ロツパ 喜劇といふ名前は昔はなかつたでせうね。 五郎 曾我廼家が始めだよ。 ロツパ 喜劇が出来てから悲劇といふ言葉も出来たのかな? 五郎 文藝倶楽部に載つてゐた尾崎紅葉山人の「夏小袖」からとつて来た。僕の芝居に付ける名前がない壮士芝居でもない、仁輪加とも付けられない、お茶番でも具合が悪い……。 ロツパ いゝ訳語ですよ。コメデイーといふのは外に訳しようがない。 五郎 その後ある人から聞かされたんだが、長田秋濤【ママ】といふ人が、先に付けてゐたといふことだつた。 『洛味』第四号「明朗放談 曾我廼家五郎・古川緑波」一三一頁
小櫃万津男『日本新劇理念史 続明治中期篇』には、長田忠一口述「佛国喜劇」『早稲田文學』第六十一号(明治二十七年四月十日)が「フランス喜劇を対象に喜劇の理念を移入した文献」として紹介されている。これは尾崎『夏小袖』が明治二十五年九月に刊行されたあとのことである。なお、『夏小袖』は「喜劇」という角書はなかった。
また小櫃の註に紹介されている長田忠一(雅号は秋涛あるいは秋濤)の経歴をみると、明治二十六年にフランスから帰国したことになっている。一方、依田百川(学海)との共著である『當世二人女婿:脚本ハ佛國世界ハ日本 上・下』は東京:鳳文館より明治二十年に刊行されているようだ。
いずれにせよ、明治十六(一八八三)年徳富蘇峰が「官民調和論」で喜劇という言葉を使用するほうが先であり、五郎の発言は誤りである。とはいえ、気になるので『埋もれた翻訳:近代文学の開拓者たち』や国会図書館所蔵の長田作品を調べてみる必要あり。
いちばん興味があるのはコッペー(コッツェブーのことか?)なる人物の作を翻訳したとされる『王冠』で、Webcatでも発見。明治三十八年明治座八月興行において、川上夫婦、高田、落合によって上演された長田秋涛翻案『王冠』は好評だったという。
『怨』(明治三十九年、東京・隆文館)はスクリーブが粉本。
「文藝倶楽部に載っていた」も気になる。小櫃によれば、「なおこの脚本を収録している『現代日本戲曲全集』1(一九五五年六月十日、白水社刊)は、この発表を『讀賣新聞』の明治二十四年十二月の連載としており…そのような事実は誤りである」(『日本新劇理念史 続明治中期篇』五八一頁)であるが、同年同月の『文藝倶楽部』に載っていたのだろうか。いずれにせよ、曾我廼家五郎十郎一派の改良新喜劇旗上げにはまだ時間があり、この陳述はにわかには信じられない。真砂座における「金色欲」と題名を変えての伊井一座初演も明治三十年九月だし、『文藝倶楽部』に明治三十六、七年頃に『夏小袖』が『喜劇夏小袖』として再録される、というようなありそうもない事態を考えなければ、五郎一流のハッタリとして捨て置くしかない。
【ルビ開始(おさだしゅうとう)】長田秋濤【ルビ終了】(明治四年〜大正四年、1871-1915)は静岡の生まれ、本名は【ルビ開始(ただいち)】忠一【ルビ終了】。学習院、第二高等中学に学び、二十二年イギリスに留学してケンブリッヂ大学で政治・法律を学び、次いでフランスに渡りパリのソルボンヌ大学で法律を研修した。二十六年帰国、本註の以下の論説は帰国の翌年に書かれたことになる。 パリではかつてパリの日本公使館に勤務したことのある父長田銈太郎の縁故で、コメディ・フランセーズの楽屋にまで出入りし、フランス演劇会の実情を如実に知るという貴重な体験をした。このような体験から日本の演劇改良を志し、フランスの脚本・小説を翻訳した。『當世二人女婿』『椿姫』『三恐悦』『王冠』『匕首』『怨』『祖國』などがそれである。また二十七年十月から十一月にかけて創作の脚本「菊水」を発表したが、これは不評であった。これについては既に『明治中期篇』に述べた。 三十年代に入ると前期の彼の翻訳が川上音二郎によって次々と上演された。フランスの脚本・小説の翻訳・紹介の先駆者としての功績は世に知られているが、前期のフランス演劇界の現状を楽屋にまで出入りして得た観察、この余人の及ばなかった貴重な体験を元としての、以下に示す論説や西欧演劇理念の移入の節におけるフランス演劇の論説を、筆者はそれに加えたいと思う。(『大人名事典』1、昭和二十八年九月三十日、平凡社刊)
『日本新劇理念史 続明治中期篇』五八〇頁
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長田秋涛が「喜劇」という言葉をはじめて使ったのはいつか
ロツパ 喜劇といふ名前は昔はなかつたでせうね。
五郎 曾我廼家が始めだよ。
ロツパ 喜劇が出来てから悲劇といふ言葉も出来たのかな?
五郎 文藝倶楽部に載つてゐた尾崎紅葉山人の「夏小袖」からとつて来た。僕の芝居に付ける名前がない壮士芝居でもない、仁輪加とも付けられない、お茶番でも具合が悪い……。
ロツパ いゝ訳語ですよ。コメデイーといふのは外に訳しようがない。
五郎 その後ある人から聞かされたんだが、長田秋濤【ママ】といふ人が、先に付けてゐたといふことだつた。
『洛味』第四号「明朗放談 曾我廼家五郎・古川緑波」一三一頁
小櫃万津男『日本新劇理念史 続明治中期篇』には、長田忠一口述「佛国喜劇」『早稲田文學』第六十一号(明治二十七年四月十日)が「フランス喜劇を対象に喜劇の理念を移入した文献」として紹介されている。これは尾崎『夏小袖』が明治二十五年九月に刊行されたあとのことである。なお、『夏小袖』は「喜劇」という角書はなかった。
また小櫃の註に紹介されている長田忠一(雅号は秋涛あるいは秋濤)の経歴をみると、明治二十六年にフランスから帰国したことになっている。一方、依田百川(学海)との共著である『當世二人女婿:脚本ハ佛國世界ハ日本 上・下』は東京:鳳文館より明治二十年に刊行されているようだ。
いずれにせよ、明治十六(一八八三)年徳富蘇峰が「官民調和論」で喜劇という言葉を使用するほうが先であり、五郎の発言は誤りである。とはいえ、気になるので『埋もれた翻訳:近代文学の開拓者たち』や国会図書館所蔵の長田作品を調べてみる必要あり。
いちばん興味があるのはコッペー(コッツェブーのことか?)なる人物の作を翻訳したとされる『王冠』で、Webcatでも発見。明治三十八年明治座八月興行において、川上夫婦、高田、落合によって上演された長田秋涛翻案『王冠』は好評だったという。
『怨』(明治三十九年、東京・隆文館)はスクリーブが粉本。
「文藝倶楽部に載っていた」も気になる。小櫃によれば、「なおこの脚本を収録している『現代日本戲曲全集』1(一九五五年六月十日、白水社刊)は、この発表を『讀賣新聞』の明治二十四年十二月の連載としており…そのような事実は誤りである」(『日本新劇理念史 続明治中期篇』五八一頁)であるが、同年同月の『文藝倶楽部』に載っていたのだろうか。いずれにせよ、曾我廼家五郎十郎一派の改良新喜劇旗上げにはまだ時間があり、この陳述はにわかには信じられない。真砂座における「金色欲」と題名を変えての伊井一座初演も明治三十年九月だし、『文藝倶楽部』に明治三十六、七年頃に『夏小袖』が『喜劇夏小袖』として再録される、というようなありそうもない事態を考えなければ、五郎一流のハッタリとして捨て置くしかない。
【ルビ開始(おさだしゅうとう)】長田秋濤【ルビ終了】(明治四年〜大正四年、1871-1915)は静岡の生まれ、本名は【ルビ開始(ただいち)】忠一【ルビ終了】。学習院、第二高等中学に学び、二十二年イギリスに留学してケンブリッヂ大学で政治・法律を学び、次いでフランスに渡りパリのソルボンヌ大学で法律を研修した。二十六年帰国、本註の以下の論説は帰国の翌年に書かれたことになる。
パリではかつてパリの日本公使館に勤務したことのある父長田銈太郎の縁故で、コメディ・フランセーズの楽屋にまで出入りし、フランス演劇会の実情を如実に知るという貴重な体験をした。このような体験から日本の演劇改良を志し、フランスの脚本・小説を翻訳した。『當世二人女婿』『椿姫』『三恐悦』『王冠』『匕首』『怨』『祖國』などがそれである。また二十七年十月から十一月にかけて創作の脚本「菊水」を発表したが、これは不評であった。これについては既に『明治中期篇』に述べた。
三十年代に入ると前期の彼の翻訳が川上音二郎によって次々と上演された。フランスの脚本・小説の翻訳・紹介の先駆者としての功績は世に知られているが、前期のフランス演劇界の現状を楽屋にまで出入りして得た観察、この余人の及ばなかった貴重な体験を元としての、以下に示す論説や西欧演劇理念の移入の節におけるフランス演劇の論説を、筆者はそれに加えたいと思う。(『大人名事典』1、昭和二十八年九月三十日、平凡社刊)
『日本新劇理念史 続明治中期篇』五八〇頁