スタイリストの/としての敗北

佐藤信演出『ロベルト・ズッコ』、世田谷パブリックシアター
二〇〇〇年三月八日〜二三日
佐藤信は、黒テントの主張や信条の古くささ、野暮ったさから考えると意外なほどスタイリッシュな舞台を作るのがうまい。その昔、紅テントや天井桟敷といった他の劇団に比べて、黒テントが都会的で「おしゃれな」雰囲気を漂わせていた、と言われるのは、佐藤の演出のスタイルもあずかっていたのだろう。80年代にファッションショーの演出をつとめたという経歴も伊達ではないのである。
しかしアングラが死語になった現在、むしろ唐や寺山の持っていた前近代的なおどろおどろしさが若い世代に新鮮に感じられ、佐藤のようなモダンな「一時代前のおしゃれ」が妙に古くさく感じられるのはいたしかたがないだろう。そのスタイリッシュな描線でマニアックな人気を誇る漫画家、松本大洋に舞台劇を書かせるなど、佐藤はまだまだ自分が現役であることを示したいらしい。しかし残念ながら、少なくとも「ロベルト・ズッコ」に関していうならばその試みは失敗している。
筆者がいちばん残念だったのは選曲である。なぜボブ・マーリーをはじめとするレゲエが頻繁な舞台転換の合間に流れなくてはいけないのか? ボブ・マーリーがジャマイカでは手に入れられない「自由」を望み、歌ったように、ロベルト・ズッコも普通の人間が手に入れられないような自由を欲していたから? しかしズッコとはしょせん、先進国の豊かな社会における反逆児にすぎない。いくら17歳の少年たちの凶悪事件が日本の新聞やテレビを賑わせていたとしても、シエラレオネで起きている残虐な集団殺戮に比べればローカルでマイナーな突発事件にすぎないように、ロベルト・ズッコがフランス国民につきつけた問いは、ボブ・マーリーたちが文字通り命を賭して求めたものに比べると真剣味の不足したものである。警官殺しを歌った「アイ・ショット・ザ・シェリフ」を流すというのはブラックなパロディにしか聞こえない。
もちろん、ボブ・マーリーが「おしゃれなレゲエ」として消費されているという現実そのものをまず私たちは疑わなくてはいけない。しかしそのようなボブ・マーリーの受容のされかたに真っ先に異を唱えていいはずの佐藤が、率先してこんなふうにその音楽を使うのはどうしてか? それはひょっとすると佐藤は真の意味でスタイリストではなかったからではないか?
スタイリストとは、いくつものスタイルを熟知しており、状況に応じてそれらを縦横無尽に組み合わせることができる人のことである。彼らはあるスタイルの必然性といったものを信じていない。スタイリストである演出家は、「これこれの戯曲にはこれこれのスタイルがふさわしい」といった判断を下さないのだ。なぜならスタイリストであれば、どんなスタイルでも対象に合わせることができることを知っているからだ。スタイルが表現するのであって、スタイルを通じて対象がよりよく表現されるわけではないことを知っているからだ。よく勘違いされるのだが、あるスタイルに憧れて、それを一所懸命真似をしただけではスタイリストとは言えない。たしかにそのように真似されて作られた舞台には、スタイリストの演出家が作った舞台と同様に、内容に対する形式の勝利が表れている。しかし前者の舞台においては、そのスタイルの「必然性」が主張されてしまう。「このスタイルが格好がよいと思うからこのスタイルにしてみました」という主張の格好悪さ。スタイル重視の表現の空虚さと、その空虚さに気づいていない作り手の落差の格好悪さ。スタイリストの表現は、自らの表現の空虚さに気づいているからこそおしゃれなのだ。
公平を期するために言っておくが、佐藤信の演出に真のスタイリストぶりを感じたことがこれまでになかったわけではない。しかし往々にして彼のスタイリッシュな舞台とは、「格好のいいもの」を追い求めたい一心で作られていることが多く、しかも彼が感じる格好よさとはたいがいはヨーロッパのモダニズム、そして未だにその影響を強く引きずっているヨーロッパの現代前衛演劇の表現であったりするので、時代遅れを感じることが多い(最近の例でいえば「ヴォツェック」がそうだった)。「ロベルト・ズッコ」も、まさに格好のよい表現のお手本として佐藤はとらえ、なんとかして同じぐらい格好のよいものに仕上げたいと演出をしたのだろう。50年代のチープなSFへのオマージュとしてすでに使い回された感のある銀色のラメの衣装を売春宿のおかみに着せたり、あるいは小型カメラの画像を舞台の背景全体に大写しすることにいかほどの意味ががあろうか。いや、だから上に述べたように「意味がない」ということをわかっていればいいのだ。しかし佐藤の演出はどこかで必然性を求めたがっている。それがおしゃれだはないのだ。ボブ・マーリーの音楽になにかしら必然性を求めたがっているのがおしゃれではないように。
「格好がよい」「おしゃれだ」と自分が思うものを手本にして一所懸命真似した表現は、結局のところ手本との距離感を表現することに終わってしまう。「ロベルト・ズッコ」はその意味で新劇と同じ愚を犯している。新劇の失敗の一因はヨーロッパの表現がおしゃれだと思って一所懸命真似したことにあった。しかしそこから得られた反省はいまだに「スタイルだけを真似してその精神を理解しなかった」というような、アンチスタイリスト的な観点からなされたものばかりである。そうではなくて、スタイルを重視する表現とはどのような表現なのか、ということを真剣に考えないかぎり、日本の演劇は日本の優秀なファッションデザイナーたちと違って、永遠に世界に打って出ることはできないだろう。

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