基本データ
取材日:二〇一八年一月十八日
取材場所:寺崎邸
取材:神山彰・日比野啓・大原薫
編集・構成:大原薫
監修:寺崎由紀子
イントロダクション
「日本近代演劇デジタル・オーラル・ヒストリー・アーカイヴ」では、近代日本の演劇文化をよりよく理解するために、広い意味で演劇に関わってきた人々に聞き書きをしている。劇作家や俳優にとどまらず、舞台照明家や舞台美術家、評論家や研究者にいたるまで、これまでも様々な職種の人々に取材をしてきたが、もっとも数が多いのは演出家だ。それには二つの理由がある。
第一に、演出家の功績を顕彰したい。演出家の職能が確立したのは十九世紀ヨーロッパで、二十世紀は演出家の世紀と言われたこともあったが、日本社会においては演出家の役割が十分理解されているとは言えない。国際的にも活躍する(した)鈴木忠志と蜷川幸雄の二人は別として、観客が上演団体や作品、出演俳優にそれほど魅せられなくても、誰それが演出していると聞いて劇場に足を運ぶようなことはまずない。とはいえ、そういう意味で「無名」ではあるけれど、業界では長年信頼があり、新しく作品を上演するとなると制作者が争って依頼しようとする演出家はいつの時代にも数人いる。そういう人たちが自分の仕事を社会に喧伝する機会は少ないので、この「日本近代演劇デジタル・オーラル・ヒストリー・アーカイヴ」が微力ながらお手伝いしたい。
第二に、演出家は職務上、広い視野と多様な文脈において演劇文化を把握しているからだ。劇作家や俳優は自分の作品(や所属集団)を基点にして全体を眺める傾向があり、舞台照明家や舞台美術家も自分の職能上の判断が基準になる。評論家や研究者は広い視野と多様な文脈を持っていることが多いが、「現場」の評価とはしばしば異なる。そう考えると、演出家は近代日本の演劇文化をよりよく理解するためには理想の聞き書き相手と言えるのかもしれない。
寺崎裕則(本名の嘉浩名義での演出作品もあり)氏もまた、現場での信頼の厚い演出家だった。「だった」と過去形で書かなくてならないのは、公開原稿の校正をお送りして間もなく、二〇二三年四月七日に八十九歳で亡くなったからだ。「歌舞伎は日本のオペラ」とは、比較演劇学では使い古された感のある表現だが、実際に歌舞伎とオペラの両方に通暁し、新劇から歌舞伎、オペレッタ、ミュージカルまで演出した、という演出家は寺崎氏ぐらいしかいないのではないだろうか。たとえば浅利慶太は、劇団四季で新劇とミュージカルを演出し、『蝶々夫人』の演出も手がけたが、歌舞伎の現場には足を踏み入れなかった。寺崎氏の演出家としての(実質上の)デヴュー作は一九六九年十月の浪曼劇場『皇女フェドラ』だが、それ以前から劇作家・演出家の宇野信夫の知己を得て、宇野が歌舞伎の演出をするときは寺崎氏が演出助手を務めていた。一九七〇年十二月には歌舞伎座の大川橋蔵特別公演での『笛姫』の演出家として名前が出るようになり、以降、『不知火検校』『ぢいさんばあさん』など、宇野作品を中心に歌舞伎を演出、ほかに前進座『番町皿屋敷』[二〇一五年五月、国立劇場]も手がけたりしている。
もっとも、寺崎氏が最初に出会ったのは新劇であり、三島由紀夫だった。一九五八年四月、大学卒業後二年間の銀行勤めを経て文学座に入座し、戌井市郎の薫陶を受ける。戌井もまた、新劇だけでなく新派や歌舞伎の演出をしたことで知られているが、後に寺崎氏は十一世市川海老蔵(現・十三世市川團十郎)主演『源氏物語』を戌井と共同演出している。当時の文学座は三島由紀夫と福田恒存が座付き作家待遇でおり、杉村春子・芥川也寸志をはじめとする大物俳優を綺羅星のごとく擁していた。その後、同じ学習院大学出身ということで三島に可愛がられたこともあって、一九六三年十一月『喜びの琴』の上演を文学座が中止したことで退団した三島や、(『喜びの琴』を演出することになっていた)松浦竹夫とともに一九六四年一月、グループNLTに加わった。
さらにNLT内でブールヴァール(フランス商業喜劇)を主要レパートリーに推す賀原夏子らと対立すると、三島はグループNLTを脱退。俳優の中村伸郎・南美江に松浦・寺崎も加わり一九六八年四月、浪曼劇場を設立した。三島・松浦・寺崎はまた、美や感性を重視し、舞台は思想や政治と無縁であるべきだという信条でも一致していたから、三島作品を上演するために設立された浪曼劇場の演出家として松浦とともに寺崎氏が将来を嘱望されていたことは想像に難くない。その嚆矢となるのが前述の『皇女フェドラ』だったが、一九六五年五月にはNLT+アートシアター提携公演『弱法師』(アンダーグラウンド蠍座)で演出を担当している。その後一九七〇年十一月に三島が割腹自殺を遂げると、座付き作家を失った浪曼劇場も一九七二年三月に解散する。
その後はフリーで活躍するが、ベルリンに留学し、演出家ワルター・フェルゼンシュタインの演出助手となったことをきっかけにオペラやオペレッタの演出を手がけるようになる。一九八一年四月にカールマン『伯爵家令嬢マリツァ』を原作とするオペレッタ『ハンガリー物語』を上演、同時に日本オペレッタ協会を創立し、会長に就任した以降は、寺崎演出事務所でのオペレッタの演出のほか、SKDのレヴューや歌舞伎の演出を行うようになった。
聞き書きでは多彩な寺崎氏の演出歴について伺い、また親しくお付き合いしていたという三島由紀夫・宇野信夫・松浦竹夫・戌井市郎らの人となりをお話ししていただいた。その中で浮かび上がってくるのは、演劇界の離合集散もまた性格の相性に依るもので、美学的趣味や方向性を同じくするといっても、その前提として似たようにものを考え、行動するから人は集団を作るのだ、という単純だが深遠な原理だった。三島や松浦とともに寺崎氏の運命を大きく変えた『喜びの琴』上演中止事件も、演劇と政治の関係についての意見の不一致が原因なのだが、それ以前からの杉村春子たちと三島たちとの人間関係も影響していた。寺崎氏が歌舞伎を演出するようになったのは宇野信夫がいたからだし、オペレッタを演出するようになったのはワルター・フェルゼンシュタインがいたからで、これもまた「縁」という人間関係だ。演劇とは人間くさい芸術であり、そのような芸術に一生を捧げた老演出家の奇特な人生に、取材後の私たちは想いを馳せることになった。
なお、以下の聞き書きでは長年にわたり秘書代わりとして寺崎氏を補佐してきた奥様の寺崎由紀子氏にもお話を伺うことで、寺崎氏の記憶にない詳細についても補っていただいた。編集・構成をしていただいたのは大原薫氏で、大原氏も二〇二二年十二月に逝去された。私の仕事が遅いばかりに、寺崎裕則氏・大原薫氏の生前にこの公開が間に合わなかったことを後悔するとともに、故人お二人に深くお詫び申し上げたい。(日比野啓)
芸術には政治的なものを入れたくない
日比野 寺崎先生は、戦争中は疎開をされていたそうですね。
寺崎 そうです。父が絵描きで別荘を持っていまして。しかも、海の絵を描くのが好きで、以前はベニスにいたりしたんです。それで房州の館山湾にある鏡ケ浦というところに別荘がありました。
日比野 別荘をお持ちになっていたということは、疎開という以前から行っていたけれど、戦争が激しくなって館山の別荘に疎開した。
寺崎 そうです。赤坂に三階建てのアトリエがあったんですが、そこは留守にしていると危ないというので、壊してしまったんです。
日比野 そうすると、中学生から学習院にお入りになった。
寺崎 いえいえ、大学です。学習院の大学です。高校は安房高校。
寺崎由紀子夫人 安房高校を出てから、親もこっち[都内]に引き揚げてきたんですね。
神山 終戦のときは十二歳ぐらいですね。
寺崎 そうです。小学校六年生。館山航空隊という特攻隊の基地があったんですよ。飛行機が本当にうちの上すれすれを通って向こうへ行って、それでまた戻ってきて。それを僕がダッと海辺まで追い掛けていったらば、西の方へ消えていったんです。おそらくあの飛行機は帰ってこなかっただろうと。
神山 そうでしょうね。
寺崎 後に芝居を作ったときに、戦争のそういうことも入れたりしましたね。
日比野 そうすると、芝居を観始めるようになったのは大学生くらいですか。
寺崎 安房中、安房高という六年制の学校で、安房中のころから演劇部をこしらえて。赤坂のアトリエが焼けてしまってなかなか東京には来られなかったんですけど、たまに東京に来たときには芝居を見てましたね。歌舞伎じゃなかったですけれども。
日比野 新劇の方が多かった。
寺崎 多かったですね。
神山 当時は新劇ブームのような時代でしたが、高校時代の演劇部では何をなさっていたんですか。
寺崎 そうですね。終戦直後のものもそうですし、戦前のものなんかもやってました。
神山 吉村昭さんらと知り合ったというのは、学習院に入ってからですか。
寺崎 そうです。僕が一年生のときに、吉村さんや津村[節子]さんが三年生かな。
日比野 [津村は吉村の]奥さんね。
寺崎 みんな、学習院の文芸部だったんです。
寺崎夫人 学習院で部室が一緒で、[吉村が]もうお亡くなりになるまでかわいがっていただきました。今でも津村さんとはお付き合いしています。
日比野 その後寺崎さんが文学座をお選びになったというのは、俳優座や民藝よりも気質的に合うという感じだったんですか。
寺崎 そうですね。僕は芸術の中には絶対、政治的なものを入れたくないと思っていました。それで、文学座に入ったんです。
神山 お入りになったのは昭和三十三年(一九五八)ですか。
寺崎 そうです。
神山 その頃はもう岸田[國士]先生はいらっしゃらなかった。
寺崎夫人 その頃は岸田先生はもうお亡くなりになっていて、主人が接触したのは戌井市郎先生。戌井先生が一番影響を受けたと思う。
寺崎 そうですね、共同演出をやったりしましたから。
神山 戌井先生も当時はまだお若いですよね。確か大正四年生まれぐらいですから[一九一六年(大正五)生まれ]。私は国立劇場で戌井先生のお手伝いをして、よくお話ししました。
寺崎 ああ、そうですか。
寺崎夫人 戌井先生は、人格的にもいい先生なんですってね。
神山 そうですね、穏やかでしたね。
寺崎 素晴らしい方でした。
寺崎夫人 主人は、戌井先生とは最後に[十一世市川]海老蔵[十三世市川團十郎]さんの『源氏物語』を四回、共同演出したんです[二〇〇〇年五月、歌舞伎座/二〇〇一年五月、歌舞伎座/二〇〇三年三月、南座/二〇〇四年九月、御園座]。ちょうどあの頃は先生が主人の年くらいで、主人が六十代。とても頭がしっかりしてらっしゃった。
神山 そうすると、岩田豊雄や久保田万太郎とはあまり直接お話しにはならなかった。
寺崎 いや、岩田先生はお話ししたことがあります。久保田先生はなかなか近寄りがたい。
神山 皆さん、そう言いますよね。久保万さんは気難しい感じですか。
寺崎 松竹でも、そう言われてましたね。
神山 そうそう。
日比野 寺崎先生がラジオに出られたとき「久保田さんがてっきり和服でいらっしゃると思っていたら、洒脱な洋服を着こなしていてびっくりした」というお話をされてましたよ。
寺崎 そうです、そうです。
神山 岩田先生はその頃は赤坂のお宅に移られていた。
寺崎 わりにうちに近かったです。
神山 岩田先生は写真で見ると大柄に見えるけど、柄の大きい方ですか。
寺崎 そんな大きくなかったと思いましたね。
日比野 寺崎先生の二歳上の木村光一さんは。
寺崎 ああ、木村さん。
寺崎夫人 よく「ピカイチさん」と呼んでましたね。
神山 福田恆存さんのご記憶はありますか。
寺崎 ありますよ。
神山 福田恆存さんはどういう印象ですか。杉村[春子]さんとは合わないという感じはありましたか。
寺崎 それはあんまりないですね。杉村さんは恒存先生とは、もっぱら自分のやってきた演劇ではないもの、つまりシェークスピアなどをやっていたみたいですね。
神山 芥川比呂志はどうですか。やっぱりちょっと近寄りがたい感じなんですか。
寺崎 いや、そんなことはないですけれども、あれはなかなかの役者ですから。結局僕はあんまりお付き合いはしていないですね。
日比野 一般に演出部と俳優さんとのお付き合いはあったんですか。
寺崎 ありましたよ。
日比野 それでも付き合う方と付き合わない方がいらっしゃった。
寺崎 そうですね。
日比野 寺崎さんにとっては、三島由紀夫さんとの出会いが一番大きかった。
寺崎 大きいですね。同じ学習院[出身]なものですから、しょっちゅうおうちまで行ったりしました。
寺崎夫人 主人は演出助手だったから、かえって演出家より助手の方が行ったり来たりしていたみたいですね。
神山 三島さんのお宅は目黒ですか。
寺崎 最初は目黒区だったんですけど、大田区に移った。僕が行ったのは大田区の方が多いです。三島さんとは親しくさせていただいてました。
寺崎夫人 主人はその頃は一番若くて、実力もない頃ですから。三島さんは特殊な関係でかわいがってくださったんですけど、あとのお偉い方とはまだ対等に付き合わない頃でしたね。
文学座の分裂
神山 文学座の有名な昭和三十八年(一九六三)の分裂のときは、「何かありそうだ」というもやもやとした動きをお感じになっていましたか。
寺崎 感じましたね。
神山 やっぱりそうですか。
寺崎 ただ、僕の場合、文学座は三島さんとのお付き合いというのが大きかったですから。杉村さんなんかが左翼の芝居をやったときに、僕は政治的なものを演劇の中に入れてはならないという考えを持っていましたからね。
神山 そうすると福田さんと芥川さんが劇団雲を作ったとき[一九六三年一月]は、寺崎さんはまだ文学座にいらしたわけですね。
寺崎 いましたよ。
神山 その後の『喜びの琴』[一九六四年五月、日生劇場]のときはどうですか。
寺崎夫人 私の記憶では二十年か二十五年くらい前、村松剛さんから電話がかかってきて「テラさん、『喜びの琴』のときの資料を持っていないか」と言われて。主人が探したら資料が出てきて、それを村松さんに全部お渡しして、本をお書きになったんです。
日比野 じゃあ、村松さんのあの本[『三島由紀夫――その生と死』一九七一年、文藝春秋]は寺崎先生の資料がかなり役に立った。
寺崎夫人 そうそう。「ずいぶん役に立った」とお礼を言ってくださって、その本をくださったんです。
神山 そうでしょうね。
寺崎夫人 文学座でやった台本は、全部うちの二階にあります。
日比野 [演出することになっていた]松浦[竹夫]の指示や書き込みもそこに全部書かれている。
寺崎夫人 あるでしょうね。
日比野 それは大変貴重な資料ですのでぜひ大事に取っておいた方がいいです。
寺崎夫人 村松先生のときもそうやってお役に立ちましたから。
日比野 寺崎さんがまだ文学座にいる頃、歌舞伎座の『シラノ・ド・ベルジュラック』[一九六〇年十月]の演出助手をおやりになっていますね。松浦[竹夫]さんの演出が松竹にどう受け止められたという印象が残っていますか。
寺崎 松浦さんという方が非常に感性の豊かな人だったから、そういうところが演出にも出ていたなと思いますね。
神山 松浦さんはそれ以前から戌井さんと一緒に新派の方でもやっていますから。
寺崎 やっていましたね。
神山 そういう人とはつながりがあったわけですね。
寺崎 そうですね。
神山 この頃は松竹では大谷竹次郎さんがご存命なんですけど、何か印象はないですか。さすがにないですか
寺崎 大谷さんはないですね。
神山 永山[武臣]さんはもちろんいたでしょう。
寺崎 永山さんは学習院の先輩だから、すごくかわいがっていただきました。
寺崎夫人 うちのオペレッタも見に来てくださっていましたね。
神山 [二世尾上]松緑や山田五十鈴は、『シラノ・ド・ベルジュラック』で初対面ですか。
寺崎 五十鈴さんは初めてでしたが、松緑さんは存じ上げていました。
神山 十一代目の[市川]團十郎がド・ギッシュ。
寺崎 そうです、ド・ギッシュですね。
神山 クリスチャンが安井昌二ですね。その頃は、他の演目は全部歌舞伎で、一本だけ『シラノ』をやっていたんですよね。
寺崎 そうなんですよ。
神山 当時はそういうことをまだやっていた時代だったんですよね。しかも、一九六〇年。
寺崎 六十年安保があったときですね。
神山 先生はそのとき、二十七歳くらい。
寺崎 そうです。松浦さんの助手をしていました。
日比野 そのとき、「竹柴金作さんが一緒に演出助手をしていた」という話を先生がラジオでされてましたよ。
神山 竹柴金作さんといえば、歌舞伎座の立(たて)作者でしたからね。
日比野 そして、寺崎さんが独り立ちして演出されたのが、一九六五年のNLT+アートシアター提携公演の『弱法師』[一九六五年五月、アンダーグラウンド蠍座]。
寺崎夫人 あれがデビュー演出というよりも、昭和四十四年(一九六九)の『皇女フェドラ』が主人のデビュー演出だと思います。
神山 『弱法師』のクレジットは寺崎先生になっていますね。
寺崎 そうなんですよ。
寺崎夫人 その頃、私たちは結婚したときなんですの。
日比野 奥様がそういう印象を受けたというのは、『弱法師』の演出の際にもいろいろな他の人も口を出されたというか。
寺崎夫人 そうです。私は「演出家の人と結婚しない?」」と言われたんですが、結婚した後に「デビュー演出」と聞いたんです。「本当の演出家じゃなくて、演出家を志す人と結婚したのよ」と母に言ったら「ああ、そうだったの」なんて言ってました。
神山 『弱法師』はアンダーグラウンド蠍座ですね。そうすると、そうすると葛井欣士郎さんなんかと一緒だった。
寺崎夫人 一緒にやってましたね。
神山 葛井欣士郎の印象はいかがですか。
寺崎夫人 私から見ると、やり手というか、いろいろなことをやる方だなという印象がありますね。
日比野 実業的なセンスがおありだということですね。
寺崎 それと、葛井さんって小劇場をやっていなかった?
神山 そうですね。
日比野 「NLTの方からアートシアター蠍座に『やらせてくれないか』と持ち掛けた」と葛井さんはお書きになっています。
寺崎 そうですね。
日比野 それは、NLTとしてもやはり新しい場所でやりたかった。
寺崎 はい。
神山 これは、ちょうど三島さんが『薔薇と海賊』を初演なさったころですよね。
寺崎 はい。
神山 NLTになってから、三島さんの印象は文学座時代とは変わっていた?
寺崎 いや、あの方は全然変わらないですよ。
神山 そうですか。さっき言った『喜びの琴』事件があって、その後の『薔薇と海賊』まで、三島さんの印象は変わらなかったですか。
寺崎 三島さんは変わらないですね。
神山 そうですか。初めてお会いになったときから三島さんは筋骨隆々でした?
寺崎 いや、最初は細かったです。
神山 細かった。文学座時代からトレーニングをして、ああいう筋骨隆々な感じになったんでしょう。
浪曼劇場の発足
日比野 そして、一九六八年四月に浪曼劇場が旗揚げ。
寺崎 はい。
日比野 これは、寺崎先生は松浦さんについていく、三島さんについていくということですね。
寺崎 そうです。
神山 [文学座を脱退したメンバーがNLTを作り、後にNLTと浪曼劇場とに分裂して]NLTに残ったのが、賀原夏子さんですね。
寺崎 そうです。最初は僕たちもNLTをやったんです。
神山 NLTと浪曼劇場に分かれたけれど、何かぎくしゃくしたものはあったんですか。
寺崎夫人 私も聞いたら、「賀原さんと三島さんとは意見が合わなかったんだ」と、主人はそう言っていました。
寺崎 そういうことです。
神山 賀原さんと三島さんが合わないと。
神山 失礼な言い方ですけど、資金面でもめたということはあったんですか。
寺崎 いや、そんなことはないですね。
神山 やっぱり芝居の作り方とかレパートリーとかですか。
寺崎 そうでしょうね。やっぱり一番は、木村光一さんたちが赤く染まってきてしまったから。僕は演劇をプロパガンダにしたくないという思いがあったから、全然見向きもしませんでした。
日比野 賀原夏子さんはフランスのブールバール劇をやりかった。
寺崎 やっていましたね。
神山 三島さんはそのころよくシアトリカリズムということをおっしゃっていたから、賀原さんとは確かに合わないですね。
寺崎 そうですね、合わなかったですね。
神山 賀原夏子は、ただ三島さんと路線が違うというだけで、寺崎さんからすると嫌な思いとかそういうのはあんまりないですか。
寺崎 ないですね。
寺崎夫人 賀原さんの養子で入った川端ちゃんが、主人の後のオペレッタ劇場の演出をやってくれているんです。今はNLTでやってるんですけど、時々出張で来てくれて、オペレッタの歌い手を演劇指導してくれているの。だからすごく主人は助かっています。
神山 なるほど。
寺崎夫人 これは浪曼劇場のときの、新年のチラシなんです。裏には役者さんたち[の名前]が載って、三島さんの年頭の辞もあったから、取っておいたんですけどね。それから松浦さんも、書いてらっしゃる。
神山 さっきお兄さん[村松剛]の名前が出たけど、村松英子さんもNLTにいましたよね。村松英子も元は文学座にいたんですか。
寺崎 いましたよ。僕と同期。
寺崎夫人 村松英子さんはお父様が学者[精神医学者の村松常雄]で、「文学座なんかに入っちゃいけない」というのを、「研究生だからいいでしょう」と。英子さんとはすごく仲良いんです。私らの結婚式にも来てくれたし、お子さんたちとも家族的なお付き合いをしています。
神山 今でもサロン劇場を時々やっていますよね。何度か拝見しました。
寺崎夫人 時々目白の細川邸で、中山仁とやっておりますけど。私も元気なころは行っていましたけど、今はあそこまでいけませんので。
神山 ちょっと遠いですからね。
寺崎夫人 とにかくも続けてやっているのは、偉いですよね、
日比野 中村伸郎さんのご印象は。
寺崎 中村伸郎さんは変なイデオロギーとかそういうのは関係なく、やっぱり役者だったですね。
神山 中村さんは何しろ小松製作所の息子さんですから――。
寺崎 経済的には困らない。
寺崎夫人 [役者やスタッフは]わりに親がしっかりしている人が多いですね。
日比野 そうですか。例えば寺崎先生がNLTにいらっしゃったころとか、浪曼劇場にいたころ、お給料というのはもちろん出ていたんですよね。
寺崎 そんなものは全然出ないです。
寺崎夫人 全然出ないし、こっちが逆に切符を売る方でしたね。
神山 持ち出しでしょう。
寺崎 演出料は、もちろんもらえますが。
寺崎夫人 演出をしたときはね。でも、逆に切符を売らなきゃいけないから、売れないときにみんなに配ったりしましたね。
神山 [浪曼劇場で演出した]堂本正樹さんはどうでしたか。同じ年ぐらいですよね。あくが強い方でしたけど、何か印象はありますか。
寺崎 いや、僕はあんまり近づいて何かをすることはなかったですね。
日比野 ただ、浪曼劇場でもご一緒になって。
寺崎 そうですが、一緒に仕事をしたこともないですね。
日比野 では、あんまり同志という意識は。
寺崎 ないですね。やっぱり人種が違うんですよ。
神山 村上冬樹さんも浪曼劇場ですね。
寺崎夫人 村上さん、かわいそうだったわね。私、よく覚えているんですけど、夏休みに二人の息子さんが交通事故で同時に亡くなってしまったんです。私はびっくりしちゃって、言葉もなかった。
神山 ああ、そうですか。
寺崎夫人 それでまだ三島さんがご存命のときで、「テラよ、村上さんに弔問に行きたいから一緒に来てくれ」とおっしゃった。あの方は柔道とか剣道だかの帰りで道着のままいらしたって。[昭和]四十四年(一九六九)の夏くらいですね。主人が車でお連れして行ってきました。私はそれを覚えている。
日比野 そして実質上の演出家デビュー作だったという同じ年十月の『皇女フェドラ』[一九六九年十月]。このときの朝日新聞の劇評の中で、「歌舞伎技法を手堅く取り入れた演出」「翻訳劇が歌舞伎に拒絶反応を起こす一歩手前で押さえた手際は、新人らしくない沈着さ」とありますね。激賞されてデビューをしている。
寺崎 ああ、そうですか。[それまでは]歌舞伎をずっとやっていましたからね。
日比野 ずっとやっていたというのはご覧になっていたというだけではなくて、歌舞伎の現場でやっていらしたということですか。
寺崎夫人 三島さんの歌舞伎のときに、[演出を]やっていましたから。
日比野 国立劇場での公演のときもやっていらしたんですか。
寺崎 やっていないですね。松竹だけだった。
寺崎夫人 宇野先生について、演出助手になる前に見学させてもらったり、すごくかわいがっていただいた。
神山 『皇女フェドラ』に出ていた小林トシ子というのは、川島雄三なんかの映画に出ていた方ですか。
寺崎夫人 そうです、そうです。勅使河原さんの奥さんなんですよね。
神山 そう、映画監督の勅使河原宏さんの奥さん。僕は、『皇女フェドラ』は残念ながら拝見していないんだけれども、南美江さんのせりふ回しが僕は好きでしたね。
寺崎 ああ、そうですか。
寺崎夫人 美江さんは私の実家のすぐそばで、すごく付き合っていました。ちょうど私の母と同じぐらいの年なもので、仲良くしていただいて。それからさっき話に出た、村松英子さんのサロン劇場にも出ていらっしゃいましたね。
日比野 『皇女フェドラ』は、どなたが選んだんですか。
寺崎 私が選んだものです。[演出の]メインに付けていたもので。
神山 『皇女フェドラ』は、三島先生が亡くなる一年くらい前ですが、何ておっしゃっていたか覚えていらっしゃいますか。
寺崎 何をおっしゃったかは覚えていないですが、とても喜んでくださった。
神山 そうでしょうね。ちょうど『わが友ヒットラー』と『サド侯爵夫人』を浪曼劇場で同時にやったころ[一九六九年五月]ですか。
寺崎 はい。三島さんはとっても面倒見がいい方だったから。『皇女フェドラ』はすごく評判がよかったものですから、喜んでくださって。
神山 浪曼劇場では渋谷のジァンジァンでもおやりになっていますね。当時としてはああいう空間は非常に珍しいと思うんですが、劇場としては使いにくいという印象はなかったですか。
寺崎 なかったですね。
神山 先生は、劇場で使いにくいとかあまりお感じにならないタイプの演出家なんですかね。
寺崎 もうその場で、自分なりにこしらえてしまいますから。
神山 それはいいですね。
日比野 小劇場か大劇場かどちらかと言われたら、どちらがお好きとかありますか。
寺崎 どちらもいいですね。だって歌舞伎をしょっちゅうやっているわけですし、小劇場でもやっていたことがありますからね、大劇にしても小劇でもそれぞれよさがあるから。
寺崎夫人 オペレッタは中劇場が一番いいって主人は言ってますけど。
寺崎 そう、オペレッタは中劇場ですね。
三島由紀夫の自裁
神山 先ほどから三島由紀夫さんの話がたびたび出てきますが、三島さんが亡くなったころは。
寺崎夫人 主人は私が思ったほど、三島さんが亡くなったことを嘆いてなかったように見えた。私はもう五年前に、三島さんがああなることを予想していたんですよ。
日比野 それはどうしてですか。
寺崎夫人 それは女の勘だというんですけど、ちょうど昭和四十年に結婚して。
神山 一九六五年ですね。
寺崎夫人 それで三島さんにごあいさつに行くと言ったら、三島さんが「その日は『サド侯爵夫人』を帝国ホテルで缶詰になって書く日だけど、来てくれ。家内が手料理でごちそうするよ」と言ってくださったんです。その日に行ったら、三島夫人が「主人はこういう人なのよ、こういうことを言うのよ」と三時間くらいずっとお話になるんです。それを聞いていて、「ああ、この人は何かをやらかすつもりだな」と思ったんです。もう、主人なんか事もなげにぴしゃんとやられるようなことが起こるなと思ったんですね。でもそんなことを新婚の私が主人に言ってはだめでしょう。だから私は胸に置いて、何かあったらそのときにはどうやって主人をかばおうかと思っていたんですね。そうしたらあの事件が起きて、「ああ、私が予感したのはこのことだったのか。来るものが来た」と思いました。そういう感想。でも、あのことを予感した人は三島さんのお母様と美輪明宏ですね。
日比野 そうすると女の勘ですね。
寺崎夫人 勘ですね。私もよく分からないんですけど。浪曼劇場で主人がデビュー演出をさせてもらって、それで一年に一回くらいは主人が演出するという機運があったんですね。三島さんが[一九七〇年]十一月に亡くなって、[翌年の]三月に『サロメ』をやったでしょう。
神山 はい。
寺崎夫人 その前に三島さんから呼ばれて、「テラさん、僕ね、今度『サロメ』をどうしてもやりたくなったんだ。だから本当は君の番なんだけど、悪いけど譲ってくれないか」とおっしゃったんですって。主人が「ああ、いいですよ、どうぞ、どうぞ」と言ったらああいうことになってしまった。これが九月ごろよね。
それで八月に三島さんから主人にお呼びがあったの。何事だと思って駆け付けたら、「僕はもう書きたいものはだいたい演劇で書いちゃったから、当分書かないよ。悪く思わないでくれ」と。「だからまた書く気になったら書くからね」とおっしゃったんです。だから、これは呼び付けて主人に遺言を言い渡したんだなって。
日比野 それは本気で言ったわけじゃなくて、「自分はもう死ぬんだ」ということをそれとなく言い渡したとお考えだと。
寺崎 そうですね。
寺崎夫人 あの事件が起きてから「あ、あれは遺言だったんだ」と思いましたね。
浪曼劇場の解散
神山 新聞記事によると、浪曼劇場は松浦先生が突然解散だと言い出したとあるんですが、そういう印象ですか。
寺崎夫人 三島さんが亡くなったからじゃないですか。
神山 三島さんが亡くなってからは、やっぱり松浦さんに発言力があったんですかね。
寺崎 発言力は、松浦さんが一番上だったですからね。
神山 そうすると、松浦さんが解散だといったら、誰も反対できない雰囲気でした?
寺崎 そうですね。それに、だんだんそのころから松浦さんが変わってきてしまいましたからね。
寺崎夫人 浪曼劇場が解散した後の後始末は、主人が三年やっていたんです。その様子を感心だと言ってくださった方がいて、その方が十六年目にオペレッタ劇場を作ってくださいました。
日比野 松浦さんは寺崎さんに解散のことをあらかじめ相談されたんですか。
寺崎 相談はなかったですね。
寺崎夫人 体よく主人に押し付けて行ってしまったという感じはありましたね。
神山 中村伸郎さんは最後まで浪曼劇場にいらっしゃったんでしょう。
寺崎 そうです。だから、僕にもすごくよくしてくれた。
寺崎夫人 主人が外国に行くときも、中村さんが壮行会をしてくださって、まり子ちゃんというお嬢さんとお二人で来てくださったりして。
神山 中村さんはお嬢さんのまり子さんとご一緒に、ジァンジァンでイヨネスコの『授業』をずっと続けていましたから。
寺崎夫人 中村さんにはずいぶんお世話になったしね。今でも中村さんが映画にお出になっているのを見かけると、「あ、中村さんだ」と喜んでいます。映画にもずいぶん出ていらっしゃるわね。
日比野 浪曼劇場の解散の理由は、新聞では経済状態の悪化と言われていますけど。
寺崎夫人 松浦さんは芸術家だから、演劇のことはよくやるけど、他のことはやらないんです。
日比野 お金勘定はできない方なんですね。
寺崎夫人 それで、松浦さんには立て直してやっていく気持ちはなかったから、「もうやめてしまおう」と。そのころは商業演劇の方に傾いて、山本富士子の演出をしていましたから、「自分はそっちで食べていけばいいんだ」と思ったんでしょうね。それで、解散の後始末を主人に預けてしまったわけ。
日比野 そうすると、後始末の中には借金もあった。
寺崎 借金はそんなになかったんじゃないかな。
寺崎夫人 三島先生が昭和四十五年(一九七〇)に亡くなって、そのときまでにいろんな人に役者を貸していたでしょう。それで返ってきたお金で借金を返していったんです。三島さんは主人に「そういうことはきちっとやらなきゃいけないよ」と言っていたんですって。
寺崎 そうです。
寺崎 その言いつけを守って三年で後始末が終わって、それから主人は文化庁の[在外研修員]で外国[西ドイツのベルリン]に行ったんです。
寺崎 それが、フェルゼンシュタイン[に師事した]ですね。
神山 浪曼劇場のちょっと後のことですけど、吉田史子さんは覚えていますか。
寺崎 はい。
寺崎夫人 相当ひどい目にあわされましたね。
神山 1000万シアターの『ノー・セックスプリーズ』[一九七四年一月 紀伊國屋ホール]のとき、公演の途中で、演出の寺崎先生を下ろすという話になったということですよね。先生としては、吉田さんが言っていたのは最初とは全然話が違うという感じをお受けになった。
寺崎 うん、そうですね。
神山 吉田さんは好き嫌いが激しい人という印象はありましたか。
寺崎夫人 吉田さんは自分の思いがすごく厳しくて、主人と話し合いをして決めるんじゃなくて、「もうこれは自分に向かない」と思ったらぱっと下ろしちゃうという感じがしましたね。でも、一カ月半くらいは[稽古期間などで]一緒にやったんですよね。
日比野 このときの読売新聞が何とも面白いというか。明らかに寺崎先生に味方をしているんだけど、正面切って吉田さんを批判するのははばかれるという文面なんです。その後、寺崎先生の反論も載せてくださっていますから、たぶん非常に同情的にご覧になっていたんだろうと思うけれども。やっぱり読売新聞といえども、吉田さんに面と向かって「おかしいじゃないか」とは書けないという雰囲気が当時あったのかな。
寺崎夫人 そうでしょうね。
日比野 ただ、吉田さんはある意味ではまったく後ろ盾がない人ですから、当時勢いがあったということなんですかね。
寺崎 そうですね、勢いがありましたね。
寺崎夫人 朝日新聞の学芸部で、学習院の先輩の河地四郎さんも「将来ある演出家にそういうことをした、けしからん」と書いてくださったんです。
日比野 このときは「ロンドンで大当たりしている喜劇で、現地でこの舞台を見た寺崎氏が、主人公に緒形拳がぴったりということから、緒形が所属する吉田事務所に自らの演出を条件に話を持ち込んだ」と書いてありますが。
寺崎 はい、そうです。
日比野 そのときの緒形さんの印象で、何か覚えていらっしゃることはありますか。
寺崎 緒形君は、やっぱり役者一筋の人だったですよね。
寺崎夫人 うまい方でしたね。
宇野信夫の思い出
神山 歌舞伎の演出でご一緒されたという宇野信夫先生と、最初にお会いになったきっかけは何でしたか。
寺崎夫人 三善清達という音楽評論家がいますでしょう。あの人の奥さんで、NHK第一の何とか教室で出ていた幸田弘子さんを知っていて。幸田さんの紹介なんです。
日比野 宇野先生はNHKでも仕事されてましたからね。
寺崎夫人 幸田弘子さんと主人がずっと朗読劇をやっていたんです。フェルゼンシュタインのところに行く一年くらい前に宇野先生と結んでくださったんじゃないかな。主人がフェルゼンシュタイン先生のところに行くときに、宇野先生はお餞別をくださったから、そのちょっと前にお知り合いになったんだと思います。「しっかり勉強してこいよ」という感じで送り出してくださった。
神山 でも、宇野先生とお会いになった最初は昭和三十年代、オリンピックの前じゃないですか。
寺崎 そうです。
寺崎夫人 でも、それを結び付けてくださった方は幸田弘子さんなんです。
日比野 一九七〇年十二月の大川橋蔵の特別公演で、大川橋蔵が出ない番組の『笛姫』[歌舞伎座]という作品で、寺崎先生は演出をなさっている。これはどういうきっかけで、演出をなさったんですか。『皇女フェドラ』が歌舞伎の演出を生かしたものだから、松竹が新進演出家である寺崎先生を起用したのかなと思ったんですが。それ以前にも何かあったんですか。
寺崎夫人 宇野先生は「何かあったら、寺崎にやらせてくれよ」といろいろ口添えしてくださったと思いますよ。
寺崎 僕は宇野先生の演出助手をしていましたから。
日比野 そうすると、一九七〇年代~八〇年代は、歌舞伎の演出で寺崎先生のお名前が表に出ているものはないんですけど、実際には何本からやられていた。
寺崎 宇野先生の作品は、全部僕が[演出助手を]やりました。
神山 『不知火検校』や中村屋[十七世中村勘三郎]の『盲目物語』なんかもなさいました?
寺崎 そうそう、やっています。
日比野 宇野先生の演出家としての特徴はどんなふうでしたか。やってみせるタイプの人でしたか。
寺崎 いや、やってみせません。とにかく、人間の本質をずっと突いていた人ですから。
神山 私の印象では、宇野信夫先生は全部自分で本読みをする方でしたね。
寺崎 そうですよ。
神山 全部自分でお読みになるのは、宇野さんが最後ですね。
寺崎 そうです、おっしゃるとおり。それがまたいいんですよ。
神山 いいんだけれども、長くかかるから若い役者にちょっと嫌がられていた。久保栄や三好十郎までだったら、みんな[作者]本読みをしたそうですけど、ある時代からもうやらなくなりましたね。でも、オペレッタで寺崎先生が書いた台本は、全部自分で読んでいましたか?
寺崎 読んでました。
寺崎夫人 オペレッタの本読みというのをやっていましたね。「宇野先生なら、全部本読みするから」と言ってました。
日比野 三島由紀夫も本読みする人でしたから。そういう意味では、両先生の薫陶を受けたわけだから。
神山 長谷川伸の作品で、村上元三さんとご一緒されたのは、ずっと後ですか。
寺崎夫人 村上さんがお亡くなりになってからですね。
神山 じゃあ、直接は一緒に村上先生とやったことはほとんどない。
寺崎 ないですね。
日比野 では、村上元三さんと共同演出といっても、あまり交渉はなかった。
寺崎夫人 なかったですね。主人は宇野さん一辺倒でしたから。
神山 歌舞伎座の監事室にいた巌谷槇一さんを覚えていらっしゃいますか。
寺崎 巌谷先生、穏やかないい方でしたね。それと生き字引でした。
神山 当時から、真山青果作品の演出は巌谷先生だった。
日比野 寺崎先生は『天保遊侠録』[二〇〇九年八月、歌舞伎座]を演出されていますね。名義は真山青果の娘の真山美保との共同演出ですが、歌舞伎座のさよなら公演だから、もう美保さんはお亡くなりになっているときです。
寺崎 そうですね。
神山 昭和四十年(一九六五)くらいだと宇野先生は大阪や名古屋でもやってらっしゃいましたが、寺崎先生もそれについていった。
寺崎夫人 一緒についていっていたと思いますね。
神山 宇野先生はどんな思い出がありますか。
寺崎 宇野先生という方は、やっぱり大した方ですね。人間というものをよく知っていらっしゃいましたし、台詞でも何でも、分からないということは一つもないですね。
寺崎夫人 話が面白い方でしたね。
神山 本当に。何でもないことでも宇野先生が言うとね、面白いという。
寺崎 話も非常に分かりやすくて、しかも深いんですよ。宇野先生というのはすごい方だったですね。
寺崎夫人 宇野先生は[オペレッタ]協会に、よくお弁当を持って来てくださったんですよ。「テラさん、まだ人間が書けてないね」とおっしゃっていたのが、次にいらしたときに「あ、だいぶ書けるようになったね」と言ってくださった。宇野先生は三島さんと正反対なんです。「この状況だったらこの言葉しか出てこない」というのがありますよね。それを見つけなければいけないというのが宇野先生。三島さんは「ああで、こうで」とたくさん言葉を並べ立てるところがありますから。ずばっと「この言葉しか出てこない」というのを書くのが、宇野先生は本当にお上手だった。
寺崎 宇野先生のような方はもう二度と出ないですね。大した方だったですよ。
神山 宇野先生のお宅は、西荻でしたっけ。
寺崎 西荻です。
神山 よくいらしたでしょう。
寺崎 はい、行っていました。
寺崎夫人 しょっちゅうですよ。私も何度か行きました。うちの実家はすぐそばなんですよ。「宇野先生と一時間お話ししたのよ」と言ったら、母に「お前、あんな立派な先生、一時間もよく話が続いたわね」とびっくりされましたけど。でもいろいろな世間話を聞いてくださいましたよ。宇野先生はやっぱりロマンがあるし、あの先生はすてきでした。
寺崎 素晴らしいですよ。
日比野 寺崎先生は、何かしくじって、宇野先生を怒らせてしまうことはなかったですか。
寺崎 そんなことは全然ないですね。
日比野 お付き合いに気を遣っていたとか?
寺崎 いえ、そんなに気を遣ってもいないです。
日比野 そうすると、元々相性がよかったんでしょうね。
寺崎夫人 やっぱり主人は若い演出家で、売れないとこの道は食べていくのが大変でしょう。だから、宇野先生はすごくかばってくださいましたね。
神山 あまり上演されませんけど、『ひと夜』というのもいい芝居でしたね。
寺崎 『ひと夜』、いいですね。このごろ、だんだん宇野先生物をやらなくなりましたね。
神山 やらなくなりましたね。
日比野 でも、二〇一六年四月に寺崎先生の演出で『不知火検校』[歌舞伎座]をやっていますから。
寺崎 はい。
寺崎夫人 『ぢいさんばあさん』も、この間出た[取材時点での最近上演は二〇一六年十二月・御園座]でしょう。
寺崎 ああ、そうだね。あれも、俺がやっている[演出している]よね。
寺崎夫人 ずいぶん何回もやっていますね。
数々の歌舞伎の名優を演出して
日比野 『ぢいさんばあさん』もそうですけど、寺崎さんは[片岡]仁左衛門とかいろいろな名優とお仕事をされてきたわけですけれども、その話も伺えればと思います。
寺崎 はい、どうぞ。
日比野 じゃあ、[市川]新之助時代からご存じの十二代目の團十郎さんからですかね。
寺崎 亡くなった團十郎さんは素晴らしい方ですよね。
神山 先生は成駒屋、[中村]歌右衛門とは仕事してないんですね。
寺崎 歌右衛門さんとはないですね。
寺崎夫人 どっちかというと中村屋ね。
神山 宇野さんがだいたい中村屋とやっていたから。
寺崎 そうなんです。
神山 中村屋の先代の[十七世中村]勘三郎はどうでしたか。いいときはいいけど、やっぱり怒られたりしたでしょう。
寺崎 いや、そんなこと一遍もないですね。
寺崎夫人 主人は宇野先生と仲良かったからね。
神山 確かに、宇野さんと中村屋は仲が良かったです。
寺崎夫人 宇野先生が「中村屋って面白いよ。僕のところに電話がかかるとき、今やっているその役でかかってくるんだ」と言ってましたよ。宇野先生は勘三郎さんとはすごくウマがあったみたいで。
神山 そうですよ。年も近かったしね。
寺崎 そうなんです。
神山 中村屋は、長谷川伸の『刺青奇偶』も『一本刀[土俵入]』も『瞼の母』もやってますから。だから、宇野さんとは合いますよね。でも、先代の中村屋に怒られたことがないというのは珍しいですよ。
寺崎 全然ないです。
寺崎夫人 主人は末っ子で甘え上手なんです。年上の男の人に甘えるのがうまい。だから宇野先生やみんなにかわいがっていただいた。
神山 それと先生はやっぱり辛抱強いんじゃないんですかね。
寺崎 どうでしょう。
神山 戌井[市郎]先生もそうですよ、待つ方ですから。自分から出ていかないんです。そうすると時間がかかるけど、何となく収まっちゃうという、そういうタイプの方だった。
日比野 でも甲斐京子さんなんかは、先生が烈火のごとく怒るって(笑)。
寺崎 そんなことを言っていた?
寺崎夫人 オペレッタの人には怒るのよ。歌舞伎の人は怒らなくていいんですよ。
寺崎 このごろはあんまりしなくなりましたけどね。確かNHKの『ステージ・ドア』に出たんですね。そしたら、ある人が「寺崎さん、すごいですね、机をたたいて怒っていましたね」と言われちゃった。そんなのは、もうないです。
寺崎夫人 あれは一九九九年に撮ったんですね。新国立劇場ができたときのお祝いの演目の七本のうちのトリで、主人がオペレッタの『こうもり』をやったんです。そのときの練習を撮ったんですね。筑紫哲也さんがその番組を見てくれて「すごかったね、あれ、見たよ」と言ってくれた。筑紫さんは『こうもり』を見に来てくれまして、いろいろ話しましたよ。
神山 先生がご一緒した、歌舞伎の役者で一番古い世代というと? 昔の[二代目市川]猿之助=初代猿翁はとは仕事はなさっていますか。
寺崎 初代猿翁はないですね。
神山 そうすると『シラノ・ド・ベルジュラック』[一九六〇年十月 歌舞伎座]の[三世市川]左團次や[九世市川]海老蔵[のちの十一代目市川團十郎]たちが一番古い世代ですか。
寺崎 そうです。
神山 『シラノ』は先生も若いころだから、役者にはあんまり接触はなかったですか。
寺崎 そうですね。
神山 それは残念ですね。山田五十鈴には、松浦さんもあんまり言わなかった。
寺崎 言わなかったですね。
神山 山田五十鈴にはさすがに言えないという感じですか。『シラノ』は兵士がいっぱい出るじゃないですか。あれには先生も出たんですか。
寺崎 僕も出たんです。
寺崎夫人 出たんです。写真もありますよ。
神山 あ、そう。じゃあ、[六世澤村]田之助や今の[五世片岡]我當とかも出ていた。
寺崎夫人 そうそう、我當さん。
寺崎 我當さんと出ましたね。
神山 そうですか(笑)。いや、笑っちゃいけませんね。それで我當さんとその後で『一茶』の芝居[『髪を結ふ一茶』一九九六年十月、歌舞伎座]なんかもやったんですね。
寺崎夫人 それ[『シラノ』]で松緑さんと仲良くなったのね。
寺崎 何か弾薬を持って一緒に突っ込んだのを覚えています。
寺崎夫人 松緑さんにかわいがっていただいて、主人は松緑さんのうちにも出入りするようになりましたね。
日比野 あとは、[九世澤村]宗十郎さんとも仕事をされている。
寺崎 していますが、あんまり深いお付き合いはしてないですね。
神山 その後の世代となると、昭和の戦中から戦後生まれの世代ですね。この間亡くなった團十郎や[尾上]菊五郎の世代になる。中村屋を別にするとご一緒されたのは、菊五郎劇団が多いですか。
寺崎 多いです、はい。
神山 菊五郎劇団の座員が出ていた『源氏物語』はどうでしたか。先ほど伺った、戌井先生と共同演出されていたという。あれもそんなにご苦労はなかったですか。
寺崎 ないですね。
寺崎夫人 あれは[瀬戸内]寂聴さんの台本だったでしょう。海老蔵さんから「こうしてほしい」というのを聞いて、主人が寂聴さんのところに行って「海老蔵君がこう言っておりますけど」と言うと、「あ、そう、はいはい」とちゃんと直してくださるんです。寂聴さんがとてもいい方で、そうやってできたと言っていましたね。今から十五年くらい前の話です。
神山 そうですか、海老蔵ももう四十歳ですからね。
寺崎夫人 そのころは二十六歳ですね。でも、海老蔵さんもとてもかわいいところがあるんですって。「先生、このごろ戌井先生に会う? 今度会ったらよろしくね」なんて言うので、戌井先生に電話をかけて、「海老蔵君がよろしくと言いましたよ」なんて言って。
神山 そうすると、先生が「あの人はちょっとやりにくかったな」という役者はあんまりない。
寺崎 あんまりないですね。
日比野 歌舞伎俳優で[坂東]玉三郎や、[片岡]仁左衛門あたりはどんな印象をお持ちですか。
寺崎 みんないい印象ですよ。玉三郎さんとか仁左衛門さんとか、やっぱり大したものですよ。
神山 先生は昔から知っているから。
寺崎夫人 時々主人が楽屋へ行くと、玉三郎さんが離さないのね。「テラさん、この間はこうだよね、ああだよね」と話しかけてきて、帰してくれないことが何度もあったわね。
寺崎 そういうことはあったですね。
寺崎夫人 やっぱり芸術家同士ですからね。玉三郎さんは演出もできるんですものね。主人も「亡くなった團十郎さんは演出家として素晴らしいから、あの人がいれば僕はいらない」と言っていましたもの。
寺崎 やっぱり座頭というのは、[役者と演出と]両方できないとだめなんですね。
日比野 最近は、[中村]獅童さんと結構仕事されてらっしゃいますね。
寺崎 はい、獅童さん。いいですよ。
寺崎夫人 亡くなったお母様と仲良かったんです。主人が演出家でいるでしょう。そうするとお母さまが心配してしょっちゅう見にいらして「大丈夫ですよ、いいですよ」とか励ましていました。
日比野 創作公演というのは、寺崎先生がご演出なされた作品ですか。
寺崎 そうです。
寺崎夫人 『瞼の母』なんかで全国へ行きましたよね。
神山 [二代目片岡]秀太郎がお母さんで、獅童とやっていましたね。
寺崎 そうなんです。
日比野 そうすると、村上元三演出という名義か、寺崎先生が共同名義で出ていたかもしれません。
寺崎夫人 我當さんと主人は親しくて、『髪を結う一茶』のときは、『ホトトギス』の百周年で、それで書いてくれと言われて。
神山 高浜虚子の『ホトトギス』ですね。我當さんがあそこの俳人だから。
寺崎夫人 主人が歌舞伎の台本を書いて、演出したのはあれ[『髪を結う一茶』]だけですよ。
日比野 脚色、演出になっています。大阪の[四代目中村]鴈治郎、[三代目中村]扇雀あたりはどうでしたか。あんまりお仕事はされてないみたいですけど。
寺崎 あんまりやってないですね。
神山 御園座で二〇〇四年に『源氏物語』をやったときに、鴈治郎、扇雀がやっていますね。
寺崎 そうでした。
日比野 あとは二〇〇八年の御園座で『修禅寺物語』をやったときに[五世中村]富十郎が上置きで、[中村]時蔵、[五世中村]翫雀[現・四世中村鴈治郎]、[三世中村]扇雀が出ていたんですが、思い出はおありになりますか。
寺崎 あんまり思い出はないんですけれども、みんなよくやってくれたなと思いますね。
前進座やSKDの演出
神山 寺崎先生は、最近では前進座の『番町皿屋敷』[二〇一五年五月、国立劇場]を演出されましたね。
寺崎 はい。
神山 前進座は一回だけですか。
寺崎 一回だけだったですね。
神山 あれは前進座から直接話が来たんですか。
寺崎 そうです。
寺崎夫人 前進座で「誰にやってもらう」といったら、「寺崎さんがいい」という人が何人かいたそうですよ。宇野先生がお亡くなりになった直後にも、前進座で演出したでしょう。
寺崎 そう、『巷談宵宮雨』。
神山 『巷談宵宮雨』を前進座でやっているんですか。中村屋だけかと思った。
寺崎夫人 いえ、前進座でもやっているんです。それで、この間亡くなった勘三郎が「テラさん、そろそろあれ[『巷談宵宮雨』]をやりたいな」と言っていたんですって。主人とも「そうだよな、そろそろやろうな」と言っていたら、亡くなってしまった。勘三郎さんの方からそう言ってきたそうですよ。
日比野 前進座の『巷談宵宮雨』のときは、宇野さんの演出助手をずっとされているからというので、寺崎先生に声が掛かった。
寺崎 そうです。
日比野 それは二〇一五年の『番町皿屋敷』とは関係なく。
寺崎夫人 関係ないですね。
神山 寺崎先生はやっぱり六代目[尾上菊五郎]は覚えてないんでしょう。
寺崎 覚えてないですね。
神山 残念でしたね。宇野先生から、六代目の話はよくお聞きになったでしょう。
寺崎 はい。
神山 寺崎先生はあんまり細かいだめ出しをなさる方じゃないんですか。
寺崎 あんまりないですね。
神山 細かくはないんですか。実際におやりになるとかそういうタイプの演出家じゃない。
寺崎 いや、やって見せるときもあります。演出家って一瞬だけはうまいんですよ。続かないだけで。
神山 それはいいですね。
寺崎夫人 でも歌舞伎ではやって見せないでしょう。歌舞伎の人は一を聞いて十を知るんですって。だから何も言わなくても、できちゃう。ところが「オペレッタやオペラの役者は、いちいち僕がこうやってやらなきゃいけないんだよ」といつも嘆いています。「でもしょうがない、[歴史が]百年と四百年と差があるから」って。でも、オペラはそういうふうに全部教えてあげるから、大変なんですって。
寺崎 オペレッタやオペラの歌い手は、学校のときにそういう演劇的な訓練をしてないんですね。歌い手といっても役者と同じようなもので、やっぱり自分の芸というものを持たないとだめだと思うんです。
神山 舞台の居所とかも、歌舞伎では決まっていますからね。
日比野 手取り足取りというと、SKDでも手取り足取り教えた?
寺崎 SKDではレヴューで、あんまりお芝居的なことはやってないから。
神山 一九八五年に国際劇場がなくなってから、「SKDのことを何とかしてくれ」と言われたというのは、永山[武臣]さんじゃないですか。
日比野 SKDの立て直しをするに当たって、寺崎さんに白羽の矢を立てたのはどうしてですか。
寺崎夫人 元SKDの藤代暁子さんが主人の右腕で、オペレッタ協会の全部のオペレッタの振り付けをやっていたんです。だから藤代さんの先輩や後輩から「テラさんを使ってみない」「テラさんがいいわよ」という話が出たんだと思う。
寺崎 と同時に、やっぱり[僕は]松竹の人間だから。
神山 そうですよね。ただ、先生は松竹の芸文室とかに所属しているわけではないですよね。
寺崎 はい。芸文室じゃなくて、一人の演出家として。今でも松竹の顧問をやっています。
日比野 我々は甲斐京子さんにもお話を聞いたんですが、「寺崎先生の演出が大変エネルギッシュだった」とおっしゃっていました。
寺崎 甲斐さん、そう言っていましたか。
寺崎夫人 甲斐京子さんはうちのオペレッタにも出ていただいたから。
日比野 SKDの歴史の中で名作とされている『浅草ラプソディー』[一九八五年十月]が、寺崎先生の演出ですね。
寺崎 僕がやっています。
神山 『レヴューの誕生』[一九八七年二月、三越劇場]もそうですね。
寺崎 ええ、『レヴューの誕生』もありましたね。
神山 SKDのお仕事は楽しくやられていたんじゃないですか。
寺崎 はい。
寺崎夫人 主人は何にしても、来たお仕事には何でも一生懸命ですから。のめり込む人なので。
寺崎 SKDは藤代暁子や春日宏美と親しかったから。
寺崎夫人 津村節子さんが春日宏美のファンなのよね。応援会長なの。
神山 津村さんがファンなんですか。
寺崎夫人 そう、だからいまだに春日さんが津村さんの朗読劇をしたり、それを「テラさん、見に来てよ」なんて言われる。いまだに主人と春日さん、津村さんの三人でいろいろやってますね。
日比野 ちょっと意地悪な見方になるんですけれども。一九八一年にオペレッタ協会を創立されて、いわば先生がこの後心血を注いでやっていくオペレッタという事業がいよいよ本格的に始まった時期にSKDを頼まれるというのは「今、オペレッタの方に乗りかかっているのに」という意識がなかったですか。
寺崎 ないですね。
寺崎夫人 主人は要領が悪いといえばそうなんですけど、何でも来たものに夢中になってやる。
寺崎 うん。
寺崎夫人 だから幸せですけどね、やりたいことをやっているんだから。また、SKDの人たちも技術を持っているんですよね。
神山 それはそうですよ。
寺崎夫人 こう言えばそのとおりにちゃんとやる人たちだから、やっていて楽しいんでしょう。
神山 SKDは歌舞伎と同じで序列があるでしょう。
寺崎夫人 SKDはその厳しさに感心しちゃう。藤代暁子さんの先輩の沖千里という方がオペレッタ協会の手伝いに来てくださったんです。そのときは沖さんが来るというので、藤代さんも緊張して遅刻しないように早くいらしましたから。
新劇から歌舞伎、オペレッタ、ミュージカルまで演出
神山 話が戻りますけど、文学座からNLT時代で矢代静一さんはどうですか。
寺崎 親しかったです。温厚な方でしたね。
寺崎夫人 娘さんが役者をやって。
日比野 宝塚出身ですね[毬谷友子]。
神山 文学座だと、さっき福田恆存、三島由紀夫といった世代から芥川比呂志、それからちょっと若くて矢代静一ぐらいを伺ったんですけれども、あとは何かご記憶にある役者とか親しかったスタッフとかいうのはいますか。藤原新平なんていう人はもっと後ですか。
寺崎 後ですね。でも僕がいたときに入っていました。
神山 先生は[劇団]雲に行った荒川哲生はご存知ですか。
寺崎 ええ、荒川哲生さんは知っている。
神山 荒川哲生さんは同じ年ぐらいですか[一九三一年生まれ]。
寺崎 ちょっと上じゃないでしょうか。
寺崎夫人 水田晴康さんは同年配で、主人とライバルというわけじゃないけど、「どっちが先にやるか」なんて言ってたわね。
神山 考えてみたら、寺崎先生がいらしたころの文学座の俳優というのは豪華でしたね。
寺崎 豪華だった。
神山 仲谷昇も、岸田今日子も名古屋章もいましたからね。
寺崎夫人 文学座だけでは食べられないから、映画にも出ていたんですよね。だから、ずいぶん華やかでした。
神山 本当に、新劇に力があった時代という感じがしますね。
寺崎 力があった時代ですよね。今はどうなんだろう。
神山 今は新劇の人はドラマなんてやってないですからね。当時は、文学座は文学座、俳優座は俳優座という色がはっきりしていましたけどね。今はほとんど区別がなくなって、特徴がなくなってしまいました。
寺崎 今はほとんど、新劇は見ないです。
神山 先生は劇作家として演出なさった中で、一緒にやってみたかった劇作家、好きな劇作家はどういう方でしたか。
寺崎 八木柊一郎さん。青年座の方ですね。
寺崎夫人 八木さんとは家庭的に付き合っていました。八木さんの芝居を演出したことはないのよね。
寺崎 ないね。
寺崎夫人 ないんだけど、弟分として付き合ってくださっていたんです。
神山 寺崎さんが文学座に入ったときにすでに亡くなっていたけど、岸田國士先生の作品はあまり意欲がわかなかったですか。
寺崎 そうですね。
神山 やっぱり当時の若い世代にしてみると、岩田さんの作品はちょっと古い感じがした?
寺崎 そうです。
寺崎夫人 この間[二代目松本]白鸚さんになった、当時の[市川]染五郎が文学座でシェークスピアの『ハムレット』をやったんですって。それを見て、十七~十八歳なのにあんまりにお上手で、主人がひっくり返っちゃったんですって。それで、「やっぱり僕は最初から鍛えている歌舞伎の役者がいいなと思った」と言ってましたよ。
日比野 それは、歌舞伎座の『シラノ・ド・ベルジュラック』よりも後の話ですね。
神山 一九五八年にモスクワ芸術座が来日して新橋演舞場で初公演しましたが、あれはご覧になりました?
寺崎 見ました。やっぱりすごいなと思いましたね。
日比野 先生のお書きになったもので、モスクワ芸術座のことを書いていることはないですか。
寺崎 それはないですね。
日比野 ああいういかにもリアリズムというものには、ご興味はなかったですか。
寺崎 ないですね。
神山 三島由紀夫が『裸体と衣裳』で「みんなモスクワ芸術座、モスクワ芸術座と言うから私は意地でも行かないんだ」と書いてました。三島さんと同じような感受性を持ってらっしゃるから、寺崎先生は先生もあんまりぴんとこなかったんじゃないですか。
寺崎 そうですね。
寺崎夫人 そのときはまだ若いですし、そんなに書く場がないんですよ。主人はフェルゼンシュタインのところから帰ってきて、「この人はドイツでオペラを習ってきた人だ」というので、それから十年くらいは音楽やオペラの批評ばっかり書いていましたね。
神山 先生はスタッフでは、照明や舞台装置で印象に残っている方というとどなたですか。
寺崎 相馬さんですね。大ベテランで、私が何も言わなくても大丈夫。
神山 美術はどうですか。中嶋八郎さんや織田音也さん。
寺崎 いいですね。織田さんはまたすごいです。あんな丁寧に舞台装置を描いてくれた人はないですね。
神山 織田さんの道具帳はきれいでしたね。
寺崎 ええ。
神山 中嶋さんはわりと雑ですね(笑)。
寺崎 八ちゃんは、でも、とってもいいセンスを持ってらっしゃる。
神山 先生はやっぱり照明や道具にはあんまりだめはお出しにならなかった。
寺崎 いや、出しますけど、言わなくてもやってくれる。
寺崎夫人 プロの集団ですからね。
神山 やっぱりオペレッタの方が劇場も決まってないし、難しいでしょう。
寺崎 それはそうです。
寺崎夫人 主人が歌舞伎をやるとなると、何も苦労はいらないんです。ただ主人を送り出すだけ。もうオペレッタは一から十まで苦労のしっぱなしでした。もう、お金のことから切符売りもしなきゃならない。歌舞伎なんか全然切符なんか売らなくてもいい、宣伝もしなくていいし、何もしなくていいんですよ。
神山 先生は第一生命ホールも演出なさいましたか。
寺崎 そこはあったね。
神山 NLTはよく使っていました
寺崎夫人 あそこでオペレッタを最初にやったんです。
寺崎 『ハンガリー物語』、よく覚えている。
日比野 創樹社で『テイキング・マイ・ターン』を演出されていますね[一九八九年二月]。本多劇場のこけら落とし間もないころでした。
寺崎 やりましたね。
寺崎夫人 二度くらいやっているわね。
日比野 これは本格的なミュージカル。オペレッタでもなく、いわゆるアメリカン・ミュージカルは、先生の中でも珍しいですね。
寺崎 珍しいですね。これだけじゃないですか。
寺崎夫人 そう、創樹社のプロデューサーの方が「ぜひ、テラさん、やってくれよ」と頼んできたんです。
日比野 この後、その演出を継いだのが関矢幸雄さんですが、関矢さんとも仲が良いとプログラムに書いてあった。
寺崎 はい。
日比野 どういうお付き合いだったんですか。
寺崎 松浦さんからの繋がりですね。
日比野 そろそろ時間がなくなってきてしまったので、今日はこれで。ありがとうございました。