団菊祭五月大歌舞伎:昼の部

5月8日観劇。1階14列24番。「泥棒と若殿」、山本周五郎の作品には、いまでいうホモソーシャルな関係、男同士の友情以上愛情未満の関係を扱ったものがいくつかあるが、これもまたその一つ。三回目の上演となる今回、残念ながら作品の掘り下げが足りない。三津五郎の定信と松緑の伝九郎のあいだにあるのはたんなる世を拗ねたもの同士の連帯感などではなく、もっとホモエロティックな関係なのだが、三津五郎は殿様芝居に専念してホモっ気がまるで出ていないし、松緑の江戸弁の口舌は爽やかだが、単純で気のよい泥棒という定型を出ていない。かててくわえて、会話が登場人物の心情を示すのではなく、筋の説明に終わっていることの多い前半では、二人ともやりとりをしていてどうも妙な間が空く。もともと周五郎作品はいわゆる(弁証法的な)ダイアログに欠けているところがあり、お互いが自分の心情をだらだら説明するか、あるいは筋を進めるだけでまるで対話としてのリアリティがなかったりするのだが、これは脚本でなんとか補うべきなのではないだろうか。
「勧進帳」、団十郎の弁慶は疲れ気味。型をがんばってやっていますということはわかる。飛び六法も染五郎を新橋演舞場で見たあとではやはり見劣りがする。菊五郎の富樫は全体としてよいが、内面の葛藤はもう少し見たいなあ。菊五郎には無理な注文かもしれないが。梅玉の義経は珠玉。型と心情がぴったり一致して一個の美しい絵となっている。
「与話情浮名横櫛」、いままで見たなかでいちばんつまらない「源氏店」だった。この場面、生世話物の風情を出すのが難しいのは重々承知だが、問題はそれ以前である。海老蔵の与三郎は声を作りすぎで浮ついてしまっている。それにくらべると菊之助のお富の声の張り方は堂に入っており、団菊親子対決は菊五郎・菊之助親子に軍配があがるというところか。しかし市川家の御曹司でここまで「芝居」できないというのは本当にまずいのではないか。生世話が一方で要求する「リアル」な演技はそれなりにうまいのだが、それは半ばニンがあるということである。木更津海岸見染の場は、お坊ちゃん育ちでぼうっとしているところは地でやれる。だが生世話が本当に難しいのは、リアルでありながら型であるという二重の桎梏を俳優に課するところにある。「源氏店」はそういう場面で、さすがに左団次の和泉屋多左衛門はそれができているが、海老蔵の小悪党ぶりはまるで見てられない。型を演ずるだけで肚が決まらないから、声が上ずる、演技は重みがない。伝統の重圧に耐えないで、もっと勝手にやってよいと思うのだが。
「女伊達」は老優・芝翫のたっての頼みということなのだろうか。四十九年前の初役時はさぞかしうまかったのだろうな、ということはわかるが今となってはその当時を思い浮かべるしかない。

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