神保喜利彦『東京漫才全史』の(数少ない)誤りについて

神保喜利彦『東京漫才全史』は大変な労作で、これだけのものを二十代の著者がまとめたことだけで賞賛に値する。
一方、大著なだけに、若干ながら誤りも見受けられる。とくに戦時中の記述では気になった箇所があったので、以下にまとめた。なお、Kindleで購入したので、ページ数は表示できないことをお断りしておく。
気をつけているつもりの拙著にもいくらでも間違いはあり、なかにはどうしてこんな初歩的な誤りをと思うような凡ミスもある。このような誤りがあったからといって、この書籍の価値はいささかでも減じられることはない。

  1. 「一方、本流のニワカは曾我廼家を打ち破るような革新的な共居を生み出せず」
    →「革新的な驚異」の変換ミスか?
  2. 「皇軍慰問そのものは満洲事変直後の一九三三年から行われている。演芸慰問の第一陣は一九三三年四月に派遣されたもので」
    →演芸慰問の第一陣は『「わらわし隊」の記録』等でも言及されているように、31年12月に奉天に派遣された吉本興行部(「笑いの慰問団 吉本興行部、奉天に到着」『東京朝日新聞』1931年12月5日付朝刊、第三面)
  3. 「街頭や紙面からは徐々に英語由来の言葉が消え、社名や雑誌名なども、「日本蓄音」(=コロムビア)、「日本音響」(=ビクター)、「雑誌富士」(=雑誌キング)などと続々と改名・改称を行った」
    →日本コロムビアは「日蓄工業」と改称したのでは?
  4. 「敗戦色が濃厚になればなるほど、一層の統合強化が推し進められた。講談落語協会、漫談協会、奇術協会、大日本太神楽曲芸協会も合併して「日本演芸協会」と味気ない団体へと変貌した」
    →これは事実誤認だろう。日本演芸協会は明治期からある組織。帝都漫才組合等が統合されたのは40年10月に設立された日本技芸者協議会。これは早くも同年12月に東京興行者協会と合併して芸能文化連盟となり、44年4月には芸能文化連盟に全国三千の芸能団体が統合されて社団法人大日本芸能会が発足した。その社員構成団体として漫才協会(大日本漫才協会ではないはず)があった。なお、「敗色が濃厚に」のほうが日本語として良いのではないか。
  5. 「敗戦による満州の崩壊」→「敗戦による満州国の崩壊」
  6. 「終戦の年の暮れには「東宝名人会」「東宝笑和会」「東横有名会」「浅草松竹演芸場」の四つが定着した」
    →「東宝名人会」「東宝笑和会」は戦前から開催されているので、「定着」はおかしい。また「東横有名会」は半年後の47年6月東横デパート火災後の改築により消滅したので、これも「定着」とは言えないのでは。
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