フォルクスビューネ『終着駅アメリカ』@世田谷パブリックシアター

ここまでウィリアムズを解体するとは! 乱暴で出鱈目で面白いことこの上なし。カストロフが元東独のパンク演劇野郎だということがよくわかった。大変下世話な比喩になってしまうが、台詞を隅から隅まで覚えているウィリアムズおたくが見ると、自分の恋人が見知らぬ男に犯されながら感じているのに立ち会ったときに覚えるような興奮を覚えてしまう。あるいは、はじめてセックス・ピストルズ版「マイ・ウェイ」を聞いたときの衝撃を思い出した、といえばよいか。

たとえば、最終場のブランチの台詞

And I’ll be buried at sea sewn up in a clean white sack and dropped overboard–at noon–in the blaze of summer–and into an ocean as blue as my first lover’s eyes!

は、最初に流産した(!)ステラによって語られ、ブランチが後を追って唱和する。そのとき観客は、なぜステラが少し前に青空がプリントしてあるタンクトップとホットパンツで登場していたのかを悟る。つまり、ブランチのかわりにステラがDella Robbia blueを着ているのだ。

ウィリアムズの研究者として私が絶対の信頼を置く舌津智之は、私がぜひ見に行ってくれと書いたメールの返信に

>侵蝕/増殖するブランチ、というのは徹底したテーマでしたね。

>『欲望』オタクとしては、舞台のはじめの方で、

>スティーヴが、ベッドに足を乗せるな、と

>劇の終盤でブランチが(ミッチに)言う台詞を先取りしてたので、

>これは何だ?と思い、そのあとも、ユーニスがフランス語をしゃべったり、

>スタンリーがブランチ的なヒステリーに陥ったり、詩的な歌を歌ったり、

>とにかく、ブランチが他のキャラクターに伝染している一方で、

>なんだか当のブランチがほとんどブランチっぽくない、という状況で。

と書いてきてくれた。まさしくその通りだと思う。今『欲望』を上演する意義があるとしたら、ブランチ的な欲望のありかたが(アメリカニズム=グローバリズムの回路を通って)いかに世界に拡散浸透しているかを示すこのカストロフの演出しかないのではないか。アメリカという「否定的な媒介」(ヘーゲル)は、自己規定を行う欲望であり/かつその自己規定を乗りこえることで自らを破滅へと追いやる欲望を描く陰画として作用する。

This entry was posted in 未分類 and tagged . Bookmark the permalink. Trackbacks are closed, but you can post a comment.

Post a Comment

Your email is never published nor shared. Required fields are marked *

*
*

You may use these HTML tags and attributes: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>