二月三日観劇。一階2列15番。
「小野道風青柳硯」。今年中に戦後の三越劇場の活動について英語論文を書くことになっているのだが、三越劇場のこけら落としで上演されたこの作品がどんなものだったのかずっと気になっていたのでちょうどよかった。
かつて大工であった小野道風が元同僚の独鈷の駄六と相撲を取る、という突拍子もない物語なのだが、なぜ相撲を取るのに梅玉と三津五郎が出るのかわからなかった。三越劇場のときの、初代吉右衛門と当時の染五郎だった白鷗というのもよくわからなかった。だが見てようやく合点がいった。ようするに舞踊劇に限りなく近いものなのだ。三津五郎は赤っ面で力士の着ぐるみをきていたが、梅玉はいつもの白塗りに公家のいでたちで、そのまま相撲をとらせると滑稽になりかねないのだが、当代きっての踊りの名手の二人、軽くリズミカルに組み合っていた。佳品。
『菅原伝授手習鑑』より「車引」。松王丸の橋之助は言うことなし。梅王丸の松緑はいつもながらうっとおしい。声を張り上げ、元気いっぱいに演じれば褒めてもらえる、という年齢でもなくなってきているのだが…。押すだけではなく引く演技も覚えてほしい。それと比べると、錦之助の桜丸が意外によい。ニンがあっているということもあるが、落ち着いたたたずまいの中にも一定の存在感を出している。歌六の藤原時平は迫力はあったが今ひとつ。どうしてもこの人は表現の幅が狭い。
「積恋雪関扉」。染五郎の宗貞はだめ。この人は自分に台詞がないときのたたずまいに問題がある。まず肩で息をつくのをやめてほしい。お父さんや叔父さんは荒事の立ち回りのあとでもそんな様子を微塵もみせないぞ。それからこれは生理現象だからある程度しかたがないのだが、人一倍大きい目で長いまつげの染五郎がまばたきをしていると目立つのだ。舞台で腰がすわれば多少まばたきはへるのではないか。
とはいえ、かわいそうな気もする。松本白鴎二十七回追善興行ということで父親の幸四郎と同じく昼夜出ずっぱり、しかも夜の部には「春興鏡獅子」もあって、30分以上一人で踊らなくてはならない。「七段目」の寺岡平右衛門も含め、これら全てをこなすには、いまの染五郎には荷が重すぎる(というか、どんな歌舞伎役者でも大変である)。しかし幸四郎は息子かわいさ、そして(秀山祭を続けている)吉右衛門への変わらぬ対抗心、さらには自分が果たせなかった舞踊の名手に息子を仕立てたいという思いゆえに染五郎に過大な荷を負わせてしまっているのだ。
で、大伴黒主の吉右衛門はすばらしい。踊りでは幸四郎に譲るものの、悪役としての位の大きさや存在感という点では勝ったのではないか。ポスターは最後の見得をきっている黒主だが、ほしくなってしまった。さらに墨染の福助がよい。私はこの人をはじめてよいと思った。
『仮名手本忠臣蔵』より「祗園一力茶屋の場」。ちょうど一年前に歌舞伎座で通し上演をやって、そのときの記憶がまだ鮮やかなうちにまったく異なった座組でやるというのは向こう見ずというか、大胆というか。とくにかわいそうだったのが染五郎の寺岡平右衛門と芝雀のおかるのコンビ。一年前観客はこの二人を仁左衛門と玉三郎という現在考えられるベストのコンビで見ているわけで、どうしても比べてしまう。染五郎は仁左衛門をよく研究しているが、仁左衛門が見事に表現していた小兵ゆえの悲しみと、苦みを突き抜けた先に生まれてくる軽みがまったく出ていない。人生経験の差といってはそれまでだが、べつに仁左衛門だってそれほど苦労してきたわけではないのだから、感受性の差なのかもしれない。枝雀は健闘していたが、玉三郎の持って生まれた「私を見て!」というオーラはないのだ。唯一、おかるを欄干からはしご伝いにおろすときにもとの詞章にあった「船玉さまが見える」という由良之助の卑猥な台詞を幸四郎が復活させていたことは評価したい。お上品にしたい玉三郎相手に吉右衛門は言えなかった台詞だが、由良之助のおどけぶりは性的なことがらにまでいたって一本筋が通るのだから。
で、高麗蔵の大星力弥はいくらなんでも役不足だろうとか、ケチは他にもつけられるのだが、なんといっても幸四郎の存在感の大きさに圧倒される。とくに斧九太夫をさんざんに打擲するところで恨み辛みを大音声で語って見せるところは、ただただ引き込まれる(ただし客席の一部では「逮夜に章魚を食べさせて…」云々のところで失笑も聞こえた。そんな細かいことにこだわっている由良之助がおかしいということなのだろうが、しかしそれはいまどきの日本人の宗教心の薄さを示しているだけであって気にしなくてよろしい)。
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二月大歌舞伎:昼の部
二月三日観劇。一階2列15番。
「小野道風青柳硯」。今年中に戦後の三越劇場の活動について英語論文を書くことになっているのだが、三越劇場のこけら落としで上演されたこの作品がどんなものだったのかずっと気になっていたのでちょうどよかった。
かつて大工であった小野道風が元同僚の独鈷の駄六と相撲を取る、という突拍子もない物語なのだが、なぜ相撲を取るのに梅玉と三津五郎が出るのかわからなかった。三越劇場のときの、初代吉右衛門と当時の染五郎だった白鷗というのもよくわからなかった。だが見てようやく合点がいった。ようするに舞踊劇に限りなく近いものなのだ。三津五郎は赤っ面で力士の着ぐるみをきていたが、梅玉はいつもの白塗りに公家のいでたちで、そのまま相撲をとらせると滑稽になりかねないのだが、当代きっての踊りの名手の二人、軽くリズミカルに組み合っていた。佳品。
『菅原伝授手習鑑』より「車引」。松王丸の橋之助は言うことなし。梅王丸の松緑はいつもながらうっとおしい。声を張り上げ、元気いっぱいに演じれば褒めてもらえる、という年齢でもなくなってきているのだが…。押すだけではなく引く演技も覚えてほしい。それと比べると、錦之助の桜丸が意外によい。ニンがあっているということもあるが、落ち着いたたたずまいの中にも一定の存在感を出している。歌六の藤原時平は迫力はあったが今ひとつ。どうしてもこの人は表現の幅が狭い。
「積恋雪関扉」。染五郎の宗貞はだめ。この人は自分に台詞がないときのたたずまいに問題がある。まず肩で息をつくのをやめてほしい。お父さんや叔父さんは荒事の立ち回りのあとでもそんな様子を微塵もみせないぞ。それからこれは生理現象だからある程度しかたがないのだが、人一倍大きい目で長いまつげの染五郎がまばたきをしていると目立つのだ。舞台で腰がすわれば多少まばたきはへるのではないか。
とはいえ、かわいそうな気もする。松本白鴎二十七回追善興行ということで父親の幸四郎と同じく昼夜出ずっぱり、しかも夜の部には「春興鏡獅子」もあって、30分以上一人で踊らなくてはならない。「七段目」の寺岡平右衛門も含め、これら全てをこなすには、いまの染五郎には荷が重すぎる(というか、どんな歌舞伎役者でも大変である)。しかし幸四郎は息子かわいさ、そして(秀山祭を続けている)吉右衛門への変わらぬ対抗心、さらには自分が果たせなかった舞踊の名手に息子を仕立てたいという思いゆえに染五郎に過大な荷を負わせてしまっているのだ。
で、大伴黒主の吉右衛門はすばらしい。踊りでは幸四郎に譲るものの、悪役としての位の大きさや存在感という点では勝ったのではないか。ポスターは最後の見得をきっている黒主だが、ほしくなってしまった。さらに墨染の福助がよい。私はこの人をはじめてよいと思った。
『仮名手本忠臣蔵』より「祗園一力茶屋の場」。ちょうど一年前に歌舞伎座で通し上演をやって、そのときの記憶がまだ鮮やかなうちにまったく異なった座組でやるというのは向こう見ずというか、大胆というか。とくにかわいそうだったのが染五郎の寺岡平右衛門と芝雀のおかるのコンビ。一年前観客はこの二人を仁左衛門と玉三郎という現在考えられるベストのコンビで見ているわけで、どうしても比べてしまう。染五郎は仁左衛門をよく研究しているが、仁左衛門が見事に表現していた小兵ゆえの悲しみと、苦みを突き抜けた先に生まれてくる軽みがまったく出ていない。人生経験の差といってはそれまでだが、べつに仁左衛門だってそれほど苦労してきたわけではないのだから、感受性の差なのかもしれない。枝雀は健闘していたが、玉三郎の持って生まれた「私を見て!」というオーラはないのだ。唯一、おかるを欄干からはしご伝いにおろすときにもとの詞章にあった「船玉さまが見える」という由良之助の卑猥な台詞を幸四郎が復活させていたことは評価したい。お上品にしたい玉三郎相手に吉右衛門は言えなかった台詞だが、由良之助のおどけぶりは性的なことがらにまでいたって一本筋が通るのだから。
で、高麗蔵の大星力弥はいくらなんでも役不足だろうとか、ケチは他にもつけられるのだが、なんといっても幸四郎の存在感の大きさに圧倒される。とくに斧九太夫をさんざんに打擲するところで恨み辛みを大音声で語って見せるところは、ただただ引き込まれる(ただし客席の一部では「逮夜に章魚を食べさせて…」云々のところで失笑も聞こえた。そんな細かいことにこだわっている由良之助がおかしいということなのだろうが、しかしそれはいまどきの日本人の宗教心の薄さを示しているだけであって気にしなくてよろしい)。