基本データ

取材日:二〇一六年三月一日
取材場所:山海亭 王子
取材者:日比野啓・神山彰・鈴木理映子
取材立会い:木暮恵子(宝田企画)
編集・構成:鈴木理映子
監修:宝田明・木暮恵子

日劇レビューの時代

日比野 宝田先生は、一般の方々の間では、映画スターと思われているかもしれませんが、実は日本のミュージカルの初期からずっと活躍してこられた本当に貴重な舞台俳優でもいらっしゃいます。ですから今日は舞台、特にミュージカルのお話を中心にお聞かせいただければと思っております。
 さっそくですが、宝田先生は、東宝に入社された二年後、一九五六年二月『春のプレリュード』から、日劇レビューに五、六本、続けて出演されています。同じ年の九月、翌年の十二月、一九五八年十二月、一九五八年四月。一九五九年以後はずっと、毎年一月に上演された『新春スター・パレード』に出ていらっしゃる。
宝田 よくお調べですね。私はもう、とっくに、忘却の彼方だった(笑)。一九五四年に東宝に入って、ポンポンと映画に出て。一本目は『かくて自由の鐘は鳴る』[一九五四年六月公開]という福沢諭吉の伝記映画で、私は諭吉が故郷の中津藩に帰ってきたら必ず一刀のもとに切り捨てると心に決めている、増田宗太郎という青年壮士の役でした。この人は実在の人物で、諭吉と議論するうちにすっかり心酔して「自分は間違っていた」と考えを改め、後に西南の役で華々しく亡くなるんです。東宝に入ってすぐでしたから、大抜擢でしたね。
 それで、「お前、芸名はどうするか?」と聞かれたんですが、「そんなの会社の方でお決めになってください」と言ったら、「お前は東宝の“宝”という字を持っているからそのままいけ」と。それで二本目の『水着の花嫁』[一九五四年七月公開]、三本目が『ゴジラ』[一九五四年十一月公開]。そういう感じでポンポン出ているうちに一九五六年ですね、この『春のプレリュード』に出ろということになりました。『新春スター・パレード』は、当時はまだなかったんですね。
日比野 そうですね。当初はさまざまな名前のレヴューに出られていました。日劇レビューへの出演は、会社からの指示だったんでしょうか。
宝田 もちろん、当時私は、出演した映画主題歌も歌っていませんでしたので。僕は何を歌ったのかな。
日比野 ソロは、第三景「春の歩道」のようです。
宝田 「春の歩道」。おそらくその情景にふさわしいジャズを歌ったと思います。もちろんダンサー八名をバックにして。
神山 このころの東宝では、社長は別としても、藤本真澄さんがいちばん偉い人という感じだったんですか。
宝田 そうです。映画の筆頭は藤本さんで、演劇担当は菊田一夫さん。この両雄の上に森岩雄さんがいらして、お二人をうまく使っていました。このときは、『新春スター・パレード』の前身みたいなもので、藤本さんから「お前、歌を歌ってるから出ろ」というようなことで出たんですけれど。
神山 これは三人娘のシリーズ[美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみが共演した『ジャンケン娘』(一九五五年十一月公開)とそれ以降の作品]にお出になるよりも前ですか。
宝田 前ですね。とにかく毎年出ていたんですね。
神山 『罌粟と太陽』全十景[一九五六年九月]です。山本紫朗が構成・演出を担当しています。
宝田 これは面白い。岡田茉莉子や河内桃子が出ている。
神山 河内桃子さんは、私どもからしますと俳優座のイメージしかないんですが、宝田先生とはなんでご一緒だったんですか。
宝田 東宝のニューフェイスの六期で一緒なんです。
神山 それで日劇にも出ているわけですね。
宝田 そうです。私は一次試験から六次まで、半年くらいかけて苦労しながら、「もう落っこちるだろう、落っこちるだろう」と思ってましたが、あくどく生き残って。ところが最終審査にいったら、見慣れない顔の人間が来ている。「君たちはなんですか」と聞いたら、「私は六期生で」というんです。「あなたがた、試験をやってないね」というと「僕らは聴講生です」とぬけぬけ言ったのが岡田眞澄という男。それから藤木悠、そして「私は大河内桃子でございます」と言って出てきたのが、[昭和戦前期に新興財閥の一角を占めた]理研グループ総裁、大河内正敏男爵のお孫さんの河内桃子でした。六期で一次試験から受けていたのは僕だけでしたよ。三次くらいから合流したのに佐原健二という男がいましたが、彼は[雑誌『平凡』が実施していたミスター平凡コンテストで選出された]準・ミスター平凡ということで入ってきた。だからまぁ僕は、「東宝の六期の由緒正しき保守本流は俺だぞ」というようなことを言って威張っていました(笑)。河内桃子は『ゴジラ』にも一緒に出ていますね。そんなことでまぁ、あのころは映画の新人も人気が出たら日劇に出す、というのがありました。東宝には劇場がありましたからね。東映や大映だと、[映画の]劇場挨拶くらいでしょうけども。そういう意味じゃあ、僕は東宝に入ってラッキーだったと思いますね。
神山 当時の日劇というのはどうですか。お客さんは入っていましたか。
宝田 入っていました。舞台の前の銀橋のところにも人がいっぱいでした。最前列と銀橋のあいだがちょっと空いていますね。あそこに二列くらいに並んで立って観ている人たちがいましたから。
神谷 ドアが閉まらないぐらいだったと聞きました。立ち見の人もいっぱいで。
宝田 そうです。
日比野 宝田先生としては、そういったショーに出ることには、当初はあまり乗り気でなかったんでしょうか。
宝田 とにかく映画を年間十本くらいずつ、多い時には十三本、十五本というようなことでしたから。まぁ、乗り気じゃないといっても、会社の命ずるままに「はい、やります」とやらなきゃいけなかったんですがね。レパートリーもあるわけないので、こういったオリジナルの歌を歌わせてもらったりしてたんですね。そのうち、スタンダードナンバーを歌うようにもなりましたが。夏の場面で日劇のダンサーと一緒に南アメリカの南国風の音楽にのせて「ラクカラチャ」と歌うのがありました。歌詞が覚えられないので、麦わら帽子の内側に、マジックもないですから墨で「ラクカラチャ、ラクカラチャ、今宵も踊ろう、ラクカラチャ、ラクカラチャ」と書いて。サビのところかなんかで、うまく帽子を脱いで、ちょっと見ながらやっていました。
日比野 映画の撮影の合間に出演なさってたわけですから、舞台稽古の時間もほとんどなかったのではないですか。
宝田 日劇の上に立派な稽古場がありまして、そこで稽古したんですが、ご他聞にもれず、映画の合間を縫ってやっていましたから。みんなができあがってるところへスッと入っていくような状況でした。ですから後にミュージカルの時にやったような、一ヶ月以上かけて一生懸命に練習はしていなかったですね。稽古は三、四回というところですかね。生バンドですから音合わせには出なきゃいけない。動きについては本番前、初日の前に一回場当たりをするという程度で。
神山 山本紫朗さんの『日劇の思い出』で読んだんですが、あの当時は、ペレス・プラードが全盛でラテンがものすごく流行ったでしょう。それで、なぜラテンがレヴューに向いているかというと、どこで終わってもいいからだというんです。また、伸ばそうと思えば繰り返しでいくらでも伸ばせるし。
宝田 私もね、歌詞を忘れて「ラクカラチャ、ラクカラチャ、ラクカラーチャ。ラクカラチャ、ラクカラチャ、ラクカラチャ」って、全部ラクカラチャって歌ったことがありますよ(笑)。ダンサーたちが笑ってね、もう踊りもめちゃめちゃになっちゃった。振付はね、
県洋二さんだとか、いろんな人がいました。それと、東宝には大阪梅田に北野劇場があって、あそこにも北野ダンシングチームというのがあったんです。それで日劇と入れ替わりでショーをやっていました。正月の日劇の第一週は越路さんが出て、その間僕は北野劇場でやって。第二週は越路さんが大阪、僕と司葉子とか数名が東京日劇に出演しました。
日比野 そのころはまだ新幹線もありませんから。
宝田 そうです。ですからもう、特急で何時間かかったんですかね。
神山 「つばめ」なら八時間から十時間はかかったでしょうね。
宝田 そうです。それも夜行でね。
神山 北野劇場はものすごく大きかったそうですね。その頃のマイクというのは、スタンドマイクだけですか。
宝田 そうなんです。
神山 そうすると歌い方もだいぶ今とは違ったでしょう。
宝田 ええ。それでやっとできたのが、鉄火巻きみたいな太いマイクで、それを女の人は胸の谷間に挟むんですが、変に出っ張ったりなんかして。男は持つか、タキシードの上衣の内側に小袋を作ってそれに入れてました。よくドンッドンッって落っことしました。大阪ではお笑いのダイマルラケットとか、ミヤコ蝶々とか佐々十郎とか大村崑とか、いろんな連中が出てました。
神山 大劇[大阪劇場]にはお出になってないですか。
宝田 出ていません。当時大阪は出演したのは北野劇場で、映画とショーの二本立てでした。その後[一九五六年十一月に]梅田コマ劇場ができて北野劇場のショーはなくなり、全て梅田コマになりました。あの頃にはもう、大阪に僕のファンクラブが誕生しました。田園という大きな喫茶店にファンが大勢集まっているところへ、映画上映の間に顔を出したりしたもんです。メーキャップして、タキシード着たままね。

日比野 宝田先生は、一般の方々の間では、映画スターと思われているかもしれませんが、実は日本のミュージカルの初期からずっと活躍してこられた本当に貴重な舞台俳優でもいらっしゃいます。ですから今日は舞台、特にミュージカルのお話を中心にお聞かせいただければと思っております。
 さっそくですが、宝田先生は、東宝に入社された二年後、一九五六年二月『春のプレリュード』から、日劇レビューに五、六本、続けて出演されています。同じ年の九月、翌年の十二月、一九五八年十二月、一九五八年四月。一九五九年以後はずっと、毎年一月に上演された『新春スター・パレード』に出ていらっしゃる。
宝田 よくお調べですね。私はもう、とっくに、忘却の彼方だった(笑)。一九五四年に東宝に入って、ポンポンと映画に出て。一本目は『かくて自由の鐘は鳴る』[一九五四年六月公開]という福沢諭吉の伝記映画で、私は諭吉が故郷の中津藩に帰ってきたら必ず一刀のもとに切り捨てると心に決めている、増田宗太郎という青年壮士の役でした。この人は実在の人物で、諭吉と議論するうちにすっかり心酔して「自分は間違っていた」と考えを改め、後に西南の役で華々しく亡くなるんです。東宝に入ってすぐでしたから、大抜擢でしたね。
 それで、「お前、芸名はどうするか?」と聞かれたんですが、「そんなの会社の方でお決めになってください」と言ったら、「お前は東宝の“宝”という字を持っているからそのままいけ」と。それで二本目の『水着の花嫁』[一九五四年七月公開]、三本目が『ゴジラ』[一九五四年十一月公開]。そういう感じでポンポン出ているうちに一九五六年ですね、この『春のプレリュード』に出ろということになりました。『新春スター・パレード』は、当時はまだなかったんですね。
日比野 そうですね。当初はさまざまな名前のレヴューに出られていました。日劇レビューへの出演は、会社からの指示だったんでしょうか。
宝田 もちろん、当時私は、出演した映画主題歌も歌っていませんでしたので。僕は何を歌ったのかな。
日比野 ソロは、第三景「春の歩道」のようです。
宝田 「春の歩道」。おそらくその情景にふさわしいジャズを歌ったと思います。もちろんダンサー八名をバックにして。
神山 このころの東宝では、社長は別としても、藤本真澄さんがいちばん偉い人という感じだったんですか。
宝田 そうです。映画の筆頭は藤本さんで、演劇担当は菊田一夫さん。この両雄の上に森岩雄さんがいらして、お二人をうまく使っていました。このときは、『新春スター・パレード』の前身みたいなもので、藤本さんから「お前、歌を歌ってるから出ろ」というようなことで出たんですけれど。
神山 これは三人娘のシリーズ[美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみが共演した『ジャンケン娘』(一九五五年十一月公開)とそれ以降の作品]にお出になるよりも前ですか。
宝田 前ですね。とにかく毎年出ていたんですね。
神山 『罌粟と太陽』全十景[一九五六年九月]です。山本紫朗が構成・演出を担当しています。
宝田 これは面白い。岡田茉莉子や河内桃子が出ている。
神山 河内桃子さんは、私どもからしますと俳優座のイメージしかないんですが、宝田先生とはなんでご一緒だったんですか。
宝田 東宝のニューフェイスの六期で一緒なんです。
神山 それで日劇にも出ているわけですね。
宝田 そうです。私は一次試験から六次まで、半年くらいかけて苦労しながら、「もう落っこちるだろう、落っこちるだろう」と思ってましたが、あくどく生き残って。ところが最終審査にいったら、見慣れない顔の人間が来ている。「君たちはなんですか」と聞いたら、「私は六期生で」というんです。「あなたがた、試験をやってないね」というと「僕らは聴講生です」とぬけぬけ言ったのが岡田眞澄という男。それから藤木悠、そして「私は大河内桃子でございます」と言って出てきたのが、[昭和戦前期に新興財閥の一角を占めた]理研グループ総裁、大河内正敏男爵のお孫さんの河内桃子でした。六期で一次試験から受けていたのは僕だけでしたよ。三次くらいから合流したのに佐原健二という男がいましたが、彼は[雑誌『平凡』が実施していたミスター平凡コンテストで選出された]準・ミスター平凡ということで入ってきた。だからまぁ僕は、「東宝の六期の由緒正しき保守本流は俺だぞ」というようなことを言って威張っていました(笑)。河内桃子は『ゴジラ』にも一緒に出ていますね。そんなことでまぁ、あのころは映画の新人も人気が出たら日劇に出す、というのがありました。東宝には劇場がありましたからね。東映や大映だと、[映画の]劇場挨拶くらいでしょうけども。そういう意味じゃあ、僕は東宝に入ってラッキーだったと思いますね。
神山 当時の日劇というのはどうですか。お客さんは入っていましたか。
宝田 入っていました。舞台の前の銀橋のところにも人がいっぱいでした。最前列と銀橋のあいだがちょっと空いていますね。あそこに二列くらいに並んで立って観ている人たちがいましたから。
神谷 ドアが閉まらないぐらいだったと聞きました。立ち見の人もいっぱいで。
宝田 そうです。
日比野 宝田先生としては、そういったショーに出ることには、当初はあまり乗り気でなかったんでしょうか。
宝田 とにかく映画を年間十本くらいずつ、多い時には十三本、十五本というようなことでしたから。まぁ、乗り気じゃないといっても、会社の命ずるままに「はい、やります」とやらなきゃいけなかったんですがね。レパートリーもあるわけないので、こういったオリジナルの歌を歌わせてもらったりしてたんですね。そのうち、スタンダードナンバーを歌うようにもなりましたが。夏の場面で日劇のダンサーと一緒に南アメリカの南国風の音楽にのせて「ラクカラチャ」と歌うのがありました。歌詞が覚えられないので、麦わら帽子の内側に、マジックもないですから墨で「ラクカラチャ、ラクカラチャ、今宵も踊ろう、ラクカラチャ、ラクカラチャ」と書いて。サビのところかなんかで、うまく帽子を脱いで、ちょっと見ながらやっていました。
日比野 映画の撮影の合間に出演なさってたわけですから、舞台稽古の時間もほとんどなかったのではないですか。
宝田 日劇の上に立派な稽古場がありまして、そこで稽古したんですが、ご他聞にもれず、映画の合間を縫ってやっていましたから。みんなができあがってるところへスッと入っていくような状況でした。ですから後にミュージカルの時にやったような、一ヶ月以上かけて一生懸命に練習はしていなかったですね。稽古は三、四回というところですかね。生バンドですから音合わせには出なきゃいけない。動きについては本番前、初日の前に一回場当たりをするという程度で。
神山 山本紫朗さんの『日劇の思い出』で読んだんですが、あの当時は、ペレス・プラードが全盛でラテンがものすごく流行ったでしょう。それで、なぜラテンがレヴューに向いているかというと、どこで終わってもいいからだというんです。また、伸ばそうと思えば繰り返しでいくらでも伸ばせるし。
宝田 私もね、歌詞を忘れて「ラクカラチャ、ラクカラチャ、ラクカラーチャ。ラクカラチャ、ラクカラチャ、ラクカラチャ」って、全部ラクカラチャって歌ったことがありますよ(笑)。ダンサーたちが笑ってね、もう踊りもめちゃめちゃになっちゃった。振付はね、
県洋二さんだとか、いろんな人がいました。それと、東宝には大阪梅田に北野劇場があって、あそこにも北野ダンシングチームというのがあったんです。それで日劇と入れ替わりでショーをやっていました。正月の日劇の第一週は越路さんが出て、その間僕は北野劇場でやって。第二週は越路さんが大阪、僕と司葉子とか数名が東京日劇に出演しました。
日比野 そのころはまだ新幹線もありませんから。
宝田 そうです。ですからもう、特急で何時間かかったんですかね。
神山 「つばめ」なら八時間から十時間はかかったでしょうね。
宝田 そうです。それも夜行でね。
神山 北野劇場はものすごく大きかったそうですね。その頃のマイクというのは、スタンドマイクだけですか。
宝田 そうなんです。
神山 そうすると歌い方もだいぶ今とは違ったでしょう。
宝田 ええ。それでやっとできたのが、鉄火巻きみたいな太いマイクで、それを女の人は胸の谷間に挟むんですが、変に出っ張ったりなんかして。男は持つか、タキシードの上衣の内側に小袋を作ってそれに入れてました。よくドンッドンッって落っことしました。大阪ではお笑いのダイマルラケットとか、ミヤコ蝶々とか佐々十郎とか大村崑とか、いろんな連中が出てました。
神山 大劇[大阪劇場]にはお出になってないですか。
宝田 出ていません。当時大阪は出演したのは北野劇場で、映画とショーの二本立てでした。その後[一九五六年十一月に]梅田コマ劇場ができて北野劇場のショーはなくなり、全て梅田コマになりました。あの頃にはもう、大阪に僕のファンクラブが誕生しました。田園という大きな喫茶店にファンが大勢集まっているところへ、映画上映の間に顔を出したりしたもんです。メーキャップして、タキシード着たままね。

歌うスターからミュージカル俳優へ

日比野 ミュージカルに出演されるのは『アニーよ銃をとれ』[一九六四年十一月・新宿コマ劇場]が最初ですね。
宝田 私はすでに、いろいろな映画に出ましてね。ひばり、チエミ、いづみの三人娘の青春モノもよくやっておりました。そのうちにチエミが「お兄ちゃん、ミュージカルの時代がくるから、ぜひ一緒にやってくれない」というんです。ただ僕は、映画のことばかり考えていて、ミュージカルにはあんまり興味がなかった。「あぁ、そう」なんていううちに、東宝の藤本真澄から「おい、お前。草笛光子とアメリカと南米に行ってショーをやれ」と言われたんです。南米のサンパウロでも東宝の映画はやっていまして、そっちでも私は大変人気がありました。ペルーでもブラジルでも、人気投票では、宝田明、三船敏郎、鶴田浩二、この三人がいつも上位三席を争っていました。まずはハワイの日本劇場で一週間、そしてロスのラ・ブレア・シアターで一週間、ニューヨークでも、そして南米のサンパウロ、シネ・ジョイアで一週間、更にペルーのリマでも一週間という強行日程でした。「宝田明映画祭」といって、宝田が主演の映画を七本持っていって、地元のお客さんに今日は何がいいかと聞くんです。それで七本を取っ替え引っ替えしながら約四十分位のショーもやる。僕はジャズを歌ったり、あとは「黒田節」。大盃や槍を持ってね。衣装も鬘も全部持っていきましたので草笛光子に「コレかぶせて」なんていわれるままに手伝ったりもしました。小さな楽屋で着替えていましたから、向こうも肌着みたいな格好で、「こっち見ないで」なんていわれましたよ。
 それで、この旅の途中、ニューヨークにいたときに、「あなた、これからミュージカルの時代になるから、観に行きましょうよ」と草笛に誘われたんですね。僕は夕方になったら酒を飲みたくてしょうがない。だから最初は「いいよ、あんただけで観ておいでよ」といったけど「観なきゃだめよ」と連れていかれまして。それが『マイ・フェア・レディ』[ブロードウェイ初演・一九五六年三月]で、僕にとってはそれが初めてのブロードウェイ・ミュージカル体験になりました。劇場へ行く途中で今は亡き黛敏郎さんに会って、「これから『マイ・フェア・レディ』に行くんです」というと、「あれは勉強になるから」と言われましたね。ただ、英語のセリフが理解できず、観てはいたのですが、酒も入ってたので、つい途中でひょいと居眠りしちゃった。そうしたら「あんた、寝ちゃだめじゃないの、いいとこなのに」と草笛にキュッキュキュッキュと膝をつねられて。だから記憶がハッキリしないところもあるんです。でもまさか、それをやることになるとは思いませんでした。
日比野 それはそうですね。とはいえ『アニーよ、銃をとれ』に宝田先生が起用されたのも、そういったショーの経験も含め、歌や踊りでは、他のスターと比べても一段上だったということが大きいと思います。
宝田 松竹で歌うスターといえば鶴田浩二がいたけれど、東宝では歌うスターというのは私が初めてでしたね。映画に出はじめの頃、藤本真澄から地方の劇場へ挨拶に行けといわれたんです。でも、そこへ行ってただ「宝田でございます。どうぞよろしく」とスクリーンの前で挨拶するのは、僕は嫌でしょうがなかった。それで、私は、「地元の流しでアコーディオン弾きでも、ギター一本でもいいから伴奏に呼んで歌わせてください。ジャズでも歌謡曲でもなんでもやりますから」といって、歌わせてもらったんです。そうしましたら今度は、地方の館主さんから「宝田、歌うじゃないか」という情報が藤本さんの方にどんどん集まってくる。「だったら映画で歌え」ということになり[一九五七年三月公開の]『美貌の都』で主題歌を歌い、次いで『青い山脈』も、というようなことになった。それをきっかけにコロンビアレコードからポンポン出していくというような状況でした。そういう中から、ちょうど映画に出始めて十年後の昭和三十九年にチエミが「お兄ちゃん、今度『アニーよ、銃をとれ』というのをやるから、ぜひ一緒にやろう」といってきた。これも菊田一夫さんから、藤本さんに「宝田君を長期間貸してくれ」というような話が来たんだそうですが。僕としては、会社のお達しでもあるし、両専務のお話なので、「わかりました。よし、やろう」と。当時、チエミも僕も死ぬほど酒は飲んでいましたので、二人とも断酒はできなかったけれど節酒をして、ボイストレーニングや肉体訓練に励もうと、相当稽古しました。僕はだいたいハイバリからちょっと低いテナーぐらいの音域まで出るので、アメリカの大きなミュージカルの主役がやる音域にはだいたい達していたと思います。それで[映画『アニーよ銃をとれ』の主演だった]ベティ・ハットンとハーワード・キールという大歌手を参考にしながら、英語の歌詞を日本語に訳したものをなんとか違和感なく表現しようと努力をしました。
日比野 以前、宝田先生は、この作品で芝居というものへの見方が変わったとお書きになっていました。
宝田 初めてのミュージカルだったんですが、これがもう、たまらなく快感を覚えました。大きな新宿コマ劇場で、オーケスラをバックに精一杯歌うわけでしょう。それも毎日、生のお客さんを前にして。フィナーレでどん帳が何回も上がったり下がったりして、なかなか幕を下ろさせてくれないというあの快感は、映画では経験したことが全くなかったですから。映画だったら、どうしたって、出来上がってから、一カ月半か二カ月後に上映されるわけで、なかなか反応はわかりませんからね。とっても新鮮な新しい世界が目の前に開けた気がしました。初の映画出演から十年目、九十六本の映画出演後に訪れた、新しい俳優人生の始まりでした。
日比野 ただ、日劇のショーではもう、そういった観客の反応を体験されていたのではないですか。
宝田 あれはショーですから。一景ごとに物語が重なって構成されていますが、ミュージカルの場合は、三幕約三時間、楽屋に引っ込んでいてもその気持ちを維持しながら、一つの役を演じなければなりませんね。とにかく舞台のことでは赤子のようなもので、たとえば、記者招待をする「御社日(おしゃび)」なんていうのも知らなかった。だからと言って、その日に特別な芝居をするわけではないんですよ。僕はただ、稽古場でうんと練習して、その役を自分のものにし、それを信じて本番をベストにするようやり抜くことしか考えていませんでした。その後、この年の暮れに当時の文部省から連絡がありました。芸術祭の奨励賞でした。翌年の一月に虎ノ門会館というところで授賞式があって。壇上に愛知揆一文部大臣がいて、賞状をいただくためにそこへ上がっていくんですが、自分の椅子から七、八メートルしかないのに、えらく遠く感じましてね。『ノンちゃん雲に乗る』じゃないけど、フワンフワンと足が宙に浮くんです。低血圧でふらつくような感じ。あの時初めて、「こんな賞をいただくんだ」という実感を、コマ劇場で所狭しと駆け回ってやっていたのとは違う感慨を味わいました。
日比野 当時の観客の年齢層はどうでしたか。やはり若い人が中心だったんですか。
宝田 当時はわりとそうでしたが、年配の方も多かったです。
日比野 簡単に分けることは難しいと思いますが、やはり作品よりも「宝田明」「江利チエミ」という名前に惹きつけられてくるお客さんが多かったんでしょうか。
宝田 そうでしょうね。自分でいうのもおかしいんですが、映画の人気もあって、ファンの方は大勢いましたから。ただ、まさか映画俳優がミュージカルをやるとは思っていなかった人もいたようですね、ハッキリ言って。記者招待の日に、戸板康二だとか映画評論家の小森和子だとか、いろんな人が楽屋に来て「宝田さん、おめでとう。よく頑張ってやりましたね」と言ってくださるんです。ところが実に奇妙な質問がありました。「宝田君、あれは本当に君の声で歌っているの」と聞く人がいたんです。つまり、誰か他の人が歌っているのを私が口パクでやっていると思われていたんですね。はっきり言ってちょっとムカッとしました。ずっとあとになって、僕より十とか十五歳下の沢木[順])とか青山[明]みたいに劇団四季でやっていた連中も、あれは口パクでやっていると思っていたと聞いて驚きました。ともかく『アニーよ、銃をとれ』はとても大きな、いい経験になりました。だから僕は、チエミと菊田一夫さんには足を向けて寝られない。私というものを触発してくれた、本当に大きな存在です。
日比野 宝田先生の起用は、菊田一夫さんの命によるものですか。それとも江利チエミさんの希望が強かったのでしょうか。
宝田 はっきりとはわかりませんけど、おそらくチエミと菊田さんで、相手役をどうしようと相談したときに、「先生、宝田明でやりましょうよ」とチエミが言ったんでしょう。その推薦が菊田さんを動かし、藤本さんに頼んだという経緯じゃないかと思います。
神山 ミュージカルでの菊田一夫演出にはどんな印象をお持ちですか。
宝田 私は演劇部出身の役者じゃないし、映画の若手でしたから。特に厳しく指導されたということはなく、「頑張って」というような感じでしたね。ニコニコしていて、「宝田くんもこれを一つの踏み台として、もっとボイストレーニングをやってください」なんて、本当に優しく指導してくれました。
神山 稽古場で灰皿を投げつけるとか、そういう伝説もありますが。
宝田 私は一回も見たことないし、私に対しては全然そんなことはない。心優しき指導者でした。その証拠に、その後もシェイクスピアの『じゃじゃ馬馴らし』をベースにしたコール・ポーター作曲の傑作『キス・ミー・ケイト』[一九六六年二月・東京宝塚劇場]だとか難しい歌がうんとある作品に出していただいていますが、菊田先生の厳しい指導風景は目にしたことはありませんでした。最初から、ある高さのハードルを課され、それを一応クリアした。で、その次はもうすこし高いハードルを用意していただいたとのかなと思っていました。映画もやらなきゃいけない上に、どんどんと大きなミュージカルの主役をさせていただいて、最初から恵まれすぎた歩みをしてきましたから、それには応えなきゃいけません。それが私の立場でもあり、義務でもありますしね。ですから、舞台の仕事に関しては、映画とはまた違った意味で全力を傾けました。

ミュージカルの「日本語」づくり

神山 『アニーよ銃をとれ』のプログラムを見ますと、倉橋健の訳詞、中村メイコの詞と出ていますね。
宝田 はい。中村メイコと御主人の神津善行が音楽監督、僕とチエミの四人で「ここをこう変えよう」「いや、おかしいよ」なんてやったんです。オリジナルそのままというんじゃなくて、ここは一拍休んだ方がいいとか、オケもブレイクさせようとか、技術的なことにもグッと入りながら、どうすれば日本の観客に理解され聴きやすいかを考えました。この経験は以後ずっと私の気持ちの底辺にありましてね。つまり、日本語と英語の壁をどうするか、楽譜の中にどう日本語をはめていったらいいか。倉橋健さんなんかも書いていらっしゃいますけど、どうも音と日本語のアクセントがうまく合わないんです。とってつけたようになっちゃう。『キス・ミー・ケイト』でも、稽古ピアノをやる滝弘太郎と一緒になって、歌詞のフレーズを変えたりしました。作詞家にオリジナリティがあるというのは百も承知ですが、歌うのは俺で、お客様は日本人だ。生意気ですけど、そう思いましてね。机の上で譜面に歌詞を書き込むのと、実際に歌う立場とは違いますから。「雨」はアクセントを「あ」のほうにおいて歌いたいし。最初のうちは遠慮しいしいやってたんですが、歌詞がお客様に伝わらなければ意味がないとの考えから、そのうちどんどん歌詞を変更してやるようになりました。『マイ・フェア・レディ』なんかもずいぶん私が変えましたけどね。それでできた歌詞が今も使われているようです。やっぱり稽古場で、役者が歌っているところで、あるいは動きに合わせて、つくらなきゃいけません。リチャード・ロジャースやハマースタイン・ジュニアだって、みんな稽古場で音をつくっていった。ところが日本の場合、作曲家や作詞家が稽古場になかなか来ない。これが不思議でしょうがなかったんですよね。
日比野 みなさん来ないんですか。
宝田 ええ。渡したら渡しっぱなしで。岩谷時子さんはわりと来てくださいましたけど。
神山 菊田一夫さんが演出なさるのは、芝居のところだけですか。
宝田 そうですね。いざ立ち稽古になったときに菊田さんが入ってくるんです。歌の方はそれ以前に完璧にしておきました。ですから、菊田さんは歌には触らなかったですね。
日比野 菊田一夫は、音楽を解さなかったという説もあるようです。
宝田 そうですか。だからあんまり稽古場に来なかったのかな。
日比野 菊田一夫演出では一九七〇年五月に『マイ・フェア・レディ』[帝国劇場]もおやりになっています。
宝田 先ほど申し上げたように、まさか自分がやるとは思わずにニューヨークで半分眠りながらですが、見てはいました。でも自分が演じるとなると、映画版のレックス・ハリソンの歌いぶりが気に入りまして。「歌は語れ、台詞は歌え」といいますけども、あの人の音の中に乗って語る見事な歌唱を、何度も聞いて勉強させてもらいました。ですから私なりに、プロフェッサー・ヒギンズを演じきったと自負しています。東宝の森岩雄社長が観に来られて終演後楽屋にいらっしゃり、大変褒められて金一封をいただきました。
神山 宝田先生の二回目の『マイ・フェア・レディ』[一九七八年六月・東京宝塚劇場]では、曾我廼家鶴蝶さんのヒギンズ夫人がものすごくよかったのを覚えています。松竹新喜劇の方だから、宝田さんの演技とはタイプが違うんですけど、なんともいえない魅力がありました。
宝田 いや、実は一九七六年十一月にも文化庁移動芸術祭で全国二十箇所で公演をやりました。この時のイライザは雪村いづみでした。だから東京宝塚劇場の『マイ・フェア・レディ』は三回目。
神山 それは失礼しました。
宝田 でも、鶴蝶さんのような達者な人の芝居をみるのは、やっぱり楽しみですね。
日比野 当時の日本の観客にとって、アメリカのミュージカルというのは、まだ馴染みの薄いものでしたよね。お客さんの反応はどういうものだったんでしょう。レビューをやっていた時の熱狂ぶりと比べてどうでしたか。
宝田 確かにカタカナのミュージカル作品といっても、理解されにくかったですね。しかし人間の感情の喜怒哀楽は彼我ともに変わりませんからね。歌舞伎だって音入りだから、立派なミュージカルです。昔はエノケンさんの『ちゃっきり金太』とか宮城千賀子さんの『狸御殿』のようなシネミュージカルもありました。だから日本人の心の中でも違和感はなかったと思いますね。今は、ミュージカル全盛期、高いロイヤリティ(日本上演権料)を払っていますが、日本初のミュージカルが、評価され、世界で上演される日が来るのを祈っています。

成瀬巳喜男に絞られる

神山 一九六五年に新しい帝国劇場[第三次・現帝劇]が完成しますね。それで宝田さんは、帝劇にもお出になります。この劇場の完成の前後の菊田一夫の様子はどうでしたか。何か変化はありましたか。
宝田 東宝は、それまでは宝塚劇場[東京宝塚劇場]でやっていましたね。『キス・ミー・ケイト』もそうでした。菊田先生の夢は帝劇をリニューアルして、世界のどこでもやっていない『風と共に去りぬ』(一九六六年十一月)を上演することでした。だから、ああいう大きな作品をやるのにもってこいの世界に類のない大きな劇場を造ったわけです。『風と共に去りぬ』では、本物の馬を舞台に乗っけたんです。北軍の猛攻にも燃え盛るアトランタを脱出して故郷のタラへ向かうシーンです。東京都日野市に住んでいる方の農耕馬を訓練して、スクリーンが動いている間はパカパカ舞台上で足踏みして、それが止まったらバーッと走るというのを教え込んだんです。
日比野 それは菊田さんのアイデアですか。
宝田 そうですね。毎朝訓練して、ステージの上で粗相をしないようにたっぷり汗をかかせ、糞もさせたところで楽屋入り。帝劇の楽屋入りもにぎやかでしたよ。「これがあの舞台に出てる名馬ジュラク号だ」といって、スターさんが入るみたいにファンが集まる。私も第一部、第二部、そして前後編あわせて何カ月と出演していましたから、ジュラクの方も私の声と匂いをちゃんと知っている。馬というのは甘い物を好むんですよ。だから私は角砂糖をバリバリと噛み砕き、口に水を含んで、馬の口を開けて、ブーっと吹きかけてやるんです、甘くておいしいんでしょうね。いよいよメラニーを乗せてタラを脱出する場面で、舞台の裏で待っていたジュラク号と馬車が表に出てくるんですけど、私が来るのを待って、早く来てくれ、というふうにひずめで床をかくんです。トントン、トントンと。私が行って、ニンジンをやってブーっと砂糖水を吹きかけるとおとなしくなる。ぐるっと盆が回って表舞台に出ていく。そこでジュラク号とスクリーンプロセスの名場面が展開されるわけです。「お手」もできるんですよ。馬がそれをするようになるのは大変なことです。その後、ジュラクがどうしているか訪ねていくというテレビの取材があって、日野市まで行って、遠くから馬小屋に向かって「ジュラク〜」と呼んだら、田んぼ道をパカパカっと走ってきて、大きな体をぶつけて来るんですよ。可愛かったですよ。ジュラクは四月二十九日生まれで、僕と同じ誕生日なんですよ。
日比野 『風と共に去りぬ』もそうですが、この時期に宝田先生がミュージカルではない演劇に出演されるようになったのは、ご自身の希望だったんでしょうか。
宝田 そうですね。舞台では、吐く息、吸う息を同じ場でお客さんに生で感じてもらえるわけです。フィルムで撮って、現像所に出して、それをお客さんに見せるんじゃなく、より時間と空間と共有したいという気持ちで、ミュージカルでなくともストレートプレイもやりたい、というふうには思っていました。
神山 これはちょっとうがった考え方かもしれませんが、同じころ映画では、成瀬巳喜男監督の作品に出演されますね。それまでよく出られていた娯楽映画とは違って、成瀬さんの映画はいわゆる文芸作品という感じでしょう。その影響はなかったですか。
宝田 そうですね。私は結局、成瀬先生の映画は六本やっております。中でも「宝田君、なるべく抑えて、そのままでいいよ。普通にやってちょうだい」というのが、成瀬さんの僕に対するアドバイスでした。僕は演劇をやっていたせいか、表現がちょっとオーバーな芝居をすることがありました。でも映画ではレンズがお客の目ですから、目だけの芝居、顔だけの芝居を要求されることもあります。しかも「マイクもカメラも近くに来るんだから、大げさな芝居の必要はない」とつねに言われるわけです。
 成瀬さんの映画では、高峰秀子さんとか原節子さん、森雅之とか、いろいろな名優さんたちと一緒にお芝居できたので「この人はアップになるとこうするのか」などと、勉強にもなりました。もともとわれわれは東宝の演劇研究所で「お前らは映画の役者になるんだから」と、二十五ミリだ、五十ミリとキャメラのレンズのタマ[の種類]の勉強と、それにともなってとフレームをつねに頭に入れて芝居するように勉強してきました。そのフレームのどこに自分が位置しているか、そこを外れて芝居しちゃいけない。たとえば伊丹十三だったら、五十ミリなんて深い焦点深度のレンズで撮りますから。みんな顔を近づけてグッと芝居をする。そうしますと奥行きのある映像ができると。これはとても役に立ちましてね。監督が「宝田君、よくフレームが分かるね」というので、「そういう勉強をさせていただいたからなんです」って。
 成瀬監督と演技のことで特にお聞きいただきたいのは、映画の『放浪記』[一九六二年九月公開]のことです。妻の林芙美子が苦労して原稿を書きながら、なかなか売れない。僕も全然売れない三番目の夫の役でした。四畳半くらいの部屋でみかん箱をひっくり返して原稿を書きなぐっていると、女房の芙美子役の高峰秀子が、同人雑誌に原稿が売れたというんで、夕食のおかずにがんもどきを買って帰ってくる。土間からあがって、ちゃぶ台にそれを置くと、僕がふっと芙美子を睨むという場面がありました。
 この映画は成瀬さんとの五本目。場所は大阪宝塚市にある、宝塚撮影所。撮影も半ばすぎ。いつもは「宝田君、いいよ、いいよ。面白いよ」って笑ってた成瀬さんが、朝から始まったそのカットで「宝田君、違うよ」というんです。五、六回までは、一緒にマイクや照明のテストもするんですけど、それで本番になってもまた「違うよ」の連続。たとえば台詞がうんとあって二日酔いでろれつが回らないとか、忘れちゃってというならまた別ですけどね。とにかく台詞は一言もない。ここまで撮影が進んできて何を言うんだろう。これはきっと奥さんと喧嘩して、その腹いせが俺の方に回ってきたんだと思うくらい、まぁ、ダメでした。午前中ダメ、午後の一時からずっとテストをやってもダメ。そのうちライトを一つしか点けてくれなかったりする。その日は五時にサイレンが鳴って中止になりましたが、宿に帰っても飯も喉を通らない。
 翌日、九時に支度をしてテストをはじめても、やっぱりライトは一つで、本番のために動く気配もない。カメラは私のほうを向いている。高峰さんだって、何十回も後ろ姿で芝居させられているんです。で、私もたまりかねて「高峰さん、僕、どうも分からないんだけど教えていただけませんか」と言ったんです。そうしたら「宝田君、私は分かってるけどね、もったいなくて教えてやんないよ」と。「この野郎」と、思わず右手が出かかるくらいムカッとしましてね。なんて底意地の悪い。これまで五本も一緒にやってきて、そのくらい教えたっていいだろうと思いました。「もうこんなにケツの穴の小さい世界ならやめちゃおう。満州から苦労して帰ってきて、死に物狂いで役者になったけど、もういい」と、ムカムカ来つつも「先生、一回、一回だけ回していただけませんか」と監督に頼みました。不承不承ライトが点いて「行こうか」と。それで「よーい、スタート」で、高峰さんががんもどきをちゃぶ台に置いたのをじぃーっと睨みつけたら、「カット。宝田君、それでいいんだ」って(笑)。
 僕はいまだにその場面を見直しても、どこがどう違ったのかが分からないんです。おそらく、女房のやつが生意気に、亭主を差し置いて原稿料が入って、「何ががんもどき三つだ、この野郎」と、まあ、売れない文士は思ったのかもしれません。その眼光というか、力が出ていなかったのか。それと同時に個人的に「この野郎、高峰秀子」と思ったのがうまく出たのかもしれません
日比野 上手だったのかもしれませんね。そこまで計算して高峰さんがおっしゃったとすれば。
宝田 まあ、うまいカンフル剤を与えてもらったと思ってね。今から十五、六年前かな、久しぶりに高峰さんから、「おたかさん、元気」と電話がありました。「どうしました」というと、「私ね、随筆を書いてもう七冊目ぐらいになるんだけどさ。あなた、『放浪記』でうんと苦労したでしょう。あのシーンを一章書いて、もう原稿を出稿済みなんだけど、できあがったらあなたんとこ送るから読んでね」というんです。ですから「よく、お電話いただきました。私はあの時、高峰さん、あんたを殴ろうと思いました」と。「そうでしょうね、私、生意気な女優って言われ続けていたからね」。「その後よく考えまして、あれは自分で考えてくぐり抜けなくてはできなかった愛のムチだと思ってます。脳天からつま先まで太い串となって、僕を支えてくれています。あの言葉を忘れていないし、感謝しているんです」と伝えると、「あんたそこまで思ってくれてたの。ありがとう」と電話口で泣いてました。
 『放浪記』という作品も最高に褒められましたし、振り返れば、今日、一日半も粘ってくれる監督なんてどこにもいないです。一人で苦しまなきゃ、ワンステップも上がれないだろうと突き放してくれる先輩もどこにもいませんよ。ですから私は映画でも貴重な経験をしたと思います。三船敏郎をはじめとする黒澤一家は、新劇の俳優も含め、全員が黒澤さんにぐったりするまで絞られているけど、僕は成瀬さんに後にも先にも一回だけでした。でもその一回が血となり肉となり、他の追従を許さない貴重な経験となっているのです。今は恋しくも、懐かしくも思います。

『ファンタスティックス』開幕!

日比野 舞台でもさまざまな演出家とお仕事されていますね。どなたか特に印象に残っている方はいるでしょうか。
宝田 そうですね。確かに映画と同時に、舞台でも菊田さんをはじめ、たくさんの演出家の方との出会いがありました。
日比野 たとえば松浦竹夫さんは。
宝田 あの人も飲んべえでね。大いに飲みながら語り明かしたもんです。風貌からしても、古武士を思い出させるような、ちょっと侍的な感じがありまして。僕は自分の兄貴だというぐらいの気持ちで慕っていました。もう亡くなられたんですよね。いい男でした。松浦さんとの出会いは『サウンド・オブ・ミュージック』[一九六八年九月・梅田コマ劇場]です。彼はちょうどその頃[文学座から劇団NLTを経て]浪漫劇場[結成は同年四月]の代表になったばかりだった。商業演劇やミュージカルの演出はさかんに手がけていましたけれどね。僕はこの舞台ではじめて越路吹雪さんと共演しました。僕がフォン・トラップ大佐で、越路さんはちょっとトウのたったマリアでしたが、一生懸命かわいらしくやってらっしゃいました。松浦さんの演出も東宝の方とはまた違った意味で、しっかりしていましたね。
 それから『ファンタスティックス』[一九七一年四月・渋谷ジァン・ジァン]では演出家・中村哮夫との運命的な出会いがありました。彼は昔、東宝の助監督をやっていたんですが一度も本編を撮ることなく演劇部に異動になった。
 実はこの作品、昭和四十二年[一九六七年]だったか、新婚旅行でニューヨークに行ったときに、「宝田さん、面白いのがあるから観てくれよ」と東宝の支社の連中が言うので、オフ・ブロードウェイの小さな劇場、サリバン・ストリート・プレイハウスに観に行ったんです。百二十人くらい入るところで、幕が一つ垂れ下がっているだけ。ちょうど[馬と共演した]『風と共に去りぬ』の後だったので、「こんな馬小屋みたいに薄暗いところで何をやってるんだろう、これはもう酒でも飲まなきゃ」と思いつつ、一杯ひっかけ、最前列で足を組んで座ってた。そしたら音楽が始まって。
 ピアノとハープだけで、「なんだ、これがミュージカルか?」と思っていると、ルイザという主役の女の子が出てきて、正面でくるっと回ったときに僕の足にひっかかって、スッテンとひっくり返ったんですよ。“Oh I’m sorry. I’m very sorry”と私が立ち上がったら、出演者のみんなが音楽も芝居も一時はストップして“Don’t worry. Don’t worry”と言ってくれたんです。なんてこのカンパニーの人は優しくて、私の気持ちを癒してくれるんだろうと。突然のアクシデントに芝居をストップして対応するんです。一瞬そこで「ああ、そうか。私が今まではやってきたものとは違うな」と思いました。ピアノとハープが醸し出す音楽が素晴らしいし、[一九六五年にフォーク・グループのブラザーズ・フォアなどが歌って日本でもすでに有名になっていた]「トライ・トゥ・リメンバー」がいきなり歌われて、おい、この曲がこのミュージカルの主題歌だったのかとびっくりした。出演者八人のアンサンブルが見事で、子を持つ親の愛情、愛し合う二人の子供から見た親への感情、世界中のどこにでも起こりうるストーリーにすっかり酔いしれました。
 「こんな心温まる演劇を日本でも」と思っていたところに、東宝の佐藤勉[プロデューサー]が芸術座でやるというので「これをやるんなら、あの主役のエル・ガヨという役は僕にやらせてください。僕でなければダメなんだ」と頼みました。でも、菊田さんも、藤本さんも「お前、帝国劇場であんな大きな舞台で、大勢の客の前でやっているのに、今さら小さなところでやることはないじゃないか」と反対されまして。「あれは役者として勉強になります。大きな舞台ばかりで、僕の芝居は大きくなりすぎた。だからお客さんの厳しい目線、常にアップで見られているなかで、自分の呼吸さえ感じてもらえるような小さな劇場で演技の鍛錬をしたい、その感覚を味わいたいんです」といったんですけどね。他の仕事の予定もあって、結局[日本初演となった]芸術座公演[一九六七年七月]には出られませんでした。
日比野 そこで、一九七一年の四月にアトリエ四一という制作会社で。
宝田 ええ。代表の松江陽一という、東宝の助監督をやってた男と、中村哮夫と僕と、三人で「やろう」ということになりまして、東宝にも許可をとりました。それから渋谷のパルコの並びの山手教会の地下に、ジァン・ジァンという喫茶店があって、そこの代表の高嶋進に話して、「ここを劇場スタイルにしよう」と説得した。狭くてもいいからと、客席を百五十席つくらせました。これでジァン・ジァンは小劇場として認知されたのです。初日、二日目は、二、三十人しか入らない。「ははぁ……」と思ってたんですが、三、四日目くらいになると、始まる前に中村がやってきて、「丸井の方までずっとお客が並んでいる、入りきらないくらい」。私が「中村、いれちゃえよ」と言ったら「いや、消防署が」という。「消防署なんてきたら俺も一緒に捕まるから」。その内また知らせがきて、表でジァン・ジァンに入るのに客同士がじゃんけんをやってるって。それで私が「入れろ、入れろ」って通路もいっぱいにし、客席から一段あがったステージのところにも客を座らせて、その狭い空間で芝居する。演じながらお客さんに「ちょっと、どいてくださいね」と話しかけるんです。
日比野 『ファンタスティックス』の再演は、誰かが話を持ってきたのではなく、中村さんと宝田さん、松江さんの三人で「やろう」と決めたんですね。東宝とはどんなふうに話をつけたんでしょうか。
宝田 私はあくまでも東宝専属契約者ですから、僕は東宝に、中村は演劇部におうかがいをたてました。それでも佐藤勉は「宝田君、レット・バトラーをやっている君が出ることないじゃないの」と言いましたね。「いや、あれはやらせていただきます、是非お願いします」と答えましたけど。藤本さんからも文句が出ました「お前、映画をやるんだよ。やっと身体が空いたと思ったら、またそんなんじゃ困るよ」と。ところが、いざ幕が開いたら、東宝の人たちも観にきて賛辞を送ってくれました。藤本さんも撮影所の重役会議かなにかで「おい、宝田はここまでやっているぞ」と言ってくださったそうです。私は四十代の半ば、今のちょうど半分の歳でしたけど、若さというか、実に意識も高く、それまで映画や舞台で培ったものが、身体の中から湧き出てくるような充実していく過程であったと思います。それが蓄積された私の財産だと思います。
神山 ジァン・ジァンの支配人の高嶋進さんは、東宝とはもちろん、演劇界とつながりのある方じゃないですよね。よく説得されましたね。
宝田 大変でした。静かな雰囲気の中でお茶を飲み、語り合う場所も必要でしょうが、演劇をやることで新しい文化の灯が生まれ、多くの人が出入りするようになる。この狭い空間でいいから、百五十席入る小劇場を作りましょうよと、説得したんです。その後、色々な作品が演じられてきました。中村伸郎さんの『授業』、それから津軽三味線の高橋竹山。ジァン・ジァンは、小劇場のはしりのような存在だったと思います。その先鞭は私たちと作品『ファンタスティックス』がつけたのです。
神山 『ファンタスティックス』は、オフの作品でしたよね。
宝田 一九六〇年にサリバン・ストリート・プレイハウスという劇場でオープン、そのうちファンタスティックス・シアターというようになりました。それから、ニューヨークのコッチという頭のはげた市長が、この作品が大好きで、何度も観ていて、劇場の前の通りを「ファンタスティックス・アヴェニュー」と名づけてくれた程です。トム・ジョーンズとハーヴェイ・シュミットが大学時代にキャンパスでつくって上演、その後プロデューサーのロア・ノートに認められてオフ・ブロードウェイに行って、以来長く上演されていますけど、シンプル・イズ・ベストというかビューティフルというか、あれだけ余分な肉を削ぎとり、写実的なものをのぞいて表現できるんですから、作・演出家のトム・ジョーンズは本当に上手だと思います。フォーティーセカンドストリートに進出したファンタスティックス・シアターには、われわれの公演のチラシも燦然と飾られています。
日比野 『ファンタスティックス』の上演でも日本語の歌詞の問題はありましたか。「トライ・トゥ・リメンバー」なんて、とてもうまく訳されていますよね。
宝田 翻訳は渡辺浩子さんで、訳詞は小池一子さんでした。多少の手直しはありましたけども、とてもいい歌詞で。二〇一二年に上演したときも、「僕はもう触るところはありませんから、そのままいきます」と小池さんにお話ししたら「そうしてください」と。いろいろな人が、全然違う歌詞でやっていますけど、違和感を感じることが多いですね。小池さんも「私もほかのを観にいくけど、どうも気持ち悪いよ」といっていました(笑)。やっぱり小池一子がいちばんいい。この前横浜の方の大学で『ファンタスティックス』を上演したんです。その時には頼まれて、渡辺浩子さんの事務を引き継いでいる方と小池さんを紹介して、あの台本と歌詞でやれるようにしてあげたんですけどね。
日比野 小池さんは稽古場にもいらっしゃったんですね。
宝田 ええ。でも、小池さんの歌詞は見事でしたから。僕らは、ほんのちょっと「ここをこうしましょう」と手直しをお願いしたくらいです。
神山 当時は、ミュージカルといえば、飾り込んだ舞台で豪華な衣装でやるものという印象がありましたから、『ファンタスティックス』は本当に画期的でした。今だって珍しいと思います。

さまざまなテイストを味わって……

神山 『ファンタスティックス』以後は『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』[一九八四年八月/同年十二月/八七年十月/九一年十二月・博品館劇場]や『ビッグ・リバー』[一九八八年三月・青山劇場ほか]だとか、東宝製作ではないミュージカルにもずいぶんお出になりますね。つくり方に違いを感じられましたか。
宝田 そうですね。東宝はもともと映画が中心ですから、歌舞伎でやってきた松竹に比べると演劇的には歴史が浅いですし、本当の意味での劇場、演劇的なものに対して、少し近代的すぎるところがあったと思います。
神山 これは偏見かもしれませんが、松岡辰郎社長自身が、映画の方が好きだったということもあるかもしれませんね。その後息子さんの松岡功さんに引き継がれても、あんまり芝居が好きって感じではない。
宝田 帝劇ができて東宝は高麗屋一門を招いて東宝歌舞伎を立ち上げたんですが、松竹みたいに歌舞伎のスタッフが少なく、そういう土壌じゃないんですよね。ですから結局、染五郎[現・松本幸四郎]くんだけになってしまった。
神山 市川染五郎さんとは、日劇でも共演なさっていますね。
宝田 日劇レビューでご一緒でしたか。よく覚えていなくて。
日比野 場面が違うからですね、きっと。
宝田 『ボーイング・ボーイング』[一九七一年八月・日生劇場]という芝居で、萬之助さん、今の[二世中村]吉右衛門さんとご一緒したことはありますけどね。フランス人の色男が、パンナムとエア・フランスとそれからルフトハンザ、それぞれのスチュワーデスを恋人にしていて、取っ換え引っ換えうまくやろうと思っていたのが、一堂に会しててんやわんやになる、。気心の知れている、僕と水谷良重[現・水谷八重子]と浜木綿子とで、お互いバカいい合いながら進めていた芝居だったんですが、萬之助さんは、稽古の最初の段階で、一身上の理由でお降りになったんです。今思うと、われわれのしゃべるテンポや何かに入り込む余地がなかったのかもしれませんね。つまりツーカーの間柄であるだけに一から十までお互いの意思がつながった状態が出来上がってしまっていましたので……。もう少し私たちも配慮すべきだったかもしれない。
神山 そうでしたか。その代役、田舎者のロベール役に緒形拳が出たんですよね。
宝田 そう。なんだかうさんくさい男が出てきた(笑)。なんだこのやろうと思っていたら、新国劇で、辰巳柳太郎の付き人をやっていて、実力派の俳優だとのこと。将棋の駒みたいに角形の顔をしたボサッとした男で、「あ、俺みたいににやけた男と朴訥なこの男の対比なら面白くやれるな」と思ってやってみたら、その後メキメキっと活躍するようになった。
日比野 じゃあ、それが、緒形さんの新国劇以外の初出演ですか。
宝田 ええ、そう聞きました。ですから彼にとっても、大変いいきっかけになった舞台だったと思います。
神山 赤毛ものみたいな格好も、きっと初めてだったでしょうね。
宝田 そうですよ。髪をブリッジして黄色くし、それだけ熱を入れてやっていました。それとはち切れんばかりのプロポーションの良重もそうだけど、浜木綿子という達者な女優がいてくれたのが大きかった。彼女は主役だけじゃなくて、敵役や脇に回っても異彩を放ちますね。それと、東宝での仕事ははじめてだと思いますが、のちに『耳の中の蚤』[一九七三年八月・日生劇場]を演出したキノトールさんは、多彩な才能とユーモアを理解し、包容力のある、素晴らしい演出家でした。
日比野 キノトールさんは、テアトル・エコーで演出はなさってますけど、商業演劇で、というのは珍しかったと思います。『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』は、青井陽治さんの演出でしたね。
宝田 そうですね。結局、四回再演しました。ユダヤ人の小さな花屋の、貪欲な亭主の役。アメリカのミュージカルというのは、こういう小さな作品にもいいものがありますね。このときに、桜田淳子と真田広之と、それから陣内孝則が一緒だった。陣内がちょっと狂気のデンティスト(歯医者)の役で出たんです。彼はグループサウンズの男だけど、妙によかったんだ。ヘッへーなんて奇妙な笑い方で、異常性格者ぶりは体当たり的で(笑)、絶妙でした。あの役が彼にとってはブレイクする大きなきっかけになって、今も生意気に役者として成功していますが。真田君もかわいくてね。とっても生き生きしてよかったですよ。その後『ビッグ・リバー』でも一緒になりますけど、あれもよかった。
日比野 『ビッグ・リバー』では、ジムという黒人の役をロン・リチャードソンが演じました。
宝田 そうです。今の天皇・皇后両陛下が[皇太子・同妃殿下のときに]見に来られたんです、青山劇場に。それで終演後、舞台上でお目にかかり、ちょっとお話もして。もう三十年くらい前になりますか。そうしたらこのあいだ、聖路加病院の日野原重明先生の発案で『葉っぱのフレディ—いのちの旅—』[二〇〇〇年十月・昭和女子大学で初演のち全国巡演、宝田氏は二〇〇五年より出演]という作品をやりましたときに、皇后陛下がお運びになられたんです[二〇〇六年七月三十一日・新宿文化センター]。終わった後にお会いしたらハンカチ出して泣いていらっしゃいました。「宝田さん、しばらくでした」とおっしゃるので「覚えていらっしゃいますか」といったら「ええ、『ビッグ・リバー』のときに」と。「ありがとうございます」と申し上げると「ところで宝田さん、あの、主役の黒人の俳優さん」と続けられて、そこで期せずして同時に「エイズで」と二人の声が重なった。彼はHIVで亡くなったんですよね。「それにしてもよくこういった話をお分かりになりますね。どこからそんな情報が」と聞くと、「それはまぁいろいろと」と。日本人の人たちだってあまり知らないことなのに、二人でヒソヒソと話し合いました。宮中にいらしても、一度ご覧になったミュージカルの主演俳優の死をはじめとして、文化面で広くご存知なんだなと感心いたしました。
神山 映画の『旅情』[日本公開・一九五五年八月]や『慕情』[日本公開・一九五五年十一月]のミュージカル版[それぞれ一九七四年十一月・三越劇場、一九七六年一月・日生劇場]にも宝田さんがお出になっていますよね。ああいうハリウッドスターがやるような役は、宝田先生のような世代のスターでないと、できない感じがしますね。照れちゃったらおしまいじゃないかというような。やっぱり、気持ちいいところもあるんですか。
宝田 いやいや(笑)。
神山 ああした舞台の客席は、もうほとんど、ウィリアム・ホールデンの映画を観た女性客だったんですか。
宝田 ええ。『慕情』は私と宝塚出身の男役・上月晃、『旅情』は私がロッサノ・ブラッツィ、そしてキャサリン・ヘップバーンがやった独身の英国女優、これを淀かおるさん。東宝の場合は往々にして相手役が宝塚出身の方になるんです。演技力もあり、営業的にお客を持っていますから、商業演劇としては仕方がないんですけれども、ただし音域にはちょっと問題がありましたね。アメリカなら有無をいわせず、主役はソプラノ、あるいはメゾでなきゃいけない、男はハイバリかテナーというふうに決まっているものですが、宝塚の男役の方がやる場合は三度くらい音を下げますから。デュエットのとき男も下げますので困ります。また音の響き自体も沈んでしまうんです。
日比野 宝田さんは『泥の中のルビー』[一九七三年九月・東横劇場]や『洪水の前』[一九九五年二月・東京芸術劇場]『ご親切は半分に…』[一九九七年三月・アートスフィアほか全国巡演]のような創作ミュージカルにもかかわっていらっしゃいます。日本語のミュージカルにはなかなか難しい課題もありますが、どんなお気持ちで取り組まれていましたか。
宝田 そうですね。『泥の中のルビー』は松浦竹夫さんの演出で、宮城まり子と一緒でした。七変化みたいにいろいろな役を劇中で演じました。『洪水の前』の藤田さんは、演出家としては物静かな方でした。あれはいずみたくの作曲ですけど、劇団の連中はもう彼の手の内に入っていますから、あとは自分がどうやるかというだけの問題でね。私が頑張ればいいとだけ思っていました。
日比野 『泥の中のルビー』も『洪水の前』も再々演から参加されていますが、途中から参加するやりにくさはないんでしょうか。
宝田 前のことはあまり気にしないんです。アメリカのミュージカルをやるときにも「急いでブロードウェイに行って観てこよう」っていう、そこまでの必要は感じないんです。行ったとしても、さっと観て、それが「ウィスキーの水割りなのか、ブランデーなのか。ちょっと待って、焼酎のお湯割かな」って、味だけみてこればいいと思っていますから。その作品のテイストは参考にいたしますよ。アメリカ人的にやろうとかそっくり真似をしようってことはない。日本語の歌詞で日本人のお客さんを対象に観せるわけですから。

ふたたび『ファンタスティックス』

宝田 この前、二〇一二年に久しぶりに『ファンタスティックス』をやりました[二〇一二年十一月・博品館劇場、同年十二月・草月ホールほか]。芸術祭参加作品として、企画・制作・演出・出演と大変でしたが、私の愛している作品です。日本初演のときから四十六年。キャストを一新して、東京はじめ各地で公演しました。青年と少女は、SOPHIAの松岡充くんと宝塚出身の彩乃かなみ。
日比野 その前に出演された『タイタニック』[二〇〇七年一月・東京国際フォーラム]に、松岡さんが出ていたんですね。脇の重要な役を、これも『タイタニック』で共演された光枝明彦さんと、沢木順さん、青山明さんが固めています。
宝田 光枝、沢木、青木の三人は昔ジァン・ジァンの舞台をかぶりつきで観ていたというんですよ。で、『タイタニック』に出ていたときに「宝田さん、あれをもう一回やりませんか」としきりに誘われて。いずれにしても連中は四季でうんと主役を張ってきた力のあるやつらでしょう。その彼らが「ジァン・ジァンの床に座って観ていたんですよ」というんだから、こちらも「やろう」という気になって。おかげさまでその年の芸術祭大賞までいただきました。脇[役]は枯れているかもしれないけど、しっかりしていましたよ。彩乃かなみはうまい、いい子でしたね。もう一度くらい上演してみたいなと思うけど、だんだん私にもあっちの世界が近づいてきていますから(笑)。
日比野 いやいや。宝田さんのように、半生のほとんどをミュージカルに懸けてこられて、いまだにその情熱を燃やしていらっしゃるというのは、とても貴重なことだと思います。
宝田 役者をしていると、自分の人生以外に、たとえば二百本の映画や舞台に出れば、二百通りの人生を生きることができます。これこそが、私にとっての生きがいのように思えてなりませんね。たとえば『風と共に去りぬ』でマーガレット・ミッチェルの世界に足を踏み入れることもできたし。彼ら同年代の役者もだいぶ亡くなってしまいました。残った人たちに「君もミュージカルをやってみないか」というと、みんな「いや、いや」と敬遠なさるんだけど、本当は僕らくらいの年代の人間が脇役にまわって、適材適所にぴったりと収まり主役の人たちを支えることができるといいなと思うんですよね。そうやって自分たちの持てる経験を役立てていきたいですね。