5月13日観劇。1階11列20番。『妹背山婦女庭訓』は三笠山御殿の場。院本時代物は難しい。とくにこの場において、なぜお三輪は自分が死ぬことに納得して死んでいけるのか、近代人には謎であり、その理屈を説く金輪五郎今国の台詞や浄瑠璃の詞章は、不条理劇に出てくる理屈になっていない理屈のように聞こえる。人形が数奇な運命に操られて死んでいくのであればまだ受け入れられるのだが、生身の俳優が演じると余計なリアリティを背負ってしまって、観客はなかなか納得しがたい。とくに今回、福助がお三輪が演じたことで、この違和感は決定的なものになってしまった。福助には時代物の大柄さが似合わない。世話物の女房をやらせるときわめてリアルなのだが、時代物をやるには意識家すぎる。自分の演技を自分でコントロールしたいという欲望が観客に透けて見えると、そのような人間がこれほど不条理な運命に操られるままになっていることに根本的な矛盾を感じてしまう。 女官たちによるお三輪いじめもまた、「近代的」すぎる。花組芝居の芝居を見ているようだ。『鏡山旧錦絵』をもとにした花組芝居の『女中たち』のなかに出てくる岩藤の草履うちを思い出した。加納幸和はもちろん、封建的な上下関係が強要する不条理さというものを現代では再現できないと考えたうえで、あえて子供たちの残酷ないじめのイメージを持ってきており、批評的意識が働いていることがわかるからよいのだが、新橋演舞場の舞台で女官たちが楽しそうに笑いながらお三輪をいじめているのを見るのは、ちょっとげんなりする。本来はもっと陰惨なものであり、また女官たちは自分たちのしていることをそれほど意識化していないはずだ。したがって笑いながらいじめるにしても、もっとその笑いは強張ったものにならなければならない。 『隅田川続俤』は面白く見られた。法界坊の吉右衛門は「欧米か」とまでいって、いささかやり過ぎの感なきにしもあらずだが、要所要所を締めてお見事の一言につきる。道具屋甚三の富十郎が重厚な台詞廻しで吉右衛門を向こうに堂々と演じきる。第二幕向島三囲土手の場での立ち回りではさすがに息があがっていて苦しそうだった。おくみの芝雀は可もなく不可もなし。「双面水照月」まで力をためているという印象をうけた。ただし、薄紫の地の着物に派手なオレンジの帯というのはちょっとなんとかならないか。 手代要助を演じる錦之助が意外によい。ニンが合っているということもあるが、体の向こう側が透けて見えそうな線の細さがそれほど気にならない。「存在感の薄い人、っていう存在感がある」と一緒に見に行った友人に言ったらウケていたが、それほどうがった見方ではないかもしれない。吉三郎の番頭長九郎は好演。 25分間の休憩のあとに「双面水照月」。法界坊の霊・野分姫の霊を演じた染五郎、法界坊の台詞廻しは吉右衛門ばりのドスの効いた声で、もうあと二、三年後に通しで演じることもできるのではないかと思わせる。ただし野分姫は納得がいかない。そもそもこの人、女形ができる人ではないのだ。目鼻立ちがすっきりとしすぎて、和風の美女ではなくて洋風の美女になってしまう。両目の上に太く入れた朱は白目をむくときにとくに違和感を感じる。だがもっとも問題なのは、舞踊の部分。芝雀のおくみの踊りを真似するところでも本当はそうなのだが、福助の渡し守おしづを相手にするところではとくに、そのモダンさが浮いてしまう。福助は正統派だから、手足だけを動かして体幹を動かさないからきれいに決まるが、染五郎は体幹から動くので、このように動きが激しい舞踊だと、モダンダンスなのか歌舞伎舞踊なのかわからなくなる。といってもこの人の体の動かしかたは生涯変わらないだろうから、自分なりの型を見出してそれで観客を納得させるようにするしかないのだ。これまでの日本人の体型や体の使い方にあわせて作られてきた型をなぞることはできないことを悟るべきだろう。
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五月歌舞伎:夜の部
5月13日観劇。1階11列20番。『妹背山婦女庭訓』は三笠山御殿の場。院本時代物は難しい。とくにこの場において、なぜお三輪は自分が死ぬことに納得して死んでいけるのか、近代人には謎であり、その理屈を説く金輪五郎今国の台詞や浄瑠璃の詞章は、不条理劇に出てくる理屈になっていない理屈のように聞こえる。人形が数奇な運命に操られて死んでいくのであればまだ受け入れられるのだが、生身の俳優が演じると余計なリアリティを背負ってしまって、観客はなかなか納得しがたい。とくに今回、福助がお三輪が演じたことで、この違和感は決定的なものになってしまった。福助には時代物の大柄さが似合わない。世話物の女房をやらせるときわめてリアルなのだが、時代物をやるには意識家すぎる。自分の演技を自分でコントロールしたいという欲望が観客に透けて見えると、そのような人間がこれほど不条理な運命に操られるままになっていることに根本的な矛盾を感じてしまう。
女官たちによるお三輪いじめもまた、「近代的」すぎる。花組芝居の芝居を見ているようだ。『鏡山旧錦絵』をもとにした花組芝居の『女中たち』のなかに出てくる岩藤の草履うちを思い出した。加納幸和はもちろん、封建的な上下関係が強要する不条理さというものを現代では再現できないと考えたうえで、あえて子供たちの残酷ないじめのイメージを持ってきており、批評的意識が働いていることがわかるからよいのだが、新橋演舞場の舞台で女官たちが楽しそうに笑いながらお三輪をいじめているのを見るのは、ちょっとげんなりする。本来はもっと陰惨なものであり、また女官たちは自分たちのしていることをそれほど意識化していないはずだ。したがって笑いながらいじめるにしても、もっとその笑いは強張ったものにならなければならない。
『隅田川続俤』は面白く見られた。法界坊の吉右衛門は「欧米か」とまでいって、いささかやり過ぎの感なきにしもあらずだが、要所要所を締めてお見事の一言につきる。道具屋甚三の富十郎が重厚な台詞廻しで吉右衛門を向こうに堂々と演じきる。第二幕向島三囲土手の場での立ち回りではさすがに息があがっていて苦しそうだった。おくみの芝雀は可もなく不可もなし。「双面水照月」まで力をためているという印象をうけた。ただし、薄紫の地の着物に派手なオレンジの帯というのはちょっとなんとかならないか。
手代要助を演じる錦之助が意外によい。ニンが合っているということもあるが、体の向こう側が透けて見えそうな線の細さがそれほど気にならない。「存在感の薄い人、っていう存在感がある」と一緒に見に行った友人に言ったらウケていたが、それほどうがった見方ではないかもしれない。吉三郎の番頭長九郎は好演。
25分間の休憩のあとに「双面水照月」。法界坊の霊・野分姫の霊を演じた染五郎、法界坊の台詞廻しは吉右衛門ばりのドスの効いた声で、もうあと二、三年後に通しで演じることもできるのではないかと思わせる。ただし野分姫は納得がいかない。そもそもこの人、女形ができる人ではないのだ。目鼻立ちがすっきりとしすぎて、和風の美女ではなくて洋風の美女になってしまう。両目の上に太く入れた朱は白目をむくときにとくに違和感を感じる。だがもっとも問題なのは、舞踊の部分。芝雀のおくみの踊りを真似するところでも本当はそうなのだが、福助の渡し守おしづを相手にするところではとくに、そのモダンさが浮いてしまう。福助は正統派だから、手足だけを動かして体幹を動かさないからきれいに決まるが、染五郎は体幹から動くので、このように動きが激しい舞踊だと、モダンダンスなのか歌舞伎舞踊なのかわからなくなる。といってもこの人の体の動かしかたは生涯変わらないだろうから、自分なりの型を見出してそれで観客を納得させるようにするしかないのだ。これまでの日本人の体型や体の使い方にあわせて作られてきた型をなぞることはできないことを悟るべきだろう。