0.P4とはなにか
P4とは加納幸和(花組芝居)、平田オリザ(青年団)、宮城聡(ク・ナウカ)、安田雅弘(山の手事情社)の四人の演出家からなる集団だ。Pはプレイの頭文字でもあり、四人の名字の最初の一文字を英語にするとすべてPからはじまる単語(Plus「加える」/Plain「平地」/Palace「宮城」/Peace「平安」)になる、という言葉遊びでもある。
一九九五年、宮城が平田に話を持ちかけたのをきっかけに結成されたP4は、同年四人が利賀・新緑フェスティバルの企画・運営を任されたことから集団としての実質的な活動を開始することになる。九七年彩の国さいたま芸術劇場で上演された平田オリザ作・安田雅弘演出『Fairy Tale』はその一つの結実であるが、毎年初夏に開催される新緑フェスティバルにおいて、他の三劇団のメンバーと一緒に寝泊まりし、互いの上演を見ることによって、自らの演出の方法論を問い直す機会を得たことが大きい、と平田は述べている。
利賀・新緑フェスティバルの性格が変化してきたこともあり、現在P4は活動休止状態にある。だがそれは、現在四十代前半の、同世代に属する四人の演劇人に共通する方向性が異なってきたからではない。以下、個別に見ていきながら、四人の演出の方法論に共通する特徴を考えてみたい。
1.平田オリザと青年団
P4のメンバーのうちでもっともジャーナリズムに取り上げられる回数の多いのは平田オリザだろう。自らを「河原乞食」に擬し反社会性を売り物にしていたアングラ以降の世代と異なり、演劇人は社会ともっと関わりをもつべきだと考えている点でP4のメンバーは意見を同じくするが、中でも平田は演劇という制度を社会に認知させるためにさまざまな努力を払ってきた。自身が経営するこまばアゴラ劇場における演劇フェスティバルを通じての各地のリージョナル・シアターとの連携、教鞭を執る桜美林大学での演劇教育や地域との共同作業、あるいは今年からはじまったアゴラ劇場のレジデント・カンパニー制の採用など、演劇を「開かれた」ものにするために平田が行ってきたことは(巧みな自己宣伝のおかげもあって)よく知られるようになった。平田はまた劇作家でもあり、その作品は事件性のほとんどない日常を淡々と描写するところから、九〇年代小劇場演劇の代名詞である「静かな演劇」の旗手として認知されるようになった。
ただし、「静かな演劇」とは九〇年代小劇場演劇の独創ではない。秋田雨雀の「静劇」あるいは岸田国士門下『劇作』同人たちの作品にも見られる、日本近代劇の一潮流である。時代を超えてそれらの作品に共通するのは、表面的に醸し出される平穏さ、静謐さとは裏腹に、主人公は軽い心理的な圧迫を周囲から受け続けており、しかし彼(ないし彼女)はこの正体不明の「いやな感じ」と戦うでもなくそれから逃げるでもなく、ただ困惑して佇んでいる、という状況だ。すなわち、西洋古典劇におけるドラマとは、明確な意志や欲望を持った個人と、その個人を抑圧するものとしての神あるいは共同体との対立であり、近代劇はこれに加えて個人の内面における葛藤を劇に仕組んだのに対し、自他の区別が曖昧な日本社会においては、抑圧を与えるものが社会なのかそれとも自らの無意識に潜む超自我なのか主人公にも観客にも(そしておそらく劇作家自身にも)よくわからないまま事態が進展してゆき、主人公は無力感を感じつつも見えない相手に向かって抵抗の真似事だけしてみる、という様子がドラマとして描かれてきたのである。
主人公が感じているこの漠然とした「居心地の悪さ」を観客により効果的に伝えるために、平田はドラマを唐突にはじめて唐突に終える。開演前から舞台上では登場人物たちは演技をはじめており、劇中で示されるいくつかの謎は解決されないまま舞台は暗転する。すなわち、物語ははじめと中と終わりがある完全なものではなく、「断片」としてしか示されないのだ。伝統的な演劇の機能とは、ある一つの物語が語られ、俳優によって生きられることによって、あたかもそれが世界全体を表象するかのような印象を観客に与えるものであった。だが平田が示す断片的な物語は、世界表象としての不完全さを自ら露呈することで、もっとリアルで不気味なものが語られぬまま背後にあることを指し示す。それがすなわち、共同体にも自分の裡にもその出自を見出すことのできない、なんとはなしの「いやな感じ」であり、平田の観客はその存在を作品の内容と構造の両方で体験することになる。
劇作家としての名声に比して演出家としての平田はそれほど評価されていないが、いくつかの理由で注目に値する。井上優氏によれば、青年団の俳優の演技は、リアリズムではなく、「リアリズム演技」の演技を行っているのだという。現実の模倣ではなく、現実の模倣の模倣を行うこと。ブレヒトのゲストゥス同様、対象を描きつつ異化してみせるこの態度は、平田の意識的な戦略というよりも、とりわけ初期において俳優の練度が低いために自然と生じてきたものであったかもしれない。しかし平田はその後も俳優に「うまくなる」のを許さず、一種の「ヘタウマ」状態を維持させることで、リアリズムという制度に批評的距離をとってみせる(これは後述の加納幸和にも共通する態度である)。それゆえいまだに青年団の俳優は、演技することに照れているかのような、ぎこちない演技を見せるのだ。
さらに、こうした演技は作品内の人間関係の構築のされかたにも一役買う。小田中章浩氏は、平田作品の登場人物たちは連歌や俳諧の付句をしているようにコミュニケーションをとっていると指摘する。つまり、とりたてて親しい仲でもない人間同士が同じ場所に居合わせることで、自分のものでも相手のものでもない感情や感覚を共有し、やりとりしあう、という連歌や俳諧の世界と同様、平田の舞台は間主観性が支配している。それゆえに役者は過度の「自己表現」を慎まなければならない。我を張ることは「場の雰囲気」を乱すことになるからだ。したがって、個人の感情や感覚を的確に言葉で説明することに重点を置くリアリズム演技は、平田の世界にはふさわしくない。演技をすることに躊躇しながら表現せよと教える平田メソッドこそ、共同体の内部におけるコミュニケーションに見合うものなのだ。
2.加納幸和と花組芝居
P4のメンバーのうちで、行っていることと受け取られかたのギャップがいちばん大きいのは加納幸和かもしれない。ホームページによれば、花組芝居の目的は「高尚になり堅苦しく難解なイメージになってしまった歌舞伎を、昔のように誰にでも気軽に楽しめる最高の娯楽にと、歌舞伎の復権を目指す」ことであり、アングラ全盛期に掲げられた「芸能への回帰」というお題目を加納が信じていることがわかる。そして実際、公演で(主として女性の)ファンが贔屓の役者の登場に歓声をあげ、役者は役者で楽屋落ちのギャグを連発する、といった様子を見ると、高級芸術から大衆芸能への回帰に見事に成功した、とため息まじりに言いたくなる。
しかし加納が「ネオかぶき」という名のもとに実践していることは、たんに古典歌舞伎の物語を現代の嗜好に合わせて作り替えたり、上演のテンポを早めたりすることではない。歌舞伎の様式をなぞりながら、その様式に対してパロディというかたちで批評的距離をとるというきわめて知的な作業である。たとえば、これは児玉竜一氏が指摘した例であるが、『身毒丸』でカーリーという玉手御前にあたる役が刺されるところで義太夫の語りが「グッと突っこむ氷の切っ先、あっと魂消(たまぎ)る声にびっくり戸をめりめり」と入る。加納演ずるカーリーは、「グッと突っこむ」の「グッ」で既に刺されているにもかかわらず、何の反応も示さない。ところが「あっと魂消る」の「あっと」で、急に「わあっ」と叫んで痛がる。刺されてから痛むまでの時間差を作ることで、義太夫の語りがその人物の順番に回ってくるまでは、痛いものも痛くないことにしてしまう、歌舞伎という制度の奇妙さを加納は示してみせる。
この意味で、加納が渡辺守章の演出作品に対するシンパシーを表明しているのは興味深い。というのも、渡辺もまた西欧演劇の「型」をなぞりつつ、同時に西欧演劇という制度の奇妙さを異化する意図的な試みを続けているように思われるからである。さらに二人は、異化する対象の制度を熟知しながら、その制度のもとで育てられた俳優の身体や声という自らにとっての表現手段を持たないために、その制度からいわば疎外されている、という点でも共通している。歌舞伎俳優を、あるいはフランス古典劇の訓練を受けたフランス人俳優を、自分の手駒として使えないから、メタレベルに立って歌舞伎なり西欧演劇がアウトサイダーにはいかに奇妙に見えるものなのかを示そうとするのか、それとも自分がなじんでいる歌舞伎や西欧演劇がある時いかに奇妙なものかを認識したからこそ、あえてその制度の外に出て、批評的行為として作品を提出することを決意したのかは、この場合さして重要なことではない。(とはいえ、加納は歌舞伎役者は身体が完全に型にはまってしまい、型から故意にずれた所作をさせることが難しい、ということを指摘し、自らの方法論が制度からの疎外ゆえに生まれてきたのではないことを示唆している)。重要なのは、制度を知れば知るほどそこから疎外されるという逆説(歌舞伎役者で加納ほど歌舞伎について「知っている」ものがどのくらいいるだろうか? だがそれにもかかわらず、彼らは制度の内部にいるのだ)を誰よりもよく認識している加納にとって、歌舞伎とは自らの作品を対象化するための基準として存在するものであって、一体化する対象ではない、ということである。活歴物や新派といったかつての「ネオかぶき」と花組芝居が決定的に異なるのは、前者は自分たちは「歌舞伎」になれる、と考えていたという点なのだ。
3.宮城聡とク・ナウカ
加納ほどではないにせよ、宮城もまた誤解されている。宮城の演劇的教養の豊かさはよく知られているが、宮城はそうした教養をもとにテキストを読み解き、舞台に重層的な意味の世界を構築する、西洋的な意味での演出家ではない。あるいは、それだけの存在ではない、というべきか。なるほど、戦前の日本統治下の朝鮮を舞台にした『王女メデイア』はテキストの大胆な読み替えとポストコロニアリズムへの目配りという点で世界の第一線に出してもおかしくはないすぐれた舞台だったし、研ぎ澄まされた美意識が生む洗練と形式へのこだわりという点ではP4の中で安田と並んで、西欧現代演劇と同じ土俵で勝負しているように思われる。
だが西洋の演出家たちがその過剰な職業意識のあまり、時として図式的で、スタイルとして完成されてはいるが空虚さを感じずにはいられないような舞台を生み出すことがあるのに対し、あくまでも個人的な営みとしての演出にこだわる宮城の表現は、「失敗作」も含め、もっと迂遠で他人には容易に理解しがたい要素を含んでいる。たとえば、ク・ナウカの「スタイル」として認識されている、舞台の上で所作を行う俳優と台詞を語る俳優が二人で一役を演じるという方法論も、宮城が日頃痛切に感じている、情念と理性の両極に引き裂かれて生きるしかない自分という主題を外面化したものであり、文楽における人形遣いと義太夫語りの分離が生み出す表現の強度を借用するというその「意味」は後づけのものだ。ク・ナウカの「スタイル」とは、宮城の個人的な動機に還元せざるを得ないような微妙なあやを表現する方法なのだ。
4.安田雅弘と山の手事情社
P4のメンバーの中で、もっとも実験的で先鋭的な身体表象の試みを行っているのが安田雅弘である。安田の提唱する「四畳半」という型は、俳優が身体を動かす時のいくつかの規則をもとに作られている。「俳優は重心をずらして立つ」「イメージ上のせまい通路を動く」「せりふは舞台上の誰かに語り、その際は語る人も受ける人も止まる」「それ以外の人はスローモーションで動く」。
これらの規則をもとに安田は作品を解釈していくが、細かな所作は稽古場で劇団員とともに即興的に作り上げられる。即興といっても単なる思いつきではなく、連想をもとに役柄や状況についての一貫した解釈の体系が作り上げられていく(だが所作が決まると、その解釈の体系は忘れ去られる—その意味でこの作業はレヴィ=ストロースが言う「ブリコラージュ」だといえる)。
自然主義的な演技とは、言葉の意味と身体の所作の慣習的な結びつきを舞台の上で正確に再現しようという試みであるが、「四畳半」の型で台詞を語ることは、この慣習的な結びつきを断ち切ることになる。山の手事情社の俳優は「私は悲しい」と語るときに、悲しいとすぐにわかるような表情や身振りをしない。観客は自然な感情移入を妨げられるだけでなく、舞台の上で起きていることを理解するために、語られる台詞に耳をこらし、身振りや表情に見入り、両者を自分の中で結びつけることを要求される。知覚に異化作用を引き起こし、組み替えを迫るという点で、それはキュビズムの絵画を鑑賞することに似ている。
安田のテキスト解釈も、宮城と同様独特のものである。『夏の夜の夢』で恋人たちが逃れるアテナイ郊外の森は日本の銭湯へと変貌を遂げる。安田によれば、森が象徴する混沌や葛藤を自らの生活史の中でリアルに感じられるものに置き換えると、銭湯になるのだという。『アントニーとクレオパトラ』『ジュリアス・シーザー』をもとにした花組芝居の『悪女クレオパトラ』では、加納はアントニーによるシーザー追悼演説をラップに仕立て、アントニーがいかにローマ市民の支持を得ていくかを、ラップのリズムとライムが作り出す共感共同体の力を借りて舞台化してみせた。加納も含め、この三人は、江戸文芸以来の見立ての手法を用いて、自らの文化的・社会的文脈に古典劇や近代劇のテキストを引き寄せ、物語を大胆にデフォルメしていく手腕に長けている。
そしてそのことはまた、西洋の演出家たちの(聖書の教義解釈に端を発する)「解釈競争」—神の言葉であるテキストの権威には盲目的に従い、それをどれだけ奇抜に解釈できるかを競う、ということが二十世紀「演出家の時代」に定着した慣行であった—とは彼らの演出の方法論は一線を画している、ということも意味している。本歌取りや世界決めといった日本の伝統的な手法は、元テキストに依拠しつつもその改変を大胆に試みることを許し、テキストの作者ではなく、引用で結ばれた複数のテキストが織りなす間テキスト性にこそ文化の本質がある、ということを前提としている。三人の演出家の手法は、このような伝統に基づいているのだ。
P4について私が知っている二、三の事柄
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