基本データ

取材日:二〇一七年五月二十日
取材場所:軽井沢・星野邸
取材:神山彰・日比野啓・鈴木理映子
編集・構成:鈴木理映子
監修:星野和彦

イントロダクション

福沢諭吉『文明論の概略』にある「一身にして二生を経る」という言葉は、天保年間に生まれ、幕末と明治維新の激動期を過ごした福沢の偽らざる感想だが、星野和彦氏の演出家としてのキャリアもまた、同様のことがいえるのではないだろうか。もっとも星野氏の場合、「一身二生」どころではなく、「一身七生」「一身八生」ぐらいがふさわしい。
一九三一年生まれの星野氏は、成蹊大学に在学中から三越劇場で定期的に公演を行う児童劇団・劇団キューピットを主宰し、木下順二『和尚さん小僧さん』など数々の話題作を上演した。それだけでも演劇史に残る仕事をされたことになるが、卒業後、帝国劇場文芸部に所属する一方で、二十代半ばには、菅沼定憲(のちに『11P M』などの放送作家として知られることとなる)らが作った劇団山王に旗揚げ公演から参加する。俳優陣には毒蝮三太夫(石井伊吉)、増山江威子、北浜晴子、服部哲治らがおり、石原慎太郎の小説を原作とした作品を上演するなどで話題を呼んだ。
その後、二期会などでオペラの演出などを手がけ、一九五八年には日本教育テレビ(NETを
経て、現在のテレビ朝日)に入社。その一方で矢田茂率いるダン・ヤダ・ダンサーズにも関わり、日活ファミリー・クラブというナイトクラブでレヴューの演出も行った。その縁で一九六〇年、ムーラン・ルージュに招聘されてダン・ヤダ・ダンサーズが「ル・レヴュウ・ジャポネーズ」を一年間上演したときに演出・構成を行う。帰国後、NETで日本初のワイドショー番組で木島則夫が司会を務めた『モーニングショー』を作るなど、テレビ草創期においても大きな足跡を残したが、やがて志を喪ったテレビに見切りをつけ退局。その前後から声楽家の坂本博士が率いた一連のサカモト・ミュージカル・カンパニーの演出を担当するようになり、一九七〇年代以降にはさらにフォーリーブスなどが出演したジャニーズ事務所の初期ミュージカル作品やSKDレヴューも演出する。
一九八〇年代になると大阪万博のショーやファッションショー、さらには歌手のリサイタルの演出など、演劇の枠にとどまらない活躍を見せ、九〇年代には池辺晋一郎が作曲し、自身が作・演出を担ったオペラ『おしち』を新国立劇場で上演するなど、数本のオペラ演出を手がける。最近では写真家として個展を開くなどして九十歳を超えてますます意気軒昂であり、その半世紀以上の経験から紡ぎ出される辛口のコメントを集めた『エンタメ・メディア 一刀両断』(二〇二三年、文藝春秋)を刊行したばかりである。
お話を伺って、何よりも印象に残ったのは自分が仕事を始めた頃は「志ひとつで生きていた時代」だった、という星野氏の言葉だった。演劇史において星野氏の業績がこれまであまり評価されてこなかったとすれば、それは星野氏が次から次へと華麗な転身を遂げていったからだろう。日本の社会では一つのところで長く辛抱してきた人が顕彰されることが多いが、星野氏はそんな日本人の農耕民族的発想を嘲笑うように様々な場で活躍してきた。星野氏をよく知らなければ、機を見るに敏であるとか、飽きっぽい、という評価も出てくるかもしれない。だがこの聞き書きでもわかるように、星野氏は「志」があるか――すなわち、クリエイティヴな場においても支配しがちな惰性の力を退け、いかに自分の表現を貫くか、ということに生涯こだわってきた方なのだ。この聞き書きで、華々しい演出歴の裏に隠れた、星野氏の思いを少しでも伝えられたら幸いである。(日比野啓)

劇団キューピットと三越劇場

日比野 星野先生は東京のお生まれで成蹊大学に行かれたそうですね。膨大なお仕事について細かくお聞きする前に、どういうかたちで芝居に携わっていかれたかをうかがいたいと思います。
星野 戦中・戦後世代ですからね。戦争が終わったのが中学二年の時。それ以前は本郷の東大のすぐ前に住んでいまして、東大から池之端へ抜けて、浅草六区に行ったり。歌舞伎座にも毎月連れていかれました。東劇でも歌舞伎をやっていましたのでね。ただ、戦後になりますとマッカーサーの方針で一気に歌舞伎ができなくなって。結果、左翼系の劇団が出てきたんです。当時は劇場もありませんでしたけど、三越劇場なんかのデパートのホールが中心でした。そういう中で僕らが子供時代から観ていて、入れる余地もあるというのは、テアトロ・ピッコロという劇団くらいでした。舞台公演はやらず、NHK専門で、ラジオドラマの『鐘の鳴る丘』(一九四七〜五〇)なんかをやっていた劇団です。
日比野 そこに先生は入られたわけですね。
星野 ええ。その演出部に入って、スタニスラフスキー演技論などをやっていたんです。スタニスラフスキーの理論は、当時の新劇・ロシア演劇の教本でもあったんですけど、そのうち、ならばやっぱり、舞台をやらなきゃだめだ、ということになりまして、何人かで劇団キューピットをつくりました。キューピットでは、三越劇場でやった『赤い靴』[一九五三年九月]という作品が成功するんですが、その前に『りんご園のピッポ』[一九五二年十月、呉服橋・日本相互銀行ホール。刊行は岡田陽編『玉川学校劇集7』(玉川大学出版部・一九五二年)]という、当時、日本児童劇作家協会の会長だった斎田喬先生の作品をやりました。りんご園の四季をたどっていく芝居で、りんごの木が舞台にいっぱいあるんだけど、花が咲き青りんごになり、熟して赤いりんごがいっぱいになるなんていうのは、五分や十分で舞台転換はできないんですね。で、とにかくもっといい劇場をというので、三越でやるようになったんです。
その当時宣伝部長が[後の社長の]岡田茂さん。あの人は三越事件で悪いこともあったけど、芝居だとかそういうものに対する理解はすごくあった。あの劇場でそのころ公演してたのは、新協劇団や民藝、俳優座、全部新劇の左翼演劇でした。「なんでデパートでは左翼演劇だけやるんだ」と言ったら、「俺だってそう思うけど、ほかにないだろう」と。確かに歌舞伎をやりたくたってできない。ならば、昼の劇場で児童劇をやれば、将来のデパートの顧客にもなってくれる、ということで、東童、新児童劇団、つみき座という児童劇団が流れ込んできていた。でも、当時は厚生省の管轄で、非常に厳格でした。とにかく子供を芸能に引っ張り出すなんていうのは、子供の将来にとってよくない。ジャニーズみたいなタレントにしたがる親なんていうのは、当時は想像もつきません。そんな環境のなかで、岡田さんから「とにかくやってみてくれ」と言われたわけです。
日比野 それで『赤い靴』が生まれたんですね。
星野 そうです。当時はイソップやグリムなんかの童話の全盛期です。各劇団がみんなそれをやっていたけど、僕は今さらやりたくなかった。それで、イギリスの、マイケル・パウエルとエメリック・プレスバーガーが監督した映画の『赤い靴』[一九五〇年三月・日本公開]なら面白い。『赤い靴』も『ホフマン物語』[一九五二年三月・日本公開]も、戦後の映画の中に初めてバレエやミュージカルが出てきたんですよね。あの映画は非常に大人の、恋の破局の物語でしたが、そこにアンデルセンの『赤い靴』の要素も混ぜ込んで、子供にも見せられるような公演にしたんです。無謀でしたけどね。早稲田の学生にピアノが弾けるやつがいるよ、それが先だって亡くなった宇野誠一郎さん。宇野さんを連れてきて、フルートとチェロを足してトリオにして劇場の袖にぶち込んで二時間生演奏でミュージカル『赤い靴』を創ました。
で、それが面白いから来月も、再来月も、という話になったんですが、こっちは児童劇をやる気はないわけですよ。ところが当時、東京都の児童演劇コンクールというのがあって、そこで優秀賞とかを、三年くらい続けてもらってしまった。下村湖人の『次郎物語』[一九五五年八月、三越劇場]なんかもやりましたし、宮澤賢治の作品もやったことがあります。今のように著作権が確立していない時代で、宮澤賢治の上演の権利も誰に話をしていいのかわからない状態だった。それでとにかく現地まで行って、その方の孫子に「この作品を上演したいんだけどいいか」と聞いたら、「私は結構ですが、猛烈に著作権を主張しているのがもう一人いて、東京の出版社にも食い込んでいるから、そういう争いに巻き込まれたくない」と言うんです。「それじゃあ、いいや」と。こっちの許可を得たならいいだろう、ということで『雨ニモマケズ』[一九五六年七月、三越劇場、小川信夫作・構成]をやりました。
また、その当時は大人の芝居でも、ロシア演劇ばかりというのはよくないんじゃないかって考えも出てきた時代でした。その先頭にぶどうの会などがいて、「日本の精神風土、自然風土をベースにした芝居をやらなきゃ意味がない。築地小劇場の後を追っかけてもしょうがない」というふうなことを言い始めた。そういう考えに僕らも賛同して、三越劇場で芥川龍之介の『仙人』という作品をとりあげ[一九五四年十一月]、舞台美術は清水崑に、墨で道具を描いてもらったりもしました。
神山 カッパの絵で有名な漫画家ですね。
星野 そうです。当時、崑さんは朝日新聞の編集局の隅の柱のところにデスクを持っていて、午前十一時から午後二時くらいまで、毎日、その日の夕刊の政治漫画を墨線でバーッと描いていました。日本な墨で描く政治風刺が人気を呼んでました。
『仙人』という作品は、強欲なおかみが口入屋に頼んで、権助という男を雇う。権助には夢があって、いつかは天竺に行きたいというので「二十年働いたら行かせてやる」と散々こきつかって、いよいよ約束の日がくるんです。それで、庭の真ん中の松の木に登らせて「ここまでですか」「いやもっと上」とやっているうちに、劇場では見切れるんですが、「奥様、今までありがとうございました」と権助は雲に乗って天竺へいっちゃうという話です。これは大人でも子供でも観られるものだし、道具が墨線で書かれているのは面白かったですね。それが、国際演劇月っていうのが当時、始まって二年目だったと思いますが、その文部大臣賞をもらったんです。
 また当時、民話劇というジャンルが注目されていて、木下順二が作家として目されていました。木下さんの作品として『夕鶴』が交詢者ホールで上演されたり、NHKのラジオドラマとして放送された際、登場する子役を劇団キューピットに依頼されたことがありました。そんな縁で、木下さんと知り合い、『和尚さんと小僧さん』[一九五四年十一月]という民話劇を上演しました。やっぱり清水崑さんの筆の道具でやりました。そこからやっぱり、日本人にとっての精神、自然風土が重要だということをあらためて思想として持つようになりました。ですから折々にやっている仕事、最後のオペラ『おしち』[一九九八年八月、新国立劇場]に至るまで、オリジナル物で、自分は日本人なんだだから日本の作品をという考えが、僕の流れなんです。

秦豊吉と帝劇文芸部

日比野 なるほど。一本線がつながっているんですね。その後、帝国劇場の文芸部にいかれたのはどういう経緯だったんですか。
星野 もちろん、主な流れとはいっても、あっちへ浮気したり、こっちへ浮気したりということはあります。当時のグランドはだいたい三越劇場だったんですが、ああいうロココ風の荘重な劇場での表現の限界を感じ、もう少し自由に、プロセニアムのないところで仕事をしてみたいということでショービジネスをやろうと、帝劇の文芸部に行ったんです。
旧帝劇は面白かったですね。裏に大道具を作る小屋まであって。森繁さんが小屋の張り物の裏でいたずらをしているのを見かけたり。衣装部屋が四階にあって、そこに小窓があるんです。それを開けて下をのぞくと、ちょうど真下が舞台の上手で、着替えが丸見え。そんな秘密の場所もありました。文芸部は当時四、五人いたんですけどね。「おい、時間だぞ」っていうと、タタッと駆け上がって四階の窓のところへいく。覗くとコーちゃん[越路吹雪]が裸で着替えているわけですよ。そんなのを見て、喜んで。「『脱ぎ捨てられたパンツ』なんて芝居はどうだ」なんてことを言いながらショーのプロットを書いたりしていました。
僕の当時の仕事というのは、秦豊吉からミュージカル論を聞かされたり、一日一本シノプシスを書いて、支配人の机の上に置いておくというようなものでした。だから、一、二年いるうちに五、六百本のショーシーンを書いたと思います。とにかく机の上に置いておけばよくて、忘れた頃何かの舞台にひょろっと書いたものが出てくるというような感じ。それである意味鍛えられました。やっぱり、秦さんという人のミュージカルに対する情念というか熱情は深くて、それで『モルガンお雪』[一九五一年二月、帝国劇場]『マダム貞奴』[一九五一年六月、帝国劇場]]もできたということがある。四季の輸入ミュージカルが出てくるのは、だいぶ後ですね。日本の戦後のミュージカルの礎をつくったのは、やっぱり秦先生だと思います。女優さんたちの劇団もつくって。それは後に、東宝の芸術座へ移りました。
神山 東宝現代劇の前身ですね。
星野 あれも、もともとは帝劇で秦先生がつくったグループなんです。また、帝劇時代には月末になるとよく、「おい、宝塚へ行ってこい」とも言われました。それで、宝塚の大劇場で千秋楽を観て、次の芝居の仕込みを手伝って、その初日を観て帰ってくるんです。まだ小林一三も生きていましたから、そういう機会にいろいろな話を聞けました。宝塚の大劇場はみんなに任せてやっている。だけどお客が来ないから、心配でしょうがなくて動物園をつくったんだよ、とか。
日比野 そんな事情があったんですね。
星野 そうすれば何もやらなくても客は来るんだ、というんですよね(笑)。
日比野 そのころの秦さんは帝国劇場をミュージカルのメッカにしたかったわけですね。
星野 そうです。ただ、東宝でミュージカルを一カ月やっても儲からない。それで、結局はシネラマにするという話になっちゃって。ちょうどその頃から体を悪くしちゃった。それまではね、支配人室に七輪を持ち込んで、いつも目刺しを焼いていました。それで舞台稽古をしている踊り子たちに、一本ずつ「おい、食え。精力をつけろ」なんてことを言って食べさせていました。そういう支配人だったんですよ。
神山 さっき、秦さんが「宝塚へ行け」と言われたのは関西の方の大劇場ですか。
星野 ええ。宝塚の劇場です。でも、東京の宝塚劇場がまだアーニー・パイルだったころにも、レビューをのぞきに行っていましたよ。支配人の結城さんという人が、東宝の一族の人で、「日本にはないレビューだから観ておけ」といってくれて。
日比野 当然オフリミットなわけですよね。
星野 そうです。だから裏から行って。
神山 まだ伊藤道郎が演出していたころですね。
星野 そうですね。ハリウッドから帰ってきて。僕は、伊藤道郎さんの後をやることが多かったんです。ファッションショーでも、ドレメのショーはずっと伊藤さんがやっていたのが、何かの都合でできなくなって、杉野芳子の秋のショーと春のドレメの先生と卒業生たちの作品を紹介するショーと、両方を僕がやることになったり。
神山 さきほどおっしゃったアーニー・パイルの支配人の結城雄二郎さんは、小林一三の一族、ということですか。
星野 そうです。電通の初期ラジオ部(のちのラテ局)設立にもかかわっていました。電通がまだメディア事業で猛威を振るうなんてことになる前です。息子さんと娘さんが成蹊の小学校に通っていたんです。あのころの成蹊には長山藍子とか、東野英治郎の息子の英心、それから松本弘子というモデルで、後に「フレンチ・ヴォーグ」の編集長になった子もいました。面白い子たちがたくさんいたんですね。滑川[道夫]先生という懐の深い先生がいまして、「いいよ、連れてっても。[成蹊学園のシンボルとして通学路を彩る]欅の木ばっかり見せたってしょうがないんだから」と言ってね、勉強よりは、そういう活動に熱心でした。
鈴木 その後、帝劇文芸部を離れて活動されるのにはどんな経緯がありましたか。
星野 当時、丸の内日活劇場、日活映画ができて初めて作った映画館だと思いますが、その上に日活ファミリークラブという豪華なナイトクラブを作ったんです。
日比野 名前は「ファミリー」なんですね。
星野 そう。名前はファミリークラブ。でも、フリーメーソンの会だとか、ちょっと表に出てこないような人たちが夜な夜な集まっていて。そこでショーをやるということになりました。日活のニューフェースの一期、二期、三期というようなことで応募してきた中から、美しくてリズム感のあるのをバーっと二十五人くらい選んで、レビュー要員として日活が採用したんです。当時は雲霞のごとくそういうのが集まりましたから。そのショーを帝劇文芸部につくってくれないかという話があって、僕も参加するようになりました。その頃、ダン・ヤダ・ダンサーズという、矢田茂のグループの評判が聞こえてきたわけです。メトロという大阪のクラブで……一階フロア全部をプールにして、水を入れ、船をいくつもつくって、それでショーをやるというような。東京にもナイトクラブはたくさんありましたが、そんなスケールでレビューをつくるナイトクラブはなかった。矢田茂という天才的振付師がいて、そこに集まっているダンサーはとにかくよく踊るし、すごいよ、という話だったんです。それからすぐ「ダン・ヤダ・ダンサーズの演出部に来い」という話があって、引っ張られたんです。

オペラ、テレビ……混乱の時代に育った才能

日比野 帝劇の文芸部に所属されたのが一九五五年ですが、一九五六年にもキューピットの公演はありますし、その後劇団山王の旗揚げにも参加されていますね。
星野 ええ。だけど、キューピットの方はもう役割は終わったと自然消滅させました。最後に映画をつくったんですよ。当時、毎日新聞の連載記事で「この子らに光を」[一九五六年四月二十八日〜五月十九日、全十四回]というのがありましてね。戦争で家を失った浮浪児とか家なき子の話を特集して注目されたんです。中でも最後に出てくる山下清という絵描きの話が面白いから、映画化しようという話になって。その時、山下清の子供時代をやったのが唐十郎なんです。小学校三、四年だったと思う。お父さんが理研映画の監督[大鶴日出栄]で「うちの息子でいいならどうぞ」というので引っ張ってきて。文部省推薦映画[『この子らに光を』、一九五六年八月公開]で、全国に二百本くらいフィルムが売れました。でも、僕はネガも何も持っていないんです。二、三年前に唐十郎から電話があって、「あれはいつでしたっけ」と言うんだけど、「そう言われても覚えてないよ」って(笑)。あのころの映画製作は、カネがかかってね。今みたいに丸腰でちっちゃいカメラで間にあうなんてできないですから。三十人はいるスタッフ一人ひとりに餅代をくばるとか、予算が際限なくかかっちゃう。
それでもう嫌になって。それで劇団山王で大人の芝居だけをやるということにしたんですね。山王は、菅沼定憲という、もともとは慶應の劇研にいたのと、もう一人、のちに東和映画の宣伝に入ったやつとがコンビでやっていたんです。慶應の劇研では、後に山王に入る人たち四季とどっこいどっこいでやっていたようです。ただ、四季はアヌイやジロドゥばかりでしたから、そんな舶来物ばかりかよというのでアンチ舶来派ができて、それが劇団山王になった。ところが、演出家がいなくてね。「演出してくれ」「あぁ、やるよ」と、なんとなく僕が座付きの演出になりました。
神山 山王というネーミングはどこからきているんですか。赤坂の山王ですか。
星野 じゃなくて、大森の山王です。山王ってリッチな町で、そこにバックアップをしてくれる人たちが何人かいたんです。四季は初め、加藤道夫さんでスタートしたじゃないですか。で、フランス演劇をやっているから、「何もそんなに気取ることはない。俺たちは日本のものしかやらない」というんで「じゃあ、劇団山王でいいんじゃない」となった。
神山 そうでしたか。僕は、てっきり赤坂の山王で、ラジオ東京[TBS]と何か関係があるのかと思っていました。
星野 ラジオ東京だって、今、TBSのある丘のあたりは引揚者の集落でした。仮設住宅のもっとひどいところだった。「ラジ東」なんてカッコつけて呼んでましたけど、「なんだ、引揚者のスラムじゃないか」と言っていたものです。
神山 山王では、石原慎太郎原作の芝居をやっていますね。
星野 ちょうどそのころ、慎太郎が、例の障子を破る小説[「太陽の季節」『文學界』第二十三巻第七号(一九五五年七月)に掲載、一九五六年に一九五五年下半期芥川賞受賞]を書いたんです。みんなそれほど深く考えませんから、「面白い。慎太郎の本をやろう」となった。要するに岸田國士だとか、「紙風船」がどうしたの、浮気したおやじが帰って来た、だのやったって面白くないというわけです。それで、逗子まで訪ねていって「やらせてくれ」と頼んだら、「俺は戯曲は書けないからそっちでまとめてくれるならいいよ」という話になりました。それで、「石原文学へのオマージュ」と言うことで慎太郎の小説をもとに定憲が汗を流して本を書き、それを僕が演出する、っていうのを二年続けました。
神山 短編「処刑の部屋」[『新潮』第五十三巻第三号(一九五六年三月)に発表。同名の映画は一九五六年六月に公開]を劇化した『透きとおった青春』[一九五七年一月、第一生命ホール]と『青春・一九五八』[一九五八年一月、第一生命ホール]。
星野 『処刑の部屋』の方が先でしたね。舞台でプレスリーをガンガン鳴らして、若者たちが集っている、というところから始めたんですよ。慎太郎が観にきて面白い面白いと言って。芝居にのめり込んで「一緒にやらないか」というんですが、僕は文学の才能があるわけじゃなくて、演出への興味で帝劇に行ったり、劇団の演出をしていましたから。それでも当時、阿比留の会というのがありまして。
日比野 阿比留の会ですか。
星野 ええ。赤坂に阿比留というお茶屋があって。そこに有吉佐和子さん、山口洋子さん、岩橋邦枝さんなんかが集まって。日本の帯はどうして後ろで結ぶのか、いや最初は前だったとか、とにかく『万葉集』だ、『十六夜日記』だ、『徒然草』だとかって、日本の古典を題材にいろいろ話し合うという会をしていました。そこへ慎太郎に連れられ、二、三回参加しました。有吉さんは当時、慎太郎に惚れていましたから非常に熱心だったし、山口洋子さんは唯一詩人として加わっていて[作詞家・山口洋子とは別人]。後に僕が[プロデューサーをしていたNET『木島則夫モーニングショー』「今週の歌」でジェリー伊藤が歌った]詞を書いてもらい「誰もいない海」という歌がヒットしたんですけどね。そんなふうにいろいろ面白い若手の集まりに参加しながら、一方では帝劇の文芸部にもいたわけです。
神山 劇団山王に在籍していた人でいちばん有名なのは毒蝮三太夫ですが、当時から今のようなあひょうきんなキャラクターでしたか。
星野 彼は「楽屋大将」で、とにかく舞台より楽屋が面白かった。それから山王ではいつも劇場の表に談志が来ていました。第一生命ホールで公演をしていたでしょう。第一生命の総務のお嬢さんが受付をやっているんですが、談志が惚れちゃいまして。それで毎日来るわけです。まだ小ゑんと言っていたころですが。結局、彼女と一緒になったんですけど。だから、その時も、毒蝮と談志は表と裏とでつるんでいたんです。
日比野 今日はここに山王の公演プログラムを持ってきたんです。
星野 へえーっ、すごいね。僕はなんにも持っていなくて。定憲の芝居では今井直次に照明をやってもらったりね。今井さんは吉井澄雄の一世代上だけど、当時華麗な照明ができるのは、今井さんしかいなかった。
神山 第二回公演の『十二年目の若もの』[一九五七年七月、第一生命ホール]の照明は、原英一さんという方になっていますね。
星野 それは新劇をやっていた美術の河野国夫さんについてきたんです。あぁ、僕は一回目の『処刑の部屋』から演出していたんですね。
日比野 『十二年目の若もの』は定憲さんがご自身で演出されたようです。
星野 そうですね。三回目の『青春一九五八』では、妹尾河童を使ったんです。当時は彼と、橋本潔という二人が、関西の舞台で斬新な道具をつくるというので評判だったんです。二人とも東京へ来て、橋本潔はNHKのテレビの立ち上げからずっと道具を描いて、NET[テレビ朝日の前身]が始まる時にそっちにひっぱられ、以後ずっとテレビ朝日でやっていた。妹尾河童はフジテレビがひっぱりました。とにかくテレビがスタートする前のことでしたが、河童に道具を頼み、照明は今井直次さん。今井さんはそのころ宝塚をやっていたかな。当時はそうやって一人ひとりスタッフを集めるのも全方位へ眼くばりしていなければならなかった。
オペラをやらないかと言ってきたのも河童なんですよ。イタリアオペラが初めて日本に来たときですが、日本側のスタッフの受け皿がない。それで、イタオペの日本公演のプロモーターはNHKだったから、社屋のすぐそばにバラックをつくって、そこに岩城宏之や栗山昌良、佐々木忠次らが七、八人集まっているところに僕も加わりました。また、当時は藤原歌劇団の全盛期だったんですが、藤原の創り方では気に食わないというので、芸大派が集まって二期会ができたんです。ただ、稽古場がないから、芝の増上寺の幼稚園を借りたりしていた。ようやく東京プリンスの横に小さな稽古場ができ、意気盛んな時に来てくれと言われ二本くらい演出しましたけど。どうも体質が合わなくて。そこにも河童と、佐々木忠次がいたんです。佐々木忠次は後にバレエに行っちゃいましたけど、このころはオペラ専門にやっていました。僕は音楽学校育ちじゃないし、「おもしろくないから辞めるよ」と言ったら、じゃあ、ギリシャ王室オペラが来日するからそれを手伝ってくれないかという話になって、『カヴァレリア・ルスティカーナ』[オーケストラは東京交響楽団・合唱団は日本人での上演、共立講堂、一九五八年三月]の演出を行なった。[同時上演した]『パリアッチ』の方は栗山さんがやったんじゃないかな。ただ、それでいったん、僕は、オペラのことは忘れてしまうんですが。
鈴木 とはいえ、後に舞台芸術でも、いろいろなジャンルで活躍される方が、一度にそこへ集まっていたんですね。
星野 そうですね。佐々木忠次はてんかん持ちでね、話をしていても突然ドーンと倒れる。で、三十秒か一分見守っていると収まって、ふっとわれに帰る。それで「何?」なんていうんですけどね。そういえば、定憲は喘息持ちだったし、みんな何かそういう病気を持っていましたね。また、ちょうどそのころは俳優座が六本木に劇場をつくって裏の稽古場から表の劇場に出て来たり、千田是也が桐朋学園の演劇科をつくったり、そういう混乱の時代でした。だがどっちを見たって、芝居にかかわっていた連中はみんな豊かではなかった。そういう中で、美術家がテレビへ抜けていくということがありました。僕に話が来た時も、栗山昌良に「どうしよう」と相談したら「やった方がいいんじゃない、オペラをやっていても貧乏が続くよ」と言われました。あのころはまだ、テレビの演出についても、映画論が手本であって、映画のモンタージュ論を理解していればよかった。前例のない時代ですから。演出部に何十人いても、そういうものがきちんと自分の中に入っていて発言するのは少なかった。こちらにはスタニスラフスキーをやってきたという財産だってあるわけですしね。

ムーラン・ルージュのショーをつくる

鈴木 一九五八年にNETに入局された後も、ダン・ヤダ・ダンサーズはじめ舞台の仕事は続いていたわけですね。
星野 そうです。僕が日活ファミリークラブのショーを演出している時に、パリ・ムーラン・ルージュのオーナーのブーシェが来て「面白い」というんです。当時のムーラン・ルージュには、一つは北欧、コペンハーゲンを中心に回るチーム、それから中近東のベイルートをベースにしたチーム、そしてパリの本家でやる「ドリス・ガール」と三つのチームがあったんですが、そのドリス・ガールが、映画を撮るためにハリウッドに一年行くので、その間オリエンタルのショーをやりたい。ムーラン・ルージュを舞台にした映画は十本くらいありますが、一九六〇年に制作されているのがあって。当時は、今のように抜きで撮影して編集するんじゃなく、大掛かりに道具をつくって撮りますからね。それでパリ公演が決まったんです。
日比野 ダン・ヤダ・ダンサーズの『ラ・ルヴュウ・ジャポネーズ』La revue japonaise[一九六〇年四月]は、もともと一年きっかりで終わるというような計画だったんですね。
星野 そうです。ヨーロッパで日本人が興行するということでは、その四、五年前に[吾妻徳穂を宗家として一九五四〜一九五五年に欧米各国を巡業した]アヅマカブキというのがありました。ところがあれは、二、三日ごとに何カ所かでやるというもので、中身も歌舞伎ではないんですよね。だから、向こうへ行った時に「あれが歌舞伎か」と言われて困りました。「いや、あれは日本のトラディショナル・ダンスの家元がやったショーなんだ」という言い訳をずいぶんとさせられました。
 『ラ・ルヴュウ・ジャポネーズ』は一年前から帝国ホテルに製作オフィスを設け、準備を始めたんです。海外と電話をするのだって、普通のうちじゃできない時代ですから。帝国ホテルに事務所があればダイレクトに連絡がつくでしょう。僕はそのころテレビの仕事もしていましたが、それが終わるとすぐ帝国ホテルへ行って。だから、児童劇の作家とかが事務所へ来ると腰を抜かしていましたね。帝国ホテルに事務所があるなんていうのはね。でも、それはやむを得ずそうなっただけのことなんです。
神山 ただ、そうした費用もすべて、ムーラン・ルージュから出ていたわけですよね。
星野 結局そうです。だから、当時の日本人のアーティストとしては、考えられないくらい好条件の契約だったわけです。でも、ロイヤーを通して来る書類は条件も痛烈に厳しいものでした。日本ではオペラをやるんだって、電話一本で集って誰も契約なんてしないし、劇団もなんとなく自然に集まっていた時代ですからね。実際、向こうで六十人のダンサーとやっていたら、女の子は一年もいればいろいろあるじゃないですか。突如オエッとしたりする子もいるわけですよ。そうなると土曜日に急いでジュネーブまで連れていって、その日のうちに病院でオペして、日曜日にパリに戻り、月曜日には知らん顔して舞台に出すわけです。で、日曜日だけは、オーナーが見ても分からないようにショーを作り直すんです。そういうトラブルが三回くらいありました。女の子もかわいそうなんです。バレると、何日ぶんものギャラをカットされる。ブロードウェイにはありましたけど、日本にはアンダースタディーを用意して、というような考え方はないんですよね。石にかじりついてでもやれみたいなことで。一九六〇年ですから、「アンダースタディ? なんだよ、それ」という感じです。とにかく本人が責任を持ってやるしかない。踊り子も衣装も六十人でギリギリなんですね。だからそういうことがあると、困るわけです。居残ってつくり直しをしたいけど、ジュネーブまで付き添わないと、踊り子の身体が危険にさらされる。
日比野 それほどまで日本側のスタッフの人数は、最小限に抑えられていたんですね。
星野 そうです。振付は矢田茂で、照明は、いわゆる照明家を連れていくことができなかったから、第二舞台監督みたいなのが入って。矢田茂の振付というのは、この八小節はここへサス、次の八小節はこっちへサス、次の十六小節はバックライトをこういうふうに……というように、当時としては非常に細かい照明の指示がありました。彼が初めて国際劇場で映画『パリのアメリカ人』の名場面を再現したくて創った舞台が『風に立つ幻影』。照明とスモークだけで舞台をつくっていました。関西で矢田茂の名前がバーッと売れてきて、SKDでもやろうということになって、呼んだら「道具はいらない」というわけです。「いや、うちは体育館みたいなところで、道具がなければ倉庫ですよ」「とにかくスモークのパイプだけ二十本。あとは照明さえあればいい」と。それで、シューっと出しておいて赤に染めたり、ブルーにしたり。スモークの出し方との組み合わせで全部を見せた。めちゃくちゃモダンだし、当時はそういう発想がなかったですね。国際劇場の、普段レビューをやってるスタッフですら、思いつかないことだったわけです。面白いといえば面白い時代でした。今になれば、スモークで明かりが変わって、なんていうレビューはラスベガスの大通りに行けばタダでも観られる。でも、あのころは想像もつかなかったし、矢田茂だってラスベガスに行ったことはなかったんですから(笑)。
日比野 どうして思いついたんでしょうね。
星野 スタッフは、芝居でもレビューでも、テレビでも、何をどうしたらいいか、とにかく年中考えていました。志ひとつで生きていた時代ですから。今みたいにマニュアルや予算ありきの、スポンサーがおっしゃるタレントをいれて「はい、ドラマです」みたいなのはバカバカしくて付き合っていられないですよね。
日比野 このパリでやった『ラ・ルヴュウ・ジャポネーズ』でも、装置はほとんどなかったんでしょうか。
星野 シンプルな日本的装置を、大寺三平さんという、[妹尾]河童の前の世代の方がデザインしてくださったものを持ち込みました。大寺さんは、伊藤熹朔のような築地時代からの人たちと、金森馨や河童の間にいた優秀なスタッフの一人です。二部構成で、一部が十五、六景でできていますから、全部で三十くらいの場面が必要なわけです。それで、ぴったり三十だとオーナーが気に入らなかった時に困りますから、五十景つくって持っていって。バーッと見せて、あれはいらない、これはいらない、これはやめようというので、構成を決めました。
日比野 六十人のダンサーが全員出る場面もあったんですか。
星野 フィナーレは全員でますね。それとフィナーレにつながるシーンにはたいてい全員が出ていなきゃいけなかった。一部のオープニングは歌舞伎の口上をデフォルメしたもので、後ろ舞台がワーッとせり出してきて、チョンと柝が鳴るというようなところから始まるんですけど、それが終わるとすぐ、上手下手の二つの城がどんどん崩れて、火事と水の中を逃げ惑う。そういうスペクタクルを一時間半のレビューなら二景くらいは入れないとダメなわけです。その間は、日本の民謡を素材にマンボにアレンジしたりというようなものでつないでいました。
日比野 ただ、ムーラン・ルージュってそんなに大きい場所ではないですよね。
星野 でも上手から下手まで九間近くありました。で奥はもう、めちゃくちゃ広いですから。千人が宴会をするだけの客席を持っていて、舞台はそれほどでもないんだけど、裏はその倍はあるわけですよ。
日比野 それを全部活用するわけですね。
星野 そうです。私たちがパリに行った一九六〇年にはまだ、パリのショービジネス全体も、ブールバール演劇とか、小さな寄席もまだ盛んだったんですが、そういう実態を知っている人はもうパリにもいませんね。ムーラン・ルージュも一九六四年にオーナーがフランス人からユダヤ人に代わって、リドと一緒の経営になっちゃったんです。ですから、それまでのスタッフとも断ち切れちゃっていて。もう、生きていて当時のことを知っている人がいない。それで、「日本にパリでやっていたやつがいたな」というので、ロンドンのプロダクションに呼ばれて、一九六〇年のパリのモンマルトルのシナリオコーディネイトに一年くらい付き合ったことがあります。
神山 そうすると先生は、一九六〇年にパリにいらしたころにも、イヨネスコなんかをご覧になっていたわけですね。
星野 そうです。
神山 なるほど、それで後にSKDで取り上げられているわけですか。
星野 そうなんです。左岸の小さな小屋で緞帳が開くにもガタガタいうようなところで『授業』を観たりしました。「へえー」なんて思って、その後また何度か行きましたが、初演の時に娘役をやっていた女優の娘が今度は主役をやっていたりね。ですからパリの演劇界というのは、不器用にもちゃんと続いているんですね。息子や娘にちゃんと伝えていく。やっぱり文化って、そういう集積がないとつまらないんじゃないかな。日本人はすぐに飽きて、次へ次へと行きますけどね。そもそもああいうユシェット座のような、わずか五、六十人の劇場で、最前列こそ五千円くらいはとるけど、後ろの方は五百円だよというような劇場って日本にないじゃないですか。出ている人たちも劇団じゃなく、フリーのプロジェクトなんだけど、イヨネスコの信者みたいな人たちが集まっていて。そういうことを知ったという意味でもパリには行ってよかったですね。ただ、それで、日本の状況に批判的な目を持つようになって、いろいろやってきたけど、ある程度までやると「もういいや」という感じになるところもあるんですけど。

テレビ芸能とミュージカルの交差点

星野 パリへ行くことが決まったころには、NETでも仕事をしていましたが、あんまりテレビというものにも愛情が持てなくて。だから会社にも「パリへ行く」と伝えて、クビになったはずでした。でも、一年後に帰ってきたら、もう少しやれということになっていたんです。「ええーっ」と言ったんですけどね。結局ドラマも音楽も、部署の所属もはっきりしないままなんでもやらされました。そのうち、電通と渡辺プロダクションからくるような、ややこしい仕事を頼むという話になって。森繁さんや石原裕次郎が初めて出演する番組も手がけました。当時の電通には岡田茂の弟の岡田三郎っていう、これもまた兄に輪をかけたのがテレビ部長にいましてね。僕がその御用ディレクターみたいなことで何年かやりました。でもやっぱり白黒の時代とカラーとでは違いましたね。白黒の時は、太陽はどこにあるのか、夕方なのか朝なのかって全部照明も違うわけですよ。でも、カラーになると映像に対する考える密度がガクッと落ちちゃう。だいたいパーっと明るくして、カメラの蓋を開ければ撮れちゃうような。ハリウッド映画とか、大船の映画の感じですね。それで僕は、寺山修司や安部公房とドラマをつくっていたんです。安部公房さんとはずいぶんやりましたけどね。でもやっぱり、いわゆるソープオペラなんかは無駄働きだし、音楽ものはナベプロからまわってくるのをやらなきゃならないしという感じで。それでカラーになったらもう、これは表現媒体じゃなくて伝達媒体だろうと。要するに誰がやっても同じ。最初の十年はどこの局も本当に志を持ってつくっていたんですけどね。それもなくなって、僕はもう、やめることにしました。
日比野 寺山修司とはどういうきっかけで仕事をされることになったんですか。『木島則夫モーニングショー』にも出ていますし、一九六六年五月には『さよならの瓶詰め』という舞台[平河町・都市センターホール]を演出されています。
星野 当時、ダークダックスをマネージメントしていた事務所がありましてね。そこがミュージカルをやりたいと言ってきたんです。なんとなく、僕のところへくると、ミュージカルができるような気がしていたんでしょう。で、「どうしたらいいでしょうか」というので、「とにかく良い台本がなきゃダメだから、寺山さんに頼んだら」というと、「いやぁ、あの人、気難しくて」なんていうんですけど、強引に頼みこんで、いろいろな涙が瓶詰めになっているという脚本ができたんです。それで「面白いんじゃない」というと、今度はポスターとかチラシをどうしたらいいかという話になって。「じゃあ、横尾さんのところへ行けよ」と。だから『さよならの瓶詰め』のビジュアルイメージは全部、横尾忠則がデザインしています。あれは非常に面白かった。
日比野 それは横尾さんが、状況劇場や天井棧敷のポスターをやるより前になりますね。
星野 そうです。そういう資料もちゃんととっておけばよかったんだけど、もう記憶の中にしかない。
日比野 美術は金森馨さんですね。
星野 金森さんはそのころ四季をやっていて、面白かったんですよね。「道具を描いてよ」と言ったら、コカ・コーラの瓶を並べた美術になって。あの、コーラの入った重たい瓶が千本くらい必要なんです。しょうがないので、六百本を並べて、その空き瓶には花だったり、思い出だったり、嬉し涙や悔し涙が入っている、なんてミュージカルになりました。
日比野 ジェリー伊藤さんが出演されています。
星野 ジェリー伊藤さんは非常にスマートで、欧米的な感性を持った歌い手でした。それで、僕が担当してた木島則夫の番組の中で週に一回、オリジナルの歌をつくって歌ってもらっていました。「誰もいない海」もその時できた曲で、作詞は石原慎太郎の彼女だった山口洋子さん。ちょうどそこへ越路吹雪のマネージャーの岩谷時子が来て、越路はいいけど旦那になった内藤[法美]さんに仕事がないから、作曲をやらせてくれないかと。「そんな海のものとも山のものともわからないのに」と言ったら「おっしゃる通りにいくらでも直させるから」と言うんです。結局三曲くらいつくってもらって、この曲で、と決めた。それが当たったんですね。それまで「死」という言葉は日本の歌には出てこなかったんです。今はフォークでもなんでも自由に出てきますけどね。山口さんの詞も、三分の一くらいは僕が補作してはいるんですけど。
日比野 そうだったんですね。
星野 当時はやれ著作権だ、契約だって言わない時代です。それでレコード化する時の権利というのは一切フリーにしちゃったんです。だから、いろんな人が歌ったんです。そういえば、その頃、美輪明宏さんも問題があって出てなかった。で「誰かいい歌い手はいないか」となった時に、「どうしてるんだろう」と電話してみたら、「ちょっと歌うから聴いてくれ」と言って、電話口でアカペラで延々歌われたのが「ヨイトマケの唄」だった、ということがありました。あれは七、八分あるんですよね。一時間半のワイドショーの中で三分以上の枠をとるのは不可能だったけど、一度だけ冒険だと思ってやってみろ、ということに。そうしたらもう、翌日から五万六万の手紙が来まして、彼の最高の持ち歌になりました。だから、レコード会社がお約束どおりに制作するんじゃない歌をつくっていくにはどうしたらいいか、ということを当時はやっていたし、いつも考えていた。
 結局、テレビは、石原プロの仕事を最後にやめました。裕次郎は確かに魅力がある素材だった。でも石原プロ自体は、ドラマを作るということに対して作法がないわけです。儲かればいいだけ。商業演劇とか商業映画で育ってきた人たちというのは、所詮そこまでだという気もしましてね。一方、テレビの仕事を続けている間も、舞台の方はなんだかんだと続いていました。ムーラン・ルージュでやった仕事はまったくのジャポニカでしたから、日本のモチーフをどういうふうに向こうの人間に見せるかということが面白くてやっていた。それで、局にいる時から引っ張り出されたのが、ジャニーズ事務所であり、坂本音楽事務所でした。坂本博士はミュージカルをやりたかったので。
日比野 坂本博士さんとは、どういう形でお知り合いになったんですか。
星野 日本の戦後初めてのミュージカル映画だと思いますが、大映の『アスファルト・ガール』[一九六四年四月公開]というのがありまして。不器用で踊りもしなきゃ歌も外してどうしようもないんだけど、かっこよかったんですね。足が長い。裕次郎に先駆けて、足の長さで映画ポスターに出たのが坂本博士なわけです。それで、自分のところでもミュージカルをつくりたいと僕のところへ話がきた。だけど、ヨーロッパのものをやったって、周りはやっぱり足の短い、胴の長い日本人なんだから、日本のものをやろうよ、ということで日本のミュージカルシリーズをやったんです。それが芸術祭で二度、三度と賞をもらいまして、彼も「嬉しい、嬉しい」となったんですが、そればかりで過ぎちゃった。博士は一生懸命ミュージカルをやりたくて、脚本の吉永淳一さんも日本の風土をしっかり背景にした本を書いたんだけど、結局ミュージカルの根っこにはたどり着かなかったという気がします。
 途中から、宝塚を辞めてエスビー食品の社長と結婚した山﨑陽子が書いた童話劇を始めましてね。『小鳥になったライオン』[一九七三年八月、西武劇場]とか。それが楽しくなっちゃったんですね。初めは僕も演出しましたけど、結局は坂本博士演出になって。要するに内輪だけでやるようになったんです。もったいなかったと思います。もうちょっと台本を読む力があって、本当に力のある後輩、歌い手を育てていれば、あそこだって一つのクリエイティブな集団になりえたと思うんです。でも、そうはならなかった。
神山 吉永淳一さんは、レビューでは、SKDの『春のおどり』[一九五八年一月・国際劇場]の『雪ん子』[の原作]というのもありましたね。
星野 ええ、あれは名作ですね。
日比野 これはテレビ局を辞められた後のことですが、星野先生はフォーリブスのミュージカルもつくっておられますよね。これは、担当されていた音楽番組で出会われた人たちの間でもすでに、ミュージカルをつくりたいというような熱があったということですか。
星野 そうですね。日本テレビには『光子の窓』[一九五八年五月〜六〇年十二月]の井原高忠、TBSには倍賞千恵子さんの相棒だった砂田実がいて、あとは僕。フジテレビはいなかったかな。ともかく各局に一人ずつ、ミュージカルにも明るい人間がいて、そこから話がつながっていった。フォーリーブスの場合はメリーさんがミュージカルに関心を持っていて。彼女の主導でやっていたんです。で、僕がサカモト・ミュージカルをやっていたものだから「フォーリーブスもやらない?」って。線をつないだのは渡辺美佐さんでした。
日比野 最初が『太陽からの少年』[一九七一年六月、渋谷公会堂]、それから『生きていくのは僕たちだ』[一九七一年十月、帝国劇場ほか]。
星野 そうです。『生きていくのは僕たちだ』をライブ・レコード化しましてね。このころはまだ、ジャニーズの公演は日本青年館とか渋谷公会堂でしかやってなかったんです。それで、ミュージカルをやるんだったらちゃんとした小屋でやろうよといって、帝劇と話をつけました。だから『生きていくのは僕たちだ』は、帝劇におけるジャニーズ事務所の初公演でもあります。
日比野 この作品はその後、御園座でもやっていますね。
星野 はい。とにかく、その後もどこかで上演するたびに、何がしかでも演出著作権みたいなものを払い込んでくるのはジャニーズ事務所だけです。在野のものをずいぶん手伝ったけど、みんなそれっきりです。
神山 メリー喜多川さんとのおつきあいに、[渡辺プロダクションの]渡辺美佐さんとはどんな関係でしたか。
星野 ある時、渡辺美佐から電話があって、「今日、暇?」というから、「暇ですよ」と答えたら「十万円持ってきてくれたらいいから」と呼び出されて。なんだろうと思っていくと、麻雀卓を囲んでいるんですよ。渡辺美佐とメリー喜多川と、淡路恵子がね。それがメリーさんと会った最初です。麻雀ははなから負けました。十万円きれいにとられて、「もうないから降りる」というと、「はい、帰りのタクシー代」と言って千円渡されて、悲しく帰った。
神山 渡辺美佐さんからメリーさんを紹介されたわけですね。
星野 そうなんです。美佐さんのご両親の曲直瀬正雄さんと花子さんというのが、戦後初めて、ミュージシャンにアメリカ式のマネージメント・システムを導入したんですよね。そのころはまだ、日比谷の三信ビルの一室でやっていらしてね。美佐さんとは麻雀以外でも折に触れて電話があって。「今度、面白い子を一人出すんだけど、ちょっと面倒みてくれない」なんて言われて。それで、あの「やめて」と歌う、女の子……辺見マリのデビューにもかかわっているし、日生劇場でやった布施明のロングリサイタルの演出もしています。
日比野 『生きていくのは僕たちだ』の翌年、一九七二年三月には、星野演出事務所として『TOUCH』という翻訳ミュージカルも演出されています[全国巡演。同年五月、アートシアター新宿文化劇場]。最初におっしゃったように、日本の風土をベースにした舞台を意識されてきた先生のなかでは、これは異色の作品ということになりますか。
星野 はい。ブロードウェイは自分で観て、知っていたんだけど、オフ・ブロードウェイというものがどういうシステムかよくわからなくて。とにかく向こうのものを観て、どれか一本持ってくる、という話になったんです。その時期やっていたものを全部観て、これだったら日本でやるのにいいだろう、と『TOUCH』を選びました。作家のケン・ロングに言ったら「どうぞどうぞ」と言ってね。あのころのアーティストは、まだ強欲じゃなかったんです。でも、音楽については、当時の日本では難しいところがあったので、山下毅雄って、あの口笛が得意な、TBSの『七人の刑事』[一九六一年十月〜六九年四月]の主題歌を作曲していた彼にアレンジしてもらったんです。
神山 そうだったんですね。当時のミュージカルにはまだ歌えない人がずいぶんいましたが、そこは、歌う人、芝居ばかりをやる人というふうに分けていましたか。
星野 いや、ジャニーさんのところがいい例で、歌は口パクなんです。もちろん、そういうことは絶対に言わないし、そんなことは決してばらさない人がスタッフになっていましたが。そうすると、ミキサーの腕があがるんですね。いかに歌えないのをごまかすか。それが、今の日本のオペラなんかにも引き継がれて。今だって、何十本もマイクを仕込んで、客席からは絶対にわからないように調整しているでしょう。そんなこともあって、僕はもう、オペラも何本かやったけど、結局張り子のトラなんだから、やってもしょうがないかなと思ってしまった。
神山 昔は全然関係ない場所のスピーカーから音が聞こえることがありましたが、最近はさすがに、ピンマイクも発達して、うまくごまかせるようになりましたね。
日比野 この時期、先生は星野隆英という名前でクレジットされていますが、これはどういう事情からですか。
星野 このころはNHKの教育テレビによく呼ばれていて。「星野和彦」と名前が出ちゃうと「おい、なんだ」となるので、しばらくその名前でやっていたんです。
日比野 なるほど。『TOUCH』は、民音で全国巡演をされています。民音のミュージカルというと、東京キッドブラザースもやっていますが、当時、そういうことに関心を持ったプロデューサーがいたということなんでしょうか。
星野 当時の民音は、疎外感のようなものを持っていたんだと思います。今でこそ、そういうアレルギーはなくなりましたけど、労音は正しくて、民音は創価学会で、というような壁がありました。民音の側も結局、雪村いづみ以下、信者しか製作にかかわれない、興行しないという部分もありましたしね。ただ、われわれは興行師じゃないですから。公演をいくつか組もうとすると、組織に乗らなきゃ難しい。でも労音左翼の教条主義みたいなものは嫌いだったので、だったら民音しかないわけです。
日比野 でも、よく民音の方も、『TOUCH』のような新しいものを受け入れましたね。
星野 秋谷さんという人がいて。その方が非常に懐が深かったんです。「これ、やりたいんですけど」「はい、いつやりますか」「この時期がいいですね」「わかりました、組んでみます」というような。池田大作の次くらいの位置にいた方で、もし池田さんがいなければ、今ごろは神様になっていたかもしれません。当時民音では指揮者コンクールというのがありまして、上位の成績になった人がオーケストラを連れて日本中をドサ廻りする、その演出をやったこともあります。贅沢な企画だなと思いました。ほかの団体じゃとてもできない。
神山 『TOUCH』はアートセンター新宿文化でやっているんですね。これは珍しい。
星野 それは、プロデューサーの葛井欣士郎が、寺山だとか唐十郎だとかとやっていて、ちょっと劇場の彩りが暗くなって、貧乏くさくなるのが嫌だったんです。それでちょっと贅沢感のあるものをやってよ、という話になって。僕らのだって、決して贅沢感のあるものじゃなかったけど。
日比野 毛色の異なるものを入れたかったということですね。
星野 そうなんですよね。その後ジァン・ジァンでSKDをやったりしたのも、支配人の高嶋さんから、「停滞するのが嫌だから何かやってよ」と言われたからなんです。そういう点火剤のような感じで呼ばれていたんですね。

EXPO、ファッション・ショーの時代を経て

星野 テレビを辞めた後は、ショーでもやっていた方がいいとEXPOのプロジェクトなんかもやりました。ちょうどそのころ、一九七〇年の万国博覧会を睨んで、という時期になってきて。あれは五、六年前から準備していたと思いますけど。一つのパビリオンに百台のプロジェクターを持ち込んで映像ショーをやるとか。そういうことをするにもまだ日本には機材がなくて、いちいち大沢商会を経由してコダックから輸入するわけです。で、一年かけて万博が終わった後には、千台とか二千台という数のプロジェクターが会場へ捨てられていた。東京に持ってきてもどうしようもない。始める前から、そうやって機械を輸入して、あれやこれやと映像の種をつくってショーをやり、お客さんもワンワン来たけど、そこも終わったらゴミ捨て場ですよね。それははかないものでした。
 そうこうしているうちに、EXPOなんかとダブってやってきたのがファッションの時代です。日本デザイン協会だとかっていう団体のショー、それから、東レとか帝人といったメーカーのショーは予算規模も大きくて、つくっていても面白かったですね。日本では手本のない仕事でもあって。当時、ニューヨークに世界でいちばん大きいミリアン・ブラックファースト・ファッションショウというショーがあって、それは、ウォルドルフ・アストリア・ホテルのボールルームで、朝飯を食べさせて、八時にショーをスタートして九時までやるというのを一カ月間続けるものでした。その一時間の間にブロードウェイの踊り子たちがだいたい百人くらい出てきて、そのシーズンのファッションを全部見せちゃうわけです。そんなのを向こうで観てきて、自分たちのアイデアのとっかかりにしたりしました。一九八〇年の帝劇と大阪のフェスティバルホールの両方でやったカネボウのショーは、当時「一億円のショー」と言われていましたね。それだけの予算を掛けてやるファッションショーは、当時でも珍しかった。そんなふうに、ディオール、クレージュ、それからジバンシィ、そういうパリのブランドもの、それから日本のブランドも、いろんなプロモーションにかかわりました。化粧品なんかも、カネボウ、マックスファクター、ポーラ、あらかた演出しました。僕はファッションショーだけで二千本演出したんです。
日比野 そうなんですね。
星野 でもそれもやっぱり、半年経てば捨てられる話でしょう。春夏と秋冬のコレクションでもっともらしい理屈も立てますけど、半年すればまたニューモードを出さなきゃいけないから「あれは嘘だった」となる。これもやっぱりバカバカしくてね、ちょうど二千本までやってやめました。
 その後はこの長野の田舎に移ってきたんですが、今度は土地に伝わる「青獅子」という話をオペラにしてほしいという話が持ち上がって(オペラ『青獅子』、一九九一年三月)。でも、そのころはまだオーケストラを使うなんて、高くてどうしようもないわけです。一日でも六百万、七百万と出ていっちゃうからあっという間に予算がなくなる。じゃあ、打ち込みでやってみようじゃないかというので、石井歓さんに曲を書いてもらって、それを全部打ち込みにしてトラックダウンしたのを、長野と、東京の人見記念講堂でやりました。
 それはそれで面白かったんですが、打ち込みのテンポや間合いに合わせて歌手がブレスをするところも決まっちゃうわけでしょう。残念ながらそれに日本の歌手は対応できない。歌手の生理が合わない。初日はまだ緊張していますから、なんとか対応できても、二日目、三日目になるとダメなんですよね。音量もないし。そもそも、オペラ歌手といったって、日本じゃみんな教えることで食べていて、ヨーロッパのオペラシンガーとは天と地ほどの差がある。結局アマチュア音楽会ですよ。
 それでも新国立劇場ができるということになって、浅利[慶太]も一年も二年も毎日文科省に通っていたけどね。彼は芸術監督になりたかったけど、芥川[也寸志]や團伊玖磨、黛敏郎などクラシック派の猛反対にあって外れちゃった。結局、「[劇団四季の上演するような]ミュージカルは商業演劇だから、金儲けは外でやれ」というようなことでね。立派な劇場ができあがったけど、あれもやっぱり文科省や二期会なり藤原なりの座ができちゃいますから、われわれが入る余地なんてもうないわけです。民間がやりたいと思ってもやれない。
 いちど、池辺晋一郎さんの音楽で『おしち』という八百屋おしちの話をやった時に、ぜひ新国立劇場でも、ということで上演したことがありますけどね[一九九八年八月]。なぜ、『おしち』だったかというと、長野の善光寺にはお七地蔵というのがあるんです。相手の吉三郎が、全国を周って、お七を供養して歩いたときにつくったと伝えられている。日本の地方で何かやるというと、やっぱりその地に結びついていないと、なかなか話を進めにくいんですね。
日比野 その後は『池田満寿夫に捧ぐ』[二〇〇九年十一月、軽井沢大賀ホール]という作品を手がけておられます。増山江威子さんが出ていますが、増山さんとは山王時代からのお知り合いだった?
星野 これは、かるいざわ朗読座というのを立ち上げてやりました。増山江威子とは山王の前からの知り合いです。三越劇場でやっている新児童劇団というのがありまして。われわれキューピットは後から乗り込んでいったんですが、東童、新児童、つみき座という古株でいたんです。『ピノキオ』だとかの無難な童話劇をやる。彼女はそのスターだったんです。増山江威子というのは私が名付け親でね。本名は政田知子というんですが、本名の知子というのが嫌だから名前をつけてよ、というので、西荻窪の専門家と相談して(笑)、江威子という名前をつけました。その頃にはもうテレビの時代が来ていたけど、映像の正面に出るような柄ではないから声でまっとうしたい、というのが当時彼女の願いでした。そうしたら見事にこの名前があたったんですよ。それで、その後も何人か名前をつけました。歌い手の眞理ヨシコに、彼女も本名は佐藤美子。当時のクラシックの世界は、藤原歌劇団、長門美保歌劇団、それから佐藤美子歌劇団というのがあって、それと同じ名前じゃ具合が悪いというのでね。まぁ、そんなふうに名前を付けたり、いろいろな人に縁がありました。

戦争体験、記憶に残る俳優の姿

鈴木 少し話を巻き戻してお伺いしたいんですが、子供のころに浅草で劇場に通われていて、その体験からどのように演劇を志されたんでしょうか。
星野 それこそ浅草で歌舞伎を観たり、レビューを観たりしていますと、全部様式が違うわけですね。その違い、劇場の違いと表現との関係というものに関心を持って、演出を勉強したいと思ったんです。
神山 戦争中、疎開はなさいましたか。
星野 しました。[一九四五年]三月十日の東京大空襲の様子を防空壕から一人眺めて、水が止まり、電気が止まり、「ああ、ここでは暮らせない」と仙台へ行きました。中学二年生です。父親は中島飛行機[戦前最大の航空機メーカー]に勤めていて、会社の疎開先へ行っていたし、母は東北の安倍の一族だったので、そこへ先に引っ越していた。僕は学校があるから東京にいたんです。ところが今度は疎開先の仙台でも爆撃に遭うんです[仙台空襲・七月十日]。その時通っていた仙台二中は、青葉城の中にあるから、いちはやく焼け跡整理に駆り出されました。馬が一頭、そのまま黒焦げになって、黄色い腸がぴゅーっと飛び出していたり。焦げた柱にうっかり足をかけるとズブズブっと灰の中へ沈んだり。水洗なんて時代じゃないから、ぼっとんに落ちる奴も、五十人の生徒のうちの五、六人はいた。しょうがないから水道管が壊れてジャージャー出ているところへ行って洗うんです。水道管がなければ広瀬川まで連れていって。そこで半年くらい過ごしたところで、「早く東京に帰らなきゃ」と東北本線の三等車の荷物を載せるネットへ乗って戻ってきました。仙台ではまだ、進駐軍が来たら竹槍を持って戦うなんて真面目な顔して訓練してました。「ばかなことを」と思って、とにかくしゃにむに東京へ向かった。
神山 先生は本郷の誠之小学校ですか。
星野 そうです。じいさんばあさんの下で育てられました。塀の外にチンドン屋が来て、その幟が曲に合わせて上がったり下がったりする様子、たまにチラシがまかれて、ピラピラと舞い込んでくる。それをぼーっと眺めたりして育ちました。夜はチャルメラが聞こえて。たまに鋭い呼子がピーピーなって、東大の左翼学生がバタバタ駆け込んできて、それを押入れに匿ったこともあります。
神山 そのころ歌舞伎をご覧になっていたということは、昔の羽左衛門は覚えていらっしゃいますか。
星野 覚えています。それから先々代の市川團十郎。海老様。端正できれいな役者でした。
神山 新派はあまりお好きじゃなかったですか。
星野 新派は花街の芝居だから、結局花街を体験しないとわかりませんよね。それにはまだ早かったんですね。
神山 民藝のようなリアリズムの芝居はいかがでしょう。
星野 観てはいましたけどね。
神山 周りはそれ一辺倒でしょう。
星野 そうです。でも僕は、杉村春子なんかの芝居でも気に食わないのがずいぶんあって。杉村さんの『欲望という名の電車』なんて、あんな貧乏ったらしい娼婦がいるのか、と思っちゃう。そういうこというと、長山藍子が「なんてこというの」って怒るんだけど。「だって、世界の娼婦にはもっと美人がそろってるぞ」と乱暴なことを言ったりしたものです。
神山 確かにそういうところはありますね。三島由紀夫の『鹿鳴館』にしても、杉村は新橋の一流芸者には見えない。
星野 いまだに印象に残っているのは赤坂見附の弁慶橋で先代の水谷八重子さんが雪の降る日に蛇の目をさしてとぼとぼと帰っていく姿。あれを見て、ああ、新派の役者ってこういうものだ、と思いましたね。今の代の[水谷]良重さんになってからは……彼女はむしろ、背中を出してジャズをやっている時がいちばん魅力的でしたから。

銀座で気楽に楽しむ芝居を

日比野 一九五七年ごろ、テアトル・デザールというのを先生とおやりになっていた、渋沢均さんというのはどういう方ですか。
星野 この人は渋沢栄一さんの孫です。田園調布の渋沢邸にいましてね。なんだか非常にひょうひょうとした人でした。それで、TBSのテレビが始まったときに、そこへ引っ張られたんですが、本人はやっぱり田園調布のお坊ちゃんですし、テレビで全うしようという気はないわけです。それでとにかく、「俺は脚本を書けるんだから」と盛んにアピールする。それで何本か書いてもらいましてね、『失われた星屑』は[渋谷にかつてあった]東急文化会館屋上の五島プラネタリウムで[一九五七年六月に]上演しました。
日比野 そうでしたか。
星野 テアトル・デザールは、キューピットの後で始めたんですが、当時の新劇というのは、非常に窮屈だったんですね。もう、築地時代からの考え方でかちっと固まっちゃっていましたから。でも、パリに行けばブールバール演劇という非常に気楽なものがあって、劇場も四畳半みたいな小さいのからでっかいのまで百はある。イヨネスコあたりの実験演劇もそういうところから出てくる。だからわれわれももっと自由にやろうじゃないか、というので、並木通りの六丁目の角にあった、ジュリアン・ソレルという戦後初めての下着屋さんの裏にカウンターバーみたいなのがあって、並木通りからシースルーになっていた。そこが銀座の粋がった若者たちのたまり場になっていたんです。その上にナイトクラブ、ステージがあって、三百人くらいは入る場所でそこを舞台にして、シュニッツラーの『ラ・ロンド』等をやりました。モリエールなんかですと、やっぱり俳優座が頑張っていたりしますから。フランス演劇でもちょっと気楽な、ノエル・カワードの小さいものを取り上げた。でも、生意気盛りでしたから、新聞記者が「見せろよ」なんて言っても、席が少ないし、招待なんて出せるかと言ったりして。まぁ、若気の至りの道楽です。ただ、水森亜土がハワイから帰って、初めて舞台に出して、と言ってきたのも、そのテアトル・デザールでしたし。亜土が左ギッチョで絵を描きながら、「どうよ」って。パリで人気のあったSINEの絵を見せたりして……。結局彼女は絵で食うようになりましたね。それからさっきも名前が出た長山藍子。小学校の四年生か五年生だったかな。ちょっと面白いキャラクターだったので、子役として使ったり。育ちがおっとりしているからか、ほかの女優さんとは違って、今でもひょうひょうと現れる感じがありますね。
日比野 先生のご経歴を拝見していると、テアトル・エコーの熊倉一雄さんとも近いところにいらっしゃったのではないかと思うんです。熊倉さんは、日劇で写譜をしていて、帝劇でも働いたところがあり、その後は喜劇を手がけている。でも、今日のお話にはまだ登場されていないですね。
星野 テアトロ・ピッコロの時代かな。荻窪に北沢彪という俳優がいて、彼が演劇を語る講座のようなものを主宰していたんです。それがやまびこ座になり、エコーにつながっていくんですけど、僕もそこへたまに行っていたんです。だから熊さんだとか、牟田悌三さんにも、そこで会っています。また、戦後はじめて影絵劇を始めた藤城清治とも会い、脚本を書いたこともあります。日本のミュージカルシリーズの脚本を書いた吉永淳一さんも熊倉さんと親しかったし、吉永さんの慶応の同輩には山下毅雄もいて、そこから越部信義さんとも知り合ってという流れもありました。
日比野 お仕事をされたことはあまりないんですね。
星野 何回か朗読の舞台でやってもらったりはしましたけどね。熊倉さんは渋谷の宮益坂に住んでいて、渋谷へ行くたびに「おい、熊さんを呼び出そう」なんて言ってました。

朱里みさを、贅沢な振付の妙とは−−

日比野 商業演劇と芸術表現の間という意味では、やっぱり朱里みさをさんのことも伺いたいと思うんです。
星野 朱里さんは、日劇で『ウェスト・サイド物語』の断片をレビューの一景として上演するというので観に行ったんですよ。当時はあの振付はとてもダイナミックで新鮮でしたね。それで朱里さんにあって、話を聞いたら恋人で宮城まり子の弟の作曲家に宮城秀雄というのがいて、彼に連れられてニューヨークへ行って観たのが『ウェスト・サイド物語』だったと。で、それをやりたいんだけど、場所がない。それで日劇の山本紫朗さんに相談したらと「一景やるから」と言われたそうです。あれは直輸入のもので、決して朱里さんのオリジナルのものではなかったけれど、朱里さんの振付に対する感性、そういうものを追っかける姿勢はすごく面白かったですね。その後、ラスベガスで、連獅子のショーをやったり。ダルマの衣装で髪だけが長いんですよ。それでウワーッと頭を回すとヤンキーが喜ぶんです。そういうショーをいくつかやっていましたね。当時、日本の振付師でラスベガスの舞台にちゃんと立っているのは朱里さんしかいなかった。もちろん、うんとたどればタップの中川三郎さんもいたけど。中川さんもニューヨークやラスベガスで舞台に立って、日本に帰ってきたけど、彼のタップを生かしてくれるところがなくて。死ぬ間際、二、三年前に、タップの映画をつくりたいと呼ばれたことがありましたが、もうその当時の中川さんの資力ではとても映画をつくれるわけもなくて、僕は降りたんですけど。思いだけでつくっても、ろくなものにはなりませんからね。そうやって、かつていろいろと活躍してきた人が志を得ないままになってしまって……。
日比野 そうですね。
星野 朱里さんにしても、何本かミュージカルをやったけど、宝塚に振付をしていたから、そのスターの何人かが切符を売ることを支えてくれたところはある。それから民音のネットワークで興行を打ったのは大きかったですね。初めのうちはキョードー東京の内野二朗さんが可愛がっていて、山王のラテン・クォーターでプライベートショーをやらせていたこともあります。ファイブキャラクターズなんて、若い男の子を五人集めて。僕も朱里さんからはいろんな相談を持ちかけられて、演出もしました。帝劇時代に毎晩のようにプロットを書いていましたからね、ショーのアイデアの手持ちはたくさんありましたし。面白い人でしたよ。進取の気性に富んでいましたし。ただ、『ウェスト・サイド物語』に感動した時点で、思考停止におちいってしまうところがあるし。そもそも日本の振付師って貧乏でしょう。向こうみたいに金持ちはいないから、やっぱりアイデアが出てこない。今はだいぶ豊かになったから星野源の「恋ダンス」みたいなものも出てくるけど、当時は、あんなシンプルな振付じゃあ食えないんです。クラブでも劇場でも、みんな精一杯踊る。で、振付も精一杯振り付けるから面白くない。ゆとりがないんですよね。振付の手って、十持ってたら三つくらい使えばいいんです。向こうのミュージカルでも当たっているものは、それほど手が多くない。
日比野 なるほど。
星野 SKDの仕事でも、みんなそれぞれに面白い振付師がいましたが、やっぱり何千人といれなきゃいけない、あの豪華な国際劇場という入れ物が悲劇でしたね。あんなに大きいと続かないですよ。あいまいなレビューになっちゃう。もっとアンチームな小屋じゃないと。ジァン・ジァンまではいかないくらいの中劇場をベースにしていたら、SKDはまだ続いていたと思う。今も、スタスレビューなんかをやっているOGたちがいますけど、もちろん、教え子だし、かわいいから観に行くんだけど、全盛期を知っているとやはり悲しいですね。踊り子たちが熱心でも、やっぱり振付に人を得ないと魅力的なものにはならないし。芝居は脚本がすべてというのと同じで、レビューに関してはやっぱり振付がすべてなんだと思います。それと、パリのクラブ、といっても僕が行ったころは、リドとムーランしかありませんでしたが、どちらも一年単位で仕込みも興行も考えるんですよね。でもそのころの日本の劇場は、どこでも一週間単位でしょう。一週間の仕込みと一年の仕込みでは、やっぱりその結果は百倍違ってくるんですね。

SKDの挑戦と限界

日比野 一九七〇年代の半ばからは、SKDの演出もされています。渋谷のジァン・ジァンでの公演というのは、どういう経緯で始まったんですか。
星野 SKDのレビューを手伝っている時に、ドラマ・グループというのを指導してくれと頼まれたんです。SKDでは当時、ミュージカルをやりたくて仕方がなかったんだけど、彼女たちは芝居ができないんです。宝塚風の芝居では困るので演技指導をしてくれ、と言われて、僕が毎週指導していました。でも、稽古ばっかりで何かやらせないと腐っちゃうから、手近で、ちょっと狭いけどジァン・ジァンでやるように、僕の方から持ち込んで話をつけたんです。
神山 確かにSKDはせりふを言えないんですが、春日宏美や藤川洋子のようなスターもそうでしたか。
星野 ある程度は言えます。今でも春日宏美は詩の朗読をしています。でも、写実ということに関しては、若い子の方がずっと鋭敏な感性を持っています。スターになっちゃうとリアリティというもののとらえどころが違っちゃう。僕はヅカのスターたちともずいぶんつきあったけど、いくらやっても燕尾服になっちゃうところがある。本人にも燕尾服を着ないとファンに受け入れられないという強迫観念がある。眞帆志ぶきなんかも器用なんだけど、どっかで燕尾服病があるんだ。だから彼女のコンサートは、種田山頭火だとか、あえて日本の題材を選んでやった。でもまぁ、それも五、六回までで。「その先までやろう」という火が着かないですね。
神山 ジァン・ジァンでは、最初にイヨネスコをとりあげています[『女だけのイヨネスコ』一九七五年九月。なお、その前年七四年九月すでに、SKDドラマ・グループ第二回試演として『イヨネスコ風なバラエティー 十一人囃子』を六本木スタジオ・ソフィアで上演]。これは先生が演目を考えられたんですよね。
星野 結局ね、歌劇団のボスたちは、イヨネスコも、カモレッティも、フランスの現代演劇のことなんて全然知らないから、「ふーん」というだけで、あとは「どうぞ、いつですか」という感じなんですよ。四季がやっていたフランス演劇だって、ジロドゥとアヌイで止まっていて、その先はやっていないから、みんな知らない。そういう意味では、僕は好きなことをやらせてもらってました。
神山 SKDの演出に入られたのは、永山武臣さんからのお話ですか。
星野 いえ、永山さんはもう、専務でしたから。歌劇団の事業部に団長の六車進さん、制作の武藤哲さん、大沢健造さんがいらして。この方たちが、「[一九七七年十月に公開され、大ヒットした松竹映画の同名の主題歌である「幸福の]黄色いハンカチ」が登場するレビューで半年もやって[『秋のおどり』一九七七年十月、国際劇場]、お客は入るけど映画が主役では?、ということで、僕のところへ現れた。で、別にSKDには興味がなかったんだけど、ドジョウやフグを食べさせてくれるならと言って引き受けたんです。稽古が終わると、飯田屋かどこか、必ずドジョウに連れていってくれる。歌劇の子は、宝塚ほどお嬢さんじゃないけど、みんな純情でね。それなりに楽しかったし、いまだに交流も続いています。
神山 ジァン・ジァンでの実験的なものとは別に、一九八一年三月の『新竹取物語 1000年女王』のような、国際[劇場]での、ビッグスケールな作品も手がけていらっしゃいますよね。
星野 それで突っ走っていければ、SKDももう少しはなんとかなったかもしれない。でも、『1000年女王』にしても[漫画原作で]興行的な部分を考えるでしょう。その前に『沈清伝・美しき水蓮の物語』[一九七六年二月・国際劇場]も演出しましたが、あれだって、韓国ものをやれば、『朝鮮日報』以下の在日メディアが大宣伝してくれて、お客さんが入るわけです。
 僕は最後、国際が閉まるまでかかわっていたけど、本社に公演企画を出して、それを重役会議で説明する会というのがあったんです。道具を描いてもらって、それをパネルにして、「こうこうこういうレビューをやりたい。この場面はラテンで、振付はなんとか先生でありまして……」とやるわけ。そうすると、本社の重役さんたちから「どうしてハワイアンは入らないかね」とか「ラインダンスはどこかね」とか、非常に単純明快で唐突な質問が来る。僕も一度出席したことがありますが、バカバカしくて。二度と行きませんからと宣言したんですけどね。だからやっぱり松竹という会社の体質が、レビューを上演し続けるようにはなっていなかったと思います。
日比野 現場の方では、先生のような外部の血を入れてもなんとか生き残りを図ろうとする人たちがいるけれど、上の方は変わっていないということですか。
星野 変わってない。歌舞伎をやるのだって、襲名興行と追善興行がいちばん安全なわけでしょう。重役に説明するのにもわかりやすい。新作はというと、メディアにひきずられてテレビや漫画の作家に書かせたりしているから、変なことになっていますね。
神山 ただ、国際ですと、団体を入れないともたないですから。団体客が求めるものといえば、やっぱり、本水と屋台崩しと、ラインダンス。だからレビューは「春夏秋冬」の「おどり」でないと。
星野 どうしてもそうなんです。だから、『1000年女王』も『東京踊り』との二本立てなんですよ。僕としては、やってられない気もしたんですけど。
日比野 SKDでは先ほどもお名前の出た、越部信義さんとお仕事されています。どんな方でしたか。
星野 中村八大さんあたりから始まって、宮川泰さんや山下毅雄さん、いろんな音楽家と仕事をしてきましたけど、越部さんはいちばんやわらかいというか、人間的に優しかったですね。だからスタッフも疲れない。もう、やたら搔き回す芸術家もいるでしょう。自分でつくっておきながら、ずっと後までぐちゃぐちゃ言ってくるような。僕なんかは劇団に所属しないでフリーでやってきたから、疲れる作家や美術家は、嫌なんです(笑)。
神山 たとえば越路さんの旦那さんの内藤法美さんはどうでしたか。
星野 いや、紳士でしたよ。東京キューバンボーイズで長年ピアノを弾いていて、ラテンナンバーのアレンジはよかったし、性格が優しいから。だって越路吹雪は、ブンチャッチャ、ブンチャッチャ、ハイ!じゃないと歌えないんですよ。本当はダーっと音を鳴らして「さぁ、歌え」という方がかっこいいわけだけど、内藤さんは素直だから、越路さんの言う通りのアレンジしかしない。だから、越路さんの歌のアレンジは面白くなかったんですね。当時は前田憲男とか半間巌一なんていう人たちがいて、彼らは自分のやりたいことを最初の八小節でバーッとやっちゃう。イントロだったり、間奏だったり、コーダだったり、そういうところで存分に個性を発揮していた。でも内藤さんは優しいから。キューバンボーイズと越路さんの編曲ばかりで、自分もいつか作曲をやりたいともんもんとしていたんだろうけど、だからこそ『誰もいない海』では、生き生きと書いてくれました。内藤さんの曲では、あれ以外に残っているものはないでしょう。
日比野 ほかにお付き合いのあった方で印象に残っている方はいますか。
星野 宮川泰さんは忙しいけど懸命にやってくれましたね。それから日劇の音をやっていた広瀬健治郎さんと半間巌一さん。半間さんはエネルギッシュでした。NHKの『紅白歌合戦』ではほとんどの曲を半間さんがアレンジしていた時代もあります。寺山修司の『さよならの瓶詰め』より前の一九五九年にもご一緒しています。オスカー・ハマースタインから、名前をとって、半間厳一という名前にしたそうです。でも晩年は頑固になっちゃいまして。メディアオペラをやろうかって話があったんですが、そういう作品だと、この八小節を書いたら、あと十六小節でまとめなきゃならないみたいな制約があるわけです。でも、半間さんとしては「それじゃあ書けない、書けない」となっちゃったんですよね。

リアリティーと様式の間で

星野 なんかこう、もちろん新劇みたいに、ある志でまとまって歩んでいくというのがいちばんいいことではあるけれど、劇団史というものを見ていくと、僕らの仲間から出た唐十郎にしても、佐藤信にしても、見ていると、一将功成って万骨枯るというようなところがありますね。僕の仲間にしても、三十代くらいでハッと気がついて転身を図ろうとするんだけど、なかなかうまくいかなかったり。先日亡くなった日下武史にしても何度か四季を辞めたいと相談にきました。安倍寧なんかも、一九五〇年から親しかったけど、彼にしても結局、浅利のために四季のミュージカルの買い付けをすることで、評論活動をできなかった面がある。また、わざわざニューヨークまで行って買えなかったら困りますから、高い値をつけるんです。それで日本が払うロイヤリティーが一気に高くなった。『TOUCH』の交渉をしている時、向こうのプロデューサーに「日本は馬鹿だね」と言われましたよ。「何が」と聞くと、「東宝がやりたいというからローヤリティは四パーセントでいいかと思っていたら、横から入ってきて十パーセント出すという。日本人同士で釣り上げてどうするんだ」と。向こうではバーンスタインの一族なんかがいろいろなミュージカルの権利を持っていて。日本の情報もどんどん共有されているわけです。あれは困りました。今思えば、そういう権利ビジネスだって商売のネタがなくてやっていたんでしょう。結局、ブロードウェイはほとんど、ディズニーに食われてしまった。ディズニーは、映画になる、人形になる、Tシャツになるっていうところまでリサーチして、「これなら儲かる」と確信してからやりますから。「いつかはブロードウェイに」なんて夢みる若者も、今はもういないでしょう。
日比野 そうなんですね。
星野 そうこうしているうちに、ショーはブロードウェイよりラスベガスだということになり、ところがそのラスベガスも今や全部シルク・ドゥ・ソレイユに埋め尽くされた。カナダでサーカスの稽古をしてこなければ、ラスベガスの舞台には立てないわけです。日本人でたまたま、そういうものに出ている人もいるけど、結局オリンピックで体操をやったとか、体にものを言わせているだけで、思想も何もないでしょう。劇場の形も変わって、飯を食べながら見るショーはもうほとんどないです。だから時代は大きく変わったなと思いますね。でも、だからこそ、僕は面白いときに舞台にかかわったなとも感じます。今、ディズニーの下請けみたいなことをしても一向に羨ましくないし(笑)。いろいろと、散らかしながらやってきたけれど、僕が興味を持つのは、今も、木下順二から得た日本の風土に生きた世界。大勢で騒ぐのも嫌になって、今は写真を専門にして、来年(二〇一八)パリで個展をするんです。これもお決まりではあるけど、イースト・ミーツ・ウェストということで、日本とフランスで撮ったものを半分ずつみせる構成で、今、撮影で国内を飛び回っています。
日比野 フリーのテレビディレクターをされていた時代だと思いますが、先生がほかの二人のディレクターの方と鼎談をされている記事が読売新聞にあります。その中で先生は「テレビでは、ドラマを掘り下げることが必要だ」というお話をされています。また、劇団山王のプログラムの中でも、「表面的な演技しかできないのでは困る」というようなことを書かれているんです。芸能界に近い場所、商業演劇でずっと仕事をされながら、やはり、リアリズムというもの、それを掘り下げることが先生の一貫したテーマではなかったかと、大変興味深く読みました。
星野 それはあったと思います。ただ、掘り下げていくと言っても、「くそリアリズム」は嫌いでね。といって様式だけがあればいいというのでも困る。リアリズムをいかに様式化して見せるか。リアリズムに様式を加えていくことで個性的な作品ができるという考えでした。だから、安部公房とつくった『お気に召すまま』というドラマ・シリーズ(一九六二)にしても、単純な人は「おしゃれだね」と言う。表面的にはそうなんですけど、実は、そんなところにつくる目的はなかった。ここ数年写真をやっていますが、それも同じことなんです。今や、写真におけるリアリティというのは携帯、スマホでパチパチやるというものでしょう。だから、従来のレンズを通した映像ではもう満足しない。ということで、印象派風の、詩的な写真をつくっているんです。それが、パリでも受けて。要するにリアリティをいかに様式化するか。そこが自分の仕事だと思っています。