朝日新聞に歌舞伎評を書いている畏友・児玉竜一がこのサイトをときどき訪問してくれているのを知っているので、歌舞伎批評だけは書くまいと思っていた。かかなくてもいい恥をさらすだけだからである。ところが最近、素人のまるでわかっていない批評でも、書き続けていくうちに色々わかってくることがあるのではないかと思うようになったので、ずっと封印してきた歌舞伎評を今春から開始することにする。
夜の部。五月二日観劇。一階階3列23番。「女暫」は上演回数が少ないせいか、演出が定まっていないという印象を受ける。各人の仕草がかっちりと定まっていないし、タイミングはばらばら、立ち位置に関してもまだそれぞれの俳優が自信を持てないでいるようだ。とりわけ海老蔵の成田五郎を見ると、ああこの人は役者じゃない、ということがよくわかる。決められたことをきちんとやることはできるのだが、細部に至るまで決められていないことをしようとすると、途端に自信のなさが表に出てしまう。これでいいのかな、という逡巡が見えてしまうのはただ若い、ということだけではすまされないだろう。板付きになったときにどれだけ度胸が据わるか、ということも役者の重要な資質だ。荒事の市川家の御曹司としてはこれはまずいだろう。
「雨の五郎」は松緑。これは佳品。曽我狂言の華やかさも若武者の色気も十分出ている。三津五郎の「三つ面子守」は面白い。舞踊のことはほとんど知らないが、三津五郎の踊りは歌舞伎舞踊としては完璧に近いのではないだろうか。手と足が細かなところで決まり、ときおり見事な型をきめる。ただしモダンダンスに慣れた目には体幹を使わないで(腰を使わないで、といっても同じことだが)手と足の先だけをこちょこちょ動かして見せるだけだ、というようにも見える。玉三郎や仁左衛門は体幹をうまく使っているので、それに比べると「小ぶり」という感じが否めないが、これは玉三郎や仁左衛門がより「近代的」なだけであって、三津五郎のほうがむしろ正統なのだろう。
「め組の喧嘩」は面白い。「雨のあとの水道じゃあるまいし、すむもすまないもあるものか」という台詞で、この作品が明治のそれも中頃に書かれた作品だということがよくわかる(注:後記あり)。三幕を書いた黙阿弥は、力士がかつて蛇女や小人と同様奇形として扱われていたこと、相撲が奇形を見せる見世物であったことをよく承知していたのだろう。四月に上演された「角力場」では江戸の庶民にとって相撲がいかに馴染みの深い芸能だったか、ということしかわからないが、「め組の喧嘩」では、力士を演じる俳優たちに、まったくリアルでない着ぐるみを着させることで、世話物のリアリズムからはみ出る「不気味なもの」を舞台に表してみせる。とくに今回は団十郎と海老蔵がそれぞれ四ツ車と九竜山を演じることで、お家芸である荒事が本来持っているパワーのようなものを着ぐるみから発散することができるようになっていた。
しかしやはり現行の上演ではこの生世話物のしっとりした情感と、時代物に匹敵するような破天荒な力士と火消したちのパワーの折り合いが悪い。そんななかで健闘していたのが時蔵のお仲で、傑出したところはないものの、やるべきことをしっかりやるというところは評価できる。喜三郎の梅玉も八つ山下のだんまりの場で発していた気は、辰五郎の菊五郎、四ツ車の団十郎がそれぞれ出していた気を中和するものだった。つまり菊五郎はリアルな演技で、団十郎は時代がかった演技でこの二人だけだと収まりが悪いのだが、梅玉がやってくると両方の気を吸って緩衝地帯のようなものを作り出すのだ。最後の神明社境内の場でもその仲介者としての力を期待したのだが、はしごから下りてくるところの段取りが悪く(あるいは梅玉の運動神経が悪くと言ってもよい)、声も十分に張れずに、せっかくのよい場面が今ひとつのものになってしまった。そうはいっても、菊五郎の力でなんとか形にはなっていたが。
全体として菊五郎の場をまとめる力、アンサンブルを作る力のようなものをあらためて感じさせた舞台だった。団十郎は残念ながらそういう力はなく、ただ異形のものとしてのオーラを発しているだけだった。菊五郎はきれいに自分の型を演じながら、さらに場を支配しているエネルギーを発している。たいした役者だと思った。
神明恵和合取組は一八九〇年三月新富座初演。この作品の発端となった実際のめ組の喧嘩は一八〇五年、江戸・芝明神社で起きた。一方、江戸の水道は一五九〇年、徳川家康の江戸入府時に開設された小石川上水が神田上水となり、一六五四年には玉川上水が建設され、さらに一六九六年までに、本所(亀有)、青山、三田、千川の各上水が整備された。だが一七二二年、神田・玉川両上水以外の上水は廃止され、神田・玉川の二上水のみ使われるようになった。東京近代水道は上水路の汚染や木樋の腐朽といった問題を解決するために、玉川上水路を利用することを念頭に一八八八年より調査が開始され、十年後の一八九八年にはじめて神田・日本橋方面に通水した。(東京の水道:その歴史と将来)
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団菊祭五月大歌舞伎:夜の部
朝日新聞に歌舞伎評を書いている畏友・児玉竜一がこのサイトをときどき訪問してくれているのを知っているので、歌舞伎批評だけは書くまいと思っていた。かかなくてもいい恥をさらすだけだからである。ところが最近、素人のまるでわかっていない批評でも、書き続けていくうちに色々わかってくることがあるのではないかと思うようになったので、ずっと封印してきた歌舞伎評を今春から開始することにする。
夜の部。五月二日観劇。一階階3列23番。「女暫」は上演回数が少ないせいか、演出が定まっていないという印象を受ける。各人の仕草がかっちりと定まっていないし、タイミングはばらばら、立ち位置に関してもまだそれぞれの俳優が自信を持てないでいるようだ。とりわけ海老蔵の成田五郎を見ると、ああこの人は役者じゃない、ということがよくわかる。決められたことをきちんとやることはできるのだが、細部に至るまで決められていないことをしようとすると、途端に自信のなさが表に出てしまう。これでいいのかな、という逡巡が見えてしまうのはただ若い、ということだけではすまされないだろう。板付きになったときにどれだけ度胸が据わるか、ということも役者の重要な資質だ。荒事の市川家の御曹司としてはこれはまずいだろう。
「雨の五郎」は松緑。これは佳品。曽我狂言の華やかさも若武者の色気も十分出ている。三津五郎の「三つ面子守」は面白い。舞踊のことはほとんど知らないが、三津五郎の踊りは歌舞伎舞踊としては完璧に近いのではないだろうか。手と足が細かなところで決まり、ときおり見事な型をきめる。ただしモダンダンスに慣れた目には体幹を使わないで(腰を使わないで、といっても同じことだが)手と足の先だけをこちょこちょ動かして見せるだけだ、というようにも見える。玉三郎や仁左衛門は体幹をうまく使っているので、それに比べると「小ぶり」という感じが否めないが、これは玉三郎や仁左衛門がより「近代的」なだけであって、三津五郎のほうがむしろ正統なのだろう。
「め組の喧嘩」は面白い。「雨のあとの水道じゃあるまいし、すむもすまないもあるものか」という台詞で、この作品が明治のそれも中頃に書かれた作品だということがよくわかる(注:後記あり)。三幕を書いた黙阿弥は、力士がかつて蛇女や小人と同様奇形として扱われていたこと、相撲が奇形を見せる見世物であったことをよく承知していたのだろう。四月に上演された「角力場」では江戸の庶民にとって相撲がいかに馴染みの深い芸能だったか、ということしかわからないが、「め組の喧嘩」では、力士を演じる俳優たちに、まったくリアルでない着ぐるみを着させることで、世話物のリアリズムからはみ出る「不気味なもの」を舞台に表してみせる。とくに今回は団十郎と海老蔵がそれぞれ四ツ車と九竜山を演じることで、お家芸である荒事が本来持っているパワーのようなものを着ぐるみから発散することができるようになっていた。
しかしやはり現行の上演ではこの生世話物のしっとりした情感と、時代物に匹敵するような破天荒な力士と火消したちのパワーの折り合いが悪い。そんななかで健闘していたのが時蔵のお仲で、傑出したところはないものの、やるべきことをしっかりやるというところは評価できる。喜三郎の梅玉も八つ山下のだんまりの場で発していた気は、辰五郎の菊五郎、四ツ車の団十郎がそれぞれ出していた気を中和するものだった。つまり菊五郎はリアルな演技で、団十郎は時代がかった演技でこの二人だけだと収まりが悪いのだが、梅玉がやってくると両方の気を吸って緩衝地帯のようなものを作り出すのだ。最後の神明社境内の場でもその仲介者としての力を期待したのだが、はしごから下りてくるところの段取りが悪く(あるいは梅玉の運動神経が悪くと言ってもよい)、声も十分に張れずに、せっかくのよい場面が今ひとつのものになってしまった。そうはいっても、菊五郎の力でなんとか形にはなっていたが。
全体として菊五郎の場をまとめる力、アンサンブルを作る力のようなものをあらためて感じさせた舞台だった。団十郎は残念ながらそういう力はなく、ただ異形のものとしてのオーラを発しているだけだった。菊五郎はきれいに自分の型を演じながら、さらに場を支配しているエネルギーを発している。たいした役者だと思った。
神明恵和合取組は一八九〇年三月新富座初演。この作品の発端となった実際のめ組の喧嘩は一八〇五年、江戸・芝明神社で起きた。一方、江戸の水道は一五九〇年、徳川家康の江戸入府時に開設された小石川上水が神田上水となり、一六五四年には玉川上水が建設され、さらに一六九六年までに、本所(亀有)、青山、三田、千川の各上水が整備された。だが一七二二年、神田・玉川両上水以外の上水は廃止され、神田・玉川の二上水のみ使われるようになった。東京近代水道は上水路の汚染や木樋の腐朽といった問題を解決するために、玉川上水路を利用することを念頭に一八八八年より調査が開始され、十年後の一八九八年にはじめて神田・日本橋方面に通水した。(東京の水道:その歴史と将来)