「かたり」と「はなし」の往還運動が落語の本質だが、「はなし」で自意識を持て余す落語家は多い。談志は枕で自意識を相対化する視点を同時に語ってみせ、すぐさま「かたり」に移ることでこの問題を解消した。志ん朝にもそういうところはあったが、馬生は自意識がもたらす屈託をフロイト的な意味でのユーモアに変えてしまう。超自我の介入という点では談志も同様なのだが、馬生の超自我のほうがずっと暗く、厳しい。それでも「自意識を持つがゆえのお前の苦しみなどちっぽけなものだ」とユーモアまじりに言い聞かせる馬生の超自我を観客は楽しんだ。
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馬生における超自我
「かたり」と「はなし」の往還運動が落語の本質だが、「はなし」で自意識を持て余す落語家は多い。談志は枕で自意識を相対化する視点を同時に語ってみせ、すぐさま「かたり」に移ることでこの問題を解消した。志ん朝にもそういうところはあったが、馬生は自意識がもたらす屈託をフロイト的な意味でのユーモアに変えてしまう。超自我の介入という点では談志も同様なのだが、馬生の超自我のほうがずっと暗く、厳しい。それでも「自意識を持つがゆえのお前の苦しみなどちっぽけなものだ」とユーモアまじりに言い聞かせる馬生の超自我を観客は楽しんだ。