サイモン・マクバーニーの日本文化への無理解が露呈した作品だった。
谷崎の書いていることなんかを本気にとってはいけない。谷崎はシャレに生き、シャレに死んだ人だった。「刺青」「春琴抄」『痴人の愛』なんてのは一から十までシャレで書いているのである。シャレで書いているから、底が浅い。シャレで書いているから、虚仮威しが虚仮威しにしか見えない。
こうした谷崎の「悪魔主義」の不徹底さについては芥川龍之介(「あの頃の自分の事」)をはじめ多くの人が指摘してきたところである。ただ、それを彼の欠陥であるかのように言い立てるのは正確ではない。谷崎は軽佻浮薄をよしとしており、ものを突き詰めて考えるのは野暮だと考えていたふしがある。その意味では、後年関西に移住しようが、日本橋蛎殻町で生まれ育った谷崎は終世江戸っ子であり、本所で育ち、なにごとも深く突き詰めて考えようとした芥川は本当の意味での江戸っ子ではなかったのだろう(そもそも自殺するなんてのは野暮の骨頂だ)。『細雪』のスカトロジズムも、なにも深読みする必要はない。あれは最後まで割と真面目に書いてきた谷崎が最後にああ疲れた、こんなのは自分の柄ではないな、と思ってペロっと舌を出しているだけだ。
もちろん、軽佻浮薄で不真面目が許されるのは谷崎に圧倒的な才能があるからだ。駅のホームで電車が入ってきた途端、毒蝮三太夫を突き飛ばし、「シャレだよシャレ」と立川談志がしらっと言う。「死んだらどうするつもりだ!」と毒蝮がくってかかると、談志は「シャレでしたって言ってやる」。一般人にはこんなことは許されない。落語が圧倒的に面白いから、談志のシャレはシャレで通る。谷崎がどんなに浅墓な小説を書こうと、面白いからその浅墓さは看過される。辰野隆の言をうけて人形浄瑠璃を「痴呆の芸術」と言ったとき、谷崎は人形浄瑠璃の通俗性と自分の小説の通俗性を重ね合わせてみていたのだ。くだらないけど面白い。内容がないけれど惹きつけられる。なにもそれは文楽だけではない。谷崎の小説だって同じことだ。
では谷崎の圧倒的な才能とはなにか。
「春琴抄」は典型的なのだが、この作品だけでなく、ほとんどの谷崎の小説は焦点が二重になっている。深度の浅いところにフォーカスがあたっているだけでなく、同時に深いところにもフォーカスがある。春琴と佐吉の関係はSMの主従関係である、と説明するとき、それは下世話な想像力を刺激するのに十分であるが、しかし同時に、春琴の盲目であるがゆえに歪められた生を、佐吉の封建制度にとらわれた愚かな愛を、想像することは可能である。
そして奥行きの深い登場人物を造形しておきながら、谷崎は意図的にこの奥行きを描写することを拒絶する。それはタブロイド紙や週刊誌の記事が、本来ならさまざまな事情があって複雑に絡み合っている人間関係を、ことさらスキャンダラスに、単純に面白おかしく書き立てるのとよく似ている。かけがいのない個人の生をないがしろにして、踏みにじる楽しさ。言葉には尽くしがたい悲惨な経験をした人間の転落ぶりを「あいつバカだよな」と片付ける楽しさ。それが谷崎文学の魅力である。
だがこの魅力は、作者と読者のあいだの罪悪感の共有がなければ半減してしまう。複雑な生を単純化し、さまざまなものを切り捨てることへの罪悪感。「あいつバカだよな」といったあとに、ちらっと胸に走る良心の呵責。私たちはそうやって他人を踏みにじりながら生きており、しかも度し難いことに、そのことを正当化すらしている。盲人であるゆえに春琴がさまざまなかたちで屈辱を味わい、誇りを奪われ、それでも自分は愛されるに足る人間であるという信念を失うことはできずに、その歪められた思いを佐吉にすべてはき出していること。恐れ崇拝することと愛することとの区別を知らず、主人と奉公人という関係にとらわれ、主人の命ずるままにひたすら奉仕することしかできない佐吉。谷崎が詳しくは書かないが、それでもフォーカスをあてているものを読者はちらりと眺め、それから目を伏せて見なかったことにし、表層のくだらない、通俗的な物語にうつつを抜かす。
『卍』『痴人の愛』などを映画化した増村保造にはわかっていたこうしたことを、サイモン・マクバーニーはまるでわかっていない。ヨーロッパの美学の言葉であれば、アイロニーと定義できるだろう谷崎の対象にたいする距離感をまるでつかめていない。本質的な理解が欠如しているにもかかわらず谷崎を持ち上げるその様子は、「陰影礼賛」を素晴らしいといい、これで論文を書くのだと喧伝して回っている日本文化専攻のアメリカ人大学院生と同じぐらいイタい。
まず語りに立石涼子を配したのが失敗だ。彼女の分別くさい、落ち着いた声は朗読向きかもしれないが、「春琴抄」における谷崎の語りの根底にある、ねっとりと対象をねぶるような視線を具現化するにはほど遠い。立石の、学級委員長がそのまま年をとりましたというような、生真面目さ、融通のきかなさ、そしてある種の知的愚鈍さが、谷崎の底の浅さ、単純さといかにもミスマッチである。ましてや、彼女の演じるミニドラマをや。不倫して、自分たちの愛を春琴と佐吉のそれになぞらえる。谷崎文学の浅墓さを、浅墓にとらえて平気でいるその鈍感さには唖然とするしかない。
深津絵里もだめ。春琴を舞台に登場させるのなら、それは谷崎があえて踏み込んで書かなかった春琴の奥行きを示すものでなければいけない。谷崎がわざと春琴を浅墓に描いていることを批評的に示すものでなければいけない。ところが深津の春琴は、ただの浅薄な女だった。谷崎が人形のように描いた春琴を人形のまま舞台に載せてしまっている。
演出も全体的に古くさい。気の利いた新劇劇団なら考えつきそうな舞台効果、中途半端な人形遣い、佐吉が目を突き刺したときに能鼓をポンと打つようなオリエンタリズム。
なんだかなあ、という舞台だった。
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Δ
春琴
サイモン・マクバーニーの日本文化への無理解が露呈した作品だった。
谷崎の書いていることなんかを本気にとってはいけない。谷崎はシャレに生き、シャレに死んだ人だった。「刺青」「春琴抄」『痴人の愛』なんてのは一から十までシャレで書いているのである。シャレで書いているから、底が浅い。シャレで書いているから、虚仮威しが虚仮威しにしか見えない。
こうした谷崎の「悪魔主義」の不徹底さについては芥川龍之介(「あの頃の自分の事」)をはじめ多くの人が指摘してきたところである。ただ、それを彼の欠陥であるかのように言い立てるのは正確ではない。谷崎は軽佻浮薄をよしとしており、ものを突き詰めて考えるのは野暮だと考えていたふしがある。その意味では、後年関西に移住しようが、日本橋蛎殻町で生まれ育った谷崎は終世江戸っ子であり、本所で育ち、なにごとも深く突き詰めて考えようとした芥川は本当の意味での江戸っ子ではなかったのだろう(そもそも自殺するなんてのは野暮の骨頂だ)。『細雪』のスカトロジズムも、なにも深読みする必要はない。あれは最後まで割と真面目に書いてきた谷崎が最後にああ疲れた、こんなのは自分の柄ではないな、と思ってペロっと舌を出しているだけだ。
もちろん、軽佻浮薄で不真面目が許されるのは谷崎に圧倒的な才能があるからだ。駅のホームで電車が入ってきた途端、毒蝮三太夫を突き飛ばし、「シャレだよシャレ」と立川談志がしらっと言う。「死んだらどうするつもりだ!」と毒蝮がくってかかると、談志は「シャレでしたって言ってやる」。一般人にはこんなことは許されない。落語が圧倒的に面白いから、談志のシャレはシャレで通る。谷崎がどんなに浅墓な小説を書こうと、面白いからその浅墓さは看過される。辰野隆の言をうけて人形浄瑠璃を「痴呆の芸術」と言ったとき、谷崎は人形浄瑠璃の通俗性と自分の小説の通俗性を重ね合わせてみていたのだ。くだらないけど面白い。内容がないけれど惹きつけられる。なにもそれは文楽だけではない。谷崎の小説だって同じことだ。
では谷崎の圧倒的な才能とはなにか。
「春琴抄」は典型的なのだが、この作品だけでなく、ほとんどの谷崎の小説は焦点が二重になっている。深度の浅いところにフォーカスがあたっているだけでなく、同時に深いところにもフォーカスがある。春琴と佐吉の関係はSMの主従関係である、と説明するとき、それは下世話な想像力を刺激するのに十分であるが、しかし同時に、春琴の盲目であるがゆえに歪められた生を、佐吉の封建制度にとらわれた愚かな愛を、想像することは可能である。
そして奥行きの深い登場人物を造形しておきながら、谷崎は意図的にこの奥行きを描写することを拒絶する。それはタブロイド紙や週刊誌の記事が、本来ならさまざまな事情があって複雑に絡み合っている人間関係を、ことさらスキャンダラスに、単純に面白おかしく書き立てるのとよく似ている。かけがいのない個人の生をないがしろにして、踏みにじる楽しさ。言葉には尽くしがたい悲惨な経験をした人間の転落ぶりを「あいつバカだよな」と片付ける楽しさ。それが谷崎文学の魅力である。
だがこの魅力は、作者と読者のあいだの罪悪感の共有がなければ半減してしまう。複雑な生を単純化し、さまざまなものを切り捨てることへの罪悪感。「あいつバカだよな」といったあとに、ちらっと胸に走る良心の呵責。私たちはそうやって他人を踏みにじりながら生きており、しかも度し難いことに、そのことを正当化すらしている。盲人であるゆえに春琴がさまざまなかたちで屈辱を味わい、誇りを奪われ、それでも自分は愛されるに足る人間であるという信念を失うことはできずに、その歪められた思いを佐吉にすべてはき出していること。恐れ崇拝することと愛することとの区別を知らず、主人と奉公人という関係にとらわれ、主人の命ずるままにひたすら奉仕することしかできない佐吉。谷崎が詳しくは書かないが、それでもフォーカスをあてているものを読者はちらりと眺め、それから目を伏せて見なかったことにし、表層のくだらない、通俗的な物語にうつつを抜かす。
『卍』『痴人の愛』などを映画化した増村保造にはわかっていたこうしたことを、サイモン・マクバーニーはまるでわかっていない。ヨーロッパの美学の言葉であれば、アイロニーと定義できるだろう谷崎の対象にたいする距離感をまるでつかめていない。本質的な理解が欠如しているにもかかわらず谷崎を持ち上げるその様子は、「陰影礼賛」を素晴らしいといい、これで論文を書くのだと喧伝して回っている日本文化専攻のアメリカ人大学院生と同じぐらいイタい。
まず語りに立石涼子を配したのが失敗だ。彼女の分別くさい、落ち着いた声は朗読向きかもしれないが、「春琴抄」における谷崎の語りの根底にある、ねっとりと対象をねぶるような視線を具現化するにはほど遠い。立石の、学級委員長がそのまま年をとりましたというような、生真面目さ、融通のきかなさ、そしてある種の知的愚鈍さが、谷崎の底の浅さ、単純さといかにもミスマッチである。ましてや、彼女の演じるミニドラマをや。不倫して、自分たちの愛を春琴と佐吉のそれになぞらえる。谷崎文学の浅墓さを、浅墓にとらえて平気でいるその鈍感さには唖然とするしかない。
深津絵里もだめ。春琴を舞台に登場させるのなら、それは谷崎があえて踏み込んで書かなかった春琴の奥行きを示すものでなければいけない。谷崎がわざと春琴を浅墓に描いていることを批評的に示すものでなければいけない。ところが深津の春琴は、ただの浅薄な女だった。谷崎が人形のように描いた春琴を人形のまま舞台に載せてしまっている。
演出も全体的に古くさい。気の利いた新劇劇団なら考えつきそうな舞台効果、中途半端な人形遣い、佐吉が目を突き刺したときに能鼓をポンと打つようなオリエンタリズム。
なんだかなあ、という舞台だった。