三笑亭可楽、大いなるマンネリ

可楽は退屈だ。酒にからむ噺のまくらはこれ、女にからむ噺のまくらはこれ、とワンパターンなことこの上ない。文楽の噺は極限まで切り詰められているので、いつやっても長さが寸分も違わない、という「神話」は有名だが、文楽の全集やら十八番集やらに収められている同一の噺の収録時間を比較してみればこれが「神話」にすぎないとわかる。たとえば「鰻の幇間」は全集では28分弱だが十八番集では22分弱だ。それにくらべると、いつやっても同じまくらで同じ語り口の可楽のほうが噺の長さが揃っているのではないかと思う。
しかし可楽のマンネリズムはけっして不快なものではない。だいいち、聞き流すことができるからいい。志ん生や文楽の噺は息を詰めて聞いていなければならないが、可楽の噺はちょっと他のことに気をとられて聞き損なってもそれほど残念な気がしない。そのかわり、語り口は淀みない。人物の演じ分けは最低限にとどめ、物語を流暢に語ることに専念するものだから、いつの間にか物語がすうっと頭の中に入ってくる。落語における「人物描写」と「語り」の二項対立を指摘し、落語家の描写力を過大に評価する傾向を新劇のリアリズムに影響されたものだと指摘したのは若き日の矢野誠一だが、可楽は志ん生や文楽とちがって語りに力を入れたほうの落語家だ。かといって正蔵ほど声を張るわけではなく、圓生ほど正確な言葉遣いにこだわるわけではない。
つまり可楽とは偉大なる二流芸人なのだ。自分の芸の向上ということをそれほど真剣に考えず、ただ客がひととおり満足してくれればよいと思い、そして自分のいまの芸の力でもその位はできると高を括っていた落語家。後生自分の噺が全集になって収められ、まくらが全部同じじゃねえかと指摘されることなぞおそらく想像もしていなかったに違いない。しかしそういう志の低さを私は愛する。自分も落語もその程度のものでいいのだと思って職人のようにこなしている可楽の噺を聞くとほっとするのは私だけではあるまい。

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