別役実『象』の魅力:普遍性と時代性

別役実の戯曲には時代を超えた普遍性がある。『象』の初演は一九六二年だから、もう五十年近く経過したわけだが、これまでも何度となく再演されてきただけでなく、五十年後、百年後も上演され続けるだろうし、そのようなものとして日本現代演劇史に名をとどめることになるはずだ。
写実的な台詞のやりとりが続くなか、ふとした拍子に日常の裂け目から顔を覗かせる狂気を描く、という別役の一貫した作風は、一九七〇年代のアメリカ小説でいえばミニマリズムとよばれたものである。その旗手の一人であるレイモンド・カーヴァーの小説が日本で読み継がれているのは、幻想と現実の絶妙なブレンド具合を私たちがリアルだと感じるからだ。同様に、別役実の世界の魅力とは、私たちが日常生活のなかでどれだけ妄想を肥え太らせ、抱え込み、そしてそのせいで身動きがとれなくなるか、ということを骨身に沁みるように私たちに知らしめるところにある。『象』の病人が自分の背中のケロイドに拍手喝采を送る町の人々についての自分の妄想を語るとき、私たち観客は主人公の「男」と同じく、彼のことを「イタい」「サムい」と思い、「引いて」しまう。しかしほとんど同時に私たちは、自分たちも同じように思い入れのある対象について妄想を膨らませ、希望的観測を込めて語ることに気づき、愕然とする。
演劇評論家の菅孝行が『想像力の社会史』 (一九八三年)で指摘したように、『象』のおにぎりの食べ方談義に代表されるトリヴィアリズムもまた、別役実の変わらぬ魅力の一つである。どうでもいいことにこだわり、_^蘊蓄【うんちく】^_を傾けてみせる別役戯曲の登場人物たちは、滑稽であるだけでなく、どこかもの悲しい。彼らが些細なことに夢中になるのは、一種の現実逃避であり、「肝心なこと」に向き合えずにいることの裏返しなのだ、と私たちは直感的に悟り、笑いとともに寒々とした思いを抱く。もっとも『日々の暮し方』などのエッセイを読むと、別役本人も下らないことに拘泥するのが好きなことがよくわかるから、ここでは作家の生来の資質が、登場人物に対する批評的距離を示す装置に転化している、とは言えそうだ。
それからこれは誰も指摘したことがないと思うけれど、別役実の戯曲中の会話には、昭和三十年代の落語や漫才のリズムが感じられる。別役は八代目三笑亭_^可楽【からく】^_(一八八九ー一九六四)が好きだったことをあるところで語っているが、可楽や八代目林家正蔵、五代目柳家小さんといった、描写のうまさよりも語り口の淀みなさで人気があった落語家たち、あるいは獅子てんや・瀬戸わんやといった、後年の横山やすし・西川きよしのような「変拍子」漫才ではない、一定のテンポで言葉をやりとりしていく漫才コンビたちのリズムが戯曲に移しかえられているのだ。これもまた、別役戯曲がいつまでも古びない理由の一つだと思う。なぜならこのリズムとは、昭和初期から演芸の世界で徐々に形作られてきた人工的で抽象的な東京弁の口語のリズムだからだ。言葉は時代とともに移りゆくが、舞台の上でしか話されない、このちょっと気取ったよそ行きの言葉は、最初から現実とは関係がないゆえに普遍性を持つのである。
とはいえ、別役作品が時代性の刻印を帯びていないわけではない。むしろ逆である。ミニマリズムが六〇年代政治の季節の高揚感に対する「シラケ」の表現であったように、自我肥大し、幼児的な自己全能感に囚われた指導者たちによって徒に過激化した学生運動とその挫折は別役実に大きな影響を与えた。とりわけその初期作品において、声高に主張される「大文字の正義」に対して、小声でぼそっと「それは違うよ」とつぶやく、という別役の独特のスタイルはその直接の所産になっている。
『象』もまたそのような作品である。背中のケロイドを見せびらかし、人々の歓心を買おうとする被爆者という造形は、それ自体が米ソの相次ぐ核実験に呼応して盛り上がっていた当時の国内の原水爆禁止運動に冷水を浴びせるようなものであり、またこの作品を発表するにあたって別役自身も相当緊張していたことが初演プログラムに寄せた筆者の言葉でよくわかる。だがそれでも別役は原水爆禁止運動の展開について違和感を持ち、批判を覚悟の上でそれを表明せざるを得なかった。次第に党派性を帯び分裂していく現実の運動体に対する不信もあっただろうが、若き別役が感じ取っていたのは、もっと根源的な「表象」に対する不信だろう。人類史上もっとも残虐非道な暴力について語り、「再現」しようとすることの本質的な_^猥褻【わいせつ】^_さ。それは後年、アウシュビッツ収容所についての証言で構成されたドキュメンタリー『ショア』の監督クロード・ランズマンが、スティーブン・スピルバーグの『シンドラーのリスト』について投げかけた不信の念と同じ性質のものである。ナチスによるユダヤ人虐殺を「悲劇の物語」として消費してしまうことと同様、被爆者の言語化できない思いをわかりやすい言葉として流通させることは不謹慎なのではないか。いや、もっといえば、被爆者の中には、この作品の「病人」のように、手段と目的を取り違え、不毛な生を埋め合わせるために被爆体験を語るようになってしまった者もいるのではないか。別役は残酷だが鋭くそう問いかけている。
プリーストリー『夜の訪問者』の影響が見てとれる『マッチ売りの少女』(一九六六年)もそうだが、このように初期別役戯曲には「偽善の告発」という主題があった。当時は「善きことをしよう」という意志が社会のなかで勢いをもっていた分、その「善きこと」がたやすく「偽善」になりうる可能性を持っており、まだ若かった別役にはそれが耐え難く感じられたのだろう。現在では、「善きことをしよう」という意志がそれほど大きくは見られないので、「偽善の告発」の主題は見えにくくなっているかもしれない。ましてや、原水爆禁止運動をめぐる緊張した情勢などはなかなか伝わりにくい。だが別役の戯曲の面白さとは、時代を超えた普遍性だけでなく、刻印された時代性にもある。今回の上演ではその両方が楽しめることを願ってやまない。

新国立劇場『象』公演パンフレット, pp. 16-17(20103月)

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