安藤鶴夫『三木助歳時記』

長編小説はおそろしい。作者はその全人格をさらけ出すことになる。見せたいところだけでなく、隠したいところも全部丸見えになる。『寄席紳士録』のような随筆では、安藤鶴夫は滅びゆく弱者への哀惜に駆られる自分だけを見せた。『三木助歳時記』では、そういう自分に酔っているナルシシストの安藤鶴夫も見えてしまう。近藤亀雄という自身の分身を登場させるというあざとい仕掛けや、あまりにも有名になった「芝浜」の枕を三木助と工夫するくだりだけではない。たとえば関東大震災を体験したそれぞれの登場人物の心情を映画のカット割りのように次々と描き出していくという趣向は見え透いていて、しかも作者自身が「どうだ、いい趣向だろう」と勝ち誇っているのが行間から伝わってくるだけに余計に白けてしまう。文が悪達者なところも含め、永井荷風になりきれなかった永井荷風という気がする。永井と同様、スタイリストでありながら、永井のようにスタイリストである自分を見せることも格好が悪いことだと悟って作品から自己を抹消することに命をかけることはしなかった不徹底な人物であることがよくわかる。以下のようなところもそうだ。

 別れた洋画家の夫の、フランスであつめたレコードだけを、ちいさく、流しているというのが、ママの自慢で、圓が、仲子の、勤めの時間が終わるのを待っている、そんな、うすぐらい廊下にも、オネガーの<セラミス>が、そっと、流れてくる。

 マルテノーの、電気楽器が使われているのに、圓は、びっくりして、なんだか、ふしぎな音だな、と、思う。

(安藤鶴夫『三木助歳時記 下』三〇頁)

これは三木助がアンツルに語って聞かせたのではあるまい。仏文出身の安藤自身の体験をもとにした創作だろう。正しくはオネゲル(Arthur Honegger)の『セミラミス』(Sémiramis, 1933)で、この中では電子楽器の元祖オンド・マルトノ (Ondes Martenot)が使われている。安藤がオネゲルに、あるいはオンド・マルトノの音色に心惹かれたというのであれば面白くないこともないが、橘ノ圓時代の三木助がそうであったと書いても作品に何の意味を加えるわけでもないではないか。

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