二代目曾我廼家五郎を襲名 “親父は懐かしい”後見には総支配人の大磯

こちらの記事も喜利彦山人氏(twitter: @kirihiko_)のご教示によるもの。ありがたく思う。

初代曾我廼家五郎ゆいて三年その持ち味をようやく身につけて二代目曾我廼家五郎の襲命【ママ】披露公演は三越劇場で華々しく開幕した
楽屋裏の五郎丈、なかなか張り切つて座員廿六名の頭目らしい貫禄を示している
今度はあくまで親父の摸倣でした、家族連れの健全な笑ひを與へて楽しんでもらおうという趣向です」
と語りだした、やつぱり先代五郎の面影がほうふつとしている、襲名の感想をとえば
「そうですやつぱりこうなつてみると親父はなつかしいです、私は六つの時、親父のもとへ養子に行つたんですがそれから四十二才まで文字通り叱られ通しで役らしい役なんかつかせられませんでした、昭和十七年に意見の衝突がありましてこの劇團を離れ、熱海で“チヨチヨ”座を作り昨年まで演出にあたつておりました。先代五郎が病氣になつた時にかはりに文藝賞を私が貰ひに行つた、帰つてくると危篤状態だつたその時に“お前舞台に出よ、そして俺の後を継げ”といわれ今日のような結果になつた、しかしがんこ一点ばりでなくどこか俺の後継にするんだという温情がその中に流れています、座員の人もみなよく協力していますからやりよいですよ」
ユーモアまじりに彼もまたせめて今ごろまで親父が生きていてくれたらと感想をもらしながら襲名興行にふさわしい親父への眞心を表わした
「親父の思い出ですつて…親父の執筆しただけでも千二、三百位あります、セリフだけ変えたら何とかわたし一代ぐらいは十分仕事ができます、わたしは一度今日こそ親父を殺してやらうと思つたことがある、それは大阪の歌舞伎座でけい古のときでした、山を登る動作、氣分がでない、長い道を何度も何度もくり返した、十六回目には歩行さえ困難になつた、これでだめだつたら…、さすがに親父も全部が山に登つてゆくようだ、親父を囲んで全員でこのときばかりは泣いた、だが親父は十六才のとき中村三五郎【ママ】の弟子入りして七十二才までよく藝に生きたと感謝している、わたしなんかまだまだこれからです、だからよき先生と指導者を得て、ぼちぼちと新しいものをやりたい、それに後見人、総支配人の大磯がいますので心強いです」と五郎はしゆんじゆんと語るのだつた、「せいぜい二代目五郎のため盡力し、曾我廼家の傳統を生かしたい」と後継人の大磯は激励した
しかし二代目五郎自身の最後に語るように決して経済的に楽なものでなく、苦労も続くでしようがわれわれは曾我廼家の傳統に生きる覺悟ですと強い決意の程を示す

『アサヒ芸能新聞』一九五〇年(昭和二十五)五月十六日第十四面

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