色川武大『あちゃらかぱいッ』

色川武大やそのエピゴーネンのように、二流の芸人が好きだ、ということは死んでも口にしたくない。そういう口吻には、「二流が好きな自分」へのてらいや自己憐憫が隠れているからだ。色川武大のものの見方は基本的には信頼しているし、『寄席放浪記』の対談で明らかなように、寄席芸人に寄せる愛情も本物だと思うが、『あちゃらかぱいッ』のような芸人実録小説はいただけない。

色川は明らかに二流の芸人たちに自らを託して語っている。それは「文学している」といっても同じことだが、色川は文学を書くために二流の芸人が好きになったのではないと思う。二流の芸人について語らなければならないことになって、急いで文学的な自分をでっち上げただけだ。

二流の芸人たちについてただ好きだという以外に何を語れるだろう。客をオリジナルな表現や磨き抜かれた芸で圧倒させる一流の芸人とは違って、ルーティンでギャグを言っている二流の芸人たち。 私は好きで、引きつけられる。だがそれ以上に語る言葉を持たない。

『あちゃらかぱいッ』河出文庫版解説の井上ひさしを見よ。 ふだんあれほど十全に自己を語り尽くすことができる言葉の名人が、色川との隠れたライバル関係を語ってお茶を濁している。解説であるにもかかわらず、死者の作品をおとしめる寸前のところまで井上は語るが、それは対象に肉薄しようとするいつもの気迫が空回りしていることの証左である。

本当に井上が語りたかったことは、色川の語りかたでは二流の芸人は語れない、ということだろう。だが井上は自分も語れないことに気づいている。だから矛先が見当違いの方向に向かうのだ。浅草の芸人は自分が知っている限り、真面目で、色川の言うような破天荒な人物はいなかった、と書くことが何の意味があるだろう。

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