小さんの晩年の芸について

小沢昭一・矢野誠一「志ん生礼賛」『文藝別冊 [総特集]古今亭志ん生』九二ー九三頁。

矢野 このあいだ亡くなった小さんさんも、晩年は全然芸をやらなかったでしょう。ただ昔におぼえた噺をするだけで、あの人の芸を支えた呼吸(いき)だとか間だとかとぼけた味やおもしろさは全然なくなっちゃったわけじゃないですか。それでもうただ喋っているだけで。

小沢 でもあれもいいでしょう。

矢野 そう、もう本当に楽しいんですよ。究極で全部捨てちゃうというのはここなのかなっていうふうな感じで、本当に芸に遊ぶっていうか。たとえばそれを単なる老耄っていうものさしではかった場合には、彦六で死んだ正藏だとか、志ん生さんの晩年なんかとまったく同じ尺度になっちゃうわけです。でも、あのころの志ん生さんでもおもしろく聴かせたいという最低の姿勢はあったわけでしょう。晩年の小さんからはそれも消えちゃったわけで、僕はそれがとてもおもしろかった。それで追悼文を書いたときに、僕は自分なりに小さんを五十年間聴き続けてきて、少なくとも小さんと同じ五十年の時間を体験していたから、はじめてそういうものをおもしろいと思えるのかなと、ちょっとおこがましいけどそう思ったんです。いきなりポンとあれを聴かされても、「何でこれが名人なんだ」って思う方がむしろ普通の感覚であって。

矢野誠一の「一発芸」的特質はここにも現れている。志ん生について語り合う対談において、これほど鋭い小さん論をぶちあげるのはなぜか。この人は正面きって小さん論も志ん生論も書くことができずに、こういうところでお茶を濁しているのは本当に惜しい。まあそう言うのも天に向かって唾することになるかもしれないのだが。来年度「トピック・セミナーA:映像で見る・昭和の名人たち」でどれだけ自分の考えを深化できるかだなあ。

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