八代目桂文楽

私は仕方噺をする文楽の映像を一度も見たことはない。全集やらなんやらのものを音声だけでひととおり聞いただけである。たしかに「つるつる」のサゲなどは仕草をみないとその面白さはわからないだろう。しかしそれでもなお、文楽はあそこまで神格化されて語られることはないではないか、と私は思う。
志ん生と同様、私は文楽を聞いていて楽しくない。志ん生のばあいは、あれほど天衣無縫な芸の持ち主にも屈託はあるのだという厳粛な人生の事実に慄然とするからだが、文楽のばあい、もっと単純に、聞いていていやな心持ちがする。文楽が一所懸命自分を殺していることがそのいちいちの息遣いに窺われるからである。
こういうとよくある、文楽の芸の「完璧さ」に対する不満のように聞こえるかもしれないが、私が言いたいのは少し違う(完璧といわれていた文楽の芸の「むら」については全集に収められた談志のエッセイに詳しい)。
文楽の演ずる幇間の一八は、実在の幇間だったらそれほど旦那に好かれないと思う。すくなくとも私が旦那だったら一八を贔屓にはしない。自分をあそこまで押し殺して人につきあう人というのは、なにか狂気に近いものを感じる。
宴席で、本当はちっとも楽しくないのに、自分はいま楽しいのだと無理に思いこんで場を取り持とうとする人たちを私たちはしばしば見ることがある。しかし文楽のように、あるいは文楽の演ずる一八のように、自分はいま楽しい気分なのだという無理に思いこんでいる、ということを自覚したうえで、さらにその事実を無理に忘れようとしている人には会ったことがない。そこには二重の無理があり、力業がある。
意識家である自分を忘れ去ろうとしている意識家。それが文楽である。文楽の芸を評して「機嫌のよい芸」と安藤鶴夫は言ったが、文楽の「機嫌のよさ」の二面性をうまくすくい取っていると思う。文楽は「機嫌よく」語りながら「私は本当に機嫌がよいのですよ、みなさんそのことを忘れてもらっちゃ困りますよ」というメタメッセージを発している。それはかれが持つことになった有無をいわさない人柄の迫力と相まって、周りの人たちに「文楽さんは機嫌がよいのだ、すくなくとも私たちはそう思いこまなければならないのだ」と思わせてしまう。人をしてそう思いこませる段階で、それは落語ではない。私はすくなくともそう思う。
私のように感じている人がいないわけではないことは全集に収められたエッセイのいくつかに窺える。談志のエッセイはその一つだが、しかしかれ一流の韜晦のためにかれは見当違いの指摘をするだけで終わっている。文楽の持ちネタの上手下手なぞプロにしかわからないからよいのだ。その点、小朝の「のぞきたかった文楽師匠の心の底」というエッセイは的を見事に射ている。少し抜き出してみよう。
「文楽師匠という方は、強烈なサディズムとマゾヒズムを同居させていた…そのまん中に、何というんですかね、どろりとした、言葉では言い表せないような独特の感性がありました」「なぜ僕がそういうことを考えるようになったかというと、文楽師匠のレパートリーがあまりに偏っている」「盲人と幇間、それからすべてのものを支配して君臨する旦那が主人公、というこの三つ」「文楽師匠のようにネタの数の少ない方が、その八割ぐらいまでがそういうネタであるというのは、異常だと思います」
このとおりだと思う。そういう人の落語を聞いて面白いと思うだろうか。私は思わない。

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