一八七七年(明治十)の第一回内国勧業博覧会には、米国女優カーマン・セラーが踊る不思議館があったという。
日本洋舞史年表にも記述あり。
伊原敏郎『歌舞伎年表 第八巻』河竹繁俊、吉田暎二編集校訂、東京・岩波書店、一九六三年の記述は以下の通り。
○一月、大阪、浪花座。「義と侠」。「亦慘殺」。木村猛夫一座。一月十三日楽。(一六〇頁下)
○二月十日 大阪、浪花座、カーマンセラ一座。ゴタ/\のため、打ち上げし跡へ、曾我の家五郎十郎一座「滑稽勧進帳」。(一六一頁下欄)
二日目は、日露国交断絶の日なり。「舞臺の號外」という所作を急に出す。曾我の家の大阪初舞臺。(一六二頁下欄)
○十一月一日、京都、歌舞伎座、「曾我」。「梅忠」。和尚吉三、曾我十郎、忠兵衛(延二郎)、正若、我童。一座に居た、曾我廼家五郎が抜けて、喜劇へ入。(一六七頁下欄)
カーマンセラー一座とはいったいなんなんだ?
『皇紀二六〇〇年奉祝芸能祭』は国際報道工芸株式会社から刊行されているが、これはフォトジャーナリスト名取洋之助が中心となり、木村伊兵衛、伊奈信男、原弘、岡田桑三によって一九三三年(昭和八)に設立された同人組織である日本工房が母体。名取以外のメンバーによって一九三四年中央工房が設立されたあと、名取は日本工房(第二次)を再建し、報道写真とグラフィックデザインの雑誌『NlPPON』の刊行を始める。一九三九年(昭和十四)、日本工房は国際報道工芸株式会社と改称し、戦時下において内閣情報局のもと『MANCHOUKUO』、『COMMERCEJAPAN』などの対外宣伝誌を発行するが、終戦とともに解散した。
近衛新体制下の言論統制の一環として構想された演劇法は結局作られなかったが、映画法は作られた。いかに当局が演劇を軽視していたかがよくわかる。以下の資料を参考にすること。
不破祐俊「映畫法解説」 大日本映畫協會、一九四一年(昭和一六)(再録、奥平康弘監修『言論統制文献資料集成』(東京・日本図書センター、一九九二年)第十四巻)
市川彩、石卷良夫「映画新体制論」 國際映畫通信社出版部、一九四二年(昭和一七)(再録、奥平康弘監修『言論統制文献資料集成』(東京・日本図書センター、一九九二年)第十四巻)
早稲田大学演劇博物館所蔵 特別資料目録8芝居番付 明治編 東京・横浜の部 上および早稲田大学演劇博物館所蔵 特別資料目録8芝居番付 明治編 東京・横浜の部 下は買いましょう。安いし。
ISBN: 4-948758-08-6
ISBN: 4-948758-07-8
日本大学総合学術情報センター所蔵歌舞伎番付集成DVD三枚組35万円が2004年5月に出るらしい。欲しいなあ。
ISBN: 4-8406-0041-4 C3074
『十五年の足跡』に、初の東京公演時に幸堂得知にほめられたという話が出てくるが、これは本当なのか? 幸堂得知の劇評で曽我廼家劇について触れているものがあれば面白いのだが。
同じく名前のあがる関直彦は福地桜痴のあとを次いで東京日日新聞の社長となり、明治二十三年には岡本綺堂を劇評家として採用している(『明治劇談・ランプの下にて』)。のちに衆議院議員・貴族院議員を歴任する。
真鍋禎男『伊丹郷町物語』は国会図書館やWebcat、大阪府立図書館にもなく、伊丹市立図書館を訪れるしかないようだ。『堺の四季』一九八〇年十一月号に収録されている香川登枝緒のエッセイ「喜劇」で「曽我廼家五郎が、兄弟分の十郎と組んで、摂州伊丹の桜井邸で旗あげ興行をしたときに」と書いているのが気になる。Dr. 惠木氏の調査では尼崎にある桜井座とごっちゃになったのだろいうと言うのだが。
『伊丹ウオッチング』を書いた郷土史研究家・伊丹市文化財保存協会理事・安達文昭氏に話を聞きにいこうか、と思ったらこの人、幼女に対する強制わいせつの疑いで一昨年逮捕されているよ…伊丹市教育委員会事務局管理部職員課の電話は072-784-8084。
萬朝報CD-ROM版全46枚+主要記事総目録・解説(1枚)というのが出ているのだな。ざっと調べただけだが、四大学図書館はどこも買っていないようだ。Webcatでは出てこないが、和光大学は全セット持っているように書かれているが、もしかすると主要記事総目録・解説だけかもしれない、要確認。全部持っていて、次に近いのは、都留文科大学。明治大学・青山学院大学短期大学部は主要記事総目録・解説のみ。
和光大学へのアクセスはここ。
都留文科大学へのアクセスはここ。
大正時代の歌舞伎座
大正時代の歌舞伎座を見たければ、記録映画わずか7秒だが、1919年1月1日に撮影されたものがテレビ朝日映像にある。