基本データ

取材日:二〇二〇年十月二十二日

取材場所:国際文化会館

取材者:神山彰・川添史子・日比野啓

編集・構成:川添史子

イントロダクション

 「水谷八重子」の名は、現二代目の母上が演劇史的にも、また、新派だけでなく多くのジャンルのかつての芝居好きの思い出に、極めて大きく、濃密に残っている。私もその一人で、十五年ほど断続的でも見た舞台は、人生に潤いと奥行きのある忘れ難い思い出を持たせてくれている。それどころか、芝居など一度もみたこともない人の記憶にまで、「全国津々浦々まで」という感じで、その名は知られていた。

 だから、襲名後二十六年経過した現在でも、芝居好き同士の会話でも、現・二代目八重子氏を前名である「良重さん」と呼ぶ人もいるほどである。しかし、このことは、決して失礼な感じがしない。それは、水谷氏自身、「全国津々浦々まで」知られるスターだった証であるからである。

 初代は、演劇ではジャンル横断的に活躍したし、戦前から映画にもかなり出演し、テレビも初期には見かけたが数は少なく、今回のインタヴューでもあるように、歌は苦手だった。

 それに対して、水谷氏は、演劇のジャンル横断はもちろん、ミュージカル、レヴューでも目をみはるようなステージを見せてくれた。映画出演も百本はくだらないだろう。しかも、それに加えて「水谷良重」はジャズ歌手であった。全国各地の超一流のクラブどころか、米国のステージも踏んでいる。そして、テレビでも、その初期から、ドラマから歌番組まで。数多い番組に出演している。それどころか、自身の名前を冠せた番組まで持っていた。欧米の銀幕大スターが来日すれば、その歓迎パーテイなどに出席するスター振りも、「芸能ニュース」で見たものだ。

 そして、「戦後」の時期に青春を送った少女時代からの記憶も、実に貴重である。

 私的な思い出でも、水谷氏の記憶は鮮明である。本文中で触れたが、最初の記憶は歌番組「ザ・ヒット・パレード」かそんな感じのテレビのショーで歌う姿である。当時は、洋楽も歌詞は日本語訳だったから、子供の私もすぐ憶えた。その時、既に「水谷良重」と認識して感じであるほど、有名人だった。「小顔の輪郭や口元はお父さん(十四代目守田勘弥)、ハスキー・ヴォイスはお母さんに似てるねえ」と家人が話していた記憶もその頃だろう。

 日劇の「第一回ウエスタン・カーニバル」に出ているのは凄い!子供の私たちは箒をギター替りにロカビリアンの真似してた頃なのだから、それだけで尊敬に値するのである。

 白木秀雄氏との結婚もビッグニュースだった。『ママと良重とヒデ坊と』という番組、白木がドラムスローンを離れスティックで、初代水谷の座るソファやテーブルを叩きながらスキャットしていくシーンなど、子供の私の憧れをそそったものである。

 「全身野球・テレビ少年」だった私は、同時に、劇場好きの家人の持ち帰るプログラムや雑誌で、踊る水谷氏の姿の良さや脚線美に見惚れたものだ。日劇のまだペンキ絵の看板で見る姿も眩しかった。新派好きの祖母に連れられ、新橋演舞場で新派も見はしたが、水谷氏は、その頃は、東宝の舞台や映画、テレビの売れっ子だから、そこでの記憶はない。

 舞台で最初の記憶は、1965年歌舞伎座の『花の吉原百人斬り』だと思う。島田正吾と共演で父・勘弥も出ていた。だから、当然断続的であり、その内20年近くは仕事絡みとはいえ、かれこれ55年も水谷氏の舞台を見、歌を聴いているのである。

 当時国立劇場に在籍していた私が、仕事で初めて会ったのが、1979年母上である初代水谷八重子が亡くなる直前だった。その後、通夜から本葬の手伝いで当時の住い川口アパートへ伺った。まだ、川口松太郎氏が健在だったのだから夢のようだ。

 以来、私の在職中は国立劇場で毎年新派公演があったので、毎年、仕事で顔を合せた。歌舞伎と違い、新派は打ち合わせも稽古時間も長いが、私が元来新派好きなので、今は多くが故人となってしまった、明治・大正生れの俳優、地方じかた、職人、スタッフの方々の思い出は多彩で、実に楽しい。当時は、川口松太郎。北條秀司両御大が、ほとんどの公演に関わったので、より強い印象に残っていることもあると思う。

 水谷氏の演技で特徴的なのは、その母親譲りの声を生かしたメリハリある台詞術である。演劇には舞台の俳優同志でヤリトリする「横の台詞」と客席に向って語る「縦の台詞」とがあるが、大雑把に言えば、近代劇や新劇は舞台上で完結する「横の台詞」、古典劇は「縦の台詞」といえる。新劇の俳優は、基本的に「正面切った」芝居ができないから、古典劇でも「横の台詞」になってしまう。

 三島由紀夫は『鹿鳴館』初演の際、文学座の俳優たちに「もっと威張ってやってくれ」と言ったという。つまり、もっと古典劇のように「正面切って」客席に向って台詞を言ってくれという事だが、やはり近代劇で育った俳優たちにはできにくい。三島はそれ以前から縁あった新派で初代水谷八重子を主役に上演し、その「正面切った」演技を賞賛している。

 そして、現二代目水谷氏は、その襲名披露公演でも取り上げた『鹿鳴館』で、見事に正面切った芝居を見せた。台詞の半分は、夫の影山伯爵に、半分はハッキリと客席に向って、初代より、声量のある口跡で、キッパリとメリハリをつけて語る。影山の偽善を問う台詞は、当然、現代の観客をも問い詰めるセリフなのだから、そうしなくては意味がない。

 しかし、これは長く培われた身体機能に関することだから、意外に新劇俳優には難しいらしい。劇団「四季」のような新劇では異例の正面切った芝居をしている俳優たちでも、『鹿鳴館』終幕で熱を帯びてくると、客席を忘れ、徐々に俳優同志のヤリトリに終わってしまうのだ。

 歌舞伎でさえ、今の役者の多くは、舞台の相手役に向けて語っている。その意味で、水谷氏のメリハリの利いた、いかにも新派らしい独特の台詞廻しと特徴ある口跡は、今では結構貴重なものと言えるのではないかと思えるのである。

 また、1950-60年代の戦後ミュージカルの劇評を見ればわかるように、水谷氏は、ミュージカルでも将来を嘱望されていた。現在、年に数回行われるコンサートにも、私は、年一回は足を運び、懐かしい歌声とスタンダード・ナンバーを聴いているが、そこで実に楽しく、貴重この上ないと思うのが、曲の合間の何気ない回想に充ちたトークである。水谷氏ご当人は、単に思いつくままの感じで別に貴重とも思っていない様子だが、その回想に登場する国内外の、あるいはジャズから歌謡曲、テレビに関わるビッグネームからマニアックな人名に至るまでにまつわるエピソードなどは、曲の合間のトークで済ませてしまうのは、もったいないといつも思っていた。

 そして、それもまた、この「近代日本オーラルヒストリー」でのインタヴューを依頼したくなる理由の一つであった。

 まとめとして繰り返すが、水谷氏は本城の新派を軸に、演劇だけでも、歌舞伎、ミュージカル、新国劇、東宝、前進座、新劇といった横断的ジャンルの俳優たちと同じ舞台で共演している。これだけ、広範囲なジャンルで、しかも、いずれも主役、準主役を演じてきた俳優は、まず、居ないだろう。

 以上述べたように、そして何より本文を読めばわかるように、戦後の演劇、ミュージカル、レヴュー、ショウ、映画、ラジオ、テレビ等々のメイン・シーンで水谷氏は、活躍してきたのである。つまり、お世辞でなく、水谷氏は「戦後演劇史」というより、「戦後芸能史」を体現した存在である。

 今回は時間の関係もあり、主題も「近代演劇」だから話題は及ばなかったが、各ジャンルでの思い出を語れば、正に生動感溢れる、肉声で聴く「戦後芸能史」の各章になる事だろう。

 まず、前提はこの位にして、本文の豊かで、懐かしく、貴重で、生き生きとした回想と思い出を、読んでいただきたいと思う。(神山彰)

デビュー以前、熱海での少女時代

神山 戦時中の少女時代は、熱海にいらしたんですよね。
水谷 はい。うちの母[初代水谷八重子]は坪内逍遙先生、そして松井須磨子さんの元で芝居を始め、生涯「師」と仰いでいたのが逍遙先生でした。先生のお墓が熱海にあって、それでうちの別荘も熱海にありました。
神山 なるほど、そのご縁で。
水谷 ただ不思議なのは、須磨子さんの話は小さな頃からよく聞かされていましたが、川上貞奴さんの話は一度も聞いたことがないんです。いろいろなものを読んでみると、同じ時期に熱海へ疎開していらしたようなので意外なのですが。
神山 お母様の初舞台は須磨子さん演じる『アンナ・カレーニナ』[一九一六年九月帝国劇場]でしたね。
水谷 ええ。セルジー役。ですから尊敬していたのは坪内先生で。
神山 [島村]抱月の話はあんまりしなかったですか。
水谷 あまりなかったですね。ただ母が死んだ後、いろいろなものを入れた缶……明治の人には「缶に入れておくと大丈夫」という感覚がありますよね。その缶の中から小さなアルバムが出てきて、新聞の切り抜きが二、三、その中に抱月先生が死んだ後の須磨子の狂乱ぶりを書いたゴシップ記事が入っていて。何でかしらと思っていました。
神山 終戦のときも熱海にいらして、戦後すぐ紀尾井町の、後にニューオータニができるそば[清水谷]にお住まいになった。
水谷 ええ。低学年は熱海の小学校で、四年の途中から試験を受けて雙葉小学校に途中入学しました。英語の授業が熱海の学校にはなくて[困りました]。
神山 あの当時、普通の小学校にないですからね。
水谷 それが雙葉にはあって。当時は自分の名前すら書けませんでしたから「英語が追い付いたらちゃんとした入学生にしてあげましょう」ということで、当初は補欠で入りました。
神山 菊田一夫さんの『風の口笛』[一九五一年一月・新橋演舞場]に小学生時代、ちょっと出演されたそうですね。
水谷 五年か六年生の時です。
神山 舞台出演は嫌がらず?
水谷 記憶は曖昧ですけれど、当時一番嫌なものは学校だったんです。学校以外のことはそれほど嫌ではなくて。
神山 役者さんが学校を好きじゃだめですよね(笑)。本当にいいことです。正式な初舞台は十六歳の昭和三十年、中野實さんの『相続人は誰だ』[一九五五年八月・歌舞伎座]です。写真にも残っていますけれど、喜多村緑郎さんらが並んで口上をされたとか。
水谷 緑郎先生と花柳章太郎先生と母と私と四人だけ。中野先生の現代劇でしたので、その劇中口上でした。母はお手伝いさんの役で、そのお手伝いさんの娘が訪ねてきたという設定でした。
神山 そうですか。喜多村さんも女形のナリでしたか。
水谷 その舞台には出ていらっしゃらなくて、口上だけのために、奥さまのような格好で出てくださったんです。花柳先生がその家の奥さまで、それに見合うような格好をなさって。
神山 喜多村さんは明治一ケタ生まれですから、当時八十代。
水谷 普段の持ち物もおしゃれでカッコいい方でした。どこへ行ったのか分からないのですが、母が緑郎先生の鼈甲のシガレットケースを持っていたんです。アールヌーボー風な唐草の飾りが施してあって、「喜多村」と書いてあって。喜多村先生の形見だと言って母が人に見せびらかしていたのですけれど(笑)、そのあと[喜多村の]九寿子夫人のお手元に戻したはずです。それで奥様がお亡くなりになったあと周囲の方に伺ったのですが、一向にそのシガレットケースが出てこなくて、とうとう幻になってしまいました。喜多村先生のお宅は確か、溜池から六本木にずっと上がっていく交差点のちょっと手前、俳優座の向かい側あたりにあったと思います。高台になっていて、周囲を見下ろせるような高台のおうちでした。
神山 八重子さんは最初、松田トシさんに歌のレッスンを受けたんですよね。
水谷 はい。小学校……中学にもう行っていたでしょうか。
神山 あと、初舞台と同じ昭和三十年(一九五五)に服部良一先生の指導で最初にレコードを吹き込んでいます。僕は昭和二十五年(一九五〇)生まれで昭和三十一年(一九五六)ぐらいからうちにテレビがあったんですよ。だから水谷さんの十代からテレビを通して拝見していました。「メロンの気持ち」って覚えていらっしゃいます?
水谷 「コラソンデメロン」という歌詞の?
神山 そう。あれを水谷さんが歌っていて、アップになって、それが強烈に記憶に残っています。
水谷 私、歌ったことあるかしら。
神山 よく森山加代子が歌っていたんですけどね。
水谷 ええ、そう。森山加代子さん。
神山 水谷さんも歌っていらっしゃいました。
水谷 そうですか? でもあらゆる芸能人で一番先にテレビに出たのは私ではないかと思うんですよ。
神山 最初期ですよね。
水谷 初期のさらに前、試験放送に花柳寿南海社中で出ていますから。確か田村町あたりから車に乗せられて、どこへ行ったのか……寿南海先生はなんでもしっかり覚えていらしたので、聞いて書いておくべきでした。
神山 ついこの間亡くなっちゃいましたね。
水谷 ええ。それでどこか……愛宕山だったか。季節は春でした。サクラが満開で、スタジオは小屋掛けみたいにむしろをいっぱい重ねて音を遮断するようにしたスタジオで、独楽まわしが独楽をまわしていて、立派なサクラの木があって。私たちはその周りで「東京音頭」を踊らされました(笑)。そのときの衣裳が忘れられないのですが、グレーの浴衣だったんです。グレー地に白いサクラの花びらが描いてあって、その白のサクラの花びらに黒い縁取りをしてあって、それで唇も黒で塗って。要するに全部モノクロでやりました。

同時だった歌手デビューと新派入団。そして日劇レビューと東宝ミュージカル

水谷 昭和三十年(一九五五)は、「夏休みの間だけね」という母の言葉通りに、八月に初舞台。それで服部良一先生に連れていかれて、築地にあったビクターのスタジオで「ハッシャ・バイ」と「デビー・クロケットの歌」を入れまして、その発売日がちょうど歌舞伎座の新派公演の初日[一九五五年八月五日]だったんです。ですからどちらが先じゃなくて、同時スタート。
神山 歌手と俳優活動が同時スタートというのは珍しいですね。
水谷 発売日と初日が一緒でした。うまく親がたくらんだのかもしれないのですが……。声楽家の松田トシさんはうちのお隣で「歌のおばさん」と呼んでいて、母から「けいこに行きなさい」と言われて最初は通っていました。母は要するに、娘を放課後、好き勝手なところへ行かせたくなかったのだと思います。
神山 水谷さんがコンサートのMCでおっしゃっていたか、服部良一が「(水谷は)納豆売りみたいな哀愁のある声で」と。
水谷 私、本当に男性と同じように声変わりしまして、松田トシさんからも「あなた無理よ、うちの歌というのはそういう声じゃだめなの」と言われ、その後、服部良一さんのところに入門したんです。松田先生の生徒さんたちがヤマハホールに集まる「松の実子ども発表会」に一回だけ出て、そのときにクラシックの楽曲を歌おうと思ったら、もっと別な、好きなものを歌いなさいと言われて、「ティー・フォー・トゥー」を歌ったことはあります。
神山 子供が「ティー・フォー・トゥー」を(笑)。
水谷 ヤマハにその写真が残っているそうですよ。うちの母はいいかげんなので、写真の裏によみうりホールと書いてあるんですけど(笑)。
日比野 水谷さんが最初にジャズに接したのはいつですか?
水谷 アメリカ映画ですね。ドリス・デイの顔からハスキーな声が聞こえてくるというのに、すごくぞくっとしました。
日比野 小学校の高学年のときには御覧になっていた?
水谷 そういったものばかり見ていました。
日比野 当時の子供としては、珍しかったのでは?
水谷 ロードショーの映画館はいっぱいでしたけれど……。
日比野 子供もいましたか?
水谷 確かに、子供はあまりいなかったですね。私は見た目が子供に見えなかったので。
神山 昭和五年(一九三〇)生まれの母もやっぱり好きで、ジョージ川口が渋谷の道玄坂の渋谷東宝に出たときに僕、連れていかれまして。うちに帰って、ジョージ川口のまねをしたのを覚えています。
水谷 そうですか!
神山 子供を連れていっちゃったんですよね、きっと。そんな私の話はいいんですけど(笑)。それで翌年、昭和三十一年(一九五六)にはもう日劇にお出になっていますね。あと東宝の『太陽の娘』『俺は知らない』[一九五六年七月・東京宝塚劇場]。
水谷 私にとっての初めての東宝ミュージカルです。東宝ミュージカル第二回目。あのときは越路吹雪さんではなく、美空ひばりさんでした。榎本健一先生が座頭で。
神山 エノケンさんはそのころは脚がもう不自由でした?
水谷 なくしていらっしゃいました。よく覚えているのは、「今どきの若ェえ奴はとんぼ一つ切れねェ。俺なんか脚なくしたってこれだけとんぼ切れるぞ」と、衣裳部屋でくるんくるん、くるんくるん……と見せて。
神山 そうですか。八重子さんは当時、十代とは思えないようなものすごい活躍ぶりで、一方新派でも『赤線地帯』[一九五六年四月・明治座]とか『太夫(こったい)さん』[一九五八年五月・新橋演舞場]にもご出演。そのころは無我夢中という感じですか?
水谷 いえ、本当に頭に来て、「やめてやろう」と思っていました。というのは、小坂一也さんの事務所から、「ワゴンマスターズと一緒に巡業に行ってくれ」と夢のようなお話が来たのを、母がぴしゃっと「芝居がありますから」と断ったんです。当時私は小坂一也さんの追っ掛け親衛隊でしたから、私に何も言わずに断ったというのが頭に来て、誰が新派なんかに出るものかと(笑)。やっぱり十六歳の娘は、ちゃらちゃらきれいなドレスを着て歌っていたいですよね。女中の娘でぼそぼそ歩くよりは。
神山 進駐軍のキャンプでは歌っていらっしゃらないでしょう。
水谷 行ったことないです。それからずっと後、戦後という言葉もなくなったころに、中野ブラザーズと五年間キャバレー回りはしましたけれど。あの当時は東宝の第一演劇部をしくじりまして、第二演劇部にお下げ渡しになって、「罪滅ぼしに少し仕事していけ」と菊田先生に言われ、それがキャバレー回りでした。
神山 東宝が当時やっていましたからね。
水谷 はい。トップが越路吹雪ショーで、それから私で、それから「こんばんはミュージックホールです」という大きなパッケージショーを回していまして、それで中野ブラザーズに「芸人とはこういうものだ」というものをたたき込まれました。だから誰に何を教わったという分量からいったら、母よりも市川翠扇先生よりも中野ブラザーズですね。そのくらい怖かったし。
日比野 お兄さんと弟とどちらが。
水谷 弟ですよ。お兄さんは一緒に怒られる方だから。
神山 中野ブラザーズの話はまたアメリカの話題で伺うといたしまして……昭和三十一年(一九五六)ごろは、ラジオドラマにもご出演されています。
水谷 ラジオドラマ全盛期でしたね。石井ふく子先生がそのあたりから新派を助けてくださったんです。日本電建という会社にいらして。
神山 あ、そうなんですか。
水谷 ええ。そこの会社提供のラジオドラマは全部やりなさいということで、川口先生の『人情馬鹿物語』だったかしら……細かいことは石井先生に伺わないといけないんですけれど。舞台の人はこんなにお給料安いんですか、少しでも助けてあげたいというので、新派のユニットのようにして、ずっと助けてくださいました。
神山 そういう事情があったんですね。一方、東郷たまみさんと朝丘雪路さんとの「七光会」もその頃。あれはどなたかのプロデュースですか?
水谷 服部先生が「同じ音域の人でまとめておけいこをしたいから、なるべく集まって来てくれ」ということで、三人のレッスン日時が一緒だったんです。陰で「どら猫シスターズ」と呼ばれていたらしいけれど(笑)。そうしたら「三人で売り出したらどうだ」といって、じゃあ、三人の共通点は親の七光りだからと言って、七光り三人娘と決めました。私が名付け親です。
神山 そのころの歌を僕も子供ながらに覚えていますけれど、ちょうどテレビがだんだん盛り上がる時期と重なっていたから、とても印象的でした。その頃ですか、スターダスターズの渡辺弘さんの専属歌手になったのは。
水谷 専属歌手なんてとんでもなくて、みそっかすでした。ナイトクラブやら何かに遊びに行きたい、お尻に羽が生えている年ごろなので、母がそれを警戒したんですね。それで、当時一番厳しいと評判だった渡辺弘さんに預けておけば間違いないだろうと。どこでそういうことを知ったのか分からないんですけれども。しかも超一流の「コパカバーナ」で、「ただで結構ですからうちの娘が暇なときに歌わせてください」と。ショータイムは私は必要ではないので、チェンジバンドで入っていたナベプロの渡辺晋さんが「焼き鳥食べに行くかい?」とおっしゃって、赤坂あたりで食べさせてくださったりしました。
神山 まだそのころは十代、「ニューラテンクォーター」なんかに出演されたのはずっと後ですね。
水谷 ちゃんとギャランティをいただいての初舞台は、「ニューラテンクォーター」が最初です。今不思議なのは、どんな田舎へ行っても十六人編成のフルバンドと六、七人のコンボバンドと、それだけミュージシャンを抱えていたんですよね。どこへ行っても。うまい、下手は別にして。その人たちがいったい今どこにいなくなったのか、不思議でしょうがないです。
神山 とにかくあの時代の日本映画といいますと、必ずクラブのシーンが出てきますでしょう。ものすごい数ですよね。
水谷 きっとキャバレーだって同じミュージシャンを抱えていたわけですからね。
日比野 お母さまは娘さんがジャズをされることに関して、どう感じていらしたんでしょう。
水谷 「自分はまったく歌えない」と言っていました。なので、娘は歌えるようにしたいと思っていたみたいですね。また、自分は六つから舞台に立っていて学生生活を知らない、雙葉には入っていたけれども、芸能活動をしたので卒業免状をもらえなかった。何年か経ってから、一筋の道をしっかり歩いているから卒業免状をあなたにあげましょうということで、みんなより遅れてもらったと話してはいましたけれど。
日比野 洋楽をやらせると邦楽ができなくなる、といったご心配はなかったんですね。
水谷 踊りだけは続けろと言われました。疎開先でもお師匠さんを見つけておけいこに行かされましたから。
神山 東宝ミュージカル『メナムの王妃』[一九五七年九月・東京宝塚劇場]でもお母さまは歌われなかったのでしょうか?
水谷 歌ったらしいのですが、バンドが泣いて私に訴えていました(笑)。あのときに母は三木のり平先生に心酔したのですよね。どんなことをしても全部芝居にして返す、すごい人だったと。だから本気で役者として惚れていました。
神山 やっぱりのり平さんはそれだけの力があったんでしょうね。
水谷 それで共演のラブコールをし続けたけれども、死ぬまで応えていただけなかった。「嫌だよ、お母さんとなんて。良重でいいよ」と(笑)。
日比野 それは新派が嫌だという意味ではなかったんですか。
水谷 新派はものすごくお好きでした。なので理由は分からないのですが……。あの方独特の、複雑な理由がおありになったんだと思います。
神山 そうですね。一筋縄ではいかない感じがしますね。
水谷 ええ。その分、かわいがっていただきましたけれど。
神山 昭和三十二年(一九五七)ぐらいになりますと、コマ劇場もできます。コマと東宝劇場のミュージカルって、感じは違ったものですか。
水谷 危なさが違いました(笑)。
神山 劇場構造上の危なさ?
水谷 はい。最初の頃は、年中壊れていたんです。カラオケはコマが一番最初でしたね。東宝へ行ったら必ず洋楽は生。松竹へ行ったら洋楽はテープで出るかもしれないけど邦楽は絶対生。それが両方テープになったときには、本当に悲しかったですね。
神山 コマはやっぱりそういうことがありましたか。
水谷 それで、コマは年中テープが切れるんですよ。だからイントロは飛ばして、途中からズンチャズンチャと出てくるので、どこから歌っていいのか、泣いた人はずいぶん多いと思います。
神山 そうですか。コマは照明の方に聞いても、調光室から舞台がよく見えないので使いづらかったと言っていましたね。小川昇先生なんかはずいぶんレヴューの照明もやっていたと聞いています。
水谷 あと、「盆[回り舞台の回転する円形部分]が壊れていますから引っ込みはよっぽど気を付けてくださいよ」と言われて、ライトで目つぶしを食らって、ぱーんと暗転になって、細いドレスを着て足で地面を探ったらフラットなんですよ。何だ、壊れてないじゃない、フラットになっているじゃないとスタスタ行ったら、その次の盆が上がってきてなかった(笑)。ズドーン。それで一気に暗いところ、高いところ、この二つの恐怖症になりました。それと楽屋から舞台に行くまでが迷路でしたね。どなただったか、映画の方が舞台に出ようと思って階段を下りて下りて、曲がって曲がって、映画館に入って出られなくなっちゃったと聞きました。
神山 楽屋から映画館に行っちゃったんですか(笑)。コマは客層が違う雰囲気はしましたか?
水谷 当時は客層までは気にしていなかったですね。ただそのころの貸し切りのお客さまというのは、お酒が飲めるんですよ。だから大宴会になって、「おーい、引っ込めー」と聞こえてくる。そうすると榎本先生のところから各楽屋に伝令が走るんです。「今日は走る、出をとちるな」という(笑)。四十五分ぐらい回っちゃいました。
神山 芝居を巻いちゃって、早くやっちゃうということですね。
日比野 どうせ酔っ払って聞いていないからと(笑)。
水谷 早くやって早く酔っ払いを帰しちゃう。[益田]喜頓さんのせりふで、「あっしゃあ大番頭の勘兵衛という者で何々、何々」という三、四行のせりふがあったんですけど、「バンカン(番勘)!」の一言でおしまい(笑)。今はそんなこと、とてもできないですよね。
神山 昭和三十二年ごろ、『真夏の夜の夢』[一九五七年八月・新宿コマ劇場]にお出になったのは東宝劇場ですか。
水谷 いえ、コマです。
神山 本地盈輝(ほんち・えいき)さんって朝日新聞にいたでしょう。あの人が劇評ですごく褒めていますね。
水谷 あの舞台の演出家は、日劇ミュージックホールの岡田……。
神山 恵吉さんですね。
水谷 あのかたはものすごく細かかったです。真夏なのに毛皮を着せられました(笑)。
神山 岡田恵吉さんって何か穏やかそうな印象だったけど、そうですか。
水谷 とても細かくて。私が今まで当たった演出家の中で一番じゃないですか。
日比野 細かいというのは、出とか動きにうるさい?
水谷 視線の方向などにも。
神山 そのころ、お母さまと中村扇雀[のち四世坂田藤十郎]さんと良重さんと、小野道子[長谷川季子]さんと一緒に何かオープンカーみたいなのに乗っている写真があって、『スッポン』[一九五七年五月・東京宝塚劇場]という芝居、ご記憶ないですか。菊田一夫さんで。
水谷 浜村美智子さんを何かまねした……。
神山 『カリプソ娘』をまねした?
水谷 あれは本ができなくて、大変な苦労をした記憶があります。現代劇ですよね。
神山 そう、現代劇ですね。スポーツカーが出てきますから。
水谷 それで東宝得意のスクリーンプロセスにばっと。
神山 なるほどね。やっぱり菊田先生は本が遅かったですか。
水谷 劇場のどこかで、七人ぐらいの影武者が抜けた場面を書いていらっしゃるんです。進行的に先生はもう演出するしかないところまで初日が迫っているので。すると、「何だ、これ全然筋が合ってない」と言いながら演出されて。音楽が古関裕而先生ですよね。バンドには譜面が渡っているけれど、私と高英男さんと二人で歌うのに、歌譜が手元にまだないということがありました。ブンチャブンチャと音が出るけれど、どこで歌うのかまったく分からない。それで黙って高さんと二人で立っていたら、「何で歌わないんだ!」と菊田先生に怒られて。
神山 それは舞台稽古?
水谷 舞台稽古です。
日比野 歌詞はさすがにあったんですか?
水谷 歌詞も譜面に書いてあるので、私たちの手元に何も来ていないんです。「と言って歌う」というト書きだけ。なので歌うことは分かっているのですが(笑)。ロビーにピアノが一台あって、ピアニストが一人いて、そこにみんなで並んで、もらったばかりの譜面を必死で覚えるんです。
神山 菊田先生のミュージカルの演出というのはどうでしたか。
水谷 上手から出る。終わったら下手へ。
神山 当たり前ですね(笑)。
水谷 前にのり平先生に「先生、何で演出なさるようになったの」と伺ったら、「菊田のおやじが右から左と、それしか言わないから、その真ん中のことは自分で考えるようになる。どうせだったら自分で全部考えよう」と。演出家のり平を誕生させたのは菊田先生だとおっしゃっていました。
神山 菊田さんの大きな功績ですね(笑)。ただ道具だけ、例えば最後は病院だとか神社だとかは決めておくんですってね。道具は急にはできないから。
水谷 井上ひさし先生も道具はありましたから。新作の初日が一週間開かない体験(『ある八重子物語』[一九九一年十一月・新橋演舞場])をさせていただいた作家は井上先生だけですね。菊田先生は間に合わせる。
神山 井上ひさしは自分の劇団でも公演中止がありましたし。
水谷 『ある八重子物語』は、永山(松竹)会長が「中止はさせない」と。それでまた貸し切りがいっぱい入っていたんです。だから昼の部の演目を夜もやって、その間に先生からのファックスでだんだんとせりふが届くわけですよ。そうすると本番の舞台でロレロレになる人が現れる。え、どうしたの?と思っていると、ファックスで大量のせりふを受け取っちゃった人なんです。それで終演後に舞台げいこ。大変でした。
神山 昭和三十三年(一九五八)は有名な事件が二つありまして、一つは東宝劇場の火事で、もう一つが「ウエスタン・カーニバル」[一九五八年二月・日本劇場]です。
水谷 そのころ東宝には「偶数月の一日初日というのは験(ゲン)が悪い、何かが起きる」という恐ろしい言い伝えがありました。コマの火事も偶数月の一日初日。それで、新派の公演月というのも、そのころコマでありまして、今月は偶数月の一日初日で、うちの場合はこういう言い伝えがあるので、皆さんくれぐれも気を付けてくださいと言われていたら、屋台崩しになったんです。誰もけがはしませんでしたが。三階建ての舞台が、一階がぺちゃんこで、一階に入っていたバンドの楽器が全部ぺちゃんこになって。いつだったか記憶が曖昧ですけれど。
神山 東宝劇場の火事は新聞にもでかでかと載っていたのを、子供心にも覚えています。国立劇場にも東宝劇場から国立劇場に移ってきた人がいて、「良重さんがあのときに行方不明になっちゃって心配したんだ、大変だった」なんてよく言っていましたけれど、ご著書(『あしあと』)を読んだら事情が分かりました。
水谷 恐ろしかったですね。黒い煙が階段から渦を巻いて上がってくるのを目の当たりにしました。帝劇の方の楽屋に非常口が一つもなかった。それで、[火の粉をちらすのに用いた]吹きボヤというのがなくなりました。
神山 あれ以来なくなっちゃいましたね。私が国立劇場にいたときも、ちょっとのことでも火気を使うときにはすぐ消防署に申し出ました。本火は届け出ればいいということでしたね。だから昔風の吹きボヤかどうか分からないですが、本火はもちろん使っておりました。
水谷 怖いですよ。このくらいの大きな火皿に火のついた粉がいっぱい入っていて、袖までこんな鉄管みたいなのを小道具さんがブーっと吹くと、ふわーっとね。でもあれが一番舞台で見ると効果があるんですよね。
日比野 やっぱりきれいですからね。見ていてね。
神山 「ウエスタン・カーニバル」の話も伺えれば。写真で見ると寺本圭一さんまでは僕も分かりますが、関口悦郎さんという方はいました?
水谷 それは分からないですね。
神山 最後の銀橋でのフィナーレで八重子さんが一番背が高いんですけど、その横に関口悦郎さんが並んでいて、隣が寺本圭一で、あとはミッキー・カーチス、山下敬二郎なのでビッグネームなんですけど。
水谷 その前の日劇の一週間ショーというのに寺本さんのバンドだけは私と一緒に出ているんです。だから日劇初出演ではない。それで、いろいろなところを回るというようなお膳立てだったので、パリから始まってウエスタンにまで行くというので、寺本圭一さんだけは日劇の経験者で、あとはまったく素人でした。私なんか、「テネシー」なんかにも行って応援していたようなグループですから。
神山 そのころの「テネシー」というのは、我々が知っているジャズ喫茶と全然違いますよね。
水谷 「テネシー」と、「オペラハウス」というのが新宿にあったんです。ミッキーは(バンドの)「坊や」でしたね。ワゴンマスターズのバンマスでベースの鳥尾敬孝さんが白いこんな小さめのベースをひっぱたいて演奏するのがかっこ良くて。日本テレビで『光子の窓』なんかをなさった井原高忠さんのいとこだったはずです。
神山 プライベートなことですけれど、その後結婚なさる白木[秀雄]さんもそのころに知り合われたのでしょうか?
水谷 いえ。当時の私はジャズはまったく好きではなくて……ウエスタンバンドをつくるのが夢だったので。
神山 余談ですけれど、こちらの川添さんは、飯倉片町のイタリアン「キャンティ」の娘さんなんですよ。
水谷 うそでしょう。
川添 はい、川添浩史の孫です。八重子さんはキャンティに開店当初の昭和三十年代から来てくださっていると聞いております。
水谷 お孫さん! もうそんな時代なんですね。
川添 たまたまですけれど、今日着てきたジャケットは、当時キャンティの中にあったブティック「ベビードール」で作っていた服です。母のをもらって着ているんですけど。
水谷 「ベビードール」は、アクセサリーも売ってましたよね。私、ネックレスを持っています。
神山 時代の雰囲気が伝わってくるお話ですね。東京タワーができたのが昭和三十三年(一九五八)だから、その前あたりのお話ですよね。
水谷 そうですね。当時は東京タワーを見上げるなんていう気持ちはなかったですけれど(笑)。

映画デビュー、巨匠監督たちの思い出

神山 昭和三十五年(一九六〇)になると、内田吐夢さんの東映映画『花の吉原百人斬り』、あれは非常に有名な映画です。東映はあまりご縁がないと思いますが、どなたからお話があったんですか。
水谷 プロデューサーからうちの母にお話がありました。夏の暑い盛りに京都へ行かされるのはツラいなと思っていたら、白木秀雄が大変なチャンバラファンで、うち中そろって「やれ、やれ」と背中を押されまして。
神山 そうですか。意外ですね。白木さんがチャンバラを。
水谷 だから新派なんて絶対見ないで、新国劇ばっかり見ていましたよ。
神山 片岡千恵蔵さんとはそのとき初対面ですか。
水谷 初対面です。何てすてきな方だろうと思いました。
神山 その翌年、新派で『花の吉原百人斬り』[一九六一年五月・新橋演舞場]を上演。榎本滋民さん(脚色)で、花柳(章太郎)さんが佐野次郎左衛門、八重子さんが八ツ橋。花柳さんがああした役をされるのは珍しいですよね。
水谷 榎本先生は随分たってから「[映画版のシナリオを手がけた]依田義賢」の名を外しましたけれども、それまでは絶対「依田義賢より」と付けていらっしゃいました。舞台の企画自体は、花柳先生の言いだしっぺで実現したように私は記憶しています。というのは、歌舞伎だとあばたになりますでしょう。だけど片岡先生のは片一方だけひっつれで醜い、片一方は普通のいい男という拵えです。花柳先生はそれをやりたかったのかな?と。
神山 あのころ花柳さんは『瘋癲老人日記』[一九六二年一一月・新橋演舞場]とか、それまでの二枚目路線とは違うのを盛んにされていた感じですから。
水谷 川口先生の『三味線とオートバイ』[一九六一年五月・新橋演舞場]という新作がありまして……。
神山 それは映画でも見ました。
水谷 そうそう。『花の吉原百人斬り』の月は『三味線とオートバイ』も出たんです。夜の追い出しの芝居。そうしたら初日に花柳先生が、ああ、ああともう息も絶え絶えで、「これは二番目狂言です。これは二番目じゃなきゃいけません」と。ではすぐに変えさせましょうと言って、それで初日開けてから狂言入れ替えになったんです。今はそんなこと、そうそうないのですが。「オジチャン(花柳)はこんな立ち廻りをやったことはありません、これでオジチャンが心臓を壊したらお前のせいです」とおっしゃって。
神山 花柳先生のことを八重子さんは「オジチャン」と呼んでいたんですか。
水谷 はい。ご自分でも「オジチャン」と言って。歌舞伎から来ているんですよね。「誰々のおじさん」、「お兄さん」。それが「オジチャン」と甘やかせてくれたんだと思います。
神山 榎本滋民さんはその後もずいぶんお仕事なさっていますね。
水谷 榎本先生は難しいんです。「先生、これは難しいことを言っているということが伝わればよろしいですか、言っている意味を伝えなくてはいけないですか」と伺うと、「両方」とおっしゃる(笑)。
神山 榎本さんは国立劇場でもやった『寺田屋お登勢』[一九六八年二月・明治座]の作家でもありますが。そうですか。きちんとしているけど、ちょっと難しい。昭和三十六年(一九六一)ごろになるとたくさんの映画にお出になって、川島雄三の映画にもご出演されています。当時、川島さんはもう脚は悪かったですか。
水谷 お悪かったと思います。
神山 川島雄三は、あまりうるさくはだめ出しとかしないタイプでしたか?
水谷 口が重い方でした。
神山 ああ。東北、青森の方で。
水谷 ブツブツ、ブツブツとおっしゃるので、よくよく聞かないと聞き取れなくて。
神山 見た目はかっこいいですけれど。
水谷 なんだかすてきな方でしたよね。

テレビ番組での活躍

神山 昭和三十六年(一九六一)というと、二十代の前半、テレビでも活躍なさっていて、『ママと良重とヒデ坊と』がものすごく印象的でした。
水谷 でもあれほど視聴率が上がらなかった番組もないんです。
神山 そうですか。僕は結構楽しみにしていて。
水谷 何も記憶にないのですが……「よくうちの玄関と同じセットを作ったな」という、それだけしか覚えてないですね(笑)。
神山 あ、そうですか。それは例の吉田五十八さんの設計したお宅の玄関。
水谷 はい、そうです。
神山 それは豪華ですね。
水谷 『あなたとよしえ』は、一週間のうちに三日間は完全にリハに取られていましたけれど。
神山 ずいぶん丁寧ですね。
日比野 井原さんがそういう方針?
水谷 ええ。日本の踊りはそろわない、だから自分がもし振付師だったら絶対にそろう振りを作るという、そういう信念がおありになりました。「バミる」って今どこへ行っても言いますでしょう。
日比野 言いますね。
水谷 あれはあの番組から出た言葉なんです。
神山 そうですか。
水谷 ええ。ダンサーがいくら同じ位置にいても、カメラの位置がちょっとずれたら絵が違ってしまう。「カメラ、バミれ」と言うと、バミダンというあだ名の人がビニールテープを各色持っていて、その人がいちいち下りてきて、スタジオにくっつけていくんですよ。それでバミダンのビニールテープで「バミる」ようになった。だから当時は日テレでしか通じない言葉でした。
神山 そうだったんですか。今は舞台でも使っています。踊りのおさらいなんか、バミりがなかったらお弟子さんたちはできないですもんね。「花椿ショウ」なんかもそのころですか。
水谷 「花椿ショウ」が『光子の窓』『あなたとよしえ』の冠なんです[資生堂の一社提供]。
神山 そうでしたか。他にテレビで印象的なのは、連続コメディの『若い季節』ですよね。あれも本当にいかにもあの時代の雰囲気がよく出ている作品ですね。
水谷 見事でしたよね。動いている絵が一コマも残っていないそうですけれど。
神山 あれだけの人気番組で。
水谷 NHKが出演者全員に聞きに回ってなかったそうですよ。のり平先生も森光子先生もご出演されていたのに。
神山 それは残念ですね。あれは本当に僕も好きでした。
水谷 全部生だったのでテレビの初期作品と思われていますけれど、ビデオの時代に逆行して、わざわざ生を当てたんですよね。岡崎さんというディレクターが。
神山 そうか、あれは全部生なんですか。
水谷 全部生です。しかも作家が小野田[勇]先生ですから、よく穴を空けなかったなと思います(笑)。
神山 小野田さんも筆は遅い方だったんですか。
水谷 素晴らしく遅いです。
神山 あ、そう。僕は松竹にいらした娘さんしか知らないんですが。
水谷 井上ひさし先生がガリ版を切る係をやらされていて、どうしてこんな遅い作家にわざわざ頼むんですかと聞きに行ったそうなんですよ。
神山 それはおかしいですね(笑)。
日比野 いい話ですね(笑)。
水谷 そうしたら、「どんなに遅くても面白いだろう、この人は。面白けりゃ遅くたって使うんだよ」と言われて、「そうか、面白いものを書きゃいいんだ」と思ったと話されてました。これは井上先生からじかに伺いました。

ニューヨークでのダンス修行、『ブロードウェイから来た13人の踊り子』の思い出

神山 白木さんと一緒に初めてアメリカに渡られたのは昭和三十六年(一九六一)ごろ、ニューヨークでジェイミー・ロジャースにダンスを教わった。
水谷 はい。
神山 中野ブラザーズの中野章三さんに「日劇もすごくいいダンスの先生がいらした」と聞いたことがありまして、確かタミー・モリナロと言う名前でした。
水谷 ええ、タミー・モリナロ。日劇のレヴューで習っていました。
神山 アメリカに行く前から本場のダンスを習っていらした。どういった経緯で渡米されたのでしょう。
水谷 ずっとアメリカへ行きたかったけれど、なかなかチャンスがなかったんです。当時は離婚のうわさも飛んでいて、「それを打ち消す意味でも二人で行ってきたら?」ということで参りました。
神山 そうですか。でも当時はレートも三百六十円時代ですから大変でしたよね。
水谷 大変でした。
神山 それで、翌年にはニューヨークのウィンター・ガーデン劇場にも出演なさったとか。
水谷 この間亡くなりましたが、「アクターズ・スタジオ・インタビュー」で二十年以上インタビュアーを務めたジェームズ・リプトンという方がいらっしゃいましたよね。あの方に「オーディションを受けてみる気はないか」と声を掛けられて、面白い、やってみようと。私はガッツもなく、バレエの課題が出たら落ちてしまうに決まっているから、慌ててジェイミーが私のぼろの出ないような振りを作ってくれました。
神山 本によると八重子さんはダンスは苦手だったと書いていますが、僕なんかは、自在に踊っていらっしゃる印象しかないんです。
水谷 それはテレビのおかげです。収録があると、踊りがあるかないかも分からないままに振り付けに呼ばれて行くんですね。そうすると井原高忠さんが「ステップやってみて」と言って、それで浦辺日佐夫さんが私にできる振り、無理な振りというのをディレクターに見せて、できる振りだけでここ何小節入れて……というふうに作ってくださった。テレビはそこしか映らないですから。
神山 あ、そうですか(笑)。
水谷 ごまかしが効いたんです。でも私が今まで見てきたもので、一番好きなものはダンスかもしれないです。チタ・リベラが博品館に来たときなんて、毎日通いました。
神山 そうですか。『ブロードウェイから来た13人の踊り子』[一九六三年七月・東京宝塚劇場]は、本当に『ウエスト・サイド[物語]』に出ていた人たちが来日しましたね。
水谷 一緒に帰ってきたんです。
神山 それは知らなかった。当時の『演劇界』の写真を見ると、エノケンさんが車いすみたいな感じだけど出ているんですね。最後にちょっとだけ「興行師」の役で。あとフランキー(堺)さんとか浜木綿子さんはお元気で、越路さんももちろん出ているでしょう。
水谷 楽しかったですね。
神山 ジェイミー・ロジャースの振り付けですし。
水谷 ええ。ニューヨークで彼のクラスでは、エクササイズをやるときには「良重、前へ来い」と言って、振りになった途端に「良重、後ろへ行け」と(笑)。やはり子供のときからクラシックバレエをやっていなかったらだめなものだというのがつくづく分かりました。それであきらめがついたというか、今さら子供に戻ってバレエはできないと思いました。
日比野 『ブロードウェイから来た13人の踊り子』を、そもそも菊田さんがどうやって考え付いたかというのはご存じですか。
水谷 分からないですけれど、日本のダンスが遅れているという発想から生まれたのではないでしょうか。
日比野 そこは八重子さんが何かご助言されたりは?
水谷 いえ、全く。たまたまいただけのことです。東宝のエージェントのようなことを、私のまたいとこに当たる人がやっていました。[八世]坂東三津五郎さんのお兄さんが青柳信雄という映画監督で、その息子[プロデューサーの青柳哲郎]が英語ができて、独身でというので、ニューヨークに行かされていたんです。それで一人で小さな映画館の支配人をやらされていました。私が踊りの学校へ行って、レッスンが終わってホットドッグを持って映画館の客席で食べようとすると、必ず椿三十郎が「問答無用」と言う場面なんですね(笑)。「Nonsense」という字幕が出る。
神山 「問答無用」って「Nonsense」というんですか。
水谷 そう(笑)。またこの場面だわと思いながら。
神山 なるほど。『ブロードウェイから来た13人の踊り子』の菊田演出はいかがでしたか。
水谷 踊りの振りは作ってあったので、ダンサーはその通りに動いて。ただ舞台の広さにびっくりしていましたね。
日比野 向こうの人が?
水谷 はい。これだけ広いからと、ギャラアップを要求したと聞きました。さすがですよね(笑)。
神山 東宝とは正式な契約はなさっていたんですか。
水谷 私は新派では部屋子扱いだったんです。水谷八重子に良重というのがくっついているんですよ。そうすると私の所属はどこでもない。それで、母が東宝歌舞伎なんかで新派を留守にして、越路さんがその要員でいらっしゃると、越路さんの部屋に頼んで入れていただく、そういう状態だったので。それで、母が菊田先生とお話して「じゃあ、一年だけ契約する」と。そうしたら初めて水谷良重というフルネームになりまして「(東宝)」と付くようになったわけです。「特別出演」は通らなかったそうです(笑)。
神山 あのころは映画を見ても必ず他社出演のときは五社協定が強いから、「東宝」とか出ていましたね。
水谷 はい。それで私が翠扇先生の隣にいることができたのです。
神山 連名で。
水谷 はい。そのための東宝だったみたいで。
神山 なるほどね。それはなかなかいい知恵ですね。
水谷 それで私がアメリカに行っているときに、母親から「良重、帰ってきちゃいけない」と。「東宝は何の断りもなしに変なものに出そうとしている」と言って。
日比野 それが『[続・]雲の上団五郎一座』[一九六一年一二月・東京宝塚劇場]だったんですよね。
水谷 (『雲の上団五郎一座』の)『源氏店』。それでアメリカに残ったので、その後、のり平先生が[坂本]九ちゃんに教えているものしか私は見ていないんです。のり平先生に嫌味を言われてね。「良重はよく仕事を選んでいるな」「『団五郎』全盛期を外して、その後、よく出るもんだな」と言われました(笑)。

どうしても演じたかった『ノー・ストリングス』

神山 昭和三十九年『ノー・ストリングス』[一九六四年七月・芸術座]にもお出になっていますよね。
水谷 『ノー・ストリングス』がどうしてもやりたくて、菊田先生にお願いしたんです。そうしたら、「良重はうち(東宝)の子じゃないだろう。どんないい役で売り出してやっても結局は松竹に帰っていく子なんだから」とおっしゃって。それで東宝の専属になったんです。
神山 岡田真澄さん、浜木綿子さん、高島忠夫さんなどがご出演。写真で見ると藤原義江も出演していますね。
水谷 岡田真澄さんは、いつも、私が小道具で持っている冷たく冷やしておいたコーラをさーっと来て、くーっと飲んでしまうんです。だからある日そばつゆを入れておいたの。驚いていました(笑)。
日比野 そんなことが。このときの演出はやはり菊田一夫メインですが、実際には振り付けの関矢幸雄さんがかなりやったと聞いています。
水谷 私、『ノー・ストリングス』がどうしてもやりたかったので、ニューヨークで六回か七回見ているんですよね。あちらで台本を買って、抽象舞台……どの箱がどこに来てどっちに動いて、ここでこれに変わるというようなのを全部メモしてあったんです。日本での上演は装置まで買っていたわけではないので、真木小太郎先生が装置でいらっしゃいました。日本版は実は、ニューヨーク版の上手と下手を入れ替えただけなんです。
神山 それは(笑)。
水谷 だってあんな計算し尽くされた抽象舞台ってないですから。おけいこ中に真木先生が時々、寄っていらっしゃるんですよ。「良重、この箱は次にどこへ行くんだ」とお聞きになる(笑)。なので「こっちへ行って、それから後ろへ動いて何々に変わるんです」とお教えしました。「分かった、ありがとよ」と言って。
神山 あれは芸術座ですね。どんな劇場でしたか?
水谷 使いやすい小屋でした。あの時代の芸術座のお客さまは、まだミュージカルというものに慣れていらっしゃらなかったですね。通常はナンバーが終わって、バーンとポーズすると、オーケストラが拍手のための四小節を数えているんですよね。そこはお客さまの拍手で埋まるはずなのに、それがない。それで菊田先生がサクラを入れてくれて、何とか四小節埋めたんですけれども。名鉄ホールへ行ったときは、売り場を全部『ノー・ストリングス』の広告にしてくれたんです。そうしたら大当たりで、一二〇%の入り。お客様で、階段なんて見えないんですよ。
日比野 そのときは拍手はどうだったんですか。
水谷 すごかったです。これはもうサクラはいらない。そしてそこで覚えましたね。何でもないという顔をしたら拍手は来ないんですよ。苦しい、ハーとやらないとだめなんです(笑)。

花柳先生の死、三島由紀夫、東映歌舞伎の思い出

神山 昭和四十年(一九六五)、花柳先生が正月にお亡くなりになります。
水谷 あのお正月での公演では、私は役がなかったんです。でも「良重が正月に出ていないのはかわいそうだから、役を書くよ」と川口松太郎先生がおっしゃって、わざわざ『寒菊寒牡丹』[一九六五年一月・新橋演舞場]にラシャメンのお新という役を書いてくださって。そして花柳先生が「衣裳は全部オジチャンに任せておき、襟から何から全部決めるから」とおっしゃって。それで記者招待日までお出になった。『寒菊寒牡丹』で柱時計の掛ける柱が違っていたんです。それで「この時計が十二時」というせりふを言ったときに、そこに時計がなかったんですよ。向こうに掛かっている。花柳先生、幕が閉まったら小道具ダメを出していて、苦しそうにゼーゼーといってたんです。
神山 川口先生の御子息が建てられたアパートに移られたのもこの時代?
水谷 もう移っていましたね。
神山 そうですか。
水谷 結局は東京オリンピックが原因だったんですよね。
神山 あ、そうか。ニューオータニができたから。
水谷 そう。オータニの工事でうちの床がかしいでしまって。
神山 この頃、花登筺さんのお芝居にもお出になっていますね。花登さんは、本が早いそうですね。
水谷 お書きになるのは早いけれど、いただけるのは遅かったですね。あと、まったく「ではけ」が分からないんですよ。どこから出てきて、いつ引っ込むの?という。ご自分で演出するので現場で決める、そういうご本でした。
神山 新幹線で一本書くなんて伝説があったくらいですもんね。
水谷 本当に書いていらっしゃいました。何かのキャンペーンで飛騨高山までご一緒した時、タイプを打っているような音がしていました。
神山 昭和四十一年は、三島由紀夫さんの『アラビアン・ナイト』[一九六六年一一月・日生劇場]にもご出演。三島さんは『からっ風野郎』[一九六〇年三月]にもご出演されているので、その前から面識はおありでしたでしょうけれど。どういう印象ですか。
水谷 すごくかわいい方でした。
日比野 母性本能をくすぐるという意味ですか。
水谷 それもありますね。だって『アラビアン・ナイト』に「自分も出る」とおっしゃって、体中金粉を塗ったり、ターバンを巻いたり。でもいざ出るとなったら体中震えが止まらないんです。おけいこでも「お前の本の読み方を当ててやろうか。後ろからパラパラパラとめくってせりふの部分だけ読んで、『何だ、大したことない』なんて、そういう読み方するんだろう」とおっしゃったり。
日比野 ずいぶん八重子さんに心を許してお話されていたんですね。
水谷 同等にしゃべってくださったんだと思います。『からっ風野郎』では増村保造監督が三島先生をいじめるんですよ。ロケで野次馬が取り巻いているところで、大きなお声で「お前の言えるせりふはそれだけか、もっとうまく言ってみろ」となさる。「日本語じゃなくてもいいよ。何語でもいいからもうちょっとうまく言え」なんてひどいことをおっしゃるので「先生、怒った方がいいですよ、私が怒りましょうか?」とお伝えしたら「いいんだ、いいんだ、あいつ同級生だから、俺の前で威張りたいんだよ」と。すごくかわいい先生でした。
神山 そうですか。三島さん自身も書いていますね。エスカレーターから落ちる場面を何度もやらされたと。
水谷 だから私、本当に国を憂いて亡くなられたのじゃないと思うんです。竹邑類さんが三島先生のことをお書きになった本の後書きにも書いているんですけれども。
神山 この時代には、東映歌舞伎にもご出演されています。
水谷 東映歌舞伎は二回出演しています。あんまり皆さん熱演なので、びっくりしている間に終わってしまったという印象ですね。
神山 そうですか。やっぱりあれでしょうね、千恵蔵さん、市川右太衛門さん、大川橋蔵さん、ご当人たちは久々に舞台に出られてうれしかったんでしょうね。
水谷 うちの母が「昔の関西歌舞伎は、このくらい派手だったのよ」と言ったのを覚えています。
神山 確かに三島さんなんかも、『鹿鳴館』[一九五六年一一月・第一生命ホール]の稽古の時、中村伸郎さんと「初代の鴈治郎だったら、ここんとこなんか、ものすごい思い入れたっぷりだったろう」と話したと書いていますね。

新派の人々

神山 昭和二十七年、新派で『お蝶夫人』[一九五二年八月・歌舞伎座]をなさっています。あれは非常に評判にもなり、ご自身でも印象深いと思うんですけれど。
水谷 自分よりも、母の『お蝶夫人』が印象深かったですね。というのは、まるで翻訳物なんですよ、せりふも何も。
日比野 テンポが違うとお書きになっていらっしゃいますね。
水谷 お扇子の使い方をはじめ、細かい動きもせりふも全部翻訳劇のやり方で、誇張して演じていましたし、とてもきれいな舞台でした。劇評家の方々が、「若く見せようとして無理をしている」「奇をてらったみたい」と、ともかく悪評だったんです。それを伊藤道郎先生だったかしら……。
神山 千田是也さんのお兄さんですね。
水谷 長い海外生活から日本に帰ってきたタイミングでご覧になって、何かの本に「ここにブロードウェーで幕を開けられる女優がいた」というような劇評をお書きになった。そうしたら「お社」[演劇評論家・ジャーナリスト]の方がもう一度見て、劇評を書き直した方もいらして。私としても「新派の芝居でこんなにきれいな芝居があったのか」という、ある種カルチャーショックを受けた記憶があります。
神山 このころはお母さまが、歌舞伎座で『椿姫』[一九五一年六月]もなさっています。『椿姫』は、お母さまは後に日生劇場[一九六七年一月・新橋演舞場]でも、森雅之のアルマンでなさっています。ところで、森雅之さんはどうでした? 新派の舞台で森さんは。
水谷 すてきでしたよ。すてきだけど笑いだしたら止まらない人。何の芝居だったかも覚えていないのですが、私だったか森先生だったか、グラスマットにつまずいたんです。そうしたらマットがはがれて、もうあとはだめ。あと全部、私が一人でせりふを言いました。
神山 そうですか。ちょっと意外な感じがしますね。イメージと違う。
水谷 もうゲラでゲラで、[共演していて]こんな怖い人はいないと思いました(笑)。
神山 昭和四十四年になると、北條[秀司]先生の『女優』[一九六九年一一月・新橋演舞場]。あれはやっぱり北條先生の案だったんですか。
水谷 先生が「松井須磨子を書くぞ」という鶴の一声で劇場も制作も全部動き出して、そうすると、自然と水谷八重子に決まりますよね。そうしたら先生が「違うよ、俺の書く須磨子は八重子じゃない。良重だ」とおっしゃった。「ああいうどうしようもない女に書くんだ」とおっしゃったから、ハチの巣をつついたような状況になりました。
日比野 ただおそらく北條秀司としては、ここで今の八重子さんをちゃんと盛り立てようというお気持ちもあったのでは?
水谷 松井須磨子を盛り立てたかったんだと思います。本当の須磨子というのを。悲劇の女王のように思われていたのが、実はそうじゃない、山家育ちのとんでもないガムシャラな女だというところをお書きになりたかった。それで急遽、「松井須磨子」という題名を外して『女優』とされて。
神山 北條先生は私も一緒に仕事をさせていただいて幸せでしたし、独特で面白い方ですけれども、「北條天皇」とも呼ばれていました。
水谷 「どうして天皇というの?」と聞いてしまったぐらいです。怖かったのは『京舞』の代役騒動のときだけで、それ以外はせりふを覚える苦労もしたことがないんですよ。北條先生と中野[實]先生は。相手のせりふを聞いていたら、自然にこちらもせりふが出るんです。使う言葉が変わっていても、感情も意味も一つだったら絶対それを怒らない先生です。
神山 悪いという意味ではなくて、川口[松太郎]先生の本は、ちょっとラフなところはありましたね。
水谷 国立劇場の『明治一代女』[一九七五年六月・国立劇場]の時は、長くしなくてはならなかったんです。だから必要のない場面を二つ入れて。巳之吉役の菅原(謙次)さんと、小梅役の私で、何度読んで出ていっても出なくなるんです。私が「ああ、困ったね、巳之さん」と言ったら「うーん、困っているのかい?」「困ったね」とやりました。
神山 いいですね、困っているのかい(笑)。声が聞こえてきますね、それは。
水谷 今日こそ大丈夫と思って出ていって、三日間やりましたね。「どうしようね巳之さん」と。
神山 でも川口先生は自分で書いたせりふを覚えてなかったんですよ。稽古場にいても。
水谷 でもあんな気持ちのいい江戸弁はない。もっと聞いておけば良かったです。
神山 本当ですね。そのころになりますと新派は不幸が続いて、伊志井寛さん、大矢市次郎さんが続けて亡くなって。大矢さんはそんなに縁はなかったんですか。
水谷 つばきが飛ぶという印象(笑)。舞台で虹が掛かりますからね。それでこの付けひげに全部しずくが垂れますから。だからいかにあれを浴びずにおこうかという、自分の立ち位置を考えましたね。
神山 大矢さんのお弟子さんで、まだ健在な方っていますか。
水谷 いらっしゃらないと思います。吉霧[音彦]ちゃんが最後だったから。
神山 吉霧さんが最後か。吉霧さんも最近亡くなっちゃいましたからね。
水谷 そういえば、大矢先生から逃げてしまったことがありますよ。『女系家族』[一九六七年九月・新橋演舞場]で私、とちってしまったんですね。そうしたら大矢先生が私の楽屋まで呼びに来て急いで逃げて(笑)。
神山 確か佐堂[克実]さんは伊志井さんのお弟子さんでしたっけ。
水谷 そうです。
神山 佐堂さんから、「もう伊志井さんの弟子も私ぐらいです」なんて伺ったことがあるから。そうですか。伊志井はどうですか。舞台やテレビや映画だと穏やかそうなお父さんという感じなんですけれども、実際はやっぱりちょっとおっかないところがあったんですか。
水谷 全然ないです。非常に社交的な方でした。もとは人形浄瑠璃からの方。
神山 お父さんが人形浄瑠璃でしたね。
水谷 歌舞伎はお家芸で縦のつながりですが、新派というのはいろいろなところからどんと横から入ってくる。それで、いろいろな人が志一つで入ってくるので、それがジャムセッションのようになって面白い劇団になるんだと思うんです。
神山 大矢さん、伊志井さんが残念ながら亡くなった後に国立劇場で『滝の白糸』[一九七二年六月]の初公演があったんですよね。だからお二人は出てない。
水谷 ああ、そうなんですね。
神山 『滝の白糸』が昭和四十七年かな。それで、翌昭和四十八年(一九七三)に菊田さんが亡くなって。その二年後にはお父さま、[守田]勘弥さんが亡くなって。あ、そうだ、島田正吾さんと『花の吉原百人斬り』[一九六六年十月・歌舞伎座]をなさったでしょう。
水谷 はい。
神山 あのとき勘弥さんが出ていましたね、歌舞伎座で。「何だ、この子は。親の顔が見たい」と言って、客席がすごくウケていたのを覚えていますよ(笑)。
水谷 あ、本当ですか? 中日劇場[一九七三年二月]では、父の次郎左衛門でやれたんです。[坂東]玉三郎さん、安井昌二さんの『滝の白糸』と二本立てで。それで母が『滝の白糸』を二人に教えて。
神山 お母様と勘弥さんは若いころ離婚なさっていらっしゃいましたけれど、ときどきはお会いになっていらしたんでしょうか。
水谷 会うとどう扱っていいか分からないので、私はあまり会いに行きませんでした。でも母がウイスキーなんかを用意して、これを持ってパパの楽屋へ行ってらっしゃいということはありました。
神山 昭和五十年代、良重さん自身も『滝の白糸』をなさって、そのころから新派の古典をずいぶんおやりになっています。
水谷 複雑でしたよね。母がいるのに、私がやるのはお客さんに申し訳ないと。だから自分なりの『白糸』をやらなくてはと思っていました。『白糸』でも母とは違う、情熱的な、恋する『白糸』をと。でないとお客さまに申し訳ない気がして。絶対的な『白糸』はいるわけですから。そうしたら「ナイアガラの滝」と書かれたり(笑)。
神山 昭和五十四年、[渋谷の]ジァン・ジァンで泉鏡花の『恋女房』[一九七九年四月]をされていますね。
水谷 ジァン・ジァンは教会の地下で、そこで鏡花で化け物が出てきて、不思議で面白いだろうなと考えたんです。
神山 ジァン・ジァンの高嶋[進]さんからお話があったんですか。
水谷 そうなんです。表の方は全部自分が持つからとおっしゃってくださって。
日比野 ほとんどあれは持ち出しでやられたわけですよね。
水谷 そうです。それで、小川昇先生がご高齢なのに脚立に上って、ジァン・ジァンの天井に仕込んでくださいました。
神山 小川さんも昭和五十年代だと八十代。年齢は川口先生より上ですもんね。
水谷 そうですね。当時、うちの母の楽屋に、体が沈み込むいすがあったんですよ。川口先生がそこから立ち上がるのに、「おーい、おーい」と手を借りながらよいしょとお立ちになる。すると小川先生は「嫌だね年寄りぶって」とおっしゃって。「ぶっている」わけじゃないと思うのですが(笑)。
神山 小川さんがまた足腰が丈夫だったから。川口さんは川口さんで、「小川はいいよな、だってスイッチ入れるだけだもんな」と笑って言っていましたけどね(笑)。
水谷 あのころの川口先生のだめ出しは、面白かったですよね。舞台げいこで、いいおうちの掛け軸に、いいかげんなものが掛かっていて「おーい、夜店行って売ってこい」と、べらんめえで(笑)。
神山 『恋女房』はお母さまが亡くなった年でした。それよりも先に、年下の翠扇さんが亡くなってしまって。
水谷 誰よりも一番ショックでしたね、母が。片腕もがれたような様子でした。普通、花柳先生と思うじゃないですか。
日比野 やっぱり新派で女性同士という何か特別の二人のつながりみたいなのはお感じになっていましたか。
水谷 母は新劇出ですから、現代劇、ホームドラマをという運動をしているときに、ほかの人からは「八重子の新劇かぶれが始まった」という陰口があるわけですよ。でもそれに黙って一緒についてきたのが翠扇先生でしたから。
神山 ホームドラマで代表的なのは中野實さんの『明日の幸福』[一九五四年十一月・明治座初演]ですけれども、あのころはほかにも、林房雄さんの『息子の青春』[一九五二年八月・歌舞伎座]とか、ずいぶんおやりになっていましたよね。
水谷 すごく当たったそうですね。
神山 人気あったんですよね、『息子の青春』は。
水谷 『息子の青春』、『妻の青春』[一九五二年十月・新橋演舞場]、『お婆ちゃんの青春』[一九五三年七月・歌舞伎座]とシリーズで。
神山 あのころ[花柳]武始さんとか。
水谷 久門[祐夫]さんと。[初代]英[太郎]先生の意地悪おばあちゃんがかわいかった記憶があります。
神山 ちょうどテレビもアメリカのホームドラマがすごく人気で『パパは何でも知っている』とかね。それで伊志井さんも京塚[昌子]さんと一緒に出ていたじゃないですか。『カミさんと私』みたいなね。
水谷 石井ふく子先生のストーンウェルが、新派のあの路線を引き続いて下さったんですよね。でもだから親戚ですよね。
神山 京塚さんはあんまりご記憶ないですか。新派にいらしたころ。
水谷 なついていました。一緒に寝起きした経験があるんですよ。[京・島原の]「青木楼」さんというところに、『太夫さん』を翌年やるから、そこにみんな泊って生活を見るようにというので、私は出る予定はなかったのですが、一緒にくっついていったんです。そうしたら古いうちで怖いでしょう。「お姉ちゃん、一緒に寝かせて」とお願いしたのを覚えています。首だけ白く塗った遊女が、腹巻をしたお客さんと消えていく様子とか、今『太夫さん』さんのああいう生活は、もう見られませんね。
神山 貴重なご体験ですね。
水谷 帰り際、私たちが車に乗ったら格子につかまって見ているんですよ。何とも言えない気持ちになりました。続けて吉原に見学に行ったときに、二階から見ていたら横丁に男性が一人はいって来たら、うわーっと女性たちが集まる。それこそラグビーのようでした。
神山 それは客の奪い合いということですか。
水谷 奪い合い。そのエネルギーというのは、映画で見たイタリアの洗濯女のよう。くんずほぐれつけんかしたり、ああいうエネルギーがわーっと見えました。何て明るいんだろうと思って。島原と吉原とこんなに違うんですね。
神山 京塚さんってお酒がものすごく強かったんですってね。
水谷 お強かったですし、酔っ払うとチッと人をつねるんですよ。これがまた不思議とやられた後にあざになるんだそうで(笑)。
神山 ホームドラマのお話、演出家についても伺えれば。村山知義さんは覚えていますか?
水谷 はい、覚えています。
神山 それから程島武夫さん、お二人とも左翼ですけど、新派の演出のときはどんな様子でしたか?
水谷 口を利いたところ、声を聞いた覚えがあまりないですね。ただただ、静かに座っていらっしゃるという印象でした。
神山 [澤村]田之助さんに聞いても、やっぱり同じことをおっしゃっていました。おとなしい方でしたよと。
水谷 本来は、おとなしくない方なんですか?
日比野 本来はそうでしょうね。新劇の中では、いわゆる「詰められた」人は数限りないんだそうですが。
神山 松浦竹夫さんは。ああいう大劇場向きの演出家って今いないので貴重な方でしたけれど。
水谷 エネルギッシュでしたね。最初に誰が案を出したのか、『鹿鳴館』の最初の芝生に赤い毛氈を敷く、あれで一挙に商業演劇になりますよね。
神山 初代の英さんはやっぱり面白いおじいちゃんという感じでしたか?
水谷 マージャンがお好きでね。普段のままでの女形。見事。
神山 そうですよ。
水谷 舞台で亡くなったんですよ。『太夫さん』[一九七九年四月・明治座]の薄雲太夫で担がれて出てきて、座らされて、花魁道中が全部行って、それで幕が閉まったら、もう息を引き取っていらした。私、袖から見ていたんです。[波乃]久里子ちゃんも、客席の何番目かで見ていたはずです。

越路吹雪、森繁久彌、三木のり平の思い出

神山 越路さんのことは、「オネエマ」と呼んでいたんですか。
水谷 はい。
神山 オネエマというのは八重子さんの発明ですか。周りが言っていたというんじゃなくて。
水谷 いや、いつの間にかそうなったんですよね。
神山 越路さんはうわさで、リサイタルのときなんか、緊張で押してやらないと出られなかったなんていう話を聞きますけど、そんな感じの方ですか。
水谷 ロングリサイタルになってからは、あまり楽屋へ伺っていないですけれども、東宝ミュージカルのころは全然そんなことはなかったです。
神山 内藤法美さんは直接お知り合いでしたか?
水谷 はい。お殿さまみたいな方でした。越路さんがいつもかばっていらして。
日比野 安倍寧さんがご著書で、本当はもっと羽ばたくはずだった越路吹雪の才能を内藤法美がつぶしたと書いていらっしゃいましたが。
水谷 いや、だけどその分、越路さんを大きくしたでしょう。内藤さんの譜面も持っていますけれど、やっぱり(才能が人と)違います。
日比野 音楽的な才能ですね。
水谷 はい。完全に音楽が前に出ないで、後ろから共演者として支えてくれるんです。ナベプロの宮川さんがおっしゃっていたことがまさにその通りだと思いますね。脇の役がぽんと出てきた途端にすーっと支えて持っていくという。
神山 日劇で山本紫朗さんのお話を伺うのを失念していました。
水谷 紫朗先生に任せておけば大丈夫みたいな頼りになる方でした。ともかくしゃべっていて楽しい方でしたね。
日比野 森繁劇団にもご出演されていますね。
水谷 ほとんど出ていますね。
日比野 森繁さんのご印象は。
水谷 何をするか分からない(笑)。座長の長ぜりふがずーっと続くからって周囲は安心しますよね。すると突然舞台で、「もう言いたくない、言って」と言うんですよ。そんな他の役の長ぜりふまでは普通覚えていませんし、立場が違うわけですから。それを自分の立場に直して言うのって大変ですよ。でも今思えばそんな経験は誰もさせてくれませんものね。あとは突然アドリブで、「おお、お前、名前何だっけ」と聞くんです。意外と自分の役って名前を覚えていないんですよね(笑)。
川添 自分で自分の名前、言わないですもんね(笑)。
水谷 そう、だから油断もすきもないんですよ(笑)。
水谷 私の中でいまだになぞなんですけれども、のり平先生には、うちの母があんなにラブコールして一緒にやりたがったのに、森繁先生のところには、娘がお世話になりますからとわざわざあいさつには行くんですよ。でも一緒に舞台をやろうとはしなかったんです。「あの人とはできないわ」と言って。それでのり平先生に聞いたことがあるんですけれど「ああ、座長、大き過ぎて新派が壊れちゃうからだろう」とおっしゃっていましたけれど。
神山 日劇の話に戻りますけれど、トニー谷さんとか益田喜頓さんとのやりとりも面白かったですか。
水谷 私にはお二人とも優しかったです。でも喜劇人の方にとって、あんな恐ろしい方はいないと思います。言葉尻を取って別の人がウケますでしょう、そうすると翌日には絶対、言いませんから。
神山 そういう意味で恐ろしいということですね。日によって全然変える、昨日の通りとかはないんですね。
水谷 相手がウケないよう自分がウケるよと、その真剣勝負ですよね。高英男さんと私が後ろにいたんですけど、だんだん二人でこうやってしがみ付いていましたもの(笑)。
神山 やっぱり喜頓さんもそうですか。
水谷 怖いですよ。同じ怖さです。
神山 そうですか。余談ですが、コマのダンシングチームと日劇のダンシングチームでは、男の付けまつげや化粧がちょっと違ったそうですが……。
水谷 全然違います。細かくは覚えていないのですが。
神山 写真で見るとみんな同じような感じに見えますが。
水谷 コマがつけまつげで、日劇は口紅を付けていたのか……とにかく少し違うんですよね。
神山 大阪の劇場の話も少しだけ伺えれば。北野劇場なんていうのは全然違うものですか。
水谷 照明がまるで違いました。アメリカ軍が全部置いていったのをそのまま使っていたので。だから盆から朝一番で上がっていったときに、すぽーんとスポットライトが来ると、クラクラっと(笑)。
神山 北野劇場にお出になっていた経験というのは本当に貴重ですよね。
水谷 森光子先生とご一緒したのは北野劇場だった気がします。ダイマル・ラケットさんが出ていて、品のいい奥さまのいでたちで突然すすすっと出ていらして。
日比野 まだ森光子さんがブレークする前ですか。
水谷 随分と前です。
神山 山田五十鈴さんはどうですか。
水谷 何ていうのか、包容力のある方でした。
神山 お母さまが休んだときなんか山田五十鈴さんが代演で出ていてね。稽古のときはせりふを覚えるために一日休むと聞いたことがあります。
水谷 それは存じ上げないのですが、翠扇先生はせりふを覚えるために稽古を休まれました。というのは、六本立て芝居の中五本、六本出ていらっしゃるでしょう。せりふを覚える暇がないですよ。自分の部屋に全部の台本を持って、こもって、一挙に覚えて。だから初日にきっちりせりふが入っているのは翠扇さんだけ。けいこに出ていた人は逆にぼろぼろで、プロンプ頼りなんてこともありました(笑)。
神山 新派の懐かしい方々のお話も伺え、本日は本当に長い時間を頂戴して貴重なお話をありがとうございました。