基本情報
取材日:二〇一五年十二月三日
取材場所:成蹊大学
編集・構成:鈴木理映子
監修:川和孝
イントロダクション
英語にunsung heroという表現がある。「無名の英雄」と訳されることが多いように思うが、英語圏の社会でこの形容をされる人々は、必ずしも日本語の「英雄」に相応するような「偉業」をなしているわけではない。ここでいうheroは、地味で目立たないが、社会にとって必要な役目を黙々とこなす人々だ。そして賞賛に値するのに現実にはそうではない(unsung)ことは、とりわけ公平さ(fairness)の感覚を重んじる英語圏の社会において正されるべき事態だ。いったん光が当たれば、誰もが感嘆するような出来栄えの仕事をしているにもかかわらず、実際そのことに気づく者はごくわずかであることに義憤を感じた誰かが、そういう人をunsung heroと呼ぶ。
川和孝は演劇界にとってそんなunsung heroの一人だ。二十世紀は演出家の時代といわれ、ピーター・ブルックをはじめとする演出家が脚光を浴びた。日本でも蜷川幸雄や鈴木忠志のような、演出家専業でありながら世界的名声を獲得する人々も現れた。しかし二十世紀でも現在でも、大半の演出家は人目につくような派手な仕事をするよりも、ときに「交通整理」と揶揄されるような、舞台上での俳優の位置や入退場のタイミングの確認に追われる。キャストやスタッフたちの間のエゴや意地のぶつかり合いを調停することを優先させ、アーティストとしての自分の表現は二の次になる。それでも大概の演出家は文句を言わず自分の職務をこなす。舞台芸術にその身を捧げ、作品が上演されて「生きられる」ことが何より大切だと心得ているからだ。
このオーラル・ヒストリー・プロジェクトが演出家への聞き書きを何度か行ってきたのは、そのようにして演劇文化を作り上げ維持するのに力を貸してきた演出家の方々の仕事を顕彰したい、という思いがあったからだ。よほどの演劇好きでない限り、川和氏のお名前を親しく耳にしている人々はそういないかもしれない。だが、俳優座劇場から青年座を経て一九六一年に鷹の会を中田耕治とともに結成、それ以来簣(き)の会などで筒井康隆の戯曲を上演し、一九九四年以降はシアターχで「日本近・現代劇秀作短編劇一〇〇本シリーズ」と銘打ち、「名作劇場」として忘れ去られた一幕物を次々と舞台にかけていった川和氏が手がけた仕事の数と幅広さは、日本の演出家としては屈指のものだ。
演出作品の多さに比べると川和氏のお名前がそう知られていないのは、一つにはフリーランスの演出家として活動し、大手劇団に所属していなかったからかもしれない。劇団としては鷹の会を主宰したのが最後で、以後エイ・アンド・ピーのようなプロデュース会社は作ったものの、古巣の俳優座や青年座に戻ることもなく、また大手の興行会社と組むこともなく、いってみれば一匹狼であり続けた。「性、狷介、自ら恃む所頗る厚く」というところがなかったとは言えないことは、業界内の噂に詳しくない私のような研究者も漏れ聞くところではある。だが私たちが伺った際の話しぶりは穏やかで、深い川は静かに流れるのたとえどおり、一つ一つの言葉が含蓄を含むものだった。
ご自身の仕事もさることながら、一九三二年生まれの川和氏の体験を伺うことは、戦後日本演劇史を間近に感じることでもあった。敗戦直後の寄席通いにはじまり、俳優座に属してからもピカデリー実験劇場や三越劇場、日本人観客は入れなかったアーニー・パイル劇場、さらには伝説的な久保栄『林檎園日記』帝国劇場公演などで照明を担当し、青年座の立ち上げに関わり、一九六五年にフルブライト奨学金でイェール大学に留学すると山崎正和『世阿弥』合衆国初演に立ち合う。その後パリでジャン=ルイ・バロー劇団のもとに身を寄せることもあった。一九七〇年代半ばからは筒井康隆戯曲の上演が始まり、一九九三年3月には「筒井歌舞伎」として書かれた『影武者騒動』を菊五郎劇団で上演、九世市川團蔵が主演した。その後一九八四年からは一年に二度のペースで、小山内薫「息子」から始まり御荘金吾「貧乏神物語」まで百本の作品を上演したことは前述した通りだ。
最後にお詫びをしなくてはいけない。二〇二〇年四月に上演するはずだった「第49回 名作劇場」は、コロナ禍で二度延期され、二〇二一年十一月に上演されたが、これが川和氏最後の演出作となった。二〇二〇年一月に奥様の二和子氏とともに新型コロナウィルス感染症により逝去されたからだ。本来ならばこの聞き書きは生前の川和氏に最終稿を確認していただいてから公開するべきだったが、編者の怠慢により原稿のチェックが遅れたため、最終的な編集・構成はご逝去後に実施することになった。
以上のような事情ではありますが、日本近現代演劇史についての数々な貴重な証言を埋もれさせるにはしのびなく、ここに公開することにいたしました。写真も取材当時ご本人の許可を得て撮影したものを使用いたしました。川和氏の著作権・肖像権等の継承者の方が、万一この取材内容の一部または全部についてご異存がある、ということがあれば、誠意をもって対応させていただきます。hibino(あっとまーく)oraltheatrehistory.orgまでご連絡ください。(日比野啓)
照明スタッフとして体験した戦後演劇
日比野 まずは先生の略歴からお伺いしたいと思いますが、お生まれは東京ですか。
川和 ええ、ずっと東京で、本籍は目白です。芝居をやりたいと思ったのが高校くらいの時でしょうか。前進座にいた人がきっかけでした。大学はできれば親からお金を出してもらわないで行けたらいいなと考えていたんです。それで受験したのが早稲田と日大の芸術学部と東京学芸大学。当時早稲田は四年間で十五万円かかりました。当時は大金でしたから、これは弱ったと。日大はいくらだったか覚えていないですが、公立の学校の方がいいかなということで東京学芸大学に入ったんです。大学と名のつくところならいいだろうと。それですぐ、一九五〇年に俳優座演出部の研究生になりました。俳優座劇場が一九五四年にできますが、その年までいました。
日比野 そうすると、高校生、いや中学生のころからお芝居をご覧になっていたわけですね。
川和 私はどっちかというと寄席へよく通っていたんです。新宿末広[亭]へお弁当を持っていって。そのころは入れ替え制がなかったものですから、午前十一時半に前座が出て、十二時から真打ちや何かが出てくるわけですが、そこから夜九時半までずっと。
神山 それは、戦争直後くらいのことですか。終戦のときは十三歳でしたよね。
川和 そうです。中学二年です。
日比野 そうすると志ん生、圓生が帰ってきていましたか。
川和 ええ、圓生師匠は、個人的にもよく知っています。うちが柳家小さんのうちのすぐ近くだったもんですから。これは俳優座よりもっと後のことですが、私はぞろぞろ会といって、ぞろぞろお客が来るようにという落語会を主催しまして、そこに小さん師匠や圓生師匠の弟子なんかを集めていたんです。
日比野 その時には小ゑんといっていた頃の談志や今の小三治もいたんですね。
川和 そうです。
日比野 話を戻しますが、中学生のときに朝十一時半から夜九時半まで、ということは学校はさぼっていたということですか。
川和 そうです。落語は小学校くらいからきき始めて。
日比野 先生のおうちというのは、演劇に親しむようなご家庭だったんでしょうか。
川和 いえ、全然。一番上が男で、あいだ三人が女で、私、という五人きょうだいですが、みんなまともで、私だけが脱線しちゃった。学校には行かなかったというか、勉強ができませんでしたので、ずっと劣等生だったんです。僕は後にフルブライトの留学生試験に受かって留学しましたが、昔を知っている連中は誰も信用してくれなくて。帰国したときにも「お前、英語でしゃべってみろ」なんて言われるくらいひどいものでした。旧制中学でも、戦争が始まると英語は廃止になっちゃうでしょう。それで一、二年で敗戦になって。ですから、当然、英語はできません。だから、わたしなんかの世代は、いちばん学歴に反比例するような劣等生ばかり。
神山 中学の旧学制と新学制の境目は昭和七年生まれですから。ちょうど境目でいらしたんですね。そうすると小学校は国民学校で。
川和 そうです。中学を卒業するときは新学制です。ですからずいぶんかかりました。そのおかげで出られた。
神山 さきほど、芝居を観るようになったきっっかけが前進座だったとおっしゃいましたが、それはもともとの知り合いがいらしたんですか。
川和 前進座の高瀬精一郎というのが私の仲間だったんです。あれは坂東調右衛門さんのせがれでしたから。
神山 その息子さんも女形ですね。坂田藤十郎の弟子の中村扇乃丞。それで、寄席に通う一方で、芝居を観るようになって。
川和 ええ。それで、俳優座に入る前から、アルバイトのような感じで、照明の仕事を始めたんです。照明を仕事にするつもりはなかったんですが、照明というのは、日本舞踊に行ったり、ストリップに行ったり、歌舞伎をやったりしますよね。いろんなジャンルに触れられるということでやっておいた方がいいんじゃないかなと。なかでも歌舞伎の照明をたくさんやらされました。あのころの照明さんには、遠山静雄さんとか小川昇さん、篠木佐夫、穴沢喜美男さんというような方たちがいて、私は篠木さんの弟子というか、その傘下で働いていました。当時は、歌舞伎座でも、照明は、大道具さんからも「電気屋」なんて言われてました。俳優座に入ってからも、昼間は三越劇場で俳優座のこども劇場がありましてそこで、夜はピカデリー実験劇場でというように照明の掛け持ちをしていました。実験劇場は、菅原卓なんかが中心になってやっていたころです。
神山 一九五〇年ごろですね。田村秋子主演の『ヘッダ・ガブラー』[一九五〇年十月・ピカデリー劇場]もこの年の上演です。
川和 ええ、ですから毎日観ていました。田村さんはその後文学座に出た時も観ています。
神山 『ヘッダ・ガブラー』には千田是也が出ていたでしょう。
川和 ええ。『令嬢ジュリー』[俳優座・一九五〇年九月・三越劇場]のジャンと、あとは『廿日鼠と人間と』[一九五〇年二月・ピカデリー劇場]も。
神山 [尾上]九朗右衛門が出たやつですね。
川和 ええ。九朗右衛門とはそれが縁で、彼はハワイ大学に行っていましたが、アメリカで会ったときにも、いろいろと古い話をしたりしました。
神山 俳優座と三越劇場とで照明を掛け持ちしていたというのは、どういうわけだったんですか。
川和 私は一九五〇年に俳優座に入ったんですが、演出部では飯が食えませんから、やはりアルバイトとして、大道具をやるか照明をやるかということになりました。大道具ですと、重いものを持たされたり、気持ちもどこか荒っぽいところがありますから、それで照明を選んだんです。大木靖や広渡常敏なんかも一緒でしたが、彼らは大道具だった。今でも、三越劇場にいくと『桜の園』[俳優座・一九五一年一月]のことを思い出します。二階にフロントスポットがありますね。その色を幕ごとに変えなきゃいけないんです。でも、僕は毎日昼夜働いていますから、もうクタクタになっていて、ちょうど序幕から二幕になるときに寝ちゃったんです。[二階では]「あれ、どうしたんだ、戻ってこないな」となっているんだけど、配電盤の方では知らないで、そんままスイッチを入れた。そうしたら、僕の担当のところだけバーっとスポットが当たっちゃって。あとで怒鳴り飛ばされました。あのころはそういうトチリが多かったです。
日比野 演出部ではお金が出ないというのは、固定給がなくて、公演で演出部の仕事を担当した者だけが給料を得るということですか
川和 そうです。特に最初は研究生ですから。そうするともう、交通費も出ないんです。
日比野 正式に演出部に所属すると月給制になるんですか。
川和 いえ、それはなかったです。ですから後になって青年座に移ったときには、演出部は月給制で、月三千円くらい出すようにしました。
神山 研究生ですと授業にも出ますよね。養成所の講義はどういうものでしたか。
川和 カリキュラムはすごく立派なもので、ロシア演劇やフランス演劇、みんな別々の人が教えに来ました。フランスなら鈴木力衛さん、ロシアだと湯浅芳子さんとか。
神山 演出部の研究生ですと、ダンスなんかはやるんですか。
川和 いや、それはないです。
神山 同期というと俳優ではどういう方になりますか。仲代達矢とか平幹二朗は……
川和 それは下ですね。養成所ができた時に、劇団の研究生がそこへ戻されて「お前たちは一期生だ」というふうに言われました。それで一緒になったのが、森塚敏、関弘子、岩崎加根子、中村たつ。それから演出部に中村俊一というのがいて、その妹もいました。数は十人に満たなかったです。中村は、岩手県の松尾鉱山の社長の息子で、後に劇団仲間をつくっています。
神山 所長はそのころ青山杉作ですか。
川和 代表は青山杉作でしたが、その下に築地小劇場の体験者がたくさんいました。千田是也、それから当時は小沢栄といっていましたが、小沢栄太郎、東野英治郎、松本克平、信欣三。女性では、東山千栄子、岸輝子、村瀬幸子、信さんの奥さんの信千代[芸名:赤木蘭子]。その方たちは、すごく年配のようなイメージで、なんとなくブスッとして先生然とした感じでした。
神山 小沢栄太郎や東野英治郎のことも「先生」と呼ぶんですか。
川和 いや、言わない。私なんか旅公演でマッサージばっかりやらされました。ただ、東山さんというのは不思議な人で、「おはようございます」といって、頭を上げると向こうはまだ頭を下げているんです。私なんか研究生なのに。それでこっちはまた頭を下げて……というような感じで調子が合わなくて。
神山 千田是也や伊藤熹朔については、いろんな方がお話くださいますが、青山杉作については、早く亡くなったせいもあってか、あまり話を聞きません。
川和 とても優しくて。私なんか研究生でしたから、校長先生というか、もっと上の感じがしていましたが、「おはよう、あなたはまだやっているんですか」なんて、駆け出しに声をかけてくれました。
神山 青山杉作は役者として映画で観ることもできるんですが、戦前にはSKDの演出でも有名だったでしょう。そういう話は全然しませんでしたか。
川和 ええ。私なんかは国際劇場で観ていましたけどね。三林亮太郎さんが装置で。僕らは青山先生というふうに呼んでいましたが、翻訳劇をやるときに向こうの人の仕草をどうやって勉強するんですか、と聞いたら、「私は向こうの映画をたくさん観る」と言っていました。どういう映画かというのは別に関係なくて、同じ映画を何回も観ていると、外国人の仕草がよくわかってくると。私もアメリカへ留学して、日本ではやったこともない演技をやらされたことがありますが、どうしても仕草というのは、日本人のそれとは違っていますよね。握手だってそうですし、数を勘定するのだって日本人はこう、指を折っていきますが、向こうは逆に出していきますから。青山先生はそれを、映画を観てつかんだそうです。外国へ行ったことは一度もなかった。
神山 演出するときは、千田是也のように大きな声を出したりしたんですか。
川和 正反対です。青山先生は新潟のお寺の出身でお坊さんなんです。だからニコニコ、ニコニコして見ているだけでした。田中千禾夫もよく似た感じでした。千田是也はもう、「馬鹿野郎、下手くそ、お前何年やってるんだ」って怒鳴ったりしてましたね。築地小劇場からやってる松本克平なんかが、研究生もいる前でやられるんです。それでよけいにせりふが出てこなくなっちゃう。僕なんかは気をきかせて「すみません、食事休憩にしましょう」なんて言ったりして。
神山 助けてあげたんですか。そのころは永田靖なんかもいましたね。
川和 そうです。あまり器用な人じゃなかったですね。
神山 伊藤熹朔なんかも美術でしょっちゅう来ていましたでしょう。
川和 千田さんの兄貴ですからね。大きな声で怒鳴って、その後、客席でクークー。歌舞伎座なんかで舞台稽古をやると、久保田万太郎、篠木佐夫、伊藤熹朔が並んでいびきをかいてるんです。僕なんかは意地悪してわざとスポットライトで客席を照らしたりしていました。
神山 振付家の伊藤道郎とは面識はないんですか。
川和 あります。養成所にも名前は出していました。あの人は、アメリカから帰ってきて、アーニー・パイルで振付をしていたんです。道郎がいちばん上ですが、伊藤兄弟は面白いですね。
神山 でも、アーニー・パイルには入れないでしょう? 日本人は。
川和 そうですね。でも私はスタッフとして入ることができたんです。
日比野 アーニー・パイルに足を踏み入れた日本人でご存命の方は今、ほとんどいらっしゃらないですよね。
神山 少ないですよね。この前なくなったカメラマンの大竹省二が、すごくいい回想を書いていました。有名な美術評論家の瀬木慎一も、アーニー・パイルにいたようです。戦後間もないころのアーニー・パイルでは、『ラプソディ・イン・ブルー』なんかをやっていましたが、そのころをご存じとは羨ましいですね。戸板康二はあれを観て、涙がこぼれたといっています。照明としていろんな劇場にいらしたということは、昔の東劇や帝劇でもお仕事されたんですね。
川和 そうです。帝国劇場でやった久保栄の『林檎園日記』[東京芸術劇場・一九四七年三月]は私が照明をやりました。上から見てもお客がパラパラで……。
神山 そうですか。
川和 出し物にもよるでしょうけどね。バカの一つ覚えじゃないですが、歌舞伎は『忠臣蔵』、新劇は『桜の園』をやれば入るという時代でしたから。
神山 帝国劇場と久保栄は合わないということもあったでしょう。前進座も、ものすごく不入りだったと[三世中村]翫右衛門(かんえもん)が書いています。
川和 『ツーロン港』[一九四六年十一月・帝国劇場]ですね。
神山 そうそう。今となっては、そのころの劇場でお仕事をなさったというだけでも羨ましいお話です。
千田是也と安部公房
神山 俳優座では安部公房の作品にもかかわっていらっしゃいましたね。
川和 ええ。私は演出部で、主役は小沢栄太郎だったんです。大阪の朝日ホールですかね。舞台の時計の針をまわす係になりまして、時計の針を裏から動かしたりしていました。それがちょうど、二階か三階くらいの高さなんですよ。ある時、芝居の最中に足を滑らせて、ダダダダーン(笑)と。小沢栄太郎も一瞬止まったそうですが。「さっきのあれはなんだ」といってね。私は尻餅をついただけで済みました。その芝居は千田是也の演出でしたが、安部さんは徹夜をして、目が据わったようになって台本を書いてくる。その分厚い台本を、千田是也が「これはいらない。これはいらない」ってやるんです。私は助手ですから、すぐ脇に座ってるんですが、「それはないだろう」って思うくらいめちゃくちゃでした。
神山 それは千田さんがカットしてしまう?
川和 そうです。安部公房は、じっとして座ったままですよ。彼はもうすでに青俳で『制服』[一九五五年三月・飛行館ホール]とか『快速船』[一九五五年八月・大阪産経会館]を書いているわけですよ。
日比野 『幽霊はここにいる』[一九五八年六月・俳優座劇場]のころですか。
川和 その前ですね。『どれい狩り』[一九五五年六月・俳優座劇場]です。いや、あれはひどいなと思いました。
日比野 稽古は始まっているんだけど、本を書いていたということですか。
川和 ええ。そしてまた突き返して、「じゃあ書き直してきます」というような。だから演出の横暴を感じました。
日比野 その場で書き直したんですか。
川和 分量もありますから。そこは持ち帰っていました。
神山 菊田一夫や北條秀司も「天皇」と呼ばれていましたが、千田是也もそういうところがあるんですね。
川和 千田是也は関東大震災の時に千駄ヶ谷を歩いていたら「千駄ヶ谷のコリアンだ」と言われて、それを芸名にしたわけで、伊藤圀夫というのが本名ですが、そういうところはやっぱりありました。
神山 僕は国立劇場にいた時に一度しか話したことがないですが、「国立?ああ、一国(いちこく)ね」と軽く言われたのを覚えてます。今の新国立劇場は、当時「二国」と呼ばれていましたから。なんだか軽くいなされた感じがしました。それはともかく、安部公房の奥さん、安部真知の美術についてはどうでしたか。
川和 装置をやる人には芝居を知らない人が多すぎてね。千田さんにも「おい、なんとか言ってくれよ、お前」と言われて、しょうがないから寸法までこっちで書き足したりなんかして。つまり、建築と同じで、立体的な絵は書けるんだけど、平面図が書けない。
神山 中嶋八郎さんが、やっぱり同じようなことを朝倉摂について言っていましたよ。平面図を書けないと、芝居はできませんからね。
川和 中嶋はっちゃんとは私も一緒に仕事をしています。やっぱり酒飲みで。さっきから名前が出ている伊藤熹朔の弟子ですね。それで、はっちゃんのせがれも装置家[中嶋正留]で。私が玉川大学で教えたりしていました。
神山 お兄さんが熹朔さんだったこともあって、千田是也はすごく舞台美術が好きだったと聞きました。
川和 絵がうまいからなんです。だから僕にぶつぶつ言うわけです。「おい、装置家というのはどうしてこんなに絵が下手なんだ」とか。稽古をやっている最中にも絵を描いているんですが、うまい。そういう才能があるから、よけいにうるさいんです。
神山 装置以外のところではどうでした?
川和 大変なんですよ。朝十時から稽古が始まって夜十時に終わりますね。そこから稽古場を掃除して、大道具をつくる。だからわれわれは寝ていないんです。それで本人はどうかというと、自分は眠たいときにガーガー寝ている(笑)。それでまた、千田さんはお腹が空くと怒るんです。役者にいろいろ文句を言ったりなんかして。だから頃合いを見て「じゃあ、食事にしましょう」といわなきゃいけない。それとタバコが好きで、「ちょっと、頼むよ」と言われると「はい」とピースを一箱買ってくる。でも金なんてくれないんですよ。こっちは研究生ですから、払ってほしいんだけど、千田さんは無頓着ですよ。
神山 早稲田大学のシンポジウムでも、小沢昭一が言っていましたよ。「タバコを買ってきて」と言われて、お金をもらったことがないと(笑)。
神山 三島由紀夫が俳優座で上演した『若人よ蘇れ』[一九五四年十一月]には、スタッフでいらっしゃいましたか。
川和 ええ。それは『女の平和』[一九五四年四月・俳優座劇場]をやって、『森は生きている』[一九五四年五月・俳優座劇場]をやった次ですね。
神山 三島由紀夫は当時、二十九か三十歳くらいですけど、三島に対してはさすがに千田さんも、というところはありましたか。
川和 いや、そうでもなかったです。でも、カットはなかった(笑)
神山 三島由紀夫の場合、稽古が始まるまで本がないなんてことはないですからね。前もってちゃんとする性格だから。ただ、『芙蓉露大内実記』[一九五五年一月・歌舞伎座]では、[当時の二世市川]猿之助[初代市川猿翁]からダメを出されて、歌舞伎座の狂言作者の部屋で書き直したと聞きましたが。
青年座への合流、鷹の会結成
神山 青年座創設の話が来たのは、俳優座に入られてすぐですか。
川和 そうです。俳優座にいても、研究生、準劇団員、劇団員と、格付けがあって、なかなか劇団員になれないということがありまして。まだ、テレビがなくて、外で稼ぐのにはラジオと映画しかなかった。それで、東野英治郎とか小沢栄太郎は映画に出たわけですが、ほかの人たちはそういうチャンスもなく、アルバイトらしいアルバイトもできなかったと思うんです。だから、本公演の稽古が始まると、そういう人たちが全員稽古場にやってきて、誰か役付きの人が休むのを、チャンスとばかりに待っていました。全部せりふを覚えていて、パッと代役をやるんです。僕は演出部でしたから別ですが、そういうふうにして舞台に食いつく感じがあった。
神山 誘ったのは森塚敏ですか。
川和 はい、森塚敏と山岡久乃です。
神山 当時は分裂というよりは「衛星劇団」という感じでしたからね。
川和 そうですね。青年座は一九五四年五月結成ですが、このとき俳優座劇場がちょうど開場で『女の平和』をやって、昼間はこどもの劇場で『森は生きている』をやっていました。私は『森は生きている』の方についていました。森は生きている、演出部は死んでいるなんてことを言って……。
神山 『森は生きている』の音楽は林光でしたよね。
川和 そうです。林光は私と同い年で、その叔父の林髞は、木々高太郎という小説家でもありますが、その人も養成所へ教えにきていました。『森は生きている』は、来たお客さんは「これは面白い」と言っていましたが、私は緞帳やなにかを上げ下げするだけで、客席に行って観ることはできませんでした。その後、私は[俳優座]演出部として三島由紀夫の『若人よ蘇れ』[一九五四年十一月・俳優座劇場]をやってから、遅れて青年座に入りました。
神山 青年座の稽古場は、今は代々木ですけれど、当時は渋谷でしたね。
川和 ええ、道玄坂です。お蕎麦屋さんの角を入っていくんですが。
神山 今もありますね、蕎麦屋。まだみんな若いですし、研究所はなかったですよね。森塚さんは少し年長ですか。
日比野 一九二六年生まれですから、それほど変わらないですね。
川和 ですから、代表は成瀬昌彦です。男は成瀬、天野創治郎、土方弘、森塚敏、中台祥浩、女は山岡久乃、氏家慎子、関弘子、初井言榮。東恵美子もいました。
神山 東恵美子は、学者の南博と結婚した。
川和 そうです。浪花節の東武蔵という人の娘です。
神山 青年座で初めて演出なさったのは、どの作品ですか。
川和 『天国への遠征』[一九六〇年十二月・俳優座劇場]という椎名麟三の作品です。椎名さんは稽古場にも来ましたが、そうすると役者がすぐ質問にくるんですね。だから「答えないでください」とお願いしていました。椎名さんとは[旗揚げの]『第三の証言』[一九五四年十二月・俳優座劇場]が始まりですが、その前に『家主の上京』[一九五三年四月・劇場]という芝居を、菅原卓の演出で、文学座のアトリエでやったんです。それが縁で、演出部には、椎名麟三、イヨネスコを訳した大久保輝臣、西島大のような連中がいました。それで、劇団として何か特色を持つようにというので、創作劇をやる劇団というふうに標榜しました。創作劇、ということは当然新作劇ですから、私なんかはいろんな作家をリストアップして、交渉係をしました。会いに行って「いつまでに書いてください」なんていうことをしていたわけです。
日比野 今、先生がやっているような、昔の作品を発掘するようなことはなかったわけですね。
川和 ないです。だから危険性もあるわけですよね。たとえばチラシをつくっちゃったのはいいけれど、台本がどうも……ということもあって、延期したこともありました。
日比野 台本が仕上がらないことはさすがになかったですか。
川和 たくさんあります。千田是也の演出で野間宏に頼んだ『黄金の夜明ける』[一九五九年二月・俳優座劇場]という芝居では、お目付役で一緒に行け、と言われて、野間宏と二人で箱根の旅館に行きました。「じゃあ、始めましょうか」なんて言うんですが、それはこっち[呑む]の方なんです。だからなかなか進まなくて。それで、「どのくらいできているか」とか、電話が入ってくるんです。「まだ三分の一になっていません」「ちょっと急ぎでやってくれよ」なんてやりとりをして。その時、宮城まり子が陣中見舞を持ってきたりしていました。
神山 箱根に缶詰にしたところへ来たんですか。
川和 そうです。そのころ花田清輝や安部公房なんかの記録芸術の会というのがあって、ミュージカルをやるというようなことで、つながりができたんだと思います。
日比野 それは野間宏が、ミュージカルを書くかもしれなかったということですか。
川和 普通の芝居もそれが最初で最後ですからね。
日比野 でも、宮城まり子としては。
川和 そういう気もあったのかもしれません。
神山 さきほどの『家主の上京』というのは、青年座の公演として、文学座のアトリエで上演したということですね。
川和 そうです。
神山 『黄金の夜明ける』は俳優座劇場。ということは、のち俳優座の分裂のときとは違って、[俳優座の]衛星劇団ですから、関係が険悪だということではないわけですね。
川和 ええ。
神山 当時の衛星劇団には、青年座や俳優小劇場なんかもあって。
川和 青年座以外のところは、養成所を出た連中が俳優座に入れなくてつくったわけです。最初は、新人会と同人会というのが同時にできて。新人会は渡辺美佐子や小沢昭一、早野勘平[早野寿郎の愛称]とか。それから、のちに東京演劇アンサンブルになるのが三期会で、愛川欽也なんかがいました。
神山 千田さんとの関係も良かったんですね。
川和 新人会の演出をやったり、サークル[演劇]なんかをやったんです。
日比野 新人会、同人会と比べると、ある意味では青年座はエリート集団だったわけですね。
川和 劇団に入った連中ですからね。
神山 青年座は創作劇を特徴としていたわけですが、あのころは翻訳劇の時代でもありました。特にフランスものは、フランス文化というものの価値が、今と違って高かったこともあって、よく上演されていました。
川和 そうですね。鈴木力衛さんとは、モリエールをやったときに稽古場に毎日来ていたこともあって、親しくさせてもらってました。
神山 洒脱な、軽妙な感じの方だそうですね。
川和 ええ。温厚な紳士で。あの方は学習院で教えていて、大久保輝臣や渡邊守章、利光哲夫なんかが教え子にいました。
神山 そのころの翻訳劇の新しいものとしては、サルトルやカミュがありました。ベケットも文学座でやっていましたが、俳優座ではあまりそういうものへの関心はなかったですか。
川和 わからなかったんじゃないかと思います。だから、私なんかは翻訳劇というとロシアものが多かったし、俳優座でもやっていたのはストリンドベリとかイプセンとか。いわゆる戦前のものです。
神山 結局、築地以来のレパートリーですよね。やはり、築地への信仰というのは、座内でも大きかったですか。
川和 口では言わないけれど、結局、それが自分たちのテリトリーだという意識はあったんじゃないでしょうか。
神山 築地にいた人とそうじゃない人とはちょっと違う、みたいな印象があったと思います。
川和 違いましたね。そうじゃない中間の人には、中村美代子とか、瑞穂劇団から加わった人がいました。
神山 田村秋子くらいの存在になれば別ですけれど、戦後の新劇界では、築地以外の人は損するところがあったんでしょうか。
川和 そうですね。新劇という言葉も、どうしても左翼とイコールという色になってしまって、今はあまり使われなくなりましたね。昔は、文学座、俳優座、新協劇団というのは、四谷三丁目からの市電で一本の線でもあって。
神山 都電の七番です。
川和 そうそう。後になって民藝も青山墓地のところにできました。
神山 その後、鷹の会というのを一九六一年につくられます。これは青年座と並行していたわけですか。
川和 いえ、辞めたんです。成瀬昌彦と合わなかったというのもありました。鷹の会は中田耕治というヘミングウェイなんかを訳している人と私が中心になってつくりました。研究生には、芸名では石坂浩二ですが、武藤兵吉がいました。小さい劇団ですから「本公演」というようなことはできないというので、「小公演」という名前にしたり、試演会のようなかたちでいくつかやりました。
日比野 旗揚げ公演はフランスもので、ヴィルドラックの『寂しい人』とマルタン・デュ・ガールの『ルリュ爺さんの遺言』[一九六二年九月・赤坂公会堂]をやっています。
川和 『寂しい人』のヴィルドラックは、『商船テナシティー』なんていうのを書いた作家です。『寂しい人』は、辰野隆が翻案して芝居にしています(『客』辰野隆『南の風 仏蘭西翻案戯曲集』[白水社・一九三三]。鷹の会の翻訳は岩田豊雄)。『ルリュ爺さんの遺言』は、堀口大學の翻訳でしたから、逗子のうちまで行って、いろいろ話を聞いたりなんかしました。私はむしろ詩の翻訳の方でよく知っていたんですが。
日比野 中田さんとはどういうかたちで知り合われたんですか。
川和 青年座の演出で一緒でした。八木柊一郎や矢代静一とも同じ世代で一緒に。だから仲が良かったんです。彼は頭が良くて、雑誌の原稿を頼まれると、住んでいた千葉から各駅停車に乗って、御茶ノ水の駅に着くまでには書いて、駅で編集者に渡していました。
神山 鷹の会のスタッフには小林志郎さんもいますね。のちに国立劇場の舞台監督になり、その後は東京学芸大学の副学長にまでなられました。同じ学芸大学には桑原経重さんもいましたが、桑原さんは、先生より年は上ですか。
川和 上ですが、彼を通して山田肇さんや山内登美雄さんなんかと知り合いました。小林志郎も、桑原さんが「芝居がやりたいというのがいるけども、どうか」と紹介してくれたんです。本人は劇団民藝に行きたいと言っていたんです。だけど、民藝なんかに行ったら、私が俳優座にいたときと同じように、何年経っても演出はやらせてもらえないだろうと。私が俳優座を辞めたのも、千田是也が生きている限りはできそうにもないということでしたから。いい歳して何も演出できないんじゃ困るということで辞めたんです。だから、残った連中は本当に、貧乏飯を食わされていました。
神山 このころはオニール劇なんかもよく上演されていましたね。
川和 内村直也もやりましたし、アメリカものも、オニールもありました。
日比野 鷹の会という名前はどういう由来だったんですか。
川和 鷹というのは鳥の中の王様みたいな感じですから。ほかに大した意味はないんです。
日比野 このパンフレット[劇団鷹の会研究公演No.1『寂しい人』『ルリュ爺さんの遺言』]表紙の青い絵はすごく素敵ですね。
川和 私のワイフが描いたんです。懐かしいですね。
イェールでの留学生活、六〇年代アメリカ演劇風景
日比野 一九六五年にアメリカに留学されていますが、そのきっかけというのはどういうものだったんですか。
川和 『A Raisin in the Sun(太陽の中の干しぶどう)』[上演年・劇場不明]という、ロレイン・ハンズベリーの芝居を演出したときに、稽古場がなくて。そのとき、今はアメリカンセンターと言っている、アメリカ文化センターがどうぞお使いくださいというので場所を借りたんです。そのときの所長がレオン・ピカンという人で、彼が「フルブライトの留学生試験があるけど、受けてみたらどうか」と言ってくれました。でもそれが試験の一週間前ですよ。「スケジュールも詰まっているし、とてもそんなことはできない」と言ったら、なんとか受けるだけでも受けてみなさいと。何をしたらいいんですか、と聞くと、まず英語で論文を書けって。そんな長いものじゃないんですけど、書いて。その後ほったらかしにしていたら、あなたは合格していますから早く手続きをしてください」と電話がかかってきました。フルブライトの留学生試験というのは今もありますが、旅費、宿泊費、学費もすべて出してくれるというのと、旅費だけとか月謝だけとか、いろいろ分かれていたんです。私はオールギャランティーでした。「そんなはずないな」とは思ったんですが、合格しているから早く、というので急に慌しくなって。予定していた仕事はやらなきゃいけないし、英語もろくにできませんでしたから。ただ、進駐軍が来たときに、わりあいスラングで話をしていた経験はあったんです。それがプラスになったんでしょうか。
日比野 試験に面接はありませんでしたか。
川和 ありました。アメリカ人が六、七人いまして、どういう勉強をしたいのか、とかなんとかいろいろ。それも英語で答えなきゃいけない。
日比野 留学先は最初からイェール大学と決めていたんですか。フルブライトの方で探してくれるようなところもありますよね。
川和 コロンビアかイェールかどっちかにしようと思っていたんです。そうしたらイェールの方がいいだろうと勧められました。エリア・カザンが出たところで、ユージン・オニールの息子がいて、オニールの資料は全部図書館にあるんです。とはいえ、そういうことも、私は後から知ったことで、ただ「イェールがいいんじゃないか」というので、なんだかよくわからないけど「それじゃあ、それでお願いします」という感じでした。
日比野 イェールの演劇は実技を中心にしたものですが、先生もそれを学んだということですか。
川和 ええ。芸術関係の大学院は、演劇、音楽、美術、建築と四つあり、その演劇に行ったわけですが、その中でも、脚本、演出、演技、照明、衣装、音響といった専門分野があって、それを履修するんです、私は演出でしたが、演技もやらされました。それまでやったこともないのに、勝手に役を振られるわけです。ある日突然掲示板に名前が出て、三、四回稽古をして本番。それで私が舞台に出ていったら、みんなゲラゲラ笑うんです。なんでかな、ズボンのボタンでも外れていたかなと思ったりしたんですが、そうじゃなくて、要するに西洋人の役で東洋人が出ていくというのが、彼らにとってはおかしくてしかたがなかったんです。
日比野 イェールのドラマスクールは、一九五五年にできていますから、先生のころにはもう独立した学校だったと思います。教わった先生の名前は覚えていらっしゃいますか。
川和 いや、よく覚えていないです。
日比野 当時やったテキストはどんなものでしたか。
川和 さまざまでした。中国のものもあればアメリカの芝居もありましたし。ちょうどそのころ山崎正和が『世阿弥』という芝居をニューヨークのジャパン・ソサエティでやったことがあって[一九六六年十二月]。その時に「助けてください」と言われて、「何をやればいいんですか」と聞いたら、「照明がわかる人がいないので」と。それで彼の芝居の照明をやったこともあります。
日比野 演出は、ジャン・ピエトロ・カラソですか。
川和 そうです。
日比野 これは、イェールで、山崎正和とカラソが知り合いになったことから実現した公演だったようです。山崎がイェールにいたのは一九六四年から一九六五年。一九六五年から六七年にいらした先生とは入れ違いという格好ですね。あの時代、日本語で書かれた同時代の戯曲を英語に翻訳して上演するなんてことはほぼなかったので、大変だったと思います。
川和 『世阿弥』では刀をさしますから、それを探すのに苦労しました。マンハッタンのスポーツ用品を売っているところを歩きまわって。そうしたら竹刀と木刀は見つかった。それで木刀を買ってきたんですが、アメリカ人は、反対に、右に差すんですよ。そういうのを教えたりもしました。この話は山崎正和も『このアメリカ』という本の中で書いていたかもしれない。
日比野 そうでしたか。『世阿弥』は、イェールに通いながら手伝ったということですか。
川和 そうです。ニューヘイブンとニューヨークですから近いということもありました。それから、私のワイフの弟が、タッド若松という写真家で、ニューヨークでずっと仕事をしていまして。そこを宿屋にして行ったり来たりしていたんです。
日比野 当時、ブロードウェイには行かれましたか。近いといっても一時間くらいはかかりますし、お金もかかったと思いますが。
川和 ええ。さっき言いましたように、留学の費用はたくさんもらったものですから。それを使ったわけです。一ドル三六〇円の時代で、そもそも日本円は持ち出し禁止でした。
日比野 当時ブロードウェイでご覧になった作品で印象に残っているものは?
川和 たくさんありますけど、青山圭男がメトロポリタンオペラでやった……。
日比野『蝶々夫人』[一九五八年三月]ですか。
川和 ええ。青山圭男カンパニーというのをつくって、日本のオペラをいくつもやったんです。青山スタジオというのが、高樹町の富士フイルムのあたりにあって、そこでもやっていましたけど。私はケイダンさんと言っていましたが、その青山さんをよく知っていたせいもあって、私もメトロポリタンにはよく出入りしました。演出はしませんでしたけど、そのお手伝いのようなことで。ですから『トゥーランドット』や『マダムバタフライ』なんかも観ています。
神山 青山圭男はもともとダンサーですよね。
川和 そうです。それから日本舞踊の名取でもありました。
神山 いわゆる女形ですね。演出はどんなふうでしたか。
川和 女の人にはやっぱり厳しいんです。「何やってるの、あなたは」なんて言って。ところが男の人に対しては……。
神山 すぐ触りたがったり。女言葉は出ましたか。
川和 そうですね。男の人と同棲もしていましたし。
神山 さきほどの『世阿弥』では刀の所作を教えられたそうですが、『蝶々夫人』も日本の風俗を知らないといけないですよね。
川和 ええ。私は舞台監督をやっていて、仕草なんかを教えました。それから、向こうの『マダム・バタフライ』を観ると、よく、富士山が背景にあったりするでしょう。長崎で富士山なんて見えるはずない。そういうことを教えたりはしました。
日比野 先生がいらしたころ、ブロードウェイでどんな作品をご覧になりましたか。
川和 『マイ・フェア・レディ』を観ました。私が観たときはちょうど、カーテンコールで幕があくと、裏方がトンカチや何かを持って立ってるんです。それで、まず、ステージマネージャーが黙って彼らの方を指すんです。それから今日は何十回目かの公演で、彼らのおかげで今日があるというようなことを言って、また拍手がありました。普通は出演者が出てきて挨拶するのがカーテンコールですから、それはとても印象的でした。私がいまやってる芝居なんかは、日本の歌舞伎にのっとって、カーテンコールはなしですけれどね。日本でカーテンコールを演出したりなんかしているのはおかしいですね。あれは拍手が鳴り止まないから、舞台監督が気を利かせて幕を開けるものなのに、客席の様子もお構いなくやっちゃうというのはね。
日比野 客電も落としたままですからね。
神山 『マイ・フェア・レディ』は、やはり人気が高かったですか。プラチナチケットという感じでしたか。
川和 そうですね。ただ、私はニューヘイブンと往復していましたから、最初からだいぶ先の切符まで買っていたんです。それから『南太平洋』も観ました。ミネアポリスのタイロン・ガスリー・シアターという円形劇場で。
神山 『マイ・フェア・レディ』の日本初演は一九六三年九月[東京宝塚劇場]ですが、『南太平洋』もほどなくやっていました[一九六六五月・新宿コマ劇場]。当時の日本では、ブロードウェイ信仰がとても強かったから。
川和 そうですね。さっき言った『世阿弥』のときに、菊田一夫と会ったんです。というのは、『世阿弥』を演出したイタリア人のカラソの奥さんが、林髞の娘だったんです。ニューヨークにサイトーレストランという日本食レストランがあるんですが、そこで会った。それで彼は英語なんか全然わからないんですが、東宝には一人、ニューヨーク駐在というのがいて。
神山 大平和登ですね。
川和 そうです。その二人から「芸術座でやりたんだけども、何がいいか」と、相談を受けたんです。それで、何か小さい芝居……『ファンタスティックス』はどうですか、という話をしました。最初に日本でやったときは当たらなかったそうですけど、後になって、宝田明が主演してヒットした[一九六七年七月・芸術座]そうですね。
ニューヘイブンからパリへ
日比野 先生がイェールにいらっしゃったころというのは、メソード演技全盛の時代ですよね。
川和 そうですね。イェールではスタニスラフスキーの『俳優修業』をやっていました。ただ、残念ながらそのころの資料が全然残ってないんですよね。なぜかというと、私が日本に帰る前にニューヘイブンからニューヨークの弟のところへ行ったときに、車の中に資料やら写真を入れておいたのが、泥棒にあったんです。
日比野 それは、泥棒にとってはなんの価値もなさそうですが、もったいなかったですね。
川和 僕が着ていた浴衣や下駄、いろんなものがありましたが、どれもたぶん、川に投げ込まれちゃったんでしょうね。
日比野 そうすると、本家のスタニスラフスキーの方をやっていて、ストラスバーグのメソードはそれほどやらなかったですか。
川和 ええ。やっていません。話が前後しますが、まだ日本にいたとき、新橋演舞場で、モスクワ芸術座の『桜の園』や『三人姉妹』をやった[一九五八年十二月]んですが、私はこの公演に演出部でついていたんです。大阪国際フェスティバルホールというのができて、朝日新聞社の事業部が、そこにいろいろなものを呼びたい。ただ、外国のものを呼んでも、裏をやる人がいないからという理由で私がついたんです。サラ・レサーナというスペインのフラメンコ舞踊団が来たのが最初で。その後、ジャン=ルイ・バロー劇団にもつきました。そのときは演出助手で、四十日ばかり一緒でした。それが縁で、イエールにいたときに「ちょっとパリに来ないか」という手紙をもらって。だから、私はアメリカから直接日本には帰らないで、パリへ行って、オデオン座でだいぶ世話になりました。
神山 もちろん、バローの奥さんも一緒ですよね。
川和 マドレーヌ・ルノーですね。はい。
日比野 そうすると、オデオン座を追われる前、一九六七年から一九六八年にかけてのバローの仕事を間近でご覧になったんですね。どんな作品がありましたか。
川和 シェイクスピアの『ヘンリー四世』とか、オルビーの『デリケート・バランス』……。
日比野 ロジェ・ブリンが演出したジュネの『屏風』[一九六六年四月・オデオン座]もご覧になりましたか。
川和 観ています。イェールにいたときには、ジョン・ギールグッドが演出・主演の『イワーノフ』[一九六六年二月]でアンナ役で出ていたヴィヴィアン・リーとも話をしました。ニューヘイブンの狭い小屋でしたが。向こうではそれが当たり前ですが、終わってから楽屋へ押しかけていっていろいろ話をしました。素晴らしかったとかなんとか言って。
日比野 ニューヘイヴンにあるシューバート劇場ですね。
川和 そうです。
日比野 このころのお話は聞くだけではもったいないようです。何かお書きにはなっていないんですか。
川和 いやいや、何もないんですよ。アメリカに行くときの最初の語学研修は、イェールじゃなくてアリゾナ州立大学でやったんです。あそこは西部劇のロケ地になっていて、偶然、マーロン・ブランドに会って、話をしたこともあります。そのとき彼は『シェラマドレの決斗』[The Appaloosa](一九六六)の撮影だったんです。
神山 マーロン・ブランドの舞台はご覧になったことがありますか。
川和 いえ、映画ばっかりです。
日比野 マリリン・モンローの舞台はどうでしょう。
川和 観てないんです。マリリン・モンローは羽田空港で会いましたが。
神山 それは[一九五四年二月に]来日したときのことですか。
川和 ええ。私はアルバイトのような感じで、野球のこともやっていまして、ジョー・ディマジオのインタビューにいったんです。それで二言、三言話しました。
神山 あのときはみんながモンローの方ばかり行くので、ディマジオの機嫌が悪かったそうですね。
川和 そうそう。私は野球が好きで、さっきも言ったように寄席に行ったりするほかに、後楽園球場にも通っていました。学校が終わってから行くと一塁側の席はもうないので、三塁側にまわって。三塁の方はガラガラなんです。そのころは指定席なんてないですから、いちばんいいところへ行って座って。阪神タイガースの藤村[富美男]がサードでやっていましたが、一発で惚れ込んじゃって。それで私はタイガースファンなんです。オーダーは呉、金田、別当、藤村、土井垣、本堂と、立派な選手ばっかりいました。ジャイアンツは逆に好きじゃなかった。いまだにアンチジャイアンツ。
日比野 今、思い出しましたが、筒井康隆大一座の芝居で、野球ネタでお遊びされていませんでしたか。
川和 ええ。筒井康隆は神戸出身ですがジャイアンツファンなんです。彼と一緒にホテルで、阪神—巨人戦、東京の人は巨人−阪神戦と言いますが、そのテレビ中継を観ていると、「やった!」って僕がいうたびに嫌な顔をして。
日比野 『ジーザス・クライスト・トリックスター』[一九八二年三月・ラフォーレ・ミュージアム]を見に行ったら、アンチ巨人と阪神の話が出てきて。「これは川和孝のことなんだ」のようなことを出演者の誰かが言っていました。
川和 山下洋輔かな。
筒井康隆との芝居づくり
日比野 八十年に筒井康隆が簣(き)の会を立ち上げて、先生も演出をされていますが、この名前にはどんな由来があるんですか。
川和 それは私がつくったわけじゃないので、どうでしょう。
神山 この簣の会については、失礼ですが、私はどういうものをやっていたかも知らなかったんです。
川和 池袋の靖国通りに面したところの劇場[パモス青芸館]でやっていたんです。民藝の研究生なんかだった人が集まって。
日比野 同時期にエイ・アンド・ピーでやはり筒井作品をやっていますが、これはプロデュース会社ということですか。
川和 そうです。エイ・アンド・ピーというのはアメリカ人が聞くと笑い出すんですが。
日比野 [かつてあった]有名なスーパーマーケットチェーンの名前ですからね。先生は演出だけのかかわりですか。
川和 エイ・アンド・ピーは、私がつくった会社です。いろいろなイベントをやったり。さっき言ったように私はアンチジャイアンツですが、読売ジャイアンツファン感謝デーというのが毎年十一月二十三日に後楽園球場であるんです。その台本を私が書いたりもしました。そういうばかなことを。好きじゃないのに長嶋と付き合ったりもしました。
日比野 ここでは、筒井作品以外もやっていますよね。
川和 山田野理夫の『南部牛追唄』[一九七七年六月・三百人劇場]か、なだいなだの『トンネル』[初演:一九六六年十二月・文学座アトリエ。エー・アンド・ピーによる上演は一九八一年十一月・テアトル・ダール]もありました。そのころ、なだいなだとはよく話をしていたんです。
日比野 筒井さんは、一時期本当にたくさん書いていて、「筒井歌舞伎」というものまで出すことになります。先生がその演出を多く担われたのは、日本に喜劇を根付かせるという思いがあってのことですか。
川和 筒井康隆の評価はまちまちでしょうけれども、ああいうくだらないことを書ける作家はいないのかなと思います。星新一ともまた違いますよね。
日比野 最近は実験的な作風が再評価されたりもしますが、先生がおやりになっていたころについては、おっしゃる通りです。筒井歌舞伎の『影武者騒動』[一九九三年四月・スペース・ゼロ]には、[九世]市川團蔵が出ていますね。
川和 團蔵は顔寄せの時に台本を持ってこなかったんです。「どうしたの」と聞いたら「全部覚えました」って。稽古もしていないのに。主役だったんです。
神山 この時は菊五郎も稽古場に来ましたか。
川和 ええ。
日比野 これはどういうきっかけで菊五郎劇団が参加することになったんですか。
川和 「筒井歌舞伎」とありますが、これは、筒井康隆が歌舞伎の出し物をアンソロジーのようにして書き直したり、パロディーにしたりというものです。それで、歌舞伎として上演したいというのがあって、「こういうものはどうか」と、私が菊五郎劇団に話しました。そうしたら向こうも乗ってきたわけです。
日比野 本公演として取り上げるんじゃなく、スペース・ゼロのプロデュースでということになっているのは、今でこそ、歌舞伎の新作を小劇場出身の作家に書かせていたりしますが、そのころの松竹はもっと敷居が高かったということですか。
川和 そうですね。東宝劇団での移籍事件もありましたから。松竹では、歌舞伎の役者はよそに出さないという締め付けはありました。この公演では歌舞伎役者にしたら、普段より稽古日数も多かったと思います。稽古が終わるとすぐ、女形の人が「先生」なんて呼びにきて、飲み屋へ連れていかれて、帰る時にはもう払いも済んじゃっているというようなことがよくありました。
神山 それは旦那[菊五郎]がやっているんですから。梅之丞なんかが行って、旦那はいないんだけど、前もって払われていたり、あとでまわしたりするんですね。
川和 そうです。
日比野 歌舞伎役者を演出するということは、どのくらいなさいましたか。勝手に居どころを決めて、困ったりするようなことはなかったですか。
川和 いや、そうでもないですね。彼らは、飲み込みが早いというか、役づくりが早いんですよね。商業劇場の人は、短いときは三日くらいでやってしまうでしょう。そこまで長い稽古期間じゃなかったですけど、半月くらいにはなりましたから、みんな、わりあい真面目にやってたんじゃないかと思います。やりにくいところもなかったです。それに、動きを決めたりするのは本当に楽でした。
神山 居どころなんか、言わなくてもわかりますからね。
川和 自分の役どころによって、どういうミザンセーヌになるかが頭に入っているんです。だから、こっちが言わなくても決まっちゃうんです。
神山 そもそも筒井康隆とはどういうきっかけで知り合ったんですか。
川和 『スタア』という芝居を京都の府立芸術会館でやったことがあって。その演出をしました。
神山 一九七六年[月は不明]ですね。企画コルムで、入川保則と西尾恵美子[美栄子]。
川和 そうです。
神山 西尾恵美子は菊田一夫の彼女ですよね。
川和 鳳八千代の妹で二人とも宝塚で。
神山 『スタア』初演[一九七五年十一月・三百人劇場]は、劇団欅でやはり元宝塚の福田公子[尾上さくら]が主演でした。
川和 そうです。
日比野 あのころの欅は『スタア』もやれば、川口松太郎もやったり、いろいろ試行錯誤していましたから。
神山 あの劇団と筒井康隆はあんまり合わない気がしたから、不思議に思っていたんです。
日比野 ただ、いちばん最初は[第十四回日本]SF大会で上演した『スタア』[一九七五年八月・神戸文化ホール]は、福田恆存が演出していますから、それもビックリなんです。だから、演劇界のいろいろな人が筒井康隆を応援しようとしていた時期があるのかもしれない。
川和 そうですね。筒井康隆は自分でやりたかったんです、芝居を。
日比野 舞台にも、テレビドラマにも出演もしますし。要するに俳優志望だったけど、なんの間違いか作家になってしまったと自分でも書いていますからね。
名だたる作家が集った「はせ川」
神山 話は戻るところもありますが、思い出の演劇人や文学者について、改めてお聞きしたいと思います。以前、相模川に鮎釣りにきた菊池寛を見かけたとお書きになっていましたが、それは一九四六年か四七年ですね。
川和 そうです。話をしました。『父帰る』とか『屋上の狂人』を読んでいましたし、大衆小説をたくさん書いていましたから。顔も知っていました。ですからずっと後になって『父帰る』を演出した時に、息子さんともいろいろお話できました。
神山 でも、先生だってその当時は十四、五歳ですから。
川和 そうです。だからそんなに詳しいことは。
神山 そうですよね。
川和 私の父も釣りが好きだったもので、よく一緒に行っていました。佐藤垢石という釣りのエッセイを書いている人がいて、その人なんかは面白かったですね。河原に来て、タバコばっかり吸っているんです。全然釣りをしないんです。
日比野 どんな字を書くんですか。
川和 鮎は、石の垢を食べている。それで佐藤垢石というんです。ずっと腕組みをして人が釣っているのを見るだけ。それで夕方まで。不思議な人だなと思ってね。
日比野 つげ義春の漫画に出てきそうな光景ですね。
神山 岸田國士とはどこでお会いになりましたか。
川和 最初は文学座のアトリエだったでしょうか。信濃町の古いアトリエのときでしたけど。私はさっきも言ったように照明をやっていて、穴沢喜美男さんのところで人が足りないからというので、何本か手伝ったんです。そのうちの岸田國士作品の時に顔を見たのが最初で、後は『どん底』[文学座・一九五四年三月]をやったときです。
神山 亡くなった時のですか。
川和 ええ。[神田・]一ツ橋講堂でやった。その時は裏方として話をしました。
神山 ダメ出しも聞いたわけですか。
川和 ええ。でも、大人しい温厚な人でした。
神山 文学座のほかの人、岩田豊雄なんかとは面識はありませんでしたか。
川和 岩田豊雄は、私は嫌いだったんです。渋谷に「とん平」という飲み屋があって、そこへ行って暖簾をあげて「あ、やめた、やめた」という時は、岩田豊雄か芥川比呂志がいた。
神山 酒癖が悪いということですか。
川和 悪いんですよ。それから小山祐士。じっと見てきて、なんか嫌な感じだなと思って。
神山 そうでしたか。芥川の酒癖は有名ですが、小山祐士は温厚かと思っていました。
川和 すごいですよ。
日比野 実際に絡まれたことも、おありになる?
川和 あります、あります。まさか「いやなオヤジだな」とも言えないから。
神山 それはそうですね(笑)。岸田、岩田と出たら、今度は久保田万太郎について聞かないわけにはいきませんが。
川和 息子が久保田耕一さんといって。テレビが初めてできたときに「落語小劇場」なんていうのを書いていたんです。僕もそれを書いていて、よく知っていました。久保田万太郎とは、桑原経重さんとの俳句の会で。
神山 「春燈」の句会の系統ですか。
川和 ええ。鎌倉で。そういう付き合いがあった。同じ鎌倉在住で桑原さんとも親しいのに、山田肇さんは全然お酒を飲まないから、そういうところは全然。
神山 もったいない。
川和 久保田万太郎は酒が好きで、酒が好きで。人恋しいのかわからないんですけど、銀座のはせ川という店へよく呼ばれて、ご相伴しました。でも、そうするとすぐ眠っちゃったりするんです。久保田耕一も、死ぬまでうちへは行かなかった。
神山 というのは、[一九五五年に移転した]湯島の久保万のうちへということですか。
川和 そうです。耕一は、一九五七年に死んでから、初めて湯島の家に、運ばれたんです。私が湯島の家へ、桑原経重さんと一緒に行ったら、万太郎はもう、へべれけに酔っていて、正座している僕へ寄りかかってきて、よだれを垂らされたりもして。だからあまりいい思い出はないんです。ただ、書いたものはなかなか面白いものがありますよね。
神山 耕一さんが死んだときはさすがに泣いて泣いて大変だったというのはやっぱりそうですか。
川和 そうです。
神山 はせ川という店にはずいぶんいろいろな方がいらしたみたいですね。久保田万太郎の短歌に「出雲橋 今は昔のはせ川に 霜夜の酒を一人飲むかな」というのがあります。
大作家たちの本読みは……
日比野 秋田雨雀とはどういうお知り合いでしたか。
川和 秋田雨雀さんは舞台芸術学院の初代院長だったんです。何年くらい続けたんでしたか……。野口医院という医者がいまして、二階を稽古場として貸してくれてたんですね。僕はそこの息子の野口ひろしというのと友達だったんです。彼は照明をやっていて、小川昇さんの弟子だった。そういうことで、私も舞台芸術学院に出入りするようになったんです。それから、秋田雨雀の還暦記念で、日本青年館で芝居をやったことがあって。千田是也が「先生、おめでとうございます」なんて、花束を渡すなってことをしたんですが、その時も私は裏方でした。秋田さんはもうすでに好々爺という感じでしたが。
日比野 じゃあ、その後の青年劇場には、かかわりはないんですね。
川和 ええ。青年劇場は、舞台芸術学院の一期生や二期生がつくった劇場なんです。
神山 舞台芸術学院には、浜村米蔵もいましたか。そのころはもう好々爺ですよね。
川和 そうですね。
神山 土方与志とは面識はありますか。
川和 土方与志と村山知義はあります。土方さんはやっぱり物静かでしたね。
神山 島村抱月の役をやった『女優』(一九四七)という映画がありましたね。あのころには築地小劇場を再興するという運動もあったんでしょう。山田肇さんが社長みたいな形で。その話と土方与志の話は山田さんからよく聞きました。
川和 あったんです。山田肇さんの奥さんの親父が、鏑木清方で。山田さんのお宅にもよく行きました。それから程島さんというのもいた。
神山 程島武夫ですね。戦前は左翼で、商業演劇もやっていましたが、最後は転形劇場を設立したり、前衛的な方にいっちゃった。
川和 物静かで、そんなに闘志みたいなものは感じられなかったです。
神山 村山知義は新協劇団ですよね。
川和 照明として『どん底』をやったり、いろいろしました。
神山 村山さんというのは、千田是也とは全然合わなかったそうですね。
川和 合わなかったんでしょうね。直接そういう話は聞きませんでしたが、新協劇団ですから。
神山 そうか、分裂していますからね。
川和 小沢栄太郎なんかも同じだったと思います。
神山 俳優座にも永井智雄みたいな、まるっきり代々木そのものの人[共産党員]がいたわけですが、当時のセクトにはわからないことがありますね。歌舞伎の人なんかは、村山さんは、本当に丁寧で親切な人だったと言います。
川和 新協劇団でもそうでした。劇場の掃除をしたりして。当時は飛行館ホールでやっていましたから、あそこは一ベルが鳴って、客席が暗くなるとネズミが出るんです。お客さんがこぼしたものを食べに来る。そういう劇場が東京には多かったですね。なくなってしまったけど、すみだ劇場もそうでした。
神山 かたばみ座ですね。
川和 ええ。あそこでもしょっちゅう照明をやっていました。それでやっぱり、暗くなると黒い影がスススッと。
神山 そういえば、先生は、かたばみ座の守美雄さんにインタビューされていましたね。
川和 もう九十歳を超えておられました。かたばみ座が王子の劇場に行ってからのことですが。
神山 山本有三はどうでしたか。
川和 もともと好きな作家で、少年時代には、ほとんどの作品を読んでいました。だから戯曲じゃなくて小説から入ったんです。
神山 だいたいそういうものですね。『路傍の石』の映画は、小学校で全員で見ました。山本有三というと、そのイメージが強すぎて、損したようなところもあるんですけど。お会いになったのはいつごろですか。
川和 ちょっと思い出せないです。山本有三記念館というのが三鷹にあるでしょう。あそこに呼ばれたことがありました。もちろん、そのころにはもう亡くなっていましたが。ですから三鷹は、彼と武者小路実篤が名誉市民なんですね。武者小路実篤の記念館は調布ですが。そこでも毎年、私は朗読会をやっています。武者小路実篤とは生きている時に会って話をしています。
神山 写真で見ると、思ったより大柄な人なんですね。
川和 そうですね。いつも着流しで。昔の話は、私も興味がありました。新しき村というのは、日向につくって、そのあと、埼玉へ移ったわけですが、そこへ彼の書いた芝居を持っていってやったり。
神山 先生の演出された『ある画室の主』[一九九九年七月・シアターχ]を拝見しましたし、『その妹』なんかも観ています。
川和 そうですね。私が見たのも三越劇場の『その妹』[劇団民藝・一九五一年三月]が最初でした。
神山 滝沢修が出ていたでしょう。のちに国立劇場小劇場でやった時[民藝・一九七八年六月]に、私も滝沢で観ましたけど、あのころは本当に、宇野重吉にしても、流行らないタイプの芝居でしたが、それでも素直に感動しました。先生は真船豊ともお知り合いでしたか。
川和 真船豊は、俳優座でも上演していましたから、近くにいました。あとになって、息子と付き合うようになって。真船禎というのがTBSのプロデューサーで『おかあさん』というドラマをやっていて。私もよく書いたりしました。それからもう一人の息子、長男の方は美術をやっていて、彼はテレビ朝日でした。
神山 真船さんまでの世代ですと、稽古場でも作家の本読みがあったでしょう。真船豊はうまい方でしたか。山田肇さんから聞いた話では、自己陶酔型で、自分で読んで「うまいな」というとか。
川和 いや、それほどでは。本読みといえば、久保田万太郎ですね。自分で書いた作品なのにぽろぽろ涙をこぼして。
神山 誰か本読みがうまかった劇作家って、記憶にありますか。
川和 いや、みんな下手でした。だから、作家がやる朗読会なんていうのは、聞いちゃいられないからやめた方がいい、って僕なんかはいつも言うんですけど。
神山 三島由紀夫の歌舞伎も、自分じゃ得意がってるけど下手ですもんね。
川和 三島由紀夫の家にもよく行きましたが、私が知っている人では、三島由紀夫と福田恆存と山崎正和、この三人は、産経新聞の『正論』の人たちですが、みんな、とても字がうまいんです。それでみんな旧仮名づかいなの。
神山 三島由紀夫のうちというのは、山王に行く前、目黒の緑が丘に居た頃ですか。まだ痩せていたころですね。
川和 ええ。そうです。
神山 今、本読みって本当にやらなくなりましたね。僕も、本当に読んだのを聞いたことがあるのは、宇野信夫だけです。役者は困ってましたけどね。ずっと我慢して聞いていなくちゃならないから。
川和 宇野さんも自己陶酔型でね。僕なんかも、「ちょっと話に来てくれよ」なんて言われていくと、三、四時間しゃべるんですよ。「ちょっと、というのはどのくらいなんでしょうか」って。でも宇野さんの話は面白い話ばかりでしたよ。「最近は君、稽古の時に灰皿投げる演出がいるそうだね」なんて言って。それから宇野さんは、面白いこと言ってました。芸術院の会員だったんですが、「どうして芸術院会員なんかになりたがるのかね」って。要するにあれは会員の互選で決まるんです。だから、選挙の前に「私を推薦してください」って人が押しかけるらしい。それが嫌いでね。変わった人ですよね。
素顔の田中千禾夫・田中澄江
神山 菅原卓、内村直也の兄弟とも交流はありましたか。
川和 ありました。特に内村直也さんは、青年座でもいろいろとおつきあいがありましたし、私がイェールにいた時も「図書館にユージン・オニールの資料があるそうだけど、見せてくれないかね」と言って訪ねてきてくれました。僕は学生ですから、スイスイ入れますからね。要するに鉛筆で書いた原稿ですが、それを見て感激して「俺もこれから鉛筆で書くことにする」と言っていました。
神山 菅原卓の演出というのはどういう感じでしたか。実際にやってみるというタイプではないでしょう?
川和 そんなことしないです。じっと見ているだけです。
神山 先生のおつきあいのあった中で、実際にやってみるタイプの演出家は誰ですか。
川和 自分でも役者だった人、千田是也なんかそうですね。どっちかというと、形から入っていくような。
神山 あとはだいたい腕ぐみ型?
川和 そうですね。かと思うと、すごく理屈っぽいとか。稽古場でそんなことを言ったってしょうがないじゃないかという。飯沢匡さんなんかは文学座でよくやっていて、長岡輝子さんからテアトル・コメディのころの話をうかがったことはありますけど。直接のおつきあいはありません。『藤原閣下の燕尾服』の演出[二〇〇〇年七月・シアターχ]をやったことはありますが。
神山 田中千禾夫、田中澄江夫妻のことは何か覚えていらっしゃいますか。
川和 私は俳優座で田中千禾夫さんの演出助手をやったんですが、ニコニコしていて、ほとんどしゃべらない。台本を風呂敷で包んで持ってきて、もう終わるな、と思うと「それでは」なんて、ツーっと行っちゃうんですよ。そうすると役者が追いかけていって「先生、私のあそこのせりふはこうでしょうか」なんて聞くと「うん、うん」なんて言って。それだけですよ。
神山 道具とか明かりについてのダメ出しもない?
川和 ええ。だから僕の方で気を利かせて先に何かやるようなこともありました。
日比野 エロおやじとしても有名で、『マリアの首』[劇団新人会・一九五九年二月]初演時の演出では、八ミリカメラで主演の渡辺美佐子のスカートの中を覗き込んだというような話を誰かが書いていましたけど。そういう片鱗はありましたか。
川和 ありましたね。女の人は好きでした。「男でコーヒーに誘われたのはお前だけだ」なんて言われたこともあります。だから、女の人とはニコニコしゃべって、あとはムスッとしていてね。
神山 僕なんかの印象だと、田中千禾夫は、戦前の劇作や文学ならすごくよく分かるんですけど、戦後の劇作の、『教育』[俳優座・一九五四年十二月・俳優座劇場]なんていうのは本当に……。
川和 分からないですね。
神山 役者は分かってたのかな。
川和 大塚道子でしたね。だから、田中千禾夫は難解な戯曲作家の一人ですね。
神山 一方、田中澄江は、今ではあまりやらないけど、僕はわりあい好きなんです。
川和 田中澄江さんというのは気さくな人で、お酒も飲むし、いろいろ話も面白かったです。千禾夫さんは全然。付き合いにくいというか、要するに何も言わないんですよね。「おはようございます」と言っても「うん、うん」で。表情が出てこないから、機嫌が悪いのかなと。
日比野 田中澄江は、うちの夫には幼児性が残っているというようなことを書いていたようですが。
川和 いや、女の人から見ると、そう言うんです。
日比野 わざと甘えるようなところもあったんですかね。
川和 澄江さんがカトリックの信者で、それで勧められて、晩年は千禾夫さんもキリスト教になりますよね。
神山 そうでしたね。田中澄江のほかに、記憶に残る女性の劇作家やスタッフはいましたか。
川和 それは田村秋子さんです。
神山 あの人は劇作家でもありますからね。
日比野 女性作家ですと、先生は水木洋子の作品も演出されていますけど、直接は……。
川和 ないですね。市川にある記念館には何回か通いましたけど。
日比野 それこそ水木洋子ももっと上演されていいと思います。
川和 私も文化学院で教えていましたが、あの人もそうでした。与謝野晶子とかそうそうたる人が多いですよね。飯沢匡さんもそうです。
神山 有吉佐和子とはご関係がありましたか。
川和 ありますね。どこの劇場だったか、自分の書いたものをやっていて、手伝ってくれというようなことを言われたりしました。女性の劇作家とは全く関係ないのですが、同じ頃、劇団東芸というのもありましたね。熊倉一雄なんかがいたんですが。そこへも手伝いにいくようになって。大塚周夫なんかがいまして、稽古中しゃべっていてうるさいんです。「おい、静かにしろ」と言ったら、「なんだ、てめえ、でけえ面するな」って。でけえ面って、こっちは演出でやっているんだぞって。東芸をやっていたのは、その昔新派にいた人[武藤英司]で、満州に行って芝居をしてたという。その人も面白かったし、その縁で阿木翁助さんの書いた芝居もやったし、紀伊國屋書店の社長とも知り合った。
神山 田辺茂一ですか。
川和 ええ。私が田辺茂一に、「役者をやってみませんか」と言ったら、最初は「え?」なんて言っていたんですが、そのうち興味を持ち始めて「台本は?」と聞くから、田中千禾夫の『笛』のおばあさん役はどうかと勧めて。そうしたら「やります」と。あの人は銀座のクラブやなにかに入り浸っていまして、フジテレビで『3時のあなた』っていう番組がありましたけど、ダジャレで「俺は『午前3時のあなた』だな」なんて言っていました。それで、本番になったら、銀座のホステスが差し入れをするんですよ。大きい舟に入ったお寿司やなにかがごっそり来て。役者はそんなの食べたことないから「いやぁ……」なんて喜んでいたら、毎日あるんです。それでまた芝居が終わると「おい、行こうよ」なんて、二人であちこち行って[上演年月・劇場不明]。
神山 略称が同じ東芸なのでよく間違えられますが、東京芸術劇場時代の薄田研二にはお会いになっていますか。
川和 私の舞台には出ませんでしたけど、東芸で知り合いました。新協劇団を辞めてから、[一九四二年に]奥さん[内田礼子]と苦楽座をつくりましたよね。そのころは、小林志郎なんかも舞台監督でいて。
神山 小林志郎は、「薄田先生」と先生づけで言っていました。僕と同年くらいの人でも、薄田さんの研究所[ススキダ演技研究所]で勉強したというのがいました。
大阪労演、地方巡業の日々
日比野 俳優座の労演での公演についてもお聞きできればと思います。
川和 労演は、大阪労演が最初なんですね。岡田文江さんという女性の事務局長がやり手で。といっても、普段はそんな感じの人ではなかったですけど。戦争中は看護婦としてフィリピンの、それこそ死の行進のバターンかどこかに行っていて、本人はサラッと話していましたが、爆撃が激しくて、生理が全然こなくなっちゃったって。そういう体験をして帰ってきた人で、確かずっと独身でしたが。それで、当時の労演で選ばれたのが十二ヶ月の例会のうち三回が俳優座、それから新協劇団、前進座、なぜか人形劇団プークも入っていました。ですから俳優座は京阪神の労演の公演があって維持できたと言ってもいいかもしれません。当時は、大阪労演の公演が一週間くらい、神戸が三日、京都が三日という感じでした。そういう会員制度でもないと、東京以外では芝居なんかなかなか観ることができない。そういう時代だったせいもありますが、会員もどんどん増えて。ということは収入もあるわけですから、高い買い物もできる。私も『三人姉妹』[一九五六年十二月・大阪産経会館]とかに参加しました。あれは伊藤熹朔の装置ですから大変なんです。
神山 [伊藤熹朔の装置は]お金もかかりますよね。
川和 ええ。お金があるとなると、翻訳劇なんかでもリアルな装置になるんです。伊藤熹朔は、要するに書割じゃなくて、ちゃんと厚みを持ったものをつくるわけですよね。だけど、地方で劇場に道具を合わせるのも大変だし。それで俳優座劇場ができたというのもあるんですが。逆に今はできるだけお金をかけないようにしますから、どうしても薄っぺらになりますよね。
神山 ですから商業演劇のように「飾り込む」装置というのはなくなっちゃうかもしれないですね。中嶋正留と前田剛くらいじゃないですか。あとは本当に構成舞台の人たちで。明治座なんかでさえ、そうなっていますから。
日比野 地方公演で裏方の人たちが道具のことなんかで大変な思いをしている時、俳優たちはどうしているんですか。
川和 それはご機嫌ですよ。公演は夜ですから、小沢栄太郎なんかは、「昼間はどうしようか。何かハゼがよく釣れるそうだけども」なんて言って、釣りに行ったりしていました。で、夕方になって「おはようございます」なんて現れるんです。
日比野 仕込みはスタッフだけの仕事なんですね。
川和 そうです、そうです。役者の手を借りるというのは、演出部にとってはすごく恥ずかしいことだったんです。
日比野 頼みたくなるような状況があっても、そうはしなかったと。
川和 そうですね。神戸の国際劇場かなにかでやったことがありますが、舞台の係の人に「転換です」と言っても「転換だってさ、やるか」なんて言いながらなので、うんと間が空いちゃうんですよね。これじゃ困るというので、一升瓶を下げて「すみません、よろしくお願いします」と挨拶にいったりもしました。そういうのは、関西だけのことじゃないでですし、大道具さんだけじゃなく、照明さんにしてもそうなんですが。それから、今のようにエレベーターがあるわけでもありませんから、熊本にあったホールは七階でしたが、道具を持って上がったこともあります。旅公演では乗り打ちもありますしね。今日博多で次の日は熊本なんてことになると裏方は大変です。今はそういうことはなくて、移動もトラックで数日で動くからいんですが。これは大阪のフェスティバルホールでしたが、安部公房の『可愛い女』[大阪労音・一九五九年八月]というミュージカルをやったんです。その時中村たつが、ベルトステージから奈落へ落っこっちゃって。尾てい骨を打っただけで済みましたが。
新劇第一世代を検証する「名作劇場」
日比野 最後にシアターχでおやりになっている「名作劇場」についてもお話をうかがいたいと思います。一九九四年以来、もうずいぶん長くおやりになっていますが、始められたきっかけはどういうものだったんでしょうか。
川和 私がアメリカで体験したもの、それからジャン=ルイ・バローのところで勉強したものもそうですけど、みんな西洋の芝居ばかりですよね。そうするとやはり、日本にもいい芝居があるんじゃないかと思うんです。新劇第一世代というのは築地小劇場の体験者です。私は戦後に俳優座に入りましたから、第二世代を自称していたわけですが、第二世代は第一世代の仕事を検証しなくてはならない。またもし、第三世代がいるとすれば、彼らにそれを伝えなければならない。その中で「こんないい芝居があるじゃないか」ということを知ってもらいと思って「名作劇場」なんて大それた名前をつけたわけです。小山内薫と二代目の市川左團次が始めた自由劇場以後に書かれた一幕ものというのが、その目標のひとつになるわけですが、実はそのころのいい芝居というのには、翻案物が多いんですよね。菊池寛の『父帰る』もそうですし、久米正雄の『地蔵教由来』もそう。小山内薫の『息子』なんかは、息子がロンドンにいて、ニューヨークに出稼ぎに行った話なんです。それを江戸と大阪に置き換えて。だから、当時はやっぱり、日本で芝居を書こうという人にとってのお手本が身近にはなかったということなんでしょう。
神山 一幕物は明治の末から大正時代に流行ったんです。歌舞伎には元来、一幕物というのはないですからね。どうしても外国のものをモデルにして作るしかなかったということもあるでしょう。
川和 ありますね。それからやっぱり、従来の歌舞伎に対する抵抗感もあったんでしょう。必ずしも左翼だとかそういうんじゃなくて、なにか向こうのものをやってみたいという意識があった。今はそういう言葉は使わなくなりましたけど、チェーホフや何かも「赤毛もの」と言っていましたね。女の人でも男の人でもノーズパテか何か使って、髪は赤くして。私が留学していた当時は、ジョン・F・ケネディとジョンソンが大統領の頃ですが、ケネディはアイリッシュです。で、アイリッシュというのは赤毛の女の人が多いんですよ。だけど、「赤」というのはなにか「淫乱」というイメージもあるようで、そうすると日本で芝居をやるときにわざわざ赤くする意味も分からなくなっちゃいました。日本人にしたら赤も黒も違いはわからない。でも、外国ではいろいろな色があって、違いがある。「赤毛もの」という名前を簡単につくってしまったことも問題だったんだろうと思うんですが。
ですから、そんなふうに日本が途上国であったということ、それから明治以来、さまざまな文化が日本に注入されたということもあって、青山杉作先生のように、外国へ一歩も出たことのない人が翻訳劇をやるようになった。二代目の市川左團次にしても、イプセンの『ガブリエル・ボルクマン』[自由劇場・一九〇九年十一月・有楽座]をやりましたが、歌舞伎の役者がやったんだから、似て非なるものだったことは想像がつきます。演技術、メソッドも全然確立されていない時代。後になって千田是也が『近代俳優術』という二冊の本を出しましたが、発声にしても細かく指導するということはなかったわけです。だから千田是也に言わせると「あのころはみんな素人だよ」と。
日比野 それはそうかもしれませんね。
川和 今だって、舞台の用語でも、歌舞伎の言葉をそのまま使っていたりしますし、裏方の使っている舞台用語もデタラメで嫌だなと思います。「明日ゲネです」なんて。「舞台稽古という日本語を使えよ」というんですが。ゲネラルプローベというドイツ語は、音楽やオペラの時に使う言葉で、演劇では使わないものですが、それをなんだか知ったかぶりで使ってしまうのが、芝居の裏方や役者にも多いんです。
神山 最近は一幕物というのを「いちまくもの」と言うでしょう。あれも腹が立ちますね。若い人ならともかく、私のような年代の者も言いますから。でもそれは、そもそも「一幕物」が、西洋の演劇を模倣してつくられたことにも関係するのかもしれません。
川和 鮨屋で「おあいそ」なんていうのもおかしなことで。あれはお客が使う言葉じゃない。「勘定は?」といえばいいのに、お客の方からへりくだって「おあいそ」というなんて。そういう間違いがあると、いろんなことがメチャクチャになっちゃう。
日比野 「名作劇場」で販売されている台本は、上演台本ではなく、原本のままですか。
川和 そうです。それで、最初はプログラムの方に全部入れていたんですが、印刷代が高くなって。そうすると単価も高くなってしまう。それで結局、台本は台本でということになりました。資料的な意味もありますし、いろいろな作家をとりあげていますから、たとえば「木下杢太郎」といったときにどういう芝居か、手元のプログラムでぱっと分かるようにしておいたら親切だと思うんですけどね。ですからプログラムはお金をもらわないでいいように。プログラムで一部千円だ、千五百円だとかっていうのは、本当はやっちゃいけないんですよ。
神山 一幕物とは逆に昔は長い芝居も多かったですよね。たとえば久保栄があれだけ長かったのは、やはり当時のお客さんや書き手の使命感だったんでしょうか。これだけやらなきゃいけないんだという。
川和 いや、自分が客席へ回ってみれば分かったと思いますよ。三時間も四時間も、疲れますよ、それは。
神山 真山青果が長かったのは原稿料だと言いますけどね。雑誌に出す時は長くしないと、それで食っているわけだから。だから、原作尊重なんて、意味ないんだという意見もあります。久保栄の場合、そこまで言えるかはわからないですけども。
日比野 昔のお客さんは、その長い芝居を集中して観ていましたか。
川和 いや。いくらいい芝居でも、二時間を超えたら、思考力が減退しますからね。
神山 昭和四十年代は商業演劇なら五時間でした。有吉佐和子の『香華』[一九六三年九月・芸術座]も初演は五時間。中野実の演出でしたが、芸術座の椅子であの時間は大変でしょう。『放浪記』[一九六一年十月・芸術座]も初演は五時間以上。
川和 もう亡くなられましたが、芸術座の支配人の小坂さんが「名作劇場」を観にきて、「芸術座の公演がはねた後でやってくれませんか」と言われたことがあります。プログラムに終電の時刻を載せてね。