俳優は真実を語ることができるか

T.P.T『令嬢ジュリー』デビィット・ルヴォー演出、若村麻由美主演、ベニサン・ピット

一九九九年一一月二五日〜一月九日

若村麻由美は、令嬢ジュリーに似ていた。ジュリーは上っ面を飾り立てていようがいまいが、人間は一皮剥けばみな同じ、確固とした自分というものがあって、自分の感情というものを持っていると考えている。ところが下僕のジャンはそうではない。ジャンは人間というものが、自分のことにせよ他人のことにせよ、真実というものを知ることはないと考えている。いやもちろん、時には彼も真実を語りたいという欲望に駆られることもある。ジュリーと一緒に家を出て、コモ湖のほとりでホテルを経営する夢を語るときの、あるいはルーマニアで爵位を金で買って成り上がるという夢を語るときのジャンは、自分の言っていることを半分以上信じているようだ。しかし彼は人間が真実を語ることができると信じこむには、あまりにも人生を知りすぎている。自分自身を見れば、人間がいかに信用のならないものかがわかってしまう。ジュリーを口説くためならば、お涙頂戴の話を新聞から借りてきて身の上話として語ることもお手のもの。告白という形式がいかに欺瞞に満ちたものであるかを知っている。人は真実を告白すると称してもう一つの嘘を語るのだ。

19世紀の終わり近くになって登場した近代劇を特徴づけているのは、近代的価値観への懐疑だ。18世紀ヨーロッパ中を席巻した啓蒙主義思想は、ルネッサンスからはじまる西洋近代の到達点であったが、近代劇はそこで謳われた理想、すなわち理性の正しさ、人間の進歩、個人のかけがいのなさといった概念がいかに怪しげなものであるかを暴露する。つまり、近代劇とは自らが依って立つ基盤を突き崩す脱構築的な運動なのだ。

ストリンドベリもまた例外ではない。『令嬢ジュリー』をはじめとする多くの作品で、彼は「本当の自分」という幻想に人間がとりつかれるといかに厄介なものか、ということを描いた。人の気持ちは移ろいやすく、信じるに値する宗教や思想はない。そう考えれば確固とした自分を持つことはほぼ不可能に近い、ということがわかりそうなものなのに、なぜか人は、今現在の自分とは違った、本当の自分、自分の真実のすがたというものがあると考えたがる。この作品でジュリーは、階級が自己を規定するものではないことを母親から教えられてはいるものの、何者でもない自分に耐えかねてジャンに身を投げ出す。そうすれば本当の自分が見つかると思ったのかもしれない。しかしジャンは意地悪くも、愛を誓わせようとするジュリーの要求をすげなくかわし、自分のことすらわからないのに、一度だけ寝た相手のことなどなおさらわからない、ということをジュリーに暗に教え諭す。クリスティンのように、神の存在を含めて一切を疑わず、階級社会の現実をありのままに受け止めて黙々と生きていかないかぎり、つまり欲望−あらゆる規範から逸脱し、たえず自己増殖を続けていく存在−を抑圧しないかぎり、人間は自らの不定形の欲望が新たな対象を見出すのにしたがって変貌し続けていく。だからジュリーが自殺するのはもちろん、ジャンとのことが父親に露見することを恐れているからではない。真実というものを頼りにして生きていくことがもはやできない、一度欲望が自らをつき動かすままに行動すれば、あとは頼るべき規範は何もなく、ただ根無し草のように生きていかなければならない、その事実を受け入れることが耐えられず死ぬのだ。

しかし近代劇の誕生とともに生まれたように考えられているリアリズムの演技術は、俳優は真実を語ることができるという前提に基づいて組みたてられている。そしてそれはもちろん、演劇の「見てきたように嘘を語る」役割を否定することでもあった。一切の「芝居がかった」演技を排し、本当のことだけを語ろうとするリアリズムの演技はだから、最初から不可能なことを目指していたともいえる。俳優がいくら悲しみに沈んだ顔をしていても、それは「本当のこと」ではない。それを本当のことだと信じたい観客と俳優自身がいるだけだ。リアリズムの演技とは、そうした観客と俳優の思い込みの共同体の上に成り立つものであり、「真実」と「演じている現実」との距離はその思い込みの強さによってのみ埋まる。とりわけ日本の新劇においては、体型・外見の相違や、俳優養成のための教育がほとんどなかったことがあって、この「真実」と「演じている現実」との格差はいかんともしがたいほど大きかったわけだが、それでも新劇という制度が成立し得たのは、観客と俳優双方の思い込みがあったからなのだ。
アングラはまさにそのような新劇を成立させていた思い込みを撃ったわけだが、90年代にアングラが衰退しはじめるときにはっきりわかったことは、アングラという制度を成立させていたのもまた別種の思い込みであったということだった。しかし現在の日本の演劇界には、こうした過去から教訓を学んだ者は少ないように思える。平田オリザが語る演劇論であれ、TPTに参加する役者たちであれ、「真実」を語ることができる、「内面」を見せることができる、という素朴な信仰に未だにしがみついているように見えるのはなぜなのか。そのような態度ではストリンドベリのような反・近代的な近代劇の可能性を汲み尽くすことはできない。真実というものはないと知りつつ、なおも真実を信じようとする人間たちの織りなすダイナミズムを表象することはできない。

舞台挨拶のときの若村麻由美は、緊張感がとけてほっとした顔をしており、自分たちへの拍手に対して少し照れているようだった。それは俳優という、虚と実の間を生きる人種が見せる顔ではなかった。お芝居という一つの虚構を演じきったその代償として、今このしばらくの間は素のままの自分を出す権利があると主張しているかのようだった。きっと、築地小劇場の頃の新劇俳優たちもこうだったのだろう。彼女たちは、芝居という大きな嘘を真実に変えようと生真面目に演じるのだが、舞台挨拶の頃にはもう演じなくてもいいのだと安心して一人の人間に戻ってしまう、そういった種の人間なのだ。「あなたと私は同じ一人の人間でしょう」。令嬢ジュリーは劇中でジャンに言う。若村麻由美も観客に向かって同じことが言いたかったのに違いない。だがそのような仕草こそが、自分たちのついた嘘を嘘として確定させてしまうことに彼女は気づいていなかった。これまで彼女が一所懸命に演じていたものは所詮絵空事だったのだ、観客は無意識のうちにそう感じ取ってしまうことに気づいていなかった。無名塾出身者が仲代達也に学ぶべきは、仲代の無意識が発する恐ろしいまでのシアトリカリズムであって、リアリズムの演技にかけるその愚直さではないのだ。

もちろん『令嬢ジュリー』はたんなる真実の表象可能性をめぐる哲学的な議論に終始するものではない。貴族の女と下男との情交というスキャンダラスな物語を軸に展開するこの戯曲は、そこからさまざまな方向へ拡散していく断片的なイメージ/言説を一箇所にぎゅっと圧縮して詰め込んでいる。つまり、初演当時のこの戯曲は、ちょうどハイナー・ミュラーの『ハムレット・マシーン』が現在の私たちにとってそうであったのと同様に、その凝縮度において衝撃的なものだったわけで、異なっているのは、当時今にも爆発しそうな圧縮の度合いだと感じられていたものが、現在の私たちにとってはそれほどのものではない、と思えてしまうことだけだ。しかもデビッド・ルボーの演出はいつも通り、絡み合ったイメージ/言説群を丹念にときほどくことを目的にしていた。それはたとえば、若村麻由美が木馬に跨り騎乗位よろしく腰を動かしてみせる場面のように、戯曲のもともと持っていた濃厚な卑猥さをごく薄めたかたちで暗示するものにとどまっていた。全体として伝わってくるのは、何か野卑なもの、野卑であるけれども圧倒的な存在感を誇るもの、つまり、ストリンドベリの『令嬢ジュリー』という戯曲の「気配」、何重にも隔てられている壁の向こうで、何かとてつもなく恐ろしいことが起きているというその気配だけだった。正しく訓練を受けた想像力を持った観客ならば、壁の向こうにあるものを感知できたかもしれない。しかし『令嬢ジュリー』を読んだことがない一般の人間であれば、その気配はたんなる気配でしかなった。新劇がかつて陥った陥穽にまた落ち込んでいるこの上演を見て、歴史から学ぶ姿勢を持たないとこの国の演劇は何度失敗しても進歩しないままになると強く思った。

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