5月4日観劇。1階13列24番。左右に座るのは中年男性。全体としてもいつもの客層と違う。五月のゴールデンウィーク中の新橋演舞場ということもあるだろうが、いかに池波正太郎が中年男性に愛読されているかをあらためて実感する。精力が衰え、自分の人生の損得勘定がほぼわかりかけてきたころ、つまり「男」としていろいろ諦めることの多さをわかってきた頃に、男は池波正太郎を手にとる。個人的にはまだそうなりたくないとは思うものの、志ん朝の朗読CDを買ってきて聴こうかと三秒ぐらい考える自分もいて、年はとりたくないものだと思う。 「鳴神」、染五郎の鳴神上人は初役。前半の会話劇の部分は退屈。芝雀の雲の絶間姫とのイキがあっていない。絶間姫の身の上話に引き込まれていくという段取りをうまく作ることができないまま後半の荒事に入る。とはいえさすが若く身体能力も高い染五郎、柱巻きの見得も飛び六法も迫力がある。父幸四郎のようなオーラを発することができないでいるのは、大歌舞伎の舞台ということで緊張しているからだろう。臆せず舞台を務めてもらいたい。 「鬼平犯科帳 大川の隠居」は岡本さとるの新作。第一場 大川端船着場の場で、船頭友五郎実は浜崎の友蔵を演じる歌六と吉右衛門の平蔵のイキがあっていないように見えたのは二人がまだ警戒しあっているという演出なのか。それにしては腹の探り合いという印象も受けず。おなじみの鬼平なのだから最初から観客とのなれ合いを意識してマンネリズムの演技に陥ってもよいのに、吉右衛門は妙にしゃちほこばっていて、「あんたみたいなくだけた侍は見たことがない」という第三場での友五郎の台詞がここでは今ひとつ腑に落ちない。第二場 長谷川平蔵役宅の場は照明が気になる。歌舞伎特有の平たく当てる明かりがもともと平板な家体の立体感をいっそう損なってしまって、テレビや映画で映される長谷川平蔵役宅に比べて安っぽいという印象を受けてしまう。女中およね(歌江)が買ってくる軍鶏も気になった。なぜあんな羽がぼうぼうで、死骸のリアルさをもった軍鶏を芝居の小道具に使うのだろうか。もっと簡略化した「記号」としての軍鶏でよいではないか。 同 書院の場は問題ない。適度に作り込まれた調度が落ち着いた幕府直参の役宅にふさわしい。ただし富十郎の岸井左馬之助はあまり熱心に演じていない。無難にこなすという印象。 大詰 今戸橋船宿嶋やの場は圧巻。吉右衛門と歌六ががっぷり組み合い、嶋やの調度も結構で、世話物にふさわしい—といっても、そこで描かれるのはきわめて近代的な内面の葛藤なのだが—風情を醸し出している。吉右衛門はこの場まで力をためておいていることが丸わかりな分、その省エネ主義が多少鼻につくが、まあいいのでしかたがない。ただ全体として、この作品は見ても見なくても同じだったな、と意地を張っているのではなく素直に思える自分がいて少し安心した。当年とって四十の私だが、まだ池波正太郎には早いようだ。どうでもよいが、鬼平犯科帳を志ん朝が朗読するというのはよく考えられた企画だなあ。というのもこの人もまた男としての諦めを見事に語り口に織り込む人で、だから私は彼の落語を聴きたくないのだが…志ん朝のことはまた別エントリに書こう。 「釣女」は錦之助のための舞台だが、なんとも無惨な結果になった。華がない、存在感がない、自信がない。目もと涼やかで長身の美男子というだけでは客はひきつけらない。『残菊物語』の冒頭で、尾上菊之助を演じる花柳章太郎が、格好がいいし菊五郎の跡取りだということで人気はあるかも知れないが実力はない、ということをお徳を演じる森赫子に言われる箇所があったと記憶するが、まさにそんな状態だ(しかしあの映画で花柳がドサまわりをして「うまくなった」ということになっているのはどうしても解せない。まあ大歌舞伎の舞台に幹部とはいえ新派の花柳が墨染を演じるのだからたいしたものだが、あの墨染はないだろう)。吉右衛門は鬼平同様、「人情のわかった」人なので、醜女を演じて舞台に色を添えるだけでなく、役を離れて「錦ちゃん素敵!」と地声で声をかける一場があって観客の拍手を誘っていたが、意地悪なみかたをすればあの吉右衛門がそういうことをしなければならないほどこの「釣女」は見所がないということだ。ただ、歌昇の踊りはよい。この人の身体能力の高さはもっと注目されてしかるべきだろう。手と足がきっちりときまっている。
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五月歌舞伎:昼の部
5月4日観劇。1階13列24番。左右に座るのは中年男性。全体としてもいつもの客層と違う。五月のゴールデンウィーク中の新橋演舞場ということもあるだろうが、いかに池波正太郎が中年男性に愛読されているかをあらためて実感する。精力が衰え、自分の人生の損得勘定がほぼわかりかけてきたころ、つまり「男」としていろいろ諦めることの多さをわかってきた頃に、男は池波正太郎を手にとる。個人的にはまだそうなりたくないとは思うものの、志ん朝の朗読CDを買ってきて聴こうかと三秒ぐらい考える自分もいて、年はとりたくないものだと思う。
「鳴神」、染五郎の鳴神上人は初役。前半の会話劇の部分は退屈。芝雀の雲の絶間姫とのイキがあっていない。絶間姫の身の上話に引き込まれていくという段取りをうまく作ることができないまま後半の荒事に入る。とはいえさすが若く身体能力も高い染五郎、柱巻きの見得も飛び六法も迫力がある。父幸四郎のようなオーラを発することができないでいるのは、大歌舞伎の舞台ということで緊張しているからだろう。臆せず舞台を務めてもらいたい。
「鬼平犯科帳 大川の隠居」は岡本さとるの新作。第一場 大川端船着場の場で、船頭友五郎実は浜崎の友蔵を演じる歌六と吉右衛門の平蔵のイキがあっていないように見えたのは二人がまだ警戒しあっているという演出なのか。それにしては腹の探り合いという印象も受けず。おなじみの鬼平なのだから最初から観客とのなれ合いを意識してマンネリズムの演技に陥ってもよいのに、吉右衛門は妙にしゃちほこばっていて、「あんたみたいなくだけた侍は見たことがない」という第三場での友五郎の台詞がここでは今ひとつ腑に落ちない。第二場 長谷川平蔵役宅の場は照明が気になる。歌舞伎特有の平たく当てる明かりがもともと平板な家体の立体感をいっそう損なってしまって、テレビや映画で映される長谷川平蔵役宅に比べて安っぽいという印象を受けてしまう。女中およね(歌江)が買ってくる軍鶏も気になった。なぜあんな羽がぼうぼうで、死骸のリアルさをもった軍鶏を芝居の小道具に使うのだろうか。もっと簡略化した「記号」としての軍鶏でよいではないか。
同 書院の場は問題ない。適度に作り込まれた調度が落ち着いた幕府直参の役宅にふさわしい。ただし富十郎の岸井左馬之助はあまり熱心に演じていない。無難にこなすという印象。
大詰 今戸橋船宿嶋やの場は圧巻。吉右衛門と歌六ががっぷり組み合い、嶋やの調度も結構で、世話物にふさわしい—といっても、そこで描かれるのはきわめて近代的な内面の葛藤なのだが—風情を醸し出している。吉右衛門はこの場まで力をためておいていることが丸わかりな分、その省エネ主義が多少鼻につくが、まあいいのでしかたがない。ただ全体として、この作品は見ても見なくても同じだったな、と意地を張っているのではなく素直に思える自分がいて少し安心した。当年とって四十の私だが、まだ池波正太郎には早いようだ。どうでもよいが、鬼平犯科帳を志ん朝が朗読するというのはよく考えられた企画だなあ。というのもこの人もまた男としての諦めを見事に語り口に織り込む人で、だから私は彼の落語を聴きたくないのだが…志ん朝のことはまた別エントリに書こう。
「釣女」は錦之助のための舞台だが、なんとも無惨な結果になった。華がない、存在感がない、自信がない。目もと涼やかで長身の美男子というだけでは客はひきつけらない。『残菊物語』の冒頭で、尾上菊之助を演じる花柳章太郎が、格好がいいし菊五郎の跡取りだということで人気はあるかも知れないが実力はない、ということをお徳を演じる森赫子に言われる箇所があったと記憶するが、まさにそんな状態だ(しかしあの映画で花柳がドサまわりをして「うまくなった」ということになっているのはどうしても解せない。まあ大歌舞伎の舞台に幹部とはいえ新派の花柳が墨染を演じるのだからたいしたものだが、あの墨染はないだろう)。吉右衛門は鬼平同様、「人情のわかった」人なので、醜女を演じて舞台に色を添えるだけでなく、役を離れて「錦ちゃん素敵!」と地声で声をかける一場があって観客の拍手を誘っていたが、意地悪なみかたをすればあの吉右衛門がそういうことをしなければならないほどこの「釣女」は見所がないということだ。ただ、歌昇の踊りはよい。この人の身体能力の高さはもっと注目されてしかるべきだろう。手と足がきっちりときまっている。