第七回読売演劇大賞最優秀演出家賞などを受賞した『天皇と接吻』(一九九九年)、そして昨年の『最後の一人までが全体である』、さかのぼっては第三五回岸田國士戯曲賞受賞作品の『ブレスレス』(一九九〇年)まで、坂手洋二の作品の中でとりわけ注目を浴びてきたのは、政治・社会問題という「パブリックなもの」を正面切って扱ったものが多い。また、坂手の率いる劇団燐光群は「ララミー・プロジェクト」(二〇〇一年)「CVR チャーリー・ヴィクター・ロミオ」(二〇〇二年)といった海外のドキュドラマの上演も熱心に行ってきた。それゆえ、坂手にはしばしば「社会派」というレッテルが貼られ、坂手もそれを積極的に否定しようとはしていない。
だが坂手作品の大きな特徴として、(上述のドキュドラマと比較すればよくわかるように)、そこで扱われる「パブリックなもの」は(一)プライヴェイトな領域へと浸透していき、本来政治的人間ではない登場人物との軋轢を生むこと、(二)しばしばそのドラマはエロスの抑圧というサブテーマを包含していること、が挙げられる。もちろん「問題劇」「社会劇」とよばれた近代劇のジャンルも社会と個人の対立を描いたわけだが、これらはどちらかといえば個人が社会の因習や無理解に対して挑戦する、という筋書が多かったし、たとえそうでなくても登場人物たちは強烈な個性を持っていることが多かった。それに対して坂手の戯曲の主人公は無名の市井の人物である。それゆえ必然的に、劇の焦点は社会に対する個人のヒロイックな反抗から、私たちの生活空間に「パブリックなもの」がなし崩しに入り込んでくることそのものの恐怖に移ることになる。
さらに、その過程ではしばしば性愛の欲望が脅かされ、場合によっては否定し去られる。フリーランスのライターとカメラマンの不倫カップルの恋愛模様をもっぱら描いているように見えながら、その背後に蠢く地下鉄サリン事件や阪神大震災など「パブリックなもの」の圧倒的な存在を陰画のように写しだしてみせた『とかげ』(二〇〇〇年)がそのもっともわかりやすい例だろうし、レズビアンたちの共同体を描いた当時としては画期的な『カムアウト』(一九八八年)はそのもっとも初期の試みであるといえる。
したがって、時代を見据えるそのジャーナリスティックな感覚を別にすれば、坂手を(たんなる)「社会派」と呼ぶのは間違っているように私には思える。もっと言ってしまえば、「社会派」と見える作品が世間であれほど高く評価される理由が私にはわからない。『天皇と接吻』に典型的に見られるように、「パブリックなもの」との対立を描くことに重点がおかれた作品においては、「プライヴェイトなもの」が(あたかも抑圧されたものは回帰する、というかのように)前後の文脈とはあまり関係がなく書き入れられ、しかも型どおりの陳腐な人間関係に堕しているものが多い。『天皇と接吻』でも、高校生の主人公とその(レイプされて以来学校の授業に出て来なくなったらしい)恋人との関係は、掘り下げられて書かれてはおらず、また物語の展開上どうしても必要だとも思えない。そのように考えると、坂手は「パブリックなもの」を正面切って描くのではなく、プライヴェイトな人間関係が「パブリックなもの」と接触することで微妙に変化していく物語を書いたほうがすぐれた作品を生み出しているのではないかという気がする。
このような坂手のもう一つの傾向を代表する作品として、文学座アトリエの会で上演された『みみず』(一九九八年)が挙げられる。一九世紀終わり近くになってヨーロッパに登場する近代劇が、十八世紀の啓蒙思想によって整えられる近代的価値観—たとえば理性/言葉への信仰—を批判するものとして、つまり自らの存立基盤を自ら否定するような衝動を内包するものとして、捉えられるのならば、この作品は(遅ればせながら)日本が生み出したもっともすぐれた近代劇の一つだと言えるだろう。イプセンの『野がも』との題名の類似がすぐに想起されるこの作品(イプセン作品における野がもと同様、みみずは主人公の家族たちによって飼育されているという現実であるとともに、象徴的な意味をも担っている)は、明確に言語化され(得)ない衝動や欲望を舞台上に俳優の身体を通して具現するという、近代劇が到達した表現の高みがどのようなものであったかをあらためて確認させてくれるよい機会を与えてくれた。とはいえ『みみず』はたんなる先祖返りや反動ではない。アングラの洗礼をくぐり抜けた近代劇がどのように変貌するのかを示したという意味で「ポスト近代劇」という名がよりふさわしいのかもしれない。
『みみず』は十一階建てマンションの七階に住む、家族四人の物語である。一人暮らしをしていた二八歳の息子・淳一が、盛岡へ転勤することになり、いったん実家に帰ってくるところから物語がはじまる。家族と離れて住んでいた息子(あるいは娘)が、異なった価値観を身につけて帰ってきて、家族のタブー(大抵は隠されていた過去)を暴き、家族が崩壊していく、という物語はイプセン『幽霊』やショー『ウォレン夫人の職業』といった近代劇がお得意とするところのものだ。淳一もまた、家族を解体しに帰ってくる。だがそのやりかたは近代劇とは異なっている。言葉によって家族の価値観を批判するかわりに、年下のガールフレンドの君子をともなって帰ってきた淳一は、家族たちが留守なのを見るとセックスをはじめてしまうのだ。
この幕開けの場面がどぎつく感じられるのは、ただ若い男女がセックスの最中に交わすあけすけな会話がそのまま舞台に持ち込まれているからだけではない。一組の家族の誕生には必ず性行為が介在しているにもかかわらず、家庭ではあたかもそれが存在しないかのように振る舞わなければいけない、という近代社会における暗黙の了解がそこで破られているからだ。しかもこの近代的(ブルジョワ)家族に関わる根幹的なタブーは、オールビー『ヴァージニア・ウルフなんか怖くない』においてそうであるように、言葉によって侵犯されるわけではない。セックスという身体を伴う具体的な行為によって、あっけなく破られる。「家庭という場において封じ込められていたエロスを解放する」、近代劇であれば、登場人物の誰かがそのような台詞を言うだろう。だが『みみず』では誰もそのような問いかけを言語化しないまま、行為だけが観客の前に提出される。
しかし、家族とエロスの関係を語るのに、家族以外の部外者は結局のところ不要である。物語が進む中で、淳一にはもう一人、和美という恋人がいることがわかるが、結婚をちらつかせる二人の恋人たちに対して、淳一は煮え切らない態度をとっている。実際のところ、盛岡への転勤は、同棲している和美との関係に決着をつけるために淳一から会社に言い出したことなのだということもわかる。本当に淳一が関心を持っているのは姉の千恵に対してである。千恵は三〇歳になるが家に引きこもり、何かと世話を焼いてくれる恋人の哲男にも素っ気ない態度しか示さない。姉もまた、弟の存在に惹かれており、中学生の頃のお医者さんごっこを今更のように話し合う姉弟の妖しい関係は、結末近くで近親相姦へと至る。
しかもそれはきわめて甘美なものとして描かれるのだ。
チエ あなたよ。…あなたが後悔するから。
ジュンイチ、静かに首を振り、ゆっくりとチエの中に入る。
チエ、一瞬硬直し、やがて深い吐息を漏らす…。
チエ …動かないで。
ジュンイチ …。
チエ 動かないで…。そのまま…。
二人、しばらくそのままじっとしている。
チエ じっとしていましょう、このまま…。なにも考えないで…。地面に引っ張り出されたミミズが二匹取り残されている…、それだけ。
ジュンイチ …。
チエ …ああ。(官能が走る)
ジュンイチ このまま死ぬのかもしれない…
チエ …。
ジュンイチ 日が昇って、干からびて…
チエ わかってたわ、いつかこうなるって…。
二人、接吻する。
(『みみず』文学座アトリエ上演台本(未刊行)一八五〜一八六頁)
今更レヴィ=ストロースを持ち出すまでもなく、近親姦タブーが存在するのは、生物学的な要請ではなく、結婚を通じて部族間の交換・贈与を行うことで、社会を成立させるためだ。ということはぎゃくに、近親姦は社会というものを成り立たせることを拒否する行為であると言える。近親姦を題材とする作品において、これほどまでにその甘美さを強調したのはめずらしく、反社会的性格が際立っている。
たしかに、この家族はみな、社会と協調して生きることを拒否している。父親はゴルフのコンペの景品のズボンプレッサーを、道を譲ろうともせず歩道の真ん中に立っていた若い男にわざとぶつけ、警察沙汰になる。母は、マンションの住人たちの反対にもかかわらず、みみずの養殖をこっそり行っている。とはいえ、そこに一分の理がないわけではない。元々ベトナム反戦運動を通じて知り合ったという設定のこの夫婦は、社会の理不尽な要求に対して個人はきちんとノーと言うべきであると考えており、その意味では社会の存在そのものを拒否しているわけではない。
しかし姉弟たちはどうだろうか。姉は過去に誘拐・監禁されてレイプされるという過去を持つ。すでに千恵はその体験を客観的に恋人の哲男に語ることはできるが、それを克服したとは言い難い。哲男との結婚に踏み切れないのも、一つはそのせいだ。そして弟も、姉と同様強い衝撃を受けて立ち直れていない。淳一はレイプの際破られた姉の赤いワンピースを自分で繕い、アパートの押入れに隠し持っている。ある意味で、社会によって手ひどく傷つけられた姉弟は、現実の生活を生きながらもずっと「あの時」に感じた恐怖を二人で否定する機会を窺っている。それが二人をして近親相姦に至らしめる理由である。
社会という「パブリックなもの」を成り立たせることを拒否し、血縁関係を唯一の支えとして生きること。そういう姉弟は自分たちを日の光を避けて交尾するみみずにたとえる。だが同時に二人の行為は「家庭では性行為というものは存在しないかのように振る舞わなければいけない」というタブーを犯すことによって、近代的な家族の枠組みを壊すことでもある。社会を拒絶し、家族をも解体するというのはどういうことか? しかし近代的な(ブルジョワ)家族とは、親族関係に由来しながらも、法によって規定された社会制度であることに注意してほしい。ジュディス・バトラーは『アンティゴネーの主張』(Antigone’s Claim)でヘーゲル以来の国家/親族関係という二項対立を脱構築し、『アンティゴネー』において対立しているように見えるクレオーンとアンティゴネーの言説が、実は互いの言説に汚染されていることを示した。だが近代劇ではこれは当たり前のことである。社会に反抗する個人は、まず社会の言説を複製する家族の言説によって抑圧される。こと近代劇においては、家族は個人の味方ではなく、社会の手先なのだ。ノーラに対するトルヴァルしかり、ヴィヴィーに対するウォレン夫人しかり。したがって姉弟の行為は法制度に守られた近代的な家族をも否定するという点で徹底的に反社会的であり、また近代への内側からの批判という意味で近代劇的である。
だが社会は規範的な親族関係からの逸脱を許さない。イプセン『幽霊』におけるオスヴァルの発狂は、家族のタブーは触れずにおかれるべき正当な理由があること、そして父親の放蕩という忌まわしい過去を暴いた者にはしかるべき罰が与えられること、を示すものだった。『みみず』においても罰は下される。姉弟の近親相姦の場面に続く幕切れは、盛岡にいる淳一からの電話を母・文江が受けている間に、玄関の鋼鉄の扉を叩く音が激しく鳴り続けて暗転、というものだが、これはもちろん千恵の飛び降り自殺を示唆している。
だが言うまでもなく、この幕切れは、坂手が近代的家族観を擁護し、そこから逸脱するものへ批判の目を向けているということではない。坂手がたんなる「社会派」劇作家ではない理由はここにある。社会に対する安手の反抗を感傷的に描くのではなく、社会の圧倒的な力(しかもそれは言説化できない何かとして立ち現れる)によって滅ぼされる個人という現実をそのまま描くこと。坂手洋二の真価はこのイプセンばりの手腕にある。
ポスト近代劇としての『みみず』
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