基本データ
取材日時:二〇一七年七月二十三日
取材場所:マイ・スペース&BB池袋西武横店
取材者:神山彰・日比野啓・川添史子
編集・構成:川添史子
イントロダクション
私のような半世紀以上前からの新派好きでも、柳田豊氏の名前を知ったのは、国立劇場で新派の制作に関わるようになってからである。と言っても、一九七九年のことだから、既に四十二年前の事になる。
どうして、それまでの記憶になかったかと言えば、一九七〇年代前半までの新派には、明治生れの老練、達者な脇役たちが揃いすぎていて、大正生れでさえ、まだ若い感じ、昭和生れの諸優たちは、およそ物足りない感じがするほど、俳優の層が厚かったのである。
私の馴染んだ頃の、人気を誇った新派の魅力は数多いが、芝居好きの人たちが口を揃えたのが、脇役の魅力だった。ここでは男優に限るが、私の記憶だけで思いつくままに挙げると
藤村秀夫、松宮慶次郎、高橋潤、中田三一朗、中川秀夫、山口正夫、島章といった人たちである。
彼らはいわゆる「巧い役者」だったか——と問われると、そうは言えないだろう。だいたい、我々が「巧い」というのは、無意識の内に、「近代演劇」的な文脈での「迫真の演技」というイメージを指している。そういう意味では、彼らは「巧く」はなかった。概ね、台詞も一本調子で、声量も乏しく、時には、不明瞭でさえあった。それにも拘わらず、彼らは「ある世界」を濃密に表現していた。
歌舞伎でも、新派、新国劇、松竹新喜劇、東宝現代劇でも、私は、幕明きの脇役の俳優たちの気配が、私は好きだった。商業演劇では、主役が板付き[幕が開いたときにすでに舞台に登場していること]という劇作法は稀なので、脇役の比重が大きい。最近は歌舞伎でも幕明きから声張上げ熱演するが、以前は、ぼそぼそと呪文のような調子の台詞だった。幕明きの台詞は説明ではない。いきなり説明されても解るものではなく、元来、演劇も映画も小説のように説明ではなく、徐々に観客に状況や設定を解らせるものだ。
幕明きの脇役の存在と台詞は、その芝居の「ある世界」に観客を誘う性質のもので、その意味で、かつての商業演劇の、わけても新派の脇役諸優の技量は抜群だった。彼らは、ただ、そこに居るだけだった。幕明きにぞろぞろ、戻ってくる観客を前に、よく聴き取れない台詞のヤリトリがある。「新劇」的基準の「迫真の演技」を価値とすれば、それはとんでもないことだろう。「役」の「性格」をロクに考えてもいないし、「なり切って」もいない、役の感情も行動も考えていないし、第一、台詞も聴きとりにくい。
しかし、数は少ないが、例えば、泉鏡花や久保田万太郎の戯曲では、ハッキリ言って、文学座の上演より新派の方が遙かにその世界が直感できるのである。「作品の理解」や「役の解釈」からいえば、何か月も稽古する新劇の劇団の方が、少なくとも「セールストーク」を言わせれば、優れているのかもしれない。だが、演劇は「解釈力」より「表現力」である。
新派の脇役たちは、そこに居る、佇まい、座り方、立ち居、物言い等々によって、その戯曲の世界へ数分で導いてくれる。それができるのは「型」があるからだ。もちろん、それは歌舞伎でいう「型」ではない。彼らは、そこに居て、そうしているだけで、「説明」などなしで観客にじわじわと、あるいは瞬時に実感させる「生活の型」を表現している。
新派の背景にある時代には、生活そのものに「型」があった。インテリ、職人、書生、商人、勤め人、ヤクザ者——それぞれ、髪型だけで違う。女性でも玄人筋と素人衆では違う。持ち物(小道具)も違えば、着る物も違う。それに応じて、ちょっとした物言い、挨拶、身ごなし、ふるまいも違ったのである。古い芸談に、町中で歩く人、往来する人たちを見て、芝居の役を勉強しろ――というのがあるが、そういう芸談が通用したのは、一九六〇年代までだろう。一九七〇年代に学生服を着る学生、角刈りの職人も姿を消していった。
そして、先に挙げた新派の印象深い脇役たちが、姿を消していくのが、一九七〇年代なのである。大物だと、花柳章太郎が一九六五年歿の後、大矢市次郎、伊志井寛が共に一九七二年に没してしまう。
新派がはじめて国立劇場に出演した一九七三年には、既に彼らも、二〇歳ころまでの私に忘れ難い「演劇的記憶」を刻み込んだ脇役たちも多くは姿を消していた。私が国立劇場で新派の制作に初めて携わった一九七九年には、先述の脇役陣で健在は島章だけで、脇役の主軸は大正から昭和一桁代生れの人々になっていた。その中で、加納英二郎とともに、柳田豊の名前と顔が、私にも印象深くなってくるのであった。
柳田氏が新派に入団した時期は、まだ俳優も裏方の職人も明治生れの、先に触れた「型」の身に付いた諸氏が中心だった時代。諸先輩は、どこの世界もそうであるように、手取り足取り教えることなどしないし、また、教えてどうなるような演技でもない。よく言うように、見よう見真似、あるいは「盗む」しかないのである。しかも、当時は新派の人気は凄く、毎月興行しているのだから、舞台だけでなく、毎月顔を合せ、稽古場や楽屋で毎日接するうちに、職人につく弟子が手仕事を、いわば「暗黙知」として、あるいは「心意伝承」的に、学び、受け継いできたのである。
そして、彼等、新派の人々の多大な魅力は、柳田氏もそうであるように、その経歴の多彩さからも生じているだろう。歌舞伎、新劇、松竹家庭劇、松竹新喜劇、映画、浄瑠璃——その他の前歴が、正に、いい意味での「芸人渡世」であり、そういう人生や世渡りをしてきた陰翳や屈託が、当人も無意識の内に、実に明暗とりどりの味わいとなって、時には苦く、渋く、時には甘美な芸をみせてくれたのだ。
また、柳田氏は[初世]水谷八重子門下なのも、今回の話を多彩にしている。水谷は、当時の舞台俳優としては随一の人気を誇る存在だから、東宝の舞台にも歌舞伎俳優との合同公演にも出ている。そして元来、芸術座出身の新劇だから、多くの新劇系演出家との人脈もある。
柳田氏もまた、薔薇座で佐々木孝丸や千秋実の元で、舞台に出演する演劇人生を始める訳だが、水谷門下となることで、東宝の多くの舞台にも出演したことは、貴重である。
だからこそ、このインタヴューで触れる話題も、広範囲にわたる、多面的で興味深いものとなったのである。
柳田氏の多くの役の中で、最も印象的で何度も手掛けた持ち役は『滝の白糸』の裁判長だが、私が制作担当した舞台では『京舞』の司会者が実に味わいがあって記憶に残っている。
近年では、正に「新派の人間国宝」であり、『婦系図』の酒井、『残菊物語』の五代目菊五郎など、かつての大矢や喜多村が演じた役を勤めて、決しておかしくない、立派で厚みのある舞台を見せてくれている。
戦後すぐからの実に、七〇年以上に渡る芸歴を、柳田氏は忌憚なく、思い出豊かに、語ってくれた。広く、新劇から新派、東宝の舞台にいたる世界を語る、今回のインタヴューは、正に、「近代日本オーラルヒストリーアーカイヴ」に相応しい性質のものなったのである。 (神山 彰)
薔薇座入団
神山 柳田さんは昭和五年(一九三〇)のお生まれなので、終戦時は十五歳ですね。疎開はなさっていたんですか?
柳田 いいえ。学徒動員で銃剣術の勉強をしていました。妹たちは学童疎開や縁故疎開をしていたので、僕らの年代はぎりぎり、教練をした年齢です。
神山 じゃあ、東京にいらっしゃった?
柳田 はい、東京の芝です。僕の実家は本屋だったんですよ。祖父は鞄問屋ですし、周りは商人ばかり。全然芸能とは縁がない環境だったんです。たまたま大叔母、祖父のおばあさんの妹は、大矢[市次郎]先生の女房でしたけれど。
神山 そうだったんですか。映画はどうですか?
柳田 あのころの娯楽というと映画でしたから、好きでよく見ていました。
神山 どういう経緯で薔薇座に入られたんでしょうか?
柳田 学校の先輩が薔薇座の研究生で、学校へ切符を売りに来ていたんです。それを買って、日劇のビルの五階、日劇小劇場で薔薇座を初めて観ました。のちにストリップか何かの小屋[日劇ミュージックホール]になっていましたね。あそこで定期的に薔薇座が公演をやっていたものですから、そこで『堕胎医』[一九四七年十月初演、日劇小劇場]を観ました。
神山 菊田一夫さんの。
柳田 『静かなる決闘』[黒澤明監督、一九四九年]って映画にもなりましたね。ほかにも『お前もまた美しい』[一九四八年十月初演、日劇小劇場]って八木(隆一郎)先生の作品。それもまた映画になったんですけれど(『命美わし』大庭秀雄監督、一九五一年)。そのあたりの時に僕が入ったんです。
神山 演劇は、薔薇座をご覧になって、すぐにやってみたいという気持ちになったんですか?
柳田 そうです。『お前もまた美しい』を観てひと月後、すぐに入れていただきました。
神山 そのときは面接試験。
柳田 千秋[実]さんのおうちに行きました。教育テレビの山本隆則さんという方や、秋野和郎さんといった当時の文芸部の方々と面接して。それで入れていただきました。
神山 [千秋実の妻・踏絵の父である俳優・演出家]佐々木孝丸さんは面接にいらっしゃいました?
柳田 面接のときは孝丸先生はいませんでした。でも研究生として入ってからは、よく飲みに連れていっていただきました。他にも研究生がたくさんいるなかで、僕のような間抜けに本当によくしてくださいました。
神山 佐々木孝丸というと、僕が子供のころはテレビドラマや映画にしょっちゅう出ていましたけどね。今思えば、ずいぶん年取って見えたけど、当時はまだ六十歳ぐらいだったんでしょう。佐々木さんは、柳田さんには左翼的なことなんかは全然おっしゃらなかったんですか?
柳田 おっしゃらなかったです。僕は大根だったものですから、怒るに怒られなかったんじゃないんでしょうか。
神山 そんなことはないでしょうけれど。当時はいわゆる新劇ブームでしたね。
柳田 薔薇座ってちょっと変わっていたんですよ。赤毛物みたいに言われていた新劇は、知識階級の人たちの知的好奇心を満たすような感覚がありましたでしょう。薔薇座は「もっと大衆を啓蒙するんだ」みたいなことを言っていて、三歩も五歩も先を見せるのではなくて、一歩手前ぐらいのお芝居を見せるというこだわりがありました。ですから新国劇の「演劇半歩主義」でしたっけ? それに近いようなことを薔薇座も言っていました。
神山 千秋さんがお書きになった『わが青春の薔薇座』でも、そういうことはお書きになっていましたね。柳田さんは当時、俳優座とか民藝の芝居はほとんど見てなかったんですよね? それはかえって貴重というか、珍しいですね。
柳田 薔薇座を観て、知識階級の人だけに見せている芝居と違うなと思いました。
日比野 ということは、ほかの劇団もある程度はご覧になってたんですね。
柳田 ちょっとは観ていました。当時、前進座がよく学生なんかを啓蒙するための公演だとか、公会堂なんかで上演していたんですよね。まだ劇場がないころですから。そんなのを観て、演劇はちょっといいものだなという気持ちはありましたね。
日比野 当時、研究生はどのくらいいたんでしょうか?
柳田 僕らが入った当時は劇団員が六〇人ぐらい、そのうち研究生は二〇人ぐらいじゃないでしょうか。劇団が活発に動けなくなったときにも、千秋さんのおうちで孝丸先生を師匠にして、学校みたいにして教わっていました。バレエは日劇の山中寿先生なんかが教えてくださって。東郷青児さんのお屋敷にバレエスタジオがありまして、そこへ山中先生なんかと僕ら研究生が行っていましたね。
神山 千秋実さんというのは芸名なんですよね。
柳田 本名は佐々木[勝治]さんですね。
神山 柳田さんはご本名ですね。芸名を付けるという感じではなかった?
柳田 全然それはありませんでした。
神山 『長崎の鐘』[一九四九年三月]が初舞台。三越劇場ですね。
柳田 当時の三越劇場は、入り口が今の切符売り場の横あたりだったんです。そこが楽屋道で、今、倉庫になっているところが楽屋になっていて……ですから今とは入り口が違うんです。
神山 『長崎の鐘』が、柳田さんにとって、まるっきりの初舞台なんでしょう?
柳田 まるっきりの初舞台、素人で本当に出来が悪かった。そもそも入ってまだ二カ月で『お前もまた美しい』でもって全国巡業にいきなり小道具係で行ったんです。研究生がたくさんいたのに、よく僕みたいな何も知らない大根を小道具係で連れていってくれたなと思って。まだ食糧事情の悪いころで、九州なんかに行ったときには丼ご飯。それが足りなくて、千秋さんが半分分けてくれたりとか、踏絵さんが「食べなさい」なんて言ってくれたのを思い出しますね。
神山 『長崎の鐘』では、せりふはあったんですか。
柳田 一言ありましたが、できなくて同輩の研究生に代わってしまいました。僕は照明係に回されて、二階で照明を当てながら、自分のせりふを言う友達を見て泣いたことがあります。
神山 おいくつの時ですか?
柳田 一九歳ですね。
神山 それでも、その後の『冷凍部隊』[一九四九年八月、三越劇場]ではせりふの多い、結構いい役をやったんでしょう?
柳田 当時は移動演劇という集団がありまして、俳優不足だったものですからその集団から俳優さんを借りたくらい、演者の多い芝居でしたので、僕みたいな下手な研究生でもせりふを言わせていただいたということです。
神山 『冷凍部隊』が地方を回ったりしたんですか?
柳田 いいえ、『長崎の鐘』です。
神山 『冷凍部隊』はああいう題材ですけれど[架空の土地にある日本兵俘虜収容所を舞台にした物語]……お客さんはどういう反応だったんでしょうか?
柳田 シベリアの問題がありましたので、それこそ三越に赤旗を振って共産党が怒鳴り込んでくるんじゃないかなんてうわさもあって。
神山 あれは北條秀司が書いたんですよね。
柳田 はい。佐々木先生が演出をなさったんですけど、「お前たちはまずい」みたいなことを孝丸先生が言ったら、バチバチッと手をたたいたのが北條先生でした。
神山 北條さんも、考えたらそのころまだ若いんですよね。佐々木孝丸さんは演出家としてはどうですか、実際にやってみせる方ですか?
柳田 いいえ、おやりにならなかった。ですから、僕は戦前に役者だったという孝丸先生は全然頭に浮かばなかったんです。敵役で東映映画か何かに出てらっしゃるのを見て「やっぱり役者をおやりになったんだな」と思って。エンサイと言われるぐらい物をよく知っていらっしゃる方でした。
神山 エンサイクロペディア[百科事典]のごとく。では、稽古はそんなに細かくはなかったんですか?
柳田 細かくはやっていらっしゃいましたけど、ただ怖い先生ではなかったですね。『エデンの海』[一九四九年七月]を豊田四郎[映画]監督との共同演出で新宿のセントラル劇場[新宿東宝五階]でやったときに、角梨枝子さんがゲストでお出になったんです。そのときに営業が「新人の角梨枝子さんがせっかく出るんだから、ピアノを弾かせろ」と言ってきた。そうしたら孝丸先生が、「何だお前たちはすぐ営業だ、営業だと、客のことを考えないで言うんだな」と言って、何かけんかをなさってらっしゃった。結果的には角梨枝子がピアノを弾く場面ができましたけどね。すごく孝丸先生が怒ったのを覚えています。
神山 孝丸さんが怒るのは珍しいですね。
日比野 『わが青春の薔薇座』では、そのころ角泰枝さんとおっしゃっていた角梨枝子さんが大変大根で困ったみたいなことをお書きになっていますけれども。
柳田 そんなこともなかった。角梨枝子さんは初めての舞台だったんじゃないですか。慣れていなかった部分はあったでしょうけれど、僕にとっては新鮮で、すごく明るい、かわいい角梨枝子さんという印象があります。
神山 今、お話に出た新宿のセントラル劇場というのは帝都座のあったところですか。
柳田 いいえ。伊勢丹の横を入ったところの交番の横に東宝のビルがありまして。ストリップをやっていたようなとこだったんじゃないですか。
新派へ。思い出の先輩たち
神山 新派にお入りになったのは昭和二八年(一九五三)ですね。
柳田 薔薇座の運営があやしくなっちゃって、僕は児童劇団の巡業に行ったりして食いつないでいました。当時文工隊(ぶんこうたい)[文化工作隊の略]なんていう、共産党があちこちでやっている劇団があったんです。その一つに「東京少年劇団」というのがあって、僕はそこに入ってやっていました。知識も何もないのにやっていたものですから、やっぱり途中でついていけなくなっちゃって。そのときにたまたま、僕の同級生のお父さんが新派と前進座の小道具係になったんです。それで「もし興味があれば、俺のところを手伝ってくれないか」と言われて、竹内小道具へアルバイトに行ったのが[初世]水谷八重子先生との出会いです。
神山 そのときに水谷先生はどこにお出になっていたんですか?
柳田 新橋演舞場です。五月だか六月だか、当時は毎年、芸術座として全国を回ってらっしゃったんです。そのときに僕は小道具係で行ってました。「小道具じゃなくて役者さん志望ならば、うちへ来ない?」と言われて、それで入ったんです。そのときはちょうど先生が守田勘弥先生とお別れになったばっかりで、お弟子さんはみんな好きなようにしてと言って、みんな散ってしまったところ。TBSができたばっかりで、寺島信子さんとか、春日千里さんなんかみんなそこに入ったりというような時期で。先生はやっぱり舞台をやりたいから、それで僕に声を掛けたんだと思うんです。
神山 寺島さんはまた後に新派に戻りましたね。芸術座というのは劇場ではなく、水谷さんが菅原卓なんかと一緒にやった劇団のほうの芸術座。それで水谷八重子門下になられたのが昭和二八年(一九五三)ですね。
柳田 はい。三月に入って、五月が初舞台だった記憶があります。
神山 そうですか。調べても柳田さんの新派初舞台だけがなかなかお名前が出てなかったんですよね。それは新橋演舞場ですか?
柳田 新橋演舞場です。
日比野 二八年の五月、新橋演舞場の新派公演は『夏子の夕化粧』、『花浄瑠璃』、『女中の青春』、『あぢさい』、『シミヌキ人生』ですね。
柳田 僕は何か三役やった気がするんですけれど……『姥子の湯』だけ印象に残っています。
神山 その頃は、喜多村緑郎先生がまだご健在。八〇歳ぐらいでしょうけど。
柳田 お元気でした。
神山 でも柳田さんは入ったばっかりで、喜多村さんとは口をきくとか、そんなことはできないでしょう。
柳田 きけなかったです。名前も最後まで覚えてくださらなかった。それこそ『婦系図』で僕が郵便屋か何かをやっていたときに、「水谷のところの役者」と言うぐらいで、僕の名前は言ってくれたことがなかったですね。
神山 そのころは新派といったって百人ぐらいいるんだから覚えられないですよね。喜多村さんは一言で言うのは難しいでしょうけれども、やはりおっかないという感じですか。見た目は紳士なんでしょうけど。
柳田 上の人には怖かったかも分かりませんけど、僕らにとっては雲の上すぎて。お顔を洗うのでも、楽屋でビニールみたいなものを下に敷いて、その上に洗面器を置いて顔を洗っていらっしゃいました。外の洗面所にいかずに、全部楽屋の中でされていて。聞いた話だと、お手洗いも確かお部屋でされていたんじゃないんですか。足もお悪かったけれども……そういうことじゃなくて、何か先生はちょっと変わってらっしゃった。
神山 戌井[市郎。初世喜多村緑郎の孫にあたる]先生から聞いたんですけど、喜多村さんのところに養子の方がいたんですけれども、覚えてらっしゃいます?
柳田 覚えています。
神山 それは貴重ですね。喜多村一(はじめ)さんと言って、途中で二度目の奥さんとだめになっちゃって離縁になったんですよね。それで藤間光章という名前で、踊りの先生をやっていたと戌井先生から聞いたんですよ。
柳田 そうですか。そういうことは知らないんですけど。
神山 いらしたのは覚えています?
柳田 はい。喜多村先生が軽井沢に別荘をお持ちになっていて、そのときに喜多村先生が「僕はそんなに利用しないから整理する」というので、喜多村先生のお弟子さんの吉霧[音彦]ちゃんと二人で軽井沢のおうちへ片付けに行って、そのときに、今、言った喜多村さんのご養子さんとご一緒しました。
神山 それは貴重ですね。戌井先生は「前進座の誰だかの弟だ」と言っていましたが名前を思い出せなくて、「また伺いますよ」と言ったら、間もなく亡くなってしまい、もう聞けなくなっちゃったんですけどね。前進座の古老の方に聴いても解りませんでした。喜多村さんは舞台ではどうでしたか。ご老体ではあるけれども、やっぱり舞台の上では違う感じはするわけですか。
柳田 しましたね。花柳章太郎先生なんかでも、口うるさい、誰にでも怒鳴って怒る方が、やっぱり喜多村先生には二歩も三歩も下がっているという感じがありましたね。
神山 花柳さんの方が明るいと言えば明るいんだけど、怒るときは怖いんですか。
柳田 それは大きな声でもって、それこそ裏方さんでも何でも怒鳴ってらっしゃった。けいこ中なんかはよくきっかけのことなんかで、お囃子さんを怒ってらっしゃったのを覚えていますね。
神山 下座の方ですね。
柳田 そうです。きっかけなんかはものすごくうるさくて、よく怒ってらっしゃいました。
日比野 それは、柳田さんが、大矢市次郎さんのご親戚だから怒られなかったということもありますか?
柳田 全然、僕は周囲に言わなかったんです。だから、劇団でも知っている人はいないんじゃないですか。
日比野 そうですか。じゃあ、大矢さん自身も……。
柳田 大矢さんは知っていました。でも、そのことで特に目をかけてくださったとか、そういったことはないです。ただやっぱりちょっと気になっていたのかも分かりませんけれども、僕が幹部になるときに大矢先生が洋服を作ってくださったということがありました。
神山 それはいい話ですね。新派に入団なさったころ、新派は何しろ脇役が充実しているという定評があったから、序列みたいなものはうるさかったですか。
柳田 うるさかったです。それこそ地方公演に行くと旅館が違いますからおかずも違うみたいな感じで、幹部というのはあこがれましたね。
神山 そういう意味では、先代の英太郎さんまでちょっと別格でしょうね。年齢からいっても喜多村先生はもちろん別格で、花柳、水谷、それでやっぱり英さんですよね。
柳田 そうですね。藤村[秀夫]先生、伊井[友三郎]先生。
神山 伊井さんは昭和三十年代まではご健在でしたね。
柳田 東映映画でよく敵役なんかをやったりして。
神山 出ていますよね。伊井さんのご記憶はありますか。
柳田 やっぱり二枚目の方でしたから、ちょっとした立ち姿なんかにも気になさるお方でしたね。だから「あれはなってないよ」とご注意されるのはたいていせりふよりも姿形。よく形という言葉をおっしゃっていましたね。本当にすきっとした先生でしたね。
神山 伊吹[武]さんは伊井さんのお弟子さんだったんですか。
柳田 伊井先生のお弟子さんではあったんですけれども……。伊井先生の娘さんがよく、「伊井という名前は二枚目の役者の名前なのに、伊吹が伊井になるのはおかしい」と反対なさってらっしゃいましたね。
神山 後の伊井義太朗さんですね。私なんかが知っているのは伊井義太朗さんになってからなんですけど、印象が違いますもんね。脇だとやっぱり中田三一朗さんとかが年長で。
柳田 みんな恵まれてらっしゃらなかったから。中川[秀夫]さん、島[章]さんもうまい方でしたけど、ご運の悪いというか、本当にちょっとお気の毒でしたね。
神山 高橋潤なんかは舞台でしかもちろん見てないですけれども、座っているだけで違いました……。あの方たちはやっぱり運が悪かったというか、巡り合わせが。
柳田 それこそすべてが違っちゃいますからね。巡業に行くときでも、旅館でも楽屋でもすべて違っちゃうから。
神山 楽屋が違いますもんね。楽屋割は制作側でも大変神経を使うところなんですけれども。関西新派にいらした方なんていうのはほとんどいなかった。
柳田 英(はなぶさ)太郎先生は関西新派です。
神山 英先生は普段は関西言葉だったんですってね。
柳田 そうです、関西弁です。
神山 自分のことを「あたい」と言っていたと、音響の辻亨二さんに聞きました。当時はまだ柳田さんは二十二〜二十三歳でしょう。
柳田 はい。脇役でも上の方たちとは部屋が違いますからね。幹部さんというと、大体、一部屋五〜六人ぐらいとか三人とかでお入りになる。先生方は個室。
神山 そのころは花柳喜章さんはいらっしゃいました?
柳田 いらっしゃいました。喜章さんが一番上。いい方でしたね。短気で人にはカッと怒るけれども、面倒見のいい方で、僕らによく「相撲を取ろう」とかおっしゃったり、「鍋に行こう」とか、面倒を見てくださった。
神山 [市川]翠扇さんももちろんいらしたでしょう。
柳田 翠扇先生はまだ紅梅でしたけど。
神山 紅梅さんは九代目団十郎の孫だから、楽屋はやっぱり違うんでしょう。
柳田 でも、いつでもおっしゃっていたことは、やっぱり水谷さんを越せないということはすごく聞きました。後で聞いた話ですけれども、いろいろとあったみたいですね。
神山 こう言っちゃ何だけど、人気の面でも全然話がちょっと違い過ぎますもんね。翠扇さんは確かにものすごく芝居はうまいんだけれども、人気とか華やかさからいくと、どうしても脇の方になっちゃいますからね。
柳田 そうですね。だから、東横劇場なんかでもって主役をやってらっしゃったときはとてものびのびして、明るくて、親切でしたね。東横で有吉佐和子さんが初めて本を書いたときに翠扇先生が主役をやられたんですよ。それをどうしても演舞場でやりたいと言っていたけど、とうとう演舞場では主役でやらせていただけなかった。『笑う赤猪子(あかいこ)』という作品です[一九五七年(昭和三二)七月・昼の部]。
神山 そのころ、もちろん女形だと成田菊雄さん(一九〇八〜一九八六)、西脇滋(一九〇八〜一九七四)さん。上田茂太郎さん(一九二三〜一九九〇)はちょっと後でしょう。
柳田 ちょっと後です。みんな明治生まれで、上田さんだけが大正[成田菊雄と西脇滋は明治四一年生まれ、上田茂太郎は大正十二年生まれ]。
神山 上田さんだけ、ちょっと若い感じがしましたもんね。でも上田さんは陽気な方で、楽しかったですね。
柳田 面白い方でしたね。みんなを笑わせて。
神山 本当に楽しい方でしたね。けいこ場にいるだけでも何か楽しいようなね。
柳田 はい。
神山 京塚[昌子]さんはもういらしたんですか。
柳田 京塚さんはだいたい一緒です。同じ年ですし。
神山 京塚さんは昭和五年だったんですか。
柳田 はい。ただ僕は薔薇座なんかにいて、ちょっとこっちに入ったのが遅かったから、京塚さんはもう入ってらっしゃった[昭和二二年(一九四七)三月、新生新派第三期研究生として入団]。
神山 金田[龍之介]さんはもうちょっと上でしょう。
柳田 金田さんは遅いんです。あの方は昭和三十年ごろか……三十二〜三十三年に入ったんじゃなかったですかね[昭和三十年(一九五五)九月入団]。ただ最初から幹部待遇で入りましたから。松竹の高橋専務が大阪に行って、金田さんを見て気に入ったとか。もう一人、金田さんと一緒の新劇をやっていた渡辺千世さんと二人、高橋さんが連れていらした。後で聞いた話ですけれども、水谷先生の代わりができればということだったとか。水谷先生は当時わがままで、松竹ではちょっと手に余っていたみたいなところがあるんです。渡辺千世が入ってきたときに、先生がちょっといすを持ってきてと言って、僕と花道の揚幕でもって渡辺千世の芝居を見に行ったんです。そんな先生ってまずないですからね。見終わってクスッと笑ったのがとても耳に残っています。
神山 それはいい話ですね。
柳田 松竹は水谷先生のわがままを抑えるために渡辺千世さんを入れたんだけれども、それは格が全然違います。
神山 それはそうですよね。
柳田 桜[緋紗子]さんとか霧立[のぼる]さんも推してきたけれども……。
神山 私は祖母が新派が好きでよく連れていかれていましたので、桜緋紗子ぐらいから僕でも記憶があるんです。幼心にも霧立のぼるがものすごくきれいに見えましたね。
柳田 きれいでした。もう出てくると、ぱーっと。だから、先生は霧立さんには脅威を感じてらっしゃったんじゃないですか。ただ霧立さんはせりふ覚えが悪いから。
日比野 そうなんですか。
柳田 うつうつ、うつうつやるでしょう。だから「田舎のバス、田舎のバス」と言って、ばかにしていましたけど。でも、やっぱりきれいだし。
神山 ねえ。僕の子供のときの印象は間違ってないですね。
柳田 本当にきれいでした。
神山 でも亡くなるのがちょっと早かった。残念でしたね。娘さんも一時、出ていましたよね。霧立はるみというのが。
柳田 東映の映画か何かに出ていた。
神山 先ほどお話に出た阿部洋子さんは、顔立ち、姿が本当にきれいな方でしたね。
柳田 そうですね。あの方も研究生が長くて、それできれいなのに、きれいなのにと言われながら、前半やっぱり苦労なさってらっしゃった方。晩年は腰が悪くなっちゃったから。
神山 阿部さんは名前も何度か変えていますしね。
柳田 一回やめていますしね。やめて、また戻ってきた方だから。
神山 阿部さんは本当に新派の顔をしていましたね。
柳田 そうです、本当にいい顔でしたね。
神山 あのころは女優は英つや子さん、それから瀬戸よう子さん、光本幸子とか、本当にいい女優がいましたね。
柳田 緋多景子ちゃんも。大鹿次代ちゃんと、もう一人、テレビ局の方と一緒になった、加藤和恵。聞いた話ですけれども、大谷竹次郎さんが[加藤和恵を]すごく気に入っていて、大事に育ててあげろよと言って、本当に抜擢されてよくやっていました。
神山 こういった女優の方たちも、水谷さんがいるから頑張っても朝幕にちょこっと出るとか、あとは脇役。翠扇以下の方、皆さんちょっと不安はどうしてもあったでしょうね。
日比野 まだお名前が出てない中で、柳永二郎さん。
柳田 柳先生はわりあいと映像に出ていらっしゃったくらいですから、お芝居はあんまりなさらない方です。だから、ここでもう一つと思っても、ちょっとそこを逃げちゃうみたいな、新派なんだから、もう少しやってもいいのにみたいなところも、柳先生はすっと逃げちゃうみたいなところがありましたね。映画とか何かでも、そういうリアルな演技を持っていらっしゃったから、新派らしい、たっぷりした演技はなさらない方ですね。
神山 裏方のお話を伺えたらと思います。ベテランの方だと、ここに来るときに名前が出た頭取の川名保二さんね。
柳田 川名さんは柝(き)を打つのがうまくて、歌舞伎にいらっしゃったころからうまかったと聞いたことがあります。歌舞伎では、そのお名前も持ってらっしゃったとか。
神山 竹柴姓だったということですね。そうですか。川名さんも若いころは結構うるさかったと聞きます。
柳田 気難しい人でした。
神山 歳を取られてからしかしらないので、本当に温厚そのものという感じでしたけれど。丸井不二夫さんは文芸部だったんですか。
柳田 いいえ、全然。
神山 藤村秀夫さんのお弟子さんで、好きでいらしていたんですよね。
柳田 マネジャーみたいにして。あの方は子役からなった方なんです。だから、子役のとき、つら灯りで、ろうそくで芝居をしたことがあると言っていましたよ。「そんなのを君たちは知らないだろう?」なんて。
神山 あと囃子方だと、私なんかは頭(かしら)、頭と言っているんだけど、中村兵蔵さんね。兵蔵さんはやっぱり花柳さんとか、皆さんは頼りにされていたでしょう。
柳田 中村兵蔵さんは古い、ものすごく物を知ってらっしゃる方で、歌舞伎でも通用するぐらいの人でした。長男の堅田喜代蔵さんは東宝歌舞伎でも長唄でよく出ていました。
神山 あのころはとにかく、新派は裏方も充実しているので評判でした。
柳田 裏方も十分いました。芸術座と新派と分かれてやるときだと、お囃子も二手に分かれて。六代目[尾上菊五郎]の笛を吹いたというのを自慢にしてらっしゃった方がいらして、その方は芸術座の方。兵蔵さんは新生新派の方の頭という、そういう二通りのお囃子さんがいましたね。
神山 衣裳だと山本長之助さんみたいに、ああいう本当に何を聞いてもすぐ分かるような方たちの記憶力というのはすごいですよね。ノートなんか見ないで、全部頭の中で覚えちゃっている、本当に職人という感じがしましたね。
[初代]水谷八重子先生の思い出
神山 水谷先生は確かにわがままな感じはすごかった?
柳田 手を抜けない方でしたね。でも先生が巡業に行くとき、芸術座として先生のいわゆるポケットマネーで劇団をつくって、巡業にいらっしゃいますでしょう。そのときには松竹衣裳でも何でも、まけて、まけてとおっしゃるんだそうです。これは衣裳屋さんに聞いた話ですけど、それが新派として演舞場なり歌舞伎座でやるときには「これじゃだめ」とおっしゃる。それこそお菓子一つでも「新しいものを」という先生でしたから。衣裳にかんしてはものすごく先生はわがままだったらしいんです。だから、衣裳部に木下金之助というボスがいたんですけど、その方が「巡業のときの優しさが演舞場公演のときにあればいいのに」とおっしゃっていた。
神山 新派は衣裳がとにかくお客さんの楽しみの一つでしたし。
柳田 そうです。だから、大谷竹次郎さんに衣裳部が泣いて言ったことがあるんです。そうしたら、水谷さんは売り物、だからわがままを言っても聞いてあげなさいということをおっしゃっていたそうですよ。本当に衣裳にはお金を掛けていましたね。先生はほとんど新品でした。ゑり円さんなんて銀座にありましたでしょう。あれに僕はよくお供をして一緒に行ったんですけど、襟襦袢一つでも、やっぱり新品を先生は買われていた。それがまた通ったんですから。だから、それだけは先生というのはすごい力がおありになったんですね。
神山 歌舞伎でも足袋なんかは一回で、まっさらなものしか履かないという人がいましたからね。花柳さんも衣裳は凝るので有名で、足袋などは自前で…。
柳田 それこそお買いになっちゃう方ですから。
神山 反物をどんどん買っちゃうんですってね。
柳田 だから、ゑり菊さんのがどうのとか、ゑり円さんのがどうのとか、よく花柳先生はおっしゃっていたんです。自分でお買いになっちゃうから。
神山 花柳さんと水谷さんはずっとコンビでやってらしたけれども、内々、近くにいると、ちょっとこれはうまくいってないという感じることはありました?
柳田 水谷先生はやっぱり花柳先生にすごく対抗意識を持ってらっしゃいました。「おい、今度のあれはいいよ」なんて花柳先生が出の前なんかでも、ちょっと僕らにおっしゃったりすると、こちらはうれしくて「はい」なんて言うと、「あの人の話を聞いちゃだめよ」と、すっと言うのが水谷先生でしたね、僕らが入ったばっかりころは。晩年は本当に花柳先生も水谷先生もお優しくて、両方仲良くおなりになっていましたけど、僕らが入ったばっかりのときは、もうこれ[角逐していた]でしたからね。
神山 だけど、ある意味では芝居は仲が良かったらだめですよね。喜多村先生が昭和三十六年(一九六一)に亡くなりますね。その喪失感みたいなものはありましたか。
柳田 晩年は、通って、ちらっと見て、すっと通るみたいなお役が多かったですから。
神山 お客さんも正直言って、花柳、水谷ですもんね。喜多村はものすごく偉い人という感じでね。
柳田 そうでしたね。水谷先生はどこに行っても、あいさつ一つ、行かない先生だったんです。でも喜多村先生のところには「喜多村先生、おはようございます」と明るくあいさつに行く先生を見ていますし、歌舞伎では[尾上]多賀之丞さんを尊敬してらっしゃって。
神山 水谷さんが多賀之丞さんを、そうですか。
柳田 「多賀之丞のおじちゃん、おはよう」なんて言っているのを。だから、多賀之丞さんも先生をお好きだったんじゃないですか。
神山 そうでしょうね。水谷さんは喜多村先生のところぐらいですか、新派であいさつをするのは。
柳田 はい。ですから花柳先生が亡くなったときに初めて「花柳先生」という言葉を聞きました。普段は「花柳さん、花柳さん」でしたから。亡くなったときだけは花柳先生とおっしゃったのが、とても印象に残っています。
神山 以前、樋田恵子[緋多景子]さんのお話を私が一人で伺ったことがあるんです、二時間ぐらいだったかな。そのときも樋田さんは花柳先生のお弟子さんでしょう。だから、それに近いようなことを言っていましたね。花柳さんが亡くなったときは、さすがに大きなショックでしたか。
柳田 ショックでした。亡くなったときに水谷先生が「すぐあんた来て」と言って、僕は水谷先生と二人でもって花柳先生の原宿のお宅へ行ったんです。「大きな耳が小さくなっちゃって」と言って、花柳先生の耳を触りながら泣いた先生を思い出します。花柳先生はすごく大きな耳だったんですよ。亡くなったら、本当に確かに小さな耳になっちゃって。
神山 あれは昭和四〇年(一九六五)一月ですよね。
柳田 水谷先生に僕は怒られてばっかりの弟子なんですけれども、そういう肝心なときというと、僕がやっぱりついていったという印象があります。後で聞いていると、弟子の中でもみんなそういう思い出はないみたいですね。
神山 水谷先生は花柳さんが亡くなった後、泉鏡花のものなんかをやることになります。花柳さんの鏡花物と違いはお感じになりました?
柳田 やっぱり違いましたね。
神山 川口松太郎さんも稽古の合間の雑談で、「やっぱり水谷が鏡花のものはやるのは変だ。ただ水谷は自分が芸者役とか毒婦みたいな役をやるなんて思ってもみなかったんだから、仕方ないよ」と言っていました。
柳田 花柳先生は「舟に乗ってよろけて、手を持ってくれるとか」とか、何かそういうお芝居でも一つひとつ作る方だったけど、水谷先生は違い、気持ち、気持ちとおっしゃる方でした。
神山 水谷さんだって僕から見ていると形はよかったですね。僕の好みですけど、気を失いかけるところがすごく形がいいんですよ、『湯島』や『鹿鳴館』で。ふらふらっとよろける、ああいうところの形は本当に、ほかの人がやっても全然違いますからね。
柳田 ああいうのは女形さんの芸を見て、水谷先生はつくられたんでしょうね。
神山 舞台装置の長倉稠さんがよく言っていましたけど、[『婦系図』のせりふで]「早瀬さん褒めてちょうだいね」というのがあるじゃないですか、最近あんまり出ないけど。あそこのところでも水谷さんは片付けさせてからやるんですね。あれを「女優の神経なんだ」と言っていました。花柳はたんかを切って追い出した後ですから、それで散らかしたまま。そこが水谷さんの神経と花柳さんの神経の違いなんでしょうね。何かやっぱりそういう点はちょっと違うところはありましたね。立ち役も大矢さん、伊志井さんがいなくなってからは全然違いましたでしょうね。
柳田 僕の先輩ですけど、その方がやったときに、劇評で「これは大矢で見たかった」みたいなことを言われたんですって。だから、どうしても大矢先生の個性の強いお芝居が新派の匂いというイメージがあるものだから、あと誰がやっても「大矢さんはね」と言われちゃうんですよね。
神山 なるほど。ところで、『メナムの王妃』[東宝、一九五七年九月、東宝劇場]という舞台に水谷さんがお出になられた際、柳田さんもご出演されてますね。
柳田 はい。僕はよそで水谷先生の自慢ばっかりしている弟子でしたけれども、あの先生だけは恥ずかしかったです。
神山 そうですか。水谷さんは歌ったんですか?
柳田 歌ったんです。榎本[健一]先生がマイクの前で教えてくださったんです。「私はふるさとの恋娘」なんて歌うんですが、先生は声が出ないんです。そうするとエノケンさんと三益愛子さんのお二人がマイクのところに来て、こうやってタクトを振ってみたりとかやったんだけど先生は……。
神山 全然だめでしたか。
柳田 結局舞台では歌いましたけれども、やっぱり歌はだめでしたね、先生は。
神山 『メナムの王妃』は[尾上]九朗右衛門さんも歌ったんですか。
柳田 九朗右衛門さんは歌わなかったんじゃないですか。
神山 なんで『メナムの王妃』に柳田さんが出ていることを知っているかというと、国立劇場[元理事]の平島高文さんがエノケンのお弟子さんで文芸部にいて、それでこの間、会ったときに柳田さんの話を聞いていたら、あの『メナムの王妃』のとき、暗転のときに懐中電灯を持って、俺はエノケンの足元を照らしていて、柳田さんが水谷さんの足元を照らしていったと、そう言っていましたから。平島さんとはほぼ同年代ですよね。
柳田 そうですか。
日比野 何で東宝はわざわざ水谷八重子に白羽の矢を立てたんですかね。
柳田 水谷先生は年に一回、東宝とやるみたいな感じだったんです。ですから、五月に東宝歌舞伎で長谷川[一夫]さんとやったり。先生自身は何でもやりたがるお方だったから、やっぱりミュージカルでもできると思っておやりになった。
日比野 本人が希望してやったんですね。
柳田 はい。でも、あの月は本当に機嫌が悪くて。
神山 それはそうでしょうね。自分でも分かりますもんね。
柳田 水谷先生が東宝へ一カ月借りられるときには、代わりの方が入っていましたし……それで思い出すんですけど、『メナム』を今度は越路さんが宝塚でやったんですよ。そうしたら、これが入りましてね。だからやっぱりあれは越路さんのものだったんだなと思いますね。
神山 歌はかなわないですよね。エノケンとはどうでしたか?
柳田 エノケン先生は「水谷先生」と呼んでいらっしゃいました。
神山 さすがにそうですか。
柳田 ただ陰に回って、益田喜頓さんとか三益[愛子]さんなんかと何かを言っている……っていうのは耳に入りました。
神山 益田喜頓はどこか意地悪なところがあったらしいと。そうでしょうね(笑)。菊田一夫先生で何か思い出というのはありますか。
柳田 例えば笑い一つでも、新派みたいな笑い方をするなと東宝の方に文句をおっしゃっていたんですよ。僕はそれを聞いて「何を言っているんだ、笑い方に新派の笑いとか何とかいうのはないはずだ」と思って不愉快に感じました。悪いことの代名詞にすぐ「新派」と菊田先生は言うんですよ。
神山 水谷先生は「自分は新劇の出身なんだ」ということを最後まで言っていましたけれど、やっぱり水谷先生からそういう誇りみたいなものは感じました?
柳田 それは感じましたし、先生はやたらにそれをおっしゃっていたけれども、僕はやっぱり新派にお入りになったのは間違ってなかったんじゃないかと思うんですよ。あのときにそのまま新劇にいっていたら、こんな偉大な水谷先生とは、世間の人は言わなかったような気がするんです。だから、やっぱり水谷竹紫先生とか、周りのブレーンの人たちが水谷先生を押していったのは間違いなかったような気がします。ただ先生自身は「私は本来新劇女優だったのよ」とおっしゃっていましたけれど。
神山 最後までおっしゃっていますね。菅原卓さんと一緒に何か新劇っぽいことをやったり、戸板康二さんが半分悪口で、「菅原伝授手習鑑」と書いているぐらいに、非常に親しくなって。
柳田 ベレー帽をかぶって、『俳優修業』を小脇に抱えて、何かさっそうと歩いている水谷さんなんてよく言われてましたけれど。事実、ベレー帽をかぶってらっしゃったこともありました。ちょっと新劇にコンプレックスがあったかも分かりませんけれども。でもそれから何年かたっての先生は「やっぱり私は新派の水谷八重子」というお気持ちがずっとあったんじゃないですか。あの当時はちょっと迷ってらっしゃって、まして本当に菅原卓先生にちょっとお気持ちがいっていたみたいな気がするんですよ。だから、卓先生が水谷先生と別れたとき、先生はちょうど『椿姫』[一九五一年六月、歌舞伎座]をやっていて、毎日毎日、ベッドのところで本当に涙を流してらっしゃるようでした。あの涙は菅原先生と別れた涙だったんじゃないかなと、生意気なことを思ったことがありましたね。
日比野 ちょっとお聞きしたかったのは、水谷八重子主演で昭和三十八年(一九六二)の十一月に『ものみな歌でおわる』を日生劇場で上演した際、薔薇座の人々が出てらっしゃいましたね。
柳田 千秋さんも佐々木孝丸先生も出ていました。孝丸先生が八重子先生に「俺のところにいた柳田なんだよ、面倒を見てやってくれよ」と言ってくださいました。
神山 あれは本当に観客が入らなかったんですか。
柳田 入らなかったし、それからワケの分からない芝居でしたね。
神山 花田清輝ですから、ちょっと合わないですね。しかも相手役が仲代達矢でしょう。仲代さんと水谷さんはあのとき初めてですね。
柳田 初めてです。でも、あのときに何か千秋さんが独特の芝居をなさってらっしゃったのを水谷先生がちょっと目をつけて、それから半年ぐらい後に明治座で何かやったときに千秋さんを呼んで出ましたよ。水谷先生ってわりあいと、すぐちょっと変わったお芝居とか、できるお芝居をなさる方にあこがれて、すぐ松竹にあの人を呼んでと言う方でしたから。
神山 『ものみな歌でおわる』は日生の開場公演。お客さんとしては大変な高級な感じだったんですけれども、楽屋なんかも全然違いました?
柳田 高級でした。もうすべてが何か新しい。それで出ている人も日生の第一回に出たんだよみたいな、誇らしい気持ちもありました。
神山 あのころの日生劇場って今よりも本当に特別な感じがしましたもんね。
柳田 そうですね。すごくモダンな、新しいお芝居という感じがしました。
日比野 水谷先生が出ることになったのは、どういう経緯だったんですか?
柳田 それは僕も分かりませんけど。浅利慶太さんと水谷先生とつながりもなかったと思いますし。
神山 日本を代表する女優といったら、やっぱり水谷八重子だったんだと思いますよ。紀伊國屋ホールが新宿にできたのがオリンピックの年[昭和三九年(一九六四)]なんですけど、あのときも水谷先生が開場で踊ったのを覚えてらっしゃいません?
柳田 僕は行きませんでしたね。
神山 この間紀伊國屋の六〇周年の会で映像が流れたんですけれど、水谷先生が開場のお祝いで踊ってらっしゃいました。紀伊國屋ホールと水谷八重子って全然合わないんですけどね。『ものみな歌でおわる』は、演出は千田是也ですか。
柳田 そうです、千田先生です。
神山 千田さんはどうですか。
柳田 やっぱりちょっと新派をばかにしているところがありましたね。
神山 あの人は歌舞伎に来たって、歌舞伎のことをばかにして、それで稼いでるんだから。顔は伊藤熹朔さんとはよく似ているけど……伊藤熹朔さんはいい方でした?
柳田 熹朔先生は明るくていい方で。千田先生っていつも笑っちゃ損みたいな顔をしてらっしゃったけど、熹朔先生は何かというと、あっはっはっはと笑う、そういう明るい人。
神山 熹朔さんは花柳さんともとても仲良くて。
柳田 仲良かったようですね。
神山 合うでしょうね。千田是也と伊藤熹朔って見た目は全然区別がつかないけど、えらい違いですね(笑)。
柳田 違いますね。ご兄弟お三人が新派の公演でそろったことがありますよ。伊藤道郎先生と、伊藤熹朔と千田是也。道郎先生は踊りをちょっと付けてくださって、あれも歌舞伎座だった。三人の千田三兄弟が携わったと、ちょっと新聞で話題になった。道郎先生はアメリカから帰ってきたばっかりでした。道郎先生に息子さんがいらっしゃって……。
神山 ジェリー伊藤。
柳田 そうそう。連れていらして紹介されていたのを覚えています。日本語がしゃべれなくて。
神山 当時は歌舞伎、新派合同公演が多かったでしょう。ああいうときはどうでした? やっぱり歌舞伎の役者と芝居をやると、ちょっと難しい、合わないというところはありました?
柳田 そう感じなかったですけれども。ただ新派だけで歌舞伎座に出るときというと、先生方が気負ってらっしゃいましたね。歌舞伎座だからということで。
神山 水谷先生なんかでも、やっぱり違いました?
柳田 はい。その証拠に、あの当時、先生は楽屋、楽屋で鏡を変えてらっしゃったんですよ。演舞場と明治座と歌舞伎座と。それで歌舞伎座のときは大きな丸い鏡をやっていらっしゃった。だから、そういうふうに何か歌舞伎というのはやっぱり独特の何か……やっぱりちょっとコンプレックスがあったんじゃないですか。
神山 それだったら歌手の人が歌舞伎座をやるのは大変ですね。大変なプレッシャーですね。三波春夫とかの公演も……。
柳田 出ていました。何か三波さんという人はいつもばかにされちゃいけないと突っ張ってらっしゃったんですよ。だから、それをまた歌舞伎の人たちがちょっとおちゃらけて、[三波春夫のヒット曲の]「チャンチキおけさ」なんて、わざと舞台でいたずらして怒らせていたことがあった。三波さんはむきになって怒っていた。
日比野 新派に対して歌舞伎の俳優さんから嫌がらせというか、ちょっと嫌なことは。
柳田 僕らはなかったです。むしろ、仲良くしていたんじゃないんですか、かえって。お互いに行儀よいところを見せようと思っていたところがあった。
神山 新派と歌舞伎は俳優協会も一緒だし、いろいろなテレビなんかも出ていましたから。柳田さんはテレビも何度か出ているでしょう。
柳田 最初のころはテレビに。
神山 昭和三〇年代の前半ぐらいまではね。
柳田 そうですね。よく出させていただきましたね。
個性的な作家たちとの思い出
神山 当時の古い作家の方たちのお話も伺えれば。久保田万太郎なんかは、稽古場にいらしていました?
柳田 いらしていました。銀座の三原橋の向こうに新橋クラブという稽古場があったんです。そこで稽古をやっているときに、久保田先生が時間を間違えて早くいらっしゃっていて、それで水谷先生や花柳先生が遅れてきたら、「俺は歌舞伎に行っても、こんな扱いを受けたことがない」と白いハンカチを出してお泣きになったのがとても印象に残っていますね。
神山 だけど、久保万さんが早く来すぎたんでしょう?
日比野 うそで泣いたんですか。本気で泣いていたんですか。
柳田 本気で泣いてらっしゃいました。先生はわりあいとおしゃれだから、いつも白いハンカチを目に当てたり、口に当てたりなさる先生でしたけど、本当に泣いてらっしゃいました。ばかにされたと言って。花柳先生も水谷先生もしゅんとしていました。
神山 久保田さんにそういう悔し泣きするところがあるのは、他の方にも聴いたことあります。ところで昭和三二年(一九五七)の東宝歌舞伎に柳田さんはお出になっていますよね。長谷川一夫、水谷、中村扇雀、岩井半四郎。
柳田 はい。水谷先生も一回、二回のころの東宝歌舞伎というのはものすごく楽しみにしてエプロンステージなんかもやっていて。先生はあまりやったことがないものですから、これがうれしくて。
神山 それはいいですね。先の高麗屋[八代目松本幸四郎・初代白鸚]なんかはものすごく嫌がったそうですね。
柳田 普通はそうなんですよね。水谷先生はこれがとてもうれしくて。だから後ろ向きで僕らは手ぬぐいなんかを渡すんですけど、機嫌のいい先生というのを思い出しますね。うれしそうで、にこっと笑ったりするのは、先生らしくないなと思って(笑)。
神山 柳田さんとしても東宝歌舞伎は結構楽しみでした?
柳田 はい。仲間がたくさんできたので、そういう楽しみがありましたけれども、やっぱり何か……。
神山 柳田さんとしては、あんまり東宝歌舞伎は合わなかった。演目がですか、それとも東宝そのもの。
柳田 お行儀が悪かったというか、新派の行儀のうるさいところから、あちらへ行くと、やっぱり寄せ集めですから、ちょっとお行儀が悪いじゃないですか。そういうのが僕の中でちょっとやっぱり。
神山 芝居の行儀も楽屋の行儀も両方ともよくなかった?
柳田 そうです。東宝の人たちというのは、何か目立とうと思って、群衆で出ても、お尻をかいたりとか何かやるんですよ。それを水谷先生も嫌がって「ああいうことをしちゃだめよ。通るなら通るだけにしなさい」みたいなことをおっしゃってました。
神山 その時期に一緒にお出になった加藤寿八さんって覚えてらっしゃいますか。
柳田 知っています。
神山 加藤寿八さんがその後歌舞伎によく出ていたんですよ。そうすると、寿八さんでも歌舞伎じゃ、正に通り流しみたい役だけなんですが、やっぱりそれをやるんですよ。ちょっとお地蔵さんに拝んでいくだけでも何か一仕事。それを歌舞伎の人が嫌がっていましたね。寿八さん自身は熱心にやっているんですよ。けれど、それが歌舞伎とか新派だと行儀が悪いと、ちょっとあんなことをしちゃいけないという感じは分かりますけどね。東宝歌舞伎の少しあと、水谷先生はちょっと具合が悪くなって、昭和三七年(一九六二)に『鹿鳴館』[十一月、新橋演舞場]で復帰なさるんですけど、三島由紀夫はそのとき……。
柳田 お元気でした。
神山 柳田さんのそのとき三島由紀夫は初めてですか。
柳田 その前にありましたね。
日比野 『黒蜥蜴』? 昭和三七年(一九六二)の三月です。
神山 『黒蜥蜴』は産経ホールですか。芥川比呂志さんで[明智小五郎役]、水谷さんが緑川夫人役。ああいうのは水谷先生はお好きだったでしょう。
柳田 先生は楽しくて、もう一回やろう、もう一回やろうと言ったんだけど、芥川さんがもうお体がお悪くて。後で見たんですけれども、新聞に写真が載ったとき、水谷先生がピストルを逆に持っていたんですってね。そのくらい興奮してらっしゃったみたいですよ。水谷先生があんなに上がるということはちょっと考えられないんです。でも事実、その写真を僕は見ましたから、本当の話なんです。
神山 三島由紀夫さんも水谷先生をすごく評価されて、気に入られたようですね。水谷さんの芝居が好きだったようだし、水谷さんと三島作品の相性はよかったでしょうね。『鹿鳴館』のときは病後でしたけれども、写真で見る限りは本当におきれいで。
柳田 お元気でした。ただ山形勲さんがシャリになってやられた時……[松竹三島由紀夫作品連続公演、一九七二年一二月、日生劇場]。
神山 影山伯爵を山形さんがやっていらしたんですね。
柳田 何かハンカチをぶつける場面があるんです。「それを本当にやらないで」とおっしゃってました。「[けがをして痛いから]ここを触らないで」と、何かきつくおっしゃったのがとても印象に残っているんですけど。
神山 新派初演のときは森雅之さんでしたね。
柳田 森さんは水谷先生を好きでね。ただ水谷先生という方は飽きっぽいというか、始終、相手役が代わっていましたよね。相手のいいところを取ると、何か次の人とやりたいみたいなところがある。だからずいぶん考えてみると、信欣三さんとか、あといろいろな方が出ていましたよね。でも、だいたいみんな一回こっきりで、すぐ相手役を代えてしまう。
神山 森さんは十年は出ていましたもんね。
柳田 でも、あんなにほれていた森さんでも最晩年のころは、「せりふを覚えない森さんは嫌いよ」と言って。また森さんも慣れてきたら、せりふを覚えないんですよ。それで森さんもいづらくなっちゃったんじゃないんですか。でも、後で聞いた話ですけれども、森さんが新劇に戻られてから、「新派では」とか「水谷さんはね」とか「花柳さんという人はね」とかって、すごく新派の思い出を、いい話としてよく出していらしたみたいですよ。
神山 森雅之は実際、雑誌のインタビューなんかでも新派に得るものがものすごく多かったということはずいぶん言っていますよね。三島由紀夫の話に少し戻りたいのですが、三島で何かだめ出しとかの思い出なんかはあります?
柳田 だめ出しはなさらなかったけど、ご自分が出たくてしょうがなくて。僕はボーイ長をやっていたんですけど、一緒になってボーイの一人になって、菊の花を持って震えながらお出になったことがあります。でも、そういうこともお好きな方でした。
神山 あれも出たんですってね。『鹿鳴館』のガス灯をつける役。
柳田 そういうのがお好きな、しゃれた方でしたね。
神山 里見弴なんていうのは覚えています?
柳田 里見先生、知っています。僕らもちょっとしか出てないですけれど、川口先生の『遊女夕霧』の舞台をずっと観ていらした。里見先生が「おいおい、それは違うよ」とか、芸者屋の中の……。
日比野 時代考証みたいなことをされた。
柳田 はい。長火鉢の位置とか、積み夜具はこんなことをしないよとかおっしゃっていたのを思い出します。里見先生は懐かしかったんじゃないですか。ですから、とても道具のことを細かくお話くださって。公演には関係ないのに、いろいろと教えてくださった里見先生を思い出しますね。
日比野 演出は川口松太郎先生ですものね。
柳田 川口先生は黙って何もおっしゃらない。里見先生が「そんな小道具はないよ」みたいなことをおっしゃっても、川口先生はもっともだみたいな顔をして座っていらして。
神山 川口先生と里見、久保田ではちょっと世代も違うし、格も違いますからね。里見、久保田万太郎というのが当時、明治二〇年代生まれの本当の大御所なんですけどね。
柳田 そうですね。久保田さんは作家読みもされましたし、先生はこんな思い出がありますね。僕らはいつも「水谷のところの」とか「おい」と呼ばれていて名前を言ってくださらないんです。でも何かのときに「先生、僕の名前を知らないでしょう?」と言ったら「知っていますよ、柳田でしょう」と、こう言ったんです。
神山 久保田さんは気難しい方だから、簡単には声を掛けられなかったとか皆さんは言うけれども、それはいい話ですね。真船豊は覚えていますか。
柳田 真船先生は独特なせりふ回しですから、必ず作家読みをおやりになります。水谷先生は真船先生になると、あの当時、できたばっかりのこんな大きなラジカセを持ってきて、テープに録ってらっしゃいました。
神山 真船さんはせりふはうまいんですか?
柳田 うまいというより、独特なせりふですよね。ですから、雰囲気を知るためにと水谷先生はおっしゃっていましたね。
神山 役者だから何の役も、どんな先生の本をやらなきゃならないですけど、川口先生さんは言いやすいというか、せりふを覚えやすいとかあるでしょう。
柳田 あります。真船先生は覚えにくいですね。川口先生は覚えやすいです。話し言葉だから、わりあいとらしく言っても言えるせりふなんです。真船先生は間違えられないですね。
神山 せりふの話で、あのころは新派は毎月芝居をやるわけでしょう。それで書き物ばっかり昼夜二〜三本ずつ四本とか六本とか。よくやっていたものですね、今、考えると。
柳田 そうですね。水谷先生は六本全部出たことがありますよ。だいたい四本で花柳先生はまず四本ですね。水谷先生は夜の部の頭に出ることもあるから、ほとんど四本か五本は出てらっしゃいました。あのせりふをよく覚える。だから、よく僕らがプロンプで怒鳴られたりしたこともありますけれども、無理もないなと思うんですね。初日近辺の緊張感というものは、あれだけのものを覚えるんですからね。
神山 役者さんもだけど、スタッフもよくやっていたものですね。
柳田 だから、大道具さんは嫌がっていました。歌舞伎と違って新派の道具は、それこそ三分か四分で変わっちゃうような道具もありますでしょう。
神山 新派だと「道具調べ」が長いんですよ。僕のころは殆ど織田音也さんだったから、丁寧できれいな道具なんだけど、やっぱりそれだけ時間がかかる。現場の人が嫌がっていたことは間違いない。
柳田 水谷先生がせりふを覚えられなくて、前に「ぼさ」[藪畳の装置]みたいなものを立てて[そこに隠れる形で]付けたことがあるんですけど、そうしたら中嶋八郎さんが「絶対にあれはやめろ、下手なり上手なりで付けろ」と怒ったことがあります。「だけど先生が言っているんだからしょうがないでしょう」と言ってけんかしたことがあったんですけど。道具は道具でもって、やっぱりそういう一つの権威みたいなものがありましたね。
神山 中嶋さんは確かにそういうところがありましたね。
柳田 ありました。
神山 中野実さんはどうですか。
柳田 中野先生は本当に本がよく変わるんですよ。ぎりぎりでできてきますから、やっているうちに「ここは足そう」とか。北條先生はそれを陰で「俺は絶対にそういうことはしない。俺は一回書いたものを足したり消したりはしない」と自慢して、中野先生とあまり仲良くなかったみたいなんです。だけど中野先生からそういう陰口は聞いたことないです。中野先生は本当に、やっている最中に「これは面白いから付け足そう」とか「お前、帽子を落っことすのが面白かったから、それを足そう」とか、そういうことをすっすっとおやりになる方でした。
神山 それは正直言って、役者としてはやりにくいですか?
柳田 いいえ、僕は中野先生が好きでした。中野先生はいたわってくださるんです。僕らはぎりぎりでやるから、プロンプの苦労もよく知ってらっしゃって、よく飲みに連れていっていただきました。北條先生とは全体としては飲みに行くことはあっても、個人的に「柳田、ちょっと飲みに行こう」みたいなことはありません。中野先生は「お前にはプロンプ、苦労かけたな」と、そういう優しさのある方で。
神山 そうすると気持ちが違いますね。北條さんは何しろ「北條天皇」というぐらいで、僕も仕事ではご一緒しましたけど、大変と言えば大変な、しかし実に魅力的な方です。作家のお話を続けます。新派の朝幕では松木ひろしとか、そういう方が書いていらっしゃいましたね。
柳田 松木さんとか、矢田弥八さん。松木さんとはそんなに近しくしゃべらなかったんですけど、矢田先生とはよくコーヒー一杯飲みにとか連れていっていただきました。いつでも矢田先生は泣き言でしたね。というのは、どうしても朝幕の芝居が多いと、翠扇先生か阿部洋子さんが主役になりますでしょう。それで阿部さんあたりに「ここをこう変えてちょうだい」みたいな注文が入る。「作家の苦労を知らない、無礼なやつだ」と、悪い言葉で言うと泣き言をよくおっしゃっていましたね。でも分かるんですよ。ここを変えてとか、ここは切ってよとか、何かそういう役者たちのわがままを聞かなくちゃならない。
日比野 八木隆一郎さんの話がちょっと出なかったので、思い出がもしあれば教えてください。
柳田 八木先生の『お前もまた美しい』であこがれてお芝居に入ったものですから、多くの本当に思い出があるんですけど。八木先生もお酒がお好きで、ちょっとお酒を飲むと、水谷先生に「だめだ、その芝居は」ということをおっしゃる方。ところが普段は気が弱くて、演出してらっしゃると何も言えないんですよ。だから水谷先生がよく八木先生のためにお酒を用意しておいて、「ちょっと飲ませると本当のことを言うわ」とおっしゃって。
日比野 稽古場でお酒を飲むんですか?
柳田 ちょっと飲んでらっしゃいました。稽古場ですから、本当はいけないんですけども。
演出家、裏方銘々伝
神山 演出の方たちのお話も伺えたらと思います。新派とつながりがあるのが意外なんですけど、[一九五八年に藤原新平と自由劇場を作り、転形劇場の初代主宰でもあった]程島武夫さん。
柳田 はい。程島武夫先生は一時やってらっしゃいました。
神山 程島さんはやっぱり新派に関しては温厚というか、優しい方。
柳田 教育も熱心で温厚でしたけれども、新劇の方で新派を知らないから、「[長火鉢の]猫板って何だい?」なんておっしゃっていた思い出があります。
日比野 どういうきっかけで程島さんが新派の世界に入ってきたか、ご存じですか。
柳田 川口先生が舞台芸術学院で先生をやってらっしゃって、それで連れてきたんじゃないんですか。だから最初は川口先生の助手みたいにいらっしゃって、それからあとは先生のものをよく演出なさったし。
神山 村山知義さんや[宮戸座の作者部屋にも在籍していた]程島さんと、左翼のああいう方が新派の演出を手がけていらっしゃいましたでしょう。戌井[市郎]さんに聞いたら、花柳さんとか川口さんが戦争中に仕事をあげたり、間接的な形で助けたんだと言っていましたね。あとは滝沢修なんかも。それで戦後になってから、みんな非常に協力的だったんだろうと戌井先生は言っていましたね。
柳田 村山先生は、新劇だけだとやっぱり経済的にすごくお困りなっていたみたいです。ところが、新派に来ると演出料というものが出たので助かった。それで程島先生もいらっしゃるようになったと聞いたことはあります。
神山 村山さんも静かな方でしょう。
柳田 新劇でもってあんな怖い先生が、新派に来ると「交通整理」というあだ名があったくらい、何も言わないで「君、そこから出て」くらい。僕はまた生意気な盛りだったから思い出すんですけど、藤村[秀夫]先生が「私はどうやって出たらいいでしょうか」と聞いたら「一、二、三」と言ったら出てくださいと言ったんです。「えーっ、天下の村山先生がそういうことを言うのか、新派をばかにしている」と僕は怒ったことがあります。
日比野 それは本当に、ばかにしているとまでは言わなくても、ある程度あきらめていたというところがあったんですかね。
柳田 かもしれません。新派は稽古日数が短いでしょう。二日か三日で「気持ちをつくって何とか」という時間がなかったんじゃないですかね。ただ僕らにしてみれば若いから、「あれだけ新劇で怖い神様みたいに言われている先生が、新派に来ると『勘定しろ』なんて」という気持ちがあって。
神山 藤村秀夫さんが戦前の名優でも空襲の後遺症と老齢で戦後は弱ってらしたから、あんまり細かく言うのも……というお気持ちもあったかもしれません。
柳田 新派は「私はどう出たらいいですか」みたいなことを、演出家に聞くんですよ。そうすると演出家は「じゃあ、あの方が引っ込んだら、あなたが出て」とか、「あの方が振り向いたら出て」とかいうきっかけまでつくってくださる。文学座の長岡輝子さんが演出にいらっしゃったときに「あなた方は役者でしょう、何で自分で考えられないの」とおっしゃったことがありました。
神山 松浦竹夫なんかもそういうところがありました?
柳田 松浦さんは最初のころはちょっときざに、そういうことをいろいろおっしゃってらっしゃったけど、「一、二、三」に変わっちゃいましたね。最初はものすごく心構えとかおっしゃってましたけれど。
神山 あの人は文学座だから。戌井先生は?
柳田 本当に戌井先生は穏やかで、「そこで誰々が引っ込んだら、君、出てきて」という、そんな感じでしたね。
神山 文芸部の大江良太郎先生とは一年違いでお会いできなかったんですけれども、あの人は松坂屋にいたんですよね。
柳田 慶應を出てから松坂屋に。
神山 川口先生との縁で新派にお入りになったんですけど、大江先生も温厚というか、穏やか。
柳田 温厚です、本当にあの先生は温厚です。
神山 そういう感じですね。
柳田 役者はわがままを言うし、役者同士のけんかが起きて泣く人は、みんな大江先生のところに来ていた。大江先生はいつもそれのなだめ役でしたね。
神山 大江さんがうまく収める(笑)。
柳田 はい。「まあ、まあ、それは」とか言って、なだめているのが大江先生でした。
神山 大江先生は奥役みたいなことはなさらないんでしょう。役納めとか、そういうのは。
柳田 役納めはしていました。役納めの頭取はいたんですよ。だけど、頭取じゃ、なかなか聞かないんです。それこそ「こんな台本やってられません」とか「僕は誰々なので、できません」とか言うのを大江先生が収める。
神山 大変ですね。大江先生はわりと早く亡くなっちゃったので、新派も文芸部も大変でしたね。
柳田 それだけ温厚な先生だっただけに、水谷先生はよく頼りないということをおっしゃっていましたけど。あの人は道を間違えている、あれは学校の先生になればよかった人よとよくおっしゃっていましたね。
神山 だけど、大江さんは川口先生とか久保田先生ともいいから、そういう意味でも貴重ですよね。
柳田 また世間のことをよく知ってらっしゃった。どこの劇場に行っても、大江先生は顔が広かったですね。
神山 慶應の方だから、三田の人脈というのもあったしね。そのほか文芸部で、僕は存じ上げないんですけど、岩倉憲吾さんっていました? 大江さんの次ぐらい。
柳田 そうです。岩倉さんは俳人だったんですよ。それから詩を書いていらして、その詩をいい詩だというので、水谷先生が本を出してあげた。だから、岩倉さんはたった一冊ですけど、詩集を出しているんです。先生がお金を出してあげて。
神山 それはいい話ですね。ということは人柄もよかったんですね。
柳田 そうですね。でも晩年は年齢のこともあって思うように仕事ができず、あんなにかわいがっていた水谷先生から「だめ、だめ」と言われだして、できなくなっちゃったんじゃないですか。だから自分からやめて、藤浪小道具の倉庫番をやっていたとか。あの人が気の毒に。
神山 僕が昭和五三年(一九七八)に[国立劇場に]入ったときには、もう斎藤喬さんとか、乾譲さん。
柳田 乾ちゃんが早稲田から来てから、後から入った人は全部早稲田になりました。それまでは歌舞伎からきたり、下積みの苦労をしてなった文芸部さんが多かった。
神山 早稲田ですね。その後の吉村忠矩さん、今の大場正昭さん、成瀬芳一さん、斎藤雅文さんもね。
柳田 それで岩倉さんはいられなくなっちゃったというところがあるんですよね。
神山 斎藤喬さんもそういう系列じゃないから、ちょっと。
柳田 斎藤さんもやめたのは、そういうところがちょっとあったんです。
神山 斎藤さんは僕なんかにはいい人だったですけどね、楽しくて話し好きで。あの人は昔のことも結構好きで、いろいろ調べていたから、斎藤喬さんがいなくなったのは寂しかったですけどね。
柳田 いい人でした。それこそ笑い話ですけど、斎藤さんはストリップが好きで、浅草で何か本を書く、書くとおっしゃっていたけど、とうとう書いたかどうだか。
神山 新派の古い話は丸井不二夫さん、丸井さんの後は斎藤喬さんなんかに聞いたんものですけどね。あと、平島さんとか、浅香という方もいました。
柳田 浅香哲哉さんですね。
戦後初の幹部試験で昇進
神山 幹部昇進なさったのは昭和三十四年(一九五九年)四月ですね。
柳田 そうです。そのときは歌舞伎が五人、新派五人が試験を受けて、それが戦後初めての幹部試験だったんです。
神山 それは俳優協会ですね。
柳田 はい。五人中、結局二人が幹部になりました。落ちた三人のうちの二人はやめちゃうし、僕らより古い人で候補にもならなかった方が何人かいらっしゃったけれど、みんなやめちゃったんです。それで、これは新派ではやっぱり順序立ててとか、師匠の推薦とかいうことが新派に合うんだといって、新派は俳優協会の制度を脱退しちゃったんです。だから、歌舞伎だけが今でも続いていますね。
日比野 柳田先生の幹部昇進を認めたのは歌舞伎の俳優さんも入っていたんでしょうか。
柳田 そうです。ですから、あのときの一番上は市川猿之助さん[三代目。現猿翁]でした。その隣に[六代目中村]歌右衛門さんがいらっしゃって、こちらに[八代目坂東]三津五郎さんがいらっしゃって、その隣に花柳先生、水谷先生と、五人が並んで。その横にずっと伊志井[寛]先生とか歌舞伎の方が並んでらっしゃるところで、僕らは口頭試問を受けたんです。筆記試験と口頭試問と。僕らは成績がよくなかったんですよ。いくつかある川の名前を江戸から浪花まで順序を記せみたいなものがあったんです。
神山 難しいですね。
柳田 僕らはちょっと分からなかったんです。それで花柳先生が「新派というのはもっと学問のある頭のいいやつがみんな出ていると思ったら、頭の悪いやつばっかり出て、俺は恥をかいた」とおっしゃったんです。
神山 しょうがないですよね。
日比野 ほとんど芝居には関係ないですね(笑)。
柳田 あとは例えば久保田先生の有名な作品についての感想を述べよとか、そういうのは僕らでもしゃべれたんですけど。
日比野 猿翁さんとか歌右衛門さんの質問は覚えてらっしゃいますか。
柳田 新派の場合は花柳、水谷がやっぱり聞いてきて、その三人の先生は黙って顔を見ているだけだったんですけど……いくつか何か言われたんですけれども、上がっているものですから何を言われたか覚えてないです。歌舞伎は『白浪五人男』のせりふを言って、僕らは『婦系図』のせりふを言わされたり。そうそう、コップで水を飲む芝居をやらされたんです。そのときに水とお酒と薬の演じ分けというのをやる。これは歌舞伎も合同でやったんですけれども、そのときに新派の人で、薬の紙を開いたりしてやったら「新派の人は細かいね」と言われていたのは覚えています。僕はそんなことはしなかったんですけど。今でもその試験はあるみたいですよ。
神山 このときに小柳修次さんも受けましたね。その後、小柳さんはやめちゃったわけですけれど。
柳田 彼はなかなか二枚目で、僕とは違っていい線いっていたんですけど。ただやっぱりいい男だっただけに、かえってちょっとした役でいつまでも、うだつが上がらないのが我慢ができなかったんじゃないんですか。あの方は確か東映かどこかのニューフェイスになって、そのあとは……。
神山 ちょっと消息不明ですね。久門祐夫さんだって『鹿鳴館』でいい役をやって、将来を嘱望されていたのにもったいなかったんですけれども。久門さんもその後、分からないでしょう。
柳田 亡くなりました。金田龍之介さん、久門ちゃん、小柳君、僕、それから加納英二郎さん五人で撮った記念写真が残っているんですけど、今、考えてみたら、残っているのは僕だけですかね。
神山 久門さんは本当に姿もよかったし。すっとした、あの人はもともと文学座でしょう。姿がいい感じで、印象に残っているんだけど。
柳田 おしゃれで洋服が似合って。あの当時、今はもうそんなことはないですけど、僕らがまだ研究生か幹部になりたてのころって、新派の役者が背広が着られない。着られるのは久門一人だと、何かそういう劇評が出たことがあるんです。そのくらい久門ちゃんはやっぱり洋服のセンスはあったんじゃないんですか。
神山 そういう感じですね。わずかな記憶でもそうですね。
柳田 着物は着られても、洋服は着られないのが新派みたいな。今はそんなことは言わないでしょうけど。
神山 大矢先生は遠いご縁戚だということで、さっきお話を聞きましたけど。ものすごくうまい人だけど、いかにも気難しそうなおやじという感じで。
柳田 気難しかったです。
神山 そういう感じですか。実際楽屋なんかでも。
柳田 お正月はあいさつに行っていましたけどね。あの先生はお酒を飲めない先生なんですけど、一度ちょっとお酒が入って「お前には何にもしてやれないで」と言って泣かれたことがありました。たまたまそのときにお弟子の山口正夫さんが来ていらっしゃっていて、「大矢さんが泣くのを見たのは初めてだ」と言って写真を撮って僕にくれたことがあった。それがいい思い出になっていますけど、親戚同士なんていうことは誰もみんな知らないし、大矢先生も一言も言わなかった。
神山 大矢さんは悪声で声量はないし、それで一本調子なんですよね。だけど、実に味わいがある。あれはなかなか出ないですよね。
柳田 僕も聞いた話なんですけど、大矢先生の芝居はやっぱりちょっと新劇では変わっていたと見えて、研究生の人たちが両袖にいっぱい大矢先生の芝居を見に聞いていたと。それはちょっと自慢げに大矢先生が言っていたことがありましたね。みんな俺の芝居を見に来ていたと(笑)。
神山 『大寺学校』の時でしょう。新派の場合は、大矢さんや伊志井さんや柳田さんが、具体的に教えてくれることはないんでしょう。盗むということはできても。
柳田 注意はあるけれども、教えるということはなかったですね。見て覚えろみたいな。
神山 伊志井さんは明るい感じで、さっぱりした方という印象ですけれど。
柳田 大矢先生は自分の芝居に気に入らないと、かーっと舞台でも怒っちゃうような先生。伊志井先生は怒るということはなさらない。伊志井先生はテレビに出たり、外部出演が多かったので、そういうことはいいことじゃないということを知ってらっしゃったんじゃないですか。ですから、「いまだに新派の先生方は弟子に靴のひもを結ばせていると俺は言われたけど、俺はそんなことをしたことないよな」と伊志井先生がおっしゃったのを覚えています。僕もそんな先生の姿は見たことはないです。ちょっと古いことでは先生がトイレに行くと、手ぬぐいを持って待つというのは、これは僕もやっていましたけれど。
神山 それは歌舞伎じゃ普通にやっていますもんね。京塚さんなんかもやっぱり柔らかい感じ、ああいう感じの方ですか。
柳田 そうです。京塚さんは自分でもって「腹黒お昌よ」と言うくらい、自分で腹黒、腹黒と言っている腹の白い方でした。
神山 京塚さんが東宝に行ったのは、それなりに不満があったんでしょうね。
柳田 あったみたいですね。ですから、京塚さんは二回ぐらい出入りしていますでしょう。それはお金の問題もあったんじゃないんですか。東宝はそれこそ三倍とか五倍とか、ばっと出してくれるみたいな。新派はそうはいかないですから。
日比野 大変失礼ですが、例えば水谷先生と東宝の舞台に出たときの給料は東宝から出ていたんですか。
柳田 東宝から出ました。でも、ほかの方、例えば伊志井先生なんかがお弟子さんを連れて東宝に行かれたときなんかは松竹が絡んでいるんですよ。ところが、水谷先生は芸術座というお名前の通りいくから、水谷先生のマネジャーが金銭的な交渉をしてくれる。だから僕らは東宝に行くのはとてもありがたかったです。
日比野 東宝のときだけお値段が違うと。
柳田 全然違いましたね。
先輩たちの芸を継いで…
神山 最後に、柳田さんご自身の役のことも伺えれば。何と言ったって、『滝の白糸』の法廷の裁判長。柳田さんの前は島[章]さんだった。歌舞伎みたいに、島さんから直接こうしろと教わるということはあったんですか。
柳田 僕の場合は朝丘雪路さんと林与一さんの明治座公演で初めてやらせていただいたんです[一九六九年]。そのときの演出が柳先生。だから、巌谷(慎一)先生にちょっとそういうこと、くさい芝居というか、ここは新派だったら……みたいな、そういうのは教わりました。
神山 あれは結構難しいんですよね。
柳田 もう初めから詰めていました。
川添 国立劇場に初めて新派がお出になったときの『滝の白糸』[一九七二年六月]で何か思い出を教えていただけますか?
柳田 僕は裁判長の役で水谷先生に怒られてばっかりいたんですよ。それで川口先生がいらっしゃって「いいよ」と先生に言ってくれて、それでやっと小言が止まったという思い出があります。それから、水谷先生も、髪の毛を崩す場面があるでしょう。あれなんかでも、あの先生らしくないくらい、国立劇場だからと気を入れて、かつら屋さんに細かく注文をされていました。先生は相当あこがれの劇場だったんじゃないですか。花柳先生が委員の一人なってやってらっしゃったけれど、先生は[亡くなってしまい]お出になれなかった。「私は国立劇場に出られたわ」という先生の自負もあったから、やっぱり第一回というのは、ものすごく気が入ってらっしゃったという気はしますね。
神山 それは翠扇さん以下、皆さんそう思ってらした?
柳田 皆さん、そうだったと思います。あと、そのときの国立劇場のお客様が歌舞伎に見慣れていたので、新派が来たときにすごく新鮮に感じたんだそうですね。これは劇場の方から聞いたんですけど、「歌舞伎だけではなくて、年に一回は新派をやるのもいいよね」ということをおっしゃっていたということを聞きました。
神山 柳田さんといえば『不如帰』の軍人や、私が国立劇場に入ってからでは、『歌行燈』の[謡の師匠]宗山とか。あれはちょっと嫌な役ですね。どうですか、ああいう役はお好きですか。
柳田 僕は声が若いと思うんですよ。だから、宗山というのはもっと偉ぶった、ドスの利く声が出た方が本物のような気がするので、僕はやっぱり声が違うんじゃないかなと自分でやっていて、そう思っています。
神山 『歌行燈』は山田五十鈴と花柳先生の映画で有名だから。あのときの宋山は……。
柳田 大矢先生です。
神山 大矢先生の声と比べると、ずいぶん違いますね。宗山のときも観世榮夫さんが能の部分はけいこに来てね。
柳田 そうです。ずいぶんうるさく言われました。あれはつらかったです。
神山 見ていても本当におつらそうで。観世さんも別に能役者に教えているわけじゃないんだから、そこまでやらなくても。新派の役者がやっているのに――と思いましたよ。
柳田 だから、どうしても声の出し方から違うわけですよね。
神山 それはできないですよね。あれはちょっと理不尽だなと思いました。
柳田 でも、僕の前に金田さんがやったり、それから東宝の方がやったのも見ましたけど、みんなやっぱりそれは出ないですよね。
神山 あとは最近では『婦系図』の酒井とか、『残菊物語』の五代目菊五郎とか……菊五郎さんは大矢さんがやっていた役ですから意識なさいます?
柳田 大矢先生はすごくたっぷりとした芝居をなさっていたんですよね。その前に喜多村先生がおやりなっていて、そのときはわりあいと小さい声で言っているし。あの立てひざの形は喜多村先生の形なんですよね。それを大矢先生がやってらっしゃって、僕らもそれをテープを見せられてやったんですけど。やっぱり喜多村先生は本当にある意味でいうとリアルでしたね。一番大年配の喜多村先生が一番リアルでした。ただ声が小さかったですから、これは僕は直接聞いたことだけなんですけど、お客さんから「聞こえないぞ」と言われたって。
神山 六代目[尾上菊五郎]と一緒に出たときですね。有名な話。六代目も声が小さいので、喜多村さんはそれに合わせて小さい。
日比野 今は新派はマイクで集音していますよね。
柳田 いいえ、使っていません。ゲストの方にはマイクを使っているみたいですけど、新派の俳優でマイクを使っている人はいないです。
神山 今、言った『残菊』の菊五郎、大矢さんの声色や調子でやってみたいとか、そういう気持ちになることはありますか。
柳田 ありますけど、そう上手にできないです。でも、少しでも真似したいなと思うところがたくさんありますね。伊志井先生の方がむしろ真似ができない。大矢先生の方が癖があるから、その癖は真似ができますけど。安井[昌二]さんも菅原[謙次]さんも真似はしているみたいです。僕が一番気になったのは、先ほどちょっとお話しした立てひざ。なかなかこれが、様にならない気がする。だから、やっぱり大矢先生とか喜多村先生とか、昔の先生方が立てひざがうまかったなと。だから、自分が今度やるようになったときに、どうお客さんが立てひざを見るかなと、それをいつも思いましたね。
神山 それは意外でしたね。特に五代目菊五郎は立てひざが有名でああいうポーズをよく取っていたと、喜多村さんの芸談で知りました。ただ喜多村、花柳ぐらいまではそういう生活ですからね。
柳田 そうなんですね。みんな真似だから、どこか似合わないんですよね。
神山 菅原さんや安井さん世代までは真似でも形になりますよ。久保田万太郎のお芝居なんかを見ても、ちょっとした小道具の持ち方でも、本当に新派の人は違うものだなと思いますよ。ちょっとした身のこなしとか、立ち去るときの感じが全然ほかの劇団とは違います。
柳田 やっぱり着物を着慣れていないと難しいでしょうね。先日観た文学座の、何の芝居だったか忘れましたけど、男の子が帯を巻くところで、前で巻いて後ろに回した。これだけで、大正のお芝居は壊れるなと思いましたね。
神山 文学座の久保田万太郎ものは、如何に理解はしても、立居、居住いや台詞のイキが、本当に学生演劇を見ているみたいで、ちょっと悲しいですよね(笑)。何気ないところが難しいんだというのは、新派らしいお話だと思いますね。
柳田 僕らもキセルはうるさく言われた方なんですけど、水谷先生でさえ、舞台でキセルは使うときに初めから詰めていましたよ。それでやってらっしゃいました。
神山 ああ、そうですか。キセルの扱いは難しいんですよね。そういったやり方がいろいろとあるんでしょうけれど、演出家も知らないから教えられない。
まだまだお話を伺いたいんですけれど、お時間もありますので……。本日は本当に、貴重なお話をありがとうございました。