塩谷国四郎「戦争と演劇」『東宝』第六十号(昭和十三年十二月)

 多くの従軍作家が現地に赴いて、沢山のお土産を持つて帰つて来ることは喜ばしいことである。これからの劇壇もさらに戦争演劇が多くなるだらうと思はれる。国民は、まだ、まだ現地の事情を知りたいだらうし、そういふものを演劇を通じて知るといふことは大きな喜びに違ひないのである。

 私ばかりでなく、どういふ戦争劇が現れるだらう、どういふ風に見る人々の気持ちをえぐる戦争劇が現れるだらうといふのは、国民の大きな期待である。どういふ風に兵士と上官との間柄が、行つてゐるか、戦争をしながらみんな兵士たちは何を考へてゐるだらうなどと、これまでの戦争劇といふものゝ中に現れないいくつもの珠玉のごとき人間性を誰がつかんで来て大衆の前にさらけ出してくれるであらうといふ期待である。

 陸軍省情報部の柴野中佐が、都新聞の演芸欄で戦争劇のことを色々と語つてゐたが、面白かつた。見出しは子供欺しの戦争物、俳優も作家も演出家も軍隊用語に無知だ、セリフには噴飯ものが多いとあるたが、内容は、それほどでもなく、ほめるところはほめ、間違つたところを見事に指摘してゐるのは、さすがなものであると思つた。殊に「……一体にどうも規律正しいばかりで上官下官の間には少しも親睦の情が感じられません。温い人間味がないんです。本当はあんなものぢやありません、もつと打ち解けた仲のいゝ、現代の呼吸の通つたものですよ……」といつて、新国劇の「土と兵隊」を讚めてゐたが、少しばかり現地を見て来た私など、この鋭どい柴野中佐の言葉にびつくりしてしまつた。色々の戦争劇を見て非常にもの足りないやうな感じのするのは、この一点の足りなさなのである。すぐに、お母さんを出して見たり、細君を出して見たりするが、もちろん、そういふ根本的なものもあるには違ひないが、近代的なもつと別なものも持つてゐる。兵隊には個性があり、はげしい戦争の間にも、個人の自由もあるのである。殊に個人の欲望、道徳身についた職業のならはしといふものは、戦争では、どういふ働きをしてゐるか、生と死の境を超へた時の人間の感情の変化など、充分な演出はされてゐない。また、日本の兵士は、何時でも戦争に強いやうにばかり、舞台に現れて来る、もちろん強い、強いのだが、その強い将兵も強い日と、弱い日があるのである。これが、人間である。

 激戦のある一日兵士と一夜を送つただけで幾多の演劇的な、人間の裸な姿につきあたる筈である。だから、私は、彼等従軍作家は、きつと何か凄いものを書いてくれるだらうと大きな期待を持つてゐる。戦争ほど、大きな演劇的な要素をもつたものは、恐らくこの世の中に存在しないだらうとさへ、私は思つてゐる故、誰かゞこゝに新しい世紀の演劇を樹立してくれるのではないか知らとさへ期待してゐる。

 また、演劇の形式は違ふが、坂東蓑助のやつたレポドラマ「明け行く大陸」についてである。この芝居を私はいゝとか悪いとかいふのではない。岸田国士氏が朝日新聞に「私の従軍報告」として中支に張られた欧米の根といふことについて、中支に於ける英米仏などの資本、宗教その他、欧米人のなしつゝあるものを書いてゐたが、こういふものも、いわゆる国策演劇として、「【ママ】この明け行く大陸」が、採つたレポドラマの形式でやつたならば戦争劇の一つの形式として、まだ、将来様々の使命を持つてゐるやうに思はれるのである。

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