことは言わないけれども、例えば音楽とか、舞台転換とか、そういうテンポに関しては細かかった記憶がありますね。

「おやじ」長谷川一夫の思い出

神山 長谷川一夫さんはもちろん子供のころからご存じなんでしょうけれども。当時、もう長谷川さんは赤坂の「賀寿老」という料亭をやっていらしたんでしょう。
林 はい、やっていました。
神山 あそこが自宅でもあったわけですか。
林 自宅です。
神山 じゃあ、そこに居候みたいな感じでいらした。
林 ちょうどあれを下がったところに「星ヶ岡茶寮」というのがありまして、その離れを借りていらっしゃって、僕はそこへあいさつに行ったことがありますけど。
神山 ああ、あそこですか。
林 それで家が建って、そこへ引っ越されて。河野一郎さんと永田雅一さんで料亭が繁盛したというぐらい。とにかく政財界人しか来なかったですから。
神山 あと出光石油の社長ですね。
林 はいはい。出光佐三さんという会長さん。
神山 長谷川さんは考えてみれば、もともと長三郎時代のおじい様のお弟子さんですよね。
林 はい、林長丸。
神山 それで、立場が逆転して、今度は与一さんが、本当は主筋なのに逆転した。そういうところは全然何でもないんですか。
林 長谷川は「東京へ来るんだったらうちに居候しろ。一人前にするから、内弟子からやれるか」と言われた。弟子奉公ですよ。
神山 そうすると、呼び方はもう若旦那ではなくて、与一と呼び捨てになる。長谷川さんのことは「先生」なんですか。
林 「おやじ」です。映画に行って人気が出れば、歌舞伎へ帰ってもいいだろうと思って、映画に引っ張ってくださった。例えば『土屋主税』をやったら大石主税とかという役をたくさん付けてくださって。それでも人気が出なかったんですね。
神山 長谷川さんは思い出話というのはあんまりなさらなかったですか。
林 あんまりしませんでした。僕が『顔斬り』[一九九〇年八月・NTV]というテレビをやった時は、顔を切られたときのことを話してくれました。「どうだったんですか」と聞いたら「大変だったんだよ、撮影所から、自宅が近くて帰るところでね、切られたときに、あっと思って傷を押さえた」と。押さえたときに、化粧室に行って鏡を見たときに、「俺の指がないんだよ。指の三本が口の中に入っていたの。それで、口を開いてね、こう見たとき、ここから指が見えたので、ああ、役者だめだと思った」と話してました。それで、その場面を付け足してもらって、ばーっと階段を上がって、姿見のところに行ってわっと見て、口をこうやってやるところをやらせてもらった。
神山 長谷川さんは、二代目の鴈治郎さんよりも初代の雰囲気が出ているというか、似ているなんていうことをよく言われたようなんですけれども。
林 僕が忠兵衛をやらせてもらったときでも、「鴈治郎さんってこうだったんじゃないかなというのが浮かびましたよ」というファンの方がいらっしゃいました。長谷川からは「長谷川に似ているねと言われたら、初代鴈治郎に似ているということだから喜べよ」と。「俺は初代に似せよう、似せようとして、つっころばしをやっている。お前が俺に似ていると言われたら、長谷川一夫じゃない、初代に似ていますというふうに言えよ」と言われていました。
神山 そうですか。私は東宝以上に歌舞伎座で長谷川さんを見たんですよね。やっぱり本当に与一さんを見ると、長谷川さんに似ていると思うので、それはやっぱり初代に似ているということなんですね。
林 うるさかったですね、だから。僕が山本富士子さんの梅川で忠兵衛をやらせてもらうときでも隠れて見に来たらしくて、「お前、あそこのところのあのしぐさが違うね」と。僕はだから、成年さん以上に長谷川から和事というのを教えていただいていますね。
神山 まあ、長谷川さんにしてみれば、表立っては言わないけど、恩返しのつもりがあったんでしょうね。
林 かもしれません。つい去年、京都で『封印切』をやらせてもらったとき[南座『道頓堀ものがたり』の劇中劇]でも、長谷川に、「旅バージョン」[本興行ではなく––の意]はこういうことで、真ん中に衝立てを立てて八右衛門としゃべるところはだらだらしているからカットだよと。あと、うちのは「封印切り」じゃない、「封印切れ」だよ、叩いているうちにばらっと小判が落ちたので、「しまった」といって切るんだから、よその人みたいに、懐へ入れておいて、切るんじゃないというふうに教わりました。だから、長谷川という人はとにかく、和事ばっかりをやっていましたね。『紙治』にしても『お半長右衛門』でも。
児玉 大石内蔵助でも、荒木又右衛門をやっても初代鴈治郎ですね、きっと。
林 初代さんで面白かったのが、[六世尾上]菊五郎さんがいらっしゃって、『碁盤太平記』で岡平をやったとき[一九三三年六月・大阪歌舞伎座]に、腹を切って、吉良の絵図面を出すときに、もう血だらけにしておいて渡したんだ。それでね、死にながらこうやって見ていたら、鴈治郎が懐紙を出してね、懐紙の間に挟んで、その血を絞って、それで開けたので、やっぱり鴈治郎は大したものだと思った、という話を聞きましたね。「やっぱり関西は鴈治郎だと思った」という話を聞いて、ああ、面白い話だ、やっぱり六代目は試したんだなと思った。だから、六代目さんがいらっしゃると、必ずそれ以後は、長坊[長三郎、又一郎の前名]も一緒に踊らそうと、『連獅子』でも何か事あるごとに言ってくださったみたいですね。
神山 [長谷川一夫の長男・林]成年さんはどうでしたか。私ね、成年さんも結構見ているんですけど、率直に言ってあんまり印象に残ってないんですけどね。
林 あのね、僕から言うと、うまくもない、下手でもない。ただし、邪魔にならない。
神山 ああ、なるほどね。
林 だから、晩年、杉[良太郎]さんの公演に出ていらっしゃったけど、僕は見ていてやっぱり、大したものだな、主役に邪魔にならなくて、ああやって抑えるんだ、もったいないな、と思うぐらい、よかった。人柄としても、いい人です。もうとにかく僕が名前が出たときにも喜んでくれてね(笑)。よかったな、与一ちゃん、世間で名前が知れたな。俺はね、長谷川一夫の息子という名前で知れているけれども、お前は一人で売れたんだからよかったなと。
神山 ああ、そうですか。
林 長谷川のうちに週刊誌がみえて取材をした時も応接間でやらせてもらうんだけれども、成年さんもと言われたけど、俺はいい、おやじと与一ちゃんに取材してくださいと。
神山 いい方ですね。

美空ひばりとの思い出

神山 先ほどもお名前が出ましたが、改めてひばりさんのことを。
林 はい。NHKの大河ドラマ『赤穂浪士』[一九六四年一月・NHK]で人気が出たら、美空ひばりさんの舞台や映画で相手役をやらせていただくようになりました。ひばりさんのおふくろさんからはよくしていただきましたが、「ひばりが一番で、お前は二番だよ」と、そればっかり言われていた。
神山 ひばりさんとは東宝に行って、その線で話があったわけですか。
林 その三年前に、『飛ぶ雪』『明治の兄弟』というのにひばりさんがお出になってますよね[一九六三年十月・東京宝塚劇場]。
神山 ああ、そうか。『明治の兄弟』ってありましたね。
林 女役者をおやりになって、それで『飛ぶ雪』は娘役をやって、長谷川のところへ出て。そのときにね、おふくろさんが舞台を見ずに、袖の階段のところにじっと座っていらっしゃって。「おふくろさん、どうしたの」。「うん、お嬢がやせちゃってね、舞台を見たくないんだよ」と言っていました。それで、あるときに、「ひばりもいずれ舞台をやらせたいから、成年さん、[花柳]芳次郎さん、[西川]右近ちゃん、与一ちゃん、このメンバーで応援してほしいんだよ」と言われた。「いつでも言ってください。僕、ひばりさんの大ファンだから行きますよと」というのがきっかけ。
 でも最初は僕、断ったんですね。「歌い手さんの芝居は出ない」と言って。断って帰ってきて、長谷川がね、「お前、コマのひばり公演、断ったそうだな」と言う。「はい、断りました」「何で断ったんだ」「僕は舞台役者ですよ。東宝はリノリウムだけど、ひのき舞台の役者ですから出ません」と応えた。そうしたら「ばか」と怒られて。「お前な、美空ひばりの相手役で出られるって、ここへ行くまで何十年苦労したら行けるんだ。出ない手はない」「ああ、そうですか。でも、今の生活の方がいいんですけどね」「弟子のままで終わってどうするんだ。お前は長谷川一夫になりたくないのか」「長谷川一夫になりたくないけど、まあ、ここから抜け出したいですよね」という会話があった。それで長谷川がすぐ電話して、菊田先生、与一出しますからとなった。
神山 最初から演出はもう沢島忠さんがいらしていましたか。沢島さん。
林 そのときは川口松太郎さん。
神山 川口松太郎さん。
林 『女の花道』[一九六四年六月・新宿コマ劇場]。これがもう、本当に、あのおふくろさんが何日も川口先生の家の前へ座って、懇願したそうですね。雨の日もびしょぬれになって。それで川口先生が、「負けた、書くよ。あのおふくろは並大抵じゃない。雨の日にびしょぬれになって座っているのを見て、俺、折れちゃった」と。それだけやっぱり川口松太郎に書かせたかったんだね。
神山 書いてほしかったんですね。
林 それで、ちょうど総ざらいの日にひばりさんが倒れて、病院に担ぎ込まれて。それで、舞台けいこはひばりさん抜きでした。演出もやる。それで、その当時は京塚[昌子]さん、伊志井寛さん、清川虹子さん、黒川弥太郎さんが僕のおとっつぁんの役で出て。確かそのメンバーだったと思うんですよ。それで、大丈夫かね、舞台げいこしないでと心配していた。ビデオもないし。ところがですね、初日、ぴったりなんです。みんなでね「[けいこを]見ていたんじゃないの」と言ったぐらい(笑)。素晴らしかった。
神山 さすがの川口さんも驚いたでしょうね。
林 ええ。それで「俺は、じゃあ、ひばりのためにいつでも本を書くよ」、となって、おふくろさんが、「与一とひばりは合うから、しばらく相手役をやってね」と。「いつでも言ってください」と言って、出るようになった。
神山 実質五年間ぐらいですか、舞台では。
林 五年です。東京、名古屋、大阪。巡業。
神山 全部入れたらずいぶんすごい数でしょうね。
日比野 映画もありますし。
林 映画はその後ですけれども、コマが年に二回ありましたからね、東京は。それで明治座があって、宝塚劇場があって、帝劇があって。
日比野 五、六カ月。舞台だけで。ということですよね。
林 ところがうちの母親が、「歌い手さんの相手役もいいけれども、歌がヒットしなくなったら一緒になって落ちるから、もうそろそろ潮時だね」といって、菊田先生のところへ行って、「もう辞めさせてください」と。
神山 降りたのは、北見[礼子]さん、お母様が。
林 はい。じゃあ、最後に『津軽めらしこ』[一九六七年二月・東京宝塚劇場]をやって終わろうといったのが、ひばりさんが降板だ。
神山 [菊田一夫と揉めて]降板になったんですね。
林 それで、僕が残ったときにおふくろさんに呼び出されて、「お前、ひばりの相手役だけれども、ひばりが降板したのにお前は降りないのか」と聞かれた。「いや、僕は東宝の契約ですから、降りるわけにいきません」「じゃあ、分かった」と。
神山 まあ、『津軽めらしこ』は有名な、もうずいぶん大事件でしたからね、あの当時。
林 それで何年かたって、[新宿]コマで『お島千太郎』[一九七六年六月・新宿コマ劇場、三十周年]。
神山 『お島千太郎』ね。
林 おやりになるというときに、おふくろさんから電話があって、どうしたんだろうと思ったら、「『お島千太郎』を考えたら、どうしてもお前しかないから、どうだろう」と。「いや、別にわだかまりもないですから出ますよ」と言って、出たのね。そのときの妹が高田美和です。それから十何年たって、川中[美幸]さんが『お島千太郎』をやるというときに、井上孝雄が一刀斎で出た。だから、二十五周年か、二十周年かな、ひばりさん。あのとき。コマでね。
 僕の一番好きな場面があるんです。崖の場面で、お島といい場面があるんですね、僕の好きな場面がある。それ、カットでした。ああ、僕の受ける場面、カットだと。時間的に短くするからカットだよと。そうじゃないだろう、僕の一番手が来るところなんだけどなと思った。
神山 あれ、ひばりさんはやっぱり普段でもお嬢と呼んでいたんですか、与一さんは。ひばりさんじゃなくて。
林 僕は最初はひばりさんでした。二、三年後からお嬢でした。
神山 あちらは「与一ちゃん」。
林 いや、向こうはね、今でもどこかに写真が残っているけど、いくつかブロマイド写真にサインしてもらったのがあって、最初は「若だんな」。二年ぐらいから「与一ちゃん」。その二年ぐらいたって「ヨッコ」。僕、ちょっと女っぽかったんです。
神山 そうか、それでヨッコというんですか。
林 うん、ヨッコ。年代で[呼び名の変遷が]分かる。
神山 ひばりさんは松若さんを気に入って、よく出ていましたよね。
林 『お夏清十郎』のときに、番頭役がいないので、この役は[初世中村]松若(しょうじゃく)でと僕が言ったんですね。そのときにいろいろなお芝居の話をして、古い型とか知っていますし、お酒飲めるし、毎晩呼ばれて、毎晩酔っぱらって(笑)。もうとにかくそれで、松若のことはだんな、だんなと呼んでいました。
神山 そうですってね。
林 とにかくあがめて、いろいろなものを吸収したみたいです。それで、三味線を曲弾きするんですよ、松若は。「梅にも春」か何かを曲弾きするの、確かひばりさん、習っているはず。頭の上で吹いたり、弾いたり、後ろへも。『アマデウス』みたいに曲弾き[曲芸的に弾くこと]で弾くんだから。逆に弾いたりね。
日比野 寺内タケシさんみたいな。
児玉 松若さんってメモ魔なんですよね。だから、初代[中村鴈治郎]の演出をすごい台本に残していらしたとか。
林 初代のを全部知っています。あの方のお父さんは義太夫さんで、僕はだから彼に義太夫を習って、常磐津を習って、発声を習って、お化粧も全部習って、とにかくそばに付いていました。舞台関係で付いてくるのは、[三世]嵐若橘というのもいました。
神山 若橘ね。名前だけ覚えています。
林 それがもうとにかく舞台のことをしょっちゅう教えてくれたし、それで、「切腹場」[『忠臣蔵』四段目]の判官やるときも、もう、後ろで二畳台を組む間に後ろへ来るから、襖をこう開けるから、鏡を置くので、ここにあった青黛をここへ塗って、青白くしろよというやり方も教えてくれた。
神山 その若橘さんが。
林 うん。それで、初め出たときは、黒[の着付]のときは、薄く紅を引いておいて、それで、「麻裃」になって、裏で待っているときにここへ青黛を塗ったら、蒼白に見えるからねという手法を教えてくだすった。それと、僕が定九郎をやったときも、血玉というのを。
神山 ああ、血玉。
林 あれ、コンドームで作るんですよね。ぱんと張る。それを全部、大きさも、全部作ってくれて、これを含んで出なさいと。
神山 そういうお弟子さんが昔はいたんですよね。
林 その松若も若橘も、十五、六歳で気に入らないとき、け飛ばしたり。本当に僕は、ばか野郎でした。この人たちにも謝りに行かなきゃいけない。
神山 若橘さんって、嵐だから、もともとはどなたのお弟子さんなんですかね。
林 璃徳さんという方がいらっしゃって。
神山 璃徳さんの。ああ、そう。名前しか知りませんけど。
林 確かそこのお弟子さんで、うちのおじいちゃんが引き取ったみたいです[「五代目嵐橘三郎の門に入り、若橘の名を貰ったと聞いた」という説もあり]。
神山 璃徳のお弟子さんですね。おじいさん[又一郎]はひばりさんの公演、一回出ていますよね、梅田コマで[『お島千太郎・蛇姫様絵巻』一九六五年十月]。
林 梅コマで、おふくろさんがね、千太郎のお父さんをやる役がいないんで、おじいちゃん、できないかい、と言ったら、いや、もちろん出ますよといって、出てもらって。松竹から来て、僕の倍以上取っていたんです(笑)。又一郎は。
神山 それはそうでしょう。
林 こっちはひばりの相手役だよ。あのおとっちゃん、倍以上取っているのと。いや、松竹からそんなもらってないよと言ったんだけど。だって、松若でも僕より高かったんですよ。
神山 そうですか。でも、おじい様もひばりさんの公演に出たときは喜んでいたでしょう。
林 喜んでいました。それとね、全部の小屋、出たけれども、コマと明治座だけは一回も出なかった。
神山 ああ、そうですってね。
林 それでひばりのおふくろが、おじいちゃん、弱っているけれども、じゃあ、清十郎のおとっつぁんで明治座出そうと。出て、十日間ぐらいで倒れたのかな。
林 それで、あと大町章二郎という、うちに付いていた、僕に付いていた男が代わって出まして。
神山 又一郎さんは、昭和四十一年(一九六六)の暮れに亡くなった。
林 十二月三十一日。ちょうど僕のうちができたところなので、新しいうちに入りたいといって、長谷川のおやじさんが「じゃあ、俺の車で迎えに行かせて、鎌倉まで送るから」と言ってくだすって。それでデパートに頼んだおじいちゃんのベッドがちゃんと届かなかったんです。縁起が悪いからすぐに運んでほしいといって連絡して、病院には、到着を少し遅らせてくださいと言った。それでベッドがやっと着いて、セットして、おじいちゃんをやっとベッドへ寝かせて。すると夜、うちのおばあちゃんが、おじいちゃん何か痰がつっかえてだめだから、救急車呼んでと。それで大船病院に行った。でも病院ではおしゃべりもできて落ち着いていて、うちの母親とおばあちゃんとわあわあしゃべっていたんですよね。家に戻って、夜中にふっと見たら、息が止まっているよと。それで先生に電話したら、ご臨終ですと。最後は笑いながらしゃべっていたんですけれどね。
神山 おじい様はずいぶんご高齢に思ったけど、七十六歳なんですね。
林 だから七十六歳の前に僕がぼうこうがんになったときに、ああ、これは呼ばれたな、そろそろ向こうかなと思ったら、生き返っちゃったから、ああ、おじいちゃんの年齢は越したなと思いました。

三島由紀夫『椿説弓張月』

神山 ひばりさんの映画は沢島忠監督作品が多かったですけれど、沢島さんの舞台演出のご記憶はありますか。
林 忠さんはね、非常にテンポのいい人。当時お芝居で「テンポ」というのはあんまり言わなかった時代に萬屋錦之介の『一心太助』[一九五八年二月・東映]が当たったでしょう。
神山 テンポがよかったですね。
林 うん、テンポと間。せりふはかぶってもいいとかね。テンポがすごかった。
児玉 『お島千太郎』[『新蛇姫様 お島千太郎』一九六五年九月・東映]。
林 舞台で当たって、『お島千太郎』と、それから『お役者仁義』[『小判鮫 お役者仁義』一九六六年一月・東映]と、『のれん一代』[『のれん一代女侠』一九六六年四月・東映]と。三本か四本一緒ですね。ひばりさんが出るときは必ず忠さんだったから。ひばりさんの公演を五年続けて、終わった明くる年に、国立の……。
神山 三島由紀夫さんの『椿説弓張月』[一九六九年十一月・国立劇場]。
林 あのときは、歌右衛門さんが「東宝にいるけど与一ちゃんを使ってあげたら」という助言があって使ってくださった。三島先生に「何で林与一なんですか」と聞くと「成駒屋がね、この役の生締が合うのが今歌舞伎界にいない、林与一しかいない」と推薦してくださったと。そんなことないと思うんだけれども(笑)、そのときにふっと、梶原とか、実盛とか、生締めの役をやりたいなと思ったことがある。
 あの公演のちょうど中日過ぎに玉三郎君と僕と理事長室[三島は当時非常勤の理事だったが、高橋誠一郎理事長は不在が多く、理事長室を使うこともあった]に呼ばれて、三島先生から「今度書きたいのは『十種香』だから、与一君と玉三郎君で『十種香』を書いてやるよ」と言って、三島先生が亡くなってそれは夢になっちゃったんだけど。いまだに玉三郎君と会うと、「あのときに『十種香』をやって、勝頼と八重垣をやっていたら、それをきっかけに歌舞伎へ帰っていたかもしれないね」と話すんです。「帰りゃよかったのに、あのとき」と言われたけど。きっかけというのはやっぱりあるよ。
 あの当時は俳優協会に籍がないと国立には出られなかったけど、三島先生がどうしても与一君を出してくれと言ってくれた。そのとき国立の理事が柴田小三郎さんでしたでしょう。あの方が、うちのおじいちゃんのごひいきさんの弟さんだったの。文三さんというのはお兄さんで、そのとき高砂熱学という会社の社長で、その方の応援もあって、オーケーした。だから、[制作室の]織田[紘二]君から、理事と三島先生で出したけど、本当はあのとき出られなかったんだよということを言われた。その実績があったので、『女人哀詞』[一九七八年十月・国立劇場]のときに水谷八重子さんが、「鶴松は与一ちゃんで」と言われた時、二つ返事ではんこを押せたのは、三島先生があったから出られたんだと。だから、国立に出られたのは三島由紀夫さんのおかげです。
神山 そうです、あのころは俳優協会に入っていなかったので、前進座の國太郎さんもなかなか大変だった。
林 だから、森繁久彌さんが最後まで国立へ一回出たい、出たい、と言いながらも出られなかったのは、やっぱり外部だったから、歌舞伎じゃなくて。
日比野 なるほど。
林 そう、だから、そういう決まりがあるんですよね。『孤愁』[『孤愁の岸』一九八三年・帝国劇場]の最後は国立でやりたいと言った。
神山 なるほどね、そうですか。『孤愁の岸』。
林 僕は初代水谷八重子さんのおかげで、[二代目]水谷八重子襲名のときも金丸座の『滝の白糸』に連れていってもらって。あそこも出られないんですよね。だから僕は、舞台けいこのときに八重子さんのところへ「どうもありがとう」と言ったら、「どうしたの」と。「いや、普通だとこの劇場へ出られないのに、あなたのおかげでこの劇場に出られました」「ああ、そうなの?」と言われたけれども。

初代水谷八重子との共演

神山 [初代水谷]八重子さんの話が出たんですけれど、与一さんは三人の恩人として、長谷川さんとひばりさんともう一人、水谷さんとおっしゃってますね。
林 はい、八重子さんは長谷川としょっちゅう東宝歌舞伎に出ていましたから。そのときに、「新派の立役に来たらいいのにね」というお話が前からあったんだけど、結局その当時の林与一というのを相手役にしても、お客は入らないだろうと。
神山 いや、そんなことはないでしょう。
林 NHKで人気が出て、ひばりさんの相手役をやったりしているうちに、ああ、これだったらお客呼べるんじゃないかなというので……昭和三十五、六年じゃないですか。一番最初が演舞場の『近松物語』。あとは『遊女夕霧』[一九七三年十一月・新橋演舞場]。これは役者の柄でなきゃできないなと思ったの。新派というのはほとんど柄ですね。
神山 いや、そうですね。安井昌二さんが言っていましたよ、新派の二枚目の難しいのはね、「考えないでいなきゃいけない、それがかえって難しい」と。水谷さんはもちろん長谷川先生とも、年配的には同じぐらいですけど、やっぱり長谷川先生も先輩、先輩と言ってらっしゃったですね。
林 先輩と言っていましたね。おやじは水谷先生、柳永二郎さんには先輩と言っていました。[中村]翫右衛門さんと辰巳柳太郎さんは同年代だから。
神山 同世代ですね。[長谷川一夫は]明治四十一年(一九〇八)生れですから。
林 勘三郎さんも梅幸さんもそうだし。そう、先輩と言うのは八重子さんと柳さんぐらいかな。
神山 長谷川さんは梅幸さんの芝居を好きだったとおっしゃってたとか。
林 歌舞伎というのは「女形」だ、どこか男でなきゃいけない。梅幸君のは男が演じている女に見えるからいいだろう、ということを言っていた。
神山 ああ、そういうことですか。
林 ほかの人は女優に育てようとしていると。歌右衛門さんのことは藤雄ちゃん、藤雄ちゃんと[本名・河村藤雄]呼んでいましたけれど、「藤雄ちゃんは女に近寄ろうとしているけれども、梅幸さんの女形の方が好きだね」とおっしゃっていた。
神山 長谷川さんは、六代目[菊五郎]も好きだったんでしょうね。
林 六代目が好きでしたね。
神山 でしょうね。それは感じますね、見ていると。
林 それとやっぱり美声ではなかったので、六代目さんの口調がとても好きだったみたいですね。悪い声じゃないんです。あのね、けいこしているうち、総ざらいの前に調子いっちゃうんです。それまでは「二枚目の声が出てるな」と思う。それがね、総ざらいになったら、あの声になっちゃうんです。
 長谷川というのは、おけいこ中はね、紙治をやっても何やっても、ああ、いいな、と思うぐらい。ただね、あの声の方が魅力があるんですよ。
神山 そう、そうなんですよね。あの声でも、何か独特の魅力を持っていますよ。山田五十鈴さんとも随分一緒にお出になっているんですけど、「奥方」と呼んでいたんですか。
林 奥方です。なんか、そう言いたくなる人っているんですよね。やっぱり山田五十鈴さんは奥方でしょうね。
神山 山田さんは酒も強いし、フランクといえば、山田さんの方が水谷さんよりフランクでしょう。
林 僕たまたま、僕が二階、山田さんが三階のマンションに住んでいたことがあるんです。それでしょっちゅう、付き人の女の子が「しゃべる相手がいないから、何か奥方が呼んでいるんだけど、与一さん、どう」と言って飲みました。よく口説かれなかったね、あの時分(笑)。そのときに歌舞伎の話とか、いろいろな話をして。もちろん寿海さんとか壽三郞のこと、ご存じないから、「どういう人だったの、どんな役がよかったの」とか、そういう話をして、もう酔っぱらったから「与一ちゃん、じゃあね」と、僕は帰っていくと。
神山 そうだったんですか。山田さんは仲代達矢がすごい好きだったんですってね。
林 好きだった。それでね、明治座の『淀どの日記』[一九六八年九月・明治座]のときに、[八代目]幸四郎さん[初代白鸚]、又五郎さん、加東大介さん、平田昭彦らと結託して、今日は監事室に仲代達矢が来ていると言って騙したことがあります。幸四郎さんが「俺が言うから、君たちも話を合わせて、聞いていますよと言ってね」と、みんなにね。山田さんが「ねえ、仲代さん来ているの聞いた?」「聞いていますよ」と。みんな聞いたと言う。もうね、「どうしようかしら、どうしよう」。もう舞台もぼろぼろ。どっちが徳川で豊臣か分からない、めっちゃくちゃ。結局ね、幸四郎さんが、うそだと言えなくなっちゃった(笑)。「そういうふうにしとこうね」と、終わったの。いまさらうそだと言えなくなっちゃった。汗はかくわ、ぼろぼろだし。
神山 でも、山田さんも長谷川さんも、結構初日緊張するタイプだったんですってね。
林 山田さんも、長谷川も震えていました。
神山 水谷さんはそういうのは聞いたことない。
林 水谷さんはなかった。冷静。
神山 ねえ、水谷さんは、もうすごいと言っていましたね、出の前とかね。長谷川先生はせりふはちゃんと覚える方なんでしょう、わりと。
林 覚えません。勘三郎さんも、長谷川も「せりふを覚えるやつはせかせかしてよくない。せりふを考えて、プロンプを聞いて、それまでの間が芝居なんだ。こう苦しんでいるだろう、次のせりふを言おうかなという、これが間なんだよ」って(笑)。のり平さんも書くからね。あっちこっちに。
神山 ああ、せりふを小道具のアチコチに書く。昭和四十年代途中からですか、山本富士子さんとずいぶん正月公演、明治座で毎年やっているんですけど。
林 はい。それはですね、ちょうど富士子さん、五社協定で重なってどこも出られなくなった。それで僕がちょうど松竹の永山[雅啓社長]さんと、菊田一夫とケンカして、東宝、松竹に出られなくなった時で。
神山 与一さんもケンカしちゃったんですか。
林 僕、何でケンカしたか分からないですよ。おそらく僕ね、「残菊」[『残菊物語』一九六九年十二月・明治座]のときだったと思うんだ。それでちょうど、その年ぐらいから呉服のお見立て会があって。
神山 ああ、あれはいい[謝礼]ですね。
林 月に、土日、土日、土日で月に八日間行って、舞台以上のお金をいただける。それで、二年ぐらいたったら、松尾國三さんから、山本富士子を舞台で使おうと思う。しいては、富士子は五社協定に引っ掛かってどこも出られない。新歌舞伎座ならオーケーだと。お前も東宝、松竹は出られないから、新歌舞伎座はどうだと。それがきっかけです。
神山 山本さんとは、ほとんどそのとき最初ですか。
林 最初です。
神山 それまではあんまり縁はなかったですかね、映画とか何かでもね。
林 『平凡』か『明星』の表紙で富士子さんとは撮っています。
神山 そうですか。
林 富士子さんとは八年ですから。
神山 そうですね、明治座で初春だけでも八年です、ずいぶん長く出ている。
林 僕の出られないときに、扇雀さん、江原真二郎さん、山口崇さん、田村亮、富十郎さん。なぜか全部色が違うんだ。それから團子[現・二世市川猿翁]。『春琴抄』なんか團子とやっているし、訥升[九世澤村宗十郎]さんもやっているし。そういう人とやっていて、スケジュールが空いたら、じゃあ、与一ちゃんと、こうなる。
神山 やっぱり山本さんにしてみると、自信があるからですかね。お客さんは私を見に来ているんだからという。
林 それとね、あの方は絶対に正面を切って横をお向きになる。それを平気で僕は許すんです。
神山 ああ、与一さんが許す。
林 うん、ほかの方は、山本さん、ここ、顔を見てください、とかって注文をなさるけど、絶対に僕は注文しない。長谷川に言われた、相手の言う通りにやるのが相手役だよと言われているので、何も言わない。
神山 それがよかったのかもしれないですね。
林 はい。
神山 山本さんも歌舞伎座でも結構見たんですけど、結構、立派でよかったですね。
林 あのね、出てくると華がある。僕は、長谷川は思ったことないけれども、舞台を見ていて、わあ、華が咲いたと思うのはね、[十一世市川]団十郎さんの海老さま時代。東京へ見に来て、うわあ、こんなに舞台が詰まっちゃうなという華がありました。それと同じように、富士子さんが出ると、舞台全部が華になっちゃう。この二人は違いました。
神山 淡島千景さんはいかがですか。
林 巡業で『鶴八[鶴次郎]』やりました。それとね、もう一つはあれ、お梶やって、僕が藤十郎をやって。
神山 ああ、『藤十郎の恋』ね。
林 これ、二回やっています。それで晩年になって、三越劇場で紀伊国屋文左衛門の几帳という役をおやりになって、僕が文左衛門をやった[『花の元禄後始末』二〇〇九年八月・三越劇場]。それぐらいですかね。長谷川の相手役だったから。
神山 お芝居はどうでしたか。
林 淡島さんに「おやじの言っていること、昨日と今日と違うんだけれども、よくあれ、毎日はいはいと聞きますね」と言ったら「与一ちゃん、昨日と今日と、やり方二つ習ったじゃない。これを覚えておいたらよそで使えるのよ」とおっしゃった。
神山 偉大ですね。
林 いいこと言うと思ったの。有馬稲子さん、京マチ子さんは「先生、昨日と違います」と抵抗して「こういうやり方もあるんだよ」と長谷川が怒っていたけど、淡島先生は、はい、はいと聞いていらした。「明日違ったら三つ習えるじゃない」って。すごいなと思った。
神山 朝丘雪路さんとはもうちょっと後になりますか。時代的に。
林 後ですね。新国劇との合同で、ゲストがいないというんで、朝丘さんと僕と呼ばれて、『水戸黄門』と「湯島」[『湯島の白梅』『水戸黄門漫遊記』一九七〇年十二月・明治座]かな。それから『真田軍記』と「残菊」[『残菊物語』一九七一年十二月・明治座]かな。何か二つやっています。二年続けて。
神山 あの方とはずっと後になってから。数年前、与一さんが久々に八汐をおやりになりましたね[『萬夜一夜先代萩』二〇〇九年一月・かめありリリオホール]。朝丘さんが政岡でね。あれなんかよかった、面白かったですね。八汐で、ほら、延若さんの型で、鏡を。
林 ああ、と言っているときに鏡を出しておいて、政岡がどんな顔しているかなというのをのぞくのが、延若型。
神山 あれなんかは、八汐は実際には歌舞伎でおやりになってないわけですね。
林 やってないです。
神山 それは松若さんか何かからお聞きになった記憶なんですか、その、河内屋がこうやる。
林 僕はね、部屋子のときに延二郎さんから習っている。そのときにおそらく、[四代目]富十郎さんが[政岡で]出てね、八汐を確か二代目鴈治郎がやっていた。
神山 ああ、そうですね。鴈治郎さんが、そうですね。
林 そのときに、こんなことがあるよというのを覚えていた。
神山 それは大したものですね。何十年後にたってから役に立ったんですね。
林 だから、聞いた役というのは、やりたいなと思っているのがいくつかあって、それの一つが八汐だったんですね。それがぶつかったんですね。
神山 よかったですね、あれは本当に。舟木一夫さんは舞台で一緒になったのは後の方ですよね。初共演はテレビの『赤穂浪士』[NHK・一九六四年一月〜十二月]でしょう。
林 『赤穂浪士』で一緒になってから、ずっと友達付き合いしていたんですよ。彼がちょっと苦労した時代があって、それで『薄桜記』[一九九九年八月・新橋演舞場]を上演した時に三十五年ぶりに共演しました。
神山 ああ、雷蔵さんの[映画で]有名な『薄桜記』。
林 松浦竹夫さんの演出でおやりになった[一九九〇年八月・紀伊國屋ホール]のを僕が見に行ったことがあって、「この人は絶対にもう一回大舞台に帰ってくる。帰ってきたら必ずこの役をやるだろうから」と楽屋へ行って、久しぶりに舟木さんに、「よう、この丹下典膳をやるとき、安兵衛は今度俺だよ、覚えておいてね」と帰った。そこへ付いていらっしゃった女の方が、[一九九九年に]演舞場でやるときに「与一さんがこういうふうに言っていたのを忘れましたか」と言って、舟木がアイエスの伊藤社長に、こういう話があるんだけど……と伝えたらしい。それで伊藤社長から「いつか与一ちゃんが安兵衛をやると約束したと言うけど本当?」と電話がきた。「本当です、絶対僕やらせてください」というのがきっかけです。いろいろな役者さんがいるけれども、舟木一夫の縁の下の力持ち、柱にでも土にでも何でもなろうと思う。彼のためなら。
神山 この間、上野介をやったでしょう、三年ぐらい前に[『舟木一夫特別公演』での『忠臣蔵』二〇一七年十二月・新橋演舞場]。あれを見て、私なんかぱっと見て、感慨を持ちましたね、やっぱり。
林 僕、やりたかったんだ。舟木には「大石をやれ、大石をやれ」ともう十年ぐらい前から言っていたんです。それでやっと「やる」と言ったときに、僕、ぼうこうがんを患っちゃって。医者はすぐ入院してくださいと言うんだけど、「三カ月先の仕事、ここまで持たせてください。そこまで持ったら僕は何も望みはありません」と先生に言って。舟木に「このけいこ中は終わりまでいてほしい」と頼まれてけいこも最後まで見て。もうこれで病院に入って死んじゃうかもしれないから、もう悪者になっていいやと思って、道具や装置、演出家にも、こうやろう、こうしないと舟木がよく見えないとかいって口も出して。それで初日が開いたんです。こっちは物食べないで瀕死だから、あのときの顔は吉良そのもの。もう何も付けないで、かつらをかぶっただけで「吉良になってらあ」ですよ。
神山 そんな事情だったんですね。
林 もう体がつらかったです。出番以外はずっと寝ていました。

北條秀司、菊田一夫、土橋成男……思い出の演出家、劇作家

神山 北條秀司さんともずいぶん思い出あるでしょうか。
林 北條先生は「莟会」のときにご一緒でした。それで、東宝へ来てからも、ちょっとした一言、二言でも役を作ってくださって、歌舞伎座へも出ていましたし。名前が出て、新派へ出たり何かするようになってからも、かわいがっていただくようになって。あるとき、名古屋で『紙屋治兵衛』の三五郎をやって、「最初からお前にやらせておけばよかったね」と言ってもらったのはうれしかったですね。事あるごとにかわいがっていただきました。
神山 北條さんは、北條天皇なんていいますけど、怒鳴ったりしなかったですか。
林 すごかったですよ。怒鳴ってけいこは止まる。それで、あの方は客席にいないで、舞台へ椅子を持ってくるんですよ。
神山 そうそう、上がって椅子を置くんですね。
林 僕なんか、『祇園囃子』[一九七六年九月・明治座]をやったときも至近距離。「与一君、それ違うんだ。そういう表現じゃなくて、こういう状況でこうだから。映画じゃないだろう」とやる。
神山 菊田さんも怒鳴っていましたか。
林 しょっちゅうです。怒って威厳を保っていたところがある。けいこで怒らないことはないし、怒る相手が井上孝雄、林与一、三上直也。
神山 いましたね、三上直也。
林 この三人は必ず怒鳴られた。和気成一という人も。あのね、怒鳴ってけいこ場の緊張感を保つんです。
日比野 怒鳴っても耐えてくれる人が標的になる。
林 そうそう。
神山 あと、新国劇が主なんですけれど、土橋成男さん。
林 明治座の『ちどり河岸』[一九六八年九月・明治座]で、目明し屋というつまらない役だったとき、何か土橋さんと喧嘩したらしいんだよ。僕が「何でこんな役でこんなにせりふ言わすんだよ」と言って「この野郎」と思ったらしいですね。そのあと舟木さんの『薄桜記』[一九七一年八月・明治座]とかいろいろなものを書いて、ああ、土橋成男って面白いなと思った。それで僕がちょうど中座のお芝居で主役をやらせてもらうときに、土橋さんに書いてもらうようになりました。塩田[誉之弘]さんと土橋さんと書いてもらっていて、その間に、石井ふく子さん。彼女は新派しかやったことなかったのを、僕のやってくれますかといって、平岩[弓枝]さんの本で僕の芝居をやり始めて。商業の芝居って面白いねと言いだして、そこから結構やりました。だから僕、土橋さんとはずいぶん長いしね。
神山 いや、そうでしょう。
林 例えば中座やっているときに、次の本を書くのに一緒のホテルに泊まっていて、朝食を一緒に食べて、本を読んで。「ここのところ、土橋さん、こうやって、こういう流れの方がいいから」。「分かった」と言って夜帰ると、彼はどこかで飲んで、酔っぱらって帰ってきて(笑)。それで明くる日の朝、直したりして。
 あるとき、「与一ちゃん、こういう話でさ、こうなるんだけれども、この結末はどうしたらいい?」と聞くわけ。「これテレビでしょ、俺のじゃないよ」「いや、ほかの本書いているんだけど、結末どうしようか」「何で俺がその結末言わなきゃいけないの」「いや、いろいろなことが出てくるからさ、教えて」と言うから、「こういう流れがいいんじゃない?」とアドバイスもしました。「土橋ちゃん、この本、面白いね。俺できない?」「予定空く?」「空けます」と言って、『編笠十兵衛』[一九七四年十月・フジテレビ]の[萱野]三平役、野川由美子と僕、やらせてもらったこともあります。人に本を聞いておいて、僕が出ないのおかしいだろうよ、といって。そういう付き合いでした。
神山 長谷川先生の『鬼あざみ』なんかを書いていた、衣笠貞之助はどうですか。
林 衣笠先生は映画の人でね。おやじのやった『鬼あざみ』[一九六一年一月・新歌舞伎座]か何かのときに、僕、与力か何かで出ているのかな[すり祐天の松役]。捕まえに来る。そのときにそばへ来てね、[手に唾をつけ]頭をなでる。汚えな、このおじさんと思っていました(笑)。それで衣装を直したりしてね、細かいの。とにかく長谷川はしょっちゅう衣笠先生の演出のとき、「先生、舞台はそんなところまで分からへんねん、早うしてえな、待ってんのに」。もう仕出しの一人に至るまで、全部着方から延々、直す。舞台の横で椅子に座ってるおやじが四十分も五十分も待っているんだよね。「先生、早うして」と言いながら。
神山 そうですか。やっぱり映画の人なんですね、衣笠さんね。
林 あと北條天皇のけいこは、序幕が必ず四、五時間かかります。序幕をちゃんとしたらこの芝居は面白くなると。長谷川のおやじは「北條さんやろう、まだ二時間はやる。顔できひん」と顔しない[化粧をしない]。二時間ちょっとしてやったら、「そろそろ羽二重呼んで」とやって、扮装してもまだやっている。とにかく、序幕二十五分か三十分に四時間か五時間かかる。それから後はすーっと早い。はい、次、はい、次。
神山 新国劇の島田正吾さんや辰巳柳太郎さんはどうですか。
林 僕はね、島田のおやじとは多いです。名鉄ホールも何回もあるし。あと新国劇出してもらったときと。
神山 やっぱり対照的な感じしますか。
林 対照的過ぎますね。島田のおやじは神経が細かくて、辰巳のおやじは大ざっぱに見えるんだけど、新国劇が閉めるというときには、辰巳のおやじの方が落ち込んでいたってね。島田のおやじは、しょうがないじゃないかと言っていました。僕はね、気分的に辰巳のおやじ派ではないですね。僕、派手なことをやるでしょう。やっぱり何か、抑えに、島田先生みたいな方がいいんで。小野田[勇]先生の『弁天小僧』[一九七八年七月・明治座]かな。そのときに浜島庄兵衛、出てもらって、それで気が合って、名鉄で僕の芝居とか、例えば中座の芝居をやっているんですけど、「出ていただけますか」と。「ええ、いつでもいいよ」と言ってくださって。本を読んでから出演を決めない島田のおやじが、「与一君のは本も見なくても出るよ」と言ってくださいました。
神山 辰巳さんはね、何か、本気で芝居をやるのは一カ月のうち三日ぐらいという伝説もあります(笑)。
林 「芝居って楽にするのがいいんだな」とおっしゃってました。
神山 また、島田さんは、せりふが出るまで間が長い(笑)。
林 あの間、よく待っているねと言われたけど、僕は平気ですよ。でも僕あるとき、『白野』[一九九一年五月・新橋演舞場]とか『瞼の母』とか、島田さんの一人芝居を見に行ったんですよ。そうしたら、おやじさん、せりふ早いじゃないですか。『白野[弁十郎]』なんかすごい早いんですよ、明瞭で。だからね、島田正吾はあれ[長い間]を形にしたんだなと思った。辰巳さんが早いから。
神山 ああ、そうですかね。
林 だから、ひばりさんのときに家康で半分半分、辰巳、島田がお出になっていて、島田のおやじのときは、せりふを増やして十分延びるんです。辰巳のおやじがやると三十分早くなる(笑)。これ、どうして三十分早くなるのというぐらい、ちょん切っちゃう。
日比野 ちょん切っちゃう(笑)。
林 僕の芝居のときに面白かったのは、[泉鏡花原作『婦系図』より土橋成男脚本・演出「湯島の白梅」(一九七〇年十二月・明治座)の]柏家で、俺を取るか、女を捨てるかというときに、辰巳のおやじが自分のせりふをカットしちゃう。おやじさん、「俺を捨てるか女を捨てるか」、これ[作品の]題材なんです。ちゃんと言ってもらわないと、こちらのせりふも言えなくなっちゃうから。
神山 それはひどいですね。
林 そういう人なの。あと、一回ね、最後に、「おい、お蔦、分かるか、俺だ、早瀬だ」って言うわけ。僕、裏でスタンバイしていて「おやじさん、早瀬は僕です」。そうしたら「名前変えろ」だって(笑)。そうしたら[お蔦役の]朝丘[雪路]さん、ほほほ、ほほほ、って笑っている。そういうこともありました。

毎日が違う勝新太郎との芝居

神山 遠いご親戚ですけど、勝新太郎さんとも数回ご共演があります。
林 舞台は二年続けてやっています。最初が「番町皿屋敷」[『播磨とお菊』一九七五年十月・明治座・昼の部]。甲にしきさんがお菊をやっている。そのときに、寿海さんのところの広田一さんという方、押さえ付けて、俺をだましたかという、あそこのくだりを、そこのところもうちょっと歌ってと言われたことがある。だからやりましたよ。「おばさまは苦手じゃ」。
神山 ああ、寿海さんバリに。
林 「しょせん頭は[挙がらぬわ]」。この芝居に合わないよ、広田さんと言ったけれども、いや、でも、それをやらないと播磨にならないよといって、そういうふうに。そのおばさまは外崎恵美子さん。よかった、これが。
神山 ああ、新国劇の。いいですからね。
林 それが序幕で、二本目が『一本刀土俵入』。辰三郎をやって、「俺は好きなことやるから、花道から懐中電灯でばっとやったら、横でチョンの柝を毎日変えてくれ」なんて言うこともありました。毎日違うことやるの。だから、二人逃げて入ってから、じっと見ていて、チョン。井戸端へ行って、起き上がったやつをもう一回どんとやるというのもあるし、たばこ吸うのもあるし、いろいろな手をやるから、お前のいいときにチョンをしてくれ。こんな疲れることねえやと思って(笑)。それで帰ってくると、今日のチョンはよかったなとかって言う。やること毎日違うから。
神山 そのときは玉緒さんは出ていたんですか。
林 お蔦は草笛光子さんでした。
神山 まあ、勝さんはやっぱり映画の人ですね。
林 だから、昨日しゃべったのと同じせりふを一つでも言ったら一万円罰金(笑)。好きなんですよ、ハプニングが。でもね僕、『一本刀』でこれまで一番は西川鯉三郎だと思います。
神山 鯉三郎さんのお蔦は、僕はテレビで見ました。
林 二番は越路吹雪のお蔦。
神山 僕は映画でしか見てないです、茂兵衛は加東大介ですね。
林 夜の部のもう一本が『三味線一代』[一九七五年十月・明治座・夜の部]。
神山 『三味線一代』、あれはいいや。
林 長唄を譜にしたという人の話ね。それで、向こうが三味線弾きで、僕が長唄歌いで、やろうといって。これもあの人は飽きちゃうから、毎日違うことをやる。三味線持って出てから、おい、お前、今日やったあそこのところ、ちょっと合わせてみろって題材を言わないの、こっちができないものだと思って。えっ、じゃあ、『越後獅子』の「何たら愚痴がえ」のところ合わせますけど……と歌うと「歌えるじゃん、お前」。二年目に、雷蔵さんがやった狂四郎をやらせてもらって[『眠狂四郎無頼控』一九七六年十月・明治座・昼の部]。
神山 最後に、三隅研次監督はご記憶ありますか。
林 三隅さん一番最初は、長谷川一夫の『青葉城の鬼』[一九六二年九月・大映]というのに殿様で出て。
児玉 『樅の木は残った』ですね。
林 それでやりまして、それで、面白い監督だな、この監督はと思ったら、晩年に『鼠小僧次郎吉』[一九六五年四月・大映]に出ました。長谷川が大映を辞める最後、永田社長に、林与一を使ってくれ、ちょうど去年NHKで人気出たから、使ってやってくれと頼んで。一月は長谷川の芝居に出て、二月にあれを撮りに行った。ずっと忙しくて、衣装合わせができなかったんですけど、長谷川が大映へ行って、全部衣装合わせしてくれていたんです。「与一、映画の衣装合わせしておいたよ。あの順番で着るように」と撮影所に行ったら本当に準備してあった。そういうことをやってくれる長谷川ってすごいですよ。
 中座の宣伝写真を撮る時も、こういう衣装で、こういう格好がいいと言って、カメラに向かって、この向き、もうちょっと上向かないと長谷川一夫にならないと指示する。だから、写真を見て長谷川に似ているのは、全部指示通り。舞台でもこう振り返ってこう顔をやるから、これだけの間が芝居になるだろう、これが芝居だよと教えてくれました。うるさかったね、顔の向きには。
児玉 照明にすごくうるさかったと伺いますね。
林 はい。僕がびっくりしたのは、「バミリいらないから、俺は」と言うのね。村主さんといったカメラマンだったか、その人が、ぴったりの位置で止まると驚いていた。歩いてきて、「この照明が目に入ったときに止まればいい」と言う。それで「照明さん、こっちをもうちょっと逃がして」「これ当てて」「そうそう、そこへ当てておいてね」とやるんだから。
児玉 うそか本当か、後ろ[の電気]が一つ切れたと気が付いたという話が残っていますね。
林 そう。だから、撮影していても、ちょっと待って、一つ切れているよと言っていました。
神山 本当の話なんですね。
林 ひばりさんも歌っていて、「トランペット、今日、音が違ったでしょう」と言うんですってね。あれだけのフルバンドで、ペット四本ぐらい入っていても、その一人に言う。それで僕、北島三郎さんにもしゃべったの。ひばりさんってね、今日は右の声帯が悪いから、下は右で歌って、上は左にしようなんて言うんだよって。そうしたら北島さんが「分かるよ、俺もそうだよ。ああ、右使えんなと、左へばーっと移動する」って。歌手の方って楽器だな、と思って。やっぱりすごい人はすごい。信じられない。僕なんか調子悪くてもしょうがない、出ねえや、高い音が、と思うけれども、移動できたらいいのにね。
神山 美空ひばりさん、長谷川一夫さん、そういう天才と一緒にずっと長年ね、お仕事なすったというのは大変な財産ですね。本日は長時間、本当にありがとうございました。