だから平田オリザは嫌われる:『芸術立国論』(集英社新書、二〇〇一年)

 平田オリザについての否定的な言辞は、たとえ論理的な裁断のかたちをとっていたとしても、その底にある種の生理的な反撥が秘められていることが多い。そのもっともあからさまな例の一つは、小谷野敦「平田オリザにおける『階級』」(「シアターアーツ」八号、一九九七年五月)だろう。百の予断と偏見にまみれた一つの真実を売り物にする小谷野は、長いこと平田オリザの芝居を見に行く気にならなかったのは「十六歳の自転車で世界一周したという(中略)『伝説』が、『健全少年』の印象を私に与えたから」だという、真剣にとるにはあまりにも馬鹿馬鹿しい理由を述べて論をはじめている。あるいはそこまで極端ではなくとも、「シアターアーツ」三号(一九九五年十月)で平田の『現代口語演劇のために』を書評する瀬戸宏は、内容についての的確な批判を加えながらも、九三年の『ソウル市民』韓国公演はこの本の中で平田が語っているほど大成功したものではなかったという、直接内容とは関係のない暴露話じみたオチを最後に付け加える。

 なぜ人は平田オリザの作品を、あるいは言動を、冷静に語れないのか。一言でいってしまえば、それは平田が「芸術家」らしくないからである。健全少年あらため今や日本現代演劇界の学級委員長存在の平田は、孤高の芸術家/破滅型の天才といったロマン派的イメージと見事なまでに合致しない。優等生的発言にくわえて、「商売」のうまさもまた、平田のうさん臭さの所以である。五、六年前のことだったか、平田が今ほど有名ではない頃、出入りしていたとあるパソコン通信のフォーラムで、いつものように自作の宣伝を行い、○日にはチケットが○枚残っていますという書き込みをしたところ、「唐や寺山であればチケットが何枚残っているかなどという発言はしないだろう、演劇人らしからぬ振る舞いをするこの平田オリザとは何者なのか」というようなことを書き込んだ人間がいた。唐や寺山だって雲や霞を食って生きている(いた)わけではなし、チケットの売り上げに一喜一憂することもあるだろうにと思ったものだが、優秀なプロデューサーとしての平田の振る舞いはある種の人々のお気に召さないことは確かなようだ。

 もちろん、平田の(エセ)啓蒙的姿勢や政治的手腕、あるいは端的にいって口のうまさに反感を抱く人々は、それが平田のポーズであることに気づいているからこそ、いっそう苛立つのかもしれない。平田の作品に示された繊細な感受性は、平田の表面的な言動が前提としているある種の鈍感さとは相容れないものである。鴻上尚史が同じようなことをやっていてもさほど反感を買わないのは、鴻上のキャラクターがその手の鈍感さ、粗雑さに釣り合っているように見えるからだ。鴻上の「下品さ」は地だが、平田は「わかっていて」そういうポーズをとっている。言葉にはしなくても、そう感じるからこそ、ある種の人々は平田の主張をよく検討もせずに不誠実で上っ面だけのものだと思いこんで斥けるのかもしれない。

 もちろんそのような事態は平田本人にとっても、アンチ平田派の人にとっても不幸なことである。とりわけ、唐や寺山、あるいは平田があこがれて演劇活動をはじめたという野田秀樹らが、平田とは対照的に河原乞食/芸能者のポーズをとることで人気を得たことを考えると、いっそう複雑な思いを抱かざるを得ない。野田秀樹がこの国に未だに根強く残るマレビト信仰に依拠することで自らについての物語を紡ぐのと、同じ東京山の手の中流家庭で育った平田が文化人のポーズをとるのと、いったいどちらが「誠実」なのだろうか。

 前置きが長くなった。『芸術立国論』はだから、「芸術家が考える、あっと驚く“構造改革”。」という出版社の薄っぺらな惹句に拒否反応を示すような人にこそ、じっくり読んでほしい本である。もちろん、この手の新書にありがちな、一般向けの啓蒙的論調がベースではあるが、同時期に出された『対話のレッスン』(小学館)ほどは平田の文化人ぶった悪のりポーズが目立つわけではない。二〇〇一年一一月三〇日に成立した文化芸術振興基本法の直前に出版された本書はその成立を側面から援護するという目的を持っており、その意味では常識的な主張が大半を占めるが、ときどきドキリとするような過激な/斬新な提案や批判がまじっている。たとえば第五章では今や制度疲労を起こしている地方の演劇鑑賞会の正鵠を射た批判がなされているが、これがもともと『赤旗』で連載されていたものであり、関係者に正面切って苦言を呈したものであることを知るといっそう興味深いものになる。

 だが本書のいちばんの読みどころは、第四章・第五章で提出される平田独自の文化行政観だろう。欧米、とりわけアメリカにおける芸術教育では「芸術は万人のためのもの」という建前を浸透させることに力点が置かれ、結果として芸術作品の意義を理解できない人間にもそのような観念は刷り込まれる。だがそのような教育によって本当に芸術は振興されるのか。一つ例を出そう。昨夏私は、ノースカロライナ州で毎年上演されている野外劇『ロスト・コロニー』を見に行き、「公のための芸術」というスローガンによって洗脳されたアメリカ人大衆が、「公のための芸術」以上のものにはなっていない作品にたいして示す反応を目の当たりにした。アメリカのリージョナルシアターの先駆的作品の一つというだけが今や売りのこの作品を見て、観客は退屈も興奮もせず、ただ「この世の中には文化という素晴らしいものがあって、その維持や生産に自分も一役買っているのだ」という自己満足を抱いて家路につく。だがかの地の文化行政官にとってみれば、人々が抱くそのような思いこそが重要なのであって、作品の質などはどうでもよいに違いない。あるいは作品の質なぞを云々したとたんに、そのブルジョア的思い上がりを批判されてしまうのかもしれない。

 この手の公共性の論理にからきし弱い日本も早晩同じような状況に見舞われるのではないか、と暗澹たる思いを抱く私のような人間にとって、「芸術はそもそも万人受けするものではないのだから、それを庇護する論理を作り出すのには一筋縄ではいかないのだ」と平田が主張することは救いに思える。そつはないが、どこか無神経なところのある公共性の論理からの距離を語る平田は、たんなる「優等生」ではないのだ。

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