基本データ

取材日時:二〇一六年四月十七日
取材場所:井上誠 自宅スタジオ(宮上幼稚園)
取材者:中野正昭、日比野啓、鈴木理映子
編集・構成:鈴木理映子
監修:井上誠

イントロダクション

 一九六〇年代から七〇年代にかけて若い観客の熱心な支持を集めたアングラ演劇は、音楽や劇中歌の使用に関しても、新しい試みを行った。特に音楽劇形式に特化したアングラ演劇の一群を、仮にアングラ・ミュージカルと名付けるとすると、その筆頭に挙げられるのは東由多加主宰の「東京キッドブラザース」だろう。
 演劇実験室天井桟敷の結成メンバーの一人だった東由多加は、一九六八年に自身が中心となり東京キッドブラザースを旗揚げした。ヒッピー文化の台頭を日本で受け、和製ロックミュージカルを標榜した東京キッドブラザースは、一九七〇年六月にニューヨークに渡り、オフ・オフ・ブロードウェイのラ・ママ実験劇場で『GOLDEN BAT』(下田逸郎作曲)を上演、同年八月にはオフ・ブロードウェイのシェルダン・スクエア・プレイハウスへ進出、十二月までのロングランを実現し、アメリカの国民的人気テレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』への出演も果たした。東京キッドブラザースは、ブロードウェイでのロングラン記録を持つ日本唯一の劇団だ。
帰国後は、ヒッピーの原始共同体思想を実践するコミューン「桜んぼユートピア」を、鳥取県佐治村に延べ三百人を集めて建設したり、ロックバンドさながら東京後楽園ホールで八千人を動員する舞台を上演するなど独自の路線を歩いた。
若者の間での東京キッドブラザースの人気を決定づけた要素は音楽だ。まだ日本語でロックを歌うことが一種の実験だった頃、東京キッドブラザースは台詞やパフォーマンスを通じて、積極的にロックに日本語を乗せていった。東京キッドブラザースは公演ごとに柳田ヒロ、加藤和彦、井上堯之、松崎由治、小椋佳、加川良等々のロック、フォーク、ニューミュージックの人たちに作曲を依頼した。初期の舞台演奏にはロック・バンド「はっぴいえんど」の前身である「エイプリル・フール」(小坂忠、菊池英二、柳田博義、細野晴臣、松本隆〔当時、零〕)が参加していたことも見逃せない。
これと合わせて重要なことは、東京キッドブラザースがその歌や音楽を、サウンドトラックのレコードとして発売したことだろう。東京キッドブラザースのミュージカルは、観劇だけでは終わらず、観客がレコードを繰り返し聴くことで、若者にとって特別な作品となったのである。東京キッドブラザースが東京だけでなく、地方でも高い人気を博し、民音ミュージカルを手掛けるなどした理由がここにある。
 東京キッドブラザースは、東由多加がオフ・オフ・ブロードウエェイの経験から学んだ前衛的なアート感覚とアメリカらしいビジネスセンスの両方を持った、日本では珍しい劇団だった。今ではロックは一音楽ジャンルに収まっているが、まだロックが挑発的で、日本語でロックを歌うことが珍しかった時代に、東京キッドブラザースが和製ロックミュージカルという形式を通じてロックと演劇の蜜月時代、若者のアクチュアルな関係を築くことに成功したことは再評価されて良いだろう。
 今回お話をうかがった井上誠氏は、一般にはミュージシャンと知られている。一九五六年、神奈川県湯河原に生まれた井上氏は、中学では美術部に入学、ここで一学年先輩の巻上公一と出会う。そして一九七二年、神奈川県立小田原高等学校の一年生の時に、やはり同じ高校の巻上と共に東京キッドブラザースに入団、主に美術と音響のスタッフとして活躍した。有名進学高校の生徒が家出同然で劇団入りを目指したという点に、当時の東京キッドブラザースの演劇界での立ち位置がうかがえる。なお、巻上公一氏については、本サイトの巻上氏の聞き書きを併せて参照していただきたい。
 東京キッドブラザース在団中、井上氏は日本ではまだ珍しかったメロトロンやシンセサイザーの実機に触れることになる。これが一つの契機となり、後に井上氏は音楽家としての道を歩むことになる。
 一九七七年十月、東京キッドブラザースは専用の小劇場「THEATER365」を新宿に開場、新たに劇団四季を意識した研究生システムを導入し、一年間限定でほぼ休演日なしの公演を行うという新機軸を打ち出した。オープニング第一作『かれが殺した驢馬』(吉田拓郎、小椋佳作曲)では、音楽的にも、従来のロックからフォークやニューミュージックへと曲調を変化させた。主宰の東は、若者の嗜好の変化に応じ、それまでの泥臭いアングラ・ミュージカルや激情的なロックミュージカルからの方針転換を図った。
 当時の井上氏は美術、音楽の他に舞台監督、演出助手も務めるようになっていたが、次第に東京キッドブラザースの方針転換に違和感をおぼえるようになり、翌七八年に退団した。そして、ちょうど同じ頃に巻上が主宰した劇団「ユリシーズ」の音楽を手伝うようになる。
 ユリシーズは、元々は巻上が小田原高校時代に友人の戸辺淳、海琳正道(現・三田超人)らと結成した劇団で、一九七六年に再結成した。一九七七年九月、虫の一生を描いたパフォーマンス劇『コレクティングネット』(於・明大前キッドアイラックホール)の音楽を、巻上が井上と当時劇団「黙示録」の音楽監督だった山下康に依頼、これを受けて、井上と山下はシンセサイザーなどの電子楽器を使った音楽セッション・ユニット「ヒカシュー」(命名は山下)を結成する。その後、井上・山下のユニットのヒカシューは数度のライブを経て解散した。
翌一九七八年七月のユリシーズ『幼虫の危機』(於・江古田マーキー)では巻上、戸辺哲(淳の弟)、海琳、井上、山下が顔を揃え、これが後の音楽バンド「ヒカシュー」(名前は先の井上・山下のユニットを継承)の母体となった。当時のポップ音楽の最先端を行くバンドとしてヒカシューは「ニューウェイブ・ロック」「テクノポップ」などと呼ばれたが、実のところ音楽バンドというよりは劇団活動の延長としての音楽パフォーマンスと考えた方が適切だろう。同時期に登場した他のバンドと比べ、ヒカシューは奇抜なパフォーマンスと即興演奏に特徴があったが、それはメンバーの出自が演劇だったからだろう。
井上氏は、ヒカシューではシンセサイザー、メロトロンなどの電子楽器を担当し、一九九一年に脱退した後は、山下康との音楽制作及びパフォーマンスのユニット「イノヤマランド」で環境音楽を発表している。
 井上氏には、映画『ゴジラ』などの作曲家・伊福部昭(一九一四~二〇〇六)の研究家としての側面もある。子供の頃、東宝の怪獣映画『キングコング対ゴジラ』(一九六二年)で初めて耳にして以降、伊福部サウンドの虜となった井上氏は、一九八三年に伊福部昭の交響楽をシンセサイザーで再現した東宝特撮映画のトリビュート・アルバム『ゴジラ伝説』(キングレコード、ブリッジ)を発表した。『ゴジラ伝説』はこの種のレコードとしては記録的なヒットとなり、その後シリーズ化され、現在は『ゴジラ伝説Ⅴ』(二〇一七年)までが発売されている。舞台や映画のサウンドトラックに影響を受け、やがて環境音楽へと至った井上氏の足跡は、戦後の日本演劇と他メディアのミッシングリンクを物語る貴重な証言だということができるだろう。(中野正昭)

「サクランボ・ユートピア」のころ

中野 井上さんは一九五六年湯河原のお生まれですが、音楽や演劇に接したのは、どういうきっかけからですか。
井上 子供の頃に見た映画の影響がとても強いと思います。今でこそ、大きな音で音楽を聴けるというスペースはいろいろなところにありますが、昭和三十年代の地方では、映画館のスピーカーから出てくる音楽がいちばん大きく、迫力のある音だったと思うんです。特に子供でしたから、怪獣映画が好きで。ものすごく規模の大きな音楽が、かなりの音量でドーンと流れる、その体験はとても強いものでした。
中野 東京キッドブラザースの存在を知ったのはいつですか。
井上 僕は一九六〇年代中期に小学校、後期に中学校に通った世代なんですが、ちょうど小学校高学年の頃からグループサウンズが流行りだしました。その少し前にビートルズが出てきて「ロック」という新しい音楽のスタイルを提示し、若い人たちの関心が一挙に集まって、日本でもそういう音楽を始めた人たちがいたわけです。僕はまだ小学生でしたけど、その流れに興味を持って、音楽を聴くようになりました。
 中学一年生の時、日本に『ヘアー』(一九六九)というロックミュージカルが日本に上陸して、僕も当時よく聴いていたザ・タイガースの加橋かつみがグループを脱退して出演することになりました。当時としては大騒動で、僕も強い衝撃を受けて、一九七〇年の一月四日に東横ホールに『ヘアー』を観に行きました。それがいわゆる演劇の初体験です。初体験がいきなりロックミュージカルだったんですね。『ヘアー』は、出演者やスタッフのマリファナ騒ぎがあって、予定されていた公演日程を終えることなく、キャンセルされてしまうんですが、僕の中で一度火のついた気持ちはおさまらなくて。あの作品に出てくるような音楽をいろいろと聴いていたところ、翌年の一月に、日本にもロックミュージカルをやるグループがいて、彼らが前年にアメリカで大成功を収めて日本に帰ってきた、というような紹介を、TBSの『ヤング720』という朝の情報番組でやっているのを見ました。それが東京キッドブラザーズでした。生放送だか録画だったかはわからないんだけど、劇中歌を歌っていたのをすごく強烈に覚えています。ちょうど一月にあった『帰ってきた黄金バット』という凱旋公演の宣伝を兼ねた出演だったと思います。その公演は観にはいけなかったんですが、ほどなくして、日本の大手レコード会社、キングレコード、ビクター、それからポリドールも入っていたかな。そういうところから五月から八月くらいにかけて、立て続けに東京キッドブラザースのサウンドトラックがLPで出まして、それを片っ端から購入して聞くようになりました。それで一挙に火がついたんですね。
中野 湯河原で、周囲に東京キッドのファンはいましたか。
井上 ええ。実は小学校から一緒だったらしいんですが、中学に入ってから、一級上の巻上公一という男と交流するようになりました。美術部の先輩でしたが、非常に変わっていて。彼が演劇に興味を持っていて、俳優座の横浜公演の『ハムレット』か何かが当たったので観に行こう、と誘われたこともありました。結局何かの間違いで観られなかったので、駐車場で出待ちして、佐藤オリエさんにサインだけもらって帰ってきたなんてことが。その巻上くんとは『ヘアー』の話もしていたし、東京キッドブラザースっていうのが面白そうだと、レコードを貸し借りしたりしていました。ただ、僕はあくまでも音楽に興味があったので、演劇的な内容やましてや戯曲にまで触れるようになるのはもっと後です。巻上くんは、そのころからいち早く寺山修司の戯曲を探し求めて読んだり、といったことは初めていたようですね。
中野 東京キッドブラザースに入団されたのはいつ頃ですか。
井上 高校一年生ですから、十五歳かそこらですね。
日比野 一九七二年の『黄色いリボン』一橋大学講堂の初演には、井上さんのお名前があります。
井上 僕は裏方でした。その年の七月に巻上くんと僕と、二人そろって家出をしまして(笑)。東京キッドブラザースの事務所が渋谷の南平台にあったんですけれど、そこに居候していたら、当時、渋谷警察の家出人捜査係では、「演劇好きが家出したら、まず天井棧敷、次に東京キッド」というのが定番になっていて、すぐに足がついて連れ戻されました。それでも両親を説得して、八月に一週間ほど、鳥取の佐治村というすごく辺鄙なところにあったサクランボ・ユートピアに参加して開墾をしたんです。草刈りをしたり、いろんなことをやって帰ってきた。キッドは一九七一年と七二年にヨーロッパ公演をするんですが、毎回、それを観に行く大きな旅行団を結成していたんです。七、八十人くらい。そういうツアーをつくって割引してもらい、メンバーの渡航費を抑えるという事情もあったんだと思います。その時の体験が東さんの中では大きくて、そのままみんなで一緒に住み続けられるコミューンをつくろうというような運動が生まれ、「サクランボ・ユートピア」として実現していったんです。
日比野 旅費はどうされたんですか。
井上 もう自分でなんとか工面して、夜行を乗り継いで乗り継いで。
日比野 その時ご両親は、どういう形で説得されたんですか。もちろん、反対されますよね。
井上 とにかく僕は思っていることをどんどん口に出して。両親だけでは僕を説得しきれないと思ったのか、父の友人たちだとかいろいろな周りの人が応援に駆けつけてきたんですが、どうしても僕が折れなかった。それで「そこまでいうのならとにかく行かせてみようじゃないか」と理解を示してくれたということです。ちょうど夏休みでしたし、一時の気の迷いだとも思ったんじゃないですか(笑)。
日比野 『黄色いリボン』での裏方のお仕事というのはどういうものだったんですか。
井上 最後に黄色い、あれは菜の花のイメージだったのかな、花吹雪が舞台一面に降ってくるんです。その花を毎日チョキチョキハサミで切ったり、先輩の舞台監督さんと二人でキャットウォークからバーっと降らせたり。それから、お掃除ですとか大道具の転換なんてことを毎日やっていました。一橋でやったときは、まだ芝居が完成してなかったんですよ。クライマックスがないままの芝居をやって。それから十二月に山野愛子美容学校の小さなホールで五日間くらいやりました。
 厳密に言うと、サクランボ・ユートピアの開墾に参加した後、九月に渋谷公会堂で『星を歌え』というコンサートがあって、それを観に行ったことがあります。早めに着いて入り口で並んでいたら、劇団員の人に人手が足りないから手伝いなさい、と拉致されて建て込みを手伝うことになりました。キッドではこの前後に役者さんたちが大幅に入れ替わるということがあったんですが、このときだけは創立当時のメンバーも集まって、内田裕也さんも自分のバンドを引き連れてきてくれたりして、三時間くらいの長いコンサートになりました。演劇ではなかったんですが、いろんな意味でエポックな公演でした。
中野 周りにも高校生くらいで家出して、という人は多かったんですか。皆さんどういう生活をしていたんでしょう。
井上 事務所にはそれほど年の違わない人間が何人もいましたから、あるいは家出をしてきていたのかもしれません。僕が知っている人たちの何人かは福生の方にあったコミューンからキッドに通ってきていました。ヒッピーというかフーテンというか、とにかくどういうふうな形で生計を立てていたかはよくわからない人たちでしたけど。
日比野 サクランボ・ユートピアでは三食は保証されていたんですか。
井上 どういう形だったかは覚えていないんですが、旅費以外で収めるお金というのはなかったと思います。カンパか何かで、劇団の方から支給されていたんじゃないでしょうか。材料を渡されてそれをみんなで料理して食べるというようなこともありました。当番制で、その時一緒になった、ひょろっとした女性が、山口小夜子さんだったと後でわかりました。
日比野 サクランボ・ユートピアの崩壊まではご覧にはならなかったんですね。
井上 僕は劇団の方にいましたから。渋谷の事務所ですね。それから溜池の方にも、タダで借りたという平屋の大きな一軒家があって、そこに居候していました。だから鳥取には最初の一週間以外は行っていないんです。ただ、風の便りに「どうも難しいようだ」とか、何人か村人のようなかたちで定住した人もいるけど、コミューン自体は縮小していっているということは聞こえてきました。
中野 渋谷や溜池での共同生活の方はうまくいっていたんですか。
井上 そうですね。もともと学生運動も下火になり、フーテンだとかヒッピーだとかも下火になり、という時代背景がありましたから、強いリーダーがいるわけでも、思想を語るのでもなく、みんながいいかたちでそこに存在できていた。とても自由で、何かを強制されることもなく、誰かが特別にとんがっていることもありませんでした。もちろん思想的なものを持っている人はいたんでしょうけど、政治とか宗教にもとらわれていなかったし、今でも、あの瞬間がいちばん面白かったという気がします。東さんも、その後いろんなふうに言われていますけども、そういう集団の一人として、みんなを盛り立てて一緒にニコニコ笑っている、ちょっと年上の人という印象でした。
中野 『黄色いリボン』以後はずっと裏方で働かれるんですね。
井上 僕は大道具で、舞台をたて込んだり、イントレを組んだり、ドライアイスを仕込む係や照明の手伝いも、なんでもやりました。
日比野 役者になりたいと思ったことはなかったんですか。
井上 はなからなかったです。小さいころから物を作るのは大好きでしたから、絵を描いたりといったことで携われるなら、嬉しいなということでやらせてもらっていました。『猿のカーニバル』(一九七三年)という小夜子さんと秋川リサさんが出た芝居では、僕の同級生も二人誘って、仮面をかぶって、いつも小夜子さんの後ろにくっついている五人組のピエロみたいなのをやりました。でもあれは動く大道具でしたね。

バンドと芝居の呼吸

日比野 音楽をやりたいという志向はまだなかったんですか。
井上 まったくありませんでした。ただ、キッドは旗揚げのときからずっと、どんな狭いステージにも、ロックの生バンドをおいていて、役者の呼吸に合わせて音楽をつけるということをやっていましたから、ロックの人たちは常に身近な存在でした。キッドの音楽監督をしていた下田逸郎さんが一九七一年の五月に『遺言歌』というソロアルバムを出すんですが、たぶんこれが僕の音楽人生でいちばん衝撃を受けた経験です。あらゆるジャンルの音楽がいいかたちで融合されて、演劇的なまとまりをなしていくという、すごいものを聴いてしまった。キッドのメンバーも天井棧敷の蘭妖子さんも参加していて、寺山さんも歌詞を書いている、その後の僕の展開につながる、いろいろな要素が凝縮されているようなアルバムでもあります。ですから、下田逸郎という音楽家の存在は、キッドに入る前から僕の中ですごく膨らんでいました。ただ、ちょうど僕が入るちょっと前に下田さんはキッドを抜けちゃったんです。その後は、芝居のたびに作曲家が変わるというやり方になって、テンプターズの松崎由治さんや田山雅充さんも一作やっています。
日比野 下田さんはヨーロッパに放浪なさったんですよね。
井上 そうです。一九七一年にキッドを辞めて、ヨーロッパを回って帰ってきて。『黄色いリボン』の時にはいませんでしたが、『猿のカーニバル』では、帰ってきていて、作曲はかまやつひろしさんでしたが、歌唱指導をしてくれました。すごい長髪で、そのキッドの南平台の事務所に颯爽と現れたときのことを、今でもよく覚えていますけどね(笑)。かっこいい人が戻ってきた!という感じでした。
中野 その当時の作品で、特に印象に残っているものはなんですか。
井上 最初に手伝った『黄色いリボン』は井上堯之さんの曲で、これはリハーサルからずっと現場にいたので、耳にタコができるほど聴いていましたが、素晴らしかったですね。あの方は一九七〇年代中期から『前略 おふくろ様』とか、テレビの劇伴でも名曲を書かれるんですが、その萌芽がありました。劇中歌もいいんですが、BGMのセンスがよくて、井上さんが引っ張ってくれた芝居だったなと思います。だから、最初にかかわったというだけでなく、音楽的な意味でも『黄色いリボン』は忘れられない作品です。
日比野 キッドの作品の歌というのは、詞と曲、どちらが先でしたか。
井上 たぶん詞だと思いますね。東さんから渡されて、「はい、これ明日までに曲を書いて」と言われて、「こんなのじゃ曲書けねえ」と言って突っ返したことがよくあった、と下田さんが言っていました(笑)。「どうでしたか」なんて、カセットテープをもらいにかまやつさんのところへ行ったりしていたので、たぶんかまやつさんも、それから井上さんも詞が先だったと思います。
日比野 作曲者というのは稽古の間はずっと立ち会っているんですか。
井上 いえ、それはなかったです。カセットテープが出たか出ないか、最初はオープンリールだったかもしれませんけど、初めのうちは簡単なピアノ伴奏だけが入ったものを聞きながら歌の練習をして。ただバンドの制作の女性がピアノが上手でしたから、稽古場にピアノがあれば、彼女の演奏でレッスンしていました。そのうちバンド譜ができあがってきたら、結構早めにバンドが入って、夜遅くまでリハーサルに付き合っていました。
日比野 音楽的な部分について、東さんが注文をつけることはありましたか。
井上 アレンジとか、そういう部分にはあまり口は挟みませんでしたけど、盛り上げ方ですね。ここで大きくしてくれとか、このせりふをこのタイミングで受けて、ブワーッと来てポンと落とせとか、そういう呼吸については非常に丁寧に繊細に注文していました。また、役者の演技や呼吸が変われば、素早く音楽の方にも「こういうふうにしてみて」って指示は出していました。だから頭の中では常に、音楽が役者の動きやせりふに与える影響について計算していたんじゃないかと思いますね。
中野 バンドの方はどういうメンバーだったんでしょうか。作曲者の方が連れてくるのか、それとも特定のメンバーがいたのか。
井上 最初のころは、下田さんだとか、かかわった人が友人を誘って、みたいな形だったと思います。でも演奏する人は劇団員とも顔見知りになるので、だんだんと「次の芝居でも太鼓やってよ」みたいな感じで、引き続きやってもらうようになっていったんじゃないでしょうか。だから必ずしも作曲家とセットではなくて、劇団員とのつながりで何度か来てもらったり、ギャラが安すぎるから嫌だ、なんてことがあれば他の人を探したり、といった感じでした。
中野 稽古場では、俳優さんの実体験をしゃべらせて、それに合わせてどんどんせりふをつくっていったようですが、その場合、音楽も後から変更していくんでしょうか。それともある程度、せりふも筋書きもできてから、そうしたやりとりが行われていたということなんでしょうか。
井上 役づくりの段階で東さんからできあがったせりふを渡されることはめったにないんです。まず、オーディションの延長のようなかたちで役者がポンと東さんの前に座って対話が始まるわけです。「じゃあ、あなたが今まで生きてきた中でいちばん悲しかった話をしてください」とか、そんなふうな問いかけをして、その人が何をどう語りだすかをじっと観察する。その中でどこかとっかかりになりそうなポイントを見つけると、そこをグッと掘り下げていって、役者が興奮して泣き出しちゃうくらいのテンションにまで引っ張っていって、そこで出てきた言葉を素早く書き留める。それから次に会ったときには「この話をこんなふうにしてみたんだけど」とか「ここをもう少し膨らませてみよう」なんてキャッチボールをしながらつくっていくことが多かったと思います。僕も実際にそういう現場は見ましたし、のちに民音でやった『一つの同じドア』(一九七六年)は、言ってしまえば『コーラスライン』のような、オーディション会場の話で、東さん自身が演出家役で舞台に出て、次々とやってくる若者たちに「今までに一番楽しかったことは何かある?」なんて問いかけて、やりとりしていく作品でした。あれは半分以上、実際にご自分でやっていたことなんだろうなと思います。
中野 じゃあ、歌も音楽も途中から加わって、あとは臨機応変に変わっていくわけですね。
井上 ですから、役者と東さんとの言葉のキャッチボールの間は、BGMも何もないんですけど、劇団の制作でピアノの上手な方がいたときには「じゃあ、ちょっと音楽入れてみて」なんてこともありました。彼女の方も勘を働かせて、それまでの芝居の劇中歌、たとえば『太陽がいっぱい』だとかを静かに引きながら、役者の感情の高まりをサポートしていましたね。だから東さんは、音楽が人の気持ちに与える影響をすごくよく理解していた人なんじゃないかな。また、それをサポートするミュージシャンが周りにいたんだと思います。
日比野 たとえば、本番をやっている間も「これじゃダメ」と、どんどん変わっていくようなことはあったんですか。
井上 ロングランはあまりなくて、一週間くらいの公演ですから、そんなに大きな変更はなかったです。ただ、リハーサルでいったん九割方できあがっていたものを、ごっそり変えちゃうというようなことは時々ありました。そういう修羅場は何回か経験しています。これはめったにないことで、もう時効だと思いますが、幕を開けちゃってから、どうも音楽が合わないというのが二曲あって、初日は井上堯之さんの曲だったんですが、途中から急遽、ピンチヒッターで田山さん作曲のものに変わったことがありました。田山さんはもともとキッドの創立のころからいた人でしたから。それから後期ですけど、海外でやった『ザ・シティ』(一九七四年)も、もともとは全曲下田さんに書いてもらったんだけど、向こうの観客とのやりとりの様子を見て、別の芝居の別の曲、たとえばかまやつさんが書いたものと入れ替えるというようなことはしていました。海外に持っていった芝居の場合は、そういうことは頻繁にありました。
鈴木 当時、キッド以外の劇団、演劇は、どんなふうにご覧になっていましたか。
井上 一九七三年の二月三日、四日に、天井棧敷が初のリサイタルをやって、僕はこの二日間とも観に行きまして、音楽的な衝撃を受けました。リサイタルの模様を収録したLPの『国境巡礼歌』って、今ではすごいカルト盤になっていますが、リサイタルから一カ月くらい後に、キッドの先輩に口をきいてもらって、渋谷の棧敷館の一階にあったシーザーさんの部屋に遊びにいったら、「今度これがレコードになるんだよ」とオープンリールをかけてくれて、いろいろ話をしてくれました。
日比野 そこで、シーザーさんについていこうとか、天井棧敷に入ろうかということにはならなかったんですね。
井上 そうですね。とにかくキッドが居心地がよかったんです。何かを極めようといったことはなかったけれど、あの空気の中に浸っているのが楽しかったし、そんな中で自分が役に立てることがあるならなんでもやろうという気でいました。そういう自分の関心の広がりのちょっと先に、天井棧敷館があったり、キッドの大道具をつくっている先輩で状況劇場が大好きだという人に不忍池に連れていってもらったりということがあった。特に状況劇場には、パンクロックのライブを観に行くような、そういう刺激がたまらなく面白くて通うようになりました。状況って家庭用のスピーカーをテントの梁にぶら下げて、大音響で歌謡曲を流したりするんです。でもあのバリバリに割れた音の中で役者が生声で絶叫するから、その世界観ができる。音は綺麗に出すだけがいいんじゃないというのも、あの時教わったことです(笑)。ですから、当時はまだ学生も続けていたんですけど、キッドに行くと何日間かは泊まり込んでいましたから、学校はどうしていたのか……不良学生でしたね。
日比野 年齢的には将来の進路も考える時期ですよね。
井上 将来もなんとなくそのまま行けたらいいなと思っていたんですが、「職業」という意識はまったくなかった。だから親には心配をかけました。今もですが(笑)。
日比野 東さんは、未成年であれ家出少年であれ、皆さんに同じように接していたんですか。
井上 役者さんには結構厳しいところがありました。特に創立のころからいた、身内のような役者さんには。ただ、それ以外の人にはとても人当たりがよくて、優しいおじさんという感じでした。もともと、天井棧敷が創設されて、『書を捨てよ町へ出よう』なんかが話題になって日本中から家出少年が集まってくるような環境の中、そういう少年少女に対応するのが東さんの役割だったそうです。世田谷にあった棧敷のサロン、寺山さんの家だったと思いますが、そこにまだ学生だった小椋佳さんが居候していて、狭い一部屋に東さんと二人で住んでいたと聞いたことがあります。ですから、いろんな人たちといい形で接することに長けていたんじゃないでしょうか。もちろん、劇団にも、政治的なイデオロギーを声高に叫ぶ人とか、血気盛んな人はいて、やたらにぎやかでしたが、むしろそれが若者だ、みたいな空気があったし、実際に殴り合いになったりはしませんでした。酒を飲んで楽しくやっている、とても演劇的な場(笑)です。そんな中でも東さんは、僕から見ればむしろ大人しい感じ。気がむくと、劇団の仲間や外から来た人、九條(今日子)さんなんかもいたのかな、そんな人たちと一緒に麻雀をやっていました。

和と洋、アンダーグラウンドとメジャー

日比野 一九七四年の『ザ・シティ(THE CITY)』海外公演には同行されたんですよね。
井上 高校三年生の七月からニューヨーク公演ということで、これも相当大変だったんですが、親が折れてくれて、高校を退学しました。それで、ニューヨーク公演と、秋のロンドン公演にずっとついていきました。戻ってきて復学しましたから、高校は四年かかって卒業しています。
中野 東さんがご自身で書いたものの中でも『ザ・シティ(THE CITY)』の海外公演は不評だった、とあります。井上さんから見た状態はどういうものでしたか。
井上 東さんはこの作品で、現代の日本の若者の姿をリアルに描いたつもりだったと思います。でも、海外の観客、天井棧敷だとかキッドを観にくる人たちは、そういうものは全然期待してなかったんですね。そのギャップが大きかったんじゃないかと思います。ですからヨーロッパに持っていた芝居もそうですが、三作とも非常にオリエンタルなものを前面に押し出した、アングラ風のものになっていきました。アングラといってもポップではありますけど、番傘を持っていたり、振袖姿だったり。
日比野 日本の若者のリアルは期待されていない、ということは、東さんにはすぐわかったんですか。
井上 たぶん、行く前からそういうリスクが高いという覚悟はしていたと思います。舞台背景には富士山に波がかかる、北斎風の絵を描かされました。といっても反対側にはハーレー・ダヴィッドソンが描いてあるんですが、センターはやっぱり全面浮世絵でということです。それで、しばらくはそれだけで押し通そうとしていたんですけど、あまりに客が入らないんですね。それで主役の深水三章に歌舞伎メイクにしてくれと頼まれて、見よう見まねでやってみたことがあります。そういう悪あがきのようなことは何度か経験しました。
日比野 それは深水さんのアイデアだったんですか。
井上 東さんです。ほかにも能面をつくってくれとか、向こうで芝居をやっている最中にもいろいろと日本的なギミックを追加注文されました。ヨーロッパに行ったときも同じで、かつて『里見八犬伝(THE STORY OF EIGHT DOGS)』(一九七一年)とか『西遊記(THE MOON IS EAST, THE SUN IS WEST)』(一九七二年)で、キッドを絶賛してくれた人たちが劇場に来るわけですから、途中からストーリーには関係なく、和服の女性が出てくるシーンを追加したりもしました。もちろん、そういうふうにせざるをえなかったというのは、東さんとしてもすごく苦しかったと思います。
日比野 ただ、東さんがパンフレットに書いている文章なんかを読むと、興行師として、お金のこともきちっと考えていらっしゃったという印象もあります。こういうこともやらないとお客さんは来ないんだよ、という計算もあったんじゃないでしょうか。
井上 そういう感覚は、寺山さんと棧敷を立ち上げたときから持っていたんじゃないでしょうか。実験的な遊びだけじゃなく、十分お客さんを呼び込めるだけのものをつくれる、と思ったからこそ始めたんだと思います。だから、こうすれば受ける、というようなアイデアはたくさん出てくるし、同世代の人たちが楽しむようなものには絶えずアンテナを張ってもいました。もちろん、そのアイデアのすべてが当たるわけじゃなくて、東さんの中では十分お客さんを呼べるコンセプトだと思ってやったことでも失敗しちゃうことはあった。その後始末を制作の人たちが引き受けて、別の形で補填していくのも、たびたび見ましたけれどもね。
日比野 東さんにブレーンのような人はいなかったんですか。
井上 寺山さんは時々事務所に遊びに来ていましたが、お二人がどんな話をしていたかはわかりません。僕らはそういうときは遠慮して席を外していましたから。あとは制作で、梶容子さんという人がいました。その方が、この辺りで宣伝を始めたいからコンセプトだけまとめてくれとか、東さんのパートナーのようなかたちで、興行的な注文をしていました。僕が入ったときには下田容子さんといっていたんです。下田逸郎さんと一緒にニューヨークに渡ろうとしたんですが、未成年だったので、なかなかビザがおりない。だったら結婚しちゃうというので下田さんの奥さんになったという人で、もともとピアノをやっていて、稽古でも舞台でも演奏していたし、音楽監督としても活躍されていました。下田さんは、壁には大駱駝艦のポスターを貼っていましたが(笑)、「私はアングラというものは好きじゃないの」と、僕にも言っていたくらいで、アングラ的な要素をことさら強調することをすごく嫌っていました。その影響が、あるいは東さんにもあったかもしれないですね。東さん自身は、アンダーグラウンドとオーバーグラウンドの境をことさら意識してはいませんでしたが、シアター365の開場(一九七八年)以後、劇団四季のようなシステムを取り入れたいというようなことを書くようになるのも、ひょっとしたら下田さんの考え方に影響されたのかもしれないと思います。
中野 キッドのメンバーの間では、アンダーグラウンドとオーバーグラウンドというような境を意識するようなことはあったんですか。
井上 ないですね。ただ、僕個人としては、天井棧敷と状況劇場、それから『黄金バット』なんかでオリエンタルなムードを前面に出していた初期の東京キッドブラザース、この三つの集団が持っていた土着的なものというのは、まさにアンダーグラウンドだったと思います。アングラと呼ばれる劇団には、ほかにも黒テントなんかがいましたが、黒テントや初期の自由劇場には、俳優座を始めとするそれまでにずっとあった、日本の正当な演劇の匂いを感じました。だから関心はあったんですが、観に行くまでには至らなかった。だから、僕自身は、正しく演劇的なものには関心がなくて、そこからはみ出した、不思議な、日本的な情念に強く惹かれて劇場に通っていたんですね。
日比野 東京キッドブラザーズのお客さんというのは、井上さんが在籍していた当時はやはり、若い人が中心でしたか。
井上 そうですね。年配の方はあまりいらっしゃらなくて、大学生ぐらいの人が中心でした。それで、圧倒的に男性の方が多かったです。初期のキッドには、タイプの違う、面白い男優がいっぱいいたんですよ。彼らの掛け合いがまた面白くて、それが男性客に受けていたんだと思います。のちに、柴田恭兵君が若い女の子をいっぱい引っ張ってくるようになってからは、そのスタイルもずいぶん変わっちゃいましたけど。
中野 たとえば『ザ・シティ』のような作品の場合、劇中に出てくるようなモーターサイクル族が客席にいたりしたんでしょうか。
井上 ほとんど見かけなかったですね。ただ、僕の高校の同級生で、そっち系の男子はみんな面白がって見にきてくれましたけど。
日比野 さきほどのシアター365の話にも関係しますけど、柴田恭兵さんが出てきたりして、キッドがいわば商業演劇化していく過程というのは、東さんの中では自然なことだったんでしょうか。井上さんから見て、その辺りの葛藤を感じられたことはありますか。
井上 葛藤はしていたと思います。僕が出ちゃった後のことですが、劇団にいる友人から「ずいぶんお酒が進んじゃって、大変なんだよ」ということは聞きました。僕がいたころはそこまでではなかったですけどね。初日の前日なんかにはすごくナーバスになって、お酒も度が過ぎて当たり散らす姿も見ましたが、僕らもあまり深刻に受け止めていなかった。当時は「産みの苦しみなんだな」くらいに思っていました。
日比野 柳美里さんの本には、稽古中、ずっと日本酒を飲んでいたという話もあるんですが、そこまでではなかった。
井上 僕はそれは見てないです。ただ、ポケットウイスキーはよく持っていましたけど。だから逆に、僕が入団する前に『里見八犬伝』をヨーロッパでやった時(一九七一年)の稽古風景を、NHKが東さんが亡くなった後に放送したのを観て驚きました。稽古場で茶碗にお酒を入れてガンガン飲んでいて、ピースの空き箱か灰皿かなんかを役者さんに投げていた。ああいう風景を僕はほとんど見てないです。劇団の先輩たちの中にも「東さんこれ、きっと、カメラが回ってたから投げたんだよ」と言っている人もいました。
日比野 いずれにしろ、井上さんがいらっしゃったころには、誰も、お酒について問題にする人はいなかったということですね。
井上 そうです。ただ、大好きだった役者さんたちが、いろいろなかたちでやめていくことは常にあったし、芝居が思っていたようにいかなくて苦悩しているところはそばで見ていましたから、いろんなことが積み重なって、その度合いが大きくなっていってしまったのかなとは思います。商業演劇的になっていくということについても、毎回、苦労しているスタッフのことを気遣っていたし、一向に生活が向上しない役者たちのことを思って「これじゃいけないんだ」と考えた面もあると思うんです。まして、『ザ・シティ』が失敗して、日本に戻ってきた後、劇団員は一人か二人しかいなくなっちゃいましたから。僕も「いったんここで大学に行きたくなったので、高校へ行き直しますから、退団させてください」と挨拶に行ったんですよ。東さんも「分かった」というふうに言ってくれて。それが二月の末くらいだったと思いますが、その後五月に民音でキッドが芝居をすることなったら「あ、井上くん、時間あったら手伝いにきてよ」と連絡がありました(笑)。こっちも、ケロッと行きましたけどね。
 でもやっぱり、『ザ・シティ(THE CITY)』は東さんにとって最初の大きな挫折だったし、大事な事件だったんじゃないかと思います。そこから、やりたいことをちゃんと表現するためにも母体をしっかり固めようと考えたのが、民音との提携につながっていったんじゃないでしょうか。それが非常にうまくいって、民音で二本やったあと、ヤングジャパンという会社をつくった細井健さんと知り合い、ロックコンサートのようなかたちで全国に芝居を持っていくスタイルが軌道に乗り始めました。ちょうどそのころ、柴田くんというスターも生まれて、全国展開して、すごい集客ができるようになっていくんです。
日比野 当時、劇団員にギャラは出ていたんですか。
井上 海外公演の生活費なんかはギリギリ出ていました。週に何ドルとかって感じで。それとは別に食費も細々とありました。みんなでロフトに雑魚寝して合宿していましたから。だから芝居の稽古がないときは、みんなバイトしていました。シアター365ができて、東さんが四季のシステムのことなんかを言い出してから、劇団員のバイトが禁止されたりするようになりました。ただそれも、僕は後になって峯さんの本で読んで知りました。
日比野 じゃあ、バンドの人や美術のプランナーには払っていたわけですね。
井上 そうですね。だからスタッフと役者とでは、違っていたんです。同じ美術でも、大道具班で、舞台装置をつくったりすることには、もちろん日当はなかったです。
中野 その間、いわゆる財布を握っていたのも、制作の梶さんですか。
井上 だと思います。ただ梶さんも後半は離れちゃいますけどね。

反逆の非日常から愛ある日常へ

中野 民音とかかわりを持ち始めたころに、もう一つ、ご本人も失敗作と認めていらっしゃった映画『ピーターソンの鳥』(一九七五年)がありました。井上さんはあの映画をどうご覧になりましたか。それこそ東さんのよく書いていた「青春に対する最後の抵抗」のようなものを感じましたか。
井上 『ピーターソン』には、美術の手伝いで何回か行っています。ただ、映画と演劇では話法が全然違いますから、そこで空回りしているなというのは、もちろん映画も演劇だって素人でしたが、そんな僕から見てもわかりました。そういうところが何カ所もあって、見ていて正直つらいものがありました。よかれと思ってつくった有名な役者さんたちのカメオ出演は空振りだったし、主役の秋田明大さん(元日大全共闘議長)は俳優じゃないので、せりふは全部棒読みでした。東さんは、秋田さんの良さを引き出そうとして、いろいろと編集もされたということもわかるんですけど、必ずしも成功はしていなくて。秋田さんにしても、こういうことを表現したかったのかな、とは思うんですが、それがうまく伝わっているとは言えなかったですね。
中野 東さんはこれ以後も映画への関心は持っていたんでしょうか。
井上 ありました。ハワイかどこか二カ所くらいの南国の島でロケーションしたドラマで『サラムム』(一九七九年・テレビ朝日)というのを作っていますし、映画も『霧のマンハッタン』(一九八〇年)というのをニューヨークに行って撮っています。
中野 それは、表現者として映像作品も手がけたいということだったのか、あるいは劇団経営のことも踏まえて、俳優を新しいメディアに売り込んだりする手立ての一つだったのか、井上さんはどうお感じになりましたか。
井上 特に柴田くん以後、俳優をテレビに売り込みたいという気持ちは強くなったと思います。実際に、柴田くんと込みで、劇団員の人がテレビに出ているようなことも、ひところはよくありました。ただ、東さんの根っこのところはやっぱり、無類の映画少年だったんだと思います。『黄色いリボン』にも、土曜日の昼下がり、いつも行っている場末の映画館……というような歌があるんですが、そんなふうに暇さえあれば映画館に行っていた。寺山さんも同じで、映画館の暗闇の中で過ごす時間をとても大切にしていました。それで、東さんも「いつか、銀幕で何かを表現したい」という気持ちを持ち続いていたんじゃないかな。
中野 東さんは好きな映画として、ヤクザ映画と寅さんシリーズを挙げています。これはちょっと、キッドのイメージとはかみ合わないような気もしますが。
日比野 どこかで一度「新派を目指す」というような発言もされていました。どこまで新派をご覧になっていたのかはわからないけれども、日本の心、演歌的なものに対して、何か思い入れがあったのかなとは思いますが……。
井上 東さんはグループサウンズが大好きだったということはよく発言されています。で、現代からグループサウンズの音楽性を振り返ると、あれは紛れもなく演歌、歌謡曲なんですよ。そういう情念に浸るのが気持ち良かったという感覚はあって、やっぱり東さんの中には、そういった昭和歌謡の情念は強くあるんだと思います。
中野 東さんは著書『愛を追い 夢を追い』(一九八二年)の中で、初期のキッドの作品は怒りのロックミュージカルだったと言っています。でも、観客の方は怒りよりも、愛や優しさの方を求めていて、劇団もそっちの方向性へ進んでいったと。ただ、やっぱり東さん自身も、そういう方向へ行くだけの必然性をお持ちだったんですね。
井上 うーん。観客がどういうふうなリアクションをするかということが演出家である東さん自身の気持ちを変えていくという流れはあったと思います。『ザ・シティ』は、かなり激しい、ハードなロックンロールナンバーもある作品で、僕もすごく好きです。その次につくった『十月は黄昏の国』(一九七五年)には、「民音フォークミュージカル」といったようなサブタイトルがついていましたが、これも実際はロックバンドでかなりハードな曲を演奏していました。ただ、主役の加川良さんをキャスティングするにあたって、東さんはその少し前に出された加川さんのセカンドアルバム『親愛なるQに捧ぐ』(一九七二年)を聴いたようなんです。その中に加川さんがアコースティックギター一本で淡々と語る長いトーキングブルースがあって、その語りをすごくいいなと思ったと聞いたことがあります。実際、劇中でも、加川さんのせりふのバックにはアコースティックギターやブルースハープを流していました。ただ、曲自体は、加川さんと小椋佳さんが半々で、アレンジはプログレというものだったんですが。それでこのとき、キッドにメロトロンが導入されるんです。
日比野 時代が求めるものも、ちょうど、怒りから優しさ、愛といったものへ変化していったんじゃないかなと思います。学生運動の残り火のようにしてあったプロテストの気持ちが、だんだん消えていった時期だった。
井上 だから、そういう時代の空気は東さんもすごく感じていて、民音のミュージカルなんかにもそれが表れていたのかなと思います。『ピーターソンの鳥』にしても、記憶は曖昧ではありますが、映画を通して何かメッセージを伝えようというのはなかったんじゃないかな。むしろ、かつてはそういうふうなことをしていた男が、日常を取り戻そうとして苦しんでいるというような方向性の作品だったと思います。
日比野 井上さんは『ザ・シティ』の後、いったん退団されたわけですが、東さんやキッドとはどういう関係になっていくんですか。
井上 自分でも時系列を追っていて驚いたんですが、ちょうどキッドに僕がいかなくなるころに、ヒカシューが始まってくるんです。一九七五年の『十月は黄昏の国』、翌年の『ピーターソンの鳥』と、連絡があれば手伝いに行くというような関係は続いていたんですが、以前のように住み込んで一緒にやる関係ではなくなっていました。巻上くんも、『ザ・シティ』のロンドン公演の途中でキッドを抜けちゃって、別の方向を向いていました。キッドの先輩で、『里見八犬伝(THE STORY OF EIGHT DOGS)』のロンドン公演に参加した楠原映二さんという方がいたんですが、彼がそのままロンドンに住み着いて、ヒラリー・ウエストレイクとデビッド・ゲールって二人とルミエール&サンというフリンジの劇団をやっていたんです。その楠原さんが『ザ・シティ』を観にきて巻上くんに目をつけ、「一緒にやろうよ」と言って、巻上くんはゲストで二作くらい出ました。フリンジの典型のような、おどろおどろしい、日本じゃとても上演できないようなものでしたが、それがとても面白かったみたいです。当時、カンタベリー一派と呼ばれていた前衛的なジャズロックの、ヘンリー・カウとかロバート・ワイアットだとかが音楽で協力していて。そもそも劇団のスポンサーはピンクフロイドのロジャー・ウォーターズだし、俳優として参加していたストーム・ファーガソンはピンクフロイドのアートワークをやっていたヒプノシスのメンバーなんです。だから巻上くんは、ロンドンの音楽的にもとんがった人たちとつきあいのある劇団に参加したわけです。それで彼はキッドのメンバーと一緒に帰国はしたんだけど、一九七六年の七月には劇団ユリシーズをつくって『不死鳥の謎』『途切れた旋律』と公演をうっていきます。明大前の宇宙館という、やっぱりアンダーグラウンドな劇場で、東さんも観に行って、面白かったと書いていたし、劇団員にもさかんにそう言っていました。この年、僕が手伝った『一つの同じドア』もそうでしたが、キッドの作品っていうのはモノローグが中心だったんですよね。シーンごとに役者が出てきてBGMが変わって、そのBGMに乗せたモノローグが始まるという。ですからトーキングブルースの積み重ねみたいなスタイルでロックと交わっていたんだけど、巻上くんの作品はそれとは真逆で、徹底的にダイアローグの面白さを追求するものだったんですよ。それを東さんがすごく面白がっていたというのは、親しかった劇団員からも聞きました。ちょうどその後くらいから、東さんの芝居でもダイアローグが積極的に生かされるようになったのは、ひょっとしたら巻上くんの影響なのかもしれません。
日比野 なるほど、初期の作品はやっぱり『ヘアー』とか、ロックオペラ的な構造がすごく強いなと思っていたんですが、そういうところから変化があったわけですね。
井上 きっかけの一つにはなっているんじゃないかなと思います。
鈴木 井上さんご自身は、どういうかたちで、音楽活動を本格化させていかれるんですか。
井上 『一つの同じドア』とほぼ同時期に、巻上くんの関係で黙示体という劇団と知り合うようになりました。行田藤兵衛さんという人と、花輪あやさん。女性のあやさんの方が印象に残っているかな。その劇団に、どういうわけか巻上くんと、同じ中学の美術部の先輩だった戸部(哲)くんが客演したんですよ。それで僕がキッドで美術をやっていたと言ったら、舞台に大きな龍の屏風絵が欲しいからつくってよ、と言われて、板でつくった屏風に、日本画風の龍の絵を描いたものを納品しました。本番を観にいくと、ブライアン・イーノだとか、当時の新しいロックというか、新しい現代音楽みたいなものをBGMとしてふんだんにつかっていました。それで聞いてみたら、その選曲をしていたのが山下康という男で、作曲もやるという。こういうことで、この時期に次々と、そういう(後のヒカシューにつながる)流れができていったんです。

民音ミュージカルの舞台裏

日比野 『一つの同じドア』は全国を巡演した作品ですね。井上さんはこれにずっとつきあっていたんですか。
井上 結構本気でかかわっていました。民音のミュージカルということで、ギャランティーもありましたから、家族を説得しやすいこともありました。この時は演出助手という形で、東さんが演出するときには代役で舞台に出て、東さんがやった通りに動いたり、逆に東さんが舞台に出ている時はその記録を採ったりしていました。いろんなところをまわって、思い出もいろいろとありますが、全てが高まったクライマックスの瞬間にメイン電源が落ちちゃって、真っ暗になったことがありました。アクシデントだったんですが、タイミングがよく、カタルシスの果てに全員が音楽の高まりとともにスローモーションでスモークの中から出てきたところだったんです。もともとは静かなBGMが流れて、坪田直子さんが最後のモノローグを言うと、後ろにバーッと電球でものすごい数の星が点灯して終わるという場面でしたけど、星もつかないし、バンドの音も出ない。そうしたら下田容子さんが機転を利かせて、とっさにピアノソロに曲をアレンジして演奏し始めて、坪田さんが真っ暗闇のなか、せりふを言い出したしたんです。それで、東さんがポケットからマッチを出して役者に配るんですよ。棧敷の芝居じゃないけど、みんなでマッチの明かりを次から次へと灯して、それが星空のようになって。そんなすごく感動的なこともありました。
中野 『一つの同じドア』は、かなり手直しをしながらつくって、本番になってからも苦しんだというふうに東さんは書いています。
井上 そうですね。実は演出家の役には俳優座かどこかの劇団の俳優さんがキャスティングされていたんです。それでほぼできあがっていたんですが、明日が本番という時に、東さんが「全部だめだ。やめてしまえ!」というふうにかんしゃくを起こしちゃって、公演中止だ、みたいな感じになっちゃった。柴田くんは泣き出しちゃうし、民音の人たちは大慌てでなだめたり。仕方なく「じゃあ、俺がやろう」って東さんが出演することになったんです。テーブルの上にあんちょこを置いて、それを読むような感じで初日の幕を開けたのを覚えています。それこそ昔のキッドだったら、幕は開かなかったかもしれませんね。でも、民音で、チケットも全部売っちゃっていましたから、東さんがやむなく出たんです。
中野 キッドだけの公演でも、直前に俳優を降ろすようなことはあったんですか。
井上 時々ありました。リハーサルでどうしてもほかの役者とかみ合わなくて、本番に出られなかった人もいました。それから途中でふけちゃうというのもあって、それこそ峯のぼるさんという、僕も大好きな役者さんがいたんですけど、プレッシャーが大きくなるとふいにいなくなっちゃうんです。家出して、でも完全にはいなくならなくて誰か知り合いのところに隠れてる(笑)。みんなもそれはわかっていて、「たぶん今度はあそこに隠れているよ」なんて感じで探し出して、舞台に連れ戻したりもしました。
中野 民音ミュージカルにかかわるようになって、お客の層が変わったような雰囲気はありました?
井上 ええ。やっぱり会員の方が動員されていたんだと思いますよ。ただ、あのころから民音は、ポップス系のミュージシャンたちに語ってもらうということを積極的にやっていてましたから、若い人も多かったと思います。
日比野 この作品のように全国で、いくつか会場を変えて上演することはよくありますよね。その間に、演出や音楽が変わっていくようなことはありましたか。
井上 民音はきちんとした母体を持っていますから、地方公演でもだいたい同じサイズの、同じような設備を持った小屋をあてがってくださるんです。なので劇場が変わっても建て込みで困るというようなことは一切なかったですね。お客さんの層もだいたい同じでした。
ただ、『一つの同じドア』は、スケジュールが前期と後期とで分かれていたので、東さんとうまくいかなかったり、いろんな理由で前期に出ていた人がいなくなっちゃって、後期には新しい人が入ってくるということがありました。それで、その人のために、いちからシーンを作り直すことはありました。
日比野 音響的にはどうでしたか。ホールによって違いはあったんでしょうか。
井上 あのころ会場になっていた公民館なんかは多目的ホールですから、音響に特化してはいないんです。でも、労音なんかもあって、ああいうちょっと反響が強めのところでも、平気でロックコンサートもやっていましたし、そういう音もそんなに嫌じゃなかったですね。音響のスタッフもずっと同じ人でしたし、劇場ごとにちゃんとまとめることはできていました。
日比野 PAはどのくらいの規模でしたか。
井上 結構大掛かりなロックコンサート並みのものでした。ただ、バンドの音はそれほど拾わずに、ギターならギターの音をそのまま会場に響かせていました。キーボードとドラムの一部をマイクで補助していたくらいの音量バランスです。役者さんたちはせりふや歌でハンドマイクをつかっていたんですが、当時はまだワイヤレスじゃなかったので、マイク持ったままのダンスシーンなんかあるとぐるぐるしちゃって。本番中、音響スタッフが地を這うようにして、はいずりまわって直すなんてこともありました。
日比野 ワイヤレスはテクノロジーとしてあったんじゃないかな。
井上 やっぱり高価だったんじゃないですか。人数も多かったですから。海外に行ったときには、僕も音響をやらされたことがあります。『ザ・シティ』は、ニューヨーク、ロンドンにもっていく前に、六本木のアトリエフォンテーヌでやったんですが、そのときもリハーサルも兼ねて「井上くんが音響もやって」ということで担当しました。でも、発注したスピーカーの出力が小さすぎて、バンドがフルで演奏するとボーカルが聞こえにくくなっちゃう。限界を超えてボリュームを上げざるをえないんだけど、そうするとハウリングが起こるというようなことで、すごく苦労した覚えがあります。また『ザ・シティ』は、モーターサイクルミュージカルで、本物のバイクがステージを走り回るんですよ。クライマックスのレースの場面でも、バイクが走り回っている中で歌うので、キヤノンのコードが轢かれてぶちぶち切れるんです。それでしょっちゅう「井上君、秋葉原に行ってきて」といわれて、ケーブルの換えを買いに走ってもいました。
日比野 XLRコードって高いですよね。
井上 だから先っぽだけ買いにいってました。シールドは巻で買ってあったんでしょうね。なんと乱暴な。
日比野 音響機材は会場にあるものを使っていたんですか。
井上 いやいや、持ち込みでした。音響さんがバンに機材一式を詰め込んで回っていたと思います。民音のときは、ヒビノ音響か何かだったと思います。ちなみに、舞台美術や建て込みなんかも、そのころは外に頼んでいましたが、前進座の舞台美術の人たちが、いつも助っ人で来てくれていました。

シアター365誕生とカラオケの台頭

中野 井上さんが最後にキッドにかかわったのはどの作品ですか。
井上 ニッショーホールでやった『黄金バット復活版』(一九七七年)という芝居を手伝ったのが最後です。シアター365を大久保につくったときも、内装のよしずを貼ったりはしたんですが、舞台の組み立てから手伝ったのはその作品が最後です。その前の『一つの同じドア』のときに結構いいギャランティーをもらったので、それでシンセサイザーを購入したんですが、それをキッドの公演に貸したりもしたんです。今思うと、あの作品が最後になったのは、とっても象徴的な出来事だったかもしれない。『黄金バット復活版』というのは、東さんが、これを敢えてもう一度やることで、それまでやってきたものをいったん清算しようというという意気込みでやった芝居だったんです。だから冒頭で一九七〇年の『黄金バット』を再現するシーンが30分ほどあるんですよ。加藤栄さんのものすごく感動的なモノローグがあって、曲も「花雪風」とか、四、五曲はやったかな。で、それが終わるとポーンと別の音楽が鳴って、これまでの場面が全部「あの人はいま」みたいな懐メロテレビショーの一部だったというのが明かされ、コマーシャルにはいる。そんな演出で、今までのキッドがあっという間に過去のものにすり替えられるんです。で、そのあとは現代の日本の下町を舞台にした別の『黄金バット』が始まるという構成でした。新しい『黄金バット』の話の方では、下田さんの曲はなくて、小椋佳さんが別のペンネームで書いて曲になっていましたね。ですからどちらかといえばフォークソング風のあたりのやわらかい曲でした。それともう一つ、重要なことがあって、この『黄金バット復活版』までは生バンドがステージ上で演奏していたんですが、その次の『彼が愛した龍馬』(一九七七年)でシアター365ができてからは、普通のビルの地下室で天井も低いし、スペースもないし、バンドは無理だということになって、全部カラオケでやることになっちゃったんです。1年間、毎日、自分たちの小屋で芝居を打ちたいということでシアター365はできたんですけど、ロックバンドの生演奏で芝居をやるという東京キッドのかたちはここで消滅しちゃった。僕としては、それにショックを受けてキッドが嫌いになって……というようなことでは全然なくて、たまたま同じタイミングでヒカシューが忙しくなり、芝居は観に行くけど手伝いはできなくなり、行かなくなっただけという感じでしたけど、今思うと、あのとき見事に、キッドの体質は変わろうとしていたんです。
日比野 バンドはスペースだけでなく、コストの問題もあったんじゃないでしょうか。
井上 それもあります。どんなに安く叩いても、何人もの人間が必要ですからそれは大きな負担だったと思います。リハーサルでも一週間くらいは生バンドで練習していましたから。今はなかなかできないことですね。
日比野 演出助手もやった井上さんに、東さんは残ってほしいとは思わなかったんでしょうか。
井上 それはなかった。だから自然と、「あ、何か興味をもてることが見つかったんだ、じゃあそれを頑張れば?」なんて感じで送り出してくれたんだと思います。僕が何か特別なものを持っていればまた、あるいは「辞めるな」と言ってくださったかもしれないけど。
日比野 東さんは自分以外のメンバーに演出をやらせるという発想は持っていなかったんですか。
井上 僕がいたときにはそういう動きは感じられなかったです。演出をするのは東由多加で、本をつくるのも東由多加。そこを譲ろうという発想はなかったと思います。ただ、僕が一つ驚いたのは、小椋佳さんに曲を依頼するようになって、スパッと歌詞を書かなくなって、全部人に書いてもらうようになったこと。たとえば『ピーターソンの鳥』の劇中歌の歌詞は、岡本おさみさんや坪田直子さんが書いています。ですから、『ザ・シティ』の挫折と民音での復活があったころから、東さんは自分の歌詞じゃないものを取り入れるようになったんです。
日比野 小椋さんが書いてきた歌詞を変えるということもなかったんですか。
井上 作る前に綿密な打ち合わせはしていたと思います。ただ、できたものに手を加えたりすることは、僕が知る限りではなかったです。小椋さんがメロディーと歌詞も一緒に入ったデモテープを送ってきてくれたのを何度か聴きましたが、本番もそのまんまでしたから、そのカセットが届いた後の手直しはなかったと思います。
日比野 井上さんはシアター365の後の、サンシャイン劇場や日生劇場でのキッドの公演はご覧になっていないんですか。
井上 そうなんです。黙っていてもソールドアウトになって、お客さんが入るというようなときには声が掛からないんです。もっと後になって集客が陰ってくると「井上くん、観にこない?」なんて電話もかかってくるんですけど。だからシアター365には何度か行っていますけど、ピークのころのキッドは全然観ていないんです。
鈴木 その365ができて以後、生演奏がカラオケになったりすることで、作品の性質も変わっていくだろうということは、東さんもある程度自覚されていたと思いますか。
井上 だと思います。生の演奏の力を必要としなくなったから、カラオケでもいいという判断になった。もっと別のところでお客さんにアピールする何かを東さんは見つけたんでしょうね。そちらに賭けてみようということだったんだと思います。また、その一つの結果として、柴田くんたちのような新しい才能が、あの空間で開花したんじゃないかな。やっぱりバンドの生演奏だと、小さく囁くようなせりふというのはまず通用しない。だからカラオケでコントロールすることで、新しい役者さんたちが育つ可能性が出てきたんです。 
 ただ、僕自身は、そのこととは別に、生演奏でやる芝居の強さは、ほかに変え難いものがあったというふうに思っています。短くても一週間、長いときにはもっと、役者と一緒に稽古場にいるんですよ。役者と東さんとのやりとりが続いている間も、そのピリピリとした稽古場の空気を共有して、彼らのデリケートな呼吸に合わせるように一つの音を絞り出していく、その磨き合いは、普通のロックバンドではまずないことです。どこまで表現を膨らませると音楽的に成り立つのか、想像のさらに上を東さんは求めたし、やってみたらそれが正しかったということは多かった。やっぱり、たとえば五人なら五人の音楽が好きな人たちが集まったバンドより、はるかに広い世界が劇団にはあったと思うんです。また、そういうところから出てきた音に僕は取り憑かれていたんです。素晴らしいロックバンドはいっぱいあるけれども、そういう彼らにも出せないような独特の音をあのころのキッドのバンドは出していた。いろいろな偶然が重なって、奇跡のようにすばらしい演技ができる日があるように、演奏にもそんなときがあって、僕は何度かそれを目撃したので、やっぱりそういうものがなくなっていくのは寂しかったですね。実は、同じことがシーザーさんにも起こっていて、万有引力ができてから(年)、だんだんシンセサイザーの打ち込みが多くなっていったんですが……でも、それがあったからこそ、『少女革命ウテナ』(年)というテレビの劇伴も生まれ、新しいファン層を獲得したんですね。その辺りのことは、二つの劇団にシンクロする動きかもしれません。
日比野 そうすると、井上さんはご自身でも、天井棧敷や東京キッドブラザースの音源を編集されていますが、そうして残された音源と、井上さんが当時体験していたものとの間にも、やはり違いがあるといわざるをえない部分はありますか。
井上 やはり内部で体験したことを伝えるというのは難しいことで、複数台のハイビジョンカメラを使っても、伝わってことないものってありますよね。照明も役者の息遣いも確かに再現はされているけど、目の前で起きたこととは似ても似つかないものになってしまう歯がゆさは感じています。ただ、少なくとも台本やスチール写真だけというよりは、プラスアルファで残せるものがあるんじゃないかというのを信じてやりたいと思っています。
僕自身、キッドや下田さんの音楽に最初に触れたのは、キッドの舞台を観る前ですから。特に『帰ってきた黄金バット』は舞台の実況録音盤でしたから、ロックバンドとの掛け合いで歌ったり、せりふを言ったり、客がどっと湧いたりするのをすり切れるまで聴きながら、会場中走り回っているような様子を想像していました。そうやって観てもいないものを想像するだけですごく面白かった。だから、当時の天井棧敷やキッドを知らない今の若い人たちにも、残っている音源を聴いてもらうことで、何かしら感じてもらえるのならいいのかなと思っています。

「アメリカ」とキッドの「ミュージカル」

日比野 井上さんは、キッド以外のロック・ミュージカル・カンパニーとのおつきあいはありましたか。たとえば巻上さんは、ミスタースリムカンパニーに関わっていらっしゃいますよね。
井上 旗揚げ(一九七五年)に参加していましたね。僕はやっぱり美術で引っ張り出されました。あの劇団は深水龍作さんと三章さんの兄弟が始めたんですが、当時、龍作さんが福生に住んでいて、そのガレージで徹夜で作業しました。
鈴木 そういった美術のアイデアやノウハウは、やりながら覚えていかれたんですか。
井上 キッドのときは、できるからやる、というよりも、東さんから「これ描いて」と渡されたものをひたすら模写するようなものでした。ただ、一度だけ、ちょうどニューヨーク公演に行く前でしたが、いろいろ図案も考えなきゃいけないので、ということでキッドの先輩でもあるペーター佐藤さんという、あのころ一世を風靡していた方のアトリエに連れていかれて、いろいろな話をしてもらったということはありました。また、東さんは棧敷の時代に横尾忠則さんとも一緒に仕事をしていたので、あのシルクスクリーンの仕上げが実に丁寧で、そういう職人肌な基本の上に、あれだけの独創性があったんだというような話をしてくれたこともあります。
日比野 そういう価値観は東さん自身も意識されていたことかもしれません。
井上 そうですね。職人の技のようなものにはすごく敬意を払っていて、感性だけでやっちゃう、みたいなものはあんまり好きじゃなかった。
日比野 井上さんご自身は美術の方へ進む気はなかったんですか。
井上 高校を四年やった後に東京造形大学に入学しました。ただ、そういうことになりますと、本格的に東京に住みますので、ますますキッドには行きやすくなる。でも同時期にヒカシューの活動も始まってきて……という感じでした。
中野 キーボードを覚えたのもキッドの活動の中でですか。
井上 ええ。自宅(実家)は幼稚園ですから、ピアノやオルガンはあったんです。でも、そういうのを習うという環境はなかったし、自分でも音楽家を目指すという発想はなかった。ただ、キッドのBGMに強く惹かれてはいたんです。劇中歌も大好きなんだけど、バックに流れる、ごくシンプルな、役者のモノローグを引き立てるための伴奏。決して出しゃばらないんですよ。でもその潔さというか静謐の中の美しさにひきつけられて、誰もいない稽古場で見よう見まね弾いてみたりしました。一日中稽古場にいて、耳にたこができるくらい聴いて覚えていましたから。だからヒカシューは、巻上くんのボーカルのあるバンドですけど、同時進行で環境音楽のイノヤマランドというのを始めたのも、キッドのBGMが僕に与えてくれた影響だと思います。
日比野 ミスタースリムカンパニーをご覧になった感想はどういうものでしたか。
井上 僕がロックというものを意識し始めたときにはもう、ロックンロールからロールが取れてしまっていましたよね。一九六〇年代の中期、ビートルズが出てきたくらいからそうなって、その後いろんなバンドが出てきて、アートロックだとかサイケデリックロックだとかって頭にいろいろな言葉がついてくる。そういう時代のちょっと後から僕は流れに乗ってきました。でも、スリムは、グッド・オールド・フィフティーズとかアメリカングラフィティ的な世界をやっていて、それは僕が体験してこなかったものだった。だからすごく楽しそうで、見ていてもそうだったけど、強く惹かれるまでにはならなかったです。それは純粋に世代的なものですね。僕より三つ四つ下くらいの人たち、ちょうど竹の子族の辺りには、フィフティーズのリバイバルがあるんです。スリムに入ってくる若い役者さんたちはちょうどそのサイクルに合っていたし、だからこそパーっと人気劇団にもなった。でも僕は世代的にも狭間にいて、あの世界にうまく乗り切れなかったのかなと思います。
日比野 ミスタースリムが持っていたアメリカへの憧れというのは、キッドにとっても重要な要素だと思うんです。当時の若者たちのほとんどが抱いていたアメリカへの憧れが、キッドの人気を支えていたようなことはなかったですか。
井上 僕が実況盤で初めて聴いた『帰ってきた黄金バット』は、日本の名もない若者がアメリカに行って大成功を収めた、というキッドの帰朝報告として受けたところがあると思います。それを観に行けば、最新のアメリカのカルチャーを吸収できるようなつくりだった。でも、実際に彼らがアメリカに持って行った『GOLDEN BAT』(一九七〇年)は、「はないちもんめ」が出てきたり、とても日本的な情念を扱ったもので、まるで真逆だったんですよね。向こうでは和のものをやって、日本に戻ればジミヘンみたいなロックをやるという二面性は、それはそれとして面白かったんですけど、僕自身は海外への憧れというよりは、キッドを通して改めて知るアジアのエネルギーや音楽の持つ魅力、日本的なものの美しさに惹かれていたと思います。また、そういうふうに一回転して日本の奥深さを知るようなことが面白くてたまらなかった。もともと、一九七〇年前後のユースカルチャーには、日本の土着的なものをもう一度見直そうという動きがあったんですよね。アメリカにはピーター・マックスというアメリカ的なポップの極みのような絵を描く人がいて、日本には横尾忠則がいて、同じような手法を使いながらおどろおどろしい、恐山のような風景を描いていて。僕は横尾さん的な世界の作り方が好きで、キッドにも、それを求めて入ったところがあるんですが、僕が入る直前の『西遊記』(一九七二年)を最後に、東さんは意識的に和から乖離していってしまいました。だから僕が最初に参加した『黄色いリボン』は、アメリカの片田舎につくられたコミューンの擬似家族の話で、みんなが西部劇の格好をして出てきたし、その後の『猿のカーニバル』はフランスの系演劇みたいな芝居でした。ちょうど、僕が好きだった和の空気は、キッドの中から削ぎ落とされつつあったんです。その極め付けが、僕がいちばん馴染めなかった若者文化の代表みたいなフィフティーズものの『ザ・シティ』。だから『ザ・シティ』の美術をやれと言われてすごく困ったりもしました。ただその一方で、自分にはないものを東さんからインプットされていく刺激もあって、友人関係も広がっていったというのはあります。
日比野 私が東さんとアメリカというものを考えるときに思い出すエピソードは、アメリカでガンの治療をしたいといったという話です。ガン研の医者は日本と変わらないと言ったにもかかわらず、頑強に行くという。最後になって、実は、そういうところにアメリカというものへの憧れが表れていたのかもしれないと思うんです。
井上 どうでしょう。アメリカにもたくさん友人はいましたから。もう一度(ラ・ママの)エレン(・スチュアート)さんに会いたいというのもあったと思います。それから、その当時東さんと親しかった方によれば、やっぱり柳さんの強い勧めがあったようです。彼女なりにいろいろ調べて、お膳立てしたというふうに聞いています。
日比野 なるほど。東さんが和の世界をそぎ落としていったのには、どんな判断があったんでしょうか。
井上 ほかに面白いものを見つけたからなのか、やってちゃいけないからやめたという感じではありませんでした。実は、『ザ・シティ』のニューヨーク公演が失敗して、ロンドンでもうまくいかなくて、「このままじゃ帰れない」ということで、ラウンドハウスという劇場を借りてもう一本芝居をやろうと動き出したことがあったんですよ。『鶴とリボン』という邦題だったかな……『黄色いリボン』の設定をアメリカのコミューンから、ろくろ首なんがある日本の大正時代の見世物小屋に移したもので、僕も鬼とか一寸法師とか龍とか、たくさんの背景をつくったり、切り出したりしましたし、舞台稽古も始まっていました。でも、ちょうどそのころ、ツトム・ヤマシタという現代音楽の方がロンドンでレッド・ブッダ・シアターという劇団的なものをやっていて、「企画がぶつかりすぎるからやめてくれないか」と言われ、トップ同士のやりとりでこっちが折れることになっちゃって。だから、舞台美術もそのまま劇場に残して日本に帰ってきてしまいました。だから、東さんも、やろうと思えば和のものもやる覚悟はあったと思うんですけど、それ以来、そういうものには一切触れませんでした。
日比野 もともと、和のものをやっていたのには、やはり寺山さんの影響もあったんでしょうか。
井上 そう思います。寺山さんは棧敷をつくる前から姥捨とか恐山とか、おどろおどろしい世界観をもつものを現代の東京に置くという表現をされていた方です。天井棧敷を立ち上げたときも、見世物の復権というテーマがあって、それをいちばん面白がっていたのが東さんでしたから。僕は寺山さんの作品は、シーザーさんの音楽に惹かれて芝居を観に行くという程度でそれほど知らないんですが、後になって巻上くんやキッドの先輩に聞くと、あの時のあのせりふは寺山さんも同じようなことを言っていたとか、寺山さんの口癖がいつの間にか東さんの口癖になっていたよね、なんて話は冗談交じりによくありました。やっぱり後々まで、かなりの部分で寺山さんの影響はあったと思います。
中野 寺山さんが青森という故郷を作品で取り上げるように、東さんが長崎や、自分のふるさとといったものから、日本を見出すというようなことはありましたか。
井上 ときどきありました。自分の子ども時代、母親に連れられて桜並木の道を歩いたとか、複雑な家庭環境で育ったということを、なかばドキュメンタリーのように役者にしゃべらせたりしていました。『猿のカーニバル』の小夜子さんが出てくる場面は、そこだけが和風で、9分間の長いモノローグなんですが、東さんが子どものころ、父親に虐待されて育ったことを切々と語るものでした。そこだけガラッと世界が変わったのが印象に残っています。もっと後、柴田くんも抜けちゃった後の『桜組』という芝居では、長崎の「原爆学級」(胎内被爆児を集めた特設クラス)を取り上げていますね。それも具体的に長崎という言葉が出てきたかどうかはっきりと覚えていないんですけど。
中野 じゃあ、どちらかといえば抽象的な日本、故郷というイメージだったんですね。
井上 ええ。あとはお祭りも好きでしたね。きらびやかでダイナミックな日本の祭りをクライマックスに持ってくる。カーニバルじゃなくてお祭りなんです。人が死んだところにも灯篭を立てたりして、にぎやかにデコレートしていく。そういう日本の祭りの感覚が好きだったみたい。せりふでもそんなことを言っていました。
鈴木 アメリカのミュージカルとの関係性はどういうものでしたか。お話を聞いていると、キッドの場合、いわゆるブロードウェイのミュージカルへの憧れのようなものは感じられないですよね。
井上 まったくそういう匂いがしなかったですね。僕が気づいていなかったのかもしれないし、東さんも本当はそういうふうにやりたかったのかもしれないですけど。下田さんにしてもアメリカのエンターテインメントみたいな曲をつくろうとはされていました。でも、下田さんの場合、土着的なわらべうたみたいなものが、それ以上に強くあったんです。それで、下田さんと一緒にやってきた東さんの方も、いちばんの落としどころは日本的なものになるということはあったと思います。ただ、僕が抜けた後、柴田くんが活躍していたころには、禁酒法の時代のシカゴを舞台にしたものもありましたし。アメリカ的なものを意識して、取り入れようとしていた時代もあったと思います。
中野 自分たちがやっているものはブロードウェイミュージカルとは違う。でもそれもミュージカルだというようなことは、東さんもお書きになっていますよね。「ミュージカル」ではなくて「音楽劇」とか、何か別の言葉でそれを表現することはなかったんでしょうか。
井上 言い方を変えることはなかったですね。当たり前のように「ミュージカル」と言っていました。でもそこには、人が思い浮かべるのよりはるかに広い解釈があったんでしょうね。
中野 寺山さんは「ミュージカル」という言い方を嫌ってましたよね。
井上 恥ずかしかったんじゃないですか。『身毒丸』では「オペラ」といっていましたね。

東京キッドブラザースという輪

中野 井上さんが最後に東さんにお会いになったのはいつですか。
井上 たぶん一九九七年くらい。エコー劇場で初演した『はつ恋』(一九九六年)という作品を、キッドが持っていたTHEATER FARMで上演したんです。結果的にそれが東さん自身が演出した最後の芝居になりました。楽日の前日だったかな。劇場の脇に小さなカウンターバーがあって、そこにいたら東さんが「どうだった」なんて来てくれて。その時に東さんが「ちょっと疲れちゃったので、少し休もうと思うんだ」なんて、こそっと僕に言ってくれて。なんか妙にゾワッとしたものを感じたんですけど、僕もそういう気持ちは打ち消したいので、冗談めかして背中を叩いて「そんなこと言わないで。またチケット買うからつくってくださいよ」みたいなことを言って別れました。それがお会いした最後になった。その後、入院されたことなんかは知っていましたが、僕みたいなかたちで一度離れちゃった人間がお見舞いに行くのもおこがましいなと遠慮していたら、あっという間に悪くなってしまって。あんなに早く逝かれるとは思わなかったので。その後、研究生の人たちが自主公演としてやった『BUS STOP』(一九九九年)も、応援を兼ねて、先輩たちと四、五人で連れ立って観に行きましたけど、東さんは、直接の演出はしていなくて、劇場にもいらっしゃらず、お会いできなかった。
中野 元キッドの方たちとは今でも交流を続けていらっしゃいますか。
井上 告別式で何十年ぶりに会うような友人もいましたし、三回忌ではライブハウスを借りて、下田さんも神戸から来て、「花雪風」を歌ってくれました。自分の舞台ではキッドの劇中歌は絶対歌わないんですけどね。今年(二〇一六年)の九月にもまた企画しているんです。下田さんの劇中歌と深水三章さんのせりふで。ほかの役者さんたちにも声をかけようと思っています。
中野 それこそ、東さんが繰り返し書かれていた「青春」というキッドのあり方が、思い出されるような気がしますね。
井上 言いたくないですけどね(笑)。「青春」という言葉を使い出したのも柴田くんたち以後のキッドだと思うんです。それは戦略的に使っていたわけで、真っ只中にいる人はそういうことは言わないでしょう。あれは何回忌のときかな。東伊豆に不思議な神社があって、そこで東さんの法要をしようというのでキッドのOBたちと、ラ・ママのエレンさんもそのためだけに車いすで来てくれたことがありました。そのときは巻上くんも来ていたな。みんないいオジさんオバさんというか、そろそろ前期高齢者っていう世代なんだけど、やっぱり歌ったり、話をしたりすると、当時に戻るんですよね。ものすごい壮絶な喧嘩別れで、「二度とキッドになんか行かない」みたいな感じで辞めていった人も結構いたんだけど、みんな戻ってきて、笑いながら東さんの話ができる。そういう劇団だったんだなと思いました。だから、僕の知っていた初期のキッドは、東さんを頂点にしてみんなが従うという劇団ではなかったんですよ。一人ひとりがキャラクターが立っていて面白い。そんな中に東さんという人もいてニコニコ笑っていて。美術をやらせたらこの人、大道具をやらせたらこの人みたいな感じで、演出をやらせたらこの人、という感じでした。特定のイデオロギーとか宗教的な集まりではなく、そういう場所があるということは、高校生の僕にも不思議で、だからこそ魅力的だということは当時から感じていました。
日比野 後年、それが変わっていったわけですね。
井上 そういうふうに言われていますね。僕は目の当たりにしていないのでわかりません。ただ、ボロボロ泣きながら酒をあおる、みたいな姿も全く知らないわけじゃないので、それが日常になってしまったのかな、辛かっただろうなと想像するしかありません。かつては東さんをサポートしていた梶容子さんや一緒にやっていた男性スタッフもどんどん抜けて、東さんより年下の人ばかりになったりもした。だから昔と同じようには支えてもらえなくなっちゃったんでしょうね。若い人たちだって、いろいろなかたちで立派にサポートしてくれていたんですけど、東さんの求めるものとは違っていたのかもしれません。なんか、東さんを弁護するみたいな感じになっちゃってるけど(笑)
日比野 いや、やはり東さんというと、パートナーだった柳美里さんの書かれた本の印象が強くて、そういう、初期のキッドのお話は、ほとんど知られていません。ですから今日のお話は得難いものです。
井上 そうですね。柳さんと東さんの間には、大きな信頼関係があったし、柳さんの書かれていることも確かに一面としてあったと思います。ただ、それは僕が見たことのない東さんで、僕は別の東さん像も知っているし、それを残していきたいと思っています。