ピーター・ブルック演出『ザ・マン・フー』(世田谷パブリックシアター)
一九九九年十月七日〜一六日
舞台が再び明るくなって四人の俳優が挨拶をしても、拍手はそれほど大きくならなかった。観客は明らかにとまどっていた。今見たものは何だったのか、という呟きがあちこちから聞こえるようだった。今見たのは演劇だったのか。ブルックはいったい、私たちに何を見せたかったのか。 これまでピーター・ブルックは、演劇が成り立つためには観客の想像力が必要だ、と盛んに説いてきた。ある時は本火や本水を使い、またある時は布や棒を使って、なにもない空間を劇世界に見立てる遊びをしなさいと観客を促してきた。あなたが信じないと何も生まれない、後はあなたの想像力次第なのだ。ブルックのこうした、時として鼻につくインチキ宗教の「導師」的な振る舞いに対する素朴な疑問はひとまず措こう。とにかく、ブルック導師の今回の課題は普通の観客にとっては難しすぎたようだ。何しろ、誰も見たことのない脳の内部の働きを想像してみよう、というのだから。
演劇は原理的に「内部」を構築しえない。「内部」とは不可視のもの(そして不可聴のもの)の謂いであるのに対し、演劇は何よりも目に見え、耳に聞こえるものを扱う媒体だからである。もちろん、とりわけ近代以降、人間の心という目に見えないものを見せるために演劇はさまざまな工夫をしてきた。独白や傍白という古典的な手法に加えて、自然主義演劇はイデオロギー的には第四の壁の理論を提出することで、またヒステリー症例研究に始まる精神分析と連動することで「覗き込むことのできる内部」という幻想を作り出した。しかし、自然主義演劇においても、小説のように語り手や視点人物を通して登場人物の「内部」が全面的に開示されるということはなかったし、また何といっても俳優の身体が観客の目の前に文字通り立ち塞がり、登場人物の内面を透徹しようとする観客の視線を遮るという事態を防ぐことはできなかった。
とはいえ、それでも「内部」は存在するという仮定は西欧近代演劇においてはずっと信じられていたわけで、だからこそアルトーは舞台で演じられる表象としての「外部」はあたかも重要ではなく、その表象を思考する意思としての「内部」が重要であるかのように振舞う西欧演劇の倒錯を「神学的」だといって罵倒したのだし、文楽を賞賛するバルトは心理主義的な演劇をヒステリーだと苛立ちを隠さない。ところが1960年代、アルトーの圧倒的な影響のもと「残酷の演劇」シリーズで一躍名を挙げたはずのブルックは、すぐに方向転換し、アルトーが夢見ていたような、外部=表象しか存在しない演劇、登場人物の行動に一切の心理的説明が与えられないような演劇を放棄する。ブルックは、現代の観客といえども、不可視の内部についての興味や関心を完全に失ったわけではない、ということを鋭く見抜いたのだ。かくして神学的演劇は復活する。もちろん、近代劇のように精緻を極めた心理、言語によって構築された「内面」を観客に提示することはもはやできない。そこで、70年代以降「普遍言語」の探求という名のもとブルックが目論んだことは、いかに観客に不可視の「内部」の存在を示唆するか、ということだった。内部はあるのだけれども、演劇では見せられないから、後は皆さんの想像力にお任せする、というわけである。
ところで、原作となったオリバー・サックスの一連の著作も、同様の神学的構造を持っている。人間の身体をブラックボックスとしてとらえ、外部に表れた異変の原因をその不可視の内部構造に帰する西洋近代医学がそもそも神学的だといえるのだが、サックスはそれに加えて、時系列に沿った一意的なナラティブを覆いかぶせることによってこの神学的構造を反復し強化する。つまり、こういうことだ。脳神経外科医であるサックスにとって、患者たちの奇妙な言動はあくまでも外にあらわれた「兆候」であり、それをもとに神経や脳の部位のほんの僅かな障害を原因として特定するためのきっかけにすぎない。そこでサックスは原因を究明しようとする。治療法を確立させようとする。その過程がサックスによって語られるときに、神によって外部世界の表象としてもたらされた謎の真意を、預言者が解き明かす、という神学的構造がはっきりと立ち現れるのだ。
しかしブルックは、同じサックス原作の映画『レナードの朝』でも繰り返されたような、こうした物語性をあえて排除する。劇中では、原因を究明する過程も、患者の過去も、ほとんど明らかにされない。ただ、現在の病状だけが示される。結果として、観客が登場人物の「内部」を推定する手がかりは極端に少なくなる。通常の劇作品であれば、観客は登場人物の心理を似たような状況に置かれたときの自分たちの経験から窺い知ることはできるが、この作品では、奇妙な脳の生理、メカニズムが作用している、ということは知らされていても、それが具体的にどのようなものであるか提示されることはない。
登場する患者たちの「内部」を観客の想像力の中に表象することができない限り、つまり患者の「外部」だけが提示される限り、『ザ・マン・フー』は奇形の見世物であり、トッド・ブラウニングの映画『フリークス』と変わらない。『フリークス』にはさまざまな身体障害者が出てくるが、私たちは彼らの身体の背後にある(ということになっている)精神に感応することはない。そこに示されるのは、自己疎外された、つまり単なる物質と化した身体である。彼らの精神は身体とは別の次元に位置している。彼らは自分の身体を見られることに慣れており、無慈悲な観客の凝視する視線に射すくめられることはないが、それは見られている身体を自分のものだと思わないようにすることではじめて可能になるのだ。そこにあるのは「見世物」としての身体である。
『ザ・マン・フー』では、同様に奇妙な身体が陳列される。その身体は、自分の思う通りにならないという意味では文字通り自己疎外されているのだが、『フリークス』の登場人物たちとは違って、患者たちは何とかしてその自己疎外を解消しようとする。身体を通じての精神と世界とのつながりを回復させようと試みる。私たちが共感できるとすれば、そのような精神の働きに対してである。これは赤くて渦を巻いている長方形に緑の細長い棒がついているものではなく、バラなのです。あなたは自分のヒゲをすっかり剃ったつもりでしょうが、じつは左半分だけ剃り残しています。こうして、患者たちは自分の世界認識の誤りを医者に指摘されると、焦り、いらだち、怒る。その時患者たちが感じる悔しさやもどかしさは、きっと私たちもどこかで体験しているはずだ。こうした感情を共有できれば、患者たちが感じている、世界に疎外されている感覚と、それでも世界の営みに参加したいという欲望もやがて想像がつくようになる。私たちの身体は、患者たちの身体と共振するようになる。ちょうど、自分の意のままにならぬ身体にいらだちながらも、なおも世界を求めようとする赤ん坊の動きを見ているとそうなるように。
あなたの前にあるのは、見世物としての身体か、共振する身体か。観客の想像力に挑戦し続けるブルックはそのような問いを今回つきつけた。それはかつて若きブルックがつきつけたほどスキャンダラスなものではなかったが、同様に厳しく、観客を選ぶ問いであった。最近、マンネリに陥ったと時に揶揄されるブルックだが、『ザ・マン・フー』における試みは素直に評価したい。
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見世物としての身体と共振する身体、あるいはブルックの神学的舞台
ピーター・ブルック演出『ザ・マン・フー』(世田谷パブリックシアター)
一九九九年十月七日〜一六日
舞台が再び明るくなって四人の俳優が挨拶をしても、拍手はそれほど大きくならなかった。観客は明らかにとまどっていた。今見たものは何だったのか、という呟きがあちこちから聞こえるようだった。今見たのは演劇だったのか。ブルックはいったい、私たちに何を見せたかったのか。
これまでピーター・ブルックは、演劇が成り立つためには観客の想像力が必要だ、と盛んに説いてきた。ある時は本火や本水を使い、またある時は布や棒を使って、なにもない空間を劇世界に見立てる遊びをしなさいと観客を促してきた。あなたが信じないと何も生まれない、後はあなたの想像力次第なのだ。ブルックのこうした、時として鼻につくインチキ宗教の「導師」的な振る舞いに対する素朴な疑問はひとまず措こう。とにかく、ブルック導師の今回の課題は普通の観客にとっては難しすぎたようだ。何しろ、誰も見たことのない脳の内部の働きを想像してみよう、というのだから。
演劇は原理的に「内部」を構築しえない。「内部」とは不可視のもの(そして不可聴のもの)の謂いであるのに対し、演劇は何よりも目に見え、耳に聞こえるものを扱う媒体だからである。もちろん、とりわけ近代以降、人間の心という目に見えないものを見せるために演劇はさまざまな工夫をしてきた。独白や傍白という古典的な手法に加えて、自然主義演劇はイデオロギー的には第四の壁の理論を提出することで、またヒステリー症例研究に始まる精神分析と連動することで「覗き込むことのできる内部」という幻想を作り出した。しかし、自然主義演劇においても、小説のように語り手や視点人物を通して登場人物の「内部」が全面的に開示されるということはなかったし、また何といっても俳優の身体が観客の目の前に文字通り立ち塞がり、登場人物の内面を透徹しようとする観客の視線を遮るという事態を防ぐことはできなかった。
とはいえ、それでも「内部」は存在するという仮定は西欧近代演劇においてはずっと信じられていたわけで、だからこそアルトーは舞台で演じられる表象としての「外部」はあたかも重要ではなく、その表象を思考する意思としての「内部」が重要であるかのように振舞う西欧演劇の倒錯を「神学的」だといって罵倒したのだし、文楽を賞賛するバルトは心理主義的な演劇をヒステリーだと苛立ちを隠さない。ところが1960年代、アルトーの圧倒的な影響のもと「残酷の演劇」シリーズで一躍名を挙げたはずのブルックは、すぐに方向転換し、アルトーが夢見ていたような、外部=表象しか存在しない演劇、登場人物の行動に一切の心理的説明が与えられないような演劇を放棄する。ブルックは、現代の観客といえども、不可視の内部についての興味や関心を完全に失ったわけではない、ということを鋭く見抜いたのだ。かくして神学的演劇は復活する。もちろん、近代劇のように精緻を極めた心理、言語によって構築された「内面」を観客に提示することはもはやできない。そこで、70年代以降「普遍言語」の探求という名のもとブルックが目論んだことは、いかに観客に不可視の「内部」の存在を示唆するか、ということだった。内部はあるのだけれども、演劇では見せられないから、後は皆さんの想像力にお任せする、というわけである。
ところで、原作となったオリバー・サックスの一連の著作も、同様の神学的構造を持っている。人間の身体をブラックボックスとしてとらえ、外部に表れた異変の原因をその不可視の内部構造に帰する西洋近代医学がそもそも神学的だといえるのだが、サックスはそれに加えて、時系列に沿った一意的なナラティブを覆いかぶせることによってこの神学的構造を反復し強化する。つまり、こういうことだ。脳神経外科医であるサックスにとって、患者たちの奇妙な言動はあくまでも外にあらわれた「兆候」であり、それをもとに神経や脳の部位のほんの僅かな障害を原因として特定するためのきっかけにすぎない。そこでサックスは原因を究明しようとする。治療法を確立させようとする。その過程がサックスによって語られるときに、神によって外部世界の表象としてもたらされた謎の真意を、預言者が解き明かす、という神学的構造がはっきりと立ち現れるのだ。
しかしブルックは、同じサックス原作の映画『レナードの朝』でも繰り返されたような、こうした物語性をあえて排除する。劇中では、原因を究明する過程も、患者の過去も、ほとんど明らかにされない。ただ、現在の病状だけが示される。結果として、観客が登場人物の「内部」を推定する手がかりは極端に少なくなる。通常の劇作品であれば、観客は登場人物の心理を似たような状況に置かれたときの自分たちの経験から窺い知ることはできるが、この作品では、奇妙な脳の生理、メカニズムが作用している、ということは知らされていても、それが具体的にどのようなものであるか提示されることはない。
登場する患者たちの「内部」を観客の想像力の中に表象することができない限り、つまり患者の「外部」だけが提示される限り、『ザ・マン・フー』は奇形の見世物であり、トッド・ブラウニングの映画『フリークス』と変わらない。『フリークス』にはさまざまな身体障害者が出てくるが、私たちは彼らの身体の背後にある(ということになっている)精神に感応することはない。そこに示されるのは、自己疎外された、つまり単なる物質と化した身体である。彼らの精神は身体とは別の次元に位置している。彼らは自分の身体を見られることに慣れており、無慈悲な観客の凝視する視線に射すくめられることはないが、それは見られている身体を自分のものだと思わないようにすることではじめて可能になるのだ。そこにあるのは「見世物」としての身体である。
『ザ・マン・フー』では、同様に奇妙な身体が陳列される。その身体は、自分の思う通りにならないという意味では文字通り自己疎外されているのだが、『フリークス』の登場人物たちとは違って、患者たちは何とかしてその自己疎外を解消しようとする。身体を通じての精神と世界とのつながりを回復させようと試みる。私たちが共感できるとすれば、そのような精神の働きに対してである。これは赤くて渦を巻いている長方形に緑の細長い棒がついているものではなく、バラなのです。あなたは自分のヒゲをすっかり剃ったつもりでしょうが、じつは左半分だけ剃り残しています。こうして、患者たちは自分の世界認識の誤りを医者に指摘されると、焦り、いらだち、怒る。その時患者たちが感じる悔しさやもどかしさは、きっと私たちもどこかで体験しているはずだ。こうした感情を共有できれば、患者たちが感じている、世界に疎外されている感覚と、それでも世界の営みに参加したいという欲望もやがて想像がつくようになる。私たちの身体は、患者たちの身体と共振するようになる。ちょうど、自分の意のままにならぬ身体にいらだちながらも、なおも世界を求めようとする赤ん坊の動きを見ているとそうなるように。
あなたの前にあるのは、見世物としての身体か、共振する身体か。観客の想像力に挑戦し続けるブルックはそのような問いを今回つきつけた。それはかつて若きブルックがつきつけたほどスキャンダラスなものではなかったが、同様に厳しく、観客を選ぶ問いであった。最近、マンネリに陥ったと時に揶揄されるブルックだが、『ザ・マン・フー』における試みは素直に評価したい。