志ん生の落語を好きではない理由

志ん生の落語のよさというのがよくわからない。あまりに天才、天才と言われるものだからそれに対する無意識の反発もあるのだろうが、結局高座を聞いたことがなければそのよさがわからないのかな、と思っていた。志ん生の全集はライブ録音のせいもあって、客へのサービスでくだらないくすぐりを入れるのも(先代の!)正蔵、三代目三木助を崇拝する古典主義者の私には受けつけないものだった。

正蔵の「鰍沢」と志ん生の「鰍沢」を先日聞き比べて、志ん生が好きではない理由がようやくわかった。一言でいえば、くどいのだ。正蔵のほうは芝居噺だから余計に簡潔にしているのかもしれないのだが、鉄砲で狙われてサゲの「あア、お材木で助かった」まで、志ん生は言葉を尽くして臨場感を出そうとする。その描写力はたいしたものなのだが、その分こちらは息を詰めて聞かなくてはいけないので、聞き終わるとどっと疲れる。寄席芸であるにもかかわらず、近代芸術の鑑賞と同じような忍耐力を客に要求する。その意味で、志ん生は天才でも、近代的天才なのだ。

そうはいっても、志ん生は磨き抜かれた話芸を客がただおとなしく聴いているのをよしとしない。かならず余計なくすぐりを入れて、客の顔色をうかがう。洗練と卑俗を共存させようとしたという点で、志ん生は数ある近代が生んだ天才のなかでも、モーツァルトにもっともよく似ている。グレン・グールドがピアノソナタ全集を録音するにあたって、中期以降のモーツァルトの堕落ぶり、客受けを狙って安易なフレージングを多用するところを痛罵したのは有名な話だが、志ん生も似たようなところがある。それにたいして、芸の道一筋、端正さを追求した正蔵はさしずめJ・S・バッハというところか。圓生や三木助もバッハ一族だ。

べつのいいかたをすれば、自分の芸にも、客のあしらいにも、どうせこんなものだと高を括っていたようなところが志ん生にはある。自分が天才だと正しく理解している天才はやっかいなものだ。自分の才能に酔いつつ、かつ、どこかでその才能を突き放して醒めた目で見ている。そういう自己陶酔と自己韜晦が混じりあうと、芸は一抹の苦みを醸し出す。つまり、天才であっても、生きるということは厄介なものなのだ。とはいえ、その苦みは純粋に楽しみたいと思って寄席にやってくる客にとっては邪魔なものでしかない。当代の談志はその傾向が顕著なのだが、生きている人間が出す苦みはそれほど気にならないのにたいし、録音された苦みはいわば苦みの結晶だ。コーヒーを飲んだ後のカップの底にわずかに溶け残った砂糖のように、それは甘いけれど苦い。そんなものを誰が飲みたいと思うだろうか。

志ん生の全集も、談志百席も、いまではなかなか高座で聞けない落語を聞けるという意味では貴重なのだが、落語を楽しみたいと思っているときに聞くものではない。あれらは落語の勉強のために聞くものだ。

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