基本データ

二〇二〇年十二月八日
取材場所:新百合トウェンティワンホール会議室
取材者:日比野啓、川口典成、鈴木理映子
編集・構成:鈴木理映子

イントロダクション

 ふじたあさやは不思議な人だ。早稲田大学在学中に福田善之との共作『富士山麓』でその名を知られるようになるが、プロの劇作家としてすぐに活躍するのではなく、ラジオ・テレビの放送作家としての活動が長く続いた。福田善之同様、啓蒙主義や表層的なリアリズム演技が幅を利かせていた当時の主流派新劇団をはなから相手にしない、という矜持を保つ一方で、ほぼ同時期に新劇を批判したアングラ演劇からは距離を置いた。ブレヒト、ドキュドラマ、狂言、児童劇、ミュージカル、地域市民演劇、一人芝居と、そのときどきで既存の演劇の制度を大きく揺り動かす動向に敏感に反応しながら、特定の傾向やジャンルに偏することなく、請われるままに百本近くの戯曲を書き続けてきた。三十人会では秋浜悟史とともに中心的な役割を果たすものの、それ以外では特定の劇団との関わりは薄かった。ふじたが作品を提供した仮面劇場、ぶどうの会、文化座、前進座、青年劇場などは、それぞれ演劇史において重要な意義を持ってはいるけれど、どちらかといえば傍流で、三十人会も含めて演劇史の大きな流れを作ることには与さなかった。横浜事件で検挙された中央公論元編集長の藤田親昌を父に持ち、体制や社会批判をどの作品の根底に据えながらも、共産党に対しては一定の距離を置き、政治活動に打ち込むことはほとんどなかった。
 二〇二三年現在、八十九歳になるふじたのキャリアの長さ、執筆戯曲数や演出を手がけた本数、それにふじたをよく知る人がよせる敬慕の情にふさわしいだけの、世間的な意味での名声がふじたには欠けていると、もしいえるならば、それはおそらく、このようなふじたの「わかりにくさ」、つまりふじたあさやとはこれこれこういう人なのだ、というレッテルを貼りにくいことから来ているのだろう。ふじたは良くも悪くも「自然体」の人であり、演劇界であるポジションを占めて、そこから長いこと動かずにいることで何かしらの尊敬と権威を勝ちとる、というタイプの人ではない。
 これまでふじたの舞台や著作に接してきて、そこまでのことはわかっていた。だが今回ふじた氏に直接お話を伺って、そのような姿勢の根底にはリアルとはなにかという生涯をかけて追求してきた主題があることをはじめて知った。若い時期にスタニスラフスキー・システムの洗礼を受けた人間は、やがて日本のスタニスラフスキー理解が不十分であると考え、「ほんとうの」スタニスラフスキーを探し求めるようになる。ふじたが下村正夫や八田元夫を特別の敬意を込めて語るのもそのためだ。当時の下村や八田によるスタニスラフスキー理解が、現在の研究水準に照らしてどの程度有効と言えるのかは措くとして、実践の場でスタニスラフスキーの名前すらめったに出てこなくなった昨今、ふじたのこだわりは私たちがいかに過去から学ばなくなったかをあらためて思い知らせてくれる。いかに振れ幅が広いように見えても、ふじたの「中心」ははじめからブレていなかった。今回の聞き書きでもっとも驚きを覚え、感銘を受けたのはそのことだ。
 そしてそれは同時にふじたのある種の頑なさについての理解にもつながった。文化座の鈴木光枝について、「新劇的素養はない」けれど「舞台へ出て自分の声の返りを聞いた瞬間にその日の演じ方が決まる」という評価をし、「演劇は役者のもの」と躊躇いもなく言い切るふじたが、「現場」感覚を重視していることは間違いがない。だが同様に「現場」感覚を大切にする劇作家であり演出家である福田善之と違い、往々にして現場の論理だけで上演が――あるいはドラマが――組み立てられてしまいがちな大衆演劇や商業演劇の世界にふじたは足を踏み入れることがない。才気と活力に恵まれながら、ある一線だけは越えようとしないふじたの態度こそが、これだけ長い活動歴につながったのではないか、聞き書きを終えてそんなことを考えた。(日比野啓)

子ども時代の演劇体験

日比野 ふじたさんは東京の、下谷区(現・台東区)池之端のご出身ですが、どのようにして演劇に親しまれるようになったんでしょうか。

ふじた 有楽座で『ピノキオ』を見た記憶がありますね。今にして思えば、のちに原爆で死んだ園井恵子の宝塚最後の舞台だったんですけど。……それから軍人会館、のちの九段会館で俵藤太の『百足退治』。これはどこの劇団か記憶がはっきりしないんですけど。うちの母親の養母、おばあちゃんがわりとそういうのが好きで、連れ歩くのも好きでしたから。それで、学芸会でオーディションがあると、ぱっと選ばれちゃうわけですよ、主役に。「なんでお前はそういうことができるんだ」と言うから、「こういうものを見てる」というと、「さすがだな」みたいなことは言われました。
 子供時代で記憶に残っているのは、国民学校の四年生くらいまでの佐藤先生です。僕はおしゃべりでうるさい子供だったんです。その先生に足をもたれて窓の外へ吊るされるみたいなことまであって。それくらい手に負えないおしゃべりだった。それをどう思われたのか、ある時「俺、忙しいからお前、みんなにおしゃべりしてやれ」と言われて、父親とハイキングか何かに行った話を授業時間いっぱい、延々としゃべった。そしたらいつの間にか教室に帰ってきて聞いていた先生がそれを評価してくれたんですよ。それからは先生が忙しくなるたびに「ふじた、お前がやれ」と。「ふじたのお話」という時間ができちゃったんです(笑)。それが、考えてみるといちばんいい経験だったと思うんです。どう話を組み立ててみんなを笑わせながら話をつないでいくかみたいなことを、小学校三、四年で経験しちゃったわけですから。

日比野 なるほど。その後は麻布中学に進み、演劇部にお入りになりますけど、その素地といいますか、演劇をやりたいなと思ったきっかけはどういうものだったんですか。

ふじた だから、その宝塚か何かを見せられたのがきっかけで、学芸会でやったことで、若干味をしめたということはあると思うんですけれども。戦争中ですから、学芸会みたいな機会はどんどんなくなっていくんです。それから学校が空襲で焼かれると、分散授業をするようになります。小学校六年の時ですけど、全学年一緒ですから、もう、先生もコントロールしきれなくなって、自習の時間が結構増えるんです。で、いつの間にか脚本を書いてクラスで芝居を作るようになっていましたね。それで、中学に入った時にはすんなり、演劇部の募集に応じちゃったんですけれど、その募集を担当していたのがフランキー堺さんです。戦後、最初の新入生相手に、すごく面白そうに「これからは演劇だ」みたいなことをかっこよくしゃべったんですよ。「あぁ、やっぱりそうなんだ」と思ってですね、演劇部の部屋へ行ったらフランキーさんはいないんですよ。「あのアゴの長い人はどうしたんですか」と言ったら「あの人はもう慶応にいっちゃったよ」と。当時は「四修(ヨンシュウ)」という制度があったんですよ。優秀なやつは中学五年までいかないで、四年で卒業できちゃう。フランキーさん優秀だったらしくて。で、取り残されて五年までいたのが小沢昭一さんと加藤武さんと大西信行さん。そんな連中です。で、僕は彼らに、いわば、かわいがられました。
 ただ僕としては、その前の、小学校時代の疎開の経験が大きかったですね。昭和十九年(一九四四)。学校ごと集団疎開するという話になって。個人で行くところがあったら行ってもいいよということだったので、僕は叔母にくっついて伊豆へ疎開したんです。そうしたら、たちまち体を壊しまして、戻ることになりました。何しろあっちじゃ靴を履いているのは僕だけ。だからたちまちその靴はどぶへ投げ込まれる。顕微鏡なんてものも持っていましたけど、これも壊されました。その上、先生が指名すればチャッチャと答えるし、「絶対あいつはいじめてやろう」と、標的になったわけです。特に当時は全国的に男手がないですから。小学生は田んぼやなにかに駆り出されるんです。ちょうど麦刈りの時期でしたが、僕は何もできない。抜群の成績のやつがなにもできないんですから、それはいじめられるのが当たり前でした。と、同時に、自分の価値観もそこで揺らいだわけです。五年生の一学期の半分くらいを過ごして東京に戻ったら、集団疎開で学校がないわけ。だからやることもなくて、近くの保育園に行ったら、そこも人手がないので「いいところへ来た、手伝って」なんて[保母の]お姉さんたちに言われて。それで、読み聞かせをする要員になったんです。ですからもう、そのころから、演劇をやっていたんです。

日比野 東京にお帰りになったというのは池之端ですね。

ふじた そうです。そこで三月十日の東京大空襲を経験しています。それまでの数カ月間、町工場で働いたりもしていました。

日比野 ただ、こういってはなんですが、池之端はそれほどの高級住宅地でもなかったと思います。それでも伊豆へいけば、階級差があったということですか。

ふじた 目の前が本郷区(現・文京区)で、こちらは下谷区です。その境目にいまして、隣がせんべい屋でした。路地に入れば下町の賑わいがあり、前の崖をのぼると東大病院があって、ひっそりした環境で。それで学校も、越境入学で、本郷の福山藩の藩校誠之館由来の誠之小学校という、一応名門の学校へ通っていたんです。

日比野 お父様は、中央公論の編集者でいらして、いわゆるインテリのご家庭だった。

ふじた まぁ一応ね。

日比野 十六歳の時に、ゲーテの『ライネケきつね』を脚色されていますが、岩波少年文庫のような児童書はおうちにありましたか。

ふじた なかったですね。子供の本なんて、まだ市場を形成していなかったころの話です。親父のつとめの関係で、中央公論が出した子供のものはそろっていましたが。久保田万太郎の児童劇集とか、鈴木三重吉の『古事記物語』とか。ですから『ライネケきつね』は戦後になってからです。戦後、劇団東童が『ライネケ』をやったのを観たんですが、原作にあたってみたら「なんだ、最後は書き換えているじゃないか」と、気に入らなかったんです。それでラストシーンが二通りあるというアイデアを思いついたんです。

日比野 子供時代、おばあさまに連れられて行ったものには歌舞伎は入っていましたか。

藤田 歌舞伎は観ていないですね。歌舞伎は自分で選んで、戦後すぐから観ていました。ですから、先々代の三津五郎の晩年のすごい洒脱な踊りから、前の尾上菊五郎、六代目も見ています。

日比野 そうですか。たとえば福田善之さんは小学校のころからずっと歌舞伎をご覧になっておられた。一九五〇年代ごろまでの東京では、子供のころから歌舞伎に連れていかれる家庭と、そうでない家庭があったのではないでしょうか。

ふじた 歌舞伎というのはやっぱりちょっと別世界のものだと思っていたんでしょうね、特に親父の方は。英文科ですからね、ただ、そういうものに対する敬意は払っていました。だから自分で観に行くことはいいと。

日比野 お金を持っている家族親戚が連れていってくれる、というわけではなかったんですね。

ふじた ではなかったですね。行きたいところは自分で。中学の一年ぐらいから歌舞伎を観たり、新劇を観たりしていました。新劇は戦後初演の『女の一生』から主な公演はほとんど観ています。

日比野 麻布の演劇部には入ったけれど、古臭い芝居ばかりやっていた、とどこかでお書きになっていました。

ふじた そうそう。

日比野 菊池寛であるとか、当時の新歌舞伎寄りの演目に対して違和感を感じていたということが、ふじたさんの出発点なのかなという気もするんです。

ふじた そういう違和感は感じて「あれはないよな」と言い合っていたのが、二年上の福田と僕で。「じゃあ、お前やれよ」とそそのかされて、彼との関係はその頃から生まれているんですけど。古臭い方はね、まず、いきなり観せられたのが岡本綺堂だったり、岡鬼太郎だったり。だけど小沢昭一と加藤武がやる岡鬼太郎の『眠駱駝物語(ねむるがらくだものがたり)』なんていうのは絶品でしたね。今思うと、本当にうまいんですよ。学校で徹夜させてもらって仕込みをやってる。そうすると「時間だぞ」というので宿直室に集まりましてね、誰だったか、とにかくいちばんうまい落語家がやる『らくだ』を[ラジオで放送するのを]みんなで耳を澄まして聞くんです。それから「じゃあ稽古しよう」って真夜中に舞台稽古するわけです。

日比野 小沢昭一、加藤武あたりの感性と、福田さん、ふじたさんの感性の違いは大変面白いです。麻布演劇部には歌舞伎好きとモダンな感性の持ち主が同居していた。ふじたさんはモダンな感性のほうだった。

ふじた そうですね。ですから、彼らの影響力がなくなるとすぐ、木下順二やら加藤道夫やらの作品や、モリエールなんかをどんどんやりはじめるわけですよ。

日比野 その感性の違いは世代的なものだとお考えでしたか? それとも個人的な趣味の違いでしょうか。

ふじた 彼らは、暇な時には毎日寄席に行っていましたから。明らかに趣味が違うんだという感じ。それと僕の一年上で、歌舞伎がめっぽう好きな人がいて、学校卒業してすぐ亡くなっちゃったんですけど、その人が歌舞伎俳優のモノマネをさせたらピカイチだった。達者な男で、彼が主演の芝居には僕も付き合っていた。だから、違いは感じつつも、実はいろいろなところから影響は受けているわけです。

『富士山麓』の頃 運動との葛藤

日比野 少し時間を進めて『富士山麓』(一九五三年五月、東京大学法文1号館25番教室)のことをお聞きしたいと思います。もちろん、中学高校を通じて、福田さんとの親交を深めていらっしゃったわけですが、この作品を共作することになったきっかけはどういうものだったんですか。

ふじた それは富士山麓の基地闘争に一緒に行かないかと誘われて、現地で子ども会をやってみたり、いろいろなことをやって、帰り道に「おい、この経験を芝居に書かないか」と福田が言い始めて「そうだよな」と。

日比野 その頃ふじたさんはもう劇作家になろうと思っておられましたか。

ふじた すでに何本か書いていましたが、プロになることは考えていないですね。福田も考えてなかった。だって彼はその後、新聞記者になりましたし、僕も「やるならテレビの分野だ」というので放送作家になるつもりでした。

日比野 『富士山麓』で在学中に大きな評価を得て、そのままプロになるか、大手の新劇団に入ろうというような気持ちを持たれなかったのはなぜですか。

ふじた 福田は新聞記者になっていましたけど、僕は二年遅れで、まだ学生だったわけです。だからまだ先の、遠い世界のことだと思っていました。ただ、『富士山麓』は舞台芸術学院が取り上げてくれて、土方[与志]さんが演出してくれたり、大阪の合同公演も取り上げてくれたりしましたから、「このままやっていけるかな」という気持ちになっていくんですね。同時にその評判を聞いて、テレビの方からも書かないかといってきたし。そういうチャンスがいくつかありました。だから僕は自分から売り込んだということがないんです。必ずどこかからオファーが来て、それに応えているとなんとなくレールに乗っちゃう。周りに競争相手がいなかったせいもあると思うんですけどね。

日比野 『臨界幻想2011』[二〇一二年五月、新宿紀伊國屋サザンシアター]の公演パンフレットに「僕には師がいない」とお書きになっていました。千田是也さんが遅くなってからの師みたいなものだったと。たとえば福田さんであれば木下順二が師匠といえるかもしれませんが。

ふじた 福田ははっきりと木下さんですね。思考形態も同じですよ。あの、ぐるぐるぐるぐる廻っていくみたいな文体もね、一緒ですよ、あれは。と言って、よくからかうんですけど。

日比野 木下順二ならば久保栄がいて、アングラも一人一派みたいな感じではありますが、佐藤信は福田善之さんに対してある種の敬慕の念がある。だから、なかには劇作家同士で仲間としてつるんでいるような人たちもいる一方、ふじたさんはある種、孤高という印象を受ける。

ふじた まあ、そうですね。なぜかそうなっちゃいました。放送作家としての仕事が結構忙しくて、なんか肝心なときにその場にいなかったということがあるんですよ。たとえば安保闘争のときに旗を振っている現場に僕、行っていないんです。ちょうどNHKで缶詰になったりしていましてね。そうすると血だらけのやつがデモ帰りにNHKに仕事にくるんです。だけど自分では行く暇がない。

日比野 ちょっと突っ込んだ質問ですが、そういうふうに現場との距離があることに対して、ふじたさんはどういうお気持ちでいらしたんですか。つまり、内心じくじたる思いを持っていらしたのか、それとも、こんなことは構っていられない。俺にはちゃんと別の仕事があるんだという、どちらか、あるいは両方あると思うんですけど。

ふじた 行けるものだったら行きたい。福田は真っ只中にいましたからね。だからそのイライラを何とかしたいという思いはありました。『一九六〇年六月十五日』(一九六一年六月)というオラトリオを書いたきっかけもそこにあります。ちょうど[作曲家の]間宮芳生さんと一緒に仕事をするチャンスがあって、イライラしている僕を見た間宮さんが「お前書けよ」と言ったんです。

日比野 当時の、文学座・俳優座・民芸のいわゆる三大劇団についてどうご覧になっていましたか。さきほどお聞きしたところでは、学生時代にも、そこに入ろうという気持ちは持たれなかったそうですが。

ふじた その辺とはかなり早い時期に距離を置いていました。大学時代に入った早稲田の自由舞台というのは、学生でありながら生意気にも、スタニスラフスキーのメソッドを日本で実現するにはどうしたらいいんだというようなことを考える集団でしたから、その議論の中にいると、三大劇団なんていうのは、本当にナンセンスに見えた。もちろん、ほとんどというくらい観ていたんですよ。重要なものはだいたい観ています。観れば観るほど「なんだこれは」というようなのがあるわけですが、そういう中でも、ぶどうの会は面白かったですね。それからべらぼうに素晴らしかったのが、文学座の田中千禾夫の『雲の涯』。これは、本当に感動しました。でも同じ劇団がやっているほかの芝居は、腹立てて帰ってきましたけど、

日比野 ぶどうの会が違っていたというのは、何が違っていたんですか。

ふじた ひとつは木下さんの作品でしょうね。それからやっぱり創造方法が。

日比野 演劇の質の問題ですか。スタニスラフスキーをちゃんとやっていた?

ふじた そうそう。そういうことにある種の親しみを覚えながら観ることができた。やがて、[当時スタニスラフスキー・システムの探究をもっとも本格的におこなっていた]下村正夫さんとか八田元夫さんの仕事にも接近して行くんです。八田さんと僕はずいぶん親しかったですけど。それは、『富士山麓』の合評会をやるからおいで、と言われたのが始まりです。そこに集まったのが宮本研、大橋喜一、堀田清美、鈴木元一というような……。

日比野 自立演劇のつながりですね。その方たちは『富士山麓』をどういうふうに受け止めていたんですか。

ふじた 「自立演劇とは違うところから、突然出てきた」という受け取り方です。それで、自立演劇の連中と付き合うといいよ、と八田さんは思ってくれたらしい。やがてそのグループの親戚のような感じで、下村さんとも話をするようになりました。ただ、そうでありながら僕は、当時の「リアリズム」という括り方に抵抗を感じ始めてもいたんです。今にして思えばスタニスラフスキーだってスターリンに利用されていたんだし、でも当時はまだスターリンが何をやっていたかはわからなかったわけですけど……全日本リアリズム演劇会議。当時、そこの連中が僕を仲間扱いしていたんです。福田は「ひょっとしたら新左翼かな」という括りで見られていたから線を引かれていたみたいですけど、僕はその線の内側にいる人間と思われていた。

日比野 福田善之さんは後年『日本の悪霊』(黒木和雄監督・一九七〇年)の脚本で高橋和巳の原作を大幅に書き換えるなど、六全協(日本共産党第六回全国協議会/一九五五年)あたりの共産党の変わり身の早さにはずいぶんこだわっていらっしゃったけれども、ふじたさんにも、当時、そういう思いはあったんですか。

ふじた その辺りは、聞こえないふりをしていました。

日比野 それこそ八田さんや下村さんは、共産党員だったわけですよね。

ふじた そうです。だから「党に入らないか」ということは言われましたけどね、僕はそれにはちょっと一線を画したいなと思っていたんです。時期はだいぶ後になるんですけど、三十人会で水俣の芝居をしたことがありました[『日本の公害1970』一九七一年四月、大手町農協ホール]。その時にいろいろと調べたんですが、この問題では共産党が動いてない。出遅れるんですね。「なんで動かないんだ」っていうこともひとつにはありました。それと、『赤旗』が秋浜[悟史]の仕事を「あれはトロツキズムだ」と批判したことがあったんです。それで僕は怒ってね、党本部に怒鳴り込みにいったことがあるんですよ、実は。

日比野 それはだいぶ後の話ですよね。

ふじた うん。ただ、横浜事件(一九四二年)の後くらいから、どこまで信用していいかというのはあったんじゃないかな。中央公論編集長だった父親が拷問でボロボロになって帰ってきましたでしょう。半年後に戦争が終わったんですが、当時、紙がなくて、どう出版社に紙を配るかを決める委員会ができたんです。その出版社サイドの代表委員の引き受け手がなくて。親父は元中央公論で、ある意味会社に裏切られたものですから、一人で出版社をやろうと頑張っていたところで、「ちょうどいい人が帰ってきた」というので、選ばれました。そうしたら、途端に日本中の出版社が、菓子折り持って来るんです。「紙くれ、紙くれ」って。中には政治的な動きも含めて来る。親父がそれを「あの赤大根が」というわけです。

日比野 言い得て妙ですね。外側は赤いけど……という。

ふじた だから「ふーん、そういうことか」と子供ながら思っていたところはありました。どこかで、信用していいかどうかはわからないという気持ちがずっとあったんですね。

日比野 ところで、ふじたさんの『体験的脚本創作法』(一九九五年、晩成書房)の中の「私を育てた戯曲・三十選」で、宮本研らと並んで大橋喜一が入っていたことに私はちょっとびっくりしたんです。戦後演劇史において大橋喜一はそれほど大きな存在としては認識されていません。自立演劇というところで、ふじたさんは、大橋喜一さんともお付き合いがあったんですか。

ふじた もちろんありました。あの人は川崎の人だったし[大橋は神奈川県川崎市に現在もある東芝電気小向工場に勤務していた]。あの時のあのメンバー[『富士山麓』合評会に集まった自立演劇関係者]の中では宮本研さんについで仲がよかった。

日比野 戯曲としての質についてはどう考えていらっしゃいますか。

ふじた 評価はしていますけど、なるようになっていくというか、やっぱりそういうふうに書いたかという感じがあるんです。

日比野 現在では忘れられた作家のようになっていますが、それは過小評価というふうにはお思いにならないですか。

ふじた 思います。あの人をもっと大事にしろよと思います。でも、なんとなく季節が遠くなったんだという感じもするんですよ。

日比野 大橋さんは、自立演劇を始める前はバラエティーのようなものを書いていたそうです。民衆芸能に近いものにもともとシンパシーを感じていたのに、自立演劇作家の一人として目されるようになってからは、久保栄に目をかけられたりしたことで、イデオロギーを意識し、ねじ曲がってしまったという感じを、私は受けています。もっと自分の資質に忠実であればいろいろなものを書けたという気もします。

ふじた まわりの期待に応えようとしすぎたのかも知れませんね。そういう期待の重さは、ぼくもよく分ります。

地域演劇の萌芽 仮面劇場

日比野 話は前後しますが、『富士山麓』の翌年に早稲田大学を中退されたのはお仕事が忙しくなったからですか。

ふじた それもあります。大学二年くらいのときから放送作家をやっていて、一、二年のうちにはレギュラーを持っていましたから、学校行くこともねえやというのはあった。それと、自由舞台の予算が足りなくて、自分の学費を注ぎ込んじゃったんですよ(笑)。ということもあって「えい、やめちゃえ」ということになったんです。

日比野 演劇科の先生たちに不満があったとか、そういうことはないんですか。

ふじた 不満だらけでした。古い話ばかりして、今のことに応えてくれていないぜ、と。今のことに応えてくれるのは、演劇科じゃなくて、英文科の倉橋健さんたちでした。倉橋さんのところには学生がよく集まっていました。秋浜もいたんじゃないですかね。

鈴木 当時の早稲田大学には、ミュージカル・プレイ研究会から発展した早稲田劇場という学生劇団があって、そのこけら落とし公演の案内に藤田朝也脚色・演出『河童』と書かれているのですが、ご記憶にありますか。

ふじた へえ(笑)。記憶に残ってないです。やろうという話だけはあったのかもしれない。

鈴木 顧問は印南喬さんとあります。

日比野 印南さんは、当時の守旧派ですよね。

ふじた そうですね。僕は印南さんの授業を一回聞いて、あとはもう出るまいと思って出なかった(笑)。

日比野 その後は、風見鶏介さんとお仕事するようになりますね。ふじたさんは、『風見鶏介戯曲集』(風見鶏介戯曲集刊行委員会、一九八四年)の巻末に寄せられた風見さんの追悼文[「厄年前後」]で、筆を抑えてはいらっしゃるんだけど(笑)、ひどい人だということが伝わってくる文章をお書きになっています。どういう方だったんですか。

ふじた 元は高校の先生で、『夜学生の四季』[『夜学生の四季 冬』(一九四九年二月)から『夜学生の四季 秋』(一九五二年十一月)まで続く連作]っていう素晴らしい作品をつくってるんですよ。その成果を買われて泉座に引っ張り込まれて、いい仕事をしてたんです。

日比野 だけど分裂をして。

ふじた ええ。それで泉座を辞めたがっていると聞いたものですから、じゃあ一緒にやりませんか、と仮面劇場をつくるんです。

日比野 それはふじたさんの方から声をかけて。

ふじた うん。風見さんの方も、それをチャンスとして学校の先生も泉座もやめちゃって。ただ、あの人はわりとすぐに引っ張られるんです、いろんな人に。そのうち舞台芸術学院の先生になると「忙しくなっちゃったから、劇団はあなたがやってよ」ということになって。そのころには劇団も赤字だらけで、ひーひー言いながらお金を返しました。私は放送作家をやっていましたから、多少小銭は回ったんです。

日比野 あの文章を読むと、自分よりずいぶん年下の若者に借金の清算をさせて……と思ったんですが。

ふじた そんな文章でしたか?(笑) まぁ、それはそうだったんですけど、毎年大晦日に電話がかかってくるんですよ。「どうしてる?」なんて。それで、しばらくすると、群芸から分かれて群馬中芸がつくられるという話になり「手伝ってよ」と。

日比野 「二度と付き合うのはやめようと思った」とも書いていらっしゃいました。

ふじた そうそう。考えてみれば、だいぶ赤字を押しつけられましたから。それでも全然変わらず、最後の最後まで、のんきな人でした。浮世離れしていて。アメリカ演劇には非常に詳しくて、面白いし、いい仕事をしていました。彼が僕の芝居を群馬中芸でやっていたのをのぞきに行った時につい口出ししたら「やってよ」という話になっちゃって。そのうちにで病気で亡くなられて……。

日比野 それで群馬中芸とは今に至るまでのお付き合いがある。

ふじた まだやっています。二十何本つくりました。

日比野 風見さんが群馬に行ったのは、そこでアマチュア演劇をやろうというお考えだったんでしょうか。

ふじた いや、仮面劇場をつくったときにも風見さんと話したのは、地域劇団という概念はまだなかった頃だけど、それをやろうよと。中央志向はあまり意味がないということを風見さんが言って、それは賛成だなと思った。だから、わざわざ彼がいた学校のあった荒川で公演をしたんです。

日比野 荒川あたりのご出身というわけではないんですか。

ふじた じゃないですね。

日比野 『葛飾マンボ』(一九五八年十月)を書くなど、ローカル色を意識されていたようです。それも東京の中でそれを書き分けていった。

ふじた そうそう。結構面白い仕事をしているんですよ。東京の中の地域を意識した、その視線には、僕は今でも意味があったと思います。

日比野 風見さんに群馬への愛着のようなものはあったんでしょうか。

ふじた そういうわけじゃないでしょう。都立荒川商業高校(定時制)に就職して、地域の芝居やってた子供たちとつながりができて。やがてその連中がそれぞれ稼ぐようになって、「先生おいでよ」と呼ばれると、今度は彼らをスポンサーだと思ってしまうんですよ。その辺がね、借金のもとだった。その延長で、群馬から「おいでよ」といわれて。

三十人会の創設と秋浜悟史

日比野 ぶどうの会とは、『ニコライ堂裏』[一九六二年七月、砂防会館ホール]まではあくまでも観客としての付き合いでしたか。

ふじた 最初はね。ぶどうの会に引っ張り込んだのは、和泉二郎じゃないかな。福田と同級生の。

日比野 ふじたさんは木下さんたちのセゾーノの会には入っていないわけですよね。その辺りの距離というのはどういうものだったんですか。

ふじた 僕は入ってないんだけど、声がかかれば入っていたと思います。なんとなく、あいつは放送作家で忙しいから声を掛けまい、という感じだったんだと思います。

日比野 なるほど。ぶどうの会とはしかし、ある程度の親近感を持っていらした。

ふじた そうですね。それで、和泉二郎に「稽古を見においでよ」みたいな感じで誘われて。当時は和泉が竹内敏晴さんの第一助手だったのかな。やがて彼も演出するようになるんですけど。福田も周辺をうろうろしていて、そこでカミさんをゲットしたりしていました。

日比野 そうすると『ニコライ堂裏』は、ぶどうの会からの委嘱だったわけですか。

ふじた 何かやらないかと和泉に声をかけられて。「あさやに書かせたらどうだ、って竹内さんが言ってるよ」みたいな話だった記憶があります。

日比野 その前に一本、こけし座で『日本の夜明け』(一九五七年七月)を竹内敏晴・和泉二郎演出でやっていますね。

ふじた そうです。こけし座に頼まれて一本書いた時に、「竹内さんに頼んでいいですか」と聞いたら「いいですよ」と言われて、お願いしたら、竹内さんと和泉がやってきて。竹内さんが方針を出して、和泉が現場を担当するという感じでした。

日比野 ぶどうの会の解散(一九六四年九月)のきっかけは竹内さんがつくったという人もいますが……。

ふじた そうかもしれませんが、そこはよく知りません。事情のわかる場所にいなかったもんですから。

日比野 では、竹内さんや和泉さんとの個人的な付き合いはあったけれども、木下さんや山本安英さんを始め、ぶどうの会とは、それ以上の密接な関わりはなかった。

ふじた なかったわけじゃありません。出演してくださった方とはその後も付き合いがありましたから。みなさんとはたとえばNHKなんかで会うんです。そういう意味では、放送界も含めて同じ世界の付き合いだったわけで。ぶどうの会から別れた演劇集団・変身とも、民衆舞台とも仲は良かった。民衆舞台とは、その後も『日本の言論1961』をやってますし。

日比野 なるほど。こけし座と同じ時期に七曜会で『太陽の影』[一九五九年七月、俳優座劇場]が初演されています。これはどういう人たちですか。

ふじた 七曜会は資料をちゃんと残してないんですよ。栗山郁子さんの演出でした。僕は頼まれて一本本を書いて、もう一本は舞台監督か何かをやっています。

日比野 『太陽の影』[一九五八年十一月、俳優座劇場]ですね。

ふじた 七曜会は放送で売れっ子の連中なんです。『事件記者』のレギュラーだった高城淳一が中心で、その稼ぎでやっている劇団だった。

日比野 当時は、テレビと演劇というのはそういう近い距離にあったんですね。

ふじた 本当に近かったですよ。最終的にはアテレコで稼ぐ連中が残っていったんじゃないかな。私の妹のだんなが七曜会にいて、『太陽の影』をやったときに付き合いができたのか、その後結婚して、みたいなこともありました。

日比野 そうすると、ぶどうの会や七曜会、仮面劇場、こけし座と、いろいろなお付き合いはあったものの、本当の意味でふじたさんが劇団活動の中に入り込んでいったのは、劇団三十人会が初めてだったということになりますか。

ふじた そうですね。メンバーという意味では仮面劇場が最初で、そこから三十人会まで飛ぶんです。あとは全部お客さん。

日比野 三十人会でも、最初はふじたさんにしても秋浜[悟史]さんにしても、書き下ろしの依頼があっただけですよね。それがどういうきっっかけで中心になったんでしょうか。

ふじた 三十人会はNHKの養成所を出たメンバーが、「ちょうど三十人いるから三十人会にしようか」と言って、集まったのがはじまりです。その中に加藤剛の女房の伊藤牧子がいて、役者集団ですから「これじゃ作品づくりはできないよ」と。それで早稲田の同級生なのかな、「演出を頼むならこの人がいい」と秋浜を誘い込んで、「もう一人いると具合がいいよね」と僕を誘って。当時、三十人会の事務所はNHKの中にありました。なんとなく不法占拠してたんです(笑)。それでNHKの中を仕事で歩いていますと、伊藤牧子がいるんですよ。「何してるんだ」と言ったら「劇団やっているのよ。あさやさん、やらない?」という感じで。

日比野 「書いてくれない?」ではなく「劇団をやらない?」と誘われたわけですね。

ふじた 最初は「書いてくれない?」なんですよ。それで一本やったら「入っちゃいなさいよ」って言われた。

日比野 それは、ふじたさん側としてもやぶさかではなかった。

ふじた やぶさかではない。まあ、どんな役者たちがいるかって分かったから「この連中と一緒に苦労してみるか」という気にはなったんですね。

日比野 秋浜悟史さんとは、三十人会で知り合ったんですか。

ふじた 友人になったのはそうですね。秋浜がやっている芝居を、自由舞台のOBとしては観てはいたんですけどね。彼は、歳は一緒なんですけど、病気になったのかな、一、二学年下なんです。チェーホフなんかをやってました。僕らの時は、ゴーリキーの『どん底』をやったりした。秋浜がやったのは『桜の園』だったかな。その時に渡辺浩子が出演したりしています。

日比野 なるほど。時代ですね。そうすると個人的な親交は三十人会に入ってから。

ふじた そう。学校公演をやろうかという話になって、あいつがチェーホフの『結婚申し込み』と『熊』を選んで、それに演劇教室をくっつけようということになった。僕は稽古を観に行っていて「どういうものをくっつけたらいい?」というから、「こんなのどうかな」って話をして。そうしたら「書かない?」というので、演劇教室用の台本を書いたんです。チェーホフの芝居の場面をやって、それを役者が演じるのに対してダメを出すという段取りを台本化したものなんですが、「あさや、なんでこれがわかるんだ」と言うんです。「俺はまさにこういうことを(稽古で)言っているんだ。なんでわかるんだ」「だってお前、同じような経験をしているんだろう」と(笑)。要するにスタニスラフスキーの、その当時の摂取の反映がそこにあるわけです。

日比野 サブテキストをきちんとつくるという。

ふじた うん。「なんだ、わかってるんなら、全部ちゃんと書けよ」という話になって。面白かったですよ、その経験は。

日比野 そうすると、劇団三十人会もスタニスラフスキーシステム的なものを目指していた?

ふじた そのころはね。秋浜経由のスタニスラフスキー、ふじた経由のスタニスラフスキー。少しずつ違うんですけどね。僕はその頃は、狂言に打ち込んでいましたから。白木狂言の会。日本橋の角の白木屋の上にいいホールがありましてね。毎月観に行ってました。

日比野 三十人会はどちらかといえばノンポリというか、政治色がない劇団でしたが、お二人が入るようになって、世間の言い方でいえば「左傾化」していったのではないかと思います。

ふじた それはわれわれの共謀ですね。「どんなものを書きたい?」と聞かれて、「今は教育問題が大変だからそれを書きたいんだ」という。

日比野 『日本の教育1960』[一九六五年六月、第一生命ホール]ですね。

ふじた そうです。「それはいいな」って言うから書いていると、[秋浜は]書くそばから「俺ならこういうふうに書くなぁ」なんて言い方をするんです。「この野郎」と思って、そういうふうには書かないんですけど。それでなんだかんだ言いながら、お互いの手の内がわかってきて、「俺たちひょっとするといいコンビだな」という感じになったんです。だから、僕の本を彼が演出する、彼の方が本を書いて演出をする時には僕が制作を担当するという関係がそれから数年間続きました。それで彼も売り出したし。僕が書くとだいたい当時の労演が上演してくれましてね。『日本の教育』もそうですが、労演でやっているほかの劇団にしてみたら「ああ変な劇団がでてきたな」と。

日比野 ドキュメンタリー演劇チックなものですよね。ただ、ふじたさんご自身も、最初からそういうものを目指していたわけではなくて、たとえば『ニコライ堂裏』なんかは、いわゆる物語的といいますか……。

ふじた 手法はそうでも、現実を反映させてはいるでしょう。

日比野 つまり、『日本の教育』が転機になったりはしていなくて、ずっと連続して同じことを書いている。

ふじた 僕の中では連続しているつもりですけれども。だからわりと言いたいことを書かせてもらったという感じはありますし、やっぱり、そういうことを受け止めて形にしてくれる演出家にめぐり会えたということが大きいと思うんです。

日比野 それが秋浜さんであり、『現代の狂言』で協力を得た和泉保之さんなんですね。

ふじた 和泉保之さんは、和泉流の家元で、たまたま、舞台を観て面白かったので「教わりに行かない?」と劇団のみんなを連れていった。そうしたら和泉さんの方も、何かまだ、狂言の世界でやりたいことがあった。それに、応援団も欲しかったんだと思います。それで、食いつくようにして、こちらの稽古場に入り浸って、一緒になっていろいろなものをつくりあげました。

日比野 田中千禾夫(『花子』)や飯沢匡(『濯ぎ川』他)も狂言をもとに戯曲を書いています。一九五〇年代には「狂言ブーム」もあって、新劇でも長岡輝子などは大蔵流に弟子入りしている。ふじたさんは、それとは別に狂言というものの面白さを発見したということですか。

ふじた そうですね。たまたま最初に声をかけたのが和泉さんだったから、和泉さんとやることになったんですけれども、芸の質から言うと、僕はむしろ野村家の方が好きだったし、善竹家の芸風も好きなんです。僕は和泉保之さんの結婚式の司会をした、そういう関係なんですけどね。

日比野 この時期は劇団三十人会の座付作家といってもいい状況だったんですね。

ふじた 劇団の経営にも入り込んでいたし、制作もやっていましたから、それ以上の存在だったと思います。

日比野 解散については、ほとんど語られていないですよね。

ふじた ひとつ、僕が書いた文章が『悲劇喜劇」に載っていたと思います。つまり、当時は新左翼が暴れ始めた時期で、劇団の中でもレパートリーについて議論がまとまらなくなってきたんです。ウェスカーの『ジャーナリスト』をやろうかという話があったんですが、反対するのがいて、まとまらなくて。「レパートリーひとつ決められない劇団には意味がない」って言い始めて、それならやめようかと。あっさりやめたんです。

日比野 秋浜さんが書けなくなったことが解散の理由ではない?

ふじた それは理由ではないです。秋浜が書けなくなって、ひどい目にあったのは青年座です。タイトルまで決まっていて、『まだ青年だ』という題名がレパートリーにも出ていて、「面白い」ってみんなで言ってたんですけど、一字も書けてなかったんです。

日比野 そうでしたか。

ふじた それでギャラも少し、先渡しをされてたんだ(笑)

日比野 秋浜さんが書けなくなった理由を、同じ劇作家としてふじたさんは、どう分析されますか。

ふじた 彼が書くことの源泉は、やっぱり渋民[岩手県渋民村]でしょう。彼は啄木と同じ渋民の出身なんです。つまり、渋民で農民がどういう目にあっているか。それをどう描くかが最初のテーマで、それはずっと変わっていないんです。それを書いている限り、彼は次々と書けた。岩手の[劇団ぶどう座主宰・劇作家の故・]川村光夫さんは、秋浜さんの岩手弁は十年前のだと言ってたけど。だから、故郷にこだわっていた時は書けたんです。ただそのうち帰らなくなっちゃったんですよ。そこから書けなくなった。どうしてそのことに自分で気がつかなかったのかなという気がするけど。

日比野 なるほど。

ふじた 気がついていただろうとは思うけど、なんか後戻りがきかなくなっちゃったんでしょうね。

前進座、うりんこ、文化座とのつきあい 俳優養成とのかかわり

日比野 三十人会の解散について、ふじたさんとしては、それほどの喪失感はなかったんですか。

ふじた もちろん、ありましたけどね。あるんだけれど、「うちに書いてくれないか」という劇団はありましたから、なんとなく自分の中ではつながっちゃったのかな。

日比野 そのころには前進座のお仕事もされていましたし。

ふじた そうですね。直後からやっています。もちろん放送作家も続けていたし、演出者協会の事務局長にされちゃうんです。「劇団をやめたから暇になったでしょう」と。そういうこともありました。

日比野 前進座は、これも向こうから依頼があったんですよね。

ふじた ちょうどレコードの仕事をやっていましてね。『音の風土記』だったかな。それから『日本の太鼓』というのもシリーズであるんです。どっちだったか忘れましたが、沖縄の夏のエイサーを取材に行ったんです。

日比野 返還[一九七二年五月]前ですか。

ふじた 直後です。そうしたら出先で前進座の西山三郎さんと出会ったんです、偶然。それで一緒になって取材した。この時はなんの目的かはわからなかったけど、帰ったら早速西山さんが電話してきて「実は沖縄素材でこういう原作があって芝居をやりたいと思っていたけど、書く人が決まっていないんだ。同じネタを取材していたなんて、いいところで会ったから書いてよ」と言うんです。じゃあというので打ち合わせに行ったら「実は今度の出し物でも困ってるんだ」って話を聞かされて。「『さんしょう太夫』の話を芝居にしようと思って小池章太郎に書いてもらったけどうまくできない。それで企画が止まっている。思い出したけど、あさやさん『さんしょう太夫』、前にやってたよね。それを書いてくれない?」ということで、一週間くらいの間に二本の作品を前進座でやることが決まりました。『さんしょう太夫』は仮面劇場で手をつけていたし、その後武智演出でオペラにもしていたから。

日比野 『笛吹カナシー』(一九七四年九月)と『さんしょう太夫〜説経節による〜』(一九七四年十月)ですね。二カ月連続でやっています。前進座はこのころものすごいパワーだったんだなと感じます。

ふじた パワーはそうなんです。歌舞伎があてにならなくなってきていた時代で、とはいえ現代劇をつくろうといっても人手がいないわけ。学校公演をやろうというようなことも考えて、西山さんもそこに目をつけていたんですけど、外から来た人で御曹司じゃないから、題材に困っちゃうんですね。それで僕が「こういう企画があるよ」と素材を提供してたわけです。それで彼も喜んだし、僕も装置は全部西山三郎に任せるという時代が来るんですけど。

日比野 前進座とは、この後も何作かやっていますが、たとえば劇団員になれというようなお誘いはありました? 

ふじた お誘いはなかったな。その直前までいっていた気はしますけどね。

日比野 前進座の方でも、それまでは、劇団の中に引っ張り込むのが普通だったけど、この頃から、外部の人に頼むことが増えていきますから、そういう感覚の変化があったかもしれません。

ふじた そうそう。

日比野 一方で、劇団えるむをつくられる。

ふじた 佐藤嘉一という役者がいて。彼は泉座にいて、それから風見鶏介さんと仮面劇場をやっていたんですが、東京で芝居をやっていたんじゃだめだということで、故郷の小樽で家業を継いでいたんです。だけどやっぱり芝居をやりたくてしょうがないものだから、道演集って北海道の演劇集団を地元でやったりして。それでたまたま仕事が順調で手が離れるという時に、望月優子っていたでしょう。彼女が参議院議員になった時に「誰か私の秘書をやってくれるのいない?」と。だったら佐藤嘉一が北海道で遊んでいるから、嘉一ちゃんを東京に呼ぼうということになったんです。ところが何期もつとめるわけじゃないでしょう。望月さんが議員を辞めることになって、彼は東京で失業して。だけどせっかく東京に来て、拠点もできたんだから、ここでもう一度芝居をやろうかと。それで僕に電話をかけてきたわけです。「また芝居をやりたいんだけど、手伝ってくれない?」と。彼が制作をやって僕が本と演出をやる形で、学校公演をする。児童青少年演劇をメインにしようということで始めたんです。

日比野 では「えるむ企画」という公演があるのは……

ふじた そのちょっと対象を広げたバージョンです。

日比野 なるほど。基本的には同じ人たちが、大人向けのものをやるという。

ふじた 同じ人たちですけれども、えるむ企画の方は佐藤嘉一は噛んでないんです。「君たちがやりたいようなものをやるなら、名前は貸すけれど、俺は手を引く。もうからないからね」と。それはそうだ、もうからないわ(笑)

日比野 劇団うりんことは、これはもう完全に劇作家として作品を提供する感じでしたか。

ふじた 名古屋にも、労演で行ったりしていましたから。ちょうど名演会館ができた頃で、そこを拠点に養成所をつくりたいんだという話がありました。ふじたさん、劇団潰れたから暇でしょうと、呼び込まれましてね。名古屋に通って校長先生をやる羽目になったんです。名演会館というのは、名古屋の演劇観賞会がつくった劇場と貸し稽古場のある建物です。食堂もやっていましたから、名古屋の演劇人の拠点になっていました。何年くらいかな、結構長いこと校長をやりました。要するに名古屋というのはプロ劇団がないんです。アマチュアばかりなんですよ。プロ劇団を成立させたいのが課題だから、そこを一緒に考える演出家にやってほしいという話でした。だから名古屋ではいろいろな劇団の演出をやっています。来ているんだからやってよ、と。うりんこはその中の唯一のプロ劇団です。うりんことむすび座という人形劇団、このふたつだけはそれで食えたんですが、あとは全部アマチュアです。だから卒業生を中心にプロ劇団をつくろうという話になりましたが、半端なものしかできませんでした。難しいね。名古屋は大阪ほど勘定高くはないんですが、やっぱり自分の懐だけは大事にするところですから。損が出そうな時にはパッと出てこなくなっちゃう。こういう風土ではプロ劇団はつくれませんと言ったの、僕(笑)

日比野 御園座の運営がなかなかうまくいかないことにもつながってくる気がしますね。

ふじた いまだにそうです。

日比野 名演会館企画で鈴木正人『喪失速度』(一九七八年九月)補作演出、清水邦夫『楽屋』(一九七八年十一月)演出とありますが、これは名演会館でどなたが中心になっていたんでしょうか。

ふじた 森釗さんという人がいて。後に僕と鈴木完一郎と、菊本健郎さんという名古屋の演出家、それと森さんとで、総合劇集団俳優館をつくったんです。鈴木さんも菊本さんも亡くなって、結局演出で残っているのは僕だけで、この頃は若い演出家に依頼をしていますけど。

日比野 名演会館は今でもあるんですか。

ふじた 建物自体は残っていますけども、芝居はやっていません。芝居をやるにはキャパシティが少なすぎるんです。ですから映画で転がしています。名演の事務所はもう、そこを出てしまいました。

日比野 名演会館企画はプロデュース集団ですね。名古屋在住の俳優を集めてそのつどやるというような。つまり劇団としてのていはなかった。

ふじた 劇団はない。名古屋の人たちを集めやすくするのに僕が利用されるというわけです。「東京から演出家がくるんだ」というようなことで。

日比野 その間、小沢昭一さんの芸能座ともかかわりを持たれていた。

ふじた 僕がやっている芝居を突然のぞきに来たんです。『現代の狂言』だったか何か。面白がって帰っていって、すぐ電話があって。「劇団をつくろうと思ってるんだ。ちょっと手伝ってよ。その名も芸能座というんだ、いいだろう」と。そこへ巻き込まれて、俳優養成を引き受けることになりました。

日比野 ただこれは、俳優養成の先生としてであって、芸能座に書かれたのは解散公演のバラエティーショー『さよなら狂想曲』だけですね。

ふじた はい。小沢さんの俳優養成のお手伝いだけ。その中から中西和久との関係だけが残っているわけですよ。

日比野 この頃はそれこそ体がいくつあっても足りないくらいいろいろな劇団とやっていらっしゃいます。文化座とも仕事されています。

ふじた 文化座とはある時期集中的にやりました。鈴木光枝さんが僕を頼った時期がありまして。

日比野 鈴木光枝さんはどんな方でしたか。

ふじた 演出をなさりたがるんですけれど、全体が見えないので、スタッフに適確な注目をつけられない。「じゃあ、貝さんやってよ」と貝山[武久]が頼まれるんだけど、貝山もまた全体が見えないんです。だから僕はもう、稽古場へ呼ばれてもイライラしてたんです。そうしたら「あさやさん、やってよ」という話になった、みたいな関係です。でもね、実際には、作品は何本か提供していますけど、演出はまるまるやったのは一本だけかな。文化座では、光枝さんの役者としての居所が面白かったんですよ。あの人、井上演劇道場の出身でしょう。つまり、新劇的素養がない人なんです。その代わり、舞台へ出て自分の声の響き具合を聞いた瞬間にその日の演じ方が決まるんです。

日比野 それは娘の佐々木愛さんもそういう感じですよね。

ふじた 愛さんもそこが不思議なんです。劇場の大きさに合った芝居をパッと組み立てちゃう。見事でしたね。あの感性はどこから来たんだろう。

日比野 新劇を標榜しながら大衆演劇っぽいものをやったりするのが、文化座の売りなんですけど。

ふじた それはあの劇団の色としていいと思いますよ。あそこも若手が育ってきて、今、面白くなっているしね。

「師」千田是也との出会い

日比野 えるむもうりんこも児童演劇を手がける劇団ですが、そこにかかわるようになった、ふじたさんご自身の内的な必然性はどういったものだったんでしょうか。

ふじた 一番最初、学生時代に放送作家の仕事をくれたのが、NHKの児童青少年部だったんです。そこで一緒にやっていたのが井上ひさし。同じ休憩室で原稿を書いて。「早く書き終わらないかな」という顔で最初の女房が待っていましたよ。書き終わらないんだ、あいつ。鉛筆で丹念に丹念に書いて、すぐ消すんだよ(笑)。同じ部屋には早坂(暁)さんもよく来ていたな。

日比野 そうですか。

ふじた 早坂さんは僕が始めた番組を引き受けてくれました。[パントマイムの]ヨネヤマママコを中心にした番組をつくったんですよ。それが時間帯を移動するというので、早坂さんが続けて本を書いてくれました。その辺りの人たちはみんな仲間なんです。

日比野 放送作家としてずっとやっていく、骨を埋めようというようなお気持ちは持たれなかったですか。舞台との違いはそれほどなかった?

ふじた なんだかんだいって違いはあったんです。NHKって考査室がうるさくてね。こういう言葉を書いちゃいけないとかなんとかって。時には「この台本預かります」なんていうのが出てきちゃった。二本ぐらい放送していないのがあるんです。後に芝居にしましたけどね、全部。

日比野 具体的にはどんなものが芝居になっていますか。

ふじた 『風雪』というシリーズ・ドラマ(一九六四〜六五年)があって、その中で関東大震災を題材にしたんです。その時に朝鮮人が虐殺されたっていう話が上野公園あたりに広がってくるという場面を書いた。そうしたら「これはなんとかやめてくれ」と。ちょっと棘がないように書き直しさせられました。それから日韓条約(一九六五年)を締結する時期で、政治的な配慮で一本やめてくれ、となったのもありました。だから、なんとなく「ここはいつまでもいるところじゃないな」というふうに思うようになって。そこまで仕事を断ったことはなかったんですけれど、この頃から断るようになりました。

日比野 政治的な不自由さもあったかと思いますが、テレビと舞台の演技の質というところではどうでしたか。

ふじた それはもう、全然別のものですから。ただ、だからといってどっちが上ということは思わなかった、それは役割分担だから。金になるということもありましたし、だから井上ひさしも頑張っていた(笑)

日比野 八〇年代になると青芸との付き合いも始まります。それからやっぱり重要なのは青年劇場との関係ですよね。

ふじた 青年劇場は大きかったですね。『富士山麓』を舞台芸術学院でやった時のメンバーが、青年劇場の創立メンバーなんです。それから、アシテジってありますでしょう。世界児童青少年舞台芸術協会。その最初の日本代表を[青年劇場の]土方与平さんがおやりになっていて。そこで世界のいろいろな国の作家を集めて、ドイツでディスカッションをすることになった時に、土方さんが「俺が通訳するからさ」と連れていってくれたんです。『ベッカンコおに』(一九七九年六月劇団うりんこで初演)をドイツ語に訳して、向こうの役者たちがリーディングしたんですが、耳で聞いていると全然別の芝居になってくるんだ。「これは面白い、この違いはなんだろう」というようなことで、面白がって議論に参加したりして。その直後にあったロシアでの児童劇の会議にも、土方さんに誘われて行きました。そんなことがあったので「今度うちにも書いてよ」って話になったんです。
 これはまだ三十人会の頃ですけど、新劇人会議で会議をやっている時に、分裂して出た新左翼系のメンバーが殴り込みをかけてきて、会場の貸しホールのガラスを割ったり、なんてことがあったんですよ。それでメンバー同士が睨み合いみたいな関係になっちゃって。その時に僕が間に入った。土方さんはそれを見て「あなたと一緒に仕事をしたい」といい始めたんですよ。

日比野 それはドイツに行った後ですか。

ふじた ほとんど同時期です。『ベッカンコおに』はその後ロシアでも上演されたんですが、それも「あの芝居いいから」というので、青年劇場の演出家が演出したんです。だから、なんとなく遠い親戚みたいな関係にはなっていた。それで、福島(明夫)くんにプロデュースをやらせたいんだけど、何かいいのはないかね、という話になり、瓜生(正美)さんから「あさやさん、なんか書きたいテーマない? 原発はどう?」と言われたんです。「なんとなく、きな臭いから、ちょっと調べてみたいんだ」と。じゃあ行こう、と専門家の意見を聞きにあちこちへ行きました。福島第一原発の周辺の様子を調べたり、東海村の原発も見に行きました。その時に「この本、誰に演出してもらいたい?」というから「誰か考えているの?」と聞いたら、千田(是也)先生で考えていると。「だったらお願いしたい」というので、旅館で缶詰になって書いていた。そしたら最後の日に千田先生が来て、さーっと読んで、「うん」って、何も注文しないんだよ(笑)。それでやろうという話になっちゃって。

日比野 『臨界幻想』(一九八一年五月)ですね。

ふじた うん。それが評判になったものですから、千田先生とはその後も何本かやっています。『臨界幻想』は三十年後の事故を予言したという話になっちゃうんですけど、あの時は本当に「これで事故が起きなかったらおかしいよ」と思ったんですね。あまりにもずさんな、議論はすべて建前で、実質的な手は打たれていないという感じを受けましたから。

日比野 千田さんはその時もう、ずいぶんお年でしたよね。

ふじた 亡くなったのが九十二歳です。そうか、僕は千田さんと出会った歳になったんだ。お元気でした、あの方は。だから亡くなった時はびっくりしました。まだ現場を持っていましたし、亡くなるはずがないだろうと。

日比野 千田さんは、どんな演出でした?

ふじた 面白かったのは『書かれなかった頁 日本の教育1980』(一九八六年九月)かな。瓜生さんがとりあえず形をつけて「これでどうでしょうか」と聞いた。全員客席から顔が見えるんですよ。全員が正面向いている。反対には並ばない。そしたら千田さんが「リアルじゃないよ」って。「いやいや、私たちリアリズムをやっているつもりですけど」「リアリズムかどうかじゃなくて、リアルじゃない。リアリズムなんてね、五十年ぐらいのはやりだよって(笑)。これでどうしてリアルなんだよ」って。こうすればなんとなく説明がつくだろうというミザンスを組んだ[俳優たちの舞台での居場所を決めた]途端にね、「リアルじゃない」と言われちゃったんです。「前の人に話をするのに、こっち側に人がいないのはどうしてよ」と。当時はまだ平田オリザの芝居はありませんでしたからね。そうしたら「え?」ということになってね、試しにこうしてみよう、こっちの人は立ち上がって言うといい、とそこから突然演出が始まったんです。
それが面白くてね。あの人は台本に細かくプラン書き込むんです。絵も。おおすごいのできたなぁと思ってると次の日台本持ってないんです。「先生、台本は?」ってきくと「ん? いらない」と。うちに置いてきちゃうんだよ(笑)。もう見てないのよ。プランを立てるためにだけ台本は必要なんで、あとは稽古を見ながら、ああでもないこうでもないって注文をつけ始めるのよ。それが面白かったね。

日比野 ご自分でやって見せたりは。

ふじた ありました。なんの時だったかな、やってみせてね、転んだんだよ。それでみんなして「先生、もうやめてください」とやめてもらったことがある。もう八十代後半でしたけど、思わずやれると思ってやっちゃうんですね。僕もやっちゃうけど。

日比野 ご自身がいちばんうまいという自負もあったんだと思います。そういう話も含めて、ふじたさんにとって、千田是也さんはいろいろなことを学んだ師だと。

ふじた そうです。

日比野 ただ、ふじたさんがお若かった頃には、千田是也、俳優座というのは、死せる新劇の象徴とみなされることもあったと思います。ふじたさんも以前はそういうことを感じていたこともあったんでしょうか。

ふじた 俳優座は青山(杉作)さんの演出だったから。青山演出は、本当に感性豊かな、引き込まれるような芝居をつくるんだけど、「どうしてそうなるの」というと説明がつかないところがあって。そういうところを千田さんが綺麗にカバーしていた気がします。稽古場に行っていたわけじゃないから、そういうことが後になってだんだん分かってきました。ほかにも稽古場で勉強させてもらったのは、ぶどうの会の時の岡倉士朗先生。あの方も遊びにおいで、と言ってくださって、役者に対するダメの出し方みたいなものを勉強しましたね。土方与志さんにも、これは学生時代のことですけど。長い台詞の中の行動の変り目を、役者の呼吸の問題として教えてくれて。「そこで息止めてごらん。はい、ぱっと吸って、言ってごらんよ。言えるだろう」というようなことを経験的におっしゃるんです。それとやっぱり群衆の処理は見事でしたね。そういうのをチラチラと見せていただいただけで。
岡倉先生が三越劇場で民藝の『女子寮記』(一九四八年八月)をやった時に、舞台稽古を見学させてもらったら、奥で声がするという場面があるんです。その距離感が気に入らない。それで「もうちょっと上手に行ってみて」「後ろ向いてやってみて」「幕の陰でやってみて」って、しつこいんだ。でもそれを聞いているうちに建物の構造が見えてきて「あ、なるほど」と思った。それは今でも僕も使わせてもらってます。

日比野 音、ないしは言葉の響きに対する感覚ですね。

ふじた そう。途端にパッと世界が見えてくる。

日比野 福田善之さんは岡倉さんのことを「決断できない人」と書かれていましたが、そういう感じもおありでしたか。稽古場で逡巡するとか。

ふじた そこまでつきあっていませんから分かりませんけど、そうだったろうと思います。ただ、そうなると逆に役者を巻き込んでいくということもあるわけで。田中千禾夫先生みたいに「いいですよ」しか言わない人もいる。ニコニコ笑って「いいですよ」と言っているだけで、芝居ができちゃう。あれは周りがやっぱり躍起になるんでしょうね。

「リアル」をめぐる試行錯誤

日比野 ふじたさんは、ずっと新劇の中に立たれていたという印象もありますが、一九六〇年代後半には、アングラ演劇が出てきます。そういうものについてはどう思われていましたか。当時は、唐十郎の岸田戯曲賞受賞に反対した人がたくさんいたように、反発する勢力もありました。また、福田さんのように、これはもしかするとふじたさんもそうかもしれませんが、感性はかなり近いものがあるのに、アングラからは敵だと思われてしまうこともあった。

ふじた それはあったと思いますよ。

日比野 ふじたさんご自身はそれについてはどう思われていましたか。

ふじた 僕はちょうどその辺りで、伝統の方に逃げるんですよ(笑)。能・狂言だとか浄瑠璃の方へ。というのは、僕の中では正当化もしてるんだけど、やっぱり「リアリズムはなんとかならないか」という思いがあった。わが日本の劇というのは、啓蒙主義でしかないんじゃないか。それと、リアルだろう、リアルだろうと言っていることにどれだけの意味があるんだと。やっぱり言葉が突き刺さっていかないじゃないか、観客を巻き込むにはどういう手があるのかなと思っている時に、あの説明過剰な狂言を観て、「説明しちゃいけないリアリズムってなんだったんだ」と思ったわけです。狂言では、役者が見えるんですよ。こういう見え方っていいなと思ったけど、考えてみればそれってブレヒトが言ってることじゃないのかとなったわけ。ちょうど三十人会のころ、その辺がぱっぱと結びついた時期があって、僕の方法を決めていったという気がします。
コロスが出てくる芝居は、僕が最初につくったんです。やっぱりリアルであるだけではだめだよなと思って、『ベッカンコおに』とその前にやった子供の芝居で、コロスが登場して、楽器をやってみたり、作品の内容を論じたり、いろんなことをするというスタイルをつくった。それは今でも有効性があるなと思っています。ただ、同時にそのリアリズム自体がちゃんと確立されてないじゃないかということも、まだ思っているわけ。確立されたのは啓蒙主義であって、本当にリアルということはなんなのか。そこを通らないでリアルをぶっ壊してどうするんだというような思いも持って、行ったり来たりしながらやっています、いまだに。

日比野 アングラの作品はご覧にはなっている。

ふじた 観ていますよ。

日比野 アングラ、そしてその後のいわゆる小劇場演劇は、新劇でいうところのリアリズムを否定しただけで、本当のリアルとはなにかを追求しようとしていたふじたさんには共感するところが少なかった、ということでしょうか。
 一九六〇年代後半、新劇が体現していたものに疑義が呈された時期にはまた、商業演劇の見直しもされました。福田善之さんはその一人で、商業演劇の世界に果敢に飛び込んでいった。ふじたさんの場合、商業演劇は視野の中に入っていましたか。たとえば、さきほどもお話になられたように、文化座にも商業演劇っぽいところはあるわけですが。

ふじた あれは商業演劇っぽいけど商業演劇じゃないですね。ただ、「商業演劇っぽい」と言われることは恐れてない。それがあそこの力だと僕は思いますけど。そうね、アングラって、結局、花吹雪みたいなことがあるでしょう。なんとなくね。芝居の最後に花吹雪が散って、みんな正面で見せて……。

日比野 予定調和の世界。

ふじた そうそう。それも力はあるし、魅力もあると思うけど、「僕はやらないな」と思う。

日比野 商業演劇でよく言う俳優の力についてはどうですか。演劇は俳優のものなのか、劇作家の、演出家のものなのかという究極の問いにもなるわけですけども。

ふじた 演劇は役者のものでしょう。どんなにいい芝居を持ってきたって、役者に殺されちゃいますからね。

日比野 商業演劇には、そういう、役者の力だけで持たせているところがありますが、それについては。

ふじた 否定も肯定もしません。役割が違うんだと思っていますから。

川口 三十人会時代の俳優論の基本はスタニスラフスキー・システムにあったとおっしゃっていましたが、同時に『現代の狂言』シリーズにも取り組んでいたわけですよね。俳優座劇場と矢来能楽堂の両方で上演したり。その時に何か具体的な変化はありましたか。現場はどのように受け止めたんでしょうか。挑戦としてはよくわかる一方で、現場レベルでは混乱も起きるのではないかという気がします。

ふじた 近代劇場っていろいろな「らしさ」をやるための場所でしょう。伝統演劇をかじっちゃうと「らしさ」を卒業したくなっちゃう。空間に余計なものがありすぎると感じるようになる。たとえば、ホリゾントなんかはそうです。どうしても「ホリゾントどうしますか、染めますか」ていうところからしか始まらないところがありますから。[伝統演劇に親しむようになると]「ホリゾントがなくて、そのままの壁だったらどうだ」と考えられるようになった。あんなに面白い、能舞台のような空間をつくった国民が、なんで近代劇場の暗闇の中に入りこんじゃったのかという思いがあるんです。
 ただ、その問題は現在進行形で結論は出ていません。近代劇場の構造を捨てて、劇を成立させるための空間をどうつくるのか、まだ見えてこない。だから、いろんな「らしさ」をやらないと劇場としての機能を持ったことにはならないと考える人をいちがいに否定はできない。そうじゃない劇場のつくり方はないかなと考えて、新百合ヶ丘にある川崎アートセンターのアルテリオ小劇場の設計にもちょっと携わりました。「これでどうだろう」と最初に役所が出してきた設計図は、ただの箱。どこかで見た箱だなと思ったら、吉祥寺シアターを造った人の設計だったんだ。「これじゃあただの箱だよ」「これだったらなんでもできますから」と。「なんでもできるけど、観客はどうするの?」と聞いてみると、平べったいままなんです。客席や観客の視線が何も計算されていないんです。「楽屋はどこに置くの」「どこかほかのところへ」というし。「何を言ってるんだ」と。それで、階段状の客席をつくって、その下を楽屋にする、前の方の座席をとっぱらって、張り出し舞台にすることもできるようにする、という方針を出して、つくったんです。今でもわりに好きな劇場ですけどね。
ついこの前、ひとみ座の新作公演[『ごきげんなすてご』、横浜にぎわい座のげシャーレ、二〇二〇年十二月]があって、初日を観てきましたけど、上演空間の後ろに倉庫のようにいろいろなものが置いてある、その状態のまんま使ってるんだよね。最初はそれが「目障りだな、あっちが気になっちゃうな」と思っていました。でも、芝居が始まったら気にならなくなった。ちゃんと自分が役者なり人形を見ているということに気がついて、「はて、ちゃんとした劇場じゃなくても劇が成り立つな、頑張っているな」と思いました。

市民劇への取り組み

日比野 もう少しお付き合いいただいて、市民劇についてお話を聞きたいと思います。これは本[『ふじたあさや戯曲集『夢・大江磯吉の』ふじたあさやと飯田演劇宿の十四年』二〇一〇年、晩成書房]にもお書きになっていますが、飯田演劇宿の設立(一九九六年)に関わっておられます。

ふじた 演劇宿は僕が命名したんです。

日比野 地域の演劇や市民演劇にも、もともとご関心があったんですね。それはやはり風見さんの影響ですか。

ふじた 地域における演劇のありようみたいなことを僕に最初に植え込んだのは風見さんですから、それはもちろんあります。あるんですけど、疎開の経験もありますし、やっぱり絶えずどこかで、「民衆にとってわれわれは何者なんだ」という思いがあるんです。
飯田演劇宿については、アメリカのリージョナルシアターが面白いんだよ、という話を聞いて「ふーん」なんて思っていた時に、飯田の小澤廣人さんという人から、「飯田は人形劇ばかりじゃない。人間の芝居もやりたいから手を貸してくれないか」と、ひとみ座を通して話が来て。「そんなこと言ってるけど、あさやさん行ってくれない?」なんて言われて聞いてみると、ちょうど公文協の施設、文化会館が旗を振ってやりたいと言っている。「だったら作業場をつくりなさいよ」と言ったんです。大道具をつくったりできる作業場をまずつくりなさいと。そうしたら、「わかった」と即つくったんです。これで「そっちが本気なら、こっちも本気になりますよ」と始めたんです。最初は会館ができて何周年とかのイベントでミュージカル(『かざこし姫と仲間たち』一九九六年二月、飯田文化会館)をやりたいというので、岡田(和夫)さんを巻き込んで作りました。その後、地元の歌人・金田千鶴とか、藤村の『破戒』のモデルである大江磯吉など、演劇宿のためのオリジナルを書いて上演しています。

日比野 その後も、かわさきヤングミュージカルというのをおやりになって。

ふじた それは川崎市から頼まれて。子供を集めて芸能活動をやらせる場をつくりたいというので、溝の口の市民館を借りて、募集をかけたら結構集まりました。そこで『ジャングルブック』(二〇〇四年九月)をやったりしましたが、市の仕事ですから。もともと「やるんだったら市民劇団をつくる方向がなかったらだめだよ」とは言っていたんですが、予算がつかなくなって、ちょうど川崎市アートセンターができる時だったので、「今度はこっちでやろう」という話になりました。それで、子供だけに特化せず、僕と一緒に芝居をやりたい人というふうに呼びかけたら、四歳から七十四歳まで、六十人来ちゃったんです。それで条件の合う人はみんな入れちゃえということで五十数名で始めました。「劇団わが町」という名前で、これは市のアートセンターの発信事業ですが、指定管理者が四年だか五年で代わるんです。ですからこれも、そのたびに入れ替えをするようにして、続ける人、新しく入りたい人を受け入れるということにしています。なんだかんだ、最初からやっている人は十年くらいやっているかな。
「最初は何ができるだろう?」と。それで、ひらめいたのはワイルダーの『わが町』をアメリカバージョンと新百合バージョンと並行して上演するようなスタイルです。あるところまでは翻訳のままやるんです。そこから場面が変わると日本バージョンになるというスタイルをつくりましたら、これが当たっちゃったんです。それで何度か再演を重ねています。
その後『ザ・チェーホフ』(二〇一五年三月)では、チェーホフの短編小説を特集しました。これがチェーホフかというような、ずっこける話ばかりを集めて、みんなに脚色させて、僕が手直しして、ということをやりました。そうしたら子供まで、十いくつの子が台本を書いて来て、これが面白かったんですよ。そうしたら、そういうことをさせてくれるところだというので、なんとなく居心地がいいのか、それに参加した人は今も残っています。その後、今度はオリジナルでやろうということになり、「書ける人は書いてごらん」とやったのが『恐れを知らぬ27人の劇作家?と49人の俳優たち』(二〇一七年三月)です。面白かったですよ。書く時に「ブレヒトはね……」なんて話をしてそそのかして。いちばん最近の『題未定』(二〇二〇年二月)というのは、金子みすゞを題材にした僕の作品(『みすゞ凜々』二〇一九年三月)のテーマ「みんなちがって、みんないい」を問いかけとして、それは実現しましたか?ていう答えとして、本を書いてごらんと言ってつくったものです。

日比野 そういった市民劇の魅力は一言では語り尽くせないのかもしれませんが……。

ふじた みんながこういうことをやるという状態が底辺で、僕は演劇界の底辺をつくっているつもりなんです。これを経験した連中の目がどんどん肥えていく。

日比野 ふじたさんご自身に返ってくるものはありますか。

ふじた ありますよ。人が育つことで、僕が支えられていくということはあるから。

日比野 『日本の教育』をお書きになった直後のことで随分昔のことになりますが、自分は教育という制度の外で教育をやりたいとお書きになっています。

ふじた 演劇は教育だと思っていますから。教育が本当に教育なのかということはあるわけで。学校教育に関しては、僕は相当疑いの目を持っています。記憶を確かめたり、記憶されたものの量を確かめることが教育じゃないけど、今はそういうことを利用してふるいにかけるシステムが「教育制度」ということになっちゃっているでしょう、日本は。だから、本当に人が育つってどういうことか。それにはひょっとすると、演劇がいちばんいいんじゃないかというふうには思っている。だから、市民のみなさんと一緒に、それぞれがそれぞれ、自分を育てていくという手伝いをしているわけです。人の目を見てしゃべることができないとか、そういう人が結構来るんですよ。それがどんどん変わっていく。嬉しいですよね。初めて人に届く声が出せたなんて言うの。そうやってなんとなく自信がついてくる。そんな実践をやっています。

読む・語る・謡う ひとり芝居と俳優

日比野 ひとり芝居もたくさんお書きになっていますが、ひとり芝居に対しては、どんな可能性を感じておられますか。

ふじた 演者自身が見えるじゃないですか。僕が書くのは、役じゃなくて、演者が見えてくるひとり芝居ばかりなんです。だからある意味では、ブレヒト的な。

日比野 『「おりん口伝」伝』(二〇〇六年十月)のように、「伝」が重なるのも、そういう意図からですね。

ふじた そうそう。そういった枠も含めて容認する、そういうことができる役者に育ってほしいから。「その気があるなら書くよ」と言って。『母—多喜二の母—』(脚色・演出、一九九三年六月)をやっている河東けいさんも、九十六かな、今。九十五だったかな。もう施設に入っているんですけど、この芝居のときだけ出てくるんです。今、コロナでちょっとできないので止まっていますけど、ライフワークにするんだって頑張っていますね。

日比野 日本の芸能の原点でもある語り物への関心は、おそらく小学校の時に、いろいろな話を一人で語って聞かせたエピソードにもつながってくるのだと思います。

ふじた 語るのと話すのと読むのと演じるの。それを一人でできるわけですから。そのヒントをくれたのは永ちゃん、永六輔さんです。僕のひとり芝居をNHKが中継するという時に、ゲストで永ちゃんがきてくれて。その時に二人で話をする中で永ちゃんが「読む」「語る」「謡う」「話す」「説く」とかって、言偏の言葉をずらっと並べてね。「その成り立ちを体現するのが役者の仕事だよな」って話になって、盛り上がったんです。それが僕の中にはまだ残っています。つまり、「リアル」に疑いの目を持った学生時代から始まって、狂言に目覚めたということも含め、このことが何かある種の到達点かなという気がしている。やっぱり、それって日本の芸能の原点じゃないですか。それはやっぱり変わらないんだなということが面白いと思うんです。気がつくと、麻布中学演劇部の小沢、加藤路線を引き継いでいるんです。

日比野 ひとり芝居には、役でもない、その人でもない、一体となったものを見せる面白さもあると思います。

ふじた そこがいちばん興味のあるところです。

日比野 非常に駆け足で七十年ぶんに近いお話を伺いました。劇作家として、ないしは演劇人として何かやり残したこと、これから挑戦したいことはありますか。

ふじた あの人のことを書いてみたいな、なんてことはありますね。この前、どさくさ紛れに京楽座でやっちゃいました。坂本龍馬の女房の話で『同じ龍の字』(二〇二〇年十月)というのを。あの人[お龍こと楢崎龍)に興味があったんです。映像化すると助成金がとれるということで、これを利用してやっちゃおうと。

日比野 今日はあまり時間がなくて聞けなかったんですが、オペラについてはどうですか。

ふじた 三木稔さんが僕にオペラを書かせたがって、何本かやりましたけど。興味はありますけど、オペラ界の音楽観があまり信用できない。武智(鉄二)さんが僕の『さんしょう太夫』(一九七二年三月)をオペラにしてくれたんですけど、武智さんにしてもやっぱり、そこは歯が立っていなかったなと思うんです。あのベルカントの発声法だと日本語が日本語でなくなってきちゃう。ただ、日本語をきちんと聞かせて、日本語で歌い合うことができる可能性はあると思っています。日本語はメロディーを持っていますから、そこにメロディーを与えると途端に言葉じゃなくなってしまう。言葉でありつつ歌であるためにはどうしたらいいのかは、実はまだ誰も解決していない問題です。それはまだまだやってみたい部分ではありますね。そう言っているうちにもう、いいかげん歳食っちゃいましたけど。