『表裏源内蛙合戦』

若き井上ひさしの真の意味での実験作。たくさんの実験が試みられている。四時間あまりの上演時間の大半を「演劇」の濃密な時間としてではなく、「演芸」のゆるやかな時間として観客に体験させること。セックスの露骨な描写を通して、そして人体解剖のグロテスクな場面を通して、観客席のブルジョア的道徳を撃つこと。日本語のミュージカルを作ること。そして、「手鎖心中」と同様、六八年革命の失敗を美化することなく観客に思い起こさせ、その結果、私たちが失ってしまったものが何かを訴えること。どれ一つとして今の観客に通用しそうもないものであるが、蜷川はあえてこの反時代的戯曲をとりあげ、スター芝居に見せかけて、ブルジョア芝居の牙城シアターコクーンで上演するという硬骨漢ぶりを示した。

勝村政信をはじめとする俳優陣も、この芝居を今上演することの意味をはっきりわかって演じていた。「美しい明日」はたんに歌詞だけではなく、高岡早紀の、六平直政の、勝村政信の思いがこもっており、その本当の意味がわかるものに涙を流させた。とくに、勝村政信の声はいい。

朝比奈尚行の音楽は可もなく不可もなし、というところだが、これが本当に才能のある音楽家によって作曲されていたとしたら、もっとインパクトはあっただろう。ソンドハイムにこの戯曲を読ませたいよ。

こういうのを見ると、シアターコクーン常連の、野田秀樹の反体制気取りが、勘三郎の「枠を破る」試みが、あるいは松尾スズキのグロテスクなものへの偏愛が、いかに中途半端かよくわかる。吉原の場面で、腑分けの場面で、多くの観客は本当に引いていたぞ。顔を背けたくなるぐらい生々しく、グロテスクだったから。シアターコクーンの制作者たちは顔を青くしていたのではないか。ヴィヴァ七十代! 四十代、五十代はそれに比べるとだめだ。

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