基本データ
取材日時:二〇一七年三月五日
取材場所:
取材者:中野正昭、神山彰、大原薫
編集・構成:大原薫
イントロダクション
今回お話をうかがった所治海(一九二八~二〇二〇)氏は、松竹歌劇団(SKD)で初めて専属衣裳デザイナーとなった人物だ。戦前の松竹歌劇団では、専任の衣裳デザイナーは置かず、通常は、舞台装置家や振付家が衣裳のデザインを兼任することが多かった。当時の松竹歌劇団のプログラムを見ていても衣裳デザイナーの名前が記載されていないことが多いのは、そのためである。
その後、所氏は松竹歌劇団を振り出しに、グランド・キャバレーや東宝、宝塚歌劇団等の衣裳も担当するなど、戦後のショーの衣裳デザイナーとして広く活躍した。
所氏の父、脇屋光伸は『日本戯曲大事典』(白水社)によれば「一九〇二〈明治三十五〉~不詳。本名現治。劇作家。東京の松竹文芸課長。「笑の王国」の「新派大レヴュー」で吉屋信子『女の友情』『愛情の価値』を脚色。『二人と二人の花柳界』『煙突』『大島』などを「舞台」に発表。戦時中の青春座に『浅草車夫』。戦後は女剣劇に『伊達姿お祭佐七』など。編著に『大谷竹次郎演劇六十年』(講談社)」(執筆神山彰)とある。所氏は、この脇屋光伸の次男である。
松竹歌劇部が終戦(当時、「松竹少女歌劇団」)を迎えるのは、邦楽座の公演中のことだった。この時の演目は『手まり日記』(県洋二作・振付、大船映画撮影所の大船新生劇団と合同)、『軍服』(武田太郎作、脇屋光伸演出)の二作で、脇屋は演出を担当している。松竹少女歌劇団は、終戦で一時公演を中止したものの、翌九月十五日には再開、喜劇の森川信一座との合同公演で『光と影』(古城潤一郎構成・演出、藤田繁振付)を上演した。松竹少女歌劇団が名称を「松竹歌劇団」へと改称するのは同年十月のことだ。
所氏が松竹歌劇団のスタッフに加わったのも終戦の年で、当時十八歳だった。その後、一九四七年八月、新宿第一劇場のグランド・レヴュー『アラビアン・ローズ』(朽木綱博作、青山圭男演出・振付)で衣裳デザイナーとして正式デビューした。
レヴューの衣裳といえば豪華絢爛が売りだが、戦後の物資不足は深刻で、長い間、舞台では思い通りの材料を揃えるのが難しかった。一九五一年三月、この年、大阪楽劇部創設から三十周年を迎えた松竹歌劇団は、記念行事の一つとして、総製作費三千万円を投じた第二十回『東京踊り』を国際劇場で四十六日間打ち通す快挙に出た。その一景「レ・シャルム」は、後に松竹歌劇団の名物となるエイト・ピーチェスの先がけのようなもので、八人のダンサーによるモダンで、セクシーな踊りを披露する計画だった。この時、演出からシュールなデザインの衣裳を求められた所氏は、一枚板をらせん状に切り抜き、それを帽子やボディ・タイツに巻き付けた斬新な衣装を考案し話題となった。現在であれば合板プラスチックをらせん状に切り抜いて使うところだろうが、当時、プラスチックは開発されたばかりの新製品で、駐駐留関連施設で目にすることはあっても、国内生産はまだ始まっておらず、およそ入手は不可能だった。そこで所氏は、まずブリキを切り抜いた衣裳を考えたが、激しく踊るたびにダンサーたちが手足を切ってしまいとても使い物にならなかった。次にボール紙、ベークライトなどを試すもどれも上手くいかず、最終的にベニヤ板が何とか実用に耐えうるということで採用になった。所氏の奇抜なアイデアから生まれた「ベニヤの衣裳」は、松竹歌劇団五十周年記念写真集『レビューと共に半世紀 松竹歌劇団50年のあゆみ』(松竹歌劇団編、国書刊行会、一九七八年)他で繰り返し紹介される名エピソードである。
また、この第二十回『東京踊り』から、日本舞踊西崎流の初代西崎緑が舞踊指導と振り付けで松竹歌劇団のスタッフに加わった。以後、所氏は西崎舞踊団の公演の衣裳も手伝うようになったが、これが縁で弟子の西崎眞由美(松竹重役の浅尾忠義の長女)と親しくなり、一九五八年に二人は結婚した。眞由美氏は、西崎緑に代わって一九五七年から松竹歌劇団の日本舞踊の指導と振り付けを担当していたが、結婚後は夫婦で劇団を支えることとなった。
所治海・西崎眞由美のペアは、その後も松竹歌劇団、メトロショウ、日劇、宝塚歌劇団など劇団や興行会社の壁を越えて、精力的に衣裳と振り付けを担当する。元々、所氏の得意とする衣裳は洋装だったが、結婚後は眞由美さんに合わせて日本舞踊も積極的に手掛け、和洋のステージ衣裳を柔軟に手掛ける存在となる。
たとえば宝塚歌劇団で二人が手掛けた「さくら幻想」(一九八四年の星組『祝まんだら』の一景)は、国内はもとよりニューヨークや台湾等の海外公演でも上演され好評を博した。一般に、松竹歌劇団と宝塚歌劇団はライバル関係にあったとされるが、実のところスタッフ間の人的交流は盛んだったようだ。
所氏のお話で、特に興味深いのがグランド・キャバレーに関するものだろう。戦後のショー文化は、劇場だけでなく、キャバレーやナイトクラブのようなレストラン・シアターでも盛んに上演された。むしろ戦後日本のショーの特色は、劇場以外の施設の方にあると言える。近年、グランド・キャバレーは老朽化等を理由に閉鎖がつづき、営業中のものは全国的に数えるほどしかない。「昭和建築遺産」の一つとして、娯楽施設のグランド・キャバレーも注目を集めるようになってきたが、建築物としての資料の充実に対して、往年のショーに関する資料はまだまだ少なく、所氏のお話は貴重な情報となるだろう。
聞き書きは、ショービジネスで活躍してきた所氏らしい明るさと話題の豊富さのおかげで、終始笑いの絶えない賑やかさのうちに終わった。(中野正昭)
十五世市村羽左衛門に感激した少年時代
中野 所さん、まず生年月日を教えていただけますか。
所 はい、昭和三年(一九二八)五月一日。だからもう八九歳になります。
神山 本当にお元気ですね。
中野 お生まれになった場所は浅草ですか。
所 いや、生まれは田端のほうですから荒川ですね。僕は戦後すぐ、一八歳からSKDの衣裳部の仕事を始めたんです。
神山 所さんが仕事を始める前に、印象に残っている舞台や俳優を教えてください。
所 子供のときのことで言うと、僕は親が松竹の演劇部の仕事をしていたでしょう。子供のときから、歌舞伎を時々見に行っていたんですよ。あるとき、「戦争でもう歌舞伎ができなくなるから、これだけは見ておけ」というので、昭和一八年か一七年の正月に、市村羽左衛門の姿を見て大変感動して帰ったんです。
神山 十五代の羽左衛門ですね。
所 それはもう大変なんです。考えられないスターなんですよね。[『双蝶々曲輪日記』の]角力場で、角力場の裏のセットから若旦那が出て来て、ご贔屓の相撲取りが負けて気に入らないと文句を言って花道に入っちゃうだけの場面で、その若旦那が羽左衛門。僕は林長二郎、今の長谷川一夫の映画を子供のころから見ていて、林長二郎が一番の色男だと知っているわけ。でも、羽左衛門がけた違いなんだよね。「こんなにきれいな従者が、本当に世の中で見たことがない」という雰囲気でね。当時の歌舞伎座には丸髷を結っている人が多いんだけど、その人たちが「はぁーーーー」と言っている息が聞こえるの。
神山 じわ、みたいなのですね。
所 そう、そう。花道に来て、文句を言って帰っていくだけなんですよ。俺も一五か一六歳の子供だけど、あんなに感激したことはないんだよね。
神山 羽左衛門を見た方はみんなそう言いますよね。
所 あんな役者はいないね。僕は以前、エルビス・プレスリーがワンマンショーをやっているというので、見に行ったんです。でも、前座ばっかりでなかなか出て来ない。しびれを切らしたところに、ばーっとプレスリーが出てきた。そのとき、羽左衛門と同じ感じを受けましたね。僕が羽左衛門を感じたのはそれだけです。
神山 プレスリーだけですか。
所 そう。
神山 プレスリーはとうとう日本に来ませんでしたからね。本題に入る前に一つお聞きしたいんですが、オリエ津阪さんは消息が全然わからないのですが、いつごろまでお元気だったんですか。
所 僕も会ってはいないですけど、OB会か何かで来ているというのは聞きました。戦前は時代劇によく出ていたんだけど、ターキー[水の江瀧子]みたいな派手さはなかったですね。ターキーは別格です。
神山 別格なんですね。
所 もう、宝塚だってあんな人はいないです。今見たってびっくりすると思う。
神山 そうですか。僕はさすがにターキーはテレビの『ジェスチャー』のころしか知らないです。
所 『ジェスチャー』の前にNHKで『とんち教室』ってやっていたでしょう。
神山 ええ、長崎抜天とかが出ていた。
所 そのときに家内[西﨑眞由美]の先生の[初代]西﨑緑が『とんち教室』に出ていたんです。[西﨑緑が]女流舞踊家で、白百合を出て、インテリだというので、テレビに出たら全国区になっちゃった。そこへ眞由美が弟子入りしたわけですよね。
神山 オリエ津阪は、入江たか子の自伝を読んでいたら昭和二八年ごろに一緒にファッションショーか何かに出たといっているんです。その後はいくら調べても、いつごろまで健在でいつ亡くなったのか分からないのでね。じゃあ、所先生がご存じないとちょっと難しいですね。
所 昔のスターの山田五十鈴とかも、川路龍子のファンだったんですよ。追っかけをやってた。オリエ津阪もそういうところがあったんじゃないですかね。当時の歌劇団のスターは歌舞伎役者や映画俳優と同等ぐらいの力を持っていましたから。
神山 格からいってもそうですね。昭和二六年に歌舞伎座ができたでしょう。中村歌右衛門が襲名した興行で、歌舞伎座の楽屋で川路さんと二人が並んでいる写真があって、とてもきれいでしたよ。
戦後、松竹歌劇団の初の衣裳デザイナーに
神山 所先生が衣裳の仕事を始められたいきさつを教えてください。
所 詳しく言うと、おやじが松竹の戦前の演劇部の文芸部長をやっていたんです。それで大谷さんの側近でいたものですから、そんな関係で衣裳を始めた。うちは江戸っ子なので[第二次世界大戦の戦災で家が焼けて]住むところがなくてあっちこっち行ったりしていたんですけどね。新富町の松竹の本社があって、その隣の別館に演劇部の倉庫があったんです。本ばっかり置いてある倉庫なんですけど、おやじが管理していたものですから、そこに住んでました。戦後も有楽町とかをぶらぶら歩いていて、日劇はもう始まっているわけなんですよ。
神山 そうですね。
所 松竹は浅草でやっていた。おやじの倉庫の上が松竹歌劇団の稽古場で、そこに可愛い女の子がたくさんいるんです。それなら、学校に行くよりここに入った方がいいやと思っちゃった。
神山 それで、松竹歌劇団に入ったと。うらやましい話ですね(笑)。
所 僕はトコちゃんと呼ばれてたんですが「トコちゃん、お前これをやれ」と先輩から言われて、衣裳のデザインを描いていたんです。松竹は戦前は舞台装置家、たとえば三林亮太郎とかが衣裳のデザインを描いていたんですね。戦後も僕が入るまでは[衣裳デザイナーは]いなかった。映画は大船で衣裳のデザインをやっている人がいましたけどね。ところがその人も病気でね。だから結局松竹歌劇団は戦後、僕が入ってからすぐに衣裳[デザインを専属で担当すること]をやり始めた。
神山 所さんのお父さんのお名前は、やっぱり所さんとおっしゃるんですか。
所 いや。父親は脇屋です。
神山 脇屋って脇屋光伸さん?
所 そう。
神山 脇屋光伸さんがお父様ですか。えっ、それは驚いた。
所 よく知っているんですか。
神山 いや、もちろん直接は知らないけど、名前は散々知っていますよ。脇屋光伸さんといったら『大谷竹次郎演劇六十年』をお書きになった方でしょう。
所 ええ、兄貴も脇屋でまだ生きています。江戸川柳の大家で一五代目脇屋川柳。
神山 脇屋光伸さんは、明治座の筋書でエッセーを連載していたのを覚えているんですよ。実は今度『日本戯曲大事典』という本が出たんですが、その脇屋光伸さんの項目を私が書きましたから。
所 うわあ。すごいなあ。今度うちに遊びに来てよ。おやじが残した本がたくさんあるから。
神山 ああ、それはそうでしょうね(笑)。
所 夏目漱石の『吾輩は猫である』の初版本もありますよ。
神山 お父さんは女剣劇の脚本も少しお書きになっていましたよね。
所 ああ、それはどうだったかな。
神山 昭和三〇年代だったから、所先生はもう忙しくなってからです。
所 じゃあ、内緒でやってたんだな。あのころはお金がなくてね、年がら年中僕はたかられたんですから(笑)。
中野 じゃあ、SKDの衣裳をやることは、お父様も大喜びだった。
所 それはそうでしょうね。
神山 昔のSKD[松竹歌劇団]のプログラムを見たら、昭和二二年の『アラビアン・ローズ』に所先生のお名前が出てました。
所 そう、それは僕は出ています。
神山 昭和二二年と言ったら、七〇年前ですよね。落合次郎さんは舞台装置なんですか。
所 そう、本名が国東清(クニトウキヨシ)といって、落合に住んでいたので落合次郎と名乗っていたんです。
神山 所さんから見ると先輩ですか?
所 大先輩です。このとき落合さんは四〇歳くらいで、当時僕は二〇歳そこそこでしたから。聞いてくださいよ。僕は二八歳のときに家を建てたの。
神山 ああ、それは大したものですね。二八歳だから、昭和三〇年か三一年か。
所 当時は二〇〇万円あったらできるんです。
中野 所先生はどなたかに衣裳を習ったのですか。
所 誰にも習ってないです。
中野 独学ですか。
所 独学もいいところです。戦後すぐにパーマをかけて、皆に笑われるような格好をしたばか男だったんですよ。だからちょっと変わっていたんでしょうね。それじゃなかったらあんなばかな絵は描けないでしょう(笑)。昔は[衣裳を作るための]きれ[布地]がなかったんです。
中野 そうですよね。
所 戦前の衣裳が焼け残っていたので、それにきれを足して間に合わせていたんです。僕が入って一年か二年で段取りをつけてちゃんとデザインを作るようになった。作ったけど、きれがない。『レ・シャルム』でもベニヤ板に銀紙を張っただけの衣裳。それにピンポン球をくっつけてね。アトミック・ガールズというので、変わったデザインをしようと。網タイツなんてアメリカの映画ではあるけど、日本じゃ絶対にない。どうしたらいいかな、ああそうだ、魚の網を買ってきてもらって、それを黒く染めてタイツみたいに編んで網タイツを作った。それにピンポン球を張って、衣裳にしたんです。
川路龍子と県洋二と僕で「おしゃれ三人組」でした
中野 衣裳のデザインをこうしてほしいというのは、どの段階から所さんのところに話が来るんですか。
所 歌劇団というのは宝塚も以前はそうだったらしいですが演出家でなくて、振付家がスタッフになる。振付の前は学校でバレエやタップの先生をやっていた人たちが集まって、この中の長の人が選出するんです。宝塚だと有名な大作家がいて、SKDは山口国敏。この人はOSK[大阪松竹歌劇団、現在の日本歌劇団]の方から来たらしいんですけどね。
神山 そう。OSKで、戦前から有名でしたね。
所 それから日劇では山本紫朗さん。僕が子供のころにトコちゃん、トコちゃんと可愛がられていた。
神山 青山圭男さんも振付でしょう。
所 ええ。その圭男さんがうちの眞由美を可愛がっていたんです。六十歳くらいで病院かどこかに連れていかれて、孤独死した。本当にかわいそうですよ。
神山 それで、その振付師が衣裳の発注もしたということですか。
所 いやそれは違います[松竹]歌劇団のやり方というのは、まずスタッフがいますね。社員じゃなくて契約者みたいな形で振付をしている人がいるんです。たとえば、山口国敏さんね。一つの公演が終わって十日ぐらいたつと集合が掛かるんです。それで、「今度は何をやるか」という話から始まるわけです。そのときにたたき台として、山口国敏さんが「一景はこんなことやりたい」「二景はこんなことをやる」と書くわけですね。そこへ振付も衣裳も照明も全部呼ばれて、ディスカッションするんですよ。「松竹会議団」といわれたぐらい、何回もやるんですけどね。その後、宝塚は全部演出家が書いている台本を、松竹歌劇団は全部振付家が考えたことを持ってくるんです。
中野 台本を、ですか。
所 山口国敏さんが台本にして、それで上演する。日劇では、おそらく山本紫朗さんとかもそういうやり方だったと思いますよ。でも、山本紫朗さんは作家だから、[やり方が]違う場合がありますね。東宝歌舞伎のときは、全部自分で書かれるんじゃないですかね。僕も東宝歌舞伎の衣裳はずいぶんやりましたよ。山本紫朗さんは洋舞をやるときがあるんです。
神山 東宝歌舞伎でも洋舞もあるんですよね。
所 京マチ子はOSK出身ですからね。そういう人が出て、踊るんですよね。そうすると、普通の踊りじゃダメだから、「洋舞とも日舞ともつかないような衣裳を描いてくれよ」なんて言われてね、僕はよくそういうのをやらされましたよ。
神山 そうすると、たとえば山口先生や青山圭男さんが「一景は何、二景は何」と案を出されて、レビューですから、和物と洋物とが分かれるわけですよね。
所 そう、分かれている。
神山 所先生は和物も洋物もどっちもおやりになるんでしょう。
所 日舞の衣裳は[始めてから]三年、四年たってからですね。
神山 ああ、そうですか。
所 だって、できないですよ。和物の衣裳は歌舞伎の衣裳みたいなものですからね。そうするともう衣裳屋へ行って、「これとこれとお願い」と頼むのが早いわけです。僕が和物のデザインをやるようになったのは、眞由美が振付をやるようになってから。眞由美が振り付けるのは民謡と新舞踊でしょう。民謡というと、歌舞伎の衣裳と違うわけですよ。
神山 ああ、なるほど。
所 柄でも何でも変えて、全部作るわけですね。だから、そのころから全部僕が[衣裳デザイン]をやるようになった。日舞も洋舞も全部僕がやっていたんです。
神山 そうですか。
所 そのころ、僕と川路龍子さんと県洋二という三人がいましてね。「おしゃれ三人組」と言うんですかね。着る物とか靴とか「これが流行った」「これは流行らない」と三人でガヤガヤやるのが趣味だったんですよ。
神山 うらやましいですね。
所 そのころからは川路さんとはデザイナーとしてのお付き合いじゃなくて、普通の感覚のお付き合いでしたからね。川路龍子は歌劇団から独立して、映画に出たりしてたんです。女丹下左膳とかね。
神山 僕が見たのは『燃える上海』。よかったですよね。あと、何か浦島太郎みたいな役をやってた『踊る竜宮城』。
所 そう、それが美空ひばりの映画で、僕は初めて映画の衣裳をやりました。
神山 やっぱり川路さんは日常生活から、おしゃれがお好きだったんでしょう。
所 そうそう。
神山 戦後の松竹歌劇のプログラムを見ると、小月冴子と一緒の対談で、おしゃれの話ばっかりしているんですよね。
所 また県洋二というのがダンディーでいい男でね。
神山 ああ、そうですか。
所 あのころの歌劇団の生徒はみんな、県洋二にほれていたんじゃないか(笑)。上原謙に似ているから、ケンちゃんと呼ばれてた。
神山 似ているんですか。
所 いや、上原謙よりいい男のような気がするけどな、背は高いし。
神山 それは相当なものですね。
中野 話を戻しますと、松竹歌劇団では振付家が台本の内容も決めて、それに基づいて衣裳を頼まれるということですね。
所 そうですね。僕も晩年は宝塚もやりましたけど、宝塚では植田紳爾さんみたいに台本を書いている人が演出家になっている。たとえば「さくら」[一九八四年一月星組公演『祝いまんだら』、一九八八年九月花組公演『宝塚をどり讃歌’88』、一九九六年宝塚花組公演『花は花なり』 宝塚大劇場]とか、眞由美の振付で大変に評判になった傑作があるんですよ。そのときも、通し稽古では植田さんが眞由美の前に出て来て「一、二、三、四……」とやり出すんです。松竹ではそういうのは振付家がやることだから、びっくりしましたね。
中野 とすると、松竹歌劇団では振付の方が中心となって決めていくということですか。
所 演出も全部、音楽との打ち合わせから振付家が決めていくんです。構成・演出の人は収まるのを待っているだけ。ただ、宝塚と一緒にやるようになって、宝塚のやり方も一つの手だなと思いましたね。たとえば、植田紳爾と宝塚の音楽家とが話し合って決めた曲は、想像がつかないものがあるわけ。僕も振付家ではないですけど、眞由美と二人で相談して「これは、どうするんだ、できるのか」「いや、何とかやる」と言ってやったものが、面白いものになるんです。「さくら」にもその面白さが出ていて、松竹にはなかったやり方も悪いものではないなと思いましたね。
中野 じゃあ、日劇はまた違った感じだったんですか。
所 日劇は山本紫朗さんという人がいてね。その人は物書きなんですけど、「ここはコミックで」「ここはタップだよ」と大雑把に決めて、あとは任せるというやり方なんです。僕が頼まれたときは県洋二の仕事が多かったので、その時は「好きでやってくれ」と言われましたね。
神山 日劇は男性も出ているし、間にコントなんか入っていましたから、SKDとは違いますよね。
所 そうなんです。違うんです。
中野 じゃあ、SKDでは「自由にデザインしてください」と所さんに任されて、好きなようにできたと。
所 そう、だいたい僕が自分で決めていましたね。
中野 例えば予算とかってどうだったんですか。
所 松竹は宝塚とかと比べたら、割と大雑把でしたね。
中野 では、スタッフの会議が終わったあとはどうやって進んでいくんですか。
所 会議が最後まで終わって、「じゃあ、これから始める」となったら、僕らは一カ月家に帰って仕事をするわけ。一カ月たって、舞台装置家も衣装も全部持ってきて、今度は照明家が色合わせをやるんです。デザインをコピーするのもカラーでコピーできる時代じゃないから、演出部がコピーしたりして大変でした。
中野 所さんが一番最初にお仕事をなさった舞台は何ですか。
所 どれが最初かは分からないですね。
神山 昭和二二年の『アラビアン・ローズ』に載っているんだから、その前からなさっていたことは間違いないですよ。
所 今も家にはアトミック・ガールズのデザイン画がたくさんあるんですよ。歌劇団の展覧会をしたときに、気に入ったアトミックの衣裳を三〇枚くらい描き直して出したんです。
グランドキャバレーの黄金時代
所 そのころ[昭和二〇年代]、東京で衣裳をデザインする人が僕しかいないから、二五~二六歳で一〇件以上掛け持ちして、キャバレーの衣裳のデザインをしたんです。「描いてくれ」と頼まれてね。「描けないよ、そんなもの」というと「一枚、二枚ならいいじゃないですか」というので、描かされるわけです。だから一時はすごかったですよ。
神山 当時は、[浅草]国際[劇場]の近くにも「新世界」というグランドキャバレーがありましたでしょう。
所 ああ。あのころ一番困っちゃったのはね、国際劇場の前角にストリップ劇場があって、僕のデザイン画が入口に張ってあった。ストリップの写真が間に合わなかったんでしょうね。あれは困っちゃった(笑)。
神山 昔の芸人さんに聞くと、昭和四〇年ごろまではグランドキャバレーがあったおかげでずいぶん稼げたと言っていました。
所 そうね。大阪もそれですごかったですからね。大阪では僕はメトロというところをずっとやっていました。大劇[大阪劇場]ももちろんやっていました。
神山 ああ、大劇ね。
所 大劇の舞台稽古に行くと、キャバレーのあんちゃんが待っていて「一枚だけデザインをお願い」と頼まれるんです。「一枚といったって、何を描くかわからないじゃないか」と。そんな時代でしたね。
神山 なるほど。
所 ミカドというのがあったじゃないですか。
神山 ああ、赤坂のミカド。
所 そう、僕はミカドをずっとやっていたんです。装置と衣裳と、年に六回やっていました。
神山 それはいいですね。
所 ミカドの舞台機構は日本で一番です。今はもう、あんな機構はできないですよ。何でもできますからね。僕が「ラスベガス[の舞台]で滝や洪水を見て来た」というと「それをやってくれ」と言われるの。ミカドはちゃんとどぶがあってね。オーケストラのところをぱーんと取ると、プールになっちゃう。そこに橋が架かっているんです。どぶというのは、そこに穴があって水が入るようになっている装置が全部作ってあるんですね。国際劇場で水を使う場面をやるときは、夏の踊りのときだけ装置を作ってやるから水はけ[の仕組み]も[元からは]ないんだけど、ミカドは初めから作ってある。
神山 そうですか。本水と屋体崩しはもう国際の名物ですからね。
所 そう。
神山 じゃあ、本水はミカドの方が使いやすいわけですね。
所 そう。ほら、やくざの任侠の世界の歌の場面だったら、橋がいるじゃないですか。橋があって、だーっと[立ち回りを]やって、ドボン、ジャボンと水に落ちる。そうすると、[お客さんも]わーっと[盛り上がる]。そういうのが自由にできちゃう。面白かったですね。
神山 赤坂はミカドとニューラテンクォーターがあって、一番いい時代に所先生は活躍していたんですね。
所 ラテンクオーターは日本じゃないみたいですからね。
神山 それは羨ましい。
中野 所さんは、劇場の他に赤坂ミカドやいろいろなキャバレーの衣裳とか装置のお仕事も同時にされていたと。
所 はい。でもね、ミカドをやっているころはそんなにやれないですよ。そのころはストリップも寂れちゃって、やっていませんからね。僕は眞由美と結婚してから日舞専科みたいになっていたんです。ミカドは洋舞、日舞、洋舞、日舞……と一カ月交代でやるわけ。だから、日本舞踊が一年に六回。その装置から衣裳を全部僕がやっていた。それは一〇年ぐらいやりました。ただ、松竹がうるさくてね、名前が出せなかったんです。ミカドの第一回目の公演はパリから踊り子を呼んできて、大騒ぎしてやったんです。
神山 あのころは、ミカドのほかに花馬車というのもあって、グランドキャバレーの黄金時代ですものね。
所 でも笑っちゃうのはね、ミカドの第一回のプロ[グラム]を開けるじゃないですか。そうすると、ここに僕の絵があるんですよ(笑)。浮世絵風の絵を描いたのが載っかっている。そこに何か欲しかったけど、間に合わなかったんでしょうね。僕の名前はないんだけどね。それで、三回目ぐらいから「杉高治」[スギコウジ]という名前にして出したんです。杉並区高円寺に住んでいたものですから。眞由美の創作公演のプロ[グラム]でも、杉高治と書いてあるのは、みんな僕なんだ。
神山 そうなんですか。
中野 当時は、お芝居を好きな人が結構グランドキャバレーを見に行っていたんですか。それともグランドキャバレーを見に行く人は別に劇場に行かない。
神山 劇場とは別なんじゃないですかね。店の格によってまた違うと思います。地方によっても違うみたいね。
秦豊吉が「所治海は才能がある」と言ってくれた
所 僕ね、この話だけはしたいんですけどね。東宝の話なんですが、いいですか。
神山 どうぞ。
所 戦後、演劇の社長やスタッフたちは皆、レッドパージに引っかかって、仕事ができなくなってしまった。そのとき、秦豊吉さんが後楽園スケートリンクホールで木ノ下サーカスを使って新しいサーカスをやるということになったんです。東宝のスタッフが使えなくなっていて「誰かいないか」ということで、僕に「やってくれませんか」という話が来た。「いいですよ、その代わり、僕は外の人間だから、好きなことを言いますよ」と言ったんです。
僕はそのころ、二五~二六歳ですから、秦先生がそんなに偉いということを知らなったんです。広島か何かでやっていたサーカスを秦さんと視察旅行を見に行くとき、歌劇団の女の子を駅に並べてね。「じゃあ、行ってくるからな」と見送りさせた。秦さんが「トコちゃん、あれは誰ですか」「ガールフレンドに決まってるだろう」なんて(笑)。そんな男だったんですよ、僕は。二人で玉造温泉に行ったときも、一番いい旅館で僕と秦さんだけが全然違う部屋。そうやって秦さんも僕に気を使ってくれて、感謝していたんです。
だけどサーカスの初日が開いたら、松竹の舞台を見ている新聞記者の人が見に来るでしょう。そして褒めるところがないと言ったらおかしいけど、所治海だけ知っているわけですから「所治海の衣裳だけが全然違う」なんて書かれちゃったんです。「所治海、所治海」とバンバン書かれた。「新しいサーカスが生まれた」とかね。でも、秦さんも文句言わないで「お前はよかった」と言ってましたよ。
神山 そうですか。
所 その後、秦先生と付き合いはないんですよ。でも「夏の踊りか何かで、滝が出るときは教えてくれ。見に行きたいから」と言われたんです。それで「今度は滝が出るから来ないか」と連絡すると、招待を受けてちゃんと来るんですよ。そのうちに『モルガンお雪』[一九五一年二月 帝国劇場]で初めてコーちゃんを使ってミュージカルをやった。
神山 ああ、コーちゃん、越路吹雪ね。
所 そしたら、東宝で新聞記者を招待するパーティがあったらしくて、それから二~三日したら新聞記者が僕のところに来たんです。「あんた、秦さんとどういう関係なの?」と。「いや、何の関係もない。ただちょっと一回お仕事しただけですよ」と言ったら、秦さんが「僕もこれからミュージカルをやるんだけど、松竹には所治海という青年がいるんだ。あれはすごい才能を持っているから、何とか一人前にして、見守ってください」と演説をぶったらしい。それを新聞記者が僕に言うんです。僕はそれに感激してね。松竹の人間にそんなことを言われたことはないですよ。ところが、東宝の人が褒めてくれた。
神山 しかも秦先生。
所 関係ないでしょう。それなのに、「所を頼む、所を頼む」と言ったらしい。あれは一番感激した。だから、いまだに僕は演劇界といったら秦先生を思い出す。それしか会っていないんですが。
神山 秦さんは昭和三〇年ごろに亡くなったでしょう。
所 そうなんです。僕も秦さんが亡くなるちょっと前に病院に行きましたよ。衣裳のデザインをあんなにすごく褒められたのは、あれ以外ないんです。今は新聞の批評でも舞台を紹介しているだけですから。昔の新聞の批評は一つ一つ、何の景の照明がよかったとか、振付やセットがよかったとか、全部書いてありましたからね。
神山 今は、レビューの批評家はいなくなっちゃいましたからね。
所 安藤鶴夫って知っていますか。
神山 安藤鶴夫、もちろん知っています。
所 アンツルさんが僕のファンでしてね。
神山 そうですか。
所 でも、とうとう一回も会わなかったけど。「あんたは人間の衣裳を描くより、動物の衣裳がうまいね」と(笑)。
神山 そうですか。
所 褒められているんだか、けなされているんだか分からない。
神山 安藤さんも国際はよく来ていたんでしょうね。
所 そうですね。僕のことなんかもずいぶん書いてくれた。動物といえば、飛鳥亮のライオン[の振付]。今の『ライオンキング』と比べても飛鳥亮のライオンの方がいい。衣裳だって、俺の方がいいと思う(笑)。
神山 それはそうでしょうね。
所 文楽の人形みたいに房が付いているのが、嫌いなんですよね。やっぱり擬人化されているんだから、顔から何からなってないんだよね。歌劇団では、小月冴子がライオンの雄をやって、雌は磯野千鳥がやったんです。ライオンに食われる縞馬はエイト・ピーチェスがやっていて。
神山 そうですか。それは迫力あるでしょうね、
所 僕はあれより飛鳥さんの方がいいと思うんだな。音楽はそのころ、マンボがはやった時代。キューバンボーイズのアレンジャーが全部やって、あれはすごくよかったですよ。
神山 これは山本紫朗が書いていることですけど、『マンボNo.5』などのラテンの音楽は、引き延ばしもできるし、止めることもできるから、レビューには使いやすいんだそうですね。『イン・ザ・ムード』もそうですよね。だから、マンボがはやったのと、レビューが隆盛したというのは関連すると、僕は思いますね。
所 県洋二もマンボが好きでね。キューバンボーイズの見砂[直照]さんから「池袋の汚い喫茶店にマンボのドーナツ盤がある」と聞いて、探しに行きましたよ。一日かけて聞きました。もう僕は帰りたいんだけど、県洋二が帰りたがらないんだ(笑)。
神山 マンボを聞きに行ったというのは。
所 『マンボNo.5』だけ聞きたいと言っても、そのままずっと掛けていろとは言えないでしょう。他のお客がいるから。
神山 ああ、だから県さんはずっと待っているわけですね。
所 でも、あの当時は、振付の人は皆、何か狂ったみたいに聞いてましたよ。矢田茂もそうでした。
神山 矢田茂は、僕は映画の振付で結構見ていますね。
所 矢田茂は銀座の美松で、日本で初めてマンボを振り付けたんです。美松も僕のホームグラウンドでした。それで、西﨑緑さんが「所ちゃん、あんた、いろいろキャバレーのことをやっているから聞くけど、マンボ知っている?」と言うから、「いや、知ってるよ」と。「何で、矢田先生に聞いたらいいじゃないですか」「いや、だけど、ちょっとあんたに聞きたいんだけど」というので、チャンチャンチャンチャンって「こうやってこうやって、こういう振りだよ」と[マンボの振りを]教えたんです。そこから、『深川マンボ』が生まれたんだと思うんだ。あんな振りは日舞にはないからね。特に最初の出のところは……
神山 『深川マンボ』は、僕は[中村]扇雀(現坂田藤十郎)と[花柳]壽輔(当時は花柳芳次郎)さんが踊ったのを見たのが最初で、東宝歌舞伎で始まったものだと思ってました。
所 いや、あれは西﨑のものですよ。西﨑緑の傑作ですから。
神山 へえ、そうなんですか。キューバンボーイズとはどうだったんですか。
所 見砂さんは東劇の裏の小さいところに出ていて、キューバンボーイズのユニホームは全部僕がやりましたよ。
神山 そうですか。じゃあ僕らは知らないで、テレビで所先生の衣裳を見ていたんですね。
所 キューバンボーイズはあのころ、大船の映画とかいろいろなところに出たんですよね。それも僕が全部やってました。
昭和二〇年代のショーの思い出~ムーラン・ルージュ、額縁ショー
中野 秦さんのお話が出たところでお聞きしますが、秦さんは戦後新宿でムーラン・ルージュをやっていたじゃないですか。
所 ええ。知りませんでした。
中野 ムーラン・ルージュのショーをご覧になったことはありますか。
所 ありますよ。
中野 舞台はどうでしたか。
所 面白かったよ。まあ、一番面白かったのは、東宝の喜劇役者の森繁久彌。あれがスターだった。皆が森繁久彌を見に行くんです。だいたい易者とかそういう役で出て、だじゃれを言って、いやらしいことをやって、ぱっと入っちゃう役なんだけどね。うまいんだよね。
中野 やっぱりうまかったですか。
所 間がよくてね。そのころは客席も土の上に長椅子が並んでいるだけ。それでムーラン・ルージュの舞台があってね。
中野 バラックのときですよね。
所 そうそう、バラック。森繁がいなくなってから、ダメになったけど。
中野 それは森繁さんが抜けた後は、観客はがらっといなくなってしまったと。
所 そうですね。大スターだったからね。それで、新聞記者の演劇部の連中が「こんな役者がいるんだ」と大騒ぎして、それで東宝に入ったんですよ。僕が何でそれを知っているかというと、すぐそばに新宿第一劇場という劇場があってそこで歌劇団(SKD)をやっていたんです。だからもう、しょっちゅう僕はムーランを見ていた。
中野 ちょうど森繁さんがムーラン・ルージュがいたころは、矢田茂さんがショーをやっていたんです。
所 そうでしたか。そのころは明日待子というのがショーのスターをやっていた。大体、森繁の方が面白いから、皆、森繁ばっかり見ているんだよね。
神山 新宿で、額縁ショーはご覧になった。
所 めちゃくちゃ見たよ(笑)。
神山 額縁ショーは秦豊吉さんが帝都座で始めたんですね。やっぱり満員でしたか?
所 満員でした。あれは五階なんですよね。うちの演出部も朝から晩まで帝都座に額縁ショーに行ってるものですから、そうすると「トコちゃん、俺の仕事を代わりにやっておいてくれよ」と言われてね。そのころ僕は使いっ走りで大先輩の言うことだから、代わりにやっていたんです。
中野 額縁ショーは、人が動いたとか、動かなかったとか。
所 全然動かない。
神山 やっぱり客席はしーんとしていますか。
所 しーんとしてましたよ。息をのんでね。だって、嬉しくて嬉しくてね。だいたい女性の裸なんて、見ようったって見られなかった時代ですからね。だからもう男の目じゃなくて、動物の目みたいに血走ってるみたいな感じで。
神山 それでしーんとしているところがいいですね。
所 うん、だからね、喜んでいるんじゃない。声を掛ける余裕もない。いい年した連中がこうやって見てるのが、おかしかったですね。
神山 昭和二〇年の戦後すぐですから、所先生だって二十歳ぐらいのころですものね、
中野 他にも所さんがご覧になったものをお聞きしたいんですけど、日劇ミュージックホールはどうですか。
所 それはもう得意です。何が得意といいますと、川路龍子が日劇ミュージックホールのファン。
中野 そうなんですか。
所 川路龍子と県洋二と僕と三人で、しょっちゅう見に行きましたよ。そのころは浅草にいたジプシー・ローズが引っ張られて出ていたんです。ジプシー・ローズは最初は東劇にいたんです。東劇のころから僕は知っている。
神山 東劇にジプシー・ローズが出ていたんですか。
所 出ていました。ちょっとの間です。
神山 へえ、それは知らなかったですね。
所 ジプシー・ローズが東劇に出たとき、東劇の三階に東京衣裳部があったから、僕はしょっちゅう行っていたわけです。東劇の支配人は、戦前は歌劇団の宣伝部にいたフクムラという人なんですが、その人が「トコちゃん、やってくれよ」というんでやっていたんです。あのころはミュージックホールはファンファンというのが出ていた。
中野 ファンファン。ああ、岡田眞澄さんですね。
神山 東宝は丸尾長顕が制作をやっていたころですかね。
所 いや、分からない。
神山 秦さんはミュージックホールはやっていないでしょう。
中野 やってないですね。
神山 川路さんがジプシー・ローズのファンだというのはいいですね。だけど、川路さんは当時は大変な大スターだから、ミュージックホールを見に行くときは大変だったんじゃないですか。
所 いやいや、[川路さんが見に行っても]分からないですよ。
神山 変装して行くんですか。
所 いや、しなくたって分からない。僕と県洋二と三人で、真ん中に入っていると、分からない。僕も派手だったし、県洋二もあんな感じですからね。真ん中にいるのも男だと思われていたんじゃない。
神山 川路さんは、普段はしゃべり方はどうなんですか。
所 あんなに歯切れのいい人はいないですよ。江戸っ子だから。あんなに気前のいい人もいないしね。
神山 ああ、そうですか。
所 話がそれるけど、またいいですか。
神山 どうぞ。
所 川路龍子は池之端の師匠という日本画家のところで絵を習っていたらしいんです。ほら、そのころは歌舞伎役者も絵を描くじゃない。だから、僕の息子が生まれたときにすごい絵を描いてくれて、掛け軸にしてお祝いで持ってきてくれた。それをいまだに家に飾ってありますよ。
神山 拝見したいですね。池之端といったら、まさか横山大観じゃないですよね。
所 大観じゃないでしょう(笑)。
神山 弟子かもしれませんね。さっき話に出た、大劇というのは大きかったんでしょう。国際劇場より大きかったんじゃないですか。
所 いや、国際劇場の方がやっぱりべらぼうにでかいですよ。歌舞伎座よりでかいですから。
神山 そうですか。いや、僕は大劇は行ったことないので、もっと大きいのかと。
所 いや、いい劇場ですよ。国際劇場は三林亮太郎がラジオシティ[・ミュージック・ホール]に行って。
神山 ああ、ニューヨークにね。
所 舞台はラジオシティのとおりに作ったんです。日劇は客席をラジオシティの真似をして作ったんだと思うけど、国際劇場は舞台がラジオシティ。だから、十二間ある。
神山 十二間ね。あれはすごかったですね。国際劇場の印象は、とにかくつり物が多くて、上がったり下がったりしていた。バトンの数もすごかったんでしょうね。
中野 国際劇場の話が出たところで、ちょっとお伺いしたいんですけど、浅草国際ミュージカルという、歌舞伎を基にしたものがありましたよね。
神山 ここにプログラムのコピーがありますが、三橋美智也が出ていた作品です。覚えていますか。
所 ああ、これは僕はやっていますね。
神山 そう、所先生のお名前も出ていたと思いますよ、確か。三橋美智也と水原弘。
所 花柳章太郎さんがどうしても衣裳をやりたいというので、僕が助手をやったんです。そしたら、舞台稽古のときに風邪を引いたために亡くなってしまった。
神山 花柳さんがですか?
所 そうです。国際劇場は客席に暖房がなくて、寒いですからね。「やめなさいよ」と言われても夜中でも来てましたから。それから二~三カ月してね。
神山 これがオリンピックの年[一九六四年]で、翌年の一月に亡くなりましたものね。
所 そうですね。これもなかなか面白かったですね。SKDから磯野千鳥が出ているんです。ぽっぽちゃんはそれまで歌わなかったんだけど、歌ったら確かにうまかった。
神山 そうですか。
所 [コピーを見て]ああ、福田一平がやっているんだ。
中野 下世話な話ですけれども、SKDにいらしたときは、お給料はどのぐらいだったんですか。
所 僕は最初は社員だったんです。そのときは普通の社員と同じぐらいの月給をもらっていたんじゃないですかね。ただし、「三大踊り」というのをやるとデザイン料は別に出るんです。昔は「四大踊り」というのがあった。一月は春の踊りで、これは歌舞伎踊りと言った。それから東京踊り、夏の踊り、秋の踊りの四つがあるわけです。春の踊りがなくなって、美空ひばりとか三橋美智也とか歌手の人が出る中間ショーというのを元旦から三週間やるようになった。実は僕は、中間ショーは絵も描かないで舞台稽古にいただけなんだけど、名前だけ載せてお金をもらっていた(笑)。
神山 中間ショーというんですか。
所 本当はそういう名前じゃないと思うんだけど。
神山 幕内ではそう呼んでいた。
所 そうそう
神山 SKDが昭和三〇年前後に、常盤座で松竹ミュージカルスというのをやっていたんですが、それは所先生は関わってらっしゃいましたか。
所 それはやってないですね。
神山 山口国敏さんが演出でいたから、先生もスタッフで参加していたかなと思いましたが、やっていませんでしたか。ジャズメンも小野満とか、結構いいのが出ているんですよ。最初だけは美空ひばりが出てました。
所 そうですか。
中野 所さんは日劇ミュージックホールのお仕事は一切してないんですよね。
所 僕はしていません。ほかのところはあります。
神山 日劇と日劇ミュージックホールは、プロデューサーが全然別ですものね。東宝は、演劇第一部とか第二部とかに分かれていて、一部の人は二部には全然口を出さないそうですから。
植田紳爾に頼まれ、宝塚の衣裳を手掛ける
中野 SKDが解散した後に、今度は宝塚の方に移られた。
所 いや、SKDが解散して移ったというのではないです。あるときね、池袋のサンシャイン劇場で、[松竹]歌劇団のショーで『サロメ』をやったことがあるんですよ。そのときの振付が黒瀧[月紀夫]さん。この人は宝塚の振付をしている人で、僕の衣裳を見て「これは絶対一緒にやったらいい」と植田紳爾さんに言ったらしいんですよね。それで植田紳爾から「衣装をやってくれないか」と電話がかかってきた。それは、宝塚のショーじゃなくて、熱海のニューフジヤだったんです。ニューフジヤのショーを植田紳爾が構成、演出していたので、それを僕が[衣裳を]やったんですよ。そのとき、植田さんが「そういえば、所さんの奥さんとも仕事してみたいんです。一緒にやらせてくれませんか」と言うんです。それで、眞由美も宝塚でやることになった。そのころ、まだ[松竹]歌劇団はあったんですが、二人とも契約者みたいな形で自由にできるようになっていたんですね。だから、名前も杉高治じゃなくて所治海でやっていた。
中野 宝塚の方で何か印象に残っている作品とかお仕事ってありますか。
所 宝塚といったら、印象に残っているというのは家内の[振り付けたもの]ばっかりになっちゃうんだけど「さくら」とかですかね。
大原 宝塚大劇場が建て替えになったこけら落とし公演で、春日野八千代先生がお出になった『宝寿頌』[一九九三年一月星組公演]もやってらっしゃいますよね。そのときは西﨑眞由美先生が「すみれの花咲く頃」の大群舞を振付なさった。
所 そうですね。
中野 所先生は、キャバレーを除くと、SKDや宝塚といった比較的大きなところでお仕事されていたんですね。
所 そうですね。だって、やろうとしたってそれ以上できないもの。
中野 県さんは昭和三〇年代の半ばくらいから日劇ミュージックホールの里吉しげみさんや水森亜土さんのいた劇団未来劇場の振付を手掛けていたようですが、所さんは見たことないですか。
所 僕はそこに行ったことはないんだな
中野 小劇場でのレビューとか、ミュージカルとかを手伝ったりもしてない。
所 やってないですね。ストリップだけですよ。浅草ストリップや新宿ストリップは東京衣裳部で衣裳を作っているんですよね。それで「所さんに頼んだら、描いてくれるよ」という噂を聞いたんじゃないかな。
中野 そのころはストリップも東京衣裳部にちゃんと衣裳を頼んでいたんですか。
所 そう、僕も傑作を描いたんですよ。あのね、今、描いてあげようか。女性がいる前であれだけど。
大原 いやいや、大丈夫です(笑)。
[所氏 イラストを描く]
所 これでストリップの世界でも、有名になっちゃった(笑)。
神山 なるほど。東京衣裳というのは、松竹衣裳や根岸衣裳とは全然別なんですか。
所 ええ、別です。
神山 東京衣裳というのは、東宝の仕事もすれば、どこの仕事もするわけですか。
所 どこでもやります。根岸衣裳は僕はあんまり使わなかった。
神山 根岸衣裳は、ほとんど歌舞伎ばっかりですからね。
所 そうなんです。
神山 SKDにしても宝塚にしても、全部女性ですよね。先生はもちろん男性の衣裳もやってらっしゃいますが、男性の衣裳と女性の衣裳とはどういう違いがあるのですか。
所 僕に言わせると、日本人は男と女[の違い]というのは分かりますね。外人は分からないですよ。それで僕が一番ショックだったのは、ニューヨークのラジオシティに行ったじゃないですか。眞由美の傑作をやっているのに評判がよくないんです。どうして向こうの野郎は分からないのかと思ったら、外国では男性は男性の振りをするんです。日本みたいに男と女が同じ格好で出て来て、同じ振りをするというのがないんですね。だからボレロみたいなものを持っていったら、海外でも褒められるんじゃないかなと思う。
神山 ボレロはSKDでよくやっていましたよね。
所 そうです。
神山 小月さんのずっと後の、最近までやってらした。
所 僕は歌舞伎座で『ラ・クンパルシータ』やったでしょう。ご存じ?
神山 それはちょっと記憶的にありません。
所 これですね[写真を見せて]。[着物を]洋服っぽくしたんです。歌舞伎座ではずいぶんいろいろなことをやりました。『ビギン・ザ・ビギン』のとき、彼女[眞由美]はなかなか振りが出て来ないんです。僕はバレエにちょっとうるさいものですから、「バレエのこういうのを取り入れたらどうだ」と言ったんです。ドビュッシーの『牧神の午後』[のニジンスキーの振付]って、全部横向きに動く振りでしょう。「お前、たまにはそんなのを考えられないのかな」と言ったんです。そうしたら、[『牧神の午後』の振りを取り入れて]やりましたよ。あんまり評判がよくなかった(笑)。
神山 『ビギン・ザ・ビギン』は日劇でずっとやっていましたね。
所 そう、県洋二がやっていました。
妻・西﨑眞由美との出会い
中野 先生はOSKの衣裳も担当されていますよね。
所 やっています。OSKは飛鳥亮という人がいたんですよ。これは天才と言われて有名な人だったんです。前は松竹楽劇団というのがあったんですよ。笠置シヅ子がスターで、日劇に対抗して、男も女も出ていた。そうしたら戦争で二年か三年で解散になっちゃった。そのときは山口国敏が踊り手で、バレエの県洋二、タップの佐伯譲、歌い手の飛鳥亮の三人を弟子にしたんです。その三人の弟子を歌劇団の生徒の教師にしていたんですが、戦後、飛鳥亮は関西に帰って、大劇に入ったんですね。何かジャンパーを着て『ウエストサイド・ストーリー』みたいなのをやって、大阪の新聞社が「こんな大天才はいない」と書き立てた。それで上層部が見に行って彼を引き抜いて東京に連れてきて、家を買って住まわせて、歌劇団の専属にしちゃった。そのときは眞由美の父親[浅尾忠義]が歌劇団の担当重役だったんです。
神山 ああ、そうなんですか。
所 最初は松竹の洋画部部長だったんですよね。それが歌劇団もやるようになって、戦後学校を復活させた。
神山 眞由美さんのお父さんが、そうさせたんですか。
所 そう。眞由美が[一九五七年からSKDの]振付の仕事をするようになったんだけど、最初は上手くいかなかったんです。歌劇団を一回辞めて、僕と一緒にキャバレーの仕事をやってから一人前になった。それで歌劇団に戻ったら、ばーっと売れたんです。戦後当時の振付家は譜面が読めないとダメな時代なんです。今みたいにテープでやっているじゃなくて、譜面だけでやるわけですから。[譜面を見て、振りを考えて]今度は稽古に行って、通し稽古はピアノだけですよ。オーケストラはないんですから。そういうのを乗り越えてきた振付家と、そういうことを全然知らない振付がいて、眞由美は知らない方ですからめちゃくちゃ苦労しましたね。ましてやキャバレーだと、女の人はばかにされるんです。バンドの連中が「ここはどうなってるんですか」と言われて「うーん」と考え込んでいると、「何だ、こいつ」と思われてしまう。だから、眞由美もめちゃくちゃ勉強したんです。そうしたら、今度はバンドの連中が眞由美に聞きに来るようになった。
神山 そうか、テープなんかない時代ですものね。失礼ですけど、奥様のお父様のお名前は何とおっしゃるんですか。
所 浅尾忠義です。松竹の重役をやっていました。
中野 所さんが眞由美さんと知り合われたきっかけが、「初代西﨑緑さんから頼まれて、昭和二九年[一九四九年]の新橋演舞場での西﨑舞踊公演での衣裳打ち合わせ」となっていますけれども、この西﨑舞踊公演に関わったきっかけというのは何でしょうか。
所 これは[初代]西﨑[緑]さんから、「若葉会という若い子たちの会で、新作をやるときに衣装のデザインをやってくれないか」ということで顧問を頼まれたんです。若葉会の連中にしてみれば、僕みたいな若い奴に衣裳の話を聞かないといけないから、気に入らないんですね。その若葉会に眞由美がいたんです。
そのころ、歌劇団には天野妙子という日舞のスターがいたんですが、黒い紗の着物を着て、粋な格好をして、深川芸者みたいなのを踊る演目があったんです。それを浅尾重役が気に入って、「あの着物をどうしても買いたい」というわけ。でも、舞台で使っているものを買うわけにいかない。じゃあ、終わってからクリーニングをして渡すから、ということで公演が終わってから僕が天野妙子の衣裳を取りに行った。その衣裳は眞由美が着るものだったんだけど、あとで眞由美に「衣裳は」と聞いたら「父からもらっているから、知りません」と言いやがったから、頭に来てね(笑)。だから、最初は嫌いだったの。
そのあとで日劇の前でばったり会ったら、いきなり「所さん」と言われて。「何だ」「所さんはいろいろなことをやっているらしいですね、私は振付をやりたいんだけど、どこか振付をやれるところはないですか」と、こう言うんだ。そのときは重役の娘というのは知っていたからよいしょしておこうと思って(笑)。紹介することにした。
ちょうど僕が美松の仕事をしてたから、文芸部に頼みに行ったら、「うちは天下の美松ですから、そんな初めてやる人には頼みません」と威張るわけだよ。そのころは東京衣裳に三〇万円か四〇万円、衣裳代が掛かるわけ。だから「衣裳代を一回分なしにしてくれたら、使ってあげますよ」と言うんだ。それで、東京衣裳部の副社長が僕の親友なんで、電話して頼んで三〇万円をただにしてもらった。それが、きっかけですね。
神山 昭和二九年ごろの三〇万円というのはすごいですね。
所 そうでしょう。
神山 美松に芸能部があったんですか。
大原 それがきっかけですか。
所 美松の評判がよかったものだから、美松の社長のエノモトさんが民謡か何かの稽古を見に来て「あの先生はいいじゃないか、使うようにしてくれないか」というわけだ。昔のキャバレーというのは、酒を飲むところだからと芸人はばかにしてやらなかったんです。でも、そのころ僕はラスベガスのショーを見に行っていて、今は劇場の時代じゃない、レストランシアターの時代だというのがわかってた。そういうのがわかっている連中は西﨑緑さんにしろ、花柳啓之さんにしろキャバレーに出てたんですよ。だから僕も喜んで「美松に出ろ」と言ったんです。そうしたら、銀座七丁目にあった銀座クラブというキャバレーも頼みに来た。衣裳が一回目はただになるのを知っているからね(笑)。こんなことは初めて言いますよ。
神山 そうすると、銀座のグランドキャバレーのショーのプロデュースというのは、美松の芸能部がやっていたんですか。
所 そうです。全部じゃないでしょうけど。当時は矢野という人が振り付けをしていて、その人がプロデュースしていたんじゃないですかね。美松は劇場風に振付から音楽から専属の人を呼んでやっていましたね。関西は全部一人でやってた。それから、聞いてよ。眞由美は一七~一八歳で緑ヶ丘音楽学校というところの振り付けをやっているんですよ。そこから相当な連中が出ているんです。宝塚の『ベルばら』とか何かで有名になった人も出ている。
大原 喜多弘さんですか。
所 そうそう、喜多さん。あそこから財津一郎や真帆志ぶきも出ましたよ。あのころは振付の先生が一番偉いから、一番に威張ってますよ。こっちなんかはいいデザインを描いたって知らん顔。お礼なんか言われたことがないです(笑)。
印象に残る舞台
中野 今までやったもので、特に印象に残っている舞台はなんでしょうか。
所 印象に残った舞台というのは、あり過ぎちゃって困っているんだ。その中で言えば、眞由美が振り付けた「シンフォニック・琉球」。これは傑作ですよ。曲もすごくいいアレンジですね。
中野 これは、西﨑眞由美さんは琉球舞踊をヒントにしてレビュー風にアレンジして、所さんは琉球衣裳をモデルにしてデザインしたということですか。
所 そうです。沖縄のものは、衣裳の柄はあんまりいじれないんです。でも曲はユンタでも何でも全部アレンジして、新しくシンフォニックなものにしたんです。眞由美の何がすごかったかというと、音楽がすごい。いろいろな音楽レコードを買ってきて、全部それでやっていましたからね。矢野顕子が民謡をまったく崩したように歌っているのを全部取ってきて、アレンジしてやったりね。歌劇団の子はそういうのが歌えるんです。
神山 戦後は、民謡をジャズ風にアレンジするというのがはやりましたからね。服部良一も江利チエミもそうだけど。
所 そうなんです。
所 それから僕は眞由美のこれが好きだったんだな。
神山 『幻華』ですか。これは『道成寺』ですか。
所 そう、『道成寺』。
神山 うろこの衣裳で。
所 これはまったく洋舞だね。衣裳もおなかを出している。能風の衣裳からこれになったんです。眞由美の創作の公演といえば、『鷹の井戸』。『鷹の井戸』というのはご存じですか。
神山 イエーツのですか。
所 うん。それをどうしても日本舞踊でやりたいと言いましてね。ただ、あれは難曲でしょう、どういうふうに解釈していいか分からないから、困って困って。二人で相談しているときに、歌劇団の男役だった奈津このみに会ったんですよ。
神山 奈津このみさん。
所 そう、そのころ一番の男役でこれからスターになろうというときに、能楽師と結婚して辞めちゃったの。奈津このみがうちの近所にいて、「困ってるんだよ」と言ったら「ああ、『鷹の井戸』は能楽でやってる」と言うんです。それで能の台本を見せてもらったら、結構いけるんですよ。じゃあ、曲の旋律を能みたいにしてやればできるんじゃないか、ということになった。そしたら能楽師の息子で一七~一八歳の子が二人いるから、「うちの子を使ってやってください」と言うから、その二人を使ってやったんです。
神山 それは、[戯曲の内容が]難しかったでしょう。訳分からなかったんじゃないですか。
所 難しい。でも、大好きでしたよ。
神山 『鷹の井戸』、平成一〇年ですね。
所 有賀二郎が本当にいいセットを描いた。何か「苦き命」という台詞があるんですよ。『鷹の井戸』と付けるのはちょっと嫌だったし[「『苦き命』という題にした]。これで、北寄﨑さんが照明で賞をもらったんです。
神山 ああ、国立劇場の北寄﨑嵩さんでしょう。
所 そうです。
神山 ここに平成一五年のときの写真がありますが、なさったのは平成一〇年なんですね。
所 衣裳が所治海。
神山 音響は高橋嘉市さん。全部国立劇場のスタッフですね。所さん、そろそろ時間は大丈夫ですか。本当に今日は楽しいお話を伺えました。
所 お役に立てたんですか。今度は飲みながら、ゆっくり話しましょう。