二〇二三年九月一六日
取材場所:中央区立産業会館
編集・構成:川添史子
イントロダクション
浅草見番で開かれた「松鯉を聴く会」で、一席つとめたあとのアフタートークがあった。観客からだったか「松鯉先生は役者をされていたそうですが、もし、また芝居に出るとしたらやってみたい役は?」という質問が出た。
松鯉は笑顔でやや考え、「そうですなぁ。やはり……ハムレットかな」との返答。無言で引っ張る間合いと、緋毛氈で釈台を前にしてのハムレットという、狙ったコントラストが絶妙で、客席がどっと受けた。「わたしは新劇をやっていましたからな」と松鯉はつづけた。
一九四二年(昭和一七年)、群馬県に生まれた黒澤孝夫(神田松鯉)が、講談師になる以前、およそ十年間ほどの俳優生活をしていたことはよく知られている。落語芸術協会のプロフィールでは、【昭和36年(1961年) 芸界入り。新劇・松竹歌舞伎等の俳優を経て昭和45年(1970年) 講談師 二代目神田山陽に入門】とある。
このうち、しばしばクローズアップされるのは、〈歌舞伎役者出身の講談師〉という部分である。そこにいたる経緯、幕内での思い出はインタビュー本編を参照いただきたいが、興味深いのは、松鯉本人は元歌舞伎役者であったということを、いつもほとんどアピールしないのだ。
二〇二二年九月二八日、歌舞伎座で神田松鯉・伯山の親子会が昼夜で開催され、松鯉は歌舞伎座の檜舞台に半世紀をへて凱旋した。これは門弟伯山がプロデュースした盛大な催しで、当日は松鯉が傘寿を迎える誕生日、加えて、十月には松鯉口演の『荒川十太夫』が新作歌舞伎として初演される、その記念にもなっていた。
私は夜の部を見たが、面白いのは、高座でも尾上松緑が参加した座談コーナーでも、これは私の感覚に過ぎないけれど、あの歌舞伎座に戻ってきたぞ、というような〈感動的〉な感慨はまるでなく、思い出に水を向けられても「裏にはトンボを稽古する砂場がありましたなぁ」というくらいで、歌舞伎の世界に微妙な距離があるのだ。この紙一枚のへだたりに、松鯉のユニークネスがある。
講談と歌舞伎は言うまでもなく、講談演目が芝居に脚色されたり、あるいは役者の苦心譚が講釈になって語り継がれたりと、ジャンルとして親類関係のようなものだが、その両者を経験した松鯉に過剰な物語をみるのは周囲のほうで、ご本人にとって歌舞伎の世界は、旅の途中で滞在した異国のような眺めだったのではないかと、私からはそう見える。親子会のトリにあがった松鯉は、いつもと変わらず、機嫌のよい高座をつとめた。
寄席の楽屋で、神田松鯉は温厚な人格者として知られている。これは私が幾度か接した印象としてもその通りだ。あるとき、なにかの祝いで末廣亭楽屋に高級な清酒が届き、ご自由にやってくだいと案内されていた。高座から降りた松鯉は、茶碗に一杯だけ酒を満たし、それを飲むと「しあわせ」と呟いて楽屋をあとにしたそうだ。これは前座から聞いた。
ただ講釈の『畔倉重四郎』ではないけれど、みなに温厚だと言われている旦那にはなにか奥があるのではないかと思うこともある。ある会のスタッフをしたとき、本番の数時間前、設営中の舞台上で、実演家の耳に入れてはならないはなしを裏方としていたことがあった。そのとき、向こうから松鯉が音もなく「お世話になります」と入ってきて、こちらを見た。ただ早く楽屋入りをしただけなのだが、その間合いがすごく、こっちは冷や汗をかいた。
今回のインタビューでは、神田松鯉が講談に入門するまでの話を伺っている。十代の終わりから二十代の後半まで、演劇時代の回顧をまとまったかたちで公開するのは、これがはじめてのことになる。とくに、比重としては歌舞伎役者時代よりもずっと長い、新劇時代についての回顧は松鯉の歩みとしても、演劇史の証言としても貴重である。
ちいさな会の客席で、新劇時代の思い出を語ったことがあった。そのときは、子供時分に両親が離婚して、黒澤という名字が母方の渡邉になった。それが子供心にも悲しく、のち劇団に入ってから父方の名字黒澤を名乗って黒澤孝夫で舞台に出ていた、だから当時のあだ名は「クロちゃん」で……というもので、このときは講談師の奥を覗いた感じがした。
私は世代的に、今回の聞き書きで語られる劇団や演目をリアルタイムでは知らないが、浅草見番で洒落めかしていった「ハムレット」が、いまも松鯉のなかに息づいていることはよくわかった。
今回の聞き書きでは、松鯉のナマの証言、記憶を可能な限り尊重している。そのため、断片として残る当時の演劇資料、活字記録と必ずしも一致しない部分もあるが、ライブにちかい語りとして読んでいただきたい。同じネタでも高座によって細部がちがうように、そのとき甦る記憶によって、語りが揺れ動くところも、オーラスヒストリーの魅力のひとつであるだろう。(和田尚久)
群馬会館に通った少年時代
日比野 神田松鯉先生は一九四二年九月群馬県伊勢崎市で生まれ、前橋で育ちました。まずは、前橋商業高校を卒業されてご実家を出る前、少年〜青年時代の演劇体験から伺えますか。
松鯉 小学校の学芸会が一番最初でしょうね。あんまり演技がヘタで役を外され、幕引きにされたんですよ。子供でも、あの屈辱はずっと心に残っています。中学、高校のときは当時群馬会館という、群馬県で一番大きな小屋へ随分とタダで入っていました。
日比野 タダというのは?
松鯉 詰め襟姿でも楽屋口から勝手に入れたんですよ。ずうずうしいけどね、誰もとがめない。「俺もこういうところで仕事したい」と思ったのが、今の仕事の下敷きになっている気がします。そこでは歌謡曲のステージを一番観ました。三橋美智也さんとデュエットしていた斉藤京子さんとか、宮城まり子さんとか。
神山 宮城まり子、靴磨きの歌の。
松鯉 「ガード下の靴みがき」ですね。青木光一も、(舞台姿を)ありありと覚えていますよ。(仕草をしながら)背広のすそをこうやって気取ってね(笑)。あと伊藤久男。「オロチョンの火祭り」とか。新劇も観ましたが、当時はさっぱり分からなかった。
神山 昭和三十年代ですね。
松鯉 はい、あとクラシックのコンサートも。あれもさっぱり分からない。寝ましたね、さすがに(笑)。全部タダ。切符買うお金なんてないんですから。でも、そういうのんびりした時代だったんですよ。
神山 特に制服なんか着ていると、関係者の子供だと思われちゃう。
松鯉 そうかもしれません。「その割にはよく顔を見るな」と守衛は思っていたかもしれない(笑)。
日比野 一緒に観に行くお友達はいましたか?
松鯉 全部一人です。
日比野 最初に群馬会館に行くきっかけは何だったんですか?
松鯉 ほら、小学校のときに役を外された、それが根にあったんじゃないですか、多分。
日比野 他にはどんなものをご覧になっていましたか?
松鯉 時代的には、街頭テレビができたのが中学生ぐらい。街頭テレビで力道山は見ました。島倉千代子の「東京だョおっ母さん」も街頭テレビで見て「きれいな声だな」と思ってね。
日比野 そのころ、演芸の巡業はありましたか。
松鯉 なかったですね。でも高校にこの間亡くなった[三遊亭]金翁師匠が小金馬時代に来たことがあります。剣道部の部長の先生の友達というので、体育館で腹話術を見たのを覚えています。その後、師匠に「私、高校のときに腹話術を見ましたよ」とお伝えしたら「おお、そうかい」とうれしそうな顔をされていました。
日比野 少し戻りますが、先生は戦前生まれで、三歳ぐらいのときに空襲で転居されたとか。
松鯉 昭和二十年(一九四五)に伊勢崎大空襲があって、「あのとき私はお前を背中にしょって、夜寝る布団をその上からかぶって逃げたんだよ」と、おっかさんから何度も聞いています。だからその直後に前橋に転居しているんです、うちは。伊勢崎の思い出でおぼろげに覚えているのは、何かの畑があって、そこにあったガラスの屋根に乗ったら、ガラスが割れて足を切り、わっと泣いたというのだけ覚えています。ああ、もう一つあった。おとっつぁんが復員して帰ってきて、伊勢崎の駅におっかさんと迎えに行った時のこと。兵隊姿で駅から肩車してくれました。そのときに背嚢から乾パンと金平糖を出してくれたのがうれしくて、食べたのを覚えていますね。兵隊がみんな、帰ってくるときに配給されたんでしょうな。それ以外は伊勢崎の思い出がないんですよ。
神山 お父さんは大正生まれですか?
松鯉 大正三年(一九一四)。おそらく、おっかさんも大正三年だったはずですけれど……。
神山 外地から戻られたんでしょう? 満州か朝鮮か。
松鯉 金平糖というのは初めて見ましたから、おそらくそうですよね。
神山 あのころは甘い物が貴重だから。
松鯉 育った前橋は養蚕が盛んな場所で、甘いものといえばクワの実ぐらい。赤いうちはあんまりうまくない。紫になったら甘くてうまいんですよ。物のない時代ですから、それがおいしくてね。ただ口の中が紫になる。タケノコの皮を裏返して、そこへ梅干しを入れてチュウチュウ吸うとか、そんなのがおやつ。だからみんな栄養失調で、みんな青っぱなを垂らして、ギャバジンの袖で洟を拭くから袖が学生服がテカテカみんな光っていました、あのころはね。
日比野 前橋商業高校に進学されたのは?
松鯉 前橋高校に行く頭脳がないから、もっとレベルが下でもいいという前商を受けたんじゃないんですか。
神山 いや、でも、商業高校って戦前は結構地位が高いんですよね。
松鯉 そうですか。
神山 東京でも、田村隆一とか植草甚一とか、みんな商業高校なんですよ。
松鯉 私はそういう例には入らないと思います(笑)。演劇関係の思い出といえば、高校時代、前橋の敷島公園に遊びに行ったとき、ほかの高校の演劇部がけいこしていましたね。それが『夕鶴』でした。「つうよ、つうよ」という声が聞こえてきましたから。『鶴の恩返し』の物語は知っていましたし、あの声も一つの、「俺もこれがやりたい」という誘いになったかもしれません。
日比野 前橋商業高校には演劇部はなかったんですか?
松鯉 なかったと思いますね。あれば入ったと思いますから。高校生のときは、詩を書いていました。山崎正という、高崎の作詞家がいたでしょう。「お富さん」の作詞家。
神山 ああ。春日八郎が歌った。
松鯉 そう、春日先生。あの曲が群馬県で評判になって、俺も詩を書きたいと思って(笑)。実に安易なもので。
神山 面白いですよね。あれ作曲は沖縄の渡久地政信なんですよね。余計な話ですけど。
松鯉 そうですか。そんなことに影響を受けて詩を書いていました、あのころはね。講釈本も読んでいました。当時は「これが講釈本だ」とはね、気が付かなかったんですよ。夜店で売っている古本。カーバイド、アセチレンガス独特のにおいを覚えています。大人向けの講釈本か、子供用のか覚えてないけれど、大人用でも当時の講釈本って総ルビだったんです。だから読めることは読めるんです。『水戸黄門記』、全部読みましたから。講釈師になって、あらためて本物の講談全集から『水戸黄門記』を読んだら、ああ、子供のころ読んだのと全部同じだ、あのとき読んだのは講釈本だというのが分かったんです。
東京で文化座の研究生になる
和田 商業高校にいらっしゃると、卒業時に就職の口の紹介なんかがあったんじゃないですか。
松鯉 ありましたね。でも役者をやりたくて、おっかさんの許しを得て、布団屋をやっている親戚を頼って横浜の上大岡に出てきました。いっぱい座敷がある立派なうちだったので、そこへずっと居候。
日比野 アナウンス学校に通われたのはそのころですか?
松鯉 そのころです。東京のアナウンス学校。
和田 「就職するので東京に出ます」みたいな感じで出てきたということですね。
松鯉 いや、学校で決めてくれたところに一応、就職はしたんです。でもそっちはほっぽらかして(笑)、アナウンス学校で「外郎売」を覚えちゃいました。今は頭の部分しか出てこないけど。
日比野 当時は俳優志望でアナウンス学校に行く方も多かったんですか。
松鯉 そうですね、やっぱり田舎者にとって言葉の矯正というのは大きな問題ですから。学校の中にタレントクラブがあって、そこに入りました。
神山 やっぱり上州なまりというのは抜けないものですか。
松鯉 あるんですね。私が田舎を出て強く感じた違いは、アクセントよりも、言葉が乱暴なんですよ。「行くべえ」「そうすべえ」というような。だから最初、「東京の言葉って何てめめしいんだろう」と思った。でも大阪の人に聞くと、「東京ほど乱暴な言葉はない」というんです。それ以上なんですから、上州弁というのがいかに乱暴な言葉というのが逆に分かりますね。まあ、そういう土地柄ですから。
日比野 それで一九六三年から二年間、劇団文化座の研究生になります。
松鯉 アナウンス学校に、テレビ局のプロデューサーとか、現役の声優さんたちが指導に来るんです。『鉄腕アトム』のお茶の水博士をやっていた勝田久さんが、「藤野節子さんに手紙を書いてやる」と言ってくれて。
神山 藤野節子、劇団四季にいた。
松鯉 それで四季を受けたら落っこっちゃった。それでどうしようかなと思ったら、TBSのレコード大賞なんかのテレビプロデューサーだった野中杉二さんが「文化座を紹介するよ」と言ってくれて。野中さんもずいぶんかわいがってくれたんですよ。いろいろ引き回してくれました。「スタジオへおいで」と連れて行ってくれて生で美空ひばりを見たりとか。文化座の面接では、「文化座の芝居は「泥くさい」とみんなに言われていますが、私は泥くさいとは思いません、土くさいんです」なんて言って。それを佐佐木隆先生がうれしがってくれた。若いのにそういうせりふが出たんですよ。そのころから講釈師になる素地があったかもね。
神山 それはうまい言葉が出てきましたね。文化座は熱演型だから。
松鯉 佐佐木隆先生は井上正夫の弟子ですしね。当時六本木族というのがはやっていて、面接のときに、「お前さんはまさか六本木族じゃないよね」なんて言われた。そういうふうに見えたんですかね。でも無事に受かりました。
神山 [文化座では佐佐木演出で一九五八年二月に上演され、昭和三十三年度文部省芸術祭団体奨励賞を受賞した]『炎の人』(一九五一年一月・民藝初演)なんかは観てなかったんですか、そのころ。
松鯉 実は文化座の芝居をそれまで観たことなかったんです(笑)。[民藝の]滝沢修さんの『炎の人』は後になって観ました。文化座時代に私が出たのは、『土』(一九六三年四月・都市センターホール)と『リリオム』(一九六五年二月・厚生年金小ホール)だけです。『土』の主役・勘次は[加藤]忠さん、娘のおつぎを愛さん(佐々木愛)がやっていました。彼女は一期先輩で佐佐木隆先生のお嬢さんですね。私は村の若い村人Aの役。こうやって(手で笛を作る仕草をしながら)フクロウの鳴き声を出す場面があってね。そんな稽古をした覚えがあります。
神山 『土』は内田吐夢監督でテレビドラマにもなっています(一九六二年八月一七日〜九月七日、全四回、NTV)。それは覚えていらっしゃいますか?
松鯉 見てはいませんが、内田監督が稽古場に来た時、佐佐木隆先生が研究生を公園に連れていって、「先生、若い人たちに何か話してくれ」と一時間ぐらいじっくりいろいろな話を聞いた記憶があります。映画『飢餓海峡』(一九六五、内田吐夢監督)に文化座がユニットで出ていた関係でいらしていたんだと思いますね。
日比野 『リリオム』の思い出はいかがですか。
松鯉 研究生もみんな総動員で出まして、私はリリオムを捕まえようとする警官役をやりました。あのとき初めて髪を金色に脱色したのですが、劇団がオキシフルでやってくれたんですよ。新聞紙を広げて小一時間かぶる。それで頭を洗うと、もう金髪になっている。
神山 付け鼻はしましたか?
松鯉 しません。主役はしていたのかもしれませんが、私は端役の端役だから(笑)。最後、天国からリリオムが会いに来る場面がありますよね。誰にもその姿は見えないけど、「何かが来た感じがしたと」子供が言うのかな。そうしたらリリオムの妻が子供に、「人間というのは死んでも、人々の心の中に記憶で残っている間は、本当に死んだことにはならないんだよ」ってせりふね、いまだに記憶に残っています。友達の弔辞でもそのせりふをやったぐらいで。
日比野 文化座の研究生の同期は何人ぐらいいらっしゃいましたか。
松鯉 三十二人いたはずです。あのころは文化座も新劇もブームだったから。でも芸界で生き残っているのは私だけですね。みんな死んじゃいました。
神山 そのころ、鈴木光枝さんはまだお元気だったでしょう?
松鯉 お元気でした。「黒ちゃん、黒ちゃん」とかわいがってくれて、しょっちゅう声を掛けてもらいましたよ。私の本名は渡邉孝夫ですが、別れたおとっつぁんの姓が黒澤で、おっかさんが「お前が生まれたとき、研二って名前にしたかったんだよ」と言っていたので、プレゼントのような気持ちで名前を研二にして。当時は黒澤研二という芸名を名乗っていました。
日比野 その後文化座の研究生を二年やった後、劇団に残ることができなかった。三十二名の研究生で、どのくらいの人数の方が残りましたか?
松鯉 残ったのは三人ぐらいでしょう。
日比野 非常に競争率が厳しかった。
松鯉 厳しかったですね。
神山 六〇年代[一九六三年八月]は五月女道子と宮沢俊一が劇団群像座を立ち上げて脱退しましたが、その辺りのご記憶は?
松鯉 私が入った二年間の間にはなかったですね。ただ、文化座のけいこ場で佐佐木隆先生に電話がかかってきて、先生がけいこ場に戻ってきて「文学座が[一九六三年一月に]分裂したそうだよ」とおっしゃった。それは覚えていますね。
神山 そうですか。他にどんな方が劇団にいらっしゃいましたか。
松鯉 先ほども言った加藤忠さんや鈴木光枝先生は当然だけれども、外山高士さん、女性では荒木玉枝さん、河村久子さん。そのあたりはもうみんな幹部です。佐佐木先生や光枝先生と一緒に来た方ばっかりでしょうね。
神山 そうでしょうね。文化座は戦争中は満州で終戦を迎えたんでしょう。それで苦労なさったから、その人たちの世代ですよね。
松鯉 引き揚げてくるときの話もずいぶん聞きました。女だけみんな坊主になって、襲われないように、男の格好をしてみんな引き揚げてきたということを聞きましたね。
神山 松鯉先生が文化座にいたころ、佐々木愛さんはもうマスコミに売れ始めていましたか。
松鯉 売れ始めた直後ぐらいです。だから勢いがありました。
神山 それは文化座全体にやっぱり勢いがあったということですか。
松鯉 研究生でもエキストラみたいな形で、愛さんがテレビに出るときにみんなで出してもらったりしました。私はあのころ運転免許を持っていたので、警官でパトカーを運転する役をやったりね(笑)。懐かしいですね。多摩川の土手で。やっぱり文化座も三大劇団に次ぐぐらいの、劇団としての力があったから。
日比野 そのころ、テレビは新劇から俳優を持ってくるしかなかったから、三大劇団だけでは間に合わなかったんでしょうね。
松鯉 新劇の演技力というのは、当時みんな信じていました。映画俳優とかそういう人が、こぞって新劇の劇団に勉強に行った時代ですから。
民衆舞台での「新劇俳優時代」、山本安英の思い出
日比野 一九六六年に民衆舞台に入りますが、それまで三年間ほどの空白があります。この間はどんな演劇活動をされていましたか?
松鯉 どこも長続きしないんですよ。ほんの短い間ですけれど、三好十郎作品などを上演する炎座にいたこともあります。
日比野 炎座は、小幡欣治さんが属していて、新劇戯曲賞[現・岸田國士戯曲賞]受賞作の『畸形児』(一九五七年五月・神田一橋講堂)を書いた劇団ですね[前期炎座は一九六〇年九月『急傾斜地帯』四国巡演をもって解散。その後、久保田猛を中心に再出発、後期炎座は一九六三年十一月、第十一回公演『雨宮ちよの処分』(作:押川昌一、健康保険ホール)から一九七二年十月、第二十五回公演『甘い条件』(作:押川昌一、俳優座劇場)まで]。
松鯉 確か小幡欣治先生の作品に出たことがありますね。なんだったかな。
神山 小幡欣治は文化座で『埠頭』(一九六一年四月、都市センターホール)という作品をやっていますが……でも先生が入る前ですね。
松鯉 作品名は忘れてしまったけれど、何かやった覚えがあるんですよ[『埠頭』は一九六三年一月〜二月に地方巡演で再演、また四月には都市センターホール]。小幡欣治先生のことは、仲間の会話の中で「オバキン先生、オバキン先生」と言っていましたからね。
神山 新劇俳優時代、地方巡業は行きましたか。
松鯉 文化座の『土』で行ったはずです。
神山 『土』は全国巡演していますものね。あれはやっぱり労演?
松鯉 労演でしょうね。当時は労演の観客動員がものすごく大きかったですから。労演には寄席の芸人もずいぶんお世話になりました。誰だったか……新劇の先輩が旅の宿で「俺たちが若いときはこうやって旅に来ると、地元の顔役にあいさつしたものなんだよ」とおっしゃっていました。
神山 それはそう、興行ですものね。
松鯉 戦時中にあった移動演劇でもそうだったんですってね。やっぱり土地の顔役を通さないとだめだった。
和田 炎座を経て、民衆舞台へはどういう経緯で入られたんですか?
松鯉 炎座が嫌になってやめて、どこか行きたいと思っていた時に、民衆舞台の試演会を観たんです。
日比野 真山青果作品ですね。
松鯉 岡田以蔵を主人公にした『人斬り以蔵』(一九六六年三月、東大YMCA内稽古場)をやっていた。入って間もなく本当の旗揚げ公演があって、それが『みいらかんす』(一九六六年八月)です。
神山 岩間芳樹の。記録だと農協ホールでやっていますね。どこの農協ホールですか? 大手町? [大手町・農協ホール]
松鯉 覚えてないですね。その舞台で、場面場面のつなぎ役、炭鉱夫を取り締まる監視役の一人で、浪曲が好きな炭鉱夫、歌やん役をやりました。
日比野 浪曲をやったんですか?
松鯉 はい。でも舞台には出ないんです。袖からマイクで転換ごとに声を出す。あのころ広沢虎造のレコードを買ってきて、毎日ずっと聴いていましたから。「えー、ご苦労様、ご苦労様」とかね。覚えていますね。でも本当かどうか知らないけど、その歌やんが当時の演劇雑誌で褒められているよと聞きました。研究生なんですけど。
神山 それはうれしいですね。
松鯉 でも、金がないからね、あのとき。買いそびれちゃっているんです。どこかで見つけたら教えてください(笑)。
神山 民衆舞台を創設したのは桑山正一さんでしょう。
松鯉 そうです。当時桑さんに「講談が向いている」と言われた話は他でもしていますが、それよりも前、山本安英先生に声を褒められたこともあるんです。あれはうれしかったですよ。いつものけいこ場が何か具合が悪くて使えなくて、本郷のYMCAで一時『みいらかんす』のけいこしていたとき。山本安英先生はお住まいが本郷ですから、けいこ場に来てくれたんですよ。そこで私のウタヤンを聞いて、けいこが終わった後、私を呼んでくれた。こっちはもうコチコチになって。歴史的な先生ですから。「あなたは七色の声を持っています、役者が一番大事なのは声です、頑張ってください」とおっしゃってくださいました。神様に頭をなでられたようなものですからね。それは忘れませんよ。
日比野 あのころの状況を確認できればと思います。当時ぶどうの会が解散をして、桑山さんが民衆舞台をつくられた。山本安英さんは「山本安英の会」を発足されます。それは、内部で仲たがいしたということではないんですね[民衆舞台は山本安英の会「陽気な地獄破り」(六六年五月、日経ホール)「夕鶴」(六六年九月〜十一月、東北・西日本巡演、十月東京公演)に協力出演する]。
松鯉 そうではないと思います。わざわざ、稽古場に来てくれるぐらいですから。桑さんも、劇団が解散しちゃったから、しょうがなく自分で劇団をつくったという形だと思います。小沢重雄さん、[桑山の妻の]青木和子さんなんかがいらして。
神山 あと、大河内さんという人がいましたね。
松鯉 丸顔の大河内稔さん。あと細面の井上和行さん。トップが桑山さんで、ナンバー2が小沢重雄さんでした。
神山 『人斬り以蔵』を試演会でやった時に、シングの『谷の蔭』(演出:酒井修)もやっていると記録に残っているんですけど、覚えていますか。アイルランドの演劇。
松鯉 いや、覚えていません。
神山 『みいらかんす』の演出は岡本愛彦となっています。
松鯉 岡本先生は、ドラマ『私は貝になりたい』の演出家。
日比野 そのTBSディレクターが舞台初演出というのが売りになっていたかと。
神山 そうそう、なっていましたね。でもけいこ場でお会いしたことはないです。
神山 あのころは菊田一夫演出といったって、全然来ないでほかの人がやっているなんて、普通ですからね(笑)。
松鯉 名前だけというのはあったかもしれませんね。
日比野 木下順二さんとはお会いしてない?
松鯉 お会いしていません。山本先生だけですね。あのお声はいまだに忘れません。文化座でもそうでしたが、民衆舞台でも役者の基礎訓練として朗読をやらせるんですよ。菊池寛の「形」という短編を朗読して、それを桑さんが気に入ってくれて。「ただし、おめえの朗読は講談だよ」と。その言葉が講談師になった底にあります。
神山 そのころは寄席とか講釈とか聴いてないんですか。
松鯉 聴いてないんですよ。ラジオで聴くぐらいでしたね。相模太郎先生の『灰神楽三太郎』とか、古今亭今輔師匠とか。
日比野 当時のお気持ちとしては、古いイメージの浪曲や講談や落語よりも、最新の表現である新劇俳優として、きちんと身を立てていきたいという思いがおありになった。
松鯉 思いましたね。だから当時は、誰もいなくなった客席でじっと座って「ここで生涯終わりたいな、こういう世界で生涯終わりたいな」とずっと思っていました。
神山 文化座や民衆舞台の、お客さんの入りはどうでしたか?
松鯉 結構入っていたんじゃないですかね。民衆舞台では『日本の言論・1961』(一九六七年五月)という芝居で役が付いていたけれど、途中あることがあってやめたんですよ。
神山 ふじたあさやの芝居。
日比野 差し支えなければ、その「あること」を教えていただけますか。
松鯉 これは言うといけません。人を傷つけることになるからやめますけどね。でも桑さんはずっと、講釈師になってからも一升瓶を楽屋に持ってきてくれたり、すし屋に連れていってくれたり、かわいがってくれました。
日比野 松鯉先生がお出になるときに桑山さんは……。
松鯉 いや、その時は黙ってやめました。言えば間違いなく引き止められますからね。役も付いているわけですし。
歌舞伎俳優、中村歌門の門人になる。楽屋の記憶
和田 先生が民衆舞台を出たころのお話をされるのを、客席で聴いたことがあります。たまたまNHKで北相馬宏さんに会ったそうですね。
松鯉 そう、北相馬さん。あの人が一時、前進座をやめて、文化座の経宣部にいたことがあるんですよ。後になってまた前進座に戻るんですけどね。それでよく知っていた。私が民衆舞台もやめて、何かの仕事で田村町にあったNHKに行ったときに、北相馬さんが「黒ちゃん、どうしたの」と声をかけてくれました。「劇団をやめて行くところがないんだ」と言ったら、「[六代目中村歌右衛門門下・二代目]中村歌門さんが弟子がやめちゃって困っているんだ。ずっといてくれとは言わないけど、取りあえず行ってくれないか」と頼まれました。世話になった北相馬さんだから、「じゃあ、行きましょうか」といって。そういえば、北相馬さんのせがれがまだ四つか五つのころ、「かみさんに子供が生まれるんで病院に行かないといけない。日給は出すからしばらく子供を見てくれないか」と頼まれて面倒を見た覚えもあります(笑)。大きくなって、朝ドラの主人公をやっていましたよ。彼は青年座にいたんです。
川添 岡野進一郎さん。NHK連続テレビ小説『いちばん太鼓』(一九八五)で三田寛子さんとW主演をされていたようです。
松鯉 そうそう。青年座の芝居も観に行ったけど、テレビで評判になって主役をやっていましたよ。ところが突然いなくなっちゃったから「どうしたんです」と北相馬さんに聞いたら、「アメリカに行っているんだよ」と。今もアメリカに住んでいらっしゃるそうです。
日比野 歌門さんとの初対面はどんな感じだったのでしょう。
松鯉 住所をもらって、一人でご自宅を訪ねたはずです。
神山 歌門さんはまだ吉祥寺に住んでいましたか。
松鯉 吉祥寺です。普通、歌舞伎だと自分の師匠を「だんな」と言うけれど、歌門先生は、「私のことは先生と呼んでくれ」とおっしゃっていました。やっぱり前進座にいらしたからでしょうか。
神山 そうでしょう。歌門さんは大正三年だから、ご両親と同じぐらいの世代ですね。
松鯉 そうです。
神山 私の印象では歌門さんはすごく気さくな、楽しい方でしたけど……。
松鯉 歌門先生は独特の役者でした、ぎょろ目が印象的で。お父さんははなし家の二代目談州楼燕枝。だから、歌門先生が亡くなったときに未亡人が、落語の本を十数冊、段ボールに入れて送ってくれたことがありますよ。
神山 歌門先生のお姉さんが[三代目中村]翫右衛門さんの奥さんですよね。
松鯉 そう。だから旅先で歌門先生に付いて楽屋に入ろうとしたら、向こうから翫右衛門先生がいらして、歌門先生が「兄さん、ご苦労さん」とおっしゃっていました。歌舞伎で先輩に言う「兄さん」と思っていたら、義理の兄さんだった(笑)。
和田 当時は、身の回りのお世話もするし、舞台では役も振ってくれるというような待遇だったのでしょうか。
松鯉 普通の大部屋の皆さんと同じ待遇でしたよ。大部屋にちゃんと自分の化粧前があって、半分は黒衣姿ですけど、いろいろな芝居にも出ましたから。例えば、ほら「馬盥」[『時今也桔梗旗揚』二幕目「本能寺馬盥の場」]で盆栽を持って出る役とかね。あとは旅で『[廓文章]吉田屋』が出たときも[三世實川]延若さんが藤屋伊左衛門で紙衣を着て幕開けに出ていく。あのときの、花道の面明かりもやりました。二人の黒衣で出すんですよ。「吉野川」[『妹背山婦女庭訓』三段目]では水衣(海や川などの場面で青色に身を包んで動く裏方)でした。川の中へ潜むと客席からは見えない。
神山 そうそう。あの首を流すのもやるんでしょう。
松鯉 そうです。手紙も流したりね。
川添 その時に先生が名乗られていた中村花三郎という芸名はどういう経緯で決まったのでしょう。
松鯉 私が入る前にやめた人は、名前が花助だったんですよ。歌門先生は花が好きなんでしょうな。それで花三郎にしてね。先日、国立が一時閉館するので、記念の文集を送ってきてくださったんですよ。そのときにインタビューしてくださった理事の方がいろいろ調べてくれたら、記録や筋書に花三郎とちゃんと載っていました。
日比野 新劇の俳優から歌舞伎というのは、ずいぶん演技スタイルが違うので、苦労されたんじゃないですか。
松鯉 そうですね。新劇の基礎訓練として声楽もダンスも日本舞踊もやりましたけれども、そんな流暢に踊れるわけでもないし。私の場合は歌舞伎で生涯やろうと思って行ったわけじゃないけれど、ちゃんとした役をやるんだったら、踊りの基礎からやらないと無理なんでしょう。でも「いい人生経験をさせてもらったな」とは思っています。
和田 せりふのある役はありましたか。
松鯉 『馬盥』に出たときは、一言せりふを発して出てくるんですね。あとは並び大名。そんな程度(笑)。今の大阪の成駒家[四世中村鴈治郎・三世中村扇雀]の初舞台にも出ました。
神山 鴈治郎さんが智太郎、扇雀さんが浩太郎を名のった初舞台[『紅梅曾我』一九六七年一一月・歌舞伎座]。
松鯉 あのときにもらった手ぬぐいをまだ持っています。でも歌舞伎の世界って寄席と違ってね、かなり厳しいですよ。楽屋風呂に入るでしょう、先生が。するとバスタオルを持って、ずっと立って待っているんですから。寄席では、そこまでやらない。毎日足袋も洗いました。三階に洗い場があってね。
和田 歌舞伎のお弟子さんは、例えば歌門先生が朝この芝居に出ます、例えば夜これに出ますといったら、その間ずっといるんですか。
松鯉 そうですね。やっぱり歌舞伎はこしらえが大変だから、弟子がいないと。衣裳屋だけじゃどうしようもないですよね。
神山 とんぼとかは?
松鯉 あ、とんぼのけいこ、したんですよ。でも切れません(笑)。前の歌舞伎座の裏に砂場があるんです。あそこで三階さんの先輩が、「おい、けいこしよう」と。手ぬぐいを持ってね、何回もけいこした覚えがありますよ。でも最後まで返れなかった。
川添 当時の大部屋の雰囲気など、ご記憶に残っていることはありますか。
松鯉 大部屋は立ち役も女形も一緒ですから、三階さんはやっぱり連帯感があるからかわいがってくれるんですよ、古い女形が。「この紅は普通手に入らない紅なのよ」てなことを言ってね。「でもあなたにおすそ分けしてあげる」なんて優しい。あるいは下締めを作ってくれたりね。若いときってそうやってかわいがってくれて、みんなよくしてくれましたね。立ち役の人もみんな面倒見てくれました。成駒家にもいい弟子がいっぱいいました……女形で背の高い、[中村]歌江さん。あの人も流暢なせりふ回しで。
神山 そう、物まねで有名。最年長は[加賀屋]鶴助さん、まあ、こういう話をし始めると長くなっちゃうから(笑)。
日比野 逆にいじめられた記憶というのはありますか。
松鯉 私は、芝居時代、いじめられた記憶は一回もないですね。かわいがっていただいた、いい思い出ばっかり。
日比野 ちなみに歌右衛門さんとは直接何か言葉を交わしたことは。
松鯉 ありますよ、もちろん。だんなが「風邪ひいちゃっているんだよ」といったから、私、反射的に「だんな、お大事にしてください」と言ったんですね。そうしたら立ち止まって、「ありがとう」とおっしゃった。それは覚えています。十七代目の中村屋のだんな[中村勘三郎]にも声掛けてもらいましたね。「お前さんはどこの弟子だい」「歌門の弟子でございます」「そう、頑張りなさい」と。
和田 以前、先生の高座を聞いていたとき、若手時代に高座が終わるとたいてい上野で毎晩飲んでいて、あるときは[五世]片岡市蔵さんに会われたとお話されていましたね。
松鯉 ああ、片市だんな。講談師になって、御徒町のガード下の飲み屋に通っていたんですけれども、カウンターでひょいっと隣を見たら片市だんなですよ。「あれっ、失礼ですけど片市だんなじゃないですか」と言ったら、「お前は誰だ」と。「ええと、今講釈師なんですけど、昔歌門先生のところにいたので、だんなを存じ上げております」と答えたら「おお、そうか」なんてしばらく一緒に飲んで。最後は「じゃあ、うちに来るか」とおっしゃって、せっかくのお言葉だから門の前まで行ったんですが……やはりちょっと気が引けて、「だんな、申し訳ないですけどここで今日は失礼させていただきます」と帰ったこともあります。あのだんなもお酒が好きで、地下鉄の線路に落っこって亡くなったって聞きました。
神山 そう、湯島駅でね。
捨てられない新劇への夢
日比野 どんなに居心地良くても、ご本人としては、歌舞伎の世界に骨をうずめるという気持ちはなかった。
松鯉 ないですよね。だって、やっぱり新劇をやりたいわけだから。だから、ある時期「もう撤退しなきゃいけないな」と思いました。ずっと居着いちゃうとね……。ただ、月給がもらえるから。歌舞伎にいる間はバイトしないでも食える。大部屋でもちゃんと月給は出るんです。
日比野 新劇俳優をやっているよりは、給料はよかったわけですね。
松鯉 確実に部屋代は払えましたね。歌舞伎はすごく勉強にはなったけれども、自分が骨をうずめる場所じゃないとは思いましたね、私は。やっぱり家柄がないと、あの世界はね。だからいたのは、一年弱ですね。
日比野 やめるきっかけというか、やめられることになった契機は?
松鯉 友達と二人で「朗読朗唱法研究会」という会をつくったんですよ。新劇のころ、基礎訓練で朗読をずいぶんやっているし、歌舞伎の場合は朗唱法というのがありますわね。それをしっかりして勉強し直そうと思って。あのころは新聞で、サークル、仲間を募る広告を出してくれたんですよ。それで新聞に出たら十人ぐらいが応募が来たんですよ。秋葉原でけいこ場を借りて、その十人たち相手にずいぶんやりましたよ。そうしたら、不思議な縁ですね、そのけいこ場の管理をやっている人が、「私は昔、[五代目]古今亭今輔の弟子だったんですよ」と(笑)。まだ私が寄席の芸人になる前ですけどね。そんなことをしている間に、研究会も長続きしないで、とどのつまりが、桑さんの言っていた講釈師になったんですね。
日比野 ちなみに、当時の新劇俳優は、どんなところでアルバイトをしていたんでしょう。
松鯉 私は食えないからいろいろなことをしましたけれど。当時、「発見の会」に友達がいて、つまらないアルバイトより芝居のバイトをしようじゃないかといって、大道具もやりました。といったって、大道具だって何人もいるわけですから、私は使いっ走りでした。
神山 あのころの道具方、気性が荒くてね。棟梁とかはおっかないんですよ。だめ出しでも一番おっかなかった。
松鯉 そうでしたね。
いよいよ講談師に。歌舞伎座の舞台にも……
神山 六〇年代から七〇年代になると、アングラが出てきて「今までみたいな新劇じゃだめだ」といった批判も出てきます。先生はそういう空気を感じたことはありましたか?
松鯉 いや、私はこっちがやっているのが本物の芝居だと信じてやっていました。
神山 そうですよね。当時、僕は高校生だったんですが、やっぱり僕自身の記憶でも、新劇はそこまで衰えていなかった印象があるんです。演劇史だと「アングラが出てきて、新劇は没落し、批判が増えた」とまとめてしまうけれども、それはごく一部の意識だったんじゃないかと思う。当時も固定ファンはいたし、松鯉先生が「新劇を信じていた」という認識がほとんどだったんじゃないですかね。ましてや劇団にいる人は絶対そうだったと思いますし。
松鯉 その世界で育って、ほかを知らないから余計ですね。
日比野 ただ、「発見の会」にお友達がいたということは、やっぱりお仲間にはアングラ的な方もいた?
松鯉 役者志望の仲間というのは劇団を問わずに、どこかでつながるんですよ。あるいは若手同士。
日比野 逆に誘われたりも?
松鯉 誘われましたし、一緒にバイトしたり。普通の役者仲間でした。
和田 講談の世界に入ってからのご活躍はほかのインタビューでもすでに出ていますので、このインタビューで伺いたいのは七〇年代前後まで、演芸の世界に入る切り替わりのところまでと思っております。歌舞伎を辞めて、秋葉原で朗読朗唱の団体をつくった。だけど、それもそんなに長続きしなかった?
松鯉 長く続かない、何をやっても長く続かなかったですね(笑)。
和田 そういった時期、一九七〇年に[二代目]神田山陽先生に入門しようというのは、ご自分で思い付かれたわけですか。
松鯉 そのときに桑さんの「講談が向いている」という言葉が思い出されたんですよ。そうだ講釈だ、講談聴いてみようと思った。でも当時、本牧亭の存在すら知らない。それでまず、末廣亭に行ったんです。そうしたら、うちの師匠が出ていた。面白いんですよ。それで次に本牧亭に行って聴いてみたら、堅苦しくてつまらない。
日比野 出る場所で芸風が違っていたということですね。
松鯉 そう。落語の定席にも出ているから、面白くできる。ただ、うちの師匠は本牧亭に出ると、しっかりしたものをきちっとやりましたね。場所によって分けていたのを覚えています。分かりやすいというのは、当時の自分にとって大きな魅力でした。それで師匠を訪ねていったんですよ。そうしたら、[神田]連山兄さん、[大谷]竹山兄さんと、当時兄弟子が二人いた。二人とも師匠と同じような年、連山兄さんは昔はなし家をやっていて、柳亭左楽師匠の弟子。左吉と名乗っていたと聞きました。はなし家をやめたあとは太鼓持ちだったそうですよ。その時の先輩が先代[七代目]の橘家円蔵師匠。太鼓持ち時代に、小伯山といううちの師匠の名前を無断で使っていたのが師匠の耳に入り「訴えて出る」と言われ、そこでかぶとを脱いで「じゃあ弟子にしてください」と言って入門した。それで連山という名前になりました。
日比野 面白い人ですね(笑)。
松鯉 あの人はだから仲間内にかわいがられましたね。吉行淳之介先生が、「連山・一鶴、奇人変人二人会」というのをやってくれたというぐらいですから。連山兄さんが真打ちになったとき、のちに林家彦六になった正蔵師匠のところにあいさつに行ったら、「連山おめでとう、ただお前は今ここで祝儀をいっぺんにやるとすぐ使っちゃうから、月賦でやるから毎月取りに来い」と言われて、三月に分けて、行くたんびに自分の名刺の裏に領収書と書いて渡したとか。そういう愛嬌のある兄弟子でしたね、連山さん。
日比野 その兄弟子が師匠と同じぐらいの年ということは、やっぱりそのころもすでに、講談界というのは弟子不在だった?
松鯉 そうですね、私が入ったとき講釈師が三十人いなかったですから。『講談師ただいま24人』(一九六八年・朝日新聞社)を一竜斎貞鳳先生が書いたのが、私が入る少し前。あの直後に五、六人増えたんですよ、たぶん。
神山 講釈師になってから、歌門さんのところにあいさつに行きましたか?
松鯉 いや、行きませんでした。でもお弔いは行きました。
神山 いやいや、何で聞いたのかというと、本牧亭で思い出したのが、歌門さんが前進座にいるころ、安藤鶴夫の『巷談本牧亭』(一九六三年十二月、新橋演舞場初演)に歌門さんも出ていたから。
松鯉 その舞台、拝見しました。ただ私が観たのは、中村梅之助先生が桃川燕雄をやったとき(一九九二年十二月、新橋演舞場)ですが。
神山 初演は翫右衛門でしたけど、そうか梅之助がやりましたものね、その後。
松鯉 総見しました、当時の若手たちで。
神山 そうですか、それはいいや。あれは面白かったな。
松鯉 翫右衛門先生は本物の燕雄先生より『雷電』がうまかったと聞きますが、梅之助先生もうまかった。
和田 先生は講談師になってから芝居にもいくつかお出になってますね。
松鯉 日大の永井啓夫(ひろお)先生から電話がかかって、「あなたは芝居の出だから、ぜひ狂言回しをやってもらいたい。私の友達が演出する」といってお話をいただきました。『日の浦姫物語』(一九八七年一月・ベニサンピット)。演出は新納紀美夫さん。当時、日大の講師だった方。もう亡くなりましたが。主役が新派の紅貴代さんでしたね。土橋亭里う馬さんが「紅貴代って俺と同級生なんだよ」とおっしゃってました。二度目にやったのが、日大の芸術学部の出身の役者ばっかりで『國語元年』(一九九二年十月・新宿全労済ホール スペース・ゼロ)。会津の浪人をやりました。どちらも井上ひさしの作品。
日比野 今でいうところのプロデュース公演ですかね。
松鯉 新納さんがプロデュースしているというか、すべてあの人がやっていましたね。日大芸術学部の卒業生が集まって。あとは永井先生の御関係。あのときはまだ若かったからできたけど、あらためて「役者ってくたびれるな」と痛感しました。いかに寄席の芸人がなまった生活しているかというのが分かる(笑)。やっぱり役者って体を使うんですね。当時はもう真打ちになっていましたから。
神山 真打ちになる前は、寄席芸人の方もキャバレーの司会なんかのアルバイトに行っていましたよね。
松鯉 やりました。山ほどやりました。仕事に全然関係ないバイトで食うのは情けないから、「何でも、とにかくしゃべるバイトならばいい」と思って、キャバレーの司会、歌手の司会、ショーの司会もやりました。怪談ショーなんていうのも。[昭和のキャバレー王として知られる]福富太郎さんはうちの師匠の最大のおだんでしたから、私のこともかわいがってくれて。「うちのチェーン店を、回ればいいじゃないか」と言って、怪談ショーで回ったりね。あと、ほかのルートで歌手の司会をやったりね。
神山 そうですか。いや、その声で司会なさったら迫力ありますね(笑)。歌手の司会は、当時は宮尾たか志とかがやっていました。
松鯉 その前は司会の世界では、西村小楽天という人。有名でしたからね。名調子で。
神山 そうそう。「赤いランタンほのかに揺れて」というね、耳に残っていますよ。
松鯉 講釈師だから、七五調はできますからね。ずいぶんやりましたね。うちの師匠も怪談でキャバレー、ずいぶんやりました。そのとき私は前座で、幽太(前座がやる幽霊役)で客席に出るんですよ。ただ、お客さんはみんな酔っ払いですからね。間が悪いとひっぱたかれるんですよ(笑)。ホステスが、幽太が出ると「キャー」といってお客に抱き付く。それが目当てだから。ずいぶんたたかれましたね。
和田 山陽先生は後に女流のお弟子さんを、いっぱい取られましたね。しかも、演劇をやっていた人が多い。あれは偶然なんですか?
松鯉 やっぱり演劇は訓練として朗読をやりますから。講談は朗読芸なんですね、本来は。軍記を読んで、お客様に聞いていただいた。そういう共通点があるんでしょうね。だから、当時の講談は笑えなくていいわけです。今は落語と講談がだんだん近づいてきて、面白いというのが一つの売りになっているけれども、私らが育った講談界というのは、落語と全然別のジャンルでした。あのころは、変にくすぐりを入れると怒られたんですから。まじめにやれと。そういう意味では、しっかりした朗読を自分の言葉で喋れば、もう講談だったわけです。だから、役者を経験した人が一番行きやすい世界だったんじゃないですか。別の側面から見ると、笑わせるのはね、ある種の年季がかかるんです。役者をやっていた人は朗読はできます。でもそれが講釈の味になるまでは時間がかかるんですね。
神山 尾上松緑さん主演で歌舞伎化された『荒川十太夫』[二〇二二年十月、歌舞伎座]は、関連企画として「神田松鯉・神田伯山 歌舞伎座特撰講談会」も開催されました。歌門の弟子が歌舞伎座の舞台に立ったわけですね。
松鯉 満員でありがたかったですね。今の歌舞伎座の鳥屋の鏡が、前の歌舞伎座の鳥屋の鏡、そのままなんです。松竹の方が教えてくれました。懐かしかったですね。
神山 そうですか。楽屋はすっかり変わっちゃって面影ないですけどね。
松鯉 だからね、揚げ幕にいた“コウさん”を思い出しまして。
神山 そうそう、コウさんっていましたね。小柄な方。たっつけはいて。
松鯉 役者が「はい」と言うと、同時にチャリーンと開ける。間がいいから人気があった。コウさんはそれで祝儀が出ますから。
和田 この間の歌舞伎座での講談会、花道からお出になられるときに先生が、「私は合図出さないから、そちらのタイミングで開けてください」と仰っているのをドキュメントビデオで見ました。めったにない機会だから、「はい」と言ってチャリーンとやってもらえばいいのに、何で遠慮されたのかなとか思ったんですけどね。
松鯉 やっぱり、あんまり役者を気取りたくなかったんでしょうな。逆に素人だったら、まねするかもしれない。若いときにみなさんの姿をちゃんと見ていますからね。本物のまねをしちゃまずいと思った。
日比野 それはいい話ですね。
松鯉 でもうれしかったね。大道具さんが背景に私の紋を入れてくれたりとか。ああいう心遣いがうれしかったです。
日比野 本日は、先生の役者時代のお話も伺え、いろいろな貴重なお話を知ることができました。本当にありがとうございました。