ある種の芸術作品には、見る者のうちに眠っていた感覚、自分ではとうに忘れていたと思っていた感覚をまざまざと思い起こさせる力がある。記憶の片隅に封じ込められていたそうした感覚は、それだけ取り出してみるとじつに他愛のないものであるけれど、意識によみがえってくると、大きな驚きをもたらす。記憶の玄妙なる作用ゆえというより、直接の刺激となった当の作品と、意識の底に沈み込んでいた記憶がかくも不思議なかたちで結合し、新たなものへと変貌することに驚くのだ。 庭劇団ペニノの主宰者タニノクロウが作り出す舞台は、そうした記憶の芸術の一つである。最新作『庭劇団ペニノの ミセス・P・P・オーフレイム』(二〇〇三)を見てみよう。何よりも印象的なのは舞台美術の奇怪さである。青い光に満たされた円形の舞台は、レンガ造りの倉庫を思わせる高い壁で囲まれている。白い細かな砂が一面に敷き詰められてた床の中央はうずたかく盛り上がり、大小さまざまなサイズの石によってぐるりと縁取りされている。苔でびっしり覆われた小山の地表には、まるで化石か何かのように、バネや歯車のような錆びて赤茶けた機械の部品が放置されている。暗転中から聞こえてくる、一種の通奏低音のように舞台を支配する機械の動作音は、巨大な歯車が回転するたびごとに何かを生産している様子、あるいは旧式の貨物用大型エレベーターが上下に動いている様子を想像させる。脚本の指定によれば、ここは「石庭」なのだという。もちろんそれはたとえば龍安寺の石庭とは似ても似つかない代物なのだが、この「石庭」に表現された、有機物と無機物が融合し間然する所のないさまは、伝統的な石庭の美が示す、自然と人工の調和からそれほど遠く隔たっているわけではない。 あるいはそこには、生物も機械も同じ「もの」でしかないというタニノの透徹した認識が表されているのかもしれない。舞台が明るくなると女が砂の上に横たわっているが、「それが女であるかどうか、生きていても、死んでいてもいい」のはそのためだ。女は「ミセス」なるものに監禁されているらしい。とはいえ、「ミセス」の意思は舞台上方の電光掲示板に点滅する文字で表示されるだけであり、その正体は最後までわからない。最初はおずおずと女に「話し」かけていた「ミセス」だが、次第に饒舌になり、女をいたぶるようになる。食事としてパンと水は出てくるが、コップの中にはどじょうが入っている。あるいはトイレをぎりぎりまで我慢させ、用を足して帰ってきたあとには「汚い手を洗って下さい。その汚い手を洗って下さい」「砂で」と馬鹿にしきった口調で命令する。尺八の演奏方法を覚えさせ、「じゃあ、次の私の誕生日までに、練習しておいてね」などと馴れ馴れしい口を利く。女は「ミセス」のこうした干渉に対してかすかな感情を示すが、言葉は発しない。ただ呻いたり呟いたりするだけである。そして一時間あまりの上演時間の間に、この女の一生分の時間が過ぎる。女は老いて、ふてぶてしい態度をとるようになり、やがて死んでいく。 私たちは、実験用のマウスが自分と自分を「いたぶる」人間が織りなす奇妙な関係について夜見る夢でも見せられているのだろうか? この作品の即物的で突き放した描写や舞台に登場する奇妙な形態の機械生物は、安部公房の小説を思わせるが、類似点はそれだけではない。タニノと同様医学部を卒業した安部は、事物や人間が象徴的な意味を担う、普通の意味での寓話ではなく、「関係の寓話」を描いた。超現実的な状況下において、登場人物同士が取り結ぶ奇妙にも人間くさい関係が浮き彫りにされるのが、安部の小説の特徴である。『ミセス・P・P・オーフレイム』とよく似たイメージをもとにした『砂の女』(一九六二)を思い出してみよう。砂丘に昆虫採集にやってきた男が、砂の底で暮らす女の家から脱出できなくなる、という物語そのものに、何か象徴的な意味を見出そうとすることは徒労に終るだろう。むしろ閉じ込められた男が、そういう状況を作り出した女と情交を通じて次第に抜き差しならぬ関係になっていくことに作家の目は向けられている。 タニノもまた、関係とその変化にこだわり、それを寓意的に描いてみせる。前作『ダークマスター』(二〇〇三)においてそうだった。ひょんなことからマスターから洋食店の切り盛りを任されることになった男。マスターは店の二階に引きこもって彼をカメラで監視し、FMラジオとイヤホンを通じて指示を下す。男は指示通りに料理を作り、客あしらいをし、マスターの二日酔いを直すために薬を飲み、彼の性欲を満たすために店に呼んだホテトルの女とセックスをする。 タニノはこうした自分の作品のモチーフはSMに対する関心から生まれると説明する。別の言いかたをすると、タニノの作品の基底にあるのは、言語によって身体が蹂躙されることへの興味だ、ということになる。言うまでもないが、SMプレイの本質は、暴力による身体の変形ではなく、言葉による支配/被支配関係の構築—確認である。しかしそれでも暴力による身体の変形が必要なのは、それが構築—確認作業がたしかに行われている/行われたことを示す目に見える証拠になるからだ。SMプレイにおいて身体は、暴力という媒介を通じた言語によって変形させられる。 そしてここが、安部とタニノを分ける分岐点である。いかに奇妙に見えようと、安部公房のエロティシズムは、言語レヴェルで取り結ばれる関係と身体レヴェルで取り結ばれる関係とのズレを認識することで生まれる、究極的にはふつうのエロティシズムである(「口ではイヤだと言っていても、カラダはそう言っていないぜ」)。他方、タニノのエロティシズムは、この二者のズレの認識を前提に、言語レヴェルで取り結ばれる関係と、身体レヴェルで取り結ばれる関係とを強引に一致させようとするところから生まれる。それはSMプレイの場においても生じることだが、タニノの作品は、きわめて多くの約束事から成り立つSMプレイがその儀礼性ゆえに失いがちな「無根拠な暴力」を持った言葉を用いて、言葉による身体の蹂躙をより本質的なかたちで示そうとしている。 したがってその言語はできるだけ抽象的で、「感情」や「身体性」を持たないものでなければならない。言葉と身体が乖離していればしているほど、言葉による身体の蹂躙(そしてその結果としての身体と言葉の合致)はよりエロティックになるからだ。ラジオを通じて聞こえるマスターの声や、電光掲示板に映し出される「ミセス」の指示は純粋な言葉—意味や価値を持たない言葉、感情を示さない言葉、発話者の身体を感じさせない言葉—をタニノが指向していることを示している。 それではタニノの作品はこうしたSM的な嗜好を持った一部の人々のためのものなのだろうか? そうではない。言葉による身体の蹂躙は、「身体の記憶」を再編成する。身体レヴェルに刻印されているはるか昔の記憶が活性化され、意識の裡に蘇る。もちろん、それは演じる者だけに生じるわけではない。身体は他の身体と共振するからだ。観客は言葉によって蹂躙される身体を目のあたりにして、自らの身体もまた蹂躙されているように感じ、同時に自らの身体の記憶に息吹が吹き込まれていくのに気づく。『ミセス・P・P・オーフレイム』において仕切りで区切られた「半個室」が一人一人の観客に与えられ、『ダークマスター』においてFMラジオとイヤホンが渡されて、観客はマスターの指示を自分たちの耳で間近に聞くようになっていることは、観客における身体の記憶の再編成を一層促進する。 意識の薄明のうちに幽かに存在する、音、光、もの、感触といった古い記憶。タニノの舞台は、こうした古い記憶を蘇らせる「記憶の芸術」なのだ。
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庭劇団ペニノ『ミセス・P・P・オーフレイム』『ダークマスター』:「記憶の芸術」としてのタニノ作品
ある種の芸術作品には、見る者のうちに眠っていた感覚、自分ではとうに忘れていたと思っていた感覚をまざまざと思い起こさせる力がある。記憶の片隅に封じ込められていたそうした感覚は、それだけ取り出してみるとじつに他愛のないものであるけれど、意識によみがえってくると、大きな驚きをもたらす。記憶の玄妙なる作用ゆえというより、直接の刺激となった当の作品と、意識の底に沈み込んでいた記憶がかくも不思議なかたちで結合し、新たなものへと変貌することに驚くのだ。
庭劇団ペニノの主宰者タニノクロウが作り出す舞台は、そうした記憶の芸術の一つである。最新作『庭劇団ペニノの ミセス・P・P・オーフレイム』(二〇〇三)を見てみよう。何よりも印象的なのは舞台美術の奇怪さである。青い光に満たされた円形の舞台は、レンガ造りの倉庫を思わせる高い壁で囲まれている。白い細かな砂が一面に敷き詰められてた床の中央はうずたかく盛り上がり、大小さまざまなサイズの石によってぐるりと縁取りされている。苔でびっしり覆われた小山の地表には、まるで化石か何かのように、バネや歯車のような錆びて赤茶けた機械の部品が放置されている。暗転中から聞こえてくる、一種の通奏低音のように舞台を支配する機械の動作音は、巨大な歯車が回転するたびごとに何かを生産している様子、あるいは旧式の貨物用大型エレベーターが上下に動いている様子を想像させる。脚本の指定によれば、ここは「石庭」なのだという。もちろんそれはたとえば龍安寺の石庭とは似ても似つかない代物なのだが、この「石庭」に表現された、有機物と無機物が融合し間然する所のないさまは、伝統的な石庭の美が示す、自然と人工の調和からそれほど遠く隔たっているわけではない。
あるいはそこには、生物も機械も同じ「もの」でしかないというタニノの透徹した認識が表されているのかもしれない。舞台が明るくなると女が砂の上に横たわっているが、「それが女であるかどうか、生きていても、死んでいてもいい」のはそのためだ。女は「ミセス」なるものに監禁されているらしい。とはいえ、「ミセス」の意思は舞台上方の電光掲示板に点滅する文字で表示されるだけであり、その正体は最後までわからない。最初はおずおずと女に「話し」かけていた「ミセス」だが、次第に饒舌になり、女をいたぶるようになる。食事としてパンと水は出てくるが、コップの中にはどじょうが入っている。あるいはトイレをぎりぎりまで我慢させ、用を足して帰ってきたあとには「汚い手を洗って下さい。その汚い手を洗って下さい」「砂で」と馬鹿にしきった口調で命令する。尺八の演奏方法を覚えさせ、「じゃあ、次の私の誕生日までに、練習しておいてね」などと馴れ馴れしい口を利く。女は「ミセス」のこうした干渉に対してかすかな感情を示すが、言葉は発しない。ただ呻いたり呟いたりするだけである。そして一時間あまりの上演時間の間に、この女の一生分の時間が過ぎる。女は老いて、ふてぶてしい態度をとるようになり、やがて死んでいく。
私たちは、実験用のマウスが自分と自分を「いたぶる」人間が織りなす奇妙な関係について夜見る夢でも見せられているのだろうか? この作品の即物的で突き放した描写や舞台に登場する奇妙な形態の機械生物は、安部公房の小説を思わせるが、類似点はそれだけではない。タニノと同様医学部を卒業した安部は、事物や人間が象徴的な意味を担う、普通の意味での寓話ではなく、「関係の寓話」を描いた。超現実的な状況下において、登場人物同士が取り結ぶ奇妙にも人間くさい関係が浮き彫りにされるのが、安部の小説の特徴である。『ミセス・P・P・オーフレイム』とよく似たイメージをもとにした『砂の女』(一九六二)を思い出してみよう。砂丘に昆虫採集にやってきた男が、砂の底で暮らす女の家から脱出できなくなる、という物語そのものに、何か象徴的な意味を見出そうとすることは徒労に終るだろう。むしろ閉じ込められた男が、そういう状況を作り出した女と情交を通じて次第に抜き差しならぬ関係になっていくことに作家の目は向けられている。
タニノもまた、関係とその変化にこだわり、それを寓意的に描いてみせる。前作『ダークマスター』(二〇〇三)においてそうだった。ひょんなことからマスターから洋食店の切り盛りを任されることになった男。マスターは店の二階に引きこもって彼をカメラで監視し、FMラジオとイヤホンを通じて指示を下す。男は指示通りに料理を作り、客あしらいをし、マスターの二日酔いを直すために薬を飲み、彼の性欲を満たすために店に呼んだホテトルの女とセックスをする。
タニノはこうした自分の作品のモチーフはSMに対する関心から生まれると説明する。別の言いかたをすると、タニノの作品の基底にあるのは、言語によって身体が蹂躙されることへの興味だ、ということになる。言うまでもないが、SMプレイの本質は、暴力による身体の変形ではなく、言葉による支配/被支配関係の構築—確認である。しかしそれでも暴力による身体の変形が必要なのは、それが構築—確認作業がたしかに行われている/行われたことを示す目に見える証拠になるからだ。SMプレイにおいて身体は、暴力という媒介を通じた言語によって変形させられる。
そしてここが、安部とタニノを分ける分岐点である。いかに奇妙に見えようと、安部公房のエロティシズムは、言語レヴェルで取り結ばれる関係と身体レヴェルで取り結ばれる関係とのズレを認識することで生まれる、究極的にはふつうのエロティシズムである(「口ではイヤだと言っていても、カラダはそう言っていないぜ」)。他方、タニノのエロティシズムは、この二者のズレの認識を前提に、言語レヴェルで取り結ばれる関係と、身体レヴェルで取り結ばれる関係とを強引に一致させようとするところから生まれる。それはSMプレイの場においても生じることだが、タニノの作品は、きわめて多くの約束事から成り立つSMプレイがその儀礼性ゆえに失いがちな「無根拠な暴力」を持った言葉を用いて、言葉による身体の蹂躙をより本質的なかたちで示そうとしている。
したがってその言語はできるだけ抽象的で、「感情」や「身体性」を持たないものでなければならない。言葉と身体が乖離していればしているほど、言葉による身体の蹂躙(そしてその結果としての身体と言葉の合致)はよりエロティックになるからだ。ラジオを通じて聞こえるマスターの声や、電光掲示板に映し出される「ミセス」の指示は純粋な言葉—意味や価値を持たない言葉、感情を示さない言葉、発話者の身体を感じさせない言葉—をタニノが指向していることを示している。
それではタニノの作品はこうしたSM的な嗜好を持った一部の人々のためのものなのだろうか? そうではない。言葉による身体の蹂躙は、「身体の記憶」を再編成する。身体レヴェルに刻印されているはるか昔の記憶が活性化され、意識の裡に蘇る。もちろん、それは演じる者だけに生じるわけではない。身体は他の身体と共振するからだ。観客は言葉によって蹂躙される身体を目のあたりにして、自らの身体もまた蹂躙されているように感じ、同時に自らの身体の記憶に息吹が吹き込まれていくのに気づく。『ミセス・P・P・オーフレイム』において仕切りで区切られた「半個室」が一人一人の観客に与えられ、『ダークマスター』においてFMラジオとイヤホンが渡されて、観客はマスターの指示を自分たちの耳で間近に聞くようになっていることは、観客における身体の記憶の再編成を一層促進する。
意識の薄明のうちに幽かに存在する、音、光、もの、感触といった古い記憶。タニノの舞台は、こうした古い記憶を蘇らせる「記憶の芸術」なのだ。