演劇弁当猫ニャー『弁償するとき目が光る』

演劇弁当猫ニャー第四回公演『弁償するとき目が光る』は、一九九九年に上演された劇団猫ニャー時代の同名作品の再演だが、大幅に加筆されて上演時間二時間四十分の大作となった。弁償するときに目が光るという、現代医学では治癒できない奇病「弁償性発光神経症」に幼い頃から苦しめられてきた少女ナカマトモコは、担当医椿からも匙を投げられ自暴自棄になっている。しかしトモコが原宿駅駅長の娘であり、父の死により原宿駅を遺産相続したと知った椿は、治癒できたら原宿駅をもらうと言い出す。そのためには十年前突如姿を消した伝説の天才精神科医、火柱泰三の神の手が必要だ。しかしようやくのことで探し当てた火柱は多重人格を患っており、医者としての自分を封印していた。説得されてかつての精神科医に戻った火柱が奇想天外な治療を行った結果、トモコの目は光らなくなるが、しかしそれは火柱の命と引き替えであった。トモコは再発の危険を冒して火柱の命を救おうとする。
 ブルースカイの他の作品同様、この作品もまた、テレビドラマが視聴者に押しつけてきたメロドラマ的感性からの逃走の試みとして作られている。とくにこの『弁償するとき目が光る』が、テレビ草創期から現在に至るまで作られ続け、一九七〇年代の山口百恵・宇津井健のコンビによる「赤いシリーズ」をその一つの頂点とする「医師物メロドラマ」の強い影響下にあることは、筋を知るだけでわかるだろう。医学という最新のテクノロジー、とりわけ精神医学という一般人にとってはブラックボックスそのもののような分野を一種のこけおどしとして取り入れることで、視聴者の関心を物語の単純な構造や使い古された手法から「深刻な」主題へ向けることができるのがこのジャンルの人気の秘密であり、難病患者、出生の秘密、天才的手腕を持っているが一匹狼のようなマージナルな存在であり続ける医師、といった数々のお馴染みの道具立ては、『弁償するとき目が光る』の中でもそのまま使われている。
 しかし『弁償するとき目が光る』をたんに「医師物メロドラマ」のパロディである、と考えるのは単純すぎる。ある作品がパロディとして成立するためにはパロディとなる対象との距離が十分なければならないが、この作品は(ブルースカイの他の多くの作品と同じく)、対象の持つ圧倒的な影響力からいかに逃れるか、という意識が先にあって、そのための手段としてパロディが考え出された、という印象を受ける。トモコの病気をはじめとえする数々の馬鹿げた設定も、「医師物メロドラマ」にはもともと非現実的な設定がつきものであり、ブルースカイはそれをさらに誇張したに過ぎない、ということを考えれば、二者の距離がそれほど遠くないことを示すよい証左になることがわかる。
 さらに、幕切れ近くになって唐突に挿入される映画は、この作品がメロドラマのパロディというよりも、メロドラマに対する愛憎相半ばする感情の表明であることをよく示している。最近若手劇団にはとかくありがちなデジタルカメラによる映像クリップではなく、(「赤いシリーズ」がそうであったように)銀塩の粗い粒子のフィルムで撮影されたこの「本格的」な映画は、それまでの物語の展開を要約し、映画の予告編のように重要な場面をいくつか紹介する。衝撃的なのは、このように余分な要素を削ってまとめてしまうと、笑える箇所が一切なくなり、あたかも本当のメロドラマの予告編のように見えてしまう、ということである。観客はすでに薄々と気づいていたブルースカイの「本格的なメロドラマを上演したい」という抑圧された欲望をはっきりと目の当たりにすることで、テレビによって自分たちの感性にいかにメロドラマ的なものが刷り込まれているかを意識せざるを得ないようになっている。
 メロドラマ的なものからの逃走/メロドラマ的なものの抑圧、という主題は、ブルースカイの作品において常に中心的なものとして存在し続けた。時としてはそれは「これはパロディだ」というメタレベルの参照枠を示さないままにメロドラマを反復してみせる、といった実験的ではあるが観客の理解を得られにくい試みとして結実することもあったが、『弁償するとき目が光る』では、今までになくはっきりとその主題が見えてきたと言えるだろう。インターネットのサイト「えんげきのぺーじ」における観客の一行レビューにおいて、これまでより好意的な評価がずっと多かった、という事実は、たんに物語としてのわかりやすさや劇団猫ニャー時代の主宰者小村裕次郎の好演といったことに帰せられるべきではなく、ブルースカイの抱えている屈折が屈折としてはじめて効果的に観客に伝わった、ということにも原因があるのではないだろうか。
 もちろん、ブルースカイは決して意識的に自らの技法を編み出す作家ではなく、今回自らの資質に関わる主題を明確に提示することができたのは偶然でしかなかった、というおそれが今後の展開如何では生じてくるだろう。しかし、ブルースカイの一作ごとの試みは、若い小劇場演劇の担い手にありがちな微温的な笑いを半ば内輪受けで披露してみせるといったレベルとは一線を画しており、その意味で今後が楽しみであることには変らないといえる。

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