基本データ

取材日:二〇一六年六月六日

取材場所:カフェ・ミヤマ高田馬場駅前店

取材者:井上優・川添史子・中野正昭

編集・構成:川添史子

イントロダクション

 巻上公一氏は、一般にはミュージシャンとして知られているが、その中身は実に複雑だ。巻上氏の公式ウェブサイトには「小さな声帯から極楽が生まれる。」という巻上本人の言葉ともに、「超歌唱家、ソングライター、詩人、プロデューサー。ヒカシューのリーダー、日本トゥバホーメイ協会代表、Jazz Art せんがわプロデューサー」という肩書きが記されている。今回の聞き書きは、これらに肩書きに「俳優」「演出家」を加えるものとなるだろう。
 世間的には、巻上氏の名前は音楽バンド・ヒカシューのリーダーとしてもっとも知られているだろう。一九七八年結成のヒカシューは、ちょうどテクノ音楽が台頭する頃だったこともあり、活動当初はP-MODEL、プラスチックスと共に「テクノ御三家」に数えられた。しかし、その独自の音楽センスとシアトリカルなパフォーマンスは明らかに他のバンドとは一線を画していた。特にリーダーの巻上氏の個性的なヴォイスパフォーマンスと歌詞の世界は、一度聞いたら、忘れられない中毒性がある。筆者もまた、小学生の時にテレビでヒカシューを見て、「何だコレは?」(「何だこの歌は?」ではない)と衝撃を受けた一人である。その後、ヒカシューは即興演奏や民族音楽などを取り入れながらノンジャンルな音楽性を深め、現在も唯一無二のバンドとして活動を展開している。
 巻上氏は一九五六年静岡県熱海市生まれ。湯河原町立湯河原中学校時代は美術部に所属し、ここで一学年下の井上誠と知り合った。神奈川県立小田原高等学校時代に、戸辺淳、海琳正道(現・三田超人)らを誘って劇団・ユリシーズを結成する。高校二年の時、やはり小田原高校へ進学していた井上誠(井上誠と東京キッドブラザースの関係については、井上氏の聞き書きで詳しくお伺いしたので、そちらを参照のこと)と二人で、東由多加主宰のロック・ミュージカル劇団・東京キッドブラザースにスタッフとして加入、スタッフ志望の井上に対し、俳優志望だった巻上氏は、翌年に『ザ・シティ』のオーディションに合格し、日本(新橋ヤクルト・ホール、アトリエ・フォンテーヌ)、ニューヨーク(ラ・ママ実験劇場)、ロンドン(ロイヤル・コート・シアター)公演の正式メンバーとなる。
 東京キッドブラザースは、実験演劇室天井桟敷の創設メンバーだった東由多加が、完全オリジナル曲による和製ロック・ミュージカルを標榜して一九六八年に旗揚げした。一九七〇年六月、オフ・オフ・ブロードウェイのラ・ママ実験劇場での『GOLDEN BAT』(同年一月・渋谷ヘアーで初演された『黄金バット』の英題)が好評を博し、八月からはオフ・ブロードウェイのシェルダン・スクエア・プレイハウスへ進出し、十二月までのロングランを実現した。東京キッドブラザースは、日本演劇史の中で、ブロードウェイでのロングラン公演を実現した唯一のミュージカル劇団だ。『GOLDEN BAT』は、ブロードウェイ・ミュージカル『ヘアー』(一九六七年)の影響を受けて作られた作品で、ヒッピーの説く「愛と平和と連帯」を歌やダンス等のパフォーマンスで具現化したものだった。帰国後、東京キッドブラザースはヒッピーが理想とするコミューンを日本で実践した「桜んぼユートピア」をつくるなど、演劇以外での活動も展開するようになった。
 その後も東京キッドブラザースは『南総里見八犬伝』(一九七一年三月・日本青年館)、『西遊記』(一九七二年三月・四谷公会堂)を国内外で上演し、『ザ・シティ』は海外公演作品として四作目にあたった。しかし、ヒッピー文化を背景とする前三作が好評だったのに対し、不良青年モーターバイク族の青春と葛藤を扱った『ザ・シティ』の評価は厳しく、これ以降、東京キッドブラザースはロックからフォーク、ニューミュージックといったその時代の若者の音楽を取り入れた作風へと変化した。
 『ザ・シティ』は不成功に終わったが、若い巻上青年は初めての海外体験、しかもニューヨークやロンドンの最先端の文化風俗に触れたこともあり、帰国後は本格的に表現者の道を歩み始める。一九七五年九月、元東京キッドブラザースの深水三章が主宰するミスタースリムカンパニー旗揚げに参加、七六年には劇団・ユリシーズを再結成する。七七年九月のユリシーズ第二回公演『コレクティングネット』の音楽を旧知の井上誠と当時劇団・黙示録の音楽監督だった山下康に依頼、翌七八年七月の『幼虫の危機』では巻上、井上、山下、戸辺哲(淳の弟)、海琳正道が顔を揃え、これが後のバンド・ヒカシューの母体となった。
 一九七九年十月、ヒカシューは近藤春夫プロデュースのシングル『20世紀の終わりに』(東芝EMI・イーストワールドレコード)でレコード・デビュー、八〇年一月にはファースト・アルバム『ヒカシュー』を発表し、現在まで約三十のアルバムを発表している。
 ヒカシューが登場した一九七〇年代末から八〇年代初頭は、いわゆるサブカルチャー文化の台頭期にあたる。巻上氏は、東京キッドブラザースや天井桟敷といった演劇人、またヒカシュー以後のメディア人との繋がりによって、二十世紀の終わりの演劇シーンに関わって行く。東京キッドブラザースや天井桟敷といった一九六〇年代のアングラ演劇が、桑原茂一、小林克也、伊武雅刀のラジオ番組「スネークマンショー」、劇団青い鳥、フェルナンド・アラバールといった、表面上は一見無関係と思われる作品が地下の人的・文化的水脈で繋がっている様は興味深い。
 なかでもニューヨーク前衛演劇界を代表する作演出家のリチャード・フォアマン(一九三七~)の日本紹介は、巻上氏ならではのものだろう。一九九五年、四谷P3での『マインドキング』は、巻上氏の演出に、ニューヨークのミュージシャンのジョン・ゾーンとウィルアム・ワイナントの生演奏付で上演され好事家の間で話題となり、九七年にはやはり巻上演出の『パーマネント・ブレイン・ダメージ』が、二〇〇〇年からは演劇評論家の鴻英良と組んだ「リチャード・フォアマン・プロジェクト」で『エジプトロジー』『マニフェスト』等のテキスト・リーディングが鴻訳、巻上演出で上演された。鴻英良・巻上公一共著による日本初のリチャード・フォアマン研究書『反響マシーン』(二〇〇〇年、勁草書房)も発売されている。難解と言われるフォアマンの世界が、巻上公一を介して、通常の前衛演劇とは異なる文脈で受容されたのは日本にとって幸運なことだろう。
 今回、アヴァンギャルとアンダーグラウンドとポップの境界を自由に横断する巻上公一氏のお話しによって、二〇世紀後半の日本の様々なカルチャーのミッシングリンクが即興演奏のようにつながっていくのは実に愉しい時間だった。(中野正昭)

音楽、文学、演劇……青春時代にすべてがあった

中野 子ども時代の演劇体験から伺えたらと思います。どういったものをご覧になっていましたか? 静岡のご出身ですよね。
巻上 子ども時代のことは本当に覚えていないんです。おじいさんに連れられて東京に来て、落語でも何でも観ていたようだけど記憶になくて。昭和三三年(一九五八)に東京タワーができた時が二才で、わざわざ見に行ったらしいんだけど……そのことも、あんまり覚えてないんです。
井上 テレビ番組はどういったものをご覧になっていましたか?
巻上 テレビっ子でよく見ていましたね。『鉄腕アトム』、『鉄人28号』、『スーパーマン』、『ポパイ』。日本で放映されたアメリカのアニメはほとんど見ていると思います。
中野 演劇に興味を持つきっかけは?
巻上 中学の時、美術部の一学年下に、井上誠さん[一九七二年〜七八年に東京キッドブラザース在籍]がいたんです。宇野亜喜良さんのファンだった彼から、宇野さんがイラストを手掛けた、新書館から出ていた寺山修司の詩集を借りて読んでいたんですよ。中学二年か三年の時。それで寺山さんに興味を持ったのが最初です。
中野 井上さんが舞台に興味を持つきっかけは、ロック・ミュージカル『ヘアー』日本版の影響が大きかったとおっしゃっていました。
巻上 井上さんは元々ザ・タイガースのファンで、特にトッポ[加橋かつみ]が大好きで[加橋が主役を務めた]『ヘアー』[一九六九年十二月・渋谷東横劇場]を中学一年のときに坊主頭で見たそうですよ。ヘアーがないのに(笑)。僕は寺山さんが演劇に興味を持ったきっかけで、中学三年が終わったぐらいの時、お年玉で手に入る寺山さんの本を全部手に入れました。『寺山修司の戯曲』シリーズ[一九六九〜一九七一年、思潮社]も横尾忠則さんの装丁のものが出たばかりで、四集だけ手に入らなくてすごくガッカリしたんだけど……でも他は全部読みました。その時は『続 書を捨てよ町へ出よう』[一九六七年、芳賀書店]をまず買って、『書を捨てよ、町へ出よう』[一九七一年、芳賀書店]は後から読みました。
中野 当時、寺山さんの舞台はご覧になりましたか?
巻上 東京へ出てからは全部観ていますが、当時は観ていません。十五歳か十六歳の時にちょっと親とケンカをして、「じゃあ、寺山さんに会いに行こうか」という感じで、井上さんと東京の天井棧敷館へ行ったことはあります。厚底のぽっくりみたいなのを履いていて背が高く見え、目がぎょろっとした寺山さんがいました。とても話し掛けられなかったです。結局、街で補導されましたし。東由多加を知ったきっかけは、確か、井上さんの家にあったレコードですね。井上さんの家はお金持ちで何でも持っていて、僕は買わなくて済むから、しょっちゅう井上さんのうちにいたんです。キングレコードから出ていた『書を捨てよ町へ出よう』や東京キッドブラザース『黄金バット』のサントラ盤、唐十郎のレコードなんかを聴いて、音楽が好きになりました。中学生の時からギターを弾いたり、バンドもやっていましたけれど。
井上 寺山修司やアングラ音楽に出合う前はどんな曲を演奏していたんでしょうか?
巻上 映画音楽が一位になったり、いろいろなものが同時にはやっていた時代で、エンニオ・モリコーネ、フランシス・レイ、バート・バカラックが特に大好きでした。フェデリコ・フェリーニの映画を観てニーノ・ロータも好きになって、ギターでそういった映画音楽を演奏する機会が多かった。同時にもちろん、ビートルズファンの同級生が多くいたので、無理やりやらされましたけど。『レット・イット・ビー』を中学三年生の時に体育館で演奏した覚えがありますね。
中野 高校に入られて演劇をやることに目覚めたわけですか? 戯曲を書いたりは?
巻上 高校で隣に座って親しくなった古屋健というやつが、別役実なんかの戯曲を読んでいたんです。その影響で戯曲ばっかり読むようになり「演劇は面白いな」とだんだん思うようになりました。部活は新聞部でしたけど、作曲して、演奏して、歌もあってみたいな芝居を自分たちで作ったこともあります。文化祭で劇団ユリシーズという名で上演しました。作品名は、『林檎と地平線』。喫茶店アップルが、革命のアジトになったり、ヨガのグルが教えを説いたり、と変容する構成作品でした。
それで古屋と状況劇場『二都物語』[一九七二年四月]を不忍池水上音楽堂に観にいき、アングラ初体験で度肝を抜かれましたね。いきなり唐さんが出てきて、「それでは状況劇場第何回公演を始めます」と言って急に池に飛び込んじゃって、「何だこれは」と思っているうちに、大久保鷹さんたちが遠くの方から、タンスを背負って泳いでくる。びっくりしましたね。
中野 状況劇場に入ろうとは思わなかったんですか?
巻上 コワすぎちゃって勇気が出ませんでした(笑)。その後、確か春休みに初めて東京キッドブラザースの『西遊記』[一九七二年四月・四谷公会堂]を観に行ったんです。小田原から向かうので、遅れちゃいけないと思って早く出発したら、夜公演なのに午後二時ぐらいには着いてしまって。劇団員に声を掛けられて、その日すでに手伝っていましたね。それがきっかけで知り合いになって、よく行くようになりました。
井上 手伝いというのはどういう仕事を? もちろんギャラは出ないですよね。
巻上 出ないですよ(笑)。掃除とか、やたら花吹雪を使うので事務所でずいぶん紙を切った思い出もありますね。自分にとってスターだった深水三章(しんすい・さんしょう)さんに会った時は「レコードで聴いた人だ」と感激しました。
中野 劇団の共同生活の場「ユートピア」には行きましたか?
巻上 高校生の夏、鳥取の山奥の「サクランボ・ユートピア」には行ったことがあります。会社を辞めて来ちゃった人とか、いろいろな人生を背負った人たちが来ていましたね。僕らみたいな、適当でいいかげんなタイプの人と違って真剣さを感じましたけど。

十八歳、東京キッドブラザースに入団

中野 では入団はそのままの流れで?
巻上 一応オーディションを受けました。高校三年の時、ニューヨーク、ロンドン公演をすると新聞で見たんです。オーディションは国立オリンピック記念青少年総合センターで行われて、東京キッドブラザースが少し有名になっていたせいか、結構な人数が受けに来ていました。そういえば、オーディションを受けるためにお金を払ったんですよ。そうやって劇団が資金を作るシステムを発明したのは寺山さんらしくて、このころから色んな劇団がやるようになったそうですね。東由多加という人は独特の演出術を持っているので、オーディションといえども、ほとんど演出している状態でした。「朝、何を食べてきたんだ」とか、そういうことを聞いていたみたいです……というのは、人数があまりに多いから僕は一次試験は受けずに無条件で合格になっちゃった。深水龍作(しんすい・りゅうさく)さんには、「何で来たんだ。お前なんか出るところがないよ」と言われたけど(笑)。二次試験は歌でした。「タイガーマスク」の歌をうたいました。この時、同期の中尾幸世が「ラバウル小唄」を歌ったのをよく覚えています。
中野 それで合格して入団。まだ小田原高校在学中ですよね。
巻上 両親は「何をやっているんだ」と怒ってましたし、同級生で大学に行かなかったのは三人ぐらい(笑)。進学校だったので三年は自習がほとんどで、行かなくても関係なかったんですね。渋谷の南平台にあった事務所にはよく泊まっていましたが、入団して東京に出てこなくちゃいけないということで、東京キッドブラザースのパーティーで「高校生だからどこに泊まっていいか分からない」と言ったら、清水さんという放送作家の女の人が、「自分の部屋が空いている」とタダで貸してくれたんですよ。四畳半の書斎に、演劇やコクトーやシュールレアリスムの本、いろいろあって読み放題。もうラッキーとしか言いようがない(笑)。そこから毎日稽古に通っていました。あのころは森ビルの森さんとか、東さんを支援する人たちが何人かいて、そのつながりで赤坂や溜池近辺の広い一軒家を稽古場に使ってました。
中野 『ザ・シティ』[一九七四年一月・ヤクルトホール]の稽古ですね。皆さんはアルバイトしながら稽古していたわけですか?
巻上 稽古は朝から晩まで大変で、アルバイトしている人はヘロヘロだったんじゃないですかね。僕は「寺山さんに会えたらいいな」なんて不純な気持ちで入ったし、スタッフ希望だったので、役者をやりたいとはみじんも思っていない。いつも自分の場面が来なきゃいいなと思っていましたし、周囲とのギャップが大きくて、みんなすごいなと思って感心していました。『ザ・シティ』は皆川博子さんの小説『トマト・ゲーム』[講談社・一九七四年]が原作で、元はセリフがあまりないんです。だから登場人物たちをどう生かすかは東さんの創作。主役である日本人とアメリカ兵とのハーフのボクサーを、ポール脇さんという人が演じましたが、彼自身の人生を役に照らし出すためにいろいろ手を尽くして、深いところに演出で迫っていくんです。すごく怖いですよね。東京キッドブラザースはモノローグが特徴的で、それによって役と実人生の関係が浮かび上がり、あいまいな形でミックスされて出てくるというのが得意だった。でも僕は全然そういう感じの役じゃなかったんです。何でかというと、「お前はちょっと出てくるだけで面白過ぎる」と言われて、笑わせ役になったのですごい楽でした。
中野 キッドとしてはかなり珍しい役ですね。
巻上 そうなんですよ。でもちょっとがっかりしたところもある。「深水三章さんみたいに、かっこいいモノローグを言いたいな」と思っているのに、それをやったらみんな笑うんですよ。熱くなれないというか、自分の中に冷たい部分があるみたいで、何を言ってもウソにしか見えないと言われて。作品に対してもそういう面があって、一回東さんに「台本が図式的過ぎて、これじゃダメなんじゃないですか」と言ったら気分を悪くしたらしく、次の日から全然演出してくれなくなっちゃったんです。海外も行けなくなるかもしれないと思って、慌ててゴマをすりましたよ。高校生が意見なんて言うもんじゃないですね(笑)。だけど常に分析的で、生意気だったんです。東さんは演出家として才能があったと思いますし、特別な才能を持っていた人。稽古場ではいろいろなもの投げたりしたけれど、そういうシーンに出てないので、僕はコワい思いはしてないです。だから本当にラッキーで、常に客観的に見る立場にありました。基本的にセリフはエチュードでつくるので、どんどん役者の言葉が採用されていく。結局、僕のセリフは全部僕が書いた言葉でした。そういえばガードマン役の斎藤正一さんのセリフを見たら、半分ぐらい僕が書いた言葉が採用されてて(笑)。コラージュの才能があるというか、そういうところが東さんの面白いところなんじゃないかな。演者から引き出したものをまとめていくんですよ。それで各自が随時セリフをもらっていくので、まとまった台本はないんです。
中野 上演を重ねていくうちに、内容は変化していくんですか?
巻上 かなり変わっていきますし、当日までセリフを入れ替えていたと思いますね。東京初演当初、一月の『ザ・シティ』は四時間ぐらいあったんじゃないかな。大雪が降って、開演が一時間ぐらい遅れたこともありました。

タフな経験が詰まった海外ツアー

中野 七月には『The City』として、ラ・ママ公演のためにニューヨークへ渡るわけですよね。
巻上 中心の人は違うと思うんだけれど、僕ら新人は十万円払って連れてってもらうというシステムでした。でもいろんな人が餞別をくれたんで、ありがたいことにお金はすぐに集まったんですよ。そういう時代。ハワイ経由のパンナムだったんですが、ハワイで止められちゃったんです。英語のパンフレットと舞台装置の一部分を持ったワケの分からない人たちのパスポートを見ると観光ビザですからね。ハワイで四時間ぐらいあったんですけど、まったく外に出られなくて。でも結局、ラ・ママの弁護士が交渉してくれたんだと思うんですが、ニューヨーク行きに乗せてくれたんですよ。公演中だか公演後だったか、ビザのことでオフィスに取りに行った思い出があります。劇場が手を尽くしてくれて、現地で延長もできた。今はそんなことできないでしょうね。
中野 公演の評判はいかがでしたか?
巻上 微妙だったんですよ。ニューヨークタイムズの評も悪くはないけど煮え切らないから、お客さんの入りも中途半端になる。そうすると、その公演を「閉じるしかない」となるんですよね。
中野 客席の反応が微妙な感じは肌で感じましたか?
巻上 いや、それはないんですよ。お客さんには受けていましたし、面白がってましたよ。だって、あんな狭い旧ラ・ママ劇場にバイクが走って出てくるんですから、あり得ないですよ。当時のフィルムが残っていますが、今観ても歌は下手ですけど力強さがありますし、ああいう激しさというのはアメリカのミュージカルにはなかったと思います。
井上 映像が残っているんですか。
巻上 向こうの人が撮影した『The City』のフィルムをDVDに焼いたものが丸ごとありますよ。一部の人しか持ってないかもしれないんですけど、同期の堀勉さんも持ってます。堀さんとは今でも仲がよくて、会うとニューヨークの思い出話が終わらないんですよ。一日しゃべっちゃう(笑)。
中野 セリフは英語でしたよね?
巻上 はい、大変でした。高校レベルの英語で何とかなるようなものしか僕のセリフには出てこないのですが、公演を経るごとにどんどんセリフも役も増えていって、ニューヨーク公演中はアドリブまで言わなきゃいけなくなっていたんです。開演前に東さんが来て、急に「これを言え」とセリフを渡す。僕は、ケンタッキーフライドチキンの店員とガードマンという、お客さんと舞台をつなげるような役で、モーターバイク族の少年の役でも出ているので、初めてなのに三役もやってたんです(笑)。一瞬で着替えたり、いろいろな技が身に付きましたね。
中野 ラ・ママの後、オフブロードウェーで少しだけ公演しましたよね。
巻上 ラ・ママはある意味成功だったんですが、その後が大変だったんです。煮え切らない評だったので、きちんとオフに上がれなかったのが東さんは嫌だったみたい。ラ・ママで評判になった『黄金バット』[一九七〇年六月]の成功が頭にあったんだと思う。あれは本当に成功して、今もニューヨーク公立図書館の舞台芸術分館に斎藤正一さんが着ていた衣装があるらしいですね。そんな日本のカンパニーは、たぶん東京キッドブラザースだけじゃないでしょうか。
 『The City』オフブロードウェイ公演は、借金をして十年間閉じていた劇場を借りたんですよ。ラ・ママのエレン・スチュワートはすごく反対していました。劇場もあまりよくないし、閉じていた劇場だからドレッシングルームは幽霊が出そうな雰囲気で、そんな場所に全員で泊まっていました。ラ・ママの時は宿が劇場から提供されていたけど、このころは給料は出なくなるし、急につらくなりました。
中野 観客も、もうほとんど来ない?
巻上 二人くらいしか来ないときがありましたよ。ニューヨーク公演をやりながら東さんも、ロンドン公演で何をやるべきか考えていたと思うんですね。あと、お客さんが少なかったから借金が返せなくて、とにかくやらざるを得なかったんですよ。だから夜逃げしたんです。ある朝方、劇場で寝ていたら「出るぞ、荷物をまとめろ」と言われて起こされたから、朝逃げなんだけど(笑)。慌てて支度をして、飛行機の手配が整うまでの二、三日はYMCAで過ごしました。ラ・ママ公演がロンドンのロイヤル・コート・シアターから出たお金を元にして行っていたので、ロンドン公演のお金をニューヨークで使っちゃったみたいで。公演中も一人減り、二人減り、ふけちゃう人たちも出てくるし、だんだん一人の受け持つセリフも増えるし。こうなってくると、けんかも起こるし。
中野 そんな状態でロンドンへ移動したわけですね。
巻上 でも劇場に着いて感動しましたよ。ロイヤルコートはネオンサインを出してくれるんですよ。「東京キッドブラザース」ってサインを見た時は「来てよかった」と感動しましたね。楽屋に入ったときに自分の名前が入ったカードと、ワインとチョコレートが置いてあって。プロの役者みたいだと思いました。
中野 ロイヤルコートでの反応はいかがでしたか。
巻上 ここでも微妙で、東さんは評判になると思っていたから悔しそうでした。ロンドンでは英語を全部直さないといけないし、劇場が用意した先生について発音の練習を嫌というほどしましたね。東さんは僕に演出しないので、ニューヨークのときもロンドンのときもムーブメントのテクニックなんかを向こうの演出家が教えてくれて、それはツイてました。ニューヨークでは、黒人のゲイの演出家で、稽古終りにやたらキスしてくるのにはまいりました……。いまだに覚えています(笑)。
中野 ロンドンで内容はまた変化したんですか?
巻上 下田逸郎さんが作った、なかなかいい曲がいっぱいありましたし、音楽は多分ほとんど変わってません。でも人数が減っているので作り直すのに少し時間がかかりましたし、『黄金バット』のような和風ムードを入れて日本語もだいぶ復活させ、煙に巻く作戦に出たんですよね。ニューヨーク公演は全部英語でしたけど、通じていたかどうかは分からないですし。海外はユニオンの規定でミュージシャンの人が時間ぴったりに帰っちゃうので、ニューヨーク公演では東さんが、初日の前に全員クビにしちゃったんです。日本から一緒に来たドラムとピアノだけがいて、ロックミュージカルの編成じゃなかった。でもロンドンはバンドリーダーがリンゼイ・クーパーで、彼が集めたいいグループが本当に素晴らしかったんです。ロンドンは左翼が強いですからリンゼイはその仕事をしたために「商業的なものをするな」と、ヘンリー・カウと仲がちょっとうまくいかなくなったとか。その辺のミュージシャンは大体、共産党的な活動をしていましたし、特にカンタベリーシーンはその傾向が強かったです。
中野 「日本から来たものはオーケー」とはならないわけですね。
巻上 ロイヤルコートの公演イコール商業主義ということでしょうね。でもロイヤルコートにはシアターアップステアーズという劇場があって、そこで成功して世に出て行った実験的な先鋭演劇というのもあるんですよ。『ロッキー・ホラー・ショー』もそうでしょう? ロンドン滞在中、劇場に声を掛けてもらって、ジム・シャーマン演出のプレミアに招待されて観ましたよ。彼はオーストラリアの演出家で、『ヘアー』日本版の演出もしましたね。
中野 公演の合間に観に行ったんですか?
巻上 ええ、ニューヨークでもロンドンでも面白い芝居をいっぱい見られたというのはラッキーでしたね。ニューヨークではアンドレイ・シェルバンの『トロイアの女たち』をコロンビア大学で観ました。芝生で待っていたら古代ギリシャ風の楽隊がずっと向こうの方から演奏しながら来るんです。お客さんはその楽隊について建物の中に入き、いろいろな場所で演劇が起こっているのを見て回るという芝居でした。僕がニューヨークに行った一九七四年前後というのは、ブロンディ、トーキング・ヘッズ、ニューヨーク・ドールズ、ラモーンズと、ちょうどニューヨークでニューウエーブが出てきたころ。東京キッドブラザースが好きな女の人に招待されて彼女の部屋に行くと、マイク・ブルームフィールドなんていう、有名なブルースギタリストがいたり。彼はボトムラインというライブハウスに出ていて、そこにもよく見に行きました。あと、バスター・キートン、マルクス兄弟、ハロルド・ロイド、昔の喜劇の人たちの映画を特集でやっていて、ほとんど見ました。十八歳でいいものを見られたなと思います。
中野 巻上さんはロンドンで、東京キッドブラザースの先輩である楠原映二さん[一九四七〜二〇一〇年、英国でルミエール&サンやRSCの舞台をはじめ、ドラマ、映画に出演]とお会いになります。その時すでに楠原さんは劇団をお辞めになって、ロンドンのフリンジ劇団「ルミエール&サン」に出ていらしたんですよね。
巻上 はい。ルミエール&サンは、行った時にちょうど上演していた『TRICKSTAR』を観ましたが、ヘンリー・カウのバンドで、かなりかっこいいロックをやっていました。キッドのロンドン公演ではバンドの手配をおそらくルミエール&サンの演出家ヒラリー・ウェストレイクがやったんだと思うんですが、そんな関係でリンゼイ・クーパーと楠原さんがロイヤルコートの隣のパブに来てよく話をしていたんですよね。ちょうど公演が終わるころ、東さんがロンドンのラウンドハウスでもう一本作りたいと言い始め、残るか辞めるか決断しなきゃならなくて、辞めることにしました。それからしばらく、ヒラリーさんの家に泊まっていました。
中野 ヒラリーさんは、即興性の強い演出ですよね。
巻上 僕が舞台で即興的に演じていたのを見て、誘われたようです。ルミエール&サンでのやり方は楠原さんからだいぶ教わりました。例えば「今度の演劇は足、靴、女王陛下の新聞というのをテーマにします」という課題が出ると、役者たちが「足に関してはこうしたい」「靴はこうしたい」と、いろいろなリクエストを出すんです。作家のデビッド・ゲールという人がそれを聞いて、みんなの意見が入った台本を作って構成が決まり、段取り合わせをするだけで、あとはほぼ即興でした。僕が出た公演は『TIPTOE CONDITION』と『TIPTOP CONDITION』の二本。内容は、まずヒラリーが長いパラシュートのスカートを着て、高い段に乗っているんです。それが開くようになっていて、中に隠れていた役者がそこから出てくる。彼女も僕らも、地球外から来た宇宙人という設定で、合図があるとゆっくり動き始めたり前に行ったり、次の合図では好きな動きをやる時間になったり、「ディーディディー」と呪文的な言葉が入ったり。演奏はリンゼイさんが一人でパーカッションで入れていました。ヒラリーさんはその後、女王陛下の在位五十周年戴冠式のパレードも演出したくらいだから、演出家としてはかなりな人です。
中野 それぞれ、どのぐらいの長さの作品ですか?
巻上 二十〜三十分で、たぶんフリンジフェスティバルに出すように短く作られていたんです。驚いたのは稽古中、「ティーブレーク」とか言ってやけに紅茶を飲む休み時間が入ること。キッドでは激しい練習をしていたので衝撃でした(笑)。
井上 貴族階級出身の人たちが多かったんでしょうかね。
巻上 みんなケンブリッジ出身です。
井上 やっぱり。だから、ティータイムは確保するんですね。じゃあ、客層もそういう感じの方たちですか?
巻上 劇評家なんかも非常に紳士的な人たちが来ていました。ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズがスポンサーでお金を出してくれたり、ヒプノシスのストーム・ソーガソンという人が劇団にいて、ポスターはすべてヒプノシスが手掛けるという超豪華なかっこいいものでした。またみんな仲がいいんです。

キッドファンが押し寄せたミスタースリム

中野 その後、巻上さんは日本に帰られ、一九七五年、原宿学校に入ります。
巻上 公演が終わって、「残っていい」と言われたんですけど、東京キッドブラザースから帰りのチケットはもらっていたし、一度日本へ帰ってリセットしようと思ったんですね。でもロンドンに戻るにはお金を貯めなきゃいけないですし、帰国したら何かを失っちゃったような、メランコリックな精神状態になって。何かしなきゃいけない、まずは東京に出る理由がほしいと学校を探したら、授業料が安い原宿学校を見つけました。演劇科もあったようですが知らなかったですし、海外であまりにも面白いものに接してしまったので、普通の演劇をやる気はゼロで、映像クリエーター科でシナリオを学ぼうと決めた。『エロス+虐殺』の脚本[吉田喜重との共同脚本]の山田正弘さんや、フィルム撮影の授業では『怪奇大作戦』の的場徹さんに習いました。月に一度、佐藤重臣さん[『映画評論』編集長、評論家、コレクター]の授業も面白かったですね。ちょうど実験映画が盛んな時代で、ケネス・アンガー、スタン・ブラッケージなど、随分見せてもらいました。
中野 映画の世界に行こうとは思わなかったんですか?
巻上 映画は作ったけど、うまくいかなかったんです。でも、中学の美術部のときに『美術手帖』を見て、「スクラッチングが面白い」と思って、8ミリのくずフィルムを現像所にもらいに行ったりして、スクラッチング作品を編集してました。ませガキですね。そういう体験があったので、実験フィルムにもともと興味があったんです。
中野 一九七五年十一月には、深水三章主宰のミスタースリムカンパニー旗揚げ公演『MR.SLIM』に参加します。
巻上 原宿学校に通っている時に三章さんから電話が来て、「ミュージカルをやりたいから手伝ってくれないか?」と言われたんです。ブロードウェーで『グリース』を観て、彼にはすごくそれが面白かったみたい。「ロックンロールはそんなに好きじゃないけど、台本と制作の手伝いはします」と、手伝うことにしたんです。日活映画なんかの脚本を手掛けていた人が台本を書いていたんだけど、「かっこよくないな」と思って勝手に直したりしました。ひどいやつですね。
井上 劇団の中で、「直そう」となったわけですか。
巻上 いや、みんな知らないです。制作だからできちゃうんです。
井上 脚本を書いた方にはバレますよね。
巻上 バレますね。でも大丈夫です、演劇だから。
中野 第一回公演の評判はどうだったんですか。
巻上 六本木のアトリエフォンティーヌの前にものすごく並んじゃって、すごかったんですよ。僕も二百枚以上の券を売りました。林美雄さんというラジオDJが宣伝してくれたのも大きかった。これは僕がラジオを聴いていて、「この人は分かってくれるかな」と思って、ツテを頼ってお会いしたんです。「自分が面白いと思ったものしか取り上げない」と言われたけど、来てもらったら感動してくれて、取り上げてくれたんです。
中野 ミスタースリムカンパニーに対して、お客さんから「東京キッドブラザースを裏切った」という見方はなかったんですか?
巻上 ないですね。東京キッドブラザース自体が完全になくなった状態でしたから。残っていたのは国谷扶美子さんだけで、あと全員辞めちゃって東さんも相当落ち込んでいたみたいだし、みんな東さんの悪口を言っていて、大変そうでしたね。完全に分裂した状態です。
中野 じゃあ、ファンにとっては、東京キッドブラザースが公演しないから、ちょうどいい団体が出来たという感じだったのかもしれませんね。
巻上 三章さんを中心にみんな出ているわけですから、そうでしょうね。この公演中、アンドレイ・シェルバンの『トロイアの女たち』に出ていた龍作さんが帰ってきて、「これは続けなきゃだめだよ」と言って、リーダーになるんです。感心したのは、龍作さんがシェルバンの影響をすごく受けていて、かなり前衛的なシーンを作っているんです。単なるロックンロールミュージカルではなくて、あれはびっくりしました。いろいろなことを吸収して帰ってきた。龍作さんは演出家として実はすごいものを持っているのに、評価されてないですね。
中野 そんなに好評だったのに、巻上さんは一回公演しかかかわらなかったんですよね。
巻上 コンセプト自体が自分とテイストが合わないと思っていたので、一回だけお手伝いしますという約束でしたから。でも、結果的にはその後も手伝ってます。時々、龍作さんから電話がかかってきて、「おい、やるだろう」と言われて、しょうがなく。ある公演では、舞台監督と舞台装置、両方をやっているんですよ。装置なんて勉強したことないし、あり得ないでしょう。でも当時は「どうやったらタダで装置が作れるか」とか、すごく頭が働いたんです。「スリムはアメリカのロックミュージカルの世界だな」と思って、コカ・コーラに電話して販売機を一定期間レンタルし、舞台の真ん中にセットする。それでベンチを二つぐらい持ってきて、舞台装置ができちゃった。中身のコーラ缶は個人的に買って、それを劇団員が買うからもうかるんです(笑)。ギャラはもらえないですから、自分で稼ぐしかない。

ユリシーズ旗揚げ、自分の表現を追求

中野 やはり自分の世界を表現するために、一九七六年に劇団ユリシーズを作ります。名前の由来はジェイムズ・ジョイスですか?
巻上 そうです。「ユリシーズ」は高校時代に使っていた団体名で、先ほどお話した高校の同級生に台本を頼んだんです。
井上 古屋健さんですね。
巻上 彼は早稲田大学に通っていたのですが、状況劇場も天井棧敷も、ずっと一緒に芝居を観に行っていた仲でした。余談ですが、僕は天井棧敷はほとんどの公演をタダで観せてもらっているんです。何で親しくなったか分からないんですけれど、制作の小沢洋子さんがすごく優しくしてくださって、海外公演の資料なんかを送ってくれていました。九條今日子さんも親しくしてくださって、寺山さんの一周忌にも出ています。寺山さんのファンだということが分かったんでしょうね。実はキッドを辞めて帰ってきた後、寺山さんが『日刊ゲンダイ』で持っていた「人生万歳」というコーナーがあって、結構な量のルポを長いこと僕が書かせてもらっていました。寺山さんの指示で、「暴走族の取材に行ってくれ」とか「東大卒のホームレスの人にインタビュー」とか「自動販売機を回って百円玉がいくら集まるか」とか取材に行くんです。
中野 寺山さんの印象はいかがでしたか?
巻上 東京キッドブラザースのパーティーなんかに必ずいらしていたので、数回お会いしたことはありますが、寺山さんが体調を崩されていた時期だったので、なかなかおしゃべりができなかったんですよね。僕、声が大きかったので「いいね、声が大きいのは」と言われたことはあります(笑)。
中野 いまさら天井棧敷に入ろうという気はないですよね。
巻上 なかったですね。若松武さんや福士惠二さんなんかを見ていて、役者が大変そうで……「あんな逆さで歩けないよ」と思って。
中野 天井棧敷は演技がアマチュアチックだったという人もいますが、巻上さんはどういう印象でしたか?
巻上 いや、やっぱりイメージの劇場ですよね。寺山さん自身も、セリフは聞こえなくてもいいと言っていますし、そういう意味で「観客はすべての世界とはかかわれない」と言っているわけじゃないですか。一個一個イメージを提出する舞台で、戯曲としても全部完結しているわけじゃないところがあるんだと思います。
中野 むしろ演劇の枠を壊していこうということが、巻上さんにとっては面白かった?
巻上 面白かったですね、やっぱりはみ出していくエネルギーがすごいですし、それをずっとやり続けていたというのに感動しました。
井上 七〇年代後半は早稲田小劇場もありましたし、つかこうへいが話題になってきたころですよね?
巻上 つかさんのところには井上加奈子さんをはじめ、小田原高校の先輩がいっぱいいたんです。だから、つかさんが慶應大学在学中に関わっていた「劇団暫」も数本観ましたが、「何で観客がこんなに笑っているんだろう」と僕はあまり好きになれなくて。どこかに入りたいなと演劇はいっぱい観ましたし、探していたんですけれど、結局自分でユリシーズを作りました。一度、東さんが麻布の天井棧敷館でやった『最後の晩餐』[一九七七年]を観にきましたよ。
井上 井上誠さんが、「東さんはモノローグ中心のお芝居だったけれどユリシーズを観たあたりから、ダイアログが増えてきた。もしかしたら巻上さんの影響じゃないか」とおっしゃっていました。
巻上 そうです、本人が言っていました。東さんが劇場「シアター365」を始める時期に、ものすごいセリフ量の僕の芝居を観て「セリフをやらなきゃ」と思ったみたいですよ。
井上 セリフ量を増やすというのは巻上さんのお考えですか?
巻上 古屋と「シェークスピアのような、過剰なるセリフをやろう」というテーマを打ち立てたんです。初期は、いつまでたっても解けない謎という哲学的な問いを推理劇に置き換える手法で、完全に埴谷雄高に影響されていますけれど。音楽は、最初はヒカシューのメンバーになる三田[超人]さんがやってくれていて、次は山下康です。照明は行田藤兵衛さんという黙示体の演出家に頼んでいたので、山下は僕が黙示体に出た時に会ったのかな。
中野 黙示体は脚本[・主演]を花輪あやさんが手掛けていましたね。
巻上 才気があって才能のある人だと思いました。とにかく台本が優れていましたね。「宍戸錠と赤木圭一郎がどこかの公衆トイレから出てきて……」みたいな日活映画をテーマにした芝居で、それは良く出来ていました。
中野 ユリシーズの初期から音楽は生演奏で?
巻上 当初は既成曲をテープで出してましたが、山下さんと出会ってやっぱり生演奏にしたいと思いました。ちょうど楠原さんがロンドンから日本に帰って来た時期があって、一緒にルミエール的な芝居を一本作りたいと、井上君と山下君を引き合わせて音楽を作ってもらうことにしました。
中野 それが『コレクティング・ネット』[一九七七年九月、キッド・アイラック・アート・ホール]。それまでのユリシーズのやり方とは違う舞台なわけですね。
巻上 全然違うんです。だから、東京キッドブラザースの純アリスや三浦浩一が東さんからセリフ劇だと聞いて見に来たのに、全然セリフがなくてがっかりして帰ったのを覚えています(笑)。当時、『ぴあ』は自分が書いた文章が載る時代だったので、「ピンク・フロイドがスポンサーをする劇団の俳優が出る」と書いたら、お客さんが来すぎちゃって、何百人も並んじゃったんです。シンセサイザーやシタールを生演奏で聞かせる編成の芝居で演奏スペースもとりますし、劇場が狭くてほとんどお客さんを入れるスペースがなかったので、ギュウギュウに詰めて、一日二、三回やりました。枯れ葉を二トン敷き詰めて、その中に役者たちが三十分埋まっているという虫の一生を表現した芝居で、観客席に虫取り網[コレクティング・ネット]がバーンと出てきたり、前衛パフォーマンスですね。偶然、ニューヨークやロンドンでそういったジャンルが始まった時期とリンクしているんです。
中野 そのあたりから音楽への興味にシフトしてきた?
巻上 そうですね。その時、山下さんだけではなくて僕も作曲していて、次の『幼虫の危機』[一九七八年、江古田マーキー]でも何曲か作りました。それがバンドになっていくきっかけです。

バンド活動開始、ヒカシュー誕生

中野 『幼虫の危機』がユリシーズの最終公演ですよね。
巻上 そうです。演劇をやるお金がなくなって、やめざるを得なかったので、バンドをやろうと。ニューウエーブとかパンクなどプリミティブな表現が台頭してきた時代で、山下さん、井上さん、高校の同級生の海琳正道(現・三田超人)、友人の弟の戸辺哲とバンド「ヒカシュー」をつくりました。
井上 同時代にはピーター・ガブリエル、ケイト・ブッシュ、デヴィッド・ボウイなんかのシアトリカルなパフォーマンスをするミュージシャンがいましたけど、そこは意識されなかった?
巻上 いや、すごく意識しましたし影響を受けました。パフォーマンス性は重要視していました。
中野 一九八〇年十月に『プヨプヨオペラ』[久保講堂]を上演しますよね。
巻上 すごく変なものでしたよ。外でお客さんが待っていると、出演者が宗教の勧誘に来るというオープニングで、室伏鴻さんの舞踏派「背火」、カルロッタ池田さんの暗黒舞踏「アリアドーネの会」が参加してくれました。身体をテーマにしたアルバム『うわさの人類』[一九八一年]を出す時に、室伏さんとカルロッタさんにしばらく舞踏を習っていたこともあります。
中野 たくさんのミュージシャンが参加した「浅草国際大晦日ロックコンサート」にも出演されます[一九八〇年十二月、浅草国際劇場]。
巻上 円形の素晴らしい劇場で、確か突き出しで舞台を作っていて、お客さんと近いようなところでできるような舞台装置を作っていましたね。あれは[内田]裕也さんのセンスなんじゃないかな。素晴らしいシステムで、ギャラは出演者全員均一、みんな裕也さんにもらいに行くんです。僕、東京キッドブラザースに入ったばかりのころ、キャロルのさよならコンサートとか、よく手伝いに裕也さんのところに行っていたんです。龍作さんに頼まれておつかいにも行っていたし。
中野 一九八一年七月、エピキュラスで行われたヒカシューコンサートの美術は、小竹信節(こたけのぶたか)さんを起用していますよね。
巻上 小竹さんは天井棧敷のツテでお願いしたと思いますが、一緒に遊ぶようにアイデアを出し合いました。初めての大きなコンサートだったので、自分の演出家的な視点を試したいと思ったんです。フリークスをテーマに、僕が小人で出てきて、歩いているうちに巨人になっていくというパフォーマンスをしたり。最初は身体を折っていて小人のように見せ、観客に分からないように徐々に後ろから人を入れるとデカくなってきて巨人みたいに見えるんです。そのころ三宅一生さんのところにいた若いデザイナーの田中啓一[爆笑問題・田中裕二の実兄]に頼んで衣装を作ってもらいました。
中野 同じ年にニッポン放送でラジオドラマ『超少年』を作・演出されています。
巻上 『超少年』という主題歌も作りましたよ。確かその前にラジオドラマ『三銃士』で音楽と出演もしていて、ニッポン放送の人と懇意になって台本を頼まれ、古屋君と共同で書きました。『三銃士』は結構豪華メンバーで、川崎麻世さん、野沢那智さん、納谷悟朗さん、伊武雅刀さん、戸田恵子さんが出演されてました。『18才のドンキホーテ』というタイトル曲も作りましたね。
中野 一九八二年四月『仏の出口』[スタジオ200]は、フランスのダンサー、ベアトラン・レゾンさんとのジョイントライブですね。
巻上 確か、彼が音楽を頼んできたのが出会いのきっかけです。ベアトランのイリーナというパートナーは共にマース・カニングハム舞踏団にいたこともあって、そういったスタイルのダンスも面白いと思ったんですよね。ベアトランとは、その後も中野のPLAN=Bで、音響詩を使ったパフォーマンスを一緒にやりました。
イリーナさんは、COMME des GARÇONSの広報、ベアトラン・レゾンさんは、 サルトルが作った日刊紙Libérationの記者もしていました。小説家の藤田宜永さんともベアトランの関係で知りあいました。
中野 この年、パフォーマンス集団HAND-JOE[南伸坊、平岡正明、上杉清文、末井昭など]にも参加しますね。
巻上 白夜書房の末井昭さんのところでいっぱい原稿を書いていた関係ですね。このころ、所属していたアミューズを辞めて路頭に迷っていたら、末井さんたちが「HAND-JOE」というのをつくって高田馬場に部屋を借りるから、「そこを事務所にすればいいよ」と言われてお借りしたりもしていました。
中野 この年の十一月に「団鬼六パーティー」に参加されてますが、これはどういうつながりだったんでしょう?
巻上 それは、ヒカシューの『うわさの人類』をすごく褒めてくれて、批評を書いてくれた平岡正明さんとのご縁ですね。平岡さんの依頼で演奏しに行きました。その後、鬼六さんの家にも行ったり、スッポンをごちそうになったり、鬼六さんに言われて演歌も作りました。世には出なかったけど。
中野 このあたりからサブカルチャー的な交友関係が広がっていきますけれども、一九八四年五月、寺山修司作、萩原朔実演出『時代はサーカスの象に乗って』[パルコ劇場]に出演しますね。
巻上 寺山修司だから興味を持ちましたが、萩原さんと自分は大きく感覚が違いましたね。楽しんで出ましたけど。

スネークマンショーからアラバールまで

中野 巻上さんの演出方法についても伺えますか?
巻上 セリフ劇をやる時は普通に本読みをやって、きっちりやりますし、即興的なものはほとんど排除します。即興には即興のための演劇があるので、目的が違うんです。台本には目指す、伝えるべきものがあるじゃないですか。それを掘り起こさなきゃいけないという意識がありますし、そこはまじめなところがありますね。指示はすごく細かいです。きっかけが何百もあって、細か過ぎて役者はみんな覚えきれないです。でも僕が覚えているから大丈夫。
中野 音楽の提供をされる時は?
巻上 演出家の話は半分聞きます。あとの半分は台本を読んで、演出はこう言っているけど、自分が目指しているのはこうだなとか、自分なりの批評を加えて作ります。
中野 常にスタンスは演出家なわけですね。
巻上 そうです。でも、言い過ぎないように気を付けていますよ(笑)。
中野 一九八五年三月に劇団青い鳥『CLOUD 9』出演というのは、どういうご縁で?
巻上 青い鳥の制作をしていらした長井[礼子]さんは、『黄金バット』に出ていて、東京キッドブラザースの先輩なんですよ。しかも、僕が高校の新聞部でウーマンリブの取材をした時にお会いしたこともある(笑)。ある日、青山を歩いていたらばったり長井さんに会って、「そうだ、巻上君がいいね」と言われて公演に誘われました。
中野 一九八五年の活動は特殊です。『CLOUD 9』に出て、四月は小林紀子バレエ団『そばでよければ』[郵便貯金ホール]の音楽を手掛けます。
巻上 ニコラス・ディクソンという振付家に依頼された公演ですね。ニコラスとそば屋に行って、そこで「そばをテーマにしよう」と決めたんです。初演は香港のユースフェスティバルで、めちゃくちゃ受けました。そばを持って踊るんですから、すごいですよ。小林十市君も出ていました。
中野 十一月はアラバール作・演出の『大典礼』に出演。
巻上 あれは大変すぎて記憶がないんです。アラバールは自分のSM的な部分を作品に織り込んでいて『大典礼』もそうですよね。稽古中にアラバールに「もっと痛い表情をしてほしい。痛いのをやってあげる、手を出して」と言われて小指を折られたんです。本番中ギプスを外して痛さを我慢していたら、精神的なストレスのおかげで、一回、声が出なくなりましたから。アラバールがスペイン語なまりのフランス語で演出して、一緒に来日していた愛人が普通のフランス語に直して、通訳の人が日本語にするんです。でも、そもそもアラバールが言っている意味がよく分からないわけ。美輪明宏さんなんかが、「こういうことなんじゃないの」と解釈して演出してみるけど、アラバールは「違う」となってまた頭に戻る。一シーンをやるのにものすごい時間がかかって、あんなに大変な現場はなかったです。
中野 この前後からヒカシューは、コント赤信号やダチョウ倶楽部など、お笑いの人と一緒にライブをやっていますよね。YMOがコラボレーションアルバムを出したコントユニット「スネークマンショー」なんかを意識したものだったんでしょうか?
巻上 コント赤信号の小宮孝泰は小田原高校の同級生ですし、仕事は頼まれたら断らないという(笑)。プラスチックスと仲がよかったので、スネークマンショーはラジオに時々出ていましたよ。プラスチックスを面倒見ていたのがペーター佐藤さんで、ペーターさんは『黄金バット』のメンバーなんですよ。
中野 一九八七年二月、元ロイヤルバレエのニコラス・ディクソン、小竹信節さんと創作バレエ集団「チュチュランド・アカデミー」をつくりますね。
巻上 これはニコラスから誘われました。作・演出を手掛けた『あたま割り人形』[十月、パルコSPACE PART3]では上野耕路君に作曲を頼みました。豪華な衣装はデザイナーをロンドンから呼んで[マーク・アスキン=プリン]、相当な赤字が出ましたね。

フォアマン作品への共鳴

中野 そして一九九二年、リチャード・フォアマンの舞台をご覧になり、ニューヨークでお会いになりますね。
巻上 ニューヨークに行った時、学生時代にリチャードさんの手伝いをやっていたというジョン・ゾーンと一緒に『マインド・キング』を観て、すごく感動したんですよ。ジョンに「日本でやりたい」と言ったら、次の日「今日フォアマンのところに行くから一緒に行こう」って連れて行ってくれました。そうしたら、リチャードさんに会った途端「いつやるの?」と聞かれ、次に台本をもらい、日本で上演することになりました。一言で実現するところがすごいですね。それが日本にリチャード・フォアマンを紹介する「フォアマン・プロジェクト」になっていった。[共に同プロジェクトの中心となる]鴻英良(おおとり・ひでなが)さんは、僕がフォアマン作品をやると聞いて電話をしてきてくれたんです。
中野 正直、リチャード・フォアマンを日本でやって、うまくいくという自信はありました?
巻上 ありました。音楽はジョン・ゾーンのオルガンの生演奏と、ウィリアム・ウィナントいうすごいパーカッショニストで、最高でした。
中野 フォアマンを観て、巻上さんに、また新しい何かをやりたいという気持ちが出てきたという感じですかね。
巻上 そうですね。ヒカシューの中に違う要素を入れていきたいと思いました。ヒカシュービジュアルコンサート『あっちの目こっちの目』[一九九三年・青山円形劇場]では、コンピューターグラフィックをやるようになり、即興性も生かして、その場で音楽が変わったり、アニメーションをその場で書いたり、ちょっと変わった試みを始めました。誰にも理解されなかったけど(笑)。
中野 今のコンサートの雰囲気に近いですよね。コンピューターのような管理されたものと、即興性を合わせるのは難しいんじゃないでしょうか。
巻上 「合わないものをどうするか」というのがずっとヒカシューのテーマなんですよ。管理社会とアナーキズムの混合がもともとバンドのテーマで、それを今もずっと生かしているんです。「つまづく」とか「うまくいかない」ということも考え続けていて、リチャード・フォアマンの中にそういったテーマがいっぱい内在していることに感動したんですよね。自分が考えたことをこの人はものすごく具体的に、しかも自分の理論として完成させていたんです。
中野 そのころヒカシューのファンは、どう受け取っていましたか?
巻上 ファンのことはあんまり考えてなくて(笑)。本当にパーソナルなことをやっていくというスタンスで自分の作品をつくるというのを、大きなテーマにしましたね。
中野 巻上さんがリチャード・フォアマンのことをお話しされると、だいたいユダヤ系の芸術のお話出てきますが、ユダヤ文化に対する関心というのはこのころからでしょうか。
巻上 たまたまクレズマーを演奏し始めて、ニューヨークのユダヤ人の友人ができてからですね。『マインド・キング』にもユダヤ教的なサインがいっぱい出てきますし、リチャード・フォアマン作品にはユダヤの神秘主義的なものが含まれているので、研究しなきゃいけないというのもありました。言葉をゲマトリア[数秘術、暗号解読法]で分析して、また違う言葉が生まれてくるとか、思想の冒険や思索するということに長けている民族で、その思索の過程が面白い。結論ではないんです。
 いろいろな芸術分野、ポピュラー音楽でもアメリカ演劇でも、ユダヤ文化的なものは重要なんですが、日本で研究したり追いかけている人が少ないんです。自分の力ではおよびませんが、少しは紹介していきたいという思いはありました。

音楽と演劇と即興の融合

中野 作・演出を手掛けたクレズマー音楽劇『Doina~哀歌~』[一九九五年二月・シードホール]あたりから音楽を中心にした演劇活動にシフトしてきます。
巻上 ユダヤのものは本当に紹介されてないし、演奏と演劇が合わさったようなものをやりたいと計画した公演ですね。インスタレーション的なものも含めた、いろいろなものが混じったことができたら面白いなと思って。
中野 巻上さんの演劇は、即興的なものとセリフがきれいに合わさっていますよね。一貫して同じことを追究し続けているということも伝わってきます。口琴を使った『ホムス〜ぼくは頭をびょんびょんした』[一九九八年一月・シアタートラム]はどうやって作ったんでしょうか?
巻上 音楽を主役にしたものを計画しました。音楽は準備したものと即興的なものが両方あって、どこで何をやるかはすべて決まっています。大体、台本は最後にできるんですよ。まず構成を考えて、そこでセリフも書く。基本的にはセリフは僕がしゃべって、その場で指示を出すので、出演者はセリフをあまり覚えなくていいし、あまり稽古しなくてもいいようにつくってあるんです。このスタイルはいろいろな経験で学びましたが、短い稽古期間でやる方法は高橋悠治さんから学びましたね。高橋さんの室内オペラ『可不可』[一九八七年十二月・築地本願寺講堂]に出た時、悠治さんが「二日間しかやらないのに一カ月も練習するのはおかしい、本当は二日間の稽古でいいはずなんだ」とおっしゃってて、そんな考えがあるんだ!と思って(笑)。でも、それを実際にやるにはどうしたらいいんだろうとシステムを考え、そのスタイルで何本か作っています。
中野 事前に完璧に形を作っておくというやり方ですね。
巻上 そうですね。神奈川芸術文化財団に頼まれて作ったマキガミックテアトリック 超歌唱オペラ『チャクルパッタム』[二〇〇六年九月・神奈川県立青少年センター]の時もすべての構成がコンピューターに入っていて、僕がその場で指示すればできるようになっている。稽古では動作を練習して、それが身に付けば大丈夫みたいな作り方をしました。このころニューヨークでもやった『シークレット・カンフー・シアター』[日本初演二〇〇六年七月・シアターχ]は、亡くなった自分の武術の先生を偲ぶ舞台で、実際にある演武を舞台上でやってみせたり、二胡やシンセサイザーを生演奏したり、音楽と身体だけで見せる一人芝居で、即興的な場面もある。セリフと途中で出てくる歌は全部英語で、[仏教遺跡の]莫高窟の話をずっとしているんですよ。ジョン・ゾーンには「すごく感動した、あんな芝居は観たことがないから、またやれ」と言われています(笑)。

演劇は「特別な世界」

中野 やはり巻上さんは特殊なネットワークで活動をされていますね。
巻上 基本的にプリミティブなものが好きなんですよ。ロシア・アバンギャルドに興味があるのも、ネオ・プリミティヴィズムに惹かれているから。リチャード・フォアマンにもそういうところがあるんです。
中野 ロシア・アバンギャルドにはずっと興味があったんですか?
巻上 学生時代から興味がありましたね。一九二〇年代周辺のものを集めていました。音響詩も勉強しましたし、「チャクルパ」シリーズは大体、音響詩人をテーマにしていて、ダダイストのクルト・シュヴィッタースの音響詩をモチーフにした作品も作りました。ヒカシューの詩も、シュールレアリスムやダダの影響はすごく受けています。
中野 演劇的なものとアバンギャルド的なものを、遊びのような形で組み合わせていくというのは巻上さん独特かもしれないですね。
巻上 他の人の演劇観とだいぶ違うかもしれないんだけど(笑)、「特別な世界がある」というのが僕の中の「演劇」なんです。
中野 巻上さんは活動の拠点が静岡ですが、そのほうが制作がやりやすいんでしょうか?
巻上 そうですね、東京にも魅力があるんでしょうけど、自分の仕事に集中したいというか、もういっぱい吸収したから自分のものをつくり上げたいという気持ちが強いんです。家に作ったスタジオにいる時間が多いんですが、何もしてないようにしか見えないらしく、家の者は「いつ仕事しているんだ」と言いますけど(笑)。
中野 日本人は即興的なものへの関心が、ちょっと薄いような気もしますね。
巻上 でも世界的にそうですよ。ニューヨークもヨーロッパも、即興演奏を見に行く層も、パフォーマンススペースも減っています。でも、本当のファンというのはやっぱり来てくれるので、それは大事にしたいですし、育てるしかないので。やり続けるしかないんですよ、それを。やめちゃいけないということなんですよね。やめちゃう人もいるんだけどね。
中野 今日は本当に長々とありがとうございました。