知念正真「演劇に魅せられて」『沖縄タイムス』

『沖縄タイムス』二〇〇五年六月七日付朝刊第一七面
知念正真「演劇に魅せられて(上)進学上京 言葉の壁/開戦時に生まれたナチブサー」

 戦後六十年という時間の区切り方に何ほどの意味があるのか私は知らない。戦後六十年たっても、日本という国は、本質的に何も変わっていないのではないか、否むしろ近年の偽政者の言動は、時代に逆行して、戦前への回帰をもくろんでいるのではないかと思えてしかたがない。
 一九四一年十二月八日は、日本がハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まった日とされる。私はその四日前に生まれた。太平洋戦争に限って言えば、四日間だけは戦前の空気を吸ったわけである。だが、このことには何の意味もない。実際には日本はそれより十年も前の三一年、柳条溝事件を起こし、中国へ軍事的侵略を行い、戦争状態にあったのである。あくまでも太平洋戦争に限って言えば私は開戦と相前後して生まれ、戦時中、幼児期を過ごしたのである。とは言え、戦前(太平洋戦争の)はもとより戦時中の記憶も全くない。
 私が生まれた時、父親は南洋諸島へ出稼ぎに行っていた。家族の話によれば、私は大変なナチブサー(泣き虫)で、母や姉の背中におぶわれて泣いてばかいたそうである。家族は家のすぐ裏にある山の側面に掘った簡易壕に隠れていた。古謝の住民が班ごとに共同で掘ったらしい。しかし、そこも海に面していたため、艦砲射撃が激しくなるにつれ、危険だというので脱出、祖先伝来の墓に移った。御先祖様の骨壺には、しばしお出ましをいただき、そこにこもったのである。
 防空壕といい、墓といい、どちらも規模が小さかったことと、古謝の立地条件が私の生命を救ったと今は思う。なぜなら、「赤ん坊の泣き声は、敵の電波探知機に引っかかり、軍の所在を知られてしまう」という理由で、幼い生命を絶たれてしまった事例が多々あったと後で知ったからである。
われわれのまわりに恐ろしい友軍がいなかったか、いたにしても小規模のでは役に立たなかったのか、いずれかの理由でナチブサーの私は生きのびたのである。
私たちは、ほどなく捕虜となり、泡瀬の収容所に入れられた。帰宅を許されわが家に帰ったが、その時すでに私の家は難民に占拠されていた。母屋はもちろん、馬家と称した小屋に至るまで、足の踏み場もない程、難民であふれていたという。姉に聞いたところでは、シンメーナービ(四枚鍋・大鍋)いっぱいに芋を炊いても、足りない位だったというから、いかに多人数だったか想像できよう。古謝の部落も大半が火で焼かれたが、わが家は奇跡的に焼け残ったのだ。
 各収容所の捕虜や難民が帰郷し、やっと平常の生活を取り戻したころ、三―四歳のころだったと思うが、ある日突然、見も知らぬ男が目の前に立ちはだかった。顔は真っ黒に日焼けしひげ面でボロボロの服をまとった男が、いきなり私を抱き上げたのである。恐怖に打ちふるえ泣き叫ぶが、男はニヤニヤ笑っている。
手足をバタつかせ、暴れまくった末、やっと解放されると私は泣き喚きながら裏へ逃げ込んだ。しかし男はなおも後を追って来て私を捕まえ、また抱き上げたのである。
 そんな私を母は助けようともせず、泣き笑いしながら「真ちゃん、お父どうと、お父どうやんど」と言った。
 これが父との初対面だったと、私は長年思い込んでいたが、事実はそうではなく、父は終戦間際、南洋から引き揚げてきて防衛隊にとられ、やんばるに動員されていた。その日はやんばるから帰宅したのである。
 いずれにせよ、これがトラウマになったのだろう。私は父親とはウマが合わなかった。頑固で厳しく、何かあるとすぐビンタを張られた。
 演劇集団「創造」は六一年、ふじたあさや作「太陽の影」を旗揚げ公演した。その時、私は東京にいて作者と会って上演許可をいただいたり、上演資料を集めたりと、側面から協力した。厳格な父に頼み込んで、ニカ年だけという条件つきで大学進学を許されたのだ。
 喜び勇んで上京したものの、早速私は大きなカルチャーショックに見舞われた。
 軽い気持ちで道を訪【ママ】ねたのだが、東京のおばさんの言葉が聞き取れなかったのである。
 クネクネと言葉が身をよじっているような異様な抑揚に戸惑い、何を言っているのかわからなかった。高校では放送部にいて言葉のアクセントには自信を持っていただけにショックだった。言葉のアクセントやイントネーションなどの訛は、この時以来、東京で演劇する上で私について回った大きな障害となったのである。
 一方、大学の講義は難解でついていけない。クラブ活動に明け暮れた高校生活が悔やまれた。このままでは卒業はおろか進級もおぼつかないと判断した私は、大学をやめ劇団に入ることを決めた。資料集めでお世話になった劇団「青年芸術劇場」(略称・青芸、後に解散)に研究生として入団したのだった。

『沖縄タイムス』二〇〇五年六月八日付朝刊第一五面
知念正真「演劇に魅せられて(下)沖縄全体が人類館に/100年たっても変わらぬ現状」

 劇団での肉体訓練は苛烈を極めた。長年運動をしていなかった身体は、プロレス並みのハードなトレーニングに悲鳴を上げた。
 翌朝は体中に激痛が走り、寝床から起き上がれないほどだった。加えて言葉の壁である。一言発する度にアクセントが違うと直される。けいこ場を離れ、仲間同士で食事をしている時や喫茶店で談笑している時でも容赦はない。
 しまいにはしゃべるのがおっくうになり、明治以降沖縄で進められた皇民化教育もかくやと思えるほどだった。
 しかし、ここでの体験は、私の演劇観を決定づける大きな力となったのは確かである。あっという間に二カ年が過ぎ、私は沖縄に呼び戻された。志半ばにして東京を去るのはしのびなかったが、約束だから仕方がない。
 父は私が大学を辞めてしまったことを感づいていたはずだが、それについては一言も言わなかった。
 演劇集団「創造」は、旗揚げはしたもののその後はスランプに陥っていた。
 二カ年のブランクを取り戻すべく、活動を再開、「アンネの日記」上演に向けてけいこを始めた。私は東京の劇団で教わったことを、皆に教えた。アマチュアのサークルだから、肉体訓練をする時間はなかったが、簡単な解緊運動や呼吸法、発声に加えて演技指導に至るまで、しかられてばかりいた駄目な研究生が指導する立場になったのである。
 そのころの「創造」は、活気に満ちていた。
 幸喜良秀、中里友豪の両氏をはじめ、多くの先輩たちが、エネルギッシュで、時代を変革するという志に燃えていた。従って良く議論もした。演劇論に限らず、政治、社会問題、何でもござれとばかり、若い論客たちが夜が更けるのも知らず議論した。
 私はもっぱら聞き役だったが、その時の耳学問が私の血となり肉となったと思う。
 今年の五月十五日、大阪で一冊の本が出版された。『人類館 封印された扉』というタイトルのこの本は、演劇「人類館」上演を実現させたい会の編著によるもので、人類館事件のいきさつや時代背景、演劇上演に至るまで精査研究し論述した第一級の資料である。人類館事件か・ら百年目に当たる二〇〇三年、事件現場となった大阪で「人類館」を上演してほしいと、関西沖縄文庫の金城馨氏から要請があった時、正直私はちゅうちょした。
 何しろ初演から二十七年が経っている。なおかつこの芝居は人類館事件だけを描いたものではない。そこを突破口に沖縄の過酷な歴史的出来事を、恥部も含めて洗いざらいブチ込んでしまおうと意図して作ったものである。
 そのためには従来のドラマツルギーでは不可能だ。アリストテレス以来といわれる「三一致の法則」、一つの筋を一日のうちに同一の場所で起こるものとして描くこと、などというまどろっこしい規則などけ飛ばしてしまうしかない。ストーリーはもちろんのこと、時間や空間、登場人物さえ入り乱れて破天荒に展開するのでなければ、沖縄は描けない。
 そんな思いで上演にこぎつけた芝居は、幸い圧倒的な好評を得た。しかし、それは時代との結びつきが強かったからではないだろうか。かつての「創造」の論客たち同様、同時代を生きた観客たちも解説抜きで沖縄の状況と向き合っていた。「ひめゆり」や「集団自決」、「二七度線」等のキーワード一つ一つに、解説を要しなかった。
 だが今の観客はどうだろうか。とりわけ、大阪の若い観客は? 不安材料は尽きなかったが私たちは公演を決行することにした。
 関西沖縄文庫に招かれ座談会に出席し、沖縄二世、三世と称とする若者たちのアイデンティティーに真摯に向き合おうとするは姿勢に触れ、「百年たっても本質的に何も変わっていない」という言葉に打たれたからであいる。さらには「いまや沖縄全体が人類館になっているのでは?」とも。
 思えば沖縄は常にヤマトに追随し、良いように利用されてきした。皇民化教育で自らの文化を否定し「クサメもヤマト風にしなければならない」というような同化政策の犠牲とされたことと、ヤマトに追いつけ追い越せという県民の経済的欲求を逆手にねじまげ、アメとむちで基地を押し付けている現状とに、本質的な違いはない。国体護持のために沖縄戦で郷土が捨て石にされたことと、国体護持のため、安保条約は必要で、そのための基地の抑止力は欠かせないとして米軍基地を押し付け、犠牲を強いていることに、どれほどの違いがあるのだろうか。異民族支配から脱し、平和憲法の下に復帰したいという県民の願望を踏みにじり、基地付き施政権返還にすりかえた当のヤマトはあまつさえ、その憲法まで変えようと画策しているのだ。戦後六十年どころか、人類館事件から百二年たった今も、何も変わっていない。あえて変わったものがあるとすれば、いまや、沖縄全体が人類館になってしまったということではないだろうか。(劇作家)

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