基本データ

取材日:二〇一七年十一月二十三日
取材場所:成蹊大学
取材:神山彰・日比野啓・大原薫
編集・構成:大原薫

イントロダクション

 丸山博一氏が「東宝現代劇」一期生として入団したのは、一九五八年である。中心的立場にいて、指導もしたのは、当時五十歳代の菊田一夫だった。
 東宝現代劇という劇団を作ることは、その前年開場した、日比谷の芸術座を本拠として公演を行う、菊田一夫の宿願でもあった。一九六〇年代、その後開場した、これも菊田の終焉だった帝国劇場の新開場まで、菊田一夫は疾走し続けた。
 そのプロセスは、小幡欣治『評伝 菊田一夫』に詳しく書かれている。また、矢野誠一『小幡欣治の歳月』を読むと、東宝現代劇の人々の動向も折に触れて知ることができる。
丸山博一氏にインタヴューした際には、正に、その当事者としての、時代の気配や息遣いを実感した。
 一九八二年の『横浜どんたく』のプログラムに、「今年開場二十五周年を迎えた芸術座」とある。その芸術座と歩みを同じくする「東宝現代劇」は、二十二人居た第一期生が、その二十五 周年の時点で既に「いまは九人しか残っていない」とある。もちろん、その一人が丸山氏なのだが、以来四十余年、今年(二〇二三年)が芸術座開場、東宝現代劇立ち上げから「六十六年」かと思うと、当時小学生だった私などでさえ感慨深い。
 私は、「商業演劇」というより、昭和期の興行用語である「特別公演」が好きだった。「特別」とは何か。単一のジャンルや劇団でない、「混成一座」のことである。丸山博一氏は、「東宝現代劇」一期生だから、芸術座が本拠地だろうが、東宝所属だから、その「特別公演」によく出ていた。銀幕の大女優から、歌舞伎の重鎮、新派や新国劇、松竹新喜劇、前進座のベテラン、宝塚のスター、テレビの有名タレントに、新劇の著名俳優が脇役で出てくる一座する芝居の妙味は、ちょっとしたものだった。
 一九六〇年代は「アングラ演劇」の時代などではなく、リアルタイムで劇場に身銭を切って通った芝居好きの実感としては、商業演劇の黄金時代である。映画の五社協定と業界の斜陽とで、山本富士子を筆頭に銀幕の大女優が、続々と舞台に進出した時代だった。
 銀幕の大女優は、毎日テレビで顔を見るタレントとは距離感と大きさ芸容が違う。人気タレントとはいっても、大タレントとは言わない。私は、一九六〇年代から観客だった功徳は、アングラ演劇の著名作の初演を見たこと以上に、まだ知名度、人気度絶頂の銀幕の大女優の舞台に接した事と思い、それを誇りに思っている。
 ところで、丸山氏の舞台では、翻訳物も印象に残っている。東宝のそれは「赤毛物」っぽさがあってよかった。「赤毛物」「翻訳調」は今では否定的に使われるが、私のような気質の観客は、外国人の名前を呼び合う芝居は、「翻訳スタイル」の方が、恥ずかしくなく見ていられる。「愛」「恋」「信仰」――を、「翻訳調」でない、「迫真の演技」でやられると、「迫真的」であるほどシラジラしい。ひとつ「間」を置いた感じで演じる、丸山氏の芝居を見ていると、独特の懐かしさを感じたものだ。
 丸山氏は、早稲田大学の演劇研究会で真山美保『市川馬五郎一座顛末記』を上演したというのも、一九五〇年代という時代を感じさせるが、当時は演出家志望だった。だから、多くの菊田一夫作品を中心に上演し、現在も継続する「東宝現代劇七十五人の会」でも多くの作品の演出も手掛けている。
 「東宝現代劇」では、ニール・サイモンの演出も手掛けたそうだが、私も「東宝現代劇七十五人の会」では、『浅草瓢箪池』や『非常警戒』など、菊田一夫作品、有吉佐和子の『恍惚の人』の演出も見ている。
なかでも、一九九七年の小幡欣治『熊楠の家』の演出は、話題になった。これは、新劇でも上演が先行しているが、「東宝現代劇」での丸山演出の舞台の方が好評だった。
 新劇は、「アンサンブル」とか言っても、実際は逆にかなり「スター俳優」の「大芝居」であるのが多い。「東宝現代劇」の舞台は、配役の妙もあったが、その性質上、いわゆる「スター」はいる訳でなく、それでいて、熟練の俳優が揃っているから、「商業演劇」である、こちらの方が「アンサンブル」なのだ。
 ともかく、丸山氏の話を伺うと、「商業演劇の黄金時代」ともいうべき、菊田一夫の「東宝演劇」というより、あの時代の世相や気配が濃密に、甦ってくるのである。(神山彰)

早稲田大学演劇研究会でアメリカ演劇を上演

神山 まず、お小さいときのことをお聞かせください。丸山さんは秋田ご出身ですよね。昭和一桁生まれの方は新制作座と前進座が印象深かったとおっしゃる方が多いんですが、丸山さんはどうでしたか?
丸山 私は新国劇が印象的ですね。前進座は見たことがあるかな。モリエールの『守銭奴』か何かをやっていた気がする。
神山 そうそう、やっています。あの頃は赤毛物をやってましたからね。
丸山 お金を一人で勘定するところが、子供心に怖いと思った記憶がありますね。五歳か六歳の頃じゃなかったかなと思います。
神山 そうですか。新国劇はもうちょっと大きくなってからのご記憶ですか。
丸山 ええ。新国劇はもう、島田[正吾]先生、辰巳[柳太郎]先生の頃です。
丸山 そうですね。
日比野 新国劇をご覧になったのは東京に出てきてからですか。
丸山 いや、秋田でも見ていたと思います。
日比野 それは要するに新国劇が巡演して来ていたということですね。当時能代が東洋一の木都だったこともあって、秋田は文化的に豊かな土地だったから、いろいろな劇団も回ってきたと思うんですけれども。じゃあ、新国劇もそちらで見ていた。
丸山 そうです。
日比野 それで新制作座も。
丸山 新制作座は、僕は拝見してないんですよ。
日比野 新国劇はお一人で見に行っていた?
丸山 いえ、うちの親に連れられて最初は行っていました。おやじは先に死んじゃっていましたので、母親ですね。
神山 そうですか。じゃあ、お母様がそういうものがわりと好きだった。
丸山 いっときは芸者をやっていましたから。そういう芸事が好きなんじゃないでしょうか。
神山 中学、高校に行って映画を見て「そういう世界に行きたい」という気持ちで早稲田大学を受けられたんですか。
丸山 [ルネ・]クレマンの映画を見て、最初は映画監督になろうと思ったんです。それで早稲田の演劇専修というのがあって、何も調べないで「じゃあ、とりあえず受けよう」ということにしたんです。一万円もらったんですが、当時受験料が確か五千円でしたね。それで二校しか受けられないというので、早稲田ともう一つ、青山学院を受けたんです。青山は映画とは全然関係ないですが(笑)。そうしたら運よく受かって。実は一浪したんですが、予備校に行ったら東京のナンバースクールの先生たちが、たとえば上野高校、九段高校、両国高校の先生たちが授業をしてくださるんですよ。
日比野 アルバイトですよね。
丸山 そうですね。聞いたこともないようなことを教えてくれるんですよ。東京の生徒ってこういうことを教わっているんだ、と思いましたね。
神山 浪人のときも東京にいらしたということは、ご親せきか何かのうちにいたとか。
丸山 そうなんですよ。台東区の小島町というところに親せきがありまして。浅草はすぐに歩いて行けました。
神山 じゃあ、誘惑が多かったでしょうね。
丸山 いや、まだ何も分かっていませんでしたね。
神山 東京に来たのは何年ですか。
丸山 昭和二十八年(一九五三)。昭和二十九年に早稲田に入りました。
神山 その頃は、飯島正先生はいらっしゃいました?
丸山 飯島先生はいらっしゃいましたね。僕らが一年生のときのクラス主任が河竹繁俊先生。息子の登志夫先生は助手をやっていました。
神山 そうですか。それで丸山さんは[早稲田大学の学生劇団である]劇研[演劇研究会]に入られた。民藝に行った内山[鶉]さんや渡辺浩子さんとご一緒だったんですか?
丸山 いや、内山と渡辺浩子は[同じく早稲田大学の学生劇団の]自由舞台です。クラスは一緒ですけどね。
神山 そうでしたか。
丸山 当時は砂川事件[住民・労働者・学生が在日米軍立川飛行場の拡張に反対し、警官隊と衝突した]があって、上級生に「砂川に行こう」「何なんですか?」「いいからついてこい」と言われて行ってきましたね。
神山 そういう時代ですね。メーデー事件のちょっと後ですもんね。劇研で[一九五四年十一月の初演以来、新制作座のレパートリーとなった]『市川馬五郎一座顛末記』を上演したのは、丸山さんご自身のお気持ちで選ばれたんですか。
丸山 違います。
神山 違うんですか。
丸山 ええ。皆、当時は左翼のお芝居をしていたんです。僕が入ったときは、ゴーリキーの『母』をやっていましたね。「これだったら、わざわざ芝居をしないで、演説したらいいんじゃないの」と思ったのを覚えていますね。それでイデオロギー論争みたいになって、結局分かれたんです。
日比野 政治的な方と、そうではない方と。
丸山 そうです。それで「じゃあ、僕らは何をやるんだ」という話になって、僕は生意気にも二年生のときに「アメリカ演劇じゃないですか」と言ったんです。その前に『探偵物語』という映画が来ていましたね。あれは元が芝居なんです。「もし版権が取れたらやろうよ」なんて話していて、皆で台本を読んだら「これは面白い」となって。[作者は]シドニー・キングスレーですか。
日比野 その通りです。
丸山 それで、「彼はまだ他の本も書いている」というので、『デッド・エンド』という脚本を探し出した。僕はその頃、東宝のシナリオライターで『駅前旅館』ほかの『駅前シリーズ』を書いていた新井一さんの息子さんの家庭教師のアルバイトをしていたんです。それで本棚を見ていたら『デッド・エンド』があって、「先生、これ、貸してください」と言って借りて読んで、「これ、ガリ切っていいですか」と言って[印刷させてもらった]。当時はガリ[版]ですからね。
神山 それはそうですよ。
丸山 それで『デッド・エンド』を三年生の春にやりました。その後、『市川馬五郎一座顛末記』が秋だったと思います。
神山 そうですか。そのころご覧になった芝居は? やっぱり新劇の三大劇団をご覧になっていた?
丸山 はい。当時は合同公演をやってましたね。
神山 文学座だとテネシー・ウィリアムズをよく上演していましたもんね。
丸山 はい、そうです。
神山 民藝はアーサー・ミラー。
丸山 『セールスマンの死』や『るつぼ』をやってましたね。

劇団東宝現代劇一期生として『モデルの部屋』で初舞台

神山 丸山さんは早稲田大学四年生のときに、芸術座の研究生に応募して合格されたんですよね。これは、雑誌か何かの広告で募集を見たんですか。
丸山 いや、僕が居候していたうちの娘むこの方が、松竹にいたんですよ。その人が「お前、芝居をやっているんだろう、何か募集してるぞ」とスポーツ新聞の片隅に載っていた記事を見せてくれた。「東宝の専属俳優募集」というので「何日の何時から何時までが試験」というので、「あ、それ、いいな」と思って受けに行った。映画監督を目指していたはずが、いつの間にか役者になっちゃった。やっぱり一度役者をやったら、もうだめですね。
神山 そうですか、「役者を三日やったらやめられない」と言いますからね(笑)。試験は本社であったんですか。
丸山 はい。今はシャンテという映画館があるところに東宝の本社があったんです。その下にあった稽古場でやりました。
神山 応募者は二百人ぐらいいたんでしょう。
丸山 そういう話ですね。
神山 面接だけですか。それと、朗読もあるんでしょう。
丸山 ええ、もちろん。一次試験は朗読で翌日はパントマイムでしたね。
神山 ああ、そう。二日間で一次試験と二次試験があって。
丸山 そうですね、一次試験の朗読で少し足切りして、その日に[一時合格者を]張り出して、翌日パントマイムと面接があったと思います。
神山 面接には、菊田[一夫]先生もいらした?
丸山 いらっしゃいました。
神山 すぐに菊田先生だと分かりましたか?
丸山 ええ。菊田先生が真ん中にいらして。それで、どういうわけかゲストがいるんですよ。草笛光子さんでした。
神山 え、草笛光子? 草笛さんは丸山さんと一つくらいしか年が違わないでしょう。
丸山 二つ上かな。
日比野 ただ、キャリアは長いですよね。
丸山 キャリアはSKDからですからね。ニコニコして座っていらっしゃいましたよ。あとは年齢が高いプロデューサーの方と、若いプロデューサーの方。演出部も一人しかいなくて、津村健二さん。それから佐藤勉さん。
神山 佐藤勉さんね。これはよくお名前が出てくる方ですね。
丸山 ええ。有名な佐藤勉さんが「はい、君たち、こっちへ並んでえ」と、こんな言い方なんです(笑)。
神山 そうですか。これで合格したのは何人ですか。
丸山 確か二十三人と聞いたかな。男女含めてね。
神山 学校じゃないから、四月から始まったというわけじゃないんでしょう。
丸山 違います。十一月の初旬でしたね。
神山 丸山さんはまだ早稲田の学生だったんですか。
丸山 そう、四年生ですね。
神山 それで卒業はちゃんとなさったんですか。
丸山 卒業しましたね。ノルマを決めて、卒論の清書を楽屋で書いていました。
神山 卒論は何を書かれたのか、興味深いところですね。言いたくないかもしれないけど。
丸山 あんまり言いたくないですが(笑)『アメリカンミュージカル研究』という卒論でした。映画を見て好きになってね。
神山 担当は倉橋[健]さん?
丸山 そうです。確か『黒人たちのカルテット』か何かがアメリカンミュージカルの最初だと本に書いてあったたので、そのとおり卒論に書いたんですけど、卒論の面接で倉橋先生に「これ、知っているのかい」と聞かれて。「いや、聞いたことはありませんよ。でもこういうところから始まったみたいですよ」と言ったら、「ふーん」なんて言われて、それで終わっちゃいましてね(笑)。
神山 そうですか。芸術座研究生になったのが何年ですか。
丸山 [昭和]三十二年(一九五七)です。
神山 じゃあ、もう芸術座はできているんですよね。
丸山 できています。もう、こけら落としの『暖簾』[山崎豊子原作、菊田一夫脚本・演出、一九五七年三月・芸術座]をやっていました。四月でしたね。
神山 芸術座の研究生は、カリキュラムまでいかなくても、座学とか講義があったんですか?
丸山 いえ、全然ありませんでした。
神山 全然ないんですか。実技主義だったんですね。
丸山 「君たち、十一月十五日初日の『モデルの部屋』をやってもらうから」と言われて。
神山 『モデルの部屋』。川口[松太郎]さんの作品ですね。
丸山 はい。「それに出られない人、いるか」と言われたら、僕は劇研の『長い墓標の列』と重なっちゃったんですよ。「学校で芝居があるので出られません」と言ったら「ああ、そう」とそのときは言っていて。あとで聞いたら皆は「あいつ[丸山]は絶対断られるだろう」と思ったらしい。
神山 じゃあ、他の研究生の方たちの初舞台は『モデルの部屋』となっているけど、丸山さんの初舞台は違ったんですか。
丸山 いえ、『モデルの部屋』です。本番の日だけ出ました。稽古はやらなくていいような役だった。
神山 丸山さんの初舞台は「固まって一カ所にいた」なんて書いてありますね。
丸山 そうそう。
神山 川口松太郎さんも当時はまだ若くて、五十代くらいだったでしょう。盛んなころですよね。
丸山 そうですね。奥様の三益[愛子]先生が主役ですから。
神山 川口さんはうるさくダメ出しなさったんですか。
丸山 川口さんのダメはなかったですね。演出が菊田一夫さんだったので。僕らは袖から蹴飛ばされて「おい、出ろ」という感じで出ていたので、何をやっているんだか、もううろうろするばっかりでしたね。他の一期生は劇団に入った人もいらっしゃって、内山[惠司]は『蟹工船』なんかをやっているんです。「俺たちも『蟹工船』をやったんだよ」「お前、どこにいたんだ」「いや、だから学生演劇だよ」と言って「へえ」なんて言われましたけどね。知らなかったらしいんです。
日比野 そうすると、学生でそのまま入った方と、社会人で劇団など何らかの形で演劇をやっていた方の割合はどのくらいだったんですか。
丸山 やっぱり演劇をやっていたのが多かったんじゃないですかね。
日比野 そうですよね。そうすると学生演劇から直接来たのは……?
丸山 私と、男では井上孝雄。
神山 井上孝雄さんね。玉川大学でしたよね。
丸山 そう、玉川大学の演劇部でした。僕と井上の二人くらいだったですかね。
日比野 そうですか。それまでは新劇で、それなりに政治的な傾向のあるものもやっていたのに、東宝の現代劇に入るということに関して何らかの葛藤はございましたか。
丸山 はっきりは分かりませんが、「こんなのでいいのか」という気はしましたね。つまり稽古期間の短さですね。
日比野 なるほど。
丸山 学生演劇は三カ月ぐらいやりますでしょう。それで、スタニスラスキー・システムですから。『蟹工船』だったら、「カニを獲れ」と言われて「どうやって獲るんだ」というのを調べるところから始まる。それで三カ月かかるんです。でも、そういうことはやったほうがいいですよね。
日比野 スタニスラフスキー・システムでしたら、そうですね。
丸山 東宝だとそうはいかない。
神山 それはそうですよね。毎月、毎月公演をやっていますから。
丸山 さっき大詰め[の芝居]ができてきたばっかりなのに、もう客の前でやってるんですよ。

『まり子自叙伝』『興行師まり子』に出演

神山 その次は『まり子自叙伝』[一九五八年四月・芸術座]にお出になったでしょう。
丸山 『まり子自叙伝』の前に、森繁[久彌]さん主役のお正月公演に出ました。
神山 『風雪三十三年の夢』[一九五八年一月・芸術座]ですね。
丸山 そうです。宮崎滔天[が主人公]の『風雪三十三年の夢』。[東京]宝塚[劇場]が焼けたのはそのときですよ。
神山 ああ、あの火事のとき。
丸山 怪我した女優さんとかが部屋着のまんまで、芸術座の楽屋にかつぎ込まれていました。
神山 [東京宝塚劇場と芸術座は]隣ですものね。
丸山 もう、窓を開けると熱かったですから、「こりゃ、ここも危ないな」と思いましたね。
日比野 延焼しないのが不思議なくらい。
丸山 はい。
神山 でも、話が飛びますけど、高麗屋[八世松本幸四郎=初代松本白鷗]が出たときは後ろにプロンプターが付いているでしょう。
丸山 もちろんです。
神山 森繁さんのときもプロンプターがついてました?
丸山 その当時は演出部がついてないですかね。森繁さんはそういうのは平気でしたから。
神山 そのころから菊田先生の台本は遅かったんですかね。
丸山 遅かったですね。
神山 そうすると、台本が上がるより先に[大]道具だけは決めちゃうんですか。
丸山 そうです。伊藤熹朔先生の美術で、「あらすじはこう」「場割りはこれで」と言われて、それに合わせて道具を作る。実際に台本になると、その通りに書いていらして。
神山 音楽もだいたいそんな感じで作っておくんだと聞きましたけどね。
丸山 音楽は古関[裕而]先生ですからね。
神山 菊田、古関と言えば話を聞いただけで、分かったようなものですものね。
丸山 ラジオドラマでおなじみのコンビですから。
神山 昭和三十三年(一九五八)四月の[菊田一夫作・演出の]『まり子自叙伝』は、結構話題になっている芝居ですね。
丸山 そうなんですよ。そもそも芸術座は「ロングランをしよう」というので作った劇場らしいんです。それで小林一三社主が[菊田に]「お前に任せるから」と言って「じゃあ、ロングランができるような作品にします」と言ったそうなんです。あれは確か三カ月やりましたね。
神山 そう。そんなにヒットしたんですか。
丸山 はい。
神山 (資料を見て)本当だ。六月二十二日までやっていますね。
丸山 そうですよね。その後、できたばかりの梅田コマ[劇場]まで行ったんです。
神山 大阪まで行ったんですか。
丸山 はい。それで、ちょうど僕が出ていたレコード会社のシーンで、僕と小鹿番と、もう一人が出ていた。この役は作曲家で古関先生がモデルで、「東北弁でやれ」と指定してある。古関先生は福島出身ですからね。これをやった人が慶應出身で、僕らの後から入ってきた三人のうちの一人だったんですが、すごくよかったんです。役者はそれだけやってすぐに辞めて、日活の映画監督になりました。
神山 結構有名になった方ですか?
丸山 有名になりかけたところに病気で亡くなったんです。丹野雄二という方でした。
神山 何かの芝居のプログラムのプロフィル欄で、「丸山さんが『まり子自叙伝』で東北なまりで笑わせた」と書いてあった気がします。
丸山 それは『興行師まり子』[一九五九年四〜五月・芸術座]じゃないですか。
神山 『興行師まり子』でしたか。これは『まり子自叙伝』の翌年ですね。
丸山 『興行師まり子』は演出が中村俊一さんだったんです。中村さんが「マル、お前、東北弁でやれ」と。あの人、すぐやらせるんですよ。その前に何かの勉強会で『花咲く港』をやったんです。あの主人公は「東北弁でやる」と台本に書いてあるので。古川ロッパさんがやったからでしょうけど。
神山 そうそう。
丸山 それで中村さんが「台本にちゃんと東北弁でやると書いてある。だからお前、東北弁とわかるようにやったらどうだ」と言ったんです。「ああ、そうですか」と言って東北弁でやった。中村さんは何でも東北弁にしちゃうんです。面白い方でしたよ。ちょっと話してもいいですか?
神山 中村俊一さんのことですか? もちろんです。
丸山 何の芝居かは忘れましたけど、確か序幕か二幕目かでちょこっと僕が出て、それですっと引っ込んだらもう出ない。そうしたら中村さんが最後まで見ていて「マル、お前は[出番は]あれだけか」と言うから、「そうです、あれだけです」と言った。そうしたら「泥棒だな、お前は」と言って、すっと帰ったんです。帰りがけに「そんなにもらっていません」と僕が言ったら、またやって来て「こそ泥」なんて言うんです(笑)。中村さんはそういう人でね、本当におかしい人でしたよ。
神山 いい人ですね(笑)。
丸山 久しぶりにこの話をしたな(笑)。
日比野 宮城まり子さんはどんな感じでしたか?
丸山 宮城さんはもう、前に突き進んでいくという感じの方です。今でもそれでやっていらっしゃいますけど。
日比野 菊田さんはどうして『まりこ自叙伝』をやったのか、ちょっと不思議な感じもしますよね。
丸山 何で主演女優の『まり子自叙伝』なんて題名を付けたのか、当時は「へえ」と思いましたけど。
日比野 それは何か、当時の宮城まり子のスター性というか。
神山 そう。靴みがきの歌[「ガード下の靴みがき」一九五五年八月]とかで人気がありましたからね。
丸山 そうですね、たぶん古関先生との関係で菊田先生とお会いになったらしい。

『がめつい奴』が社会的ブームに

神山 丸山さんは 毎月芸術座にお出になっているわけですけれども、昭和三十三年(一九五八)九月の『人間の条件』についてお聞きしたい。
丸山 『人間の条件』は、『まり子自叙伝』の梅コマ公演から帰ってきて、すぐ稽古をやっていました。五味川純平さんの『人間の条件』はどうしても東宝がやりたいというので。
神山 最初は劇団葦でやっていたんですよね。
神山 ここにプログラムのコピーがありますが、丸山さんもこの中にいるでしょう。
丸山 僕は、梶という主人公の友人役でした。
神山 梶は平田昭彦がやってましたね。これは司葉子の初舞台ですよね。
丸山 そう、初舞台でした。
神山 小幡欣治さんとは『人間の条件』が初めて?
丸山 そうですね。
神山 小幡さんとはその後、こんなに長い付き合いになるとは思わなかった?
丸山 思いもしなかったですね。
神山 小幡さんは丸山さんの四つか五つ、年上ですよね。
丸山 内山惠司よりも一つ二つ上じゃなかったですかね。
日比野 小幡欣治は一九二八年生まれですね。
神山 『人間の条件』は小幡さんの脚本、菊田先生の演出でこれも結構ヒットしたんでしょう。
丸山 三カ月やりましたね。
神山 そのころのお芝居は[上演時間が]長かったですね。『放浪記』も五時間ぐらいやっているわけですから。
丸山 [終演は]十時過ぎていました。
神山 当時は歌舞伎も長くて、十一時くらいまでやってましたからね(笑)。丸山さんは当時は、芸術座か[東京]宝塚[劇場]か、どっちかに出てましたね。
丸山 はい、毎月出てました。
神山 その中で有名な作品が『今日を限りの』。
丸山 あれは再演が芸術座十年記念なんですよ。
神山 『今日を限りの』初演が昭和三十四年[一九五九年]六月。『がめつい奴』が昭和三十四年[一九五九年]十月。『今日を限りの』再演が昭和三十七年[一九六二年]。『がめつい奴』は、僕が芸術座のテレビ中継を見た最初の記憶がこれですよ。小学三年生のときでした。
丸山 そうですか、よく覚えてらっしゃいますね。
神山 いや、学年は今計算したんですけど、テレビ中継だけは覚えていますよ。だってあのころは『がめつい奴』はものすごく流行っていて、子供でも知っているくらいでしたから。
丸山 そうですね。「がめつい」って東京人も言うようになったし。
神山 『がめつい奴』は、映画は後でしょう。
丸山 芝居の方がもちろん先。
日比野 『がめつい奴』は舞台は一九五九年十月五日初日で、映画は一九六〇年九月十八日が公開。
神山 『がめつい奴』で僕が覚えているのは、三益さんと中山千夏さんです。[二代目中村]扇雀[四世坂田藤十郎]さんとかいろいろ出ていたのは後で知りましたよ。
丸山 扇雀さんが初代の息子役でしたね。和気誠一さんも出ていました。
神山 『がめつい奴』がこんなに受けるというのは、稽古のときから手応えはありましたか?
丸山 要するに、子供の理屈にはかなわないじゃないですか。
神山 中山千夏がやっていた子供の「テコ」役ね。
丸山 はい。我々の実生活でもそうですけど、子供って面白いことを言うじゃないですか。要するに屁理屈なんですけど、「今はこうだから、こっちに乗せて……」なんていう駆け引きは一切なくて「こうだろう」とズバッと言う。「今はお前、世の中、そんなふうになってないだろう」みたいなテコの台詞が散りばめられてるんですね。今ってディベートというのが流行っているじゃないですか。
神山 流行ってますね。
丸山 テコの台詞は、ディベートかなと思って。それがすごくおかしかったです。
日比野 それは全部、脚本に書かれていたんですか。
丸山 書かれていました。
日比野 中山千夏がその場で作っていったということは?
丸山 それはないです。
神山 菊田先生は役者のアドリブは嫌いでしたか。
丸山 そうでもないんですけど、一応、僕は「先生、これ、言っていいですか」というようなことを言いに行きましたね。
神山 そうですか。それで、このときはまだエノケン[榎本健一]が出ているんですけど、このころは足はどうでしたか[脱疽で一九五二年に右足指を切断。一九六二年に右足を大腿部から切断]。
丸山 足はそんなに気になりませんでした。
神山 普通に歩けていましたか。
丸山 ええ。普通に歩けていました。
神山 そうですか。一緒に舞台に出ると、エノケンは浅草の芸人という感じがしましたか?
丸山 いや、面白くない人だなという感じでしたね。
日比野 ああ。エノケンは最後の方は、ちょっと憂うつな感じになっちゃっているんですよね。
神山 楽屋でも気難しい感じ?
丸山 楽屋は静かですし、廊下なんかで出待ちをしている僕ら若いのを「おい」と言って呼んで、何かしゃべるんですよ。「これ、面白いだろう」という駄じゃれを言って、一応「アハハ」と笑いますけど、あんまり面白くないなという。たぶんそういう人なんじゃないですかね。
日比野 ああ。じゃあ、それは晩年になって足を悪くして鬱になっていたということではなくて、もともとオンとオフの使い分けがある方だったと。
丸山 はい。脚本をえぐって「これ、おかしいだろう」と思ってやって見せるんじゃなくて、そんなことは全然考えないでリアルにやるというタイプの役者さんだったんじゃないですかね。
日比野 じゃあ、逆に楽屋裏で「おかしいだろう」とやるとかえって滑ってしまう。
丸山 はい。
神山 [古川]ロッパは一緒に出たことがありますでしょう。
丸山 はい、もちろん。
神山 ロッパはやっぱり威張っている感じ?
丸山 そんなことないですよ。でも、威張っているか、威張ってないかというんだったら、ロッパさんの方が威張っていたかな。
神山 やっぱりよく言われるように、ちょっと尊大なところがある感じですか。
丸山 何かこう、睥睨しているというかね。
神山 やっぱり生まれ育ちがやんごとない方だから。何かこう、威張っていても嫌な感じのしない人っているじゃないですか。
丸山 そうですね。ロッパさんは愛きょうがある方ですね。
神山 そのころはロッパさんも台詞なんかは怪しかったでしょう。
丸山 すんなりは出てこなくて、間を取って考えている感じでしたね。
神山 エノケン、ロッパと一緒にお出になったというのは羨ましいですね。
丸山 ハハハ。ロッパさんはマージャンが好きでね。あんなに日記を書いているなんて思いもしていませんでした。
神山 悪口と食べ物のことばっかり書いてて(笑)。ロッパは私の祖父母と同い年で、明治三十六年(一九〇三)生まれだったんですが、早く亡くなったのが非常に印象深かったですね。それで、『がめつい奴』のあとは『がしんたれ』などがいろいろありましたが、先ほど話が出た『今日を限りの』はどうでしたか。これは菊田先生ですか?
丸山 そうです。菊田先生です。
神山 これは、制作は佐藤勉さん。
丸山 太田恒三郎さんと勉さんですね。
神山 いくら菊田先生でも、出来不出来はありますよね。「これはダメだろうな、ウケないだろうな」というものもあった?
丸山 客席を見ると分かりましたからね。当時、芸術座は背もたれに白いカバーを掛けていたんですよね。ですから、舞台から「あれ、今日は看護婦さんの団体?」というのが楽屋で話題になった。
神山 客席がすいているということですね。
丸山 ええ。それと「今日は貸し切りだから、客席は盛り上がらないぞ」というのもありました。今は逆で、貸し切りの方が反応が分かるんですが、昔は貸し切りだとシーンとしていた。
神山 なるほど。入りが薄いときもあった?
丸山 ありました。最初はそうでしたね。浦島さんだったかな。渋谷か何かで買い物して……
神山 浦島千歌子さんね。
丸山 ええ、千歌子さん。楽屋入りするのにタクシーに乗って「芸術座へ行って」と言ったら、俳優座で下ろされた。「違うじゃない、ここは」と言ったって(笑)。
神山 それくらい浸透してなかったということですね。
丸山 そうなんですよ。まあ、[芸術座が知れ渡ったのは]『がめつい奴』以降ですかね。

東宝現代劇第一回新作ロードショウ公演

神山 その後くらいになると、高麗屋の人たちが東宝に入ってくるんですよね。当時二十代だった丸山さんたちから見たら、それはどういう感じだったんですか?
丸山 歌舞伎の方ですから、歌舞伎に直に触れられたら嬉しいという感じでしたね。
神山 昭和三十六年(一九六一)には、小幡さんの東宝現代劇第一回新作ロードショウ公演『真打』というのがありますね。これはどういうことだったのか。この[新作ロードショウ公演という]タイトルはよく分からないんですけど。
丸山 これはもし舞台成果がよかったら本公演でやるというものだったんです。本番でやる場合はキャスティングを変えてね。これは、[本公演を]やったんですよ。
神山 [古今亭]志ん朝さんがやった『寿限無の青春』ですね。題名を変えたのは、小幡さんの案じゃないんでしょうけれども。
丸山 もちろんそうでしょうね。東宝本社の制作の本社の案じゃないですか。
神山 このときの演出は俳優座の増見[利清]さんなんですね。
丸山 増見さんは暑いのに、汗をかかないんです。
神山 八月公演でしたからね。
丸山 当時、稽古場にクーラーなんてないですから、僕らは汗だらだらでやっているのにしらーっとして。それであんまりダメを出さないんです。じーっと見ていらっしゃるから、「汗くらいかいてくれよ」と思った記憶があります(笑)。
神山 これは山田芳夫さんが主役だったんですね。落語を一席やったわけでしょう。
丸山 やったんですよ。これは[桂]文楽さんに習ったのかな。
神山 そうそう、落語指導は桂文楽。大変なものですね。
丸山 それで、新宿の末広[亭]で一席やったんですよ。
神山 山田さんご当人が一席?
丸山 はい。稽古中に文楽さんが「おやんなさい」と言って。「『おやんなさい』と言ってそれで済むのか」と思ったんですけど、ちゃんとお客さんがいるところで、師匠が先に前振りして一席やったの。だーっと大変な拍手ですよ。
神山 大したものですね、それは。
丸山 『鰻の幇間(たいこ)』、ウナタイというのをやりました。
日比野 寄席でも『鰻の幇間』をやった?
丸山 ウナタイしか稽古してないですから、寄席でも舞台でもあれをやりましたね。
神山 大したものですよね。このときは丸山さんも噺家の役をなさっていた。
丸山 僕はだめになる噺家でね。
神山 老け役ですよね。
丸山 そうなんです。死ぬ直前に高座に出るという役ですよ。
神山 [雑誌の]『演劇界』でも、本公演でもないのに『真打』の記事がこんなに大きく出ているんですね。いくら芸術座でも、『がめつい奴』や『放浪記』だと出るだろうけど、二日間だけの公演がこんなに大きく『演劇界』に出るのは珍しい。それだけ印象的だったということなんでしょうね。
丸山 落語界の楽屋の話なんていうのは芝居にはないですし、書ける人もいなかったですものね。
神山 これを見て、「丸山さんが若くてこんな老け役をやっているんだな」と思ったんです。
丸山 若くてって、じゃあ、老け役になってない(笑)。
神山 この写真は丸山さんでしょう。
丸山 これは俺みたいですね。
神山 そのころから小幡先生とはわりと親しくされていましたか。
丸山 ええ。よくお酒を飲んだりしましたね。ただ、お酒は榎本[滋民]先生の方が余計飲みましたけど。あの人は面白いですよ。書くものは硬いのに、ご本人はとても柔らかくて。
神山 榎本さんは、落語が半分は本業みたいなものでしたからね。
丸山 吉原の話なんて「この当時、生まれていたの」というようなことを、しらーっとおっしゃるし。
神山 それでその翌年、『寿限無の青春』という題名になって本公演でやるわけですけれども、本公演では山田さんたちは脇役で、志ん朝が主役をやって。
丸山 そうですね、ロードショウというのは「本公演に先駆けてやる」という意味なんですが、道端でやっているという意味もありましたね。
神山 ロードショウはこれ一回きりですか、それとも何度かやりました?
丸山 いや、あったんじゃないですかね。『花咲く港』もロードショウだったんじゃないかな。
神山 そうだ。『花咲く港』もロードショウですものね。このころから一期生の中でも井上孝雄さんが抜擢されるようになったんですか。
丸山 井上が最初に主役をやったのが『今日を限りの』。それから『敦煌』[一九六〇年十一~十二月 東京宝塚劇場]という[東京]宝塚[劇場]の芝居で。
神山 『敦煌』ね。井上さんが池部良の代役をやったというので有名な作品ですね。
丸山 はい。あのころ、芸術座で『がしんたれ』[一九六〇年十月・芸術座]をやっていたんですが、僕らは『敦煌』のプロンプターをやっていたんです。僕は二幕担当で一幕が小鹿で三幕が内山かな。『がしんたれ』の出番が終わったら、宝塚に行ってプロンプターをやっていた。それで井上が代役と言うので張り切ってプロンプターをやりにいったら、井上は台詞を全部覚えているんですよ。
神山 井上さんが。
丸山 ええ。歌もちゃんと歌うんですよ。だから前から「お前、見ておけ」と言われていたんですね。
日比野 そういうことか。
丸山 それで稽古場に行って見ていて、全部入れていた。
神山 『敦煌』のときは、僕も小学生ですけど、うちでスポーツ新聞を取っていたので、「池部良が降板した」とこんなに大きな記事が出たのを覚えていますよ。
丸山 そうなんですよ。降板した理由は書いていました?
神山 私の記憶ですけど、台詞が覚えられないというのと、立ち位置が分からないというのが書いてありましたね。本当にそうだったんですね。
丸山 そうですね、「あなたをキャスティングした私が悪かった」と菊田先生が楽屋へ行って謝ったそうです。
神山 そうですか。でも池部良という人は、打たれ強いというか、わりとすぐ映画で復帰して、いい役をやられていた。打たれ強い人ですね。大したものです。
丸山 やっぱり、映画育ちの方ですからね。「もちはもち屋」ですから。「俺には映画があるから」と。
日比野 その後すぐ『乾いた花』ですもんね。
神山 そうですね。その二十年後くらいですけど、日生劇場で『鹿鳴館』[一九七二年]の清原を見ましたよ。
丸山 やっていらしたんですね。
神山 やっていましたよ。それ以外で舞台を見たことないですもんね。

菊田一夫に「大阪で森光子を見て来い」と頼まれる

神山 昭和三十六年(一九六一)というと『がしんたれ』と『放浪記』。
丸山 そこで森さんが林芙美子をやってね。
神山 そう、この年ですよね。
丸山 菊田先生が「林芙美子は森光子だ」と浮かんだらしいですよ。
神山 これはいろいろエピソードがありますよね。
丸山 初めて[森さんが菊田さんと]お会いしたときの話は森さんがよくご自分でおっしゃっていましたけど、あれはちょっと違うんです。僕らが小鹿番と一緒に大阪に行っていたとき、菊田先生に「大阪に十秒に一回笑わせる女優が出ているというから、見て来い」と言われたんです。それで小鹿に「お前、行くか」と言ったら「毎日二回公演やっているのに、人の芝居なんか見たくもないよな」と言って。それが森さんと菊田さんの最初だったらしいですよ。
神山 そうですか。
丸山 「菊田先生が梅コマの後ろから二分間だけ森さんの芝居を見て、東京に帰ってから森さんを呼んだ」という、森さんがおっしゃっている[エピソードの]方が何か、かっこいいですけどね。でも、その前に僕らに「見て来い」と言われたんです。
神山 それは梅コマでやっていた芝居でしょう。
丸山 ええ、僕らが『まり子自叙伝』をやっているときです。
神山 『自叙伝』ね。そうですか。
丸山 それで「お前ら、金ないだろう」と言われて「ありません」と言ったら、それで五千円くださったの。
神山 それは菊田さんが?
丸山 そうです。僕らはひと月二千円でしたから。五千円はすごいお金でした。
神山 そのころは初任給が一万円ぐらいの時代だと思いますけどね。
丸山 うん。初任給が大学出で一万二千円くらい。
日比野 先ほどの『敦煌』のプロンプターの話もそうですけれども、自分の出番が終われば[楽屋に]いなくていいんですね。むしろ「どこか行って見てこい」と言われるぐらいだった。
丸山 そうなんです。別にカーテンコールをやるわけでもないし。カーテンコールをやるときは、カーテンコールも芝居の内だからいなきゃだめですが。ただその間は別に楽屋にべったりいなくても、間に合えばいいという。
神山 芸術座ではカーテンコールって最初からやってないでしょう?
丸山 あんまりやっていませんね。千穐楽くらいですかね。
神山 そうですよね。
丸山 鍵渡し式というのが芸術座にはありまして、優勝旗みたいにビラビラがついている、こんな大きい鍵を次の主役に渡すんです。
神山 そういうのをやっていらしたんですか。『放浪記』では、丸山さんは最初から上野山[光晴]の役なんですか。
丸山 いいえ。『放浪記』の初演のときは、僕は高麗屋と一緒に芸術座でやった、蘇我赤兄の話に出ていたんです。福田恆存先生の作品で……。
神山 『有間皇子』[一九六一年九月・芸術座]。
丸山 そう、『有馬皇子』です。『有間皇子』が大阪に行ったときに、『放浪記』の初日を迎えたんです。それで、僕と三上直也ともう一人女の子は最初からは出てないの。
神山 最初から出てないんですか。
丸山 大阪で一カ月やって、帰って『放浪記』を上から見て、「お前は今度はあの役だ」と言われたんです。出版社の社員の役とカフェの学生かな。
神山 『放浪記』はロングランでしたからね。
丸山 ええ。それを二ケ月やって、『放浪記』は名古屋に行ったんだけど、僕は名古屋には行きませんでした。それから十年くらいして再演したんですけど、それにも出ていなくて。三木のり平先生が演出するようになって、[台本を]刈り込んで短くしてから、また出るようになったんです。
神山 『放浪記』のころは、高麗屋の一門が東宝に来ている時期なので、[中村]芝鶴さんも出ているんですよね。僕、芝鶴さんがすごく好きだったです。
丸山 そうですか。芝鶴先生は『修禅寺物語』を勉強会でやって、東宝が金を出したんでしょうね。セットも衣装もちゃんとあって。それで横澤が夜叉王をやって、僕が頼家をやったんです。『太平洋ひとりぼっち』の堀江が飲み友達で「たまには芝居を見に来いよ」と誘ったら、一番前に座っていた。僕が「おお、月が出た」と言ったら、堀江が「嘘つけ」と言ったんです(笑)。
神山 堀江謙一ですね。
丸山 堀江謙一と今のサントリーの社長とアイリスメガネの御曹子。この三人がつるんでいたの。
神山 芝鶴さんは厳しく指導なさるんですか。
丸山 芝鶴さんは指導なさるのは、女性にだけですね。
神山 なるほど、あの人らしい。
丸山 僕ら男には何も言わない。それで、演出助手みたいなことをやっていた[市川]高麗蔵さんが演出してくれた。NHKに口跡のいい[市川]壽海さん[の頼家]と[市川]猿翁の夜叉王のテープがあるというから、それを聞かせてもらって。こんなことはもうできっこないですが、一応雰囲気だけはと思ってやらせてもらいました。
日比野 それはお客さんは入っているんですか。
丸山 入っています。これは入場料は無料で、いわゆる勉強会という形でやっていました。
神山 話を進めるとして、昭和三十七年(一九六二)には[石川]啄木[が主人公]の『悲しき玩具』と『丼池』、『浅草瓢箪池』と、菊田一夫が続々といい芝居を書いているんです。これはすごい力ですね
丸山 『悲しき玩具』なんか、いい芝居ですよ。今やればいいのにと思うんですけどね。
神山 あと、萩原朔太郎が主人公の作品があったでしょう。あれも傑作で、今やればいいのにと思いますね。
日比野 『夜汽車の人』ですね。
丸山 そうそう、『夜汽車の人』。
神山 『浅草瓢箪池』は丸山さんもご自身でも十五、六年前におやりになりましたね。拝見しました。
丸山 そうですか。恥ずかしい。タイツを履いて、振付師の役をやりましたね。
神山 初演のときは、八波むと志も出ていましたね。
丸山 ええ、八波さんはいましたね。

『マイ・フェア・レディ』にゾルタン・カーパシー役で出演

神山 昭和三十八年[一九六三年九月]は『マイ・フェア・レディ』を[東京]宝塚劇場で、江利チエミ主演でやってましたね。
丸山 八波さんはもちろん出ていましたよ。
神山 ドゥーリトルですね。
丸山 そうです。
神山 だから菊田さんは [八波が『マイ・フェア・レディ』の再演が始まって間もなく交通事故に遭い、急逝するという] すごく大変なときにも、こういう作品を書いていた。すごい力ですよね。やっぱり長生きできないわけだなとも思ってしまいます。
丸山 僕はそのときは読売ホールで『蒼き狼』[一九六三年九月]をやっていたんですよ。
神山 [市川]染五郎と林与一が出ていましたね。
丸山 『蒼き狼』の作・演出も菊田先生ですから、菊田先生もいらっしゃったんです。『マイ・フェア・レディ』の初日があいて新聞記事が大変な騒ぎで「昨日は大変な評判だったみたいですね」と菊田先生に言うと「そうなんだよ、皆、泣きやがってな」と言って。それで、『蒼き狼』の序幕に僕がモンゴルの不良少年の役で出て。「俺のうちの家系は何とかで、アリナミン、何とかビタミン」みたいに言うんですよ、あれは。
神山 あれもよく分からない台詞ですね。
丸山 そうでしょう。あれは僕がやったんです。そうしたら[菊田先生が]「ばかやろう、何やっているんだ」と。
神山 プログラムを見ても、役の名前が全然分からない。よくああいう作品をやったなと思いますね。
丸山 やったんですよ。『蒼き狼』は無人の舞台が有名になりましたね。大吹雪でテント……パオというんですか。あれが風でバタンと倒れるんですよ。それでダーンと幕が下りてくる。これを見せたかったんですね。
神山 じゃあ、まさかご自分で後に『マイ・フェア・レディ』に出るようになるとは思わなかった。
丸山 思いもしませんでしたね。再演のときはパーティーに出ていたりはしましたけれども。いつからかゾルタン・カーパシーという役で出るようになった。
神山 雪村[いづみ]さん[主演]のときですか?
丸山 雪村さんのときは文化庁の主催[移動芸術祭]で回ったんです[一九七六年十一月]。[イライザの歌の]キーを下げないでそのままだったのは、雪村さんだけです。
神山 そうですか。那智わたるさん[主演]のとき[一九七〇年七~八月・帝国劇場]もお出になっているでしょう。
丸山 出ました。那智さんのときから俺はカーパシーをやっていた。
神山 洋風の顔のメーキャップはどうでしたか。
丸山 ゾルタン・カーパシーのときは、鼻を付けたような気がするんですよ。
神山 付け鼻?
丸山 「これは、ちょっと目立たないとなあ」と思って。そこへ出るだけですからね。それに、ハンガリアン・ジュー、ハンガリーのユダヤ人というのが向こうじゃ有名らしいですね。
日比野 ゾルタン・カーパシーは舞踏会に出てくる役ですよね。
丸山 一幕の切れです。ちょうどうまい具合にイライザと踊りが合うように振り付けけられて、ズンタッタ、ズンタッタとワルツを踊って。その間に何かこう、話をしているんですよ。それで、「あ、[イライザが貴婦人ではないということが]ばれるんじゃないか」というのでこっちを「ヤバい」という顔をして見ているところで、すーっと幕が下りていくんです。その振付をしているときですよ。まだ踊りが何小節か残っているのに、菊田先生が演出席から呼ぶんです。それで、那智わたるさんに「すみません、ちょっと今いいですか?」と言って、菊田先生のところに「何でしょうか」と行ったら「あのな、南千住のペテン師みたいな芝居するな」と言われた。南千住のペテン師って知らないんだけど、言われてみれば分かるような。
日比野 でもゾルタン・カーパシーは、南千住のペテン師と同じですよね。ハンガリアン・ジューですからね。
丸山 ハハハ。いや、よくおっしゃっていただいてありがとう。そんなことをおっしゃったのはマル[那智わたる]さんだけです。

『ミー・アンド・マイガール』など数々のミュージカルに出演

神山 そろそろミュージカルに出演したころのお話を伺いたい。昭和三十八年(一九六三)に日生劇場が開場しています。
丸山 見ていていい劇場だなと思ってはいましたけど、あそこは回り舞台がないんですよね。[移動装置が]スライド[式]なんですよ。
神山 当時のミュージカルは今のミュージカルとずいぶん違うと思いますけれども。
丸山 そうですね。
神山 それこそ宮口精二さんだって、ミュージカルに出ているんだから。
丸山 そうです。『心を繋ぐ6ペンス』[一九六七年四~五月・帝国劇場]。
神山 ところが歌うわけじゃないでしょう。芝居だけね。
丸山 ええ。歌は歌わないんです。
神山 当時は、歌と踊りと芝居の部分が全部別ということ?
丸山 当時は別々でしたね。ミュージカルをやり始めた最初のころは。歌、踊り、それから芝居と、うまく混ぜ合わせてやっていたんです。
神山 ミュージカルのときの菊田先生の演出はどんな感じですか。やっぱり普段と違います?
丸山 いえ、同じです。菊田先生は舞台稽古になってくると興奮しちゃってね。何を言っているんだか分からないけど、怒鳴るんですよね。それで、音大出のコーラスの方が「先生、そんな怒らないでください。僕らは慣れていませんので、萎縮しちゃいます」と言ったら、「いやあ、ごめん、ごめん。あのなあ、芝居をやっている人間はみんな、本番の前は土方みたいなものだから、勘弁してくれや」と言って。
神山 それはいいですね。
丸山 「うまいことを言うな」と思いましたね。
神山 あのころはダンスのシーンはNDT[日劇ダンシングチーム]の方も来ていたわけですよね。
丸山 そうですね。[NDTに]出ていた方もいらっしゃいましたよね。
神山 丸山さんはダンスというのはどうだったんですか。先ほど芸術座の研究生になったときには授業は全然なかったという話だったので。
丸山 僕らよりもずっと後の時代、東宝現代劇付属研究所という名目で募集したときは、先生もちゃんとついていたんです。でも、僕らは全然なかった。
神山 でも、丸山さんはある時期から、東宝の大きいミュージカルに全部出ていますね。
丸山 出ているんですよ。
神山 多いですよね。『サウンド・オブ・ミュージック』から、二十一世紀になってからだって、『ミー・アンド・マイガール』もずっと出てましたし。
丸山 『ジキル&ハイド』は[鹿賀丈史主演時は]最初から最後まで出ていました。
神山 『ジキル&ハイド』は、二〇〇七年まで出てらっしゃいましたよね。
丸山 『ジキル&ハイド』は[稽古]途中から入ったんです。電話がかかってきて「今、暇?」「暇だから電話に出ているんだよ」と言って(笑)。それで最初に稽古場に行ったら「丸山さんです」と紹介されて「あ、よろしくお願いします」と。「ちょっと聞いていてください」と言われて、皆が歌い出すでしょう。そしたらもう、皆、出来上がっちゃってるんですよ。すごいなあ、と思ってたら「この何小節をちょっと歌って」「は?」てなもんですよ。それで、「音程を調べるから」と歌唱指導の方が別の部屋へ行ってピアノを弾いて、「あ、丸山さん、高いですね、テノールです。じゃあこの部分を歌ってください」と言われて。うちに帰ってから、ずっと[歌う曲を]聞きっ放しでしたね。
神山 なるほどね。だけど、たとえば『マイ・フェア・レディ』のときだって、八波むと志さんは音楽的素養があるわけじゃないんだけど、ドゥーリトル役をやった。八波さんは浅草の芸人だから、歌とダンスには慣れていたんでしょうけど。
丸山 八波さんが亡くなってお通夜のときにご自宅に伺ったら、お子さんが[ドゥーリトル役のナンバー]「運がよけりゃ」と歌っているんですよ。
神山 それは、かわいそうですね。
丸山 かわいそうに、と思ってぐっと来て、泣いちゃいましたよ。
神山 ヒットした有名なミュージカルにほとんど出ていますが、「これはうまくいったな」というのは何ですか。
丸山 ありませんよ、そんなの。
神山 そんなに謙遜なさらなくても。でも、楽しかったですか。
丸山 楽しいですよ。すごく楽しいです。あれは何でしょうかね。やっぱり音楽の力なんでしょうか。
神山 そうでしょうね、普通のストレートプレイだったらちょっと見ていられないような芝居でも、ミュージカルは音楽に引きずられて、つい最後まで見ちゃうところがありますね。
丸山 そうですね。持つんですね。一度歌詞を忘れて「ラララでいこうかな。でも、ラララじゃお客さんにばれるかな。じゃあパピプ、ハヒーンのホーン、でやろう」と。ソロなんですよ、そこは。
日比野 それは何の作品ですか。
丸山 『ミー・アンド・マイガール』の執事[チャールズ・ヘザーセット]の役。大して長いソロじゃないんですが、次に渡される人は必死な顔をして続きを歌ってましたよ。

森繁久彌、山田五十鈴、八代目松本幸四郎~昭和の名優たちと共演

神山 丸山さんが最初に『マイ・フェア・レディ』に出たころはまだ、益田喜頓さんは出ていたんですか。
丸山 喜頓さんはずっと出ていましたね。
神山 喜頓さんはどうですか。やっぱりさすがにこなれた感じがしました?
丸山 喜頓さんは、佇まいが独特ですね。キャラクターを特別どうのこうのといじらないで、すっとそのままお出になっていて、それでも様になっちゃう。大したものですよね。
神山 歌だって「あきれたぼういず」時代と同じような歌い方で朗読か鼻歌みたいな感じですものね。あのころは今みたいにピンマイクじゃないから、こんな太いのを[胸元に]入れていたでしょう。
丸山 そうですね。
神山 ヒギンズは高島[忠夫]さんや宝田[明]さんが出て。
丸山 [「君住む街角」のナンバーで]「この街は~」と歌う二枚目[フレディ]。あれが[初演は]藤木孝さんで、のちに『藪原検校』で一緒になりましたよ。
日比野 今、喜頓さんの話が出たんですけれども。喜頓さんはスタッフの方にはわりと厳しいというような話を聞いていましたが、どうでしょう。
丸山 喜頓さんがお怒りになるのは決まっているんですよ。つまり、ご自分をないがしろにされたとき。だから「ばかにするな」というせりふがまず出てくるんですよ。そうでないときは温厚な人なんですけど。
日比野 お芝居の上で何か言われたりはするんですか。
丸山 『[雲の上]団五郎[一座]』のときだと思うんですけど[東京]宝塚[劇場]で出ているとき、小鹿番が何かアドリブを言ってお客を笑わせたんですよ。そしたら、その後に喜頓さんが「俺の出の前にお前は笑わせた」と言って、楽屋中追いかけるんですよ。
日比野 すごいですね。役者魂みたいな人ですよね。
丸山 そういう方でした。それで、友達がいないんですよ。佐山俊二さんとかが「よせよ、トンちゃん。かわいがられる隠居になってないとだめだよ」と喋ってるの。
日比野 じゃあ、最後まで全然丸くならなかったんですね。
丸山 最後まで、ならなかったです。函館で『屋根の上のヴァイオリン弾き』をやったとき、森繁さんより最後にカーテンコールで出たんですって。森繁さんがそう図ったらしいんですよ。喜頓さんの出身地ですから。そうしたらペタッと座って土下座して、「ありがとうございます」とお客さんに言ったらしいですよ。
日比野 古川清さんの本にそう書いてありました。
丸山 そうですか。
神山 森繁さんや[三木]のり平さんの話ですけれども、森繁さんはやっぱり最初のころと晩年とでは雰囲気は違いましたか?
丸山 いや、私はそんなふうには思いませんでしたね。森繁さんは最初から最後まで、嫌な意味じゃなくて裏表をちゃんと心得ていらっしゃる人だなという感じがしましたね。
神山 そうですか。丸山さんはいわゆる「森繁劇団」にはお出になっている?
丸山 出ましたよ。明治座も出ていました。
神山 一座の雰囲気は、いつも芸術座に出ている現代劇の人たちと変わるものですか。
丸山 終わってから楽屋へ行って、酒を飲むというのが違う。でも、森繁さんはちゃんと心得て飲んでいましたね。そんなに飲まないんですよ。せいぜい一杯ぐらいじゃないですかね。
神山 じゃあ、わりと自制心がある方。
丸山 そうですね。
日比野 計算しているという感じ?
丸山 ええ。だから、「お見せする部分はこういうのをお見せしますよ。本当はこうです」というような感じですね。
神山 稽古場ではそんなにうるさい方ではなかったですか。
丸山 全然うるさくない。
神山 そうですか。やっぱりのり平さんの方が、演出をやるくらいだから細かかった?
丸山 のり平さんは、他の人がやっているときは、演出家の冷たい目で見ているの。演出兼主役というのがありますものね。
神山 芸術座でものり平さんは、晩年は演出を全部やるようになってね。
丸山 そうですね。
神山 それこそ五時間あった『放浪記』をうまくまとめてね。
丸山 「これは最初からこうだよな」と思えるくらい、うまい具合にまとめてましたね。
神山 僕の年でも、『放浪記』はのり平版以降しか知らないんですけどね。のり平さんは舞台と普段とでは全然違う印象ですか。
丸山 違いますね。
神山 丸山さんはビッグネームの女優ばっかりと共演なさっているから、女優の方の思い出はどなたを聞いたらいいのか、困っちゃうくらいですけれども。東宝の場合、女優さんは司[葉子]さんから始まって、映画出身の方が多いですね。
丸山 映画で名を売った方が集客力がありますから。
神山 特に宝塚劇場なんか、大きいところだから。
丸山 そうですよね。
神山 山田五十鈴さんは芝居の格が違うという感じがしました?
丸山 山田五十鈴さんですか。あの人はスペシャルバージョンですね。人間もスペシャルですし、大きいですよね。もちろん好き嫌いはあるでしょうが、それは一切出しません。
神山 顔にも普段にも出さないですか。
丸山 出ません。出すのは森光子さん。
神山 山田さんは一緒に出て一番印象深いのは、『たぬき』[一九七四年十二月・芸術座]ですか。
丸山 『たぬき』は前編、後編ありましたからね[後編は当初『新編たぬき』として一九八一年十二月・芸術座初演]。
神山 丸山さんがお出になったのは後編の方でしょう。
丸山 いや、前編も後から出たんですよ。
神山 後から出たんですか。昭和五十八年ごろにありますね。昼の部、夜の部に分けて[『前編たぬき』『後編たぬき』として昼夜通しの興行は一九八三年三月・芸術座]。
丸山 確か、俺は[前編は]宮口先生の役じゃなかったかな。後編は右翼の親分みたいな役。後編は親分だけで、前編は何か他の役もやっていたかもしれませんね。
神山 そうですか。『たぬき』は本当にいい芝居で、また見たいと思うけど、今はちょっとできないですね。山田五十鈴みたいに実際に[三味線が]弾けて、樋田恵子が演じた相手役も実際に弾かないわけにはいかないでしょう。あれくらいの技術を持った女優が二人揃うというのは、今はできないですね。
丸山 もう今は無理ですね。
神山 丸山さんが一番お出になったのが芸術座と東宝劇場だと思うんですけれども。
丸山 そうですね。
神山 東宝劇場は客席も三階まであって寸法が全然違うから、演じるときは気になるものですか。
丸山 いや、大きいから正面ばかり切っているなんていうことは、全然ないですね。
日比野 じゃあ、歩幅を大きくするとかいうこともあんまりしない?
丸山 僕は別にしませんでした。
神山 女優さんで、宝塚出身の方と、そうじゃない東宝の映画出身の方とは、芝居が違うという感じはありました? たとえば、浜木綿子さんは宝塚出身ですよね。
丸山 そうですね、台詞回しが違いますよね。若いころからおやりになっているから、宝塚らしい台詞回しみたいなのが身に付くからでしょうね。
神山 丸山さんは長谷川一夫の東宝歌舞伎はお出になってない?
丸山 出てないんですよ。僕は東宝なのに、東宝歌舞伎と美空ひばりさんのは出てない。非常に残念です。
神山 そうですね、昭和を代表する男女二人ですから。残念ですね。じゃあ、長谷川さんとは全然付き合いはないですか。
丸山 全然。ただ『がめつい奴』で[健太役を中村]扇雀さんの後に、長谷川先生の息子さんの林成年さんがおやりになったときにいらしていましたよ。そばで見たのはそのときが初めて。
神山 美空ひばりの公演に出てないということは、新宿コマもあんまりお出になってない?
丸山 新宿コマは『エノケン・ロッパ物語』[一九七四年八月]というのに菊田先生の役で出ましたね。
神山 『エノケン・ロッパ』って、お二人が亡くなってずっと後でしょう。
丸山 お亡くなりになってからです。財津一郎さんがロッパ、坂本九さんがエノケンさん。
神山 コマ劇場はどうでしたか。
丸山 [半円形のステージで]お客さんが後ろにいるんですね。
神山 客席から見ると屋体の位置が遠いような気がしましたね。
丸山 そうなんですよね、前にバーッと張り出している。梅コマはそんなふうに感じないんですけどね。
日比野 福田善之さんに話を伺ったときに、「東宝と[新宿]コマ[劇場]は、全然別の組織だ」とおっしゃられて。
丸山 コマは株式会社コマ劇場なんです。
日比野 ええ。コマに行くときと、そうではないときとでは雰囲気は違いました? 
丸山 そうですね。舞台事務所がもちろん全然違いますし、営業事務所の方とはそんなに顔を合わせないですけど。東宝とは全然違いますね。コマの演出部の方と楽屋で一緒に飲んでいましたけれども、とてもいい人たちばっかりですがコマの方が職人的かな。東宝の方が演劇青年という感じがしましたね。
神山 さっき、長谷川一夫の東宝歌舞伎と美空ひばりは出たことがないとおっしゃってましたが、さすがに日劇はお出になってない?
丸山 日劇は出てないですね。
神山 あそこは芝居はなくて、中心のレヴュー以外はコントとつなぎのショーだけですもんね。
丸山 でも、日劇でも水原弘さんが主役で確か『忠臣蔵』か何かをやっているんですよ。
神山 日劇で? そうですか。
丸山 ウチ[東宝]から山口勝美とかが出ているんですよ。それで「水原弘はすごいぞ」と言うから「何でだ」と言ったら「毎晩ブランデー一本飲んじゃうから」と。
神山 そうなんですってね。
丸山 でも僕もずいぶん先輩に奢ってもらいましたよ。
神山 そうですね。そういう上下関係とか人間関係はどこの世界も変わっちゃいましたから。
丸山 旅へ行くと面白かったですよ。
神山 そうでしょうね。先ほどから高麗屋一門は断片的に名前が出ているんですけど、高麗屋自身[八世松本幸四郎=初世市川白鷗]はどうですか。東宝に来てから自分のやりたい芝居がなかなかできないというので不機嫌な感じはありましたか?
丸山 いや、あんまり、僕らにはそんなふうには全然見せませんし。明治座で確か『鬼平[犯科帳]』[『蛍火』一九七一年四月・明治座]をやったときに、僕は密偵の一人をやったんです。蟹江[敬三]さんがやった役かな。いい役でしたけれども。花道から一瞬出るところがあるんですけど、最初の出の十五分前には鳥屋口にもういらっしゃるんですよ。「おはようございます、お早いですね」と言って「何かしゃべらなきゃ悪いのかな」と思って、「そろそろ税金の申告の時期ですね」と。
神山 そんなことを言ったんですか。
丸山 「先生、どれくらい戻ってきます」なんてばかなことを聞いて「付き人が払っているんだよ」とおっしゃったんです。いまだに覚えていますよ。「しまった。柄にもないことを言うもんじゃない」と思いましたね。
神山 あの一門の女形では、[二代目中村]又五郎さんはどうですか。
丸山 温厚な優しい方ですよね。
神山 そうですよね。あのころは[八代目市川]中車、[十代目市川]高麗蔵、又五郎といたわけですけどね。
丸山 そう。中車さんはすごかったですよ。僕が居酒屋の亭主で、中車さんが客で、何か一芝居あって中車さんがお金を置いて、さっと帰っていくところ。「ありがとうございました」と言うと、「開けろ」「は?」「開けろ。のれんだ」「ああ。どうもありがとうございました」となったんです。「稽古のとき、言わなかったじゃないですか」と(笑)。
神山 あの人らしいね。皮肉を絵にかいたような人でしたから。
丸山 いい男でしたけどね。

菊田一夫、小幡欣治の演出を受けて

神山 何か菊田さんの言葉で覚えてらっしゃることはありますか。
丸山 よく、「たかが芝居と思うこと」とおっしゃっていましたね。
神山 たかが芝居。そうね。そう思わなきゃやっていられないところもいっぱいあるでしょうね。菊田先生だって半分は興行師なんですからね。
丸山 そうなんですよ。三上直也というのがいましたね。あいつが稽古場で本当にフル回転するんですよ。そうすると、「お前なあ。たかが芝居で命取られないんだから、そんなに一生懸命やるな。客が疲れるだろうが」と言って(笑)。
神山 それは確かにそのとおりです。あんまり熱演されると客としては疲れますから。小幡さんは、普段はあっさりした感じの方ですか。
丸山 そうですねえ。あんまり派手でもないし、あんまりおしゃべりでもないし。
神山 じゃあ、小幡先生の演出はあんまり細かいことは言わないタイプ?
丸山 いや、言いますよ。小幡先生はうるさいですよ。よく怒鳴るし。
神山 演出家は黙って座っているだけの人もいれば、自分でやってみるという人もいるでしょう。菊田先生は乗ってくると自分でやってみる?
丸山 そうですね、菊田先生はうまいですね。「俺がなんで[演技が]上手いかというと、ここ[稽古場]だけでやっているから上手く見えるんだ」と言ってましたけどね。いまだにあんまりよく分からないんですけど(笑)。
神山 榎本滋民さんや花登筺さんはあんまり自分じゃやらない方ですか。
丸山 おやりになりませんね。
日比野 でもだめ出しはちゃんとなさる。
丸山 します。
神山 榎本さんも東京の人なんだけど、小幡さんとはまた違う。
丸山 小幡先生の江戸っ子と榎本滋民さんの江戸っ子とは、タイプが違う感じがしますね。
神山 小幡先生にしてみれば、東宝にいるときは小説の原作を芝居にする脚色物ばっかりだったから、不満もあったかもしれない。『熊楠の家』とか、民藝に七、八本書いているけれども東宝にはその後あんまり書かなくなっちゃったのがちょっと残念でしたね。小幡さんはそんなに早く亡くなったわけじゃないんですけど、最後のころは元気がなくなったという感じですか?
丸山 小幡先生は僕らと下手くそゴルフ会というのをやっていたんですよ。
神山 そうですってね。矢野誠一さんがそう書いていた。
丸山 そうしたら、八十歳になったらいらっしゃらなくなった。それで、僕らはいつも「十九番ホールは今日はどこだ」と言って、全部終わってからみんなで飲むんですけど、小幡先生はゴルフをしないで、そこに二、三回いらしたかな。そのうちだんだんいらっしゃらなくなった。それで「俺、肺がんなんだ」と言っていらして。「肺がんですか、煙草を吸っちゃだめでしょう」と言ったら「もう遅いよ」と。それで結局肺がんでお亡くなりになったんです。
神山 菊田先生の晩年は、体力が完全に落ちているのが分かりましたか?
丸山 分かりました。
神山 稽古場にいても、全然迫力はなかった?
丸山 最後のころは、もう稽古場にいらっしゃいませんでしたよ。
神山 そうですか。菊田先生はいろんな病気が重なっていたんでしょうね。
丸山 栄養不良でしょう。
神山 栄養不良? そう。何かお茶漬けばっかり食べているような話も聞きました。
丸山 お茶漬けとラーメンかな。あと早食い。
神山 『評伝 菊田一夫』で小幡先生がそんな話を書いていますね。丸山さんは芸術座で菊田さんや小幡さんの芝居にずっとお出になっているわけですけれども、榎本滋民や小野田勇という方とはどうですか。やっぱり小野田さんよりも榎本滋民の方がずっと親しかったですか?
丸山 小野田先生はお酒もあんまり確か飲まなかった方ですので、あんまり親しかったということはないんです。
神山 そうですか。
丸山 ええ。『おもろい女』は小野田先生で、初演[一九七八年・芸術座]のときは、僕は森[光子]さん[演じるミス・ワカナ]の最初の相方の役でした。
日比野 ミス・ワカナが有名になる前の。
丸山 そうそう。
神山 芦屋雁之助[演じる玉松一郎]と組む前ですね。
丸山 そうです。つたない大阪弁で何かやっていましたけどね。それで、水落潔というのが、早稲田で僕の二年下なんですよ。
神山 毎日新聞の水落さん。
丸山 ええ。それであいつは「俺は鴈治郎の膝の上で育ったんだ」なんて言うくらい大阪の人間なんです。
神山 船場の人なんですね。
丸山 それで、あいつが「先輩、あの演技は何ですか」と言うんです。「何だよ」と言ったら、「いや、『おもろい女』ですよ」と。「だめだよな、あれはな」「分かっているんだったらちゃんとやってください」「ちゃんとやっているつもりだよ。でもいくらやっても俺はあれはできない。あの浪速の味は出ないよ」と言ったら「もう口を利かねえ」なんて言うんですよ。
神山 水落さんも今は温厚になったけど、若い頃は辛辣でしたから。あのころは北条[秀司]、川口[松太郎]、菊田[一夫]、中野[実]の「四人の会」というのがあったでしょう。
丸山 はい、ありましたね。
神山 その下に小幡さんと榎本滋民さんと花登筺さんの三人で……。
丸山 中(ちゅう)の会。
神山 「中の会」を作っていたんですよね。
丸山 ええ。
神山 花登さんはあまり縁がなかったですか。
丸山 一回あります。大阪物で高麗屋劇団[の公演]で、朝の最初にゲスト女優に一本[芝居を]書くじゃない。有馬稲子さんがお出になって、有馬さんのための朝一[昼の部の一本目の芝居]で。僕はその相手の番頭か手代の役だったんです。最初の立ち稽古のときに、花登さんが陰うつなんですよ。
神山 そうですか。
丸山 それで、「東宝現代劇はみんなこんな芝居してるの」と言うんです。「すみません、先生。僕は、東宝現代劇の代表で今日来ているわけじゃありません。丸山で来ていますのでよろしくお願いします、ほかのやつがみんな迷惑しますので」と言ったら、それから一切僕には何も言わなくなったの。意外と二枚目でいい役だったんですよ。有馬稲子さんを振って、何か別の女と結婚する役で。
神山 それじゃあ、花登さんというのはわりと陰気な感じだったんですか。
丸山 暗い感じですね。小幡欣二先生(ご確認ください。花登や新幹線の話題ですから、時代的に小林一三ではないのでは?)がおっしゃっていましたよ。「一度、新幹線で一緒になって、ワーッと話して、横浜を過ぎたあたりで『俺、ちょっとお茶飲んでくるわ』とぱっと立って。それでブッフェに行ってみたら[花登が]じっと下を向いて画板みたいなのを開いて、わーっと[台本を]書いている。それで大阪へ着いたら、もうとっくに[台本が]できている。すごいよ、あいつは」と。
日比野 新幹線の中で書くという有名な伝説ですね。
丸山 「本当なんですか」と言ったら、「本当だよ」と言っていました。
神山 東宝の場合は、花登さんなら花登さん付きのプロデューサーが付いているわけですか。
丸山 いましたね。
神山 相性があるからね。
丸山 ええ。演出部もそうですね。
神山 やっぱり気の合う人じゃないと、うまくいかないですからね。芸術座は一時期、関西の根性物というか、関西商人の物語をずっとやっていましたね。新珠三千代さんなんかが主役で。あれは菊田さんが亡くなってからですよね。
丸山 そうじゃないですか。
神山 そうですよね。菊田さんが昭和四十八年(一九七三)に亡くなって、昭和四十年代最後から五十年代にかけてですね。

雲の上団五郎一座やテレビに出演

神山 丸山さんは雲の上団五郎一座に二度ほどお出になっていると思うけど、芝居づくりはやっぱりラフでした?
丸山 そうですね。
神山 僕もテレビで見ましたけど。
丸山 のり平さんが出たり。
神山 八波むと志がいたころね。
丸山 はい。『お富さん』をやって。
神山 『お富さん』。あれは本当におかしかったですね。
神山 あの後、『忠臣蔵』もちょっと面白かったんですよ。
丸山 ああ、「吉良家は隣だ」。
神山 そうそう。皆さん覚えているところは同じですね。僕も同じですよ。
丸山 吉良家に討ち入りに行って、最後に「吉良家は隣だ」というの。そういうあり得ないおかしみ。「ああ、これが喜劇だな」と思いましたけれども。
神山 雲の上団五郎一座の思い出は。
丸山 地の芝居はどうってことないんですけど、劇中劇があるんです。『勧進帳』で衣装を着けて、後ろにいる四天王の役をやったことがあるんですよ。フランキー堺が出ていて、富樫は誰だったかもう忘れましたけど、「これはやるものじゃない、見るものだ」と思いましたね。
神山 くたびれたんじゃないですか。座っているだけで、長くて。
丸山 もう足が痛くはなるわ、ひどいですね。よくおやりになっていると思って。
神山 そうですか。姿勢をこうやっているだけで大変だといいますよね。
丸山 そうです。ああ、これは大したものだなと思いました。
日比野 のり平さんはどうでしたか。
丸山 のり平さんは、他の浅草出身の方とはちょっと違いますね。
神山 だってのり平さんは別に浅草じゃないですもんね。
丸山 あの人は元々は新劇ですから。
神山 北条秀司さんはあんまりお付き合いないと思うけど、『狐狸狐狸ばなし』は出た?
丸山 『狐狸狐狸ばなし』は出ましたね。
神山 やっぱりうるさかったですか。
丸山 北條先生は稽古場にはいらっしゃらなかったですね。その代わりに、いつも出ている歌舞伎の方がいらっしゃいました。
神山 [十七代目市村]家橘さん[後の二代目市村𠮷五郎]という、眼鏡を掛けた頭の薄い方。
丸山 そうです。『王将』[一九七七年・東京宝塚劇場]も出ましたよ。
神山 『王将』もそう?
丸山 ええ、植木[等]さんがやっています。
日比野 テレビドラマの『御宿かわせみ』[一九八一年・NHK]や『関ヶ原』[一九八一年・TBS]は、どういう形でお出になったんですか。
丸山 あれは内山[惠司]さんが推薦してくれた。小野田勇さんの息子の小野田正さんが平岩[弓枝]さんの演出助手をずっとやっていましたので。
日比野 そういうことですか。
丸山 ええ。最初は『御宿かわせみ』だったか。その後は『関ヶ原』。TBSですね。僕と横澤が出たんです。「申し上げます」と言うんですけど、「ちょっとマイクの位置変えます」と言って畳の下にマイクを入れるんです。僕ら二人が「申し上げます」と言うと声が大き過ぎるらしいんですよ。
神山 舞台の人はどうしてもそうなっちゃうんですよね。
丸山 そう。「本番」と言われるとそうなっちゃうんですよね。「うるせえな」となったんじゃないですか。それは覚えていますね。

『風と共に去りぬ』で主役スカーレットの父を演じる

神山 平成八年(一九九六)に東京宝塚劇場が改築でなくなって、平成十五年(二〇〇三)に芸術座がなくなった。感慨はあるのは当然ですけど、そのとき小幡さんは本当にがっかりなさった感じはあります?
丸山 ありますね。
神山 そのころは丸山さんや横澤さんたちも七十歳くらい?
丸山 だんだんこう、仕事が少なくなってきますよね。
神山 そうですね。東宝が二十一世紀になったらミュージカルばっかりになっちゃいましたね。
丸山 そうなんですよね。それで僕なんかは「あ、これで終わり」というのが自分でわかりました。「今度『風と共に去りぬ』[二〇一一年六~七月・帝国劇場]をやるんだ」とうちの支配人から聞いて、「スカーレット・オハラは誰がやるの」と聞いたら「米倉涼子」と。それで「[スカーレットの]お父さんは誰がやっていた?」と聞いてくるんです。「初演は山形勲さんですよ。三國連太郎さんもおやりになっているし、金龍[金田龍之介]さんもやっていますよ」と言って、それで別れたんです。それから三カ月くらいしたら電話がかかってきて「出ることになったから」と言うから、「ああ、そうですか。役、決まりました?」と言ったら、「うん、ジェラルド・オハラって知っているかい」と。「スカーレットのおやじじゃないですか。あれを僕がやるんですか。あれはその世界の当時の一番の大御所がやる役ですよ」と言ったら「うん、あなたがやるの」と。それで「あ、俺、これで最後だ」と思いましたね。
日比野 そんなことが分かるんだ。
丸山 それはもう、ぴんときました。そうしたら千穐楽の日に、舞台に長いテーブルを出してビールを置いたりなんかして、皆で「お疲れ様でした」と乾杯するんです。そのときに、今まで一回も来ないのに重役たちがダダッと俺のところに前に来て「お疲れ様でした」「お疲れ様でした」と言ってくるんです。「ああ、いいのに、分かっているから」と思いましたけど。
神山 東宝がやるミュージカルはある時期から全然質が変わりましたね。今は藝大出・音大出の人がやって、歌は確かにうまいかもしれないけど、味気ないというか。僕なんかからすると、ミュージカルは高島忠夫にしても宝田明にしても、役者が歌うから面白かった。独特の歌い方があったんですよね。
丸山 おタカさんはよかったですよ。
神山 おタカさんは宝田さんでしょう。独特の歌い方でね。
丸山 宝田明は僕、同い年ですよ。

劇団東宝現代劇75人の会

神山 そろそろ時間も押し詰まってきましたから、劇団「東宝現代劇75人の会」の話を伺わないといけない。
丸山 ありがとうございます。
神山 第一回公演は。
丸山 内村直也が翻訳した『夜の来訪者』[プリーストリー作]ですね。
神山 東宝現代劇75人の会で、丸山さんがニール・サイモンの『ジンジャー・ブレッド・レディ』を演出なさったわけですけれども、丸山さんは元々演出志望だったということですね。
丸山 そうなんですよ。面接のとき「演出部はないんですか」と言ったら「今回はない」と。「演出したいんですけど」と言ったら菊田先生が「それなら二~三年役者をやってごらん」と言われて「はい」というので。
神山 ニール・サイモンを選んだというのは、学生時代からお好きだったんですか。
丸山 いや、そんなことないです。何かやらなきゃというので図書館へ行っていろいろなのを読んでいて、「ニール・サイモンは親子の情の芝居じゃないか」と思ったんです。でも、本当は違うらしいですね。木村光一さんに聞いたんですが、ブロードウェイに行って木村さんが「ニール・サイモンの演出しているんだ」と言ったら、向こうの女優さんに「あなた、あれがよくわかるわね」と言われたそうですよ。
日比野 ユダヤ系の微妙なものが出ているんでしょうね。
丸山 そうなんでしょうね。こっちはもう「おやじが何でも決めるんだろう」というくらいしか分かりませんけれども、これは日本だって同じようなところがあるし。
日比野 『屋根の上のヴァイオリン弾き』もそうだけど、ユダヤ系のそういう情のお芝居と日本の情のお芝居って、実は合っているんですよね。
丸山 意外と似ていますよね。
日比野 ええ。それがアメリカ人にとっては意外な感じがするみたいですね。
神山 ニール・サイモンはその後も二本か三本なさっていますよね。
丸山 うん。その後もやっていますね。やると面白いですよ。
神山 レパートリーは、やっぱり丸山さんや内山[惠司]さん、横澤[祐一]さんなんかでお決めになった? 75人の会は青木[玲子]さんなんかがいらっしゃるけれど。
丸山 皆で候補作を出すんですよ。それを「ここからいいのを選ぼうよ」と皆で回し読みして、投票して決めるんです。『熊楠の家』もやりましたね。
神山 『恍惚の人』、『がめつい奴』とやっていたから、菊田先生や小幡先生のものを中心にやるということなのかと思ったら、投票なんですね。
丸山 全部投票なんです。
神山 東宝系の現代劇で上演されていたものがもう上演されなくなってしまったから、やっぱり「やってみたい」という気持ちにつながるんでしょうね。
丸山 そうですね。ただ、多幕物が多いです。
神山 そうすると仕込みが大変だ。お金が掛かっちゃう。
丸山 そうなんですよ。
神山 それに昔の芝居は長いから、[脚本を]刈り込むのも大変ですね。
丸山 ええ。
神山 大変評判になって再演もやったのは『熊楠の家』[一九九六年、二〇〇〇年]なんですけれども、手応えはありました?
丸山 あれは、[主演の]横澤は一カ月ぐらい和歌山に行っていたんですよ。僕らは確か梅コマに何かの芝居で行っていて、休みの日に和歌山に行きましたけどね。熊楠大先生の書庫を見たときに、何かの霊気みたいなものがありましたよ。
神山 ありましたか。やっぱりね。
丸山 わりと僕は、見る方なんですよ。幽霊と話したこともあるんですよ。
神山 へえ。それはうらやましいですね。やっぱり熊楠先生の何かがありました?
丸山 別に何もないんですけど、ただ後で霊気を感じましたね。そのときに「ああ、これだな」と思ったんです。それで、自然を大事にするという、今で言うエコな感じがあった。小幡先生は江戸っ子で照れ屋だからあんまり表に出さないんだけど、これだろうなと思ったんです。
神山 『恍惚の人』は原作は有吉佐和子だけど、もちろん小幡先生の脚本ですよね。
丸山 そうですね。場所[の設定]も原作とは違いますしね。
神山 その後は『浅草瓢箪池』とか。僕が面白かったのは『非常警戒』。
丸山 ああ、『非常警戒』。これは菊田先生の脚本ですね。
神山 僕はもう全然知らない芝居だったんですが、本当に印象深かった。暗い芝居ですけどね。いや、本当にこれはよかったです。
丸山 そうですか。ありがとうございます。
神山 これも投票で決まったんですか。
丸山 これは『菊田一夫戯曲集』の中に入っている本で「いつかやろうか」なんて言っていたことがあって。「じゃあ、今度やろう」と決まって、「俺は東北出身だから、東北弁でいこう」ということにした。あれは元々の本では売られるのは男の子なんです。それを女の子と二人にしようと。うちの親が芸者屋に売られていますので。
神山 そうなんですか。でも、当時ではそんな極端に珍しいお話じゃないですよね。
丸山 それで女の子バージョンと男の子バージョンと二つやろうということにしたんです。
神山 そうですか。もう話が尽きないですね。今日は本当にありがとうございました。
丸山 ありがとうございました。