基本データ
取材日:二〇一六年十二月一日
取材場所:明治大学駿河台校舎
取材:神山彰・日比野啓・鈴木理映子・大原薫
編集・構成:大原薫
イントロダクション
藤木孝氏の名は、私の世代にとっては子供の頃、テレビを通しての印象が強烈である。その印象が消えにくく、藤木氏の舞台を見る際に、最晩まで、どうしても、「あの頃」からの時間や変貌という事を離れることは、最後までできなかった。
このインタヴューの際にも、多様なジャンルでの演劇シーン、舞台での活躍について伺うのが主眼であるのだが、「芸能活動」の出発点を飛ばすわけにもいかないので歌手時代のことからお聴きしたが、厭な顔もせず、圧倒的人気を誇った「あの頃」の思い出や裏話も話してくださり、有難かった。
デヴュー当時、日本では、誰も知らなかった「ツイスト」を米国帰りの渡辺美佐が土産のレコード掛け、メリー喜多川と二人掛りで手とり足取り教わり、身に付けていったというような回想は、楽しくも貴重だった。その豪華顔触れ、垂涎の話題で、私がプロデューサーなら、テレビドラマ化したいところである。
その一九五〇年代末からのツイストから、私の記憶は始まる。「二万四千回のキス」の曲調と歌詞の面白さ、今でいう「眼力(めぢから)」の凄味と迫力は、私たちテレビ第一世代の少年たちを吸引して止まなかった。「踊るコンダクター」スマイリー小原との「ツイスト合戦」は、何かの映画でも再現されている。あの片足立ちのツイストのスタイル当時、私は十歳前後、その時期には男児より先に大人びてしまう女児の同級生に白眼視され、軽蔑の眼差し受けながら真似したものだ。
その後、藤木孝がテレビから姿を消したのは、「ナベプロ」との確執やトラブルが原因というのは、当時の週刊誌ネタで子供の私でも知っていた。やがて、「にんじんクラブ」というグループが立ち上がり、そこに藤木氏の名前を見た際は、ヘンな気もしたものだ。
その「にんじんクラブ」時代に藤木氏が出演した映画を見たのは、ずっと後、私が成人してからのことである。
雑誌やテレビの芸能ニュースで、藤木氏の名前が、私の記憶に浮上するのは、一九六三年の『マイ・フェア・レディ』の出演者としてである。中学一年生の私は、歌舞伎は見ていたが、ミュージカルというのは、映画の世界でしか知らなかった。ただ、当時の週刊誌や愛読していた雑誌『演劇界』のグラビアや記事で、江利チエミ、益田キートン、八波むとしらと共に藤木氏の顔を見た。
ただ、その後、藤木孝の記憶は、私のなかでは不意に途切れる。
藤木氏が、いろいろな映画に出ていることは知ってはいたが、それは、まだローティーンだった私の見るタイプの映画ではなかった。
その後、久々に私の眼に藤木氏の名前が入ったのは、「藤木敬士」と芸名を変えて居た頃だろうか。ともかく、福田恆存の「現代演劇協会」に岡田真澄や鳳八千代たちと一緒に入団するという報道だった。調べると、一九六五年十一月のことで、それにより劇団「欅」が結成された。当時私は中学三年。雑誌『演劇界』で知った記憶がある。
一九六七年に同劇団最初の公演『億萬長者夫人』(福田恆存作)で、藤木氏は初出演している。『演劇界』は現在とは雑誌の性質が違い歌舞伎中心とはいえ、商業演劇は勿論、新劇の情報もかなりあり、三島由紀夫の『喜びの琴』事件や文学座の再度の脱退なども、高校生になった私は理解できるようになっていた。
折しも一九六七年、高校にも社会情勢の余波漂う時期でもあった。
しかし、「欅」での藤木氏の舞台を見たのは、もっと後である。
それよりも先に、私の記憶の空白期の藤木氏の出演した映画を見た。松竹ヌーベル・バーグなどと言われた時期の作品で『乾いた花』、『涙を、獅子のたて髪に』、『豚と金魚』など、私の小学高学年の藤木氏への記憶空白期の作品群で、「藤木孝ってこんなコトやってたのか」という感じだった。近年DVD化された『狂熱の果て』の迫力なども含め、あの独自の無頼な破滅型の凄味の感触は鮮やかである。その後、生活のため「恥も外聞もありません」という日活や東映のポルノ映画への出演も含めて、映画史でも貴重、重要な存在だったと痛感する。
二十歳代の私は「現代演劇協会」の支持会員だったから、「欅」から「昴」時代の藤木氏の舞台を見る事になる。よく響く声、スターの面影を残した身ごなしと姿勢は実に印象深かった。ただ、かつての「文学座」の流れを汲み、「新劇俳優」という「特権的意識」を持っている劇団「雲」の方たちから見れば、「昴」の他の世界でスターだった人たちが魅力あればあるほど、否定的に扱われたのでは――と推測するところがあった。それでも、福田逸氏に聞くと、同協会のファンのために、かつての「三百人劇場」で「歌手藤木孝」のリサイタルを一日だけやったりしたそうだ。それを見逃したのが悔やまれる。
私から見ると、「昴」退団後が、藤木氏の正に自由な境地で、思う存分、精彩を放った時期に思える。二十一世紀には、「新劇」の特権的地位低下と併行して「アイドル」や「タレント」が古典劇や近代劇の主役を演じるのが不思議ではなくなる。それらの舞台に出演すると「元アイドル」でもあった藤木氏の演技は、逆に如何にも「新劇」っぽい気配を漂わせた。滑舌よい口跡、鋭い目を光らせる表情、出入りの実に鮮やかな身ごなしなど実に間がよかった。タレントたちがテレビ口調で台詞をいうと、藤木氏の台詞は正に舞台の調子と声音で全く異質なのが、効果的でもあった。
ミュージカルでも、あの懐かしい足取りは、特にバック・ステップの際には、かつての日劇時代のNDTのダンサーたちを思わせてくれた。
それ以前から、『ザ・ロッキー・ホラー・ショー』などで「怪優」としても、一部の強い人気を集めていた。
晩年の『イニシュマン島のビリー』や、結果として最後の舞台となった『メアリ・スチュアート』は、スティーブン・スペンダーの十九世紀脚本だったが、正に、それに相応しい「よき時代の翻訳劇」を思わせる、勿論いい意味での「古い」魅力に溢れた私好みの演技で、「いいなあ、藤木さんは、やっぱり」と思ったものだ。まさか、それが、藤木氏を見る最後になるとは、考えもしなかった。
このインタヴューでは、ミュージカルと劇団欅、菊田一夫や福田恆存の演出などを中心に伺う約束だった。しかし、芝居に関係するようになるキッカケを伺うと、新派が好きで花柳章太郎好きで楽屋迄行ったというのはオドロキだった。遠縁に初代水谷八重子に面識ある方がいて、「東宝芸能学校」を出た後、当時の水谷良重(現八重子)のマネージャーに紹介してもらったのがキッカケで芸能界に――というのも意外だった。東宝芸能学校では、帝劇女優の村田嘉久子にも教わったというのも貴重である。歌舞伎に話題を転じると、「成駒屋(六代目中村歌右衛門)もいいけど、(中村)芝鶴や(片岡)我童がもっと好き」と言うので、全く好みが合う私は、忽ち意気投合、旧知の思いとなったものだった。
しかし、そういう趣味の青年が、あのロカビリー時代に、「ツイストNo.1」などで一世を風靡する「腰振りダンス」などやってたのかと思うと、感慨があった。五、六年前か、実に久々にミッキー・カーチスとかまやつひろしかと一緒にテレビに出た際に、ミッキーが「タカシはモトモトああいうの好きじゃなかったよな」と言っていたのを聴いたのを思い出した。その時、ネクタイにスーツ姿で十秒ほどだけツイストを見せてくれたが、あまり精彩なく、このインタヴューの際も、「実はトシのせいか、腰が痛くて」というのを憶えている。
二〇二〇年に突然の訃報を聞き、このイントロダクションが追悼文のようになってしまうことが実に残念でならない。
私的にも、テレビ少年時代からの、夥しいテレビ、映画、舞台が甦り、感慨深い。
このインタヴューで触れた舞台活動とは別に、これから、テレビ創成期、映画、ショー、ミュージカル等々、正に貴重な様々の「戦後の娯楽シーン」の証言者となる資格が十分すぎたのだから、もっと話を聴きたかった私は、無念の極みである。
それにしても、これで一九六三年『マイ・フェア・レディ』日本初演時主要な役の出演者は全て鬼籍に入ってしまった。もう一度、『マイ・フェア・レディ』フレディの「君住む街角」を藤木孝の声で聴きたかった! 繰り返すが、当時十三歳、中学一年生だった私は、勝手に自分史を重ねて、長い時間が経ったと感慨に耽るのである。(神山彰)
おことわり
すでにイントロダクションで触れているように、最終的な編集・構成は藤木孝氏のご逝去後に実施しました。そのため、藤木氏ご本人に公開原稿をご確認していただくことがかないませんでした。日本近代演劇史についての数々な貴重な証言を埋もれさせるにはしのびなく、ここに公開することにいたしました。また、写真も取材当時ご本人の許可を得て撮影したものを使用いたしました。藤木氏の著作権・肖像権等の継承者のかたが、万一この取材内容の一部または全部についてご異存がある、ということがあれば、誠意をもって対応させていただきます。hibino(あっとまーく)oraltheatrehistory.orgまでご連絡ください。
一世風靡した歌手デビューからにんじんくらぶへ
神山 最初にお聞きしたいんですけど、『リチャード三世』をおやりになったときのインタビューでしたか、子供のころからわりと歌舞伎や新派は見ていたとおっしゃっていましたね。
藤木 そうなんです。一九五八年ぐらいから見ています。
日比野 静岡県のお生まれですよね。
藤木 僕は中学校からは玉川学園なんです。中学、高校くらいから舞台を見てました。
神山 一九五八年というと、海老様[九代市川海老蔵=十一代市川團十郎]もいたころですね。
藤木 海老様が團十郎になったのも見ています。
神山 [襲名が]一九六二年ですものね。それは羨ましい。そうすると新派も花柳章太郎なんかはご覧になっている?
藤木 実は、[初代]花柳章太郎先生のファンでもあります。その頃、まだ僕は少年だったんですが、本当に可愛らしい人というような印象です。例えば、花道に入ってきたり退場したりするときににじみ出るような愛嬌があって。本当に素敵な俳優さんだったと思って。
神山 花柳さんはちょうど七〇歳で亡くなったから、当時もう六〇歳ぐらいなんですよね。
藤木 もちろん『大つごもり』[一九五九年十二月新橋演舞場/一九六五年一月・新橋演舞場(花柳最後の舞台)など]も拝見していますし。北條秀司先生の書き下ろしたものをたくさんなさっていますので。
神山 『佃の渡し』なんかもそうですね。
藤木 『佃の渡し』[一九五九年十一月・明治座など]や『雪出前』[一九五九年一月・明治座など]という芝居がありましたね。特に北條先生の作品における花柳章太郎先生は素晴らしいし、おじいさんである花柳章太郎先生が舞台上で[女形を]なさっている状況が本当に得難いというか。子供心に抱きしめたいような気持になりましたね。
[初代]水谷[八重子]先生ももちろんすてきなんですけど、彼女の場合やっぱりクールな美しさですよね。それと対照的に、「舞台に立っているこの人はどうなっちゃうんだろう」と思うような感じでしたね。
神山 僕は花柳章太郎を見たのは、中学校のときに一度だけです。
藤木 何をご覧になったんですか。
神山 新派じゃないですけど、『ぢいさんばあさん』を歌舞伎座で[十七代中村]勘三郎とやったんですよ[一九六三年十二月]。
藤木 もうちょっと見ていただきたかった。特に『佃の渡し』はよかったですから。
神山 それで、藤木さんが歌手としてこの世界にお入りになったときに水谷八重子さんとのご縁があったと、どこかで読んだ記憶があるんですけど。
藤木 そうです。僕が芸能界に入ることになった後押しをしてくださいました。僕の遠縁のおじが水谷先生の大ファンだったんです。僕は東宝芸能学校で勉強していて、卒業するとだいたい一回は日劇のステージにワンサで出るんですね。それで『春のおどり』で越路吹雪さんと、二の回では雪村いづみさんがゲストスターで、僕が最下級生で一回だけ出たんですけど。
僕は若くて生意気盛りなものですから、日劇のダンサーを目指すんじゃなくてもっと高みに行きたいという野心がありました。『春のおどり』が終わるとそれで東宝芸能学校を卒業ですので、そのときに水谷先生にお願いして、[娘の]良重[二代水谷八重子]さんのマネージャーの方に渡辺プロダクションを紹介していただいたんです。当時『ザ・ヒットパレード』という番組があったでしょう。
神山 ええ、ありましたね。
藤木 『ザ・ヒットパレード』をやっているフジテレビまで連れていっていただいたのが、オーディションでしょうか。そのころは[渡辺プロダクションの]渡辺晋社長がまだベースを弾いていらした。僕はジャズボーカルを勉強していたものですから、それで渡辺プロダクションで勉強をさせていただくことになったという経緯です。当時はザ・ピーナッツがもうスターでしたからね。あちこち地方巡業なんかで、ザ・ピーナッツの前歌で勉強をしながらチャンスを待っていました。
神山 私はそのころ小学校の三~四年で、もう夢中になってテレビを見ていた世代ですから。そのころ藤木さんが一番人気でしたよ。
藤木 いやいや、そんな。ほんのちょっと出て、いなくなっちゃったんですけど。
神山 強烈な印象でしたよ。東宝芸能学校はもちろん菊田[一夫]先生なんかは教えにいらっしゃらないんでしょう。もっと若い方が教えにいらっしゃった。
藤木 はい。歌も踊りも芝居も全部教えていただくんですけど、今印象に残っているのは、真山青果などの作品で時代劇の台詞を村田嘉久子先生に。
神山 帝劇女優の村田さんですか。
藤木 ええ、直々に口移しで教えていただいた覚えもあります。それからモダンダンスは荻野さん。
神山 [通称]コウキュウさん。荻野幸久さんね。
藤木 そうそう、タップダンスの荻野先生に習いました。
神山 さすが東宝だけあって一流ですね。荻野さんは中川三郎と並ぶような方ですよね。
藤木 はい。
神山 その後、一九六二年八月ににんじんくらぶにお入りになる。
藤木 そうです。
神山 にんじんくらぶは映画製作プロダクションですね。
藤木 そうです。
神山 映画は私も拝見した『涙を、獅子のたて髪に』[一九六二年]。これは寺山修司[と水沼一郎と監督・篠田正浩が共同で脚本を執筆]。寺山修司とは実際には接触はございませんでしたか?
藤木 お会いしたことはあります。まだ渡辺プロダクションで歌っているころに、何かのインタビューでお会いしたことがあったり、その後『涙を、獅子のたて髪に』で脚本を書いてくださって、そのときにお会いしたり。それに去年[二〇一五年八月、オーチャードホール]再演された『青い種子は太陽のなかにある』。昔の題は『青い種は太陽の中にある』というミュージカルなんですけど、それも寺山修司さんの作で、にんじんくらぶ当時に[関東]労音の制作で出演させていただいた覚えがあります[作曲:石丸寛、演出:竹内健、一九六三年七月]。
あと、もう一つ。寺山先生の『犬神』という作品を草月ホールで、舞踊仕立ての前衛劇みたいな形でやったのに出させていただいた覚えがあります[天井桟敷第十回公演、一九六九年八月]。
神山 そうですか。当時草月ホールは前衛の象徴みたいなところでしたからね。
日比野 『犬神』に藤木さんは主役級で出ていらしたんですか。
藤木 はい、そうです。『犬神』は東北の少年が青年になるくらいまでの間の話で、犬神と関わる話なんです。最初は日本舞踊とバレエが融合するような形で上演して、犬神の象徴みたいなおばあさん役を日本舞踊界の異端児と呼ばれた女性がなさって、次に上演されたときはバレエ仕立てで雑賀先生がおやりになった。ご主人がたぶん東京交響楽団だと思うけれども、指揮者をなさっていた方なんです。寺山修司さんに関わることはそのくらいです。
神山 一九六〇年代ですよね。
藤木 そうです。
神山 六〇年代ですと藤木さんは大変な有名人ですから。最近『乾いた花』という映画を見たんですが、藤木さんは全然台詞がないんですよね。
藤木 そうです。
神山 あれは最初からないんですか。
藤木 なかったです。
神山 クレジットタイトルは加賀まり子と藤木孝が最初に出るんですよね。そこに当時の藤木さんの位置というか立場が出ていたと思います。『乾いた花』の公開が一九六四年です。
『マイ・フェア・レディ』でミュージカル初出演
神山 『乾いた花』の前年の一九六三年九月が有名な『マイ・フェア・レディ』の日本初演。これはもう聞きたいことがいっぱいあるんですけど。
藤木 どうぞ、何でも聞いてください。
神山 まず、東宝のプロデューサー佐藤勉さんから話があったんですか。その頃はもう渡辺プロを辞めていらっしゃった頃ですよね。
藤木 にんじんくらぶ所属でした。菊田一夫先生が中に入ってお骨折りいただいて、[渡辺]晋さんの承諾を得た上で出演することになったんです。
神山 昨日、安倍寧さんにお会いしたんですが、「当時藤木さんが『マイ・フェア・レディ』に出たのは、今でいうと芝居の中にジャニーズの人がいるという印象だった」とおっしゃってたんですよ。
藤木 そうかもしれないですね。
神山 ほかに出られたのが江利チエミさんや、あとは高島[忠夫]さん。
藤木 本当に実力のある方々ですから。
神山 益田喜頓はすごいベテラン。その中で藤木さんが出演というのは、今から見ると別に不思議じゃないけれども、当時にしてみれば二〇代になってすぐのことですから[当時二二歳]、大変なことですよね。
藤木 はい。話を付け加えますと、にんじんくらぶに入った直前にブロードウェイに行って、偶然『ノー・ストリングス』[一九六二年三月]というミュージカルを見たんです。
神山 その後、東宝でやりましたね。
藤木 東宝でやったのも、ブロードウェイでやったのと同じく、演出がジョー・レイトンさんですよ。僕がブロードウェイでその舞台を見に行ったときに、菊田先生とフランキー堺さんが劇場で座っていらして、ばったりお会いしたんですね。そのときはただお辞儀をしただけなんですけれども、そんなこともあって、「藤木がミュージカルに興味を持っている」と思って「藤木を使ってみよう」と考えてくださったんじゃないかなと推測しています。
神山 そうですか。『マイ・フェア・レディ』は、当時私は中学一年生で演劇雑誌で読んだ程度の記憶ですけど、翻訳が倉橋健さんで歌詞は別の方がやられた。
藤木 女性の方だったらしいです。
神山 僕、最初は岩谷時子だとばかり思っていたんですが、若谷和子さんという方が訳詞を担当されていたようですが、覚えてらっしゃいますか。
藤木 あんまり覚えてないです。
神山 覚えてないですか。そうですか。
藤木 もちろん現場で本読みのときとかいらしていたとは思いますけれども、譜面と台本をいただいているだけなので。
神山 安倍寧さんに聞いたら、キングレコードで童謡の訳詞をやっていた方じゃないかと。私もインターネットで調べたら、実に昭和一八年生まれでその後児童文学の方に入られた方のようです。昭和一八年というと当時二〇歳ですから、ずいぶん抜擢ですね。
藤木 まあ、大抜擢ですよね。
神山 『マイ・フェア・レディ』は大変な評判になったわけですけれども、そのとき映画はご覧になった?
藤木 いえ。まだ映画は上映されてないんです。
神山 そうでしたか、フレディの有名な[ナンバー]「君の住む街角」も初めて聞いた。
藤木 ブロードウェイのオリジナルキャストのレコードはありましたから、当然お話をいただく前にはもう聞いています。生意気盛りなものですから、そういうものには興味があって。
神山 でも「踊り明かそう」「君の住む街角」も、有名なヒットナンバーの岩谷さんじゃなくて若谷さんが訳したわけで、歌いやすい歌詞だったという印象はありますか。ちょっとなじまないというのは。
藤木 いや、そんなことはなかったですね。自然に抵抗なく歌えていたと思います。
日比野 菊田さんは歌と踊りのところには、ほとんど稽古には出ていらっしゃらなかったというようなお話も聞いているんですが。
藤木 いや、お芝居を作ってくださったのと、後半の通し稽古には本当にいてくださいました。
神山 菊田さんは演出の際の写真が残っていますけれども、自分で立って芝居を付けるタイプの演出家ですか。
藤木 どうですかね。何しろ僕もすごく緊張していっていたものですから。細かくは付けないけれども、だいたい役者が役を体に入れて動き出したところで細かいところまでどんどん積み上げて、ご指導してくださるという方式だと思います。
神山 それこそ蜷川幸雄以前に、菊田さんも怒ると灰皿を投げ付けるとかいう伝説があるんですが、怒るシーンはあまりご記憶はないですか。
藤木 ないです。
神山 そうですか。菊田一夫は、音楽は古関裕而と決まっているんですよね。
藤木 はい。
神山 振り付けは外国人の方二人と、あと関矢幸雄さん。
藤木 そうでした。
神山 『マイ・フェア・レディ』初演の装置は伊藤熹朔さんですが、いっぱい飾り込んだ装置でしたか。
藤木 はい。たぶんブロードウェイの装置に準じた形で、東京宝塚劇場のサイズに合わせたという印象です。ちょうど、僕がブロードウェイに行ったときに『マイ・フェア・レディ』も見ていますので。自分がはまだ出演するかしないか分からなくても、大変大当たりしているミュージカルですからね。それともう一つ話はそれますけど、そのとき見た『ウエスト・サイド・ストーリー』がすごかった。
日比野 初演は一九五七年九月です。
藤木 でも僕が行ったとき、まだやってましたよ。一九六二年だったかな[記録上は、一九五七年九月二十六日にはじまった『ウエスト・サイド・ストーリー』初演は一九六〇年十二月十日に終演。再演は一九六四年四月二十七日から始まり五月三日に終わる]
神山 『マイ・フェア・レディ』初演のときは、[ドゥーリトル役の]八波むと志はずっと出ていたんですよね。
藤木 そうなんです、
神山 それが、再演のときに……。
藤木 再演のときに八波さんが交通事故で亡くなって。急遽小鹿[敦]さんがやったんです。ドゥーリトルの仲間の役柄だった人が、次の日に本当にドゥーリトルをやっちゃった。カーテンが閉まった後に、菊田先生が「明日、東宝の演劇部にいらっしゃい。別の契約をすぐにするから」とおっしゃって。今こうやって話したいぐらい、その言葉に感激しましたね。実力がものを言い、すぐその功績に応えるプロデューサーがいるんだ。本当に実力の世界だなと感じました。
神山 ドゥーリトルは下積みからのし上がっていくみたいな役だから、菊田さんは自己投影があったかもしれない。
藤木 いや、イライザにも自己投影があったと思う。
神山 そうですね。
藤木 それに、菊田先生は日本でミュージカルができるようになりたいという強い信念をお持ちだったと思います。その前も越路吹雪さんを中心に帝劇で東宝ミュージカルをやっていらして、それも拝見してますけれども、もう一度原点に戻ってブロードウェイミュージカルを日本でやってみようということだったと思うんです。
その後のことになりますけど、[『風と共に去りぬ』を原作としたミュージカル]『スカーレット』を立ち上げられたわけですから。菊田一夫先生独特の演劇の世界、つまり日本人の市民劇に力を入れられている先生ですけれども、一方で「これからはミュージカルだ」ということをお考えになっていたんじゃないかと推察します。
神山 八波さんとはよくお話しになりました?
藤木 僕はもう下っ端ですから、「おはようございます」「お疲れさま」とお辞儀するぐらいでしたね。
神山 [益田]喜頓さんもそうですか。
藤木 恐れ多い感じでした。
日比野 例えば、高島忠夫さんとはそれなりに年もお近いですから。
藤木 そうですね。でも、個人的なお付き合いということはなかったです。
鈴木 当時菊田先生が日本でミュージカルをやりたいと考えていらした、そのお考えをお客様がすぐ受け入れられたという印象ですか。それとも、「何だか外国のものをやるらしいけれど、どうなんだろう」というようなことなのか。どうだったでしょうか。
藤木 僕の印象では、「機は熟したり」という感じです。戦後、ミュージカル映画がお客さんを呼ぶようになった。それまでは菊田先生は[古川]緑波さんがお出になるような歌あり、笑いあり、踊りありのものをやっていらっしゃった。そのころ東宝ミュージカルズと言っていたんだけど、そう名が付くとちょっと客足が落ちるようなことがあったかもしれない。でも、話題にはなっていたんです。アメリカのミュージカル[映画]『掠奪された七人の花嫁』[一九五四年十月・日本公開]も人気があったりして、当時の日本の文化は本当に「アメリカ様々」なんですね。それで「ミュージカルを見たい」あるいは「日本で本格的なミュージカルを作りたい」という機が熟したときに『マイ・フェア・レディ』の初演が行われたんだと思います。それが証拠に連日満員でした。「客の鈴なり」といいますけど、本当に連日満員でした。
神山 何せ、劇場の大きさが東京宝塚劇場で、三〇〇〇人近く入るんですから。
藤木 それが満員でした。
神山 すごいことですね。
日比野 開演してみれば連日満員だったわけですが、演劇評論家の渡辺保さんに言わせると、八月中旬までチケットの売れ行きが芳しくなかったと。そこで苦肉の策で「爆笑ミュージカル」というふうに宣伝したら売れ始めたと語っていらした。
鈴木 「爆笑ミュージカル」と名前をタイトルに付けてもよいかというのを、菊田先生にお伺いを立てたみたいな証言もなさってました。
藤木 そうかもしれない。ミュージカルをなんとか日本に根付かせたい。そのためにはこの『マイ・フェア・レディ』をヒットさせなきゃならないって、皆さん必死になっていたんじゃないでしょうか。大変大きなプロジェクトだったと思います。
日比野 ただ、初日は満員ではなかった…。
藤木 満員でしたよ、それは記憶にあります。あの雰囲気はすごかったですから。
日比野 カーテンコールが八回だということを何かで読みました。
藤木 そうだったと思います。
神山 共演者の中では、喜頓さんは魅力がありましたか。
藤木 はい。
神山 喜頓さんはあの身ごなしというか姿勢が独特ですよね。
藤木 ええ、ええ。余分な力が何も入ってない。必要な力だけポンポンと入れてらっしゃる。なんて羨ましいんだろうと思いました。それから、舞台の上のたたずまい。
神山 それはよく皆さんおっしゃいますね。
藤木 ええ。きちんと存在してらっしゃるのに、主役の芝居場では自己主張はあんまりなさらない。理想的なサポーティングアクトのやり方だと思いますね。ご自分が消えているわけじゃないんだけれども、お客様の視線がドラマチックな主役の方に向かうようにとしてらっしゃる。勝手な想像ですけど、結果はそうなっているから素晴らしい演技者だったと思います。
神山 それと、当時はまだピンマイクがないでしょう。そうすると、胸元にマイクを入れるわけですか。
藤木 ワイヤレスなんだけど、でかいのを胸に巻いて、ワイシャツの下に着けてました。当時はコードがあるマイクが主流で、ワイヤレスが珍しい時代でしたからね。
神山 ですからフレディはそれほどでもないけど、八波むと志さんのあの役[ドゥーリトル]は動きが激しいから、驚いたんじゃないですか。
藤木 そうです。だから、ちゃんとぎゅっと巻いていたんですよ。
日比野 普通でも雑音は拾っちゃいますよね。
藤木 その辺は分からないんですけどね。
劇団欅に入団、福田恆存の演出を受ける
神山 文学座の研究生になったのは、『マイ・フェア・レディ』の後ですか。
藤木 そうです。
神山 それはやはり自分の演技をもっと磨こうと思われた。
藤木 『マイ・フェア・レディ』で、別に藤木孝がすごく評判が悪かったというわけじゃないかもしれませんけれども、自分で自分を勤務評定した結果、やっぱり僕はこのまま何も勉強しないでは絶対脱落してしまうなという思いがありました。なまじ今まで芝居が好きでいろいろ見てきたものですから、このままじゃ本当に僕はもう役者として生きていけないなと切実に思いましたので、文学座の養成所に行って二年間、勉強したんです。
そのころ、ちょうどにんじんくらぶが経済的にうまくいかなくて、閉めることになって。にんじんくらぶの主要なメンバーが、当時劇団雲の理事長だった福田恆存先生のところにご相談に行って、劇団欅というものができたんです。
ちょうど僕は文学座の養成所に行っていて、卒業公演の『女の一生』で、二幕の栄二の役をやっているときに、劇団欅が旗揚げするということで、僕はすぐ座員になったんです。
神山 そうなんですか。
藤木 はい。一つぜひここでお話ししたいんですけど。普通の新劇出身の俳優は研究所に入るのに大勢のライバルと一緒に受験して、そこから研究生になり、何度もふるいをかけられて劇団員になるのに、僕は藤木孝という名前があったためにすぐ文学座の養成所に入り、その卒業公演のときに既に劇団欅の座員になってしまったわけなんですよ。
逆にそれが僕のトラウマというか、コンプレックスというか。こんなに下手なのに、[舞台の仕込みのための]トンカチも持たないままでやってきたことが、長い間ひきずっているのかもしれません。俺はなんて下手なんだろうというのが、ずっとすっと続いているんです。
日比野 文学座の養成所では、[同じくロカビリー歌手としてアイドル的存在だった]平尾昌晃や佐々木功[現在の芸名はささきいさお]と机を並べられていたこともあったとか。一九六五年に文学座養成所に教えにいったときにびっくりしたと、小田島雄志が書いています。
藤木 そうです。
日比野 一緒に文学座の養成所に入ろう、なんてことを当時三人で相談したんでしょうか。
藤木 いや、全然関係なく、それぞれが演技の勉強をしようと思って行っていたんでしょうね。
神山 平尾さんも、佐々木さんも映画に出ていましたからね。当時、文学座は分裂した後ですよね。
藤木 そうです。
神山 文学座の研究生時代で印象に残っている先生はいらっしゃいますか。
日比野 杉村春子さんとかには直接教わることはありました?
藤木 ないです。
神山 龍岡晋先生は。
藤木 龍岡先生には習いました。
神山 龍岡先生は日本語とか言葉のレッスン。
藤木 はい、教えていただきました。あとは木村光一先生ですよね。
神山 木村さんは、当時はお若かったでしょう。
藤木 若くて文学座にいらしたわけですから。木村先生の授業がすごく印象に残っています。
神山 そうですか。欅に入られて、最初の旗揚げの『億万長者夫人』。
藤木 そうです。これが欅に出た最初の公演です。
神山 それが一九六七年三月[農協ホール]ですね。福田恆存さんの舞台に出たことのも最初ということですね。
藤木 直接ご指導を受けたのは『億万長者夫人』が初めてです。
神山 岡田眞澄さん、南原宏治さんもにんじんくらぶだったんですか。
藤木 そうですね。あとは、杉浦直樹さん。
神山 杉浦直樹さんも、にんじんくらぶから欅に入られたんですね。
藤木 はい。
神山 東宝の舞台と福田さんのお仕事は全然違うものでしたか。
藤木 『億万長者夫人』では滝不二男という、億万長者夫人の夫で前衛作曲家の役だったんですね。伊豆の旅館か何かに愛人と入ってきて、「あ、山も見える」という台詞があるんですよ。それができなくて、できなくて。立ち稽古で十回ぐらい「「山も見える」をやって、十回目ぐらいに「あ、それが最低だね」と言われた。そんな覚えがあります。
それからもうずっと後の話だけど、『椰子の葉の散る庭』[一九八二年八月、三百人劇場]という川口松太郎先生の作品で、僕は鳳[八千代]さんの相手役で抜擢していただいたんですけれども、ただ「うん」という台詞がずっと言えないままで。初日も開き、千秋楽が終わったら先生が「藤木、あの『うん』だけどな」とおっしゃって(笑)。そしたら奥様が、「あの、もう千秋楽終わったんですから」と。それだけ「藤木を何とかしなきゃ」ということで、福田先生には細かく、千秋楽が終わった後もだめ出しをいただけるような環境にいさせていただいたということは、今こうやってお話ししたいほど[自分の心の中に]残っています。
日比野 『椰子の葉の散る庭』は一九八二年八月ですけど、一九七七年八月には『嘘から出た嘘』[三百人劇場]で主演をされていた。
藤木 そうなんです。本当は『嘘つき男』という題で、コルネイユの喜劇です。
日比野 これはもちろん福田先生が抜擢をされたんですね。
藤木 はい、福田先生が付けてくださったんですよ。
神山 そのころの福田先生は、村田[元史]さんや樋口[昌弘]さんも助手で付いて。
藤木 はい。あと、荒川哲生さん。
神山 荒川哲生さんね。文学座にいた方が出てきますね。
藤木 そうです。
神山 『ドン・キホーテ日本に現る』[一九六八年一月、日生劇場]とかも出てらっしゃいますよね。
藤木 はい、そうです。
神山 福田先生は[劇団]雲の方ではいわゆる新劇みたいなのもの、欅の方では娯楽的な要素の強いのをやってらした。
藤木 先生は市民劇とおっしゃいましたね。
帝国劇場『スカーレット』に出演
神山 欅に入った後の一九七〇年一月に、[東宝製作の帝国劇場公演]『スカーレット』にお出になりました。
藤木 さっきお話ししましたが、ブロードウェイでばったり菊田先生と会った『ノー・ストリングス』という作品を演出していたジョー・レイトンが、『スカーレット』を演出したんです。彼は振付も演出もなさる方。あと、ダイアナ・ロスのショーの演出なんかもなさった方です。
日比野 『スカーレット』に出演する経緯というのはどういうことだったんですか。
藤木 オーディションです。それも悔しい話ですけれども、『マイ・フェア・レディ』で僕を使ってくださったのに、それから東宝からは、ミュージカルを続々とやっているのに藤木孝に出演交渉は残念ながらありませんでした。
日比野 新劇に行ってしまった人にいまさら商業演劇はと、向こうが遠慮されたんじゃないでしょうか。
藤木 もちろん福田先生のところに入っているんですから、演劇が一番ですけれども、僕はまだ若くて、ミュージカルにすごく興味があって出たいなと思っていたんです。それでオーディションを受けた。
日比野 日本中の芸能人すべてがオーディションを受けたという噂があります。
藤木 そのとき嬉しかったのは、僕がジョー・レイトンさんのオーディションを受けているときに、菊田先生がいらして、「この藤木というのは『マイ・フェア・レディ』でフレディをやった役者です」ということを僕の目の前で言ってくださったんです。ありがたいなと思った記憶があります。
日比野 『スカーレット』の役はチャールズ・ハミルトンですね。
藤木 あ、そうそう。チャールズ・ハミルトンでメラニーの兄さんの役。それほど大きな役じゃないんですけれども、ちょっと歌うところがありました。
日比野 これはもちろん、チャールズ・ハミルトンの役でオーディションを受けたわけではない。
藤木 全般のオーディションでした。でも大体は、チャールズ・ハミルトンで受けたと思います。当時はレット・バトラーだとか、アシュレーを取れるような俳優じゃなかったので。
神山 [レット・バトラー役の]宝田明だってオーディションなんですね。
藤木 皆さんオーディションだったという形ですね。
神山 『スカーレット』は帝劇の観客の入りはどれくらいでしたか。
藤木 大成功じゃないけど、それほど悪いということじゃなかった。三ヶ月くらいロングランして、その間客足が全然落ちて恥ずかしいということはなかったと思います。ただ、大成功ではなかった。
神山 帝劇はこのとき初めてですか。
藤木 たぶん初めてです。
神山 その後、劇団欅では『タルチュフ』[一九七二年十二月、日経ホール]をダブルキャストでおやりになったんですものね。
藤木 そうです。
神山 それから、『ヴェニスの商人』[一九七三年七月、日経ホール]でもお出になった。
藤木 はい、ロレンゾです。ロレンゾとジェシカで歌の場面があるので。どうしても歌がある方の登板になってしまうのです。
神山 一九七四年になって三百人劇場ができて、このときに『もしも、あの時…』[作:トーマス・ブランドン、脚色:福田恒存、一九七四年六月、三百人劇場]とか『サイゴンから来た男』[作:松原正、一九七四年十一月、三百人劇場]に出演された。
藤木 『サイゴンから来た男』は本当に思い出に残る作品でしたね。キャラクターの強い役。脇役には違いないんだけど、最初から役にもすっと入りやすかったし、舞台に立っていても、いつもは「ああ、僕ってなんて下手なんだろう」と思いながらやっているのに、「うん、もしかしたらいいかもしれないな」なんて思えた。嬉しい思い出です。
神山 失礼なお話ですが、やっぱり新劇の世界ですから経済的には厳しかった。
藤木 大変です。テレビ映画、『ザ・ガードマン』『キーハンター』『プレイガール』だとかの悪役。それから東映の時代劇では悪い商人だとか、そんな役で何とか食いつないでいました。
神山 その後は筒井康隆さんの『スタア』[一九七五年八月、神戸文化ホール]という有名な芝居にお出になりました。筒井さんはご記憶に何かありますか。
藤木 ちょっと恥ずかしいんだけど、筒井先生の奥様が歌手時代の藤木孝のファンだったということを先生から伺ったことがありました。
神山 それはそうでしょう。筒井さん自体が断然そういうのが好きだから。
藤木 はい、そうおっしゃっていただいたようです。そのときの僕の役も脇役ですよ。僕なりにベストは尽くしたつもりなんですけどね。そのときに西本裕行さんが気違いじみた博士の役をおやりになって、それがすごく素敵でね。劇団の中でどなたを尊敬するかというと、西本裕行さんなんですよ。本当にお世話になりました。
神山 西本さんはその後ワーニャ伯父さん[『ワーニャ伯父さん』[一九九九年十月、三百人劇場]をやりましたね。
藤木 そうです。
劇団昴で一番得をしたのは僕だと思う
神山 それで七〇年代も後半になりますと、劇団雲と欅が統合して劇団昴となった。七〇年代後半は『タイタス・アンドロニカス』[一九七六年十一月、三百人劇場]やコルネイユの『嘘から出た嘘』[一九七七年九月、三百人劇場]という、今も上演されているような翻訳劇をやられています。この間の翻訳劇で印象深いものは何でしょうか。
藤木 少し後になりますが、[T・S・エリオットの]『カクテル・パーティー』[一九八一年九月、三百人劇場]は印象にあります。
神山 エリオットはあの頃は雲とか昴でしかやらなかったです。『寺院の殺人』[一九九一年十一月、三百人劇場]とかね。
藤木 そうなんです。だから、僕はどれだけ劇団で恵まれていたかということですよね。しかも福田先生の演出を付けていただいて。実力もないのに本当にチャンスをいただいて、劇団昴で、一番得をしたのは僕だと思います。
神山 七〇年代から八〇年代になると岡田眞澄さんや南原宏治さんはもう出てないですね。
藤木 もう退団されていたんです。そんなこともあって、僕を使ってくださったということもあったと思いますよ。
日比野 いやいや。ただ、妙な質問ですけれども、例えば映画やテレビの方に転出なさろうとはお考えにならなかった。
藤木 実力もないのに欲が深いものですから、お芝居で、劇団でいい役を取れるようになりたいという気持ちでいっぱいでした。本当にもう食いつなぎのつもりで、テレビ映画の悪役でじゃんじゃん出ていましたけど。
日比野 ところで、『椰子の葉の散る庭』もそうだったんですけれども、昴のクレジットで福田先生と荒川先生が連名で出ていることがあるのは、どういう形で分担されていたんでしょうか。
藤木 だいたいのところを荒川さんが[演出を]付けて、それである程度先生が見るに堪えるぐらいの段階になったところで、福田先生がきちんと見てくださるというシステムだったと思います。福田先生が執筆活動もなさっていますから、そういうふうになったんじゃないかと思います。
神山 荒川さんは途中で金沢に行っちゃったんでしょう。亡くなる前に金沢まで行って、荒川さんのお話を聞いたんですよ。当たり前だけど、福田先生をとても尊敬なさっていてね。文学座の時代からの思い出話を聞けて本当によかったです。
藤木 僕は荒川さんだと、何といっても『動物園物語』。
神山 ああ、オールビー。
藤木 そう。本公演じゃなかったですが、役を付けていただいたんですね。でも、若いですからジェリーをやりたくてやりたくてたまらなかったのに、付いたのはピーターなんですね。
日比野 ああ、そうですか。
藤木 だけど、大事なドラマチックなところでお客様を引き付けるときに、それを聞いているサポーティングアクターがどうしたらいいかということ[の演技指導]を本当に付けていただいて。先ほど、喜頓先生のときにお話ししましたけど、「ああ、そうなのか」と。今話したいほど、とてもありがたかったなと思っています。
日比野 ジェリーはどなただったんですか。
藤木 山口嘉三君です。今もまだ昴にいます。
神山 藤木さんは『海は深く青く』[演出:樋口昌弘、一九七九年十一月、三百人劇場]にはお出になっていないんですね。
藤木 出ていません。
神山 あの時代、[テレンス・]ラティガンなんて他の劇団ではやりませんからね。
藤木 やっぱりこの芝居を取り上げるというのは、おこがましいですけど、[劇団昴とラティガンは]縁があったということじゃないでしょうか。
神山 ああいうしっとりした感じというのは、当時はほかにはなかった。
『ザ・ロッキー・ホラー・ショー』の強烈なキャラクターに注目
日比野 話を先に進めますが、一九八五年四月に松竹の『アーニー・パイル』[新橋演舞場]に出られましたが、これはどういうきっかけだったんですか。
藤木 出演交渉があって行ったということです。舞台で個性的な役なら藤木も面白いんじゃないかと思っていただいたようです。一九八五年だと、井上[ひさし]さんの[こまつ座第四回公演]『きらめく星座』には出てないころでしょうか。
日比野 『きらめく星座』は一九八五年の九月だから、『アーニー・パイル』の半年後くらいですね。逆に言うと、松竹も慧眼だったなというか。
藤木 どうなんでしょう。自由劇場の斎藤憐さんが脚本だったから[出演が決まった]というのもあるかもしれない。分からないんですけど。
日比野 では、青天のへきれきではないですけれども、いきなり呼ばれたみたいな感じだったんですね。
藤木 はい、それで稽古して印象に残るのは斎藤晴彦さんのうまさですよね。もう、すごい俳優だと思った。笹野[高史]さんも素敵なんだけど、僕は斎藤さんがすごいと思った。
神山 斎藤晴彦さんまで亡くなっちゃったんですね。信じられない。
藤木 たぶん、僕と同い年[両人とも一九四〇年生まれ]だと思うんだけど。
日比野 松竹の現場はこのときが初めてですよね。
藤木 その前に、先代高麗屋さん[初代松本白鸚]が福田恆存先生の作・演出でやった『明智光秀』[一九六九年三月、帝国劇場]。『マクベス』を下敷きにした話だったんですが、文学座が東横ホールで初演して[一九五七年八月]、それが帝劇に行ったときに、僕はお公家さんの一人の役[難波中納言宗豊卿]で出ていました。台詞は五つぐらいでしたけど、先生が「やるに当たっては、うちの劇団の者を使ってくれ」と言って出させていただいたんです。
神山 一九八五年の『アーニー・パイル』は藤木さんのかつてのイメージからしたら、本当にぴったりな役でしょうけれども、一九八六年六月の『ザ・ロッキー・ホラー・ショー』[シアターアプル]で、藤木さんのイメージが変わってきた感じがします。これは、ご自分の意図ではないことですか?
藤木 もちろん違います。ただ、基本的に呼ばれたお座敷には絶対出るということで。
日比野 先ほど、脇役でも強力なキャラクターがお好きという話をお伺いしたときに、一九八五年以降のご活躍の片鱗はすでに昔からあったんだなと思うんですけれども。
藤木 ええ。さっきお話しした『サイゴンから来た男』とかで味を占めたんでしょうね(笑)。
日比野 逆に言うと、『マイ・フェア・レディ』のフレディみたいな強烈な個性の感じられない役がデビューだったあのが、ある意味では不幸というか(笑)。
藤木 逆に、あれは今から思うと難しい役ですよね。いい役なんだけど、人間として演じるには難しい。腕のいる役だと思いますね。
神山 『ザ・ロッキー・ホラー・ショー』のフランケン・ファーター役は非常に評判になったわけですけど、最初はこれほど受けるとは思ってましたか。
藤木 それより何より、化粧して、つけまつげを付けて舞台に出るということがもう本当に怖かったんですね。だけど、せっかくミュージカルで主役が来たんだから、これで恥ずかしいなんて格好付けて逃げちゃったら何にもならない。「これはやるぞ」と決心して。ですから、いただいたお座敷は全部出るということで、とにかく全エネルギーでこの役に突進しました。
テクニカルリハーサルで、稽古着のまま、化粧をしないで位置決めだとかをやったときが、一番恥ずかしかった。ほら、化粧をしてないから。
日比野 テンションだけ上げなきゃいけない。
藤木 化粧をしないのに演技するのが恥ずかしくて、体中真っ赤になって、胃が痛いほどでした。これを乗り越えなきゃこの役はできないと思いましたね。僕は不器用で自分でつけまつげも付けられないから、女の子につけまつげを付けてもらったんだけど、化粧してやってしまえばもう平気なんですよ。これで菊田一夫賞をいただいて、励みになりました。
本当に僕は、さっきも申しましたように演技コンプレックスがありまして、福田先生というとても厳しい先生について有無も言えずに「だめだ、だめだ」と思ってきたんですけれども、そういうものを少しずつやっていくにしたがって、舞台で自分ができるかもしれないと思えるようになってきました。
神山 [演出の]竹邑類さんとはこのとき初めてですか。
藤木 そうです。
神山 竹邑さんはどういう感じでしたか。
藤木 細かいです。今思い出すと面白いんだけど、長台詞があって「このセンテンスを水谷八重子さんで言って、このセンテンスを中村歌右衛門さんで、このセンテンスを有馬稲子さんにしたらどうか」とかね。
神山 そういう指導でいくんですか。
藤木 そんな面白い指導を受けました。その通りにはできないから、「ここはジュディ・ガーランドでいっちゃえ」とか(笑)。
神山 だけどそれは難しいですよ。その人のことを知っていなかったらできないじゃないですか。
藤木 抽象的なんですよ。でも、おっしゃることが分かるような気がして。後押ししてくださるのがうまい方だと思いましたね。それから僕がハイヒールを履くのが本当に嫌だったんですね。足がO脚なものでハイヒールを履いたら絶対似合わないんです。当時はクイーンのフレディ[・マーキュリー]ちゃんが人気があったから、「フレディちゃんムードでいきたいんですけど」と竹邑さんに相談したら、即座に「大丈夫だよ」と言ってくださって、ハイヒールのブーツにしたんです。ブーツだと足場もいいし、しかも恥ずかしくない。
日比野 ロンドンから『ザ・ロッキー・ホラー・ショー』の来日公演が来ましたけど[一九七五年七月—九月・社会文化会館/朝日劇場/砂防会館、一九七六年八月・俳優座劇場]、それはご覧になってますか。
藤木 見ています。社会党本部のホール[三宅坂・社会文化会館]かなんかでやりましたけど、もうがらがらでした(笑)。それを見に行っていたくらいだから、劇団にいて「演劇、演劇」と思っていても、ミュージカルに対する熱い思いはお腹の中にあったんでしょうね。恥ずかしいけど。
日比野 そうすると『ザ・ロッキー・ホラー・ショー』も向こうから来たお話だったんですか。
藤木 そうです。
日比野 「藤木さんならこういう役」というのが、この時代くらいから出てきた。
藤木 そうですかね。ちょっとずつそうなってきたんじゃないでしょうか。
神山 『ザ・ロッキー・ホラー・ショー』の公演劇場はシアターアプルですが、プロデュースはどこでしたか。
日比野 シアターアプルのプロデュースですね。
『きらめく星座』で数少ない井上ひさし作・演出作品に出演
神山 その年には『お熱いのがお好き』[一九八六年十一月、シアターアップル]。それにも斎藤晴彦が出ていて、演出が黒テントの加藤直。
藤木 はい。面白かったです。
日比野 翌一九八七年の三月に青山劇場で『ジョージの恋人』。これは[スティーブン・]ソンダイム作詞・作曲のミュージカルでした。
藤木 そうです。[原題は]Sunday in the Park with George。これもオーディションです。
日比野 演出のフラン・メーダーという方は海外からいらっしゃったんですか。
藤木 そうです。ただし、あちらでは演出助手とかをされていて、大々的な演出家の方ではなかった。じゃあまた、自慢話をしていいですか(笑)。そのときにコマ劇場の酒井喜一郎さんがプロデュースなさってたんですけれども、僕は劇団で教育を受けている人間ですから、演出家が「太陽は西から出る」と言ったら、「はい、西から出ます」というタイプの役者なんですね。自分なんかどうでもいい、いつもの藤木孝じゃない自分になりたいんだから。自分の設計図を持っていかない役者はばかだけれども、その設計図を書き換える用意がなければ何にもならないと思っていますから。
そういう気持ちは今も変わらないんですけど、稽古でダメ出しがあったときに、必ず彼の側にいて一言でも聞こうと思って見ていたんですね。それを酒井さんが見ていてくださって、それから本当に酒井さんにいろいろな役で東宝で使っていただくようになりました。
日比野 ソンダイムのナンバーはメロディアスでなかったり、変拍子だったりして、歌いこなすのが難しいということで知られています。
藤木 [劇中に登場する]絵の中にいる夫妻の役で、僕の奥さんの役は加茂さくらさん。ジョージの先輩の絵描きの役です。難しい歌だった。
日比野 もちろん藤木さんは歌のうまさに定評があるわけですけれど。
藤木 いや、うまいなんてとんでもないです。
日比野 今に比べて音楽的な水準の高くないこの一九八七年の段階で、ソンダイムをやったというのはすごい冒険だったなと思う。
藤木 だって、山口琇也さんが歌唱指導をしてくださったんですから。もう一つ言うとソンダイムは英語と密接に関係があるメロディーであり、歌詞であるわけですから、それに日本語をはめていくということは非常に難しいことだと思う。
神山 井上ひさしさんの芝居に二、三回お出になっていますが、いかがでしたか。
藤木 最初は『藪原検校』[一九八四年九月]でした。
神山 それは『きらめく星座』よりも前ですか。
藤木 前です。新橋演舞場で木村光一先生の演出でした。この間お亡くなりになった[十八代目中村]勘三郎さんが、勘九郎時代に演舞場で『藪原検校』をやったんですよ。それで、中村屋の大先生[十七代目中村勘三郎]もお出になって。僕は藪原検校のお父さんの役と、お父さんが死んだ後の情婦の役、それから船頭さんの役で出たんですね。それがご縁で井上先生が「藤木は面白い役者だ」と見てくださったんじゃないんでしょうか。
神山 そうですか。
藤木 それともう一つ、そのころ、ウィーンの国立ブルグ劇場から『三文オペラ』が来ていたんですね。それを五反田簡易保険ホールで見ていた[一九八三年五月]んですけど、たまたま井上先生が、僕が見に来ているということを分かって、「ああ、藤木はこんなことにも興味があるんだな」と思って、「自分の芝居にも」とお考えになったらしくて。それで『きらめく星座』の憲兵役に結び付いたんです。ですから、『きらめく星座』のお話をいただいたときは、本当に嬉しかったです。
神山 八〇年代は、藤木さんの記憶ではピンマイクはあったでしょうか。
藤木 八〇年代はそろそろあったかもしれない。ただし、今ほど軽量じゃなかった。
神山 それによって何か芝居の動きが変わるとかはありましたか。
藤木 雑音を入れないことはもちろん考えますけど、それに芝居が左右されることはない。全部、稽古です。稽古ができていれば、そういうこともぱっぱとできるし、稽古ができていなければもう空中分解です。
鈴木 井上ひさしさんの作品というのは音楽も歌も。
藤木 はい、ありますね。
鈴木 [作曲家の]宇野誠一郎さんとは稽古で一緒でしたか。
藤木 はい、とっても丁寧に見ていただきました。『薮原検校』は新橋演舞場のときは初演のメンバーである財津一郎さんが塙保己市役をやっていたんですけれども、八八年の地人会の『薮原検校』では塙保己市の役をいただいたんです。これはもう本当に死ぬほど好きな役です。
日比野 一九八八年の一二月、紀伊國屋ホールですよね。
藤木 そうです。宇野先生には、本当に細かく指導してくださいました。指導していただくにあたっては、とにかく言葉を大事にして、いかに自分は生の感情で思い、それが結果としてお客様に通じるような歌い方をするかを主眼にした稽古をしてくださったように思います。とにかく言葉というものに対して並々ならぬ注意を払っていらっしゃった。
日比野 今度は振付家のことなんですけれども、特に印象に残った方というのはいらっしゃいますか。
藤木 謝[珠栄]さんは印象に残っていますね。どうせ役者が話すんだから自慢話になっちゃって恥ずかしいけど、『きらめく星座』のとき、「チャイナタンゴ」をもう一人の脱走兵と最終的にデュエットすると、台本に書いてあったんですね。さっき申しましたように、設計図を持っていかない役者はばかですよ、設計図は書き換えるために持っていくんですけれども、僕の設計図では「ここで歌うだけじゃ絶対につまらない、踊ってやれ」と思って。
これは本当に数少ない井上先生の作、演出なんですよ。それで立ち稽古の最初の日に、演出部にも頼んで、段ボール箱にすき焼きの道具も持って、ねぎの葉っぱだけ出しておいたんです。なぜ出したかというと、踊るときにねぎの葉っぱでもって箱を持とうという魂胆があって。それで最初の立ち稽古で「チャイナタンゴ」を踊りながら歌ったんです。そうしたら、「これは面白いから採用しよう」ということになって謝さんが、僕がでたらめに踊ったのをきちんと正一さん[長男役の役名]ともうまく絡むように作ってくださった。
だからダンスが主なのではなくて芝居の流れが主だということで、芝居と密接な関係がある振付をしてくださる先生が僕は好きなんですね。謝珠栄さんにはそういう思い入れがあります。それから日本人では前田清実さん。『シー・ラブズ・ミー』[一九九五年十二月、帝国劇場ほか]で僕はまた、奇妙なあいまいカフェのウェーター頭の役だったんですけど、それの清実さんの振付はよかったですね。あとは、大地真央さんが主演で井上順さんが出ていた作品[『アイリーン』][一九九八年五月、日生劇場]の前田さんの振付は、僕はその場面に出ていないけれども素晴らしいと思った。最近の話ですけれども劇団☆新感線とご縁があるようになって、『薔薇とサムライ』[二〇一〇年三月、赤坂ACTシアター]に出させていただいたんですけど、そのときの川崎悦子さんも印象に残っています。
前田さんと川崎さんのお二方とも単なるダンスじゃなくて、劇のうねりの中で、お芝居と密接に絡み合った振付で、しかも、彼女でなければ作れないような独特なものを持っていらっしゃるので、そのお二方はすごく印象に残っています。
神山 そうでしたか。前田清実さんと川崎悦子さんですね。
藤木 外国人だと『プロデューサーズ』の[演出・振付だったクリエイト=]ビル・バーンズ。
神山 二〇〇五年八月[青山劇場]のときですね。
藤木 はい。向こうでは演出家ではないんだけれども、長いことキャリアのある方で、どの役も全部できるという方がいらして。その振付も面白かったですね。
『リチャード三世』と『リチャード二世』をやったことが僕の勲章
日比野 では、『リチャード三世』のお話に行きたいと思います。
神山 シェイクスピアの『リチャード三世』は、藤木さんは日生劇場で十七代目の中村屋[中村勘三郎]さんがなさったときにご覧になっている?
藤木 はい、拝見しました。
神山 福田恆存の訳で、日生劇場ができてすぐの一九六四年三月でした。中村屋さんのをご覧になったときはもう二〇歳を超えているわけですけれども、そのときから率直に言ってこんな役をやりたいと思っていたんですか。
藤木 いや、やれるなんて全然思っていなかった。だけど、演劇って素晴らしいな、すごいなというものは感じました。特に『リチャード三世』のタイトルロールには憧れましたね、芝居って、主役ってこういうものなんだと思いましたね。
神山 そうすると、一九八九年十一月の劇団昴の『リチャード三世』[東京グローブ座]でのリチャード三世役は念願が叶ったということでしょうか。
藤木 初めは自分がそういうものをやりたいと思う環境になかった。現代演劇協会に入ったことで、そういうものをやりたいと思うような環境に入ったということでしょうね。
神山 この『リチャード三世』のときはもう[福田]恆存さんじゃなくて[恒存の息子である福田]逸さん[の演出]なんですね。昴の配役の決定というのは。
藤木 理事長[が決定するの]でしょう。
神山 配役発表は、商業演劇みたいに役納めはないから、いきなり発表になるわけですか。
藤木 そうです。
神山 そのときはどのくらい稽古をなさってましたか。
藤木 七週間ですね。
日比野 『リチャード三世』のタイトルロールをやりたいということは、恆存先生にお伝えしたことは。
藤木 もうとっくの前から言ってました。「できないでしょうけれども、僕の夢はリチャード三世をやることで、リチャード三世ができたら死んでもいいです」と言っていました。
日比野 それは入りたてのくらいのころから?
藤木 入って少しお話ができるようになってからじゃないでしょうか。それから、[シェイクスピアの『オセロー』の]イアーゴもやりたかった。結局やってないんですけどね。でも『リチャード三世』のグロスターをやったら「イアーゴ、もういいや」とて思っちゃった。
日比野 だけど藤木さんのイアーゴだったら、見てみたい。
藤木 やりたそうでしょう、僕。
神山 目に浮かびますね。
藤木 あと、やりたくてできた役は、『どん底』の役者。それだって、悔しい話があるんですよ。初演のときはめっかちゾーフの役がついたんです。歌えるからということでね。
日比野 『どん底』の最初の出演は一九七八年[十一月、三百人劇場]ですね。
藤木 そのときは小池[朝雄]さんが主役[ルカー]だったんです。それが、再演になったら、僕が役者の役をやらせていただいたんですよ。
神山 ちょうど十年後の一九八八年[六月、三百人劇場]ですね。
藤木 そうですね。それもすごく嬉しかった。稽古では早い者勝ちというところがあって、役者が死ぬ前に僕はお化粧をして出ていこうとぱっとひらめいたんですね。やってだめならすぐもちろんやめるんですけど、設計図を持っていかない役者は愚かですから。それで、白いドーランを塗ってほお紅だけ付けて、死に行くところまでやったんですね。そしたら、[演出の]村田[元史]さんが「面白いからやろう」と言ってくださって。
神山 それはいい。
藤木 しかも、ロシアの演劇関係の方の目にも触れて、「こんな役者は今まで一遍も見たことがなかったです、絶対面白い」と言ってくださった。また自慢話で恥ずかしいんですけど。
日比野 いやいや。
藤木 そんな嬉しい話があります。だから役者の仕事って勉強することと、役をしっかり責任を持ってやることが大事には違いないけど、もう一つ、我慢しなきゃだめ。辛抱しなきゃだめということがありますよね。だってめっかちゾーフで辛抱しなかったらできなかったんだから。
めっかちゾーフのときには本当のことを言うともう、初日が開いてから二~三日してから、出る前はたまらなくこっち[顔の片側]が痛いんですよ。[片目が見えない役で]変に細工をしても嫌だから、ずっとこうやっていたんですね。そしたら、本当に痛くなっちゃうんですよ。それが、千秋楽が終わったらぱっと直っちゃった。
嫌で嫌でたまらない役だったんでしょうね。でもそれは僕が生意気だからなんですよ。どの役だって引き受けた以上は自分の全力でやっているつもりなんだけど、やっていたら痛くなっちゃったの。でもそこまで自分を殺して辛抱しなきゃ、役者ってやっていけない仕事だと思っています。それが結局自分のキャリアに返ってくる。そのとき断ってしまったらだめですものね。
神山 そうですよね。
藤木 『ハムレット』[一九八四年二月、日生劇場]のオズリックもそう。片岡孝夫[現・十五代片岡仁左衛門]さん主演の『ハムレット』のオズリックをやらせていただいたんですけれども、ほんのちょっとの役だけれど、例によって色のある役なもので、おかげさまで評判がよかったんですね。それで劇団で『ハムレット』をやったら、役が付いたのがまたオズリック。
そうしたらそのとき鳳[八千代]さんが僕に電話をくれてね。「藤木君がオズリックというので私もびっくりした。もし藤木君がオズリックをやりたくないんだったら、私が先生にうまく言ってあげるから、どう?」と言ってくださったんですよ。でも僕は演出家が「太陽が西から出る」と言ったら「西から出る」という考えの持ち主ですから、「ありがとうございます、ご好意だけお受けして僕はやらせていただきます」と言いました。
神山 不本意と言ったらあれですけど、そういう役でも。
藤木 役者はやらなきゃだめなんです。やってなければ、次の『リチャード三世』[演出:福田逸、一九八九年十一月、東京グローブ座]にもつながらないし、その次にまた『リチャード二世』[演出:村田元史、一九九四年九月、三百人劇場]もやらせてもらっているんですから。この二つは僕の勲章ですから、劇団における、というよりも僕のキャリアの勲章。それはやっぱり我慢しないとできないことですから。
神山 『リチャード二世』がまた難しい役ですよね。
藤木 あれももう、好きで、好きで。『リチャード三世』をやって死んでもいいと言ったのにずうずうしいんですけど。今度は正反対のような雰囲気の『リチャード二世』をぜひやりたいと思って、もう劇団に大売り込みしましたよ。
神山 そうですか。
藤木 なかなか実現しなかったんだけど、実現しました。だから本当に、昴の役者の中で一番得をしているのは僕です(笑)。
神山 『リチャード二世』なんかは本当に孤独な感じが出ないとね。
藤木 そうです。でも、やりすぎてもいけないし、難しい。だからどこまでできたか分からないんですけど、とりあえず自分としては、こういう気性ですからベストを尽くしたんです。
大事なのは自分を変化させていくこと
神山 本当に昴で一九八〇年代の終わりから一九九〇年代にかけて、いろいろいい役をおやりになって。
藤木 あと、逸さん[の演出]で『テンペスト』でキャリバンをやらせていただいた。それも嬉しかったです。
神山 一九九六年[十月・三百人劇場]ですね。
日比野 そうすると、昴の中でも本当の主役から、強いけれども脇役という、いろいろな役をやっていらっしゃるということですね。商業演劇に出たときと劇団に出るときとはお気持ちにそんなに差はないですか。
藤木 全然違和感がないです。さっきも申しましたけど、掛けられたお座敷はどんなお座敷でも出ていくという主義ですから。その中でベストを尽くす。なぜそれができるかというと、お芝居には千秋楽があるからですよ。どんなに自分の考えと違う人がいたり、どんなに不愉快に思ったって、千秋楽が終わったらお他人さんなんだもの。それまで我慢すればいいんですから。だから、我慢のしがいがあるんです。それで我慢をした結果、何か次につながっていることもあるかもしれないんですから。
日比野 じゃあ、商業演劇と新劇とかいう区別はまったくない。
藤木 ないです。僕の中にはない。お客様がいて、我々は入場料をいただいてその時間を売っているんですから。
日比野 ただ、商業演劇独特の慣習というのもあったりしますよね。
藤木 「むきむきな花束」というのがあって。
日比野 「むきむきな花束」とは何ですか。
藤木 だから、お客様が欲するものにお応えする。でも、ただお応えするだけでは自分は能動的じゃないから、お応えした上に何か僕なりの花束も添えたいと思うんです。ごめんなさい、高飛車で。
神山 いやいや。
藤木 でも僕はそういう主義です。
神山 どうしたって商業演劇の方が稽古は短いですよね。
藤木 そうです。でも、とにかく稽古が命だから稽古できるように。そのときそのときベストを尽くします。
日比野 今「設計図」とおっしゃっていたけれど、必ずその役の工夫というのを稽古初日には持ってらっしゃっているわけですね。
藤木 もちろん稽古の初日にもちろん持っていきますよ。
日比野 ただ、商業演劇だと本当に言われたことしかやらないような役者さんもいるかもしれない。
藤木 でも、そういうときだって稽古はあるんですから、稽古のときにやってみる。どんなに嫌われようが、どんなに怒られようが。だってやってみればいいんですから。やってだめだと言ったらすぐに変える。そういう意味では僕は自分に固執することは絶対によくないことだと思うんですよ。変わるために稽古に行っているんですから。
神山 そうですよね。芝居はどうしても偶然の作用というのがありますから。
藤木 あります、あります。
神山 それが面白いところですね。
藤木 そうです。だから相手役が大事なんですよ。
神山 僕もおこがましいですけど、一八年間毎月歌舞伎と新派の稽古に付き合ってきて、歌舞伎でも本当に偶然なんですよね。いくら考えてきても、それ以外のものがふっと出てきて「あ、それでいこう」となる。でも、おっしゃるように最初から何も考えていないんじゃ、偶然も出て来ないんですよ。
藤木 それは稽古が基になっているんですよ。稽古が基になって、幸運な演劇の神様がちょっとぼたもちをくれるという感じなんです。
日比野 また作品の話に戻りたいんですけれども。新劇団協議会が主催した『真田風雲録』[一九八八年一月、よみうりホール]に由利鎌之助で出られたんですが、これは土居甫さんが振付をなさった。
藤木 はい、それも先手必勝でやりました。これはこういう作風だからラップでいこうと思って、やっちゃいました。そしたら土居さんがそれをもうちょっと洗練された形で振付をしてくださって、そのラップが通用しました。
日比野 その一方で、加藤健一さんのところでもストレート・プレイをおやりになっている[一九八九年八月、加藤健一事務所『ステイジ・ストラック 女優を妻に持つ男の場合』、紀伊國屋ホール]。本当に振れ幅が広いというか、いろいろなことをおやりになってくるのが一九八〇年代の終わりくらいからですかね。
藤木 そうですね。節操がないといったら節操がないのかもしれない。何しろ、嫁に行くわけじゃないけど、そのうちに行ったらその家風に従った上で、自分がどう動けるか。自分は設計図を持っていくけど、あくまで設計図であって自分はいろいろ変わりたいと思うんです。でも、最終的に出るのは僕なんですからね。今どきは、「個性が」「自分が」というけれど、自分というのはもうとっくにあるんだから、それよりも大事なのはいかに自分を変化させていくかということだと思うんです。
日比野 その後一九九〇年には『THE LADY AND THE CLARINET――今夜あなたとクラリネット—』[作:マイケル・クリストファー、演出・訳:鵜山仁、一九九〇年三月]や『バス・ストップ』[作:ウィリアム・インジ、演出:中村哮夫、制作:オフィス・ナイン、一九九〇年六月]という博品館劇場で上演された二つの作品に出演された。これは先方からお話が来て出演することになったのでしょうか。
藤木 そうでしょうね。いや、プロデューサーから売り込みがあったのか、マネージャーが売り込んだのかというのは、僕は厳密には知らされないんですよ。でも、少なくとも僕は自分のマネージャーには、「来た仕事はとりあえずまとめる方向でお願いします、死ぬほど嫌な仕事以外はやるから」ということで。
日比野 オフィスぱれいど『ソング・デイズ』[一九九一年十一月、パナソニック・グローブ座]に出たのは。
藤木 それはもう、ちあきなおみさんと出られるということで、しっぽを振って行きました。
日比野 その後は、小説家の島田雅彦さん[作・演出]の『ルナ』[一九九二年五月、銀座セゾン劇場]にも出られた。
藤木 それは島田雅彦さんの小説を読んでましたから。『仮名手本ハムレット』[一九九二年六月、俳優座劇場][由良之助・ハムレット役]も、まず木山事務所からお話が木山事務所から来たんですよ。台本も読まないでオーケー出しました。なぜだか分かる?
日比野 分からないです。
神山 ハムレットっていう名前でしょう?
藤木 だってあの年でハムレットは絶対できないんだから。ハムレットができるなら、なんで断る必要がある? だから台本も読まないでオーケーしました。台本を読んだらますます面白い作品でね。楽しい思い出です。
藤木 サントリーの会長さんがもう本当に喜んでくださってね。
神山 そうですね。作者が[当時]サントリー会長[佐治敬三]の娘さん[堤春恵]なんですね。
藤木 ああ、そうなんですか。それはそれは。
藤木 [ニューヨークの]カフェ・ラ・ママでやったじゃないですか[一九九七年二月、ラ・ママ・エクスペリメンタル・シアター・クラブ・アネックス<現在はエレン・スチュワート・シアター>]。
日比野 ええ。実は私が拝見したのはその時なんです。
藤木 また自慢話してしまいますけど、カフェ・ラ・ママの[創設者の]黒人の女性が僕のところに来て、“You are beautiful”と言ってくれた(笑)。
日比野 エレン・スチュワートですね。その頃はまだ生きてらしたんですね。二〇一一年に亡くなっています。
藤木 ああ、そうですか。
野田秀樹作品への出演
日比野 藤木さんはその後に、『虎―野田秀樹の国性爺合戦―』[一九九四年十二月、日生劇場]をやられている。
藤木 それもだから、酒井さんのおかげですよね。
日比野 そうですか。
藤木 東宝で『夏の夜の夢』[一九九二年八月、日生劇場]と『国性爺合戦』に出たのがきっかけで[野田地図の]『南へ』[二〇一一年三月、東京芸術劇場]という芝居もやったし。
日比野 そうですね。野田さん演出の芝居はその三本ですね。野田さんはどうでしたか。
藤木 いや、面白い、面白い。独特だし、彼独特の言葉を持っているじゃないですか。それに惹かれる。
日比野 野田さんの作品は動くということが結構重要だったと思うんですけれども、日本のミュージカルは歌が中心で、そんなに踊るところがなかったりする。藤木さんは歌と踊りのバランスはどういう感じのものが好きですか。
藤木 だから僕は、好みはないんですよ。その作品の基になる台本によって、どう作るか決まってくるんじゃないですか。僕は作るということに関しては才能はないです。ビルギット・ニルソンというソプラノが言った言葉なんだけれども、「あなたは長いキャリアを持ち、最高の歌唱者として引退されましたけれども、演出をなさる気持ちはありませんか」と言われて「私は優秀な看護婦です。メスを持つことはできません」と。その質問に関しては、僕の答えもやっぱり「メスを持つことはできません」なんです。それは作る方が考えることであって、それをいかにやるかが僕の仕事。
ですから野田さんのもいろいろ動きがあったけど、とにかく稽古場でトライしてみる。まず自分の設計図でやってみる。それをいかに変えていくか。人に出すダメ出しを聞いていると自分を変えるのにすごく楽なんですよ。
自分に来たダメ出しは、自分には設計図もあるしやるのは難しいんだけど、人に来ているダメ出しをいろいろ聞いていると「あ、この人はこういうセンスなんだな」と。ここのうちに来たらこの家風に合わせて動けばいいんだとか、動けない場合はこうしたらこの家風に合うんだなとか、そういうふうに考えるようにしています。だから、ダンスが主なのが好きとか、歌が主なのが好きというのはないです。よければ何でもいい。
日比野 演出家としては最高の役者さんですよね。
藤木 そういうふうに思ってくれる演出家に使われたいと思っているんですけれども、腕次第ですからそこが大変なところです。
神山 いやいや。野田さんのときも振付は前田清実さんなんですけど、やっぱり藤木さんの個性というものをうまく引き出すんでしょうね。
藤木 それはおかげさまでやってくださっていると思いますね。
神山 もっと後ですけど、『タイタニック』[演出:グレン・ウォルフォード、二〇〇七年一月・二〇〇九年一月、東京国際フォーラムホール/演出:トム・サザーランド、二〇一四年十月、日本青年館ホール、二〇一五年三月、シアターコクーン]の役でも、藤木さんの足取りが面白いんですよ。あれなんかどこまで意識なさっているのか分からないけど、一度見たら忘れられないようなあの足取りが目に浮かぶ。
藤木 でも実を申しますと、もうこの一五年、右の膝がよくなくて。そういうことも稽古に入ったときにすぐにお話しして、それで考えてくださいということを言っています。それはしょうがないです。
神山 でも、独特のステップで魅力があるというのは大したものですよ。やっぱり若いころの歌手だったころのあの動きがどこかで生きているという感じがないですか。それとも、まったく別のものだと思われますか。
藤木 いや、三つ子の魂百まででね。やっぱり歌うとか踊るとかということは、芸能界に入る前から好きだったことで。本当に歌は下手でも平気なんですよ。僕は子供のころから「お前は[歌が]うまい、うまい」といろいろ言われてきたので。ところが芝居となるとそれがなかなか。今はもうなくなったんだけど、十年くらいまでは、芝居がうまくないということとの葛藤でしたね。
日比野 東宝芸能学校に入る前には歌やダンスは習ったことはあったんですか。
藤木 ないです。ただし、玉川学園のころ、「お前は声がいいから」と独唱に選ばれたりしたことはありました。
神山 ある本によると、渡辺美佐さんから最初のツイストを直接教わったとか。
藤木 当時は米軍のキャンプがあったでしょう。そこにジャニーズのメリー[喜多川]さんと美佐さんが僕を連れていって、「見ろ」と言って見せてくれて。それで僕はわりとすぐできちゃうのでツイストを踊ったんですよ。
神山 美佐さんが直接ツイストを教えたというのは伝説なのかと思ってましたけど。
藤木 いや、一緒に行ったんです。メリーさんがそっちの方に詳しかったもので。メリーさんと美佐さんが僕を連れて、できたらそこで[ツイストを]やろうということだったんです。
神山 そうすると最初のころは、ドラマで動きがないというのは、辛かった印象はありますか。
藤木 いや、というより芝居というもののコツというか、本当に見るだけで素敵だなと思っていた世界で自分がいざ動くとなると、勝手が分からなかった。暗中模索で来たんだと思います。
神山 歌舞伎の役者でも若い世代になると、「動かないでじっとしているのが辛い」と言うんですね。「何かしないでいいんですか」とわざわざ聞きに来ることもありました。役者さんはじっとしているのは結構つらいものなんでしょうね。
藤木 じっとしているということができたら、その役ができたということなんですよ。勝負は、その役で登場をして台詞をいうまでに、頭のてっぺんから足先まで、お客さんが見て「その役だな」と思ってくださるまでになっていないとだめだということなんでしょうね。
若い役者に交じっても遜色ないようにやりたい
日比野 先ほどの話の続きなんですが、スイセイ・ミュージカルに出られて、『プリマ・ドンナ』で何度か再演をされた[一九九六年八月、東京芸術劇場中ホール/一九九八年三月、紀伊國屋サザンシアター]。
藤木 そう、あれも面白かった。アンデルセンの役でしたよ。完全な片想いをしているような屈折した役で、僕なりにいろいろ設計図を書いてやりました。それから、そのときの作曲家の八幡[茂]さん。東宝の音楽なんかもなさっていた方なんですが、ジェニー・リンドに対する報われない愛の歌を歌うアリアがあったりして、とってもいい曲を作ってくださって、もう[楽譜を]抱いて寝ましたよ。
日比野 『42ND STREET』[一九九七年十二月、日生劇場]では、振付は藤井真梨子さんと上島雪夫さんになっていますが、何かご記憶は。
藤木 『42ND STREET』では僕はタップとかを踏まない役ですから。上月[晃]さんの相手役だったので、芝居とちょっと歌があるだけの、サポーティング側のアクターの役なんですよ。だから、[振付家とは]あまり深くお付き合いがないんですね。上島さんは才能のある方だと思います。
神山 大地真央の主演の『アイリーン』[一九九八年四月、日生劇場]は。
藤木 『アイリーン』の前田清実さんの振付は本当に印象に残った。面白かったです。
日比野 『王様と私』[一九九八年七月、劇場飛天/一九九九年十二月、帝国劇場]などで中村哮夫さんともお仕事をなさっていますね。
藤木 あと、先ほど触れられた『バス・ストップ』もご一緒させていただきました。中村先生から指導を受けたときに一番印象に残っている言葉があるんですけれども、「立ち位置で関係が決まる」とおっしゃったんですね。渡辺保さんも書いていらっしゃいますけど、舞台の中央というのは必ずしもいい場所じゃないです。そこは演劇の神様が宿るところだから。
僕は、立ち位置で人間関係というものが決まるということの信奉者なので。立ち位置で言える台詞も言えなくなっちゃうんですよ。だから、立ち稽古の初日が大事なんです。特に中村先生とのお付き合いではその言葉がすごく印象に残っていて、常に立ち位置で立っていられるか、立っていられないか決まるということを特に意識するようにしています。本当に僕の場合、十センチでも言えるせりふが言えなくなってしまうんですよ。
神山 歌舞伎でさえも、立ち位置の距離を二尺離すだけでも全然関係が違って見えるんですね。
藤木 やっぱり日本人は生理で、上手に立つときと下手に立つとき、上手から登場するときと下手から登場するときとは全然違う。これは恐ろしいよね。だから要するに、こんな僕でも何の勉強もしてないのに歌舞伎の影響ってあるんですよ。
日比野 劇場の大きさはどうでしょう。新劇の場合は三百人劇場のような中劇場、商業劇場の場合には帝劇や東京宝塚劇場のような大劇場で、演じかたは変わってきますか。
藤木 もちろん変わります。
日比野 具体的にいうと、どう変わるんでしょうか。
藤木 具体的にああだこうだとは言えないんですが、自分が[舞台に]立ったときには、もう本能的になっちゃうんですね。でも本能になるには稽古が一番大事。稽古でしっかりと役のへそを捕まえていて、共演者を信頼することができて、芝居がうまくいけば、本能でいけるんです。でも、芝居がうまくいかないと声も出ないしやっぱりだめです。だから稽古がだめなら、小劇場であろうが、中劇場だろうが、大劇場であろうが全部だめです。
稽古が命ですから、稽古をちゃんとやっていれば、そのときに合ったサイズの演技ができるんじゃないでしょうか。
日比野 御出演作品についてのお話に戻らせてください。二〇〇〇年の九月にシアターコクーンで『グリークス』、オデッセウスの役でした。
藤木 大人数の大プロダクションでした。
日比野 何か印象に残っていることはございますか。
藤木 さっきも話したようにこういう気性ですからベストを尽くしたつもりなんですけれども、その後蜷川先生から出演交渉がなかったということは、蜷川先生は藤木孝という役者をお好みじゃかなったということじゃないでしょうか。残念なことです。
日比野 これだけ大勢いますから、全員には声を掛けられないですよ。平幹二朗さんとはこのときだけですか。
藤木 いや、これをご縁に、平さんの「幹の会」で、平さんが『リア王』[二〇〇二年十一月、紀伊國屋サザンシアター]をやったときに二番目の娘[リーガン]のだんな[コーンウォール公爵]の役をやらせていただきました。その後もっと嬉しいことに、平さんが『オイディプス』[二〇〇四年十一月、紀伊國屋サザンシアター]をやったときにテイレシアスをやらせていただいたんです。
神山 それはいい役だ。
藤木 盲目のね。一番嬉しいことは平さんが「藤木君、僕、今度『オイディプス』をやるんだけど、君に出てもらいたい。クレオンでもいいしテイレシアスでもいいし、どっちがやりたい?」と言うから、一分も考えずに「テイレシアスをやらせてください」と言ったんです。
日比野 あ、そうですか。
藤木 そりゃあ、そうですよ。そのとき、僕はもう六〇歳か五九歳ぐらいでしょ。テイレシアスはうんと頑張れば未来がある。クレオンにはもう未来がない。だって、頭の毛がまっ黒い魅力的な俳優がいっぱいいるんだから、勝ち目がないじゃないですか。それに、テイレシアスという役にすごく魅力がある。昴で[クレオンを]やったとき[一九八三年十月、三百人劇場]はテイレシアスだなんて思いもしなかった役ですけど。
神山 そうでしょうね。まだ若かったからね。
日比野 平さんとは演技の質という点でも合う気がします。
神山 芝居の波長が合うというか。
藤木 目を掛けていただいた感じがします。
日比野 亡くなって、残念ですね。
藤木 はい、それはもう、残念です。
神山 その三年後ですか、[第三八回]紀伊國屋演劇個人賞をお取りになった『ナイチンゲールではなく』[作:テネシー・ウィリアムズ、二〇〇三年十月、三百人劇場]。
藤木 はい、これは村田[元史]さんの演出でした。これも実は平さんが見に来てくださったんですよ。「僕に言わせると、君、ちょっと生活感がないね」って(笑)。でも、僕にとってはそんなふうに言っていただけることがうれしいんですよ。だって、お他人様は絶対そんなことを言ってくれない。いいところを言ってくれるだけ。
神山 昴の最後は『ナイチンゲールではなく』ですか。
藤木 そうですね。
神山 お辞めになった後、悪い意味で使っているんじゃないんですけれども、一種の「怪優」みたいなイメージでお出になっている。
藤木 うん、それでいいと思っています。
神山 映画の世界にしても演劇にしてもフィクションの世界は一種の怪優の魅力なくしてはありえないわけですから。意識的にというより、結果的にそうなったということですね。
藤木 そうです。欲張りですから、そうじゃない役も喜んでやりたいと思ってます。「変な」が付くと、腕まくりして何かできちゃうんだけど、普通のお父さんとか普通の男性像を作るのが難しい。
神山 今回[二〇一六年三月、世田谷パブリックシアター]の『イニシュマン島のビリー』のお医者さんの役。いい意味で言うんだけど、藤木さんみたいな昔風の新劇の台詞回しというのがたまらない魅力と思って。すごくよかった。
藤木 ありがとうございます。また自慢話で見苦しいけど、その後すぐに『BENT』でも、おじさんの役で一場面ですけど、出させていただいたんですよ[二〇一六年七月、世田谷パブリックシアター]。稽古して一週間ぐらいのときにマネージャーのところに電話がかかってきたんです。僕と稽古してみて、「ああ、じゃあ、藤木にやらせたい」と森[新太郎]さんが思ってくださったということがすごくうれしかった。来年『パレード』というミュージカルでまた森さんでやらせていただきます[二〇一七年五月、東京芸術劇場]。この年になると、若い演出家の方に関わりを持たせていただけてうれしいですよね。
神山 今の若い世代の役者はどうしても台詞がテレビで見ているのをそのまま舞台でやるみたいなところがあるので、ちょっと物足りなく思うし、藤木さんみたいに昔の新劇の台詞回しを非常に響く声でやられるといいなと思いますね。こういう意見は聞きませんか。
藤木 というよりも、僕は欲張りだから若い人たちと交ってやっても遜色のないようにやりたいと思うんです。もちろん年上の役なんですけど、違和感のないようにアンサンブルは気を付けながらやっています。「自分が美しいと感じる言い方が、今の若い人たちが美しいと感じる言い方じゃないかもしれない」とすごく疑いながら稽古場に行きます。稽古場が大事で、稽古場でできなければ[本番で]できないですから。
稽古場でそういう実験をして、自分が美しいと思ったり、自分がこれがいいと思ったものが今の若い人たちにとっていいとは必ずしも限らない。これ[スマートフォン]ばっかりやっている子が相手なんだし、お客様もそうなんだから。先ほど言ったようにむきむきな花束で何とか付き合わなきゃ。
神山 今は、藤木さんより年長の演出家って少なくなりましたからね。
藤木 そうです。年長者で言いづらいことがあるだろうから、とにかく一言でも僕に話し掛けやすいように持ち掛けます。だって言ってもらわなかったら、いつもの通りの藤木孝で、お客様に「またかい」と飽きられちゃいますもの。
新劇からミュージカルまで、自由に行き来する
大原 私が拝見している中で、その『プロデューサーズ』の演出家の役が印象に残っているんです、会見か何かでヒトラーをやってみたかったというようにおっしゃっていたと思うんですが。
藤木 ヒトラーという人物は好きじゃないんだけど、若いころ『リチャード三世』をやったら死んでもいいと思ったように、題材としてヒトラーってすごく面白いと思って。何かでヒトラーをやるチャンスがあったらもう本当にやりたい役なんですよ。魅力があるんですね、役者としての僕にとって。だから、劇中劇の場面でちょっとでもヒトラーをやるとすごく楽しいんです。
神山 そういえば、藤木さんは意外といえば意外ですけど、三島由紀夫の芝居には出たことはないんですよね。
藤木 はい、ないです。若いころ、『鹿鳴館』は杉村先生が初演でなさったのは見てないんだけど、[初代]水谷八重子先生ががんで入院なさって、復帰なさったのを拝見しているんですよ[新派公演夜の部、一九六二年十一月、新橋演舞場]。そのときは久門[祐夫]さんという俳優さんが息子の役で、憧れましたよ。それから、『サド侯爵夫人』。中村伸郎先生が出た[文学座の]『十日の菊』[一九六一年十二月、第一生命ホール]も初演を見てます。丹阿弥谷津子さんが主役で。
神山 でも不思議ですね。三島さんの台詞は藤木さんの声で聞こえてくるような感じもするんだけど。
藤木 最近、三島さんの話をしたんですけどね。『BENT』をやってて、僕は一場面しか出ないじゃないですか。ですから、わりと[作品を]引いて見られたこともあって、出来上がった作品を見て、「この作品は、やっぱり三島さんに一番見てもらいたいな」と話をしたんですよ。なぜかというと、あの舞台で森新太郎さんの演出で、僕は幽玄の世界を感じました、お能の世界と一幕通じるようなステージングとか、あるいは演出の包丁さばきと言うんでしょうか。それを僕は感じたんですね。ですから、『近代能楽集』をお書きになった三島さんがこの『BENT』を見てくれたら、「面白かったよ」と言ってくださるんじゃないかなと思って、楽屋内で話した覚えがあります。
神山 さっき水谷さんが復帰した『鹿鳴館』を見たとおっしゃってましたが、あれは[影山伯爵役の]森雅之さんがよかったでしょう。
藤木 東宝の酒井さんが「藤木君、これから年を取っていくんだから、森雅之さんを目標にしなさい」なんて言っていただいたことがあります。素敵な俳優さんでしたね。あの影山は絶品でしたね。
大原 近年ミュージカルに出られることがわりと多いかなと思うんですけど、ミュージカル初期のころからやってらして、最近のミュージカルの傾向はどういうふうにご覧になっていますか。
藤木 僕はそんなにたくさん見ていません。好き嫌いの問題からの範囲から言うと、やっぱり演劇の方が好きなんですね。僕の道楽はオペラなんですよ。演劇も最近嬉しいことにナショナル・シアターのライブだとか、今もケネス・ブラナーのライブを[映画館で]やっているでしょう。ああいうのを見たりしているので。ミュージカルも魅力的だし、若いころ夢中になっていましたし、今もお話があればすごく出たい。この年でもまだいくらか歌えるんですからまだやってみたい気持ちはいっぱいあるんですけれども、ミュージカルよりも芝居で働かせてもらいたいというのが本音です。
最近のミュージカルの傾向で言ったら、僕の感想ですけど、すごく水準が上がっていると思う。歌唱力でも舞台の作り方でも、それはもう雲泥の差ですよ。『マイ・フェア・レディ』の時代よりも、もうずっと進歩していると思います。だから、日本製のミュージカルが今こそいい作品が見ることができたらいいなというのが僕の夢です。
神山 菊田一夫以来そういうことを言って、半世紀以上になるわけですから。
藤木 そろそろ機は熟したりかもしれない。スタッフの面でも、俳優部の面でもどんどんテクニックが上昇していると思う、大変な進歩だと思います。
日比野 オペラは本当に若いころからお好きだったわけですよね。
藤木 要するに渡辺プロダクションで歌手として挫折しているでしょう。ですから僕にとってポピュラーミュージックというのは、ストレスが入って本当の娯楽にならないんです。自分と関係のないもので、クラシックの方がずっと聞いていて楽なんですよ。
神山 別世界ということですかね。
藤木 そうそう。だからこそ逃避できて、楽になれる。そんなことで。それともう一つ、僕はマリア・カラスのレコードを聞いてもう本当に彼女のファンになったので、それがきっかけでカラスが付き合ったバーンスタインさんがお得意だったマーラーが聞きたくなる。カラヤンが好きなリヒャルト・シュトラウスやチャイコフスキーというふうに、どんどん広がっていったんですけど、元はマリア・カラスなんです。
マリア・カラスの『ノルマ』を聞いたのが、とにかくグサっと刺さってしまって、それがきっかけなんですよ。何しろ、彼女の歌唱は素晴らしい。オペラファンなんだからアイドルを探したいんですけど、いまだにカラス以外だめなんです。
神山 でも、それが本当のオペラファンという感じがしますよね。
藤木 そうなんですよ。今はアンナ・ネトレプコという人が天下を取ってやっているんですけど、彼女も素敵は素敵なんだけど、歌だけのことを言えばもう、点数を付けたら三点と二〇点ぐらい違うんですよ。でもアンナ・ネトレプコが売れる理由があるんです。すごく演技がうまい。僕は古いタイプの観客ですから、おばさんでもいい声が出て、その声の中にドラマがあればいいんです。きれいな人を見るんだったらファッション雑誌を見ればいいんだし、世界に一つか二つしかない声を聞きたくて行くわけですからね。
日比野 藤木さんの中ではオペラのようなハイカルチャーとポピュラーカルチャーというのは、まったく区別がなくつながっているものなんですかね。実際にやったのはポピュラーカルチャーというかポピュラー音楽だったわけですけれども。例えば新劇がハイカルチャーでミュージカルはポピュラーカルチャーみたいな言い方をすると、藤木さんの中ではそれは自由に往復できる。
藤木 要するに、好きか嫌いかですよ。だって、人間ってそうじゃないですか。ステーキをたまらなく食べたいときと絶対食べたくないときがあったり、お寿司が好きな人と嫌いな人がいたりするわけで。それと同じ感覚で文化に対しても、自分の仕事に関しても好きか嫌いかだけです。
日比野 一方では、新劇が一番偉くてそれはあとは全部だめだという考え方もあるかもしれない。
藤木 僕は全然ないです。好きか嫌いか、付き合えるか付き合えないかだけですね。