「演劇弁当猫ニャー」と名称を一部変更して以来、劇作家・演出家のブルースカイの新たな方向性がはじめて明確に打ち出された。本来暗く、きわめて病的な作品世界を、シュールでナンセンスな笑いで徹底的に覆い隠してしまうという、この作品で明らかになったその方法論は、いわゆるブラック・コメディとも異なる、ブルースカイ独自のものである。 『応急エステティック』は、近未来の東京、何者かのテロによって山手線が脱線事故を起こし、何千人もの死傷者が出ているという状況下、廃業寸前のエステティックサロンに、病院と勘違いした救急隊が負傷者を何人も運び込んでくるという設定で幕を開ける。喜劇において「場所の取り違え」は「人物の取り違え」の次によく用いられる設定であり、当然この作品においても取り違えによるドタバタが起きるわけであるが、しかしその背景にはテロという深刻な状況があり、しかも運び込まれた負傷者たちのうめき声がひっきりなしに聞こえる舞台を見ている観客は、はたして本当に笑っていいのか判断に苦しむことになる。 さらに運び込まれた負傷者の中に、この国の「王女様」がいることがわかる。国王が選んだ婚約者との結婚を嫌った彼女は、本当に愛することができる男性を捜すためにお忍びで町中に出かけていたのだ。これもまた喜劇によくある設定であり、複数の男がその寵愛をめぐって争う、というのも予想通りの展開である。しかしこの場合、瀕死の重傷を負った求婚者たちは文字通り生命を賭して、美しくなるためにエステティックサロンの治療を受けるという、薄気味の悪い物語になっていく。 この手法が、いわゆるブラック・コメディとは異なることには留意すべきであろう。たしかに、死や性に関わるタブーを題材にするという点では似ている。しかし通常ブラック・コメディでは、そのジャンルと結びついた作者の名前や題名、前宣伝で明かされている物語の大まかな内容、社会的規範からの逸脱を示唆する「過激な」台詞を言う前の俳優のちょっとした仕草などによって、「これからタブーが侵犯されるのだ」ということがあらかじめ観客に了解できるようになっている。ブラック・コメディにおいて、観客は作者の仕掛けた罠に自ら落ちてみせることで共犯者としての意識を抱き、若干の後ろめたさを感じながら笑うのだ。だがこの作品において観客は、タブーを侵犯していることを明確に教えられないままに、なしくずしに不穏なものになっていく状況を眺めることになる。もちろん、そこでも普通はギャグとして通用するものが多々演じられるのだが、それらは状況とあまりにも不釣り合いで、「不謹慎な」ものである。そこで観客は笑った後に後味の悪い思いをする。笑いの感情の抑制の要求を、「ながら」感じるのか「後で」感じるのか、というこの違いが通常のブラック・コメディとブルースカイの作品の違いである。
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演劇弁当猫ニャー『応急エステティック』
「演劇弁当猫ニャー」と名称を一部変更して以来、劇作家・演出家のブルースカイの新たな方向性がはじめて明確に打ち出された。本来暗く、きわめて病的な作品世界を、シュールでナンセンスな笑いで徹底的に覆い隠してしまうという、この作品で明らかになったその方法論は、いわゆるブラック・コメディとも異なる、ブルースカイ独自のものである。
『応急エステティック』は、近未来の東京、何者かのテロによって山手線が脱線事故を起こし、何千人もの死傷者が出ているという状況下、廃業寸前のエステティックサロンに、病院と勘違いした救急隊が負傷者を何人も運び込んでくるという設定で幕を開ける。喜劇において「場所の取り違え」は「人物の取り違え」の次によく用いられる設定であり、当然この作品においても取り違えによるドタバタが起きるわけであるが、しかしその背景にはテロという深刻な状況があり、しかも運び込まれた負傷者たちのうめき声がひっきりなしに聞こえる舞台を見ている観客は、はたして本当に笑っていいのか判断に苦しむことになる。
さらに運び込まれた負傷者の中に、この国の「王女様」がいることがわかる。国王が選んだ婚約者との結婚を嫌った彼女は、本当に愛することができる男性を捜すためにお忍びで町中に出かけていたのだ。これもまた喜劇によくある設定であり、複数の男がその寵愛をめぐって争う、というのも予想通りの展開である。しかしこの場合、瀕死の重傷を負った求婚者たちは文字通り生命を賭して、美しくなるためにエステティックサロンの治療を受けるという、薄気味の悪い物語になっていく。
この手法が、いわゆるブラック・コメディとは異なることには留意すべきであろう。たしかに、死や性に関わるタブーを題材にするという点では似ている。しかし通常ブラック・コメディでは、そのジャンルと結びついた作者の名前や題名、前宣伝で明かされている物語の大まかな内容、社会的規範からの逸脱を示唆する「過激な」台詞を言う前の俳優のちょっとした仕草などによって、「これからタブーが侵犯されるのだ」ということがあらかじめ観客に了解できるようになっている。ブラック・コメディにおいて、観客は作者の仕掛けた罠に自ら落ちてみせることで共犯者としての意識を抱き、若干の後ろめたさを感じながら笑うのだ。だがこの作品において観客は、タブーを侵犯していることを明確に教えられないままに、なしくずしに不穏なものになっていく状況を眺めることになる。もちろん、そこでも普通はギャグとして通用するものが多々演じられるのだが、それらは状況とあまりにも不釣り合いで、「不謹慎な」ものである。そこで観客は笑った後に後味の悪い思いをする。笑いの感情の抑制の要求を、「ながら」感じるのか「後で」感じるのか、というこの違いが通常のブラック・コメディとブルースカイの作品の違いである。