ドキュメンタリーとメロドラマの複合体:太陽劇団『最後のキャラバンサライ(オデュッセイア)』

 二〇〇一年の太陽劇団の来日公演『堤防の上の鼓手』は正直言ってあまり感心しなかった。美しく繊細な詩情に富んだ舞台であった、といえば褒めたことになるのかもしれないが、新国立劇場中劇場内にしつらえた仮設舞台の上で俳優たちが文楽の人形を模した所作をするのを見ても、観客に訴えかけてくるエネルギーを感じられなかった。目の眩むような視覚的効果が次から次へと示されるのに感心しながらも、私は「だから、なに?」という問いを胸の内で何度も反復せざるを得なかった。
 観劇後しばらくしてフランス演劇研究者の畏友小田中章浩氏に会ったときに、上記のような感想を言うと、「太陽劇団はヘタウマだからよかったんですよ。文楽なんかの下手な物真似を荒削りなままやっているうちはわけのわからない面白さがあったんだけど、だんだん上手くなっちゃって、昔に比べるとパワーも落ちちゃったから、文化帝国が植民地の演劇を搾取する典型みたいな芝居になっちゃった」という答えが返ってきて腑に落ちた。同時に、手作り感覚のアマチュアリズムが売り物だった演劇集団が、時の経過とともに洗練と自己反復に向かわざるを得ないという宿命を、太陽劇団もまた負わされていたのだと知って悲しくなった。演劇愛好者とは、つねに遅れてきた存在である。名舞台はつねに過去にあり、名優たちはすでに鬼籍に入っているか全盛期を過ぎている。今見ているのはそれらの残滓に過ぎない。『一七八九』『アトレウス一族』など数々の伝説が語り継がれてた太陽劇団の現在を知るということはこういうことなのか、と嘆息した。
 そんなわけで、ニューヨークで毎年夏に行われるリンカーン・センター・フェスティバルの今年のラインナップに太陽劇団の新作『最後のキャラバンサライ(オデュッセイア)』が入っているのを見つけたときにも、それほど心が騒いだわけではなかった。これは二〇〇三年四月に太陽劇団の本拠地ヴァンセンヌのカルトゥーシュリー(弾薬工場)跡地で世界初演されたあと、同年のアヴィニヨン演劇フェスティバルでも上演される予定であったが、舞台芸術労働者のストライキで中止になるという曰くつきの作品であり、リンカーン・センターの敷地内にあるダムロッシュ・パークに巨大なテントを建てての興行が北米初演となる。だが、大学の仕事を中途で放りだして(夏学期の講義は終わっているが試験やら会議やらが残っていた)、リンカーン・センター・フェスティバルに久しぶりに行こうという決心を固めたのは、ほかにもロバート・ウィルソンがインドネシアの叙事詩『ラ・ガリゴ』のエピソードから作りあげた『イ・ラ・ガリゴ』や、マーサ・カニングハム+ジョン・ケージの『オーシャン』再演など、いつにない充実したプログラムが編まれていたからだった。
 結論から言えば、『イ・ラ・ガリゴ』は美しいが退屈で、ウィルソンのマンネリズムが悪いほうにでてしまった。『オーシャン』は、コロンバスサークル再開発計画の目玉であった巨大なガラス張りの建物、タイムワーナーセンターの中に作られたローズシアターの特性を存分に生かし、ケージの構想どおりオーケストラを円形に配置して客席を取り囲む(ただし同一平面ではなくオーケストラは一段高い場所に位置する)など、興味深い試みであったが、歴史的な意義以上のものを見いだすことはできなかった。ピッコロ・テアトロの『アルレッキーノ』では、齢七十をこえたフルッチョ・ソレーリが一九九九年の日本公演とほぼ同じ運動量をこなしているのを見て感動したが、これまた二十世紀演劇史の復習という域を出なかった。だが、『最後のキャラバンサライ』には圧倒された。第一部・第二部あわせて約六時間という長丁場であったが、上演されている間、私はただひたすら舞台に魅入られ、釘付けになっていた。
 『最後のキャラバンサライ』がそこまで衝撃的だった理由の一つは、題材の今日性があるだろう。この作品は、コソボ自治州のアルバニア系住民、クルド人、チェチェン人といった、周辺国家・民族による迫害や虐殺から逃れるために難民として国境を越えた人々や、イラン、イラク、タリバン政権下のアフガニスタン、ロシアなどの祖国を政治上・経済上の理由で亡命した人々が、定住先を求めて放浪を続けるなかでどのような危険や苦労に遭遇するか、あるいは難民キャンプや難民収容所でいかに差別的な待遇に処せられているかを群像劇ふうに描いたものである。題名の一部となっているキャラバンサライ(Caravanserail)には、隊商宿、すなわちキャラバンが休息し、水や食料を補給するための広大な中庭を持った宿という意味と、外国人でにぎわう場所という意味がある。二〇〇一年、ムヌーシュキンたちは、フランス北部の港町カレー近辺にあり、イギリス亡命希望のクルド人、アフガニスタン人、イラク人などが一六〇〇人ほど生活していたサンガット難民収容所などで難民たちに直接インタビューを行った。オーストラリア、ニュージーランド、インドネシアの同様の施設でも取材をしたが、これは『堤防の上の鼓手』世界ツアーの合間を縫ってのことだったという。「最後の」(Dernier)という形容詞に、希望が込められているのかそれとも痛烈な皮肉なのかは定かではないが、キャラバンサライが難民キャンプや難民収容所のことを言及していることは明らかだろう。さらに、かっこで括られた複数形のオデュッセイア(Odyssees)には、故国を離れ苦難に満ちた生涯を送る英雄たちの物語、という意味が込められている。もちろん、神話のオデッセウスと違ってこの「英雄たち」が故国に帰ることは、おそらくない。
 作中フランス語だけが話される場面は多くない。難民はクルド語、ペルシア語、チェチェン語などを話す。難民を迫害し、搾取し、あるいは官僚として非人間的に扱う側はフランス語のほかに、英語、セルビア語、ロシア語、ドイツ語などを話す人物たちで構成されている。アメリカ公演では、本国公演で用いられたフランス語の字幕のほかに、英語の字幕が重ね合わされた。登場人物は一部二部合わせて一〇〇人以上。それを三十六人の、さまざまな国の出身の俳優たち(スタッフも合わせると二十二カ国にのぼるという)が演じる。中東・ロシア・アフリカからの難民の大量流入と、多言語・多文化の共存という状況は、西ヨーロッパ諸国が日々向き合う現実であり、東南アジアや中南米から流出する難民が数に入れられていない点に一抹のヨーロッパ中心主義を感じなくはないものの、作り物の物語にはない迫力があった。
 こうした現実の裏付けがあると、この劇団特有のあざといまでのシアトリカルな仕掛けも納得がいく。とはいえ、「過酷な大河」(Le Fleuve Cruel)と名づけられた第一部の幕開きの場面では、私はまだ魔法にかかることができないでいた。嵐の中、キルギスタンとカザフスタンを隔てる川を、向こう岸から渡された一本のロープを伝わってなんとか渡ろうとする難民たち。降りしきる雨によって水かさを増し轟々と逆巻く大河を、舞台全体を覆う巨大な布一枚で表現するその技術は見事だが、ここまで完成されていると、技術を可能にさせた思いはかえって見えてこない。『堤防の上の鼓手』のとき感じた、ある種の空虚さの感覚が甦る。
 しかし短いものであれば十分程度、長くても二十分もない場面が次々と目の前で展開されていくにつれ、私は徐々に舞台に引き込まれていった。一つには、目まぐるしくなされる場面展開のたびに、俳優やスタッフたちが小道具を抱えたり、移動可能な大道具を押しながら、幅二十メートル、奥行き十メートルはあるかと思われる広大な舞台の周囲を駈け回る、その機敏な動きに感じ入ったということもある。俳優たちが舞台を登退場するときは、小さな台車の上に乗り、出演していない俳優やスタッフからなる黒衣がその台車を押すのだが、舞台の縁まで来ると、俳優も台車から降りてスタッフとともに駈け出す。つい先ほどまで舞台の上で愁嘆場を演じていた俳優が、素に戻って次の場面の準備をしている、ただそれだけのことなのだが、同化と異化との間を絶えず往還するブレヒト的な演劇の最良の瞬間がそこにあった。演じる対象(役)と演じている俳優自身の姿を同時に示す、というブレヒトの定理は、むしろこのような形で実現されるべきではないか、とすら思った。演じている自分を示すためには、舞台の上のイリュージョンの生産過程に従事する自分を示すだけで十分であって、「演じる対象の行動に注釈をつけくわえる」必要はないのではないか。観客は、自分たちに何かを信じさせようと一生懸命になっている俳優の姿を見て、その場面に引き込まれつつ立ち止まって考えるのだから、俳優が観客を「啓蒙」する必要はないのではないか。
 もっとも、公式ブレヒト主義者(なるものが今でもいるのかは疑問だが)から見れば、『最後のキャラバンサライ』で語られる物語も、リアリズムにもとづいた俳優たちの演技も、お涙頂戴のメロドラマに堕していると批判される余地が大いにある。むしろムヌーシュキンたちの戦略には、ブレヒト的であることよりも、ピクセレクール以来のメロドラマの手法を堂々と利用することで民衆演劇の系譜に連なる、というところにあるのかもしれない。故国の家族に宛てた難民たちの手紙がペルシア語で読まれ(同時に端正な筆記体で綴られたフランス語の字幕が舞台の背景幕に投影される)、美しく感動的な旋律の音楽が演奏され、人目を驚かせるスペクタクルが示される。人物であれ、装置であれ、舞台上の形象は明晰であり、一意的な意味を指示している。
 メロドラマはまた反復を利用して一種の催眠効果を作り出すことがあるが、この作品でも互いに似通ったエピソードが幾度も語られる。ヨーロッパにたどり着いた難民はたいてい、難民認定が比較的簡単に取れて、身分証明書の携帯を義務づけられてこなかったイギリス行きを希望する。彼らがドーバー海峡下のユーロトンネルを通過する貨物列車のコンテナに潜り込んで密入国する様子は、日本でも公開されたマイケル・ウィンターボトム監督の『イン・ディス・ワールド』(二〇〇〇)でも描かれていた。『最後のキャラバンサライ』では、ピカレスク的魅力をそなえた密入国業者のボス、セルビア人ヨスコの指揮のもと、さまざまな国籍の難民が、カーブのせいで列車のスピードが落ちる場所に潜んでコンテナに飛び乗るという主題が変奏されて描かれる。国境警備兵に見つかって失敗する家族。金が工面できずにヨスコに罵声を浴びせられる兄弟。あるいは費用を調達するためにヨスコの言うままに売春をする少女。そしてお定まりの内輪もめと裏切りによってヨスコは殺され、新しいボスが実権を握る。
 「起源と運命」(Origins et Destines)と題された第二部になると、断片的に語られてきた物語がこうして次第に組み合わさり、メロドラマとしてのうねりを持つようになっていく。その一方で、当事者にしかわからない細部も描かれ、ドキュメンタリーとしての迫真性は保ち続ける。このドキュメンタリーとメロドラマの混交こそ、作品に力強さを与えていたもっとも大きな要因だろう。ムヌーシュキンは最初に俳優たちに自らの想像力と経験をもとに即興で場面を作り上げるように要求し、そのあとでインタビューや証言の記録を示したという。現実と想像の複合体は、剥き出しの事実よりも私たちの内なる生に食い込んでくる。なぜなら私たちの内なる生とは、まさしく現実と夢を混ぜ合わせてできたものに他ならないからだ。ムヌーシュキンはそのことをよく知っていたし、またそれを表現する媒体として、集団創作の手法が作り上げる俳優の身体が最適であることも理解していた。その結果が『最後のキャラバンサライ』だったのだ。一九六四年に創立された伝説の演劇集団はまだ「伝説」にはなっていなかった。

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