なにがやりたかったんだ? というのが終演後の率直な感想。新しいことを試みているわけではなし、かといって手練れの技を見せるわけでもない。演出家本人は面白い材料を見つけていろいろいじっているつもりなんだろうが、観客には伝わらない。
俳優が三流だ。最初の三十分は欧米の演劇大学の学生公演みたいだな、と思ってみていた。なぜそのような印象を抱いたのか、最初は自分でもわからなかったが、そのうち、俳優たちが野田の提示された演出プランを自分のものにできず、未消化のまま言われたとおり一所懸命演じているからだと見ているうちに気づいた。自分のやっていることを完璧に信じられない俳優ほどみじめなものはないし、それを観客に見透かされてしまうのはさらにみっともないことである。
そういう意味でも三流なのだが、そもそもいくら言葉の演劇の国だとはいえ、野田が想定している身体の演劇の水準なぞヨーロッパの舞台にはいくらでも見られるものなのに、あの程度の演出プランに対応できないというのも俳優としての引き出しがなさすぎなのではないか。公平を期するためにいっておくが、自分たちの得意な演技にはきちんと対応できていた。警官が容疑者に暴力をふるったり、下品なテレビ番組の司会者がはしゃいでみせるところなど、マナリズムの匂いがしないでもないが、うまく演じていた。扇子を宅配ピザに見立てて三人で食べるところもよかったな。でもそこまでだ。小道具の見立てはできても身体で自分が演じる役柄以上の大きなものを示すことはうまくいっていなかった。つまり、俳優としては未熟だってことだ。
もちろんイギリスにも身体の演劇をものにしている俳優はいる。だがそういう俳優は野田作品のオーディションなどにはこないのだろう。野田が本当のところイギリスでどう評価を受けているのかはわからないが、今回の俳優のレベルを見るとなんとなくそれが想像できるような気がした。ピーター・ブルックやテアトル・ド・コンプリシテといった身体の演劇の本家本元だけではなく、それらに影響を受けた劇団はたくさんある。野田とでなければやれない、というものを野田は提示できていないのだろう。
ドラマのメインとなっているのは近代能楽集の「葵上」であり、それが一九九三年の日野市不倫OL放火殺人に重ね合わされる。それだけで十分なのに、色々な物語の断片を貼りつけて複雑な物語に見せかけようとしているところがなんとも格好悪い。元ネタは三島由紀夫です、と素直に白状すればいいのに、そのことは隠して(「葵上」についての言及はない)、あくまでも源氏物語全体を下敷きにしていることにしたいため、「桐壺」で語られる光源氏の出生が挿入される。さらに「海人」を冒頭で語り、それだけではさすがにうまくいかないと思ったのか、最後のパントマイムでもう一度この物語に戻ってきたことを示すのだが、それはまさに「とってつけた」ようである。ロンドン公演での『ガーディアン』紙のマイケル・ビリントンの批評は奥歯に物が挟まったような物言いで全体としてはいただけないし、どんな物語がパッチワークされているかがよくわかっていないので批評の切れ味が今ひとつなのだが(そのこと自体にも驚く、「桐壺」「葵上」ぐらいは世界の知識人の常識ではないか?もちろん、野田秀樹の公演批評ごときで日本文学史の復習をしている暇はなかったということなら納得もするが)、物語については “overloaded” つまり詰め込みすぎだということにはさすがに気づいていたみたいだ。
演劇において物語は発生核のようなもので、どんな陳腐なものでもただ存在すればよく、そこから演出家や俳優が想像力を使っていくらでもふくらませていけるものなのだ、ということをまさか知らない野田ではあるまい。おそらく、彼は夢の遊眠社時代の自分が紡ぎ出していた物語をもう一度作ろうと考えているのではないか。Noda Mapになってから、夢の遊眠社時代とは比べものにならないほど単純な構造の物語を野田は提供してきた。それは彼の想像力が若いときほど奔放ではなくなったからであるが、それだけではなく、イギリス留学の際テアトル・ド・コンプリシテの作品を間近に見て、演劇では演出次第で単純な物語がいくらでも複雑で想像力豊かなものに変わる、ということを身をもって納得したせいでもあり、また限られた観客層ではなくもっと広い観客層に受けいられたいという彼の希望のあらわれのせいでもあった。『Right Eye』などはこうした野田の新戦略のもっとも成功したもののうちの一つであったのだが、時代を経るにつれ、彼の作品はただ単純なだけのものになっていった。それはひとえに野田が演出家としては三流であるからだ。イギリスで見てきたことの猿真似が通用しているうちはまだよかったが、徐々にそれは自己模倣になっていった。(猿真似はそれ自体がいけないわけではない。真剣に猿真似をしているうちはむしろ緊張感があって面白いのだが、いつまで立ってもそれが本当の意味で自分のものにならないと、結局猿真似をする自分を猿真似するようになり、形骸化するのだ。)
おそらく野田はそのような自分にたいして危機感があったのだろう。『The Diver』では演出ではなく物語の作り手としての才能に全面的に依拠していた昔の作り方に戻ろうとした。だがかつての彼のように、複数の物語を重ね合わせ時と場所を自由に天翔ることはできなかった。できたのはただ、出来損ないのパッチワークだった。
『愛陀姫』の批評でも指摘したことだが、穏やかな言い方をすれば素朴な、もっとはっきりと言えば田舎芝居じみた、演出がときどき見られたことも気になった。拘留期限まであと一週間と迫ったところでキャサリン・ハンター演じる容疑者と野田の精神科医は映画のコマ落としの要領で短い場面を次々と演じていくのは八〇年代の小劇場がよくやった手法であり、世界的に見ても手垢にまみれた方法で、興ざめだったし、二人が手をつないで無意識の海に沈潜していくという終わりかたも、精神分析の虚構性が指摘される現今いささか時代遅れである。そんなこと言えば、そもそも精神分析をダイビングの比喩で語ることが時代遅れなのだが。
ここから先を書くのはある意味で天に唾するようなもので今後の我が身にも降りかかる批判なのだが、野田の演出が古臭く感じられるようになったというのは、彼が三十代四十代にいろいろなものを吸収しなかったからなのだろう。野田の持っている表現の引き出しは二十代までのものだし、中には古びて引き出せなくなっているものもある。高校生のときの記憶まで遡ってそのときに見聞きした田舎芝居の演出まで引っ張ってこざるを得なかったというのは、中年期に彼がアウトプットばかりでインプットしなかったゆえなのだ。くわばらくわばら。
とにかく、猫に鈴をつけるネズミではないが、誰か野田のところにいって仕事量減らして世界水準の舞台をもっとたくさん見てください、と言えないものか。もともと内にこもる人だから、バランス感覚を失いがちなのだが、最近は苦言を呈する人もいなくなってますます自分と周囲の状況が見えなくなっているようだ。往年の野田秀樹ファンとしては、彼が二流(決して三流ではないが)の演劇人になってしまったことを認めたくない。だが、このままでいけば彼の後年の仕事は演劇史には記録されないだろう。 とはいえ、すでに手遅れなのかもしれない。私はかつて芸術家の晩年の作品に共通する特徴について書いたことがあるが、この作品にもそれは現れている。『The Diver』も、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲と同様、自分しか面白がれないことを追求して、ひたすら構築していくタイプの作品なのだ。想像力というよりも、想像力の出し殻のようなものを使って、熟練した技巧でその構想の貧しさを隠し、綱渡りをしてみせる一種の名人芸。サーカスの老いた芸人がなんとか綱を渡り終えると、まさか落ちまいかと固唾を呑んで見ていた観客はほっと息をついて勢いよく手をたたく。もちろん、それも芸なのだが、だが見事な芸を見せて舌を巻かせるというより、その境遇に同情し、与えられた役割を無事に終えたことへのねぎらいの拍手で迎えられる芸なのだ。
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The Diver
なにがやりたかったんだ? というのが終演後の率直な感想。新しいことを試みているわけではなし、かといって手練れの技を見せるわけでもない。演出家本人は面白い材料を見つけていろいろいじっているつもりなんだろうが、観客には伝わらない。
俳優が三流だ。最初の三十分は欧米の演劇大学の学生公演みたいだな、と思ってみていた。なぜそのような印象を抱いたのか、最初は自分でもわからなかったが、そのうち、俳優たちが野田の提示された演出プランを自分のものにできず、未消化のまま言われたとおり一所懸命演じているからだと見ているうちに気づいた。自分のやっていることを完璧に信じられない俳優ほどみじめなものはないし、それを観客に見透かされてしまうのはさらにみっともないことである。
そういう意味でも三流なのだが、そもそもいくら言葉の演劇の国だとはいえ、野田が想定している身体の演劇の水準なぞヨーロッパの舞台にはいくらでも見られるものなのに、あの程度の演出プランに対応できないというのも俳優としての引き出しがなさすぎなのではないか。公平を期するためにいっておくが、自分たちの得意な演技にはきちんと対応できていた。警官が容疑者に暴力をふるったり、下品なテレビ番組の司会者がはしゃいでみせるところなど、マナリズムの匂いがしないでもないが、うまく演じていた。扇子を宅配ピザに見立てて三人で食べるところもよかったな。でもそこまでだ。小道具の見立てはできても身体で自分が演じる役柄以上の大きなものを示すことはうまくいっていなかった。つまり、俳優としては未熟だってことだ。
もちろんイギリスにも身体の演劇をものにしている俳優はいる。だがそういう俳優は野田作品のオーディションなどにはこないのだろう。野田が本当のところイギリスでどう評価を受けているのかはわからないが、今回の俳優のレベルを見るとなんとなくそれが想像できるような気がした。ピーター・ブルックやテアトル・ド・コンプリシテといった身体の演劇の本家本元だけではなく、それらに影響を受けた劇団はたくさんある。野田とでなければやれない、というものを野田は提示できていないのだろう。
ドラマのメインとなっているのは近代能楽集の「葵上」であり、それが一九九三年の日野市不倫OL放火殺人に重ね合わされる。それだけで十分なのに、色々な物語の断片を貼りつけて複雑な物語に見せかけようとしているところがなんとも格好悪い。元ネタは三島由紀夫です、と素直に白状すればいいのに、そのことは隠して(「葵上」についての言及はない)、あくまでも源氏物語全体を下敷きにしていることにしたいため、「桐壺」で語られる光源氏の出生が挿入される。さらに「海人」を冒頭で語り、それだけではさすがにうまくいかないと思ったのか、最後のパントマイムでもう一度この物語に戻ってきたことを示すのだが、それはまさに「とってつけた」ようである。ロンドン公演での『ガーディアン』紙のマイケル・ビリントンの批評は奥歯に物が挟まったような物言いで全体としてはいただけないし、どんな物語がパッチワークされているかがよくわかっていないので批評の切れ味が今ひとつなのだが(そのこと自体にも驚く、「桐壺」「葵上」ぐらいは世界の知識人の常識ではないか?もちろん、野田秀樹の公演批評ごときで日本文学史の復習をしている暇はなかったということなら納得もするが)、物語については “overloaded” つまり詰め込みすぎだということにはさすがに気づいていたみたいだ。
演劇において物語は発生核のようなもので、どんな陳腐なものでもただ存在すればよく、そこから演出家や俳優が想像力を使っていくらでもふくらませていけるものなのだ、ということをまさか知らない野田ではあるまい。おそらく、彼は夢の遊眠社時代の自分が紡ぎ出していた物語をもう一度作ろうと考えているのではないか。Noda Mapになってから、夢の遊眠社時代とは比べものにならないほど単純な構造の物語を野田は提供してきた。それは彼の想像力が若いときほど奔放ではなくなったからであるが、それだけではなく、イギリス留学の際テアトル・ド・コンプリシテの作品を間近に見て、演劇では演出次第で単純な物語がいくらでも複雑で想像力豊かなものに変わる、ということを身をもって納得したせいでもあり、また限られた観客層ではなくもっと広い観客層に受けいられたいという彼の希望のあらわれのせいでもあった。『Right Eye』などはこうした野田の新戦略のもっとも成功したもののうちの一つであったのだが、時代を経るにつれ、彼の作品はただ単純なだけのものになっていった。それはひとえに野田が演出家としては三流であるからだ。イギリスで見てきたことの猿真似が通用しているうちはまだよかったが、徐々にそれは自己模倣になっていった。(猿真似はそれ自体がいけないわけではない。真剣に猿真似をしているうちはむしろ緊張感があって面白いのだが、いつまで立ってもそれが本当の意味で自分のものにならないと、結局猿真似をする自分を猿真似するようになり、形骸化するのだ。)
おそらく野田はそのような自分にたいして危機感があったのだろう。『The Diver』では演出ではなく物語の作り手としての才能に全面的に依拠していた昔の作り方に戻ろうとした。だがかつての彼のように、複数の物語を重ね合わせ時と場所を自由に天翔ることはできなかった。できたのはただ、出来損ないのパッチワークだった。
『愛陀姫』の批評でも指摘したことだが、穏やかな言い方をすれば素朴な、もっとはっきりと言えば田舎芝居じみた、演出がときどき見られたことも気になった。拘留期限まであと一週間と迫ったところでキャサリン・ハンター演じる容疑者と野田の精神科医は映画のコマ落としの要領で短い場面を次々と演じていくのは八〇年代の小劇場がよくやった手法であり、世界的に見ても手垢にまみれた方法で、興ざめだったし、二人が手をつないで無意識の海に沈潜していくという終わりかたも、精神分析の虚構性が指摘される現今いささか時代遅れである。そんなこと言えば、そもそも精神分析をダイビングの比喩で語ることが時代遅れなのだが。
ここから先を書くのはある意味で天に唾するようなもので今後の我が身にも降りかかる批判なのだが、野田の演出が古臭く感じられるようになったというのは、彼が三十代四十代にいろいろなものを吸収しなかったからなのだろう。野田の持っている表現の引き出しは二十代までのものだし、中には古びて引き出せなくなっているものもある。高校生のときの記憶まで遡ってそのときに見聞きした田舎芝居の演出まで引っ張ってこざるを得なかったというのは、中年期に彼がアウトプットばかりでインプットしなかったゆえなのだ。くわばらくわばら。
とにかく、猫に鈴をつけるネズミではないが、誰か野田のところにいって仕事量減らして世界水準の舞台をもっとたくさん見てください、と言えないものか。もともと内にこもる人だから、バランス感覚を失いがちなのだが、最近は苦言を呈する人もいなくなってますます自分と周囲の状況が見えなくなっているようだ。往年の野田秀樹ファンとしては、彼が二流(決して三流ではないが)の演劇人になってしまったことを認めたくない。だが、このままでいけば彼の後年の仕事は演劇史には記録されないだろう。
とはいえ、すでに手遅れなのかもしれない。私はかつて芸術家の晩年の作品に共通する特徴について書いたことがあるが、この作品にもそれは現れている。『The Diver』も、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲と同様、自分しか面白がれないことを追求して、ひたすら構築していくタイプの作品なのだ。想像力というよりも、想像力の出し殻のようなものを使って、熟練した技巧でその構想の貧しさを隠し、綱渡りをしてみせる一種の名人芸。サーカスの老いた芸人がなんとか綱を渡り終えると、まさか落ちまいかと固唾を呑んで見ていた観客はほっと息をついて勢いよく手をたたく。もちろん、それも芸なのだが、だが見事な芸を見せて舌を巻かせるというより、その境遇に同情し、与えられた役割を無事に終えたことへのねぎらいの拍手で迎えられる芸なのだ。