基本データ
二〇一七年二月六日
取材場所:サカモト・ミュージック・スクール 等々力本校
取材者:日比野啓、神山彰、鈴木理映子
編集・構成:鈴木理映子
イントロダクション
日本の商業演劇の中心をミュージカル(音楽劇)が占めるようになって、約二十年が経った。ブロードウェイ・ミュージカルの翻訳だけでなく、国産もの、つまり日本人が作った漫画やアニメ、小説を原作とし、日本人が作詞・作曲したミュージカルも数多く上演されるようになった。大きな成功を収めるには未だ至っていないものの、和製ミュージカルの海外進出も見られるようになった。第二次世界大戦後、いったん「日本のミュージカル」が模索されるも、一九六三年九月に『マイ・フェア・レディ』上演が成功を収めることで翻訳ミュージカルが主流になった二十世紀最後の四半世紀のことを考えると隔世の感がある。
とはいえ、現在のようなミュージカルの盛況は突如として生じたわけではない。この半世紀を費やしてミュージカル作りに打ち込んできた日本の演劇人が勝ち取ったものだ。これまでの道のりは平坦なものではなかった。むしろ死屍累々、といってもいいかもしれない。私は『戦後ミュージカルの展開』(二〇一七年、森話社)でほぼ忘れ去られている先人たちの努力を後付けた。もし日本の戦後ミュージカルの発展の先鞭をつけ、実際に大きな足取りを残した人を三名挙げるとすれば、秦豊吉、いずみたくと並んでその一人に入るのが、今回取材したサカモト・ミュージック・スクールを主宰した坂本博士氏だろう。
坂本氏は東京芸術大学を卒業し、藤原歌劇団に所属するなど、正統なクラシックオペラ畑の道を歩んでいた人である。その一方で、この聞き書きでも語るように、グレン・ミラーを愛する点では、戦後のアメリカ文化の洗礼を受けた一人でもあり、そのことがミュージカル黎明期の日本には大きな意味を持つことになった。初期のテレビ・ミュージカルの代表作の一つである草笛光子主演『光子の窓』に出演したり、東京・大阪労音共同制作ミュージカル『劉三姐』(一九六二年二月)に出演したりするといったこともあるが、なんといっても、その美声と日本人離れした堂々とした体格で、当時の人々が強い印象を受けたのは映画『アスファルト・ガール』(島耕二監督)の出演だろう。大映初の本格的なミュージカル映画として本作が公開された一九六四年はまた、東宝が須川栄三監督『君も出世ができる』岡本喜八監督『ああ爆弾』という日本映画ミュージカル史に残る作品を公開した年でもあり、前年の一九六三年九月東京宝塚劇場での翻訳ミュージカル『マイ・フェア・レディ』ロングランと相まって、いよいよ日本社会でもミュージカルが市民権を得たことを知らせるものだった。
そのような空気の変化を坂本氏も嗅ぎ取ったのではないだろうか。『アスファルト・ガール』で中田康子とともに主演を務めた氏は同年サカモト・ミュージカル・カンパニーを発足させ、以降「日本のミュージカル」を作ろうと企画していく。その少し前、一九六三年十二月には、作曲家のいずみたくがオールスタッフ・プロダクションを設立している。いずみもまた、当時の日本社会に生きる人々を自作に多く登場させたが、サカモト・ミュージカルの初期作品は、脚本を担当した吉永淳一の意向もあって、「社会派」と呼ばれる傾向を持っていた。『モノ・ミュージカル <ある炭鉱夫の手記> 黒い涙』(一九六九年)や、昭和四十六年度文化庁芸術祭優秀賞を受賞した『<イタイイタイ病への挽歌> 白い川』(一九七一年十一月)などはその題名からも想像できろうが、『海から黒い蝶がくる』(一九七三年十月)でも、岩手県三陸沿岸の村を舞台にして、底引き網による乱獲や津波の恐怖を背景に妻に先立たられた男と分教場の教師である女の恋愛を描いていた。これらの作品はまた、民俗芸能や日本舞踊を取り入れることで、アメリカン・ミュージカルの猿真似ではない、独自のミュージカル表現を探し求める実験作でもあった。
残念ながら、このような大きな意義を持った作品群についての詳細が演劇史で語られることはない。一つには、これらの作品は「坂本博士リサイタル」の一部として上演され、作品によっては全国を巡演することもあったものの、上演日数は短いものだったからだ。一九七三年以降は「サカモト・ファミリー・ミュージカル」として、脚本の山崎陽子と組んで子ども向けのミュージカルに坂本氏は力を入れるようになる。その第一作である『小鳥になったライオン』は一九七三年八月西武劇場で上演され(それまでのサカモト・ミュージカルの多くの作品同様)LPレコードも発売された。しかし、これらも長い日数をかけて上演されることはなかった。聞き書きでも語られるように、自腹でプロデュースを行うのにはまだ経済的な困難も大きかったし、当時の社会がミュージカルを受け入れるだけの準備が整っていないこともあって、出演者を輩出したサカモト・ミュージック・スクールの子どもたちにとっては貴重な体験となったものの、その後の影響という点では限定的なものにとどまった。
二〇二二年十二月に坂本氏は逝去された。生前にお目にかかった時、私たちがまず印象づけられたのは、どこまでも前向きで明るい、その人柄の大きさだった。坂本氏は「日本のミュージカル」を作るという自らの試みが社会にさほど受け入れられなかったことについて、忸怩たる念を抱いてもおかしくはなかったが、そういう様子は微塵も感じさせず、最後まで明るく、私たちに夢を語って下さった。坂本博士氏の死後、サカモト・ミュージック・スクールはご子息の坂本秀明氏が二代目校長となって、多くの生徒を教えておられる。そこで学んだ生徒たちが今後もプロとして日本のミュージカルを背負ってくれることを願ってやまない。(日比野啓)
母を亡くした子ども時代
日比野 坂本先生といえば、サカモト・ミュージカルで長く活動なさっていますが、そのことに関してはご著書『見はてぬ夢 はかせの音楽談議』でも詳しくお書きになっています。ですので、今日はそこにお書きになっていなかったことを中心にお伺いしたいと思います。
坂本 そのことですが、私は今、八十五歳になりまして。これまでの全部を短い時間にまとめるというのは大変なことです。ですから、まずは私が話しやすいようなことから最初にお話しさせていただいて。その後、ご質問をいただくというのがなんとなくいいと思います。
日比野 なるほど。わかりました。
坂本 私は生まれてからしばらく目黒に住んでいました。小学校四年生のときに母を亡くしました。その頃は[品川区立]第三日野小学校に通っていて、私がピアノを弾いたりするものだから、担任の先生にとてもかわいがってもらっていました。その先生があるとき、「博士くん、お母さんが危ない。早く帰りなさい」と言うんです。私は体が大きかったから、後ろの方の席だったと思うけど、その前まで歩いてきてそう言われました。それで、言われるがままに、鞄を持ったか持たないかも覚えていないくらいに急いで、ひた走りに走って、家に着きますと、母はもう目を開けようともしていなかった。父が割り箸のようなものに綿をつけて、母の唇にちょっと水をつけた様子を覚えています。それでも母は目を開けず、もう一度ババッとつついた。「ちょっと乱暴なことをするな」と思いましたけど、そうしたら母が薄く目を開けたんです。それで、父に言われるまま、母の好きな海洋少年団の団服に着替えて、母の目の前で聴かせるように、「われは海の子」を歌いました。私は海洋少年団に入っていて、母は、そこで手旗をやったりする姿、この歌が好きだったということで、父がその歌を望んだんです。母はずっと目をつぶっていましたが、最後の方では、ちょっと目を開けて微笑んでくれたような気がします。美化しちゃってるかもしれないけど、いまだにその光景は記憶に残っています。結局、その「われは海の子」が僕の人生を決定していったんです。
まだ小学校四年生でしたから、感じやすい時期です。そんなある日、私をかわいがって下さった受け持ちの先生から、「NHKの歌唱指導の番組に出演するから博士くん出てくれないか」と言われました。「立派な体格の、城多又兵衛先生という、日本を代表する音楽教育の芸大教授が、みんなを指導して下さる」と。それで、第一日野から第五日野まで、それぞれの学校の海洋少年団の代表が三人ずつくらいでNHKに行きました。「お城が多い」と書いて、「城多」は面白い名前ですよね。武将の後藤又兵衛みたいな人かと思っていましたが、ピンク色の、血色のいい、恰幅のいい先生でした。声楽家なら皆が勉強するコールユーブンゲンやコンコーネの教本を監修された立派な先生だということは後で知りました。小学校四年生から六年生まで、いろいろな学校で歌っている子供が十四、五人いて、「こう歌いなさい」というような指導があって、最後に「われは海の子」を歌いました。その後弟子入りしレッスンを受けました。城多先生には、後に仲人までやっていただき、ガンで亡くなるまで、思いは尽きない関係になりました。また、戦争も激しくなるころでしたから、父の片腕として慰問に行ってピアノ演奏をすると、傷痍軍人で目が片方しかなかったり、腕がなかったりする人も「坊や上手だね」なんて言ってくれるんです。そういうところで、人との交流、優しさみたいなものを知って、母がいなくなった寂しさを癒してもらいました。
日比野 その後は立正中学に進まれますね。
坂本 そうです。二度目の母が歯医者で、大きなカリエスを背負ってお医者さんになった、大変苦労した人だったんです。私は毎日、母の背中に剣道の防具みたいなコルセットを着せて、靴の紐みたいにぐるっと後ろで結ぶ手伝いをしていましたね。その母が日蓮宗を信仰していたんです。医者ではどうにもならない病いが、この宗教によって治ったというので。激しい修行をしていました。やがて僕もそれに入れられて。でも、そこから反発が始まるんです。一日中坐禅をして拝む、道場に連れていかれたりするんですから。戦争も激しくなって学校も何キロ以内でないとダメというようなことになって、それで当然のように、南妙法蓮華経の学校、立正中学・高校に行くことになったんです。そこで、友達が「ムーンライト・セレナーデ」を教えてくれたんです。
休み時間に学校のおんぼろピアノで、ベートーベンの『月光』か何かを弾いていると友人達が来て、「坂本、これを弾いてくれないか」と、週刊誌の切れっ端みたいなものを渡すんです。小さな音符が並んでいて、[グレン・ミラー作曲のスタンダード・ナンバー]「ムーンライト・セレナーデ」と書かれていました。それから「トゥー・ヤング」だとか、そのころ流行っていた曲をやりました。ああいうものは弾いたこともなかったんですけどね。そのうちピアノの周りには、三人、四人と人が増えていき、取り巻くほどになりました。そうすると今度は、島袋という沖縄出身の先生が、学校にあった汚いティンパニーやトランペットを磨いて音楽部をつくったらどうかと勧めてくれて、楽団もつくりました。決してうまくはない楽団でしたけれど。
食べるものもない時代で、お芋の葉っぱや茎でも食べられれば幸せだった。食べようと思ってるとお弁当が半分食べられちゃったり。そんな中、昼休みになると、友達がピアノを囲んで「坂本、次の休みにも何か聞かせてくれよ」なんて言うわけですから、「音楽って、こんなにも優しく人々を包むことができるのか」と感じたものです。そういう友達との関係が、僕を音楽に引き寄せたんですね。嫌々ながら続けていたピアノも、もっと勉強しようという気持ちになったのは、ベートーベンでもモーツァルトでもない、友達に教えてもらったグレン・ミラーやベニー・グッドマンに惹かれたからなんです。
日比野 それで高校卒業後は、芸大に進まれた。
坂本 高校に進んでちょっとグレたこともありましたし、父からは「医者になれ」と言われたこともあったんです。でも、これは昔、中村メイコさんの番組でも話したんですが、坂本博士が博士になったら、坂本博士博士になっちゃいますからね。芸大では城多又兵衛先生が教授をされていました。城多先生には中学の時から音楽を教わりに行っていましたが、その時に「君は声も大きいし背も高いから、ピアニストになるよりか、声楽家になった方がいいんじゃないか」と薦められて、声楽に進むことにしたわけです。芸大では立川澄人君との出会いもありました。その話についてはたくさん資料もありますから、読んでいただくとして、卒業後は、藤原歌劇団に誘ってもらいました。ただ、オペラ三昧の日々といえばカッコいいけれど、みんなお金がないですから。それで僕はひばりが丘にある、自由学園という、羽仁もと子先生がやっている学校に十年間勤めました。
学校では中学生で声変わりしたばかりの少年たちが、ヘンデルの『メサイア』を歌わされていました。彼らにとっては苦痛ですよね。最初は僕も、態度の悪い者がいると「外へ行って遊んでこい、人に迷惑をかけるな」なんていって、怒ったりもしました。でも、こちらも二十二、三歳ですから、「どうも教え方がまずいかな」と思ったんですね。それで「今日は『メサイア』はやらないから、楽譜を伏せろ」といってフォスターの「草競馬」を歌うことにしました。「田舎の 競馬場 ドゥダードゥダー まわりは五マイル おおドゥダデー」という、白人も黒人も黄色人種も愛した歌です。譜面がなくても覚えられますからね。「田舎の競馬場」と歌うグループ、「ドゥダードゥダー」というグループ、それから、もうひとつ、「先生、僕は音痴です」という子たち。「音痴なんていないんだから大丈夫。歌わなくていいから」といって、彼らには馬の蹄の音だけ出してもらって、三つのグループで歌った。「姿勢が悪いよ、こっちを見なくちゃダメだ」なんていつも言われる連中も、自然に僕の方を向いて、嬉しそうにして歌うんです。やっぱり、音楽には人の心をなぐさめ、温かくし、熱くし、まっすぐにしてくれる力があるんだと感じましたね。
鈴木 そのころから教えるとゆうことにも楽しみを見出しておられたんですね。
坂本 立川澄人君は僕に「どうしてそうやってピアノが弾けて、メロディーが頭に浮かぶんだ」と聞いたことがあります。僕は立川君は天才だと思ったことがあります。根っからの明るさがあって、モーツァルトがうまかった。友竹正則君と立川と僕、友竹君とは学校は違ったけど、三人でよく一緒にいたんです。そうしたらある人が「坂本さんは教育家」に向いているんじゃないですか」と言ったんです。「教える時の坂本さんの目はすごく燃えている」と。うんと若い時のことですが、その時にはもう自由学園で教えていたし。たーちゃんたちは同じ仲間だけど「教えるよりか、自分でやっちゃった方がいい」と言っていました。だから僕には教えるというのが結構向いていたんです。それはやっぱりピアノにすべてありますね。ピアノさえあれば母が死んだ時も、孤独でしたが、蓄音機でベートーベンの『田園』を聞いて、母の洋服ダンスについていた鏡を見ながら棒を振っている自分を見たり、そうするとだんだん音が止まりそうになって、あわててもう一度蓄音機を回したり……音楽が埋めてくれるものはとても大きかった。それから何年かして新しい母が来ましたが、僕は反発して「お母さん」とは呼びませんでした。ある時母は僕に「ピアノを教えて下さい」と言うんです。どういうことかと思いましたが、小学生の時から東大生のおじさんみたいな人にも教えたりしていましたから。戸惑いはありましたが、やっているうちに、ある時ふと「お母さん」と言ってしまったんです。かたくなな自分でしたが、それからは「お母さん」と素直に呼べるようになりました。
オペラからミュージカルへ。根底に流れる思い
日比野 藤原歌劇団の方では、どういった活動をされていたんでしょう。
坂本 藤原義江先生にはとてもよくして頂きました。最初から主役が来ましてね。[一九五七年二月の]『ラ・ボエーム』というプッチーニ作曲の珠玉のオペラで、ちょうど藤原先生が引退され、新人が出るというので騒がれました。その新人のうちの一人が私でした。指揮はイタリア人のガエターノ・コメリー先生。こわいの何の我々新人はふるえあがってしまいました。それも原語上演ですから。藤原先生は詩人のロドルフォ、私は画家のマルチェロ、清水義人は音楽家、金慶植は哲学者、という配役で、女声は戸田政子さんと古賀恵美子さんでした。『ラ・ボエーム』はそんな貧しい芸術家達のオペラで、男同士の友情、それに二人の女性、肺病で純情なミミと鉄火肌のムゼッタが絡む素晴らしい作品です。藤原先生はいろいろなオペラをやってきたが『ラ・ボエーム』がいちばん好きだと言っておられました。その先生の引退公演で私はデビューし、話題を集めました。それからはずいぶんオペラに明け暮れていました。
日比野 この時の『ラ・ボエーム』の演出は、青山圭男先生ですね。
坂本 そうです。青山先生は、日本の能だとか舞踊だとか、洋の中にも和の心を持った演出をされました。非常に丁寧で、だいたいオペラ歌手というと、声だけは立派でも、あまり動きがうまくないのが多いんですが、そこを手取り足とり教えて下さった。根気強く、素晴らしい方です。今でも、ニューヨークのメトロポリタン・オペラに行くと、日本人の代表として、先生の名前が掲げられています。僕を大変かわいがって下さり、私のスクールの稽古場にも来られていました。
青山というと、もう一人、演出家で青山杉作先生がおられますが、僕が芸大の四年生の時に、『トゥーランドット』というオペラが日本で初演されました。その時に、立川澄人君と二人が合唱団のメンバーに選ばれました。主役のテノール、カラフは木下保さんという大先輩。トゥーランドットは、僕と同門の、リアフォン・ヘッサート先生の弟子の大熊文子さんがされました。トゥーランドットは日本人には重たすぎる役だろうといわれていた時代です。今はフィギュアスケートでも、いろいろな人が流している曲ですが、ソの音が出ればテノールといわれたころに、木下さんは立派に声を出していました。私たちはまだ学生でしたから、「立川と坂本、歌ってくれ」と言われるだけでうれしかったのです。まだ、二期会ができる前のことです。みんな、金ぴかの新調した衣装を嬉しそうに着ていました。でも僕らはいつまでたっても呼ばれなくて。ようやく舞台監督助手さんが、「坂本さんと立川さんはこれです」と出してくれたのはズボンだけなの。首切り役人の役で、ズボンに荒縄がついていて、上半身は裸。それでピカピカに光る青竜刀を持って。でも、そんな役でも結構燃えて歌ったものです。青山杉作先生はとてもいい演出でした。立川君はもう亡くなりましたし、懐かしいですね。
神山 青山杉作先生は、タクトを振りながら演出されることで有名でしたが、オペラでもそうでしたか。
坂本 そうですね。青山杉作先生も青山圭男先生もお二人とも人を引きつける雰囲気がありました。
鈴木 オペラからミュージカルへと、ご活躍の場を移されたのにはどういう経緯があったんでしょうか。
坂本 自分でも考えるんです。どうしてあれだけオペラに明け暮れていて、まして、青山杉作先生や圭男先生みたいな先達にも出会って、なぜミュージカルに行ったのか。もちろん、いろんなことが出てくるんです。さっきも言った、母との別れや傷痍軍人の慰問に行ったときのこと、「ムーンライト・セレナーデ」のこと、それから虎ノ門ホールで、小澤征爾さんの先生でもある齋藤秀雄先生の指導のもと、女子部の学生たちが歌い、僕がソリストをするということがあったんです。そうしたら僕の教えた学生たちがあの「田舎の競馬場」を歌わせて欲しいと言ってきたんです。それで僕が職員会議に諮ったんですけど。
日比野 齋藤秀雄さんも自由学園の先生だったんですね。
坂本 そうなんです。女子部で。私は男子部でした。先生の方が僕よりずっと年上で、僕はまだ二十五、六歳だったと思います。生徒の熱意に押されて。あの時いちばんに「是非やってください」と言って下さったのが斎藤先生でした。そんなことで、僕がやってきたことは全部、ミュージカルだったような気もしてくるんです。つまり何か、音楽とともに感動があり、出会いがあって。たとえば労音の音楽会に出ていた時に、一人の青年が「サインをください」というので書いたんです。それで「職業はなんですか」と聞いたら「僕はモグラなんです」というんです。モグラってなんですか、と聞いたら、炭鉱夫のことで、自分は夕張のモグラの一年生だと。同級生に会えば「おい、モグラになったのか?」と言われ、ガールフレンドには「モグラになったんですって?」と何か、憐れみのこもったような、高いところから見下ろすような目で言われたそうです。それでも「自分は誇りを持って一年生として頑張った。落盤事故があって先輩は殆ど死んでしまったけど、幸いにして生きのこった人もいます」と言って……これが後の『黒い涙』[一九六九年上演月・上演劇場不明]というミュージカルのはしりになりました。労音の音楽会では終わった後、お客さんが待っているんです。で、僕はそこにいる若い連中のところに入っていって話をするのが好きだったんですね。彼は、本当は「最終バスがあるから早く帰らないと」と言っていたのに、結局、歩いて帰っていったのにも感激しました。それで、このことを吉永淳一氏に話すと、「黒い涙がやがて石炭になる。これをミュージカルにしよう」と言って。それで、彼が夕張の第二小学校まで行って、作文を調べて、よりすぐって、できあがったのが、あのモノ・ミュージカルだったんです。札幌でやって、それから夕張の後の汽車の中で、あの青年と同じく「僕もモグラだったんです。坂本さん、またお会いしたい、また力強い歌を歌って、僕たちを励ましてください、さようなら」といって、パッと降りてしまった人がいました。「人生は短く、芸術は長し」と芸大の門を入ったところに書いてあるんですが、それを書いてあげたのか、忘れてしまいましたが。ですから何か熱い思いに出会い、それが音楽になるというような感じでミュージカルの方へ進んだのだと思います。
日比野 『黒い涙』は、一九六九年ですね。
坂本 そうです。イタイイタイ病をとりあげた『白い川』[一九七一年十一月、上演劇場不明]の時も、僕は富山の病院にまで行きました。そこの青年団長が「坂本さん、僕たちの村にイタイイタイという人たちが出てきたんです。何か、歌で元気づけてください」と言って。
日比野 立川澄人さんも友竹正則さんも、先生と同じように、ポピュラー音楽に興味を持ちつつ、オペラ歌手を目指されたんでしょうか。それとも、坂本先生の影響でミュージカルの方向に向かわれたんでしょうか。
坂本 日本人って、オペラとオペレッタだとか、ミュージカル、シャンソン、カンツォーネって、いろいろな分野に分けたがっちゃうんです。だけど、立川君や僕、それから五十嵐喜芳君なんかもそうですが、僕たちはポピュラーとクラシックの結婚を願って活動していました。五十嵐くんは年は僕より上だけど、学年は下でした。それから中村健君、このあたりの仲間はみんな、「音楽はひとつだ」ということを言っていた。藤原先生も「ドンとドンとドンと波のり越えて」[「出船の港」]とか「磯の鵜の鳥りゃ」[「波浮の港」]なんていう日本の歌を歌って、街の豆腐屋さんだとかにもクラシックの良さを伝えて、オペラに誘っていきました。田谷力三さんもどちらかというとそうでした。あの方は藤原先生の気持ちを自然に受け継ぐようにして、浅草で活躍されました。ですから、私も藤原先生にこうやれと言われたわけじゃないんです。でもやっぱり、そこには僕の人生に影響する何かがあったと思います。ただ、立川くんも、友竹くんも、もともとは違ったと思います。立川くんはやっぱりモーツァルトが得意で、ドイツリートの中山悌一さんという素晴らしい歌手のお弟子さんでもありましたし。立川くんの声はオペラでもとてもいいんだけど、声量はものすごくあったとは言えないんですが演技が素晴らしい。雰囲気があるんです。ですから彼が目指していたのはオペレッタでした。僕の場合は、日本テレビで僕を買ってくれる人がいて、『マイ・フェア・レディ』を歌ってくれと言われたんです。芸大の楽理を出ている、佐野さんという人。当時はまだ僕も『マイ・フェア・レディ』が何かもわかってなかったんですが。確か相手役は草笛光子さんだったと思います。
日比野 それはいつごろのことですか。
坂本 覚えていないですね[一九五八年五月〜一九六〇年十二月にかけて日本テレビ系で放映されたバラエティ・ショー『光子の窓』の放映だと思われる。記録が残っていないため詳細は不明]。
神山 『マイ・フェア・レディ』は日本で初演したのが一九六三年ですから、それよりずっと前でしょうね。
日比野 先生が初めて労音のミュージカルに出演されたのが一九六一年五月の『歯車の中で』ですが、それ以前ということですね。
坂本 ええ。それで「君住む街角」を歌った時に、あの「ムーンライト・セレナーデ」が蘇ったんです。走馬灯のように。僕はグレン・ミラーのサウンドがとても好きで。ベートーベンでもモーツァルトでもブラームスでもない音の響きで、それが僕を熱くしたということもありました。ミュージカルといっても、いろいろ、たとえば色恋を中心にしたものもありますね。でも、僕の根本にはいつも食べるものもなかった時代のことがありますから、やはり音楽で優しさと強さと希望と勇気とを与えることが大事です。それによって、「また生きていこう」と思えるような。それで、社会派と言われたりもするような方向に行ったのだと思います。
ヴェルディのオペラ『ナブッコ』のテーマは、悲しみ、痛み、悲痛さを喜びに変える調べを聴かせてください、というものですが、僕はそれを目指してずっとやってきました。もちろん、オペラとミュージカルの間にあるラインというものも僕なりにわかっています。でも、久しぶりにこういうお話をしていると、「さて、どうだったかな」とも思ってしまいます。『カルメン』や『ラ・ボエーム』とそれがどう違うのか。僕にとっては人生の自然な流れで、ミュージカルにたどりついた。「自然」だなんて、かえって甘っちょろく聞こえるかもしれませんが、自分の人生のつらい時に出会った友、吉永淳一氏、星野和彦氏といったスタッフたちが素晴らしくて、こうなったんだろうと思います。
『歌おう世界の友よ』と労音ミュージカル『劉三姐』
神山 先生は、NHKの『歌おう世界の友よ』[一九六三年十月〜一九六四年十月]にも出演していらっしゃいますね。
坂本 僕が音楽学校を卒業したちょうど十年後、昭和三十九年のことです。当時のNHKの春日局長が、藤原先生と仲が良くて、オリンピックのための番組で、坂本くんはスポーツマン的でふさわしいからというので、僕を起用してくれました。立川くんはその当時もう『音楽をどうぞ』という番組をやっていて、僕も時々出ていたけれど、『歌おう世界の友よ』は、レギュラーで一年間、NHKがすごく力を入れた番組でした。
神山 私も子供のころに観ていました。
坂本 当時、僕の人生を分けた話があるんです。それは『劉三姐(りゅうさんちぇ)』[一九六二年二月・厚生年金会館]という労音のミュージカルがあって、それは僕が敬愛する千田是也先生の演出でした。千田さんたっての希望で、僕にやってくれというので、小牛(シャオニュウ)という役、歌で悪い人たち、悪代官をやっつけるというような話でした。で、初代の劉三姐はペギー葉山が三百回くらいやって。二代目は、千田さんの推薦の市原悦子、僕の一級下で作曲をした林光くん推薦の中澤桂、それから僕が推薦したNHKの歌のお姉さんをやっていた眞理ヨシコが交代で演じました。中澤桂は二期会で、これも城多又兵衛先生の愛弟子という縁がありました。これはしんどかったですね。途中、三姐を僕が持ち上げる場面があって。「三姐、三姐」と歌って、次に「劉」といったら彼女がこっちに走って、パッと持ち上げて「三姐」で見得を切って幕が下りる。ペギーはバレエをやっているからうまいんです。でも中澤桂は背が小さいんだけど重いの。で、僕みたいな大男が腰をかがめて持ち上げなきゃいけないんだから。それが二幕目で「終わった」と思っても、三幕目もあるわけですからね。で、人生を分けたというのは、この大事な役で、ダブルブッキングをしちゃったの。NHKと。
日比野 それはご著書の『見果てぬ夢 はかせの音楽談議』[一九九八年、音楽之友社]でも書いておられましたね。
坂本 そうでしたか。この間もワイフと昔の話をしていて、「あれでよかったね」と言っていたんです。あの時は千田さんたちが「戻ってきてくれ」と言いましてね。ところが、NHKの方では、N響のピックアップメンバーが待っているんですよ。オリンピック関連の番組だから、贅沢で、すごい熱を持ってつくっていたわけです。それが「坂本さんはいつも一時間前には来るのに現れない」とびっくりして、僕の居所を調べて電話をかけてきて。でも、僕はあと二時間で『劉三姐』の本番なの。NHKの方はヘリコプターでどこかまで来るから、そこまではタクシーで来いというわけです。当時のNHKは今とはまた違って、すごく大きな存在だったものですから。とにかくタクシーには乗りました。みんな不安そうに見送っていましたけど。で、十分くらい走ったところで僕は「運転手さん、悪い。戻ってくれ」と言ったんです。千田先生もみんなも、抱き合って喜んでくれました。
もちろん、NHKの方はぶったまげたと思います。いつもだったら、僕が真っ白い背広の上下を着て、センターに立ち、ダークダックスと東京混声合唱団、それから立派なバレエ団。そして素晴らしいゲストがくる。で、ホスト役の僕が今日はイタリアがテーマですから「フニクリ・フニクラ」や「わすれな草」を歌おうというはずなんです。音楽を通じて国を紹介しようと、国歌も歌ったりして。大変な番組でした。それで、この時はパッと始まると僕じゃない、坂本は坂本でも九ちゃんが出たんです。のちに、僕と九ちゃんは仲良くなりましてね。料理をやったこともないのに、九ちゃんの料理番組に出て、彼に教わって、いかにも僕がつくったようにやったり。男同士の付き合いがありました。ですから、日航機の事故で亡くなった時は、誠に悲しかった。素晴らしいキャラクターの『上を向いて歩こう』でもありました。
鈴木 そういう出来事があって、舞台、ミュージカルにいっそう向き合っていかれたということですか。
坂本 そう。ただ、さっきも話したミュージカルとオペラ、オペレッタのラインをどう引くかということでいえば、オペラがおじいちゃんで、オペレッタがお父さん、それで、ミュージカルは息子なんです。僕はオペラをたくさんやって、オペレッタは藤原ではほんのちょっとしかやっていないけど、この三つは同じ血でつながっていると思っています。もちろん世代が違うから「親父の言うことは古い」「あのやり方は間違っている」みたいな考えの違いはありますけどね。
日比野 ミュージカルの中でもジャズのリズムというのは、お父さんであるオペレッタやおじいさんのオペラとは違うものではないですか。
坂本 そういう意味では遠い親戚かな。
日比野 というのは、『ウェスト・サイド物語』を書いたバーンスタインが、一九八三年に、キリ・テ・カナワを使ってCDを録音しています。その時に参加したオペラ歌手は、みんなやっぱり歌はうまいんですが、リズムはちょっと、という感じでしたから。
坂本 トニー役のホセ・カレーラスは、三大テノールの中では、いちばん声が柔らかいですね。パヴァロッティだともっとクーンと来るからミュージカルにはきついんです。役によってはドミンゴも難しい。そうすると彼がテノールでは、いちばん向いているんですが、天は二物を与えずだったんですね。バーンスタインにものすごく怒れられたんですよ。だから確かにリズムというのは、問題になりますね。僕も「演歌は遠慮だけど、音楽はひとつ」という気持ちではきたけれど、確かにそれは、さもありなんだとも思います。
三大テノールにまつわる話では、藤原先生の声が出なくなって、監督のようなことをされるようになってからのことですが、イタリアオペラの公演があって、その二番手としてアリゴポーラという歌手が来たんです。マリオ・デル=モナコ、マリア・カラス、テヴァルディ……そういった素晴らしい、全盛の人たちがいるなか、僕もほんのちょい役で日本側のソリストとして出演しました。そうすると隣の部屋からあの憧れのテバルディの発声が聞こえるんです。何ごとも勉強ですし、もう、胸をときめかせて聞いていましたね。そんな青春でした。その時に先生が、アリゴ・ポーラという人が素晴らしいから、歌劇団に残ってほしいと。それで彼は日本で活躍したんです。しばらくして日本を離れ、その後ふたたび東京音大の教授として戻ってきたんですが、この時「坂本に会いたい」というので、三宿の家に来てもらいました。百何キロもある大男ですから、「ダイエットをしているからご飯は結構です」と言っていたけど、結局うなぎを二人前平らげていました。そうしたら彼に電話がかかってきて電話口でずいぶん歌ってるんです。何かと聞いたら「弟子からの電話で『トゥーランドット』のハイツェーの音が出なくなったから教えてくれと言われた」と。その弟子というのが、何とあのパヴァロッティとのことでした。
日比野 音楽的な才能ということでいうと、『劉三姐』の二代目劉三姐は市原悦子だったと。市原さんの歌はどうだったですか。
坂本 とてもいい声質ですよ。それから、演技が最高によかったですね。とらえどころがいいというか、パッと来て、パッと劉三姐という役柄をつかんでいくんです。それから、演出の千田是也先生との気持ちのキャッチボールもうまい。要するにピッチャーが変わったわけでしょう、ペギー[葉山]から。普通は「大丈夫かな、完投できるかな」とか思うものですが、そういうことを感じさせなかった。もちろん、歌声としゃべり声とが同じような時もありましたけど、専門家から見れば、それはあり得ることで。逆にいうと、オペラの人にとっては、そこがジレンマになる。僕も立川くんも、五十嵐くんも[オペラ的な唱法や演技を使わずにいることに苦労した]。五十嵐くんの方が、その点はもうちょっとうまかったけど。やっぱり、上から目線とは言わないけど、ミュージカルなんて、という時代がありましたしね、そこへいくとやっぱり、僕は中学の時の、グレン・ミラーや何かの体験がとても強かったと思います。
神山 先ほどもおっしゃったように、藤原先生に出会われたことも大きかったでしょう。
坂本 ええ。藤原先生が僕について[公演プログラムに]寄稿してくださって、「坂本くんはオペラの世界であぐらをかいていられるのに、なぜ借金までして苦労してミュージカルをやるのか。僕と同じことをやるなよ」と書いていました。先生は亡くなっても借金がありましたから。
神山 晩年は帝国ホテルの世話になっていたことは有名な話です。
坂本 そうでしたね。藤原先生もそうでしたが、やはり、時代が変わっていくということに気がつくのにもセンスが必要なんですね。おじいちゃんは着物しか似合わなかったから着物を着ていた。それが、時代と共に背広を着て、今度はジーパンを履いてくれと言われる。でもそれが、似合わないならまだしも「着たくない」となっちゃったらおしまいなんです。やっぱり、おじいちゃんになっても、若い人と話をして、少しでもビートのきいた音楽を、孫を可愛がるように、そういう気持ちは必要だと思います。
神山 『劉三姐』のころの市原悦子は、絶頂期といいますか、とても評価が高かったですね。体も柔らかくて、歌って踊れるのは新劇では珍しいですし、栗原小巻もまだ出てきていませんから。
坂本 栗原さんはNHKの『歌おう世界の友よ』の中にいたんですよ。ハードな番組でしたから、途中休憩があって。必ずお茶を持ってきてくれる女性がいたんです。それは、要するに控えの選手なんですよね。野球でいえばベンチにいる人で、これは「必ずきれいな人にしよう」とだれかが冷やかしで決めた。それが栗原小巻さんだった。腰が低くて、頭の回転が速くてよかったですね。また、番組を通じてそういう人たちとの出会いがあり、それがクラシックとポピュラーとの橋渡しにもなっていた。そういえば僕は、仲代圭吾君をずっと教えていたんです。なかなか譜面が読めなかった、高校生の時から。お兄さんの達矢さんに顔が似てるけど、ちょっとしゃくれているの。僕は芸大に行かせたくて、「あごはこうやっておろすんだ」と触ったら、ポキっと音がして外れちゃったことがありました。びっくりしましたよ。結局、芸大ではなく、シャンソンの方に行きましたけど、今でも音信はあります。志一本といったところがあって、とてもいい青年でした。
日本初のミュージカル映画『アスファルト・ガール』
日比野 先生は一九六四年四月に、日本初のミュージカル映画『アスファルト・ガール』にご出演されています。これは労音ミュージカルの『歯車の中』で作曲を担当された芥川也寸志さんからのご紹介だったそうですが、そもそも、なぜ、大映がミュージカル映画をつくるようになったんでしょうか。
坂本 それは大映の社長[永田雅一氏]に聞いてほしいけど。僕なりに考えるところでは、相手役の中田康子さんにしても「これから何か新しいものを勉強したい」という気持ちは持っていたと思います。ですから大映でも、『座頭市』だけじゃなく、新しいものに挑戦しよう、ジーパンを履いてみようということだったんじゃないかと。中田さんは、僕よりひとつ下の世代ですけれど、その中田さんの意見を聞いて計画したところもあるのかもしれません。このころ僕はちょうどNHKの『歌おう世界の友よ』に出ていましたし、先日資料を見ていたら、「中田康子さんたちが坂本さんにやってほしかった」というようなことが書いてありました。
日比野 先生としてはこういったミュージカル映画に出ることには、とくにためらいはありませんでしたか。
坂本 踊らなきゃいけませんしね。『歌おう世界の友よ』で、せりふを覚えるのもやっとだった私ですから。実は、あの番組をやっている最中、休憩時間に見慣れない男性が四、五人ドドッとやってきて、僕を車に乗せて連れて行った先が大映だったんです。だから、本当に何もわからないでいたんです。それで待っていたのが永田社長で「どうですか、ミュージカル」と言われた。僕はちょっと戸惑ったけど、なかなかパッションのある方で「ちょっとカメラテストをしたいから」と言われました。「カメラテスト」とまでは言わなかったかもしれません。とにかく、ちょっと話したところで、病院のレントゲンみたいな感じで撮られました。そうしたら今度は「相手役の人が、あっちの部屋で待っています」というので、廊下を歩いていったら中田康子さんが座っていました。「『歌おう世界の友よ』を観ています、是非とも一緒にやりましょう」という言葉をもらいましたね。それで僕の気持ちも動いてしまって。あまりにも忙しくて迷惑をかけるかとも思ったんですが、結局、お引き受けしました。それで後になって病気をするんですが——。
神山 社長とお会いになったのはスタジオじゃなくて、本社の方ですか。
坂本 そうです。とにかく車でパーっと連れていかれて。
神山 前年に菊田一夫が『マイ・フェア・レディ』の翻訳上演で大成功して、映画でも『南太平洋』や何かが公開されていましたから。大映でも、ミュージカルが日本に浸透してきて、これは儲かるかもしれないと考えた、と勝手に想像するんですがね。そうしますと、監督の島耕二さんとも初めてでしたか。
坂本 そうです。あの方とは感覚がぴったり合いました。なんとなく共通するところがあるといいますか。
神山 ダンサーの岩村信雄さんも出ていたでしょう。それも演技までして。
坂本 僕は、何もわからないで、映画に出ていたんです。たった一言せりふを言うのに「今、日が陰ったので待ってください」なんて待たされて。そんなことばかりで、悪いけど「だんだんおかしくなりそうだ」と思ったものです。ですから、よくしてもらいながらも、終わるまで訳がわからないでいたのが映画だったなということです。
神山 ミュージカルはもちろん、『アスファルト・ガール』だって、踊るシーンがありますでしょう。先生は声楽家ですから、もちろんそういうレッスンはされていなかったと思いますが、その辺りご苦労はなかったですか。
坂本 苦労しました。それがいちばんの泣きどころだった。だからオペラの人は城に閉じこもっちゃうわけでもないけど、そこまで冒険しないんです。突っ立って、いい声で、オーケストラと響き合わせる。それが主眼ですから。やっぱり、ソプラノが背が高くて、テノールが小柄なおじさんみたいな人で、ラブデュエットを歌うというのは、絵にならないですからね。それで、マリア・カラス女史なんかが強い薬を飲んだりして、痩せたりしていたそうですけど。今は、そういうところからだんだん変わってきて、立派になりました。『アスファルト・ガール』の振付は、ロッド・アレクサンダーという人で、『ウェスト・サイド物語』にも参加していました。僕はもちろん、苦労しましたけど、相手役の中田さんはすごく踊れる人で。
神山 NDTの人ですからね。
坂本 僕は、NHKの『パノラマ劇場』で、越路吹雪さんの相手役をやったんですよ[第四十回・放送日一九六一年二月二十六日]。越路さんは踊れるでしょう。シャンソンで「パリよ、それは、おいらの恋人」[「パリ・カナイユ」]ていうのを振付してくれたのが、薄井憲二さん。それから堀内完さんも。オペラではやったことがないですから、みんなが食事や何かの休憩の時に、僕だけ一人、うす暗い部屋の鏡の前で練習しました。それでも本番で間違えて、さっきのはなんだったんだ……なんて苦い思い出もあります。ただ、それをやる勇気というか、やっぱり興味があってやるわけだから、それで、年をとっても少しはジーパンがさまになるということはあるんじゃないですか。
神山 『アスファルト・ガール』では、周りにヤクザのあんちゃんみたいな人がいっぱいいて、坂本先生はタイプが違うだけに、かえって効果的に見えました。
坂本 そういう違いを狙って僕を起用したんじゃないでしょうか。そうじゃなければ来るはずがない話ですから。中田さんはタップをやったりして見事でしたね。
神山 その後、一度だけ、越路さんが日劇に出た時に、先生も出演されていますね。
坂本 一度だけです。日劇は広いんですが、僕は結構、人がたくさんいた方が乗るタイプで。特に年配の人たちがいるのが好きなんです。労音のコンサートでも、おじいちゃんおばあちゃんのファンが増えました。一部では『菩提樹』だとかそういうものをタキシードで歌って。二部は、セーターとかそういった軽装でピアノの弾き語りをする。それで一緒に歌ったりもするんです。お年寄りはそういうのが好きらしいです。一緒に歌うことが嬉しいと。
神山 そうすると、昭和二十年代にうたごえ運動みたいなものがあったでしょう。そういうものに関心はあったんですか。
坂本 ありましたよ。僕は草笛光子さんと非常に感覚が合って、とても素敵な先輩だったんです。そのご主人が芥川也寸志さんだったんです。あの方はうたごえ運動のこともやっていましたから。
社会派ミュージカルからファミリー・ミュージカルまで
日比野 サカモト・ミュージカル名義でおやりになった作品についてもう少しお伺いしたいと思います。
坂本 『みちのくがたり』というシリーズが、いちばん手応えがありましたね。これは芸術祭の優秀賞をいただいたこともあって、励みになりました。吉永淳一氏の脚本で、星野和彦氏の演出でした。
日比野 星野和彦さんとはどのように知り合われたんですか。
坂本 彼がつくった番組に僕が出たんです。
神山 日本教育テレビ(NET)ですね。
坂本 そうです。あの人は僕とほとんど同じような年で、一つ若いくらいです。今でも写真の展覧会の案内を送ってくださいます。大映のミュージカル映画の『アスファルト・ガール』をやった後ですが、僕が大きな病気をしまして。ある音楽新聞には「坂本博士は再起不能じゃないか」というような悲痛な記事も出ました。星野さんや吉永さん、加茂さくらさん、草笛さん等、いろんな人が心配して、来てくれて。今思うと、僕が死ぬと思ったんでしょうね。でも、生き返って、また、オペラやミュージカルをやって。『みちのくがたり』シリーズでは、スタッフだけでなく、野口久光先生、蘆原英了先生といった素晴らしい評論家の方たちが僕の音楽とキャラクターを理解してくれました。新しいものに挑戦するということは相当、勇気のいることです。でもそういった励ましがあってやってこられました。このシリーズは三部作で、一作目は『津軽山唄やまがなし』[「第八回坂本博士リサイタル」第二部として、一九六七年十月、サンケイホール]。これは当代随一の日舞の踊り手の、花柳照奈さんと。僕だけが歌い、恋人役の彼女はせりふはなくて、日本舞踊で返すの。照奈さんは、とても素晴らしい人でした。人間国宝の花柳寿楽先生の愛弟子で。僕は寿楽先生とも長くおつきあいがありました。それから二作目が宝塚のスターだった、眞帆志ぶきさん出演の『鹿吠えは谷にこだまする』[「第十回坂本博士リサイタル」第二部として、一九七〇年十月、サンケイホール]。彼女も強烈な個性で、恋人役でしたが、本当の刀がヒュッと僕の背中にとんでくるような殺気のようなものを感じました。もとは男役ですから、女性の役で出演するのにも悩んだらしいんですが、結局は納得され、意欲を持ってきてくれました。演出はこれも星野和彦氏、脚本もやはり吉永淳一氏です。
日比野 この時の振付は花柳瀧藏先生と竹邑類さんです。
坂本 竹邑類さんについては、僕はあまり細かくは知らないんです。星野さんが非常に買っていて。花柳瀧藏先生と寿楽先生はよく知っていますが。この時は、吉永さんがどうしても津波のことを取り上げたいというので、岩手まで取材にいったんです。この何十年後にあの三・一一がくるとは思ってもいなかったんですけど。最近も慰問に行く予定です。今度は隣の野田村にも行きたいし。
鈴木 そして、三作目が『海から黒い蝶がくる』[一九七三年十月、東京郵便貯金ホール]です。
坂本 そのころ、海や川の汚染が問題になっていて。それを綺麗にしたいという願いをもとに、三年がかりで取材して作りました。この三本は大きな、舞台装置もオペラ並みの作品でした。だけどはっきりいって経済的には大変でした。
日比野 吉永淳一さんとはどういった形でお知り合いになったんでしょうか。
坂本 きっかけはなんだったろう……。オペラをやっていたころに、藤原歌劇団のマネージャーに吉田昇さんという方がいて、非常にオペラ通の熱心な人で、その第一の部下に鈴木昭良さんがいました。サカモトが独立したころに、その鈴木さんと飯島さんに面倒をみてもらっていて。その関係で紹介されたのです。
日比野 サカモト・ミュージカル・カンパニーという名義では、一九六四年の『リズムさん今日は』[上演月・上演劇場不明]が最初ですね。
坂本 NHKの番組に出ていた時に、高見映さんと親しくなって。振付をしてもらいました。
日比野 眞理ヨシコさんも出ていらっしゃいました。
坂本 そうです。伴奏は「さとうきび畑」の唄の寺島尚彦君です。芸大に入った時は彼が一期先輩だったけど、どういうわけか卒業する時は一緒になっていたの。
日比野 翌年の『村で一番大きな銀杏の木』[上演月・上演劇場不明]は寺島さんの脚本と音楽で。
坂本 そうです。
日比野 『あしながおじさん』[「第七回坂本博士リサイタル」として、一九六六年上演月・上演劇場不明]では朱里みさをさんが振付を担当されています。
坂本 そうでしたね。のちに朱里さんのお嬢さん[朱里エイコさん]が僕の弟子になりました。あまり長い期間ではなかったですけど。そのころはまだ一部でコンサートをして、二部でミュージカルというやり方でしたね。
日比野 その後は、ファミリー・ミュージカルと銘打った作品を発表されています。
坂本 『海から黒い蝶がくる』までやって、僕もホッとして、ひとつ区切りができたように思っていたんです。そこに現れたのがワイフの紹介で山崎陽子さんという人。その人の思いが僕の胸を打ったんです。それまではどちらかというと社会的なことをテーマにしてきたけど、今度は、母と子供たちに夢を与えたいという思いで、その後の仕事を始めました。その第一作が『小鳥になったライオン』[一九七三年八月、西武劇場のオープニング記念公演]です。百獣の王ライオンから生まれた子供は強くなくてはいけないのに、リスやウサギにも負けるようなひ弱な子供が生まれてしまった。その子がどうなるか。母親に武者修行に出されて、いじわるな小鳥と出会い、喧嘩をしながらも成長していく。やがてそのライオンの王子がやさしい心で森を収めていくという、心温まるミュージカルです。この頃、ずいぶん山奥まで、峠を越えてバスで行くような学校で、音楽会をやったんです。帰りの時間になって、教室から眺めていたら、夕焼けの中、お母さんと手をつないだ子供が、なんと「いつも歌を忘れないで」ってテーマ曲を口ずさみながら帰っていくのが見えたのです。これは絶対に、オペラではできない経験ですね。これは二百回くらい、もっとやったかな。残念ながら、日本のミュージカルは初演が終演になってしまうんですけど。幸運でした。
日比野 この作品は西武劇場のこけら落としのシリーズで上演されて。その後も何演も重ねています。
坂本 たぶん、パルコの方からお問い合わせがあったんだと思います。もとは渋谷の児童館で、台本の基礎の部分を、立ちげいこの歌うようなかたちでやっていて。それをご覧になった方がいたのかな。子供たち向けの作曲をしてファミリー・ミュージカルとして育てていったものもやりたい。けれど、思い当たるものがなかった、というようなことでした。
日比野 ファミリー・ミュージカルの第二弾は『らくだい天使ペンキィ』[一九八五年八月、虎ノ門ホール]です。
坂本 これは、いたずらっ子の星の子が地球の子供たちと仲良くなって、やがて去るときに、「さようなら、別れたくない、大好きだったよ」ってお互いに言い合う。「君たちの地球を大事にしてくれよ」って、最後に星の子が言うんですが、これは脚本家には悪いんですが、僕が、ひとこと付け加えさせてもらったんです。ただ別れていく、大好きだったよという感傷だけじゃなく、いまや地球の問題はどうあるべきか。そういうニュースを入れることもできるのがミュージカル。僕の喜びがそこにもあるんです。
日比野 ブロードウェイ進出の可能性があったとのいうのが、この『らくだい天使ペンキィ』ですか。
坂本 向こうから声がかかったんです。芸大時代の友人が、もとはN響のチェリストだったんですが、ニューヨークで活躍していて。僕を訪ねてきて、是非やりたいと。向こうの音楽とは違うところがウケるはずだというんです。「オーケーするよ」と言ったら喜んで帰っていったんですが、間もなくガンで亡くなりました。久しぶりに会ったら痩せていておかしいなとは思っていたんだけど。それでこの話もなくなってしまいました。
日比野 脚本を担当された山崎陽子さんは、元宝塚だそうですね。
坂本 そうです。おつきあいが始まったころには、もう奥さまで、お子さんもいらして。彼女の書いた『小鳥になったライオン』に感激して、『らくだい天使ペンキィ』、それから『パパの子守歌』[一九八六年八月、虎ノ門ホール]と続きます。これはガンで妻を亡くした作曲家の父親が打ちひしがれていたのが、子供たちの力でだんだん元気になっていく過程を描いています。やがてお父さんは地域の人々のためにミュージカルを作曲する。僕がパパ役をやって、相手役は宝塚のスターの淀かほるさんが、見事にやってくださいました。
神山 その次が『ロン・ひとりぼっちのおおかみ』[一九八七年八月、虎ノ門ホール]。
坂本 人は見かけではなくて、心が大事だという話。オオカミの子がいて。ある時水面に映った自分を見てびっくりして悩むんだけど、健気な優しい心を友だちに捧げるという、大変感動的なお話でした。僕が作曲で、スタッフも良かったですね。
神山 このころから中村哮夫さんとお仕事されているんですね。
坂本 三作目の『パパの子守歌』からです。あの人とは気が合った。あの人の真面目一本なところが安心で、本当に「任せておけばいい」というような仲でした。
日比野 一方、振付の坂上道之助さんは、第一作から参加されています。
坂本 『アスファルト・ガール』に、ほんのちょっとした役でしたが、出ていたんです。その時に「この人の踊りはいいな」と思いました。それで「今度、こういうことをやろうと思っているんだけど」と口説きました。それまでは、どちらかというと「静」の作品だったけど、今度はどっちかっていうと、動きのある、子供たちと地球、友情、非常に目まぐるしく展開するものにしたい。だから僕は、あの人の持っている「動」の世界を必要としたの。そのことに彼もすごく感激してくれて一生懸命にやってくれました。
“本物”のミュージカルを届けたい
鈴木 ファミリー・ミュージカルのシリーズが始まる前ですが、一九六八年には、井上ひさし作、宇野誠一郎作曲の『詩人と泥棒』[一九六八年八月、上演劇場不明]を上演されていますね。
坂本 坂本の学校の合唱団のために何かつくってほしいと僕が希望しました。ひさしさんも、宇野さんも両方よく知っていたから。今の子供たちって、とても現実的なんです。トンボもセミもとらないし、汚れることはしない。でも僕は、そこに夢を与えたいというふうに思って、お願いしたんです。
神山 井上さんや演出の熊倉一雄さんにしても、先生はテレビにご出演されたことで、とてもいい人脈を築かれているというふうに感じます。
坂本 そう言われてみれば、栄養になっていますね。
鈴木 子ども向けの作品でも常に、スタッフ、キャストがプロフェッショナルですし。
坂本 一度、服部良一さんのコンサートに出たことがあるんです。宇野信夫さんの本で『聖者の恋』[「服部良一還暦記念ポップス・コンサート」第一部として、一九六七年九月、渋谷公会堂]という。服部克久さんが僕を訪ねてきて、「親父がファンだから出てほしい」と。僕が聖者の役で、相手役は朝丘雪路さん。『雪の降る街を』を歌った高英男さん、それから小田清という大変素晴らしい脇役、名バリトンが出ていて。彼はサカモト・ミュージカルにもよく出てくれました。子供たちには本当の歌い手を見せたいですから。マイクなんて使わなくてもこういう声があるんだと。ですから脇役には、必ず小田君や友竹さんに入ってもらっていました。とにかく僕がつくるものの中には絶対的な音楽家を入れたんです。僕は浅利慶太さんや石原慎太郎さんと歳が近いんですが、一度、石原さんと話したことがあるんです。「どうして坂本さんのところは、虎ノ門ホールを一週間も満員にできるのか」と聞かれて。僕は「石原さんは石原さんで、違う角度でやっていると思うけど」と言って、「もし忌憚のない意見を言うなら、僕は劇団四季が好きで、これからも頑張ってもらいたいけど、歌い手をもうちょっと充実させたらどうですか」と伝えました。踊りは素晴らしいですからね。もう何十年も前のことですが、そうしたら、その後、歌い手がよくなったんです。そうやって、お互いに掲揚しあった時代もありました。
神山 先生の世代の方はみなさん、二十代で大きな仕事を成し遂げてもいますから、驚かされます。
坂本 みんな、戦争を知っていて、気合が入っていて、「これじゃあいけない」といろいろと考えていたんです。いろいろ難しいことはあったけど、音楽をやっていて、ミュージカルと出会って、僕は本当によかったなと思っています。ミュージカルというのは、お金がかかりすぎるのも無駄というか、うちのスクールみたいなところで練習したって、いいものはいいんです。僕は、この近くにある老人ホームの共愛ホームというところに慰問に行きますが、どんな人だって、「幸せだから笑うんじゃない 笑うから幸せになるんだよ あははのわはは」って僕が作曲した歌を聴いて、みんな、姿勢や表情が変わってきますから。
僕はまた、そういう経験を若い時からしているんですね。『白い川』の時も、萩野昇さんという医学博士の案内で病院にお見舞いにいったんです。みんなベッドにうずくまっていてね。背丈が百五十センチの女性が百二十センチくらいになっちゃって。そこの青年団長に「払うお金はあまりないけど、何か勇気をもらえるものをつくってほしい」と言われてつくった舞台なんです。病院で「今晩やりますからいらしてください」と言って帰ってきて。田んぼの中にあるような小学校でやったんですが、なかなかお客さんが来ないので外に見に行くと、三台のバスでやってきました。みんな背が小さくなって、椅子だって座ることができないから、ゴザを出して座ってもらって。最初は[シューベルトの歌曲]「菩提樹」だとか「鱒」だとかを歌って、その後、舞台をやりました。途中でバタバタと音がすると思ったら、でっかいコウモリが入ってきたり。新聞の記事にもなりましたが、みんなホロっとしていました。拍手をワーッとやりたくてもできないから、皆さん手を合わせて。僕もつられて同じようにしてしまいましたけど。そういう姿を見ると「来てよかったな」と思いますね。そういう意味でも、オペラと違ってミュージカルというのは、人の気持ちに入るテーマを与えることができます。
日比野 『炎・この美しきもの』[一九七七年十月、沖縄県浦添市民会館を皮切りに八箇所巡演]も吉永淳一さんの作品で、九州、沖縄までまわっています。
坂本 あれは九州の芸術祭に頼まれてつくったオペラです。オペラとしてつくったんだけど。沖永良部島[鹿児島県和泊町体育館]までいったんですが、あの時は嵐で困りました。ようやくちょっと沖に止めて、そこに小さい船が迎えにきてくれて。波が高いから、みんな上から飛び込むように乗るんです。屈強な若者が待っていてくれるんですけどね。港につけなかったから、舞台装置も何もない。人だけになっちゃって。それも「明日演奏してもらう講堂の天井が吹っ飛んじゃったので、今夜徹夜でふさぎます」というんです。だから、「いやいや、そんなことする必要ないよ」と言って、いったん見に行ったんです。そうしたら、本当にやっぱりする必要がなかった。星が出ていてね。逆によかった。次の日は天気と決まっていましたからね。
実現しなかった坂本博士版『南太平洋』
日比野 サカモト・ミュージカルの活動の一方で、一九八〇年には、東宝ミュージカルの『サウンド・オブ・ミュージック』[一九八〇年三月、名古屋中日劇場ほか]にも出演されています。
坂本 『パパの子守歌』を観たのか、僕が昔、東宝に教えに行っていたこともあったのか。
神山 東宝の芸能学校ですか。
坂本 山本嘉次郎監督がオペラが好きだったんですね。それで、僕に名指しで、ちょっと教えに来ていただければというので行ったんです。前田美波里や黒沢年男、それから東宝現代劇の人もいました。発声と歌の両方を教えて。そういった関係で『サウンド・オブ・ミュージック』もやりました。
神山 東宝の、どなたが決められたのかわかりませんが、トラップ大佐役は、先生のキャラクターによく合っている気がします。
坂本 池野さんという方でした。藤村有弘さんが、いつも即興でやるもんだから、池野さんが「ダメです、台本以外のことは言わないでください」って、舞台から楽屋までの廊下で待っているの。だから、僕の後ろに隠してくれと言われてね。スーッと横を通り抜けたりなんかして。懐かしいですね。藤村さんも、E・H・エリックさんも亡くなって……僕は世田谷のロータリークラブで四十年会員をやっていますが、以前は、古関裕而さんとテーブルが一緒になったりしました。それから二期会の柴田睦陸先生という、一世を風靡したオペラ歌手。奥さんもオペラ歌手で、いつも一緒にいらしたんですが、みんな亡くなってしまいました。音楽家は僕一人になってしまって。
日比野 古関裕而先生はどんなお人柄でしたか。
坂本 飄々とした感じで、素晴らしい方でした。僕、それから、たーちゃん、立川と仲が良かったんです。クラシックの人と結構、付き合いがあったんです。いろんな思い出があるけど、テレビで『オールスター 家族対抗歌合戦』[フジテレビ、一九七二年十月〜八六年九月]というのがあって、古関さんが審査委員長、僕が審査員をやったこともあります。
日比野 先生がミュージカルをつくったり、出演されたりするなかで、菊田一夫さんとの交流というのはありましたか。
坂本 加茂さくらさんが初めてのリサイタル[一九六四年十一月、東京宝塚劇場]をやる時に、宝塚でやっていた『花のオランダ坂』をやりたい、その相手役に僕を、ということで出たんです。その時の演出が菊田一夫さんです。オペラでいうなら、彼女が蝶々夫人で、僕がピンカートンの役でした。それで、東京宝塚劇場に初めて出たんです。歩くのにも照れて、銀橋から落ちそうになりました。あの大階段はやりませんけどね。
神山 菊田さんはどんな方ですか。
坂本 怖いのなんの。加茂さんを怒鳴りまくるの。僕には何も言わないからかえって気持ち悪くてね。「私は何もないですか」と聞きにいったくらい。その公演が終わってすぐ、僕は手術で背中を切ることになったんです。
神山 舞台稽古じゃなく、稽古場からもう厳しかったんですか。
坂本 怖かったですよ。でも、あのころはまだ五十歳くらいでしたよね。だから僕がいつも陰で加茂さんをなぐさめて。加茂さんは僕の知る限り、いちばんのいい声なんです。クラシックでも。それで『ラ・ボエーム』のムゼッタという、鉄火肌の女性にいいなと思って、藤原先生にも紹介したの。先生もいっぺんで気に入ったし、ガエタノ・コメリというイタリアの指揮者も「とてもいい」と。ところがやっぱり、よそ者ですから。最後のツメになって足を引っ張られちゃって。
日比野 藤原歌劇団といえども、そういう風通しの悪さはあったということですか。
坂本 巨人軍にしたって、やっぱりカラーというものがあるでしょう。もとからいる人にとっては、声楽家としてやってきているというプライドがあるから、そこはなかなか難しいです。僕や立川がいた時代には、そういう壁を取っ払いたいという気持ちもありましたが。ミュージカルでは、有名人で人気があるというだけじゃない活躍の場もあると思いますが。アメリカのミュージカルには本格的な歌い手がいっぱい出ていますしね。トラップ大佐だって、だいたいオペラシンガーがやっています。僕も以前ニューヨークのトラップ大佐役の人に会って、「日本のトラップ大佐」と紹介されたけど、その人もとても立派な声をしていて、素晴らしかったです。菊田さんからはその次の仕事もやってくれ、という話があったんです。それが『南太平洋』です。相手役は金井克子さんということでした。だけど僕は入院しちゃったんです。それで、その役をやったのが宝田明さん。相手役も変わって越路吹雪さんになりました。
日比野 『南太平洋』の初演[一九四九年四月、マジェスティック・シアター]はオペラ歌手がやっていますから。
坂本 エツィオ・ピンツァという素晴らしい歌手でした。
日比野 先生の『南太平洋』も実現すれば素晴らしかったんじゃないかと思います。
坂本 ですからミュージカルにはそういう夢があるなと思いますね。オペラへの熱、オペレッタの楽しさ、ミュージカルの「見果てぬ夢」というふうに僕はやってきたと思います。
市民ミュージカルの教え子たち
日比野 最後に、一九九三年から厚木市でやられていた厚木市民ミュージカルのこともお聞きしたいと思います。
坂本 あれは厚木市の市民会館の館長さんで、井上さんという方が訪ねてこられたんです。大変な熱血漢で。それで教育してくれという話で、ミュージカルを教えに通いました。そのなかの一人が、今の、いきものがかりというグループの吉岡聖恵。ほかにも宝塚の準トップになった如月蓮がいました。宝塚だとほかには、サカモト・ミュージック・スクール出身で、トップになった真飛聖、それから広岡達朗さんのお孫さんも出ましたが。
厚木には四年間行きましたから、まったく音楽をわかっていない子たちにだいぶん影響を与えたと思います。どうしようもないような子でも、いい物語、いい舞台に出ていると、次第にそれが乗り移って、いい子になってくるように思います。小さい子にはやっぱり、いいものに触れてほしいと私は願っています。こうやって話していると、まだまだつくりたい気持ちが湧いてきますね。