曽我廼家十吾の以下の発言は楽天軍が楽天会に変わった経緯を説明していて興味深い。これが曾我廼家五郎研究との唯一に近い接点だな。
曽我廼家十吾「大谷さんが巡査に頼んで」
…… 大阪・二輪加の人気が落ちはじめたのを見て、演劇としての喜劇に目をつけ、これを育てたのも大谷さんです。 私は、明治三十二年に九歳で二輪加の大門亭大蝶に弟子入りし、その後、伊藤博文が殺された明治四十年に、大谷さんが面倒をみられた「楽天軍」という喜劇団につれていかれました。この劇団は、今の京都ピカデリー劇場のところにあった戎座を根城にしていた喜劇団ですが、座長格のの松平良太郎と深沢恒造とが喧嘩して一旦解散したのを、大谷さんが「樂天会」として改造したものですが、私はやはりここで働かせていただいていました。 また、嵐儀三郎を中心とした「瓢々会」というのを大谷さんがつくられたときも、私は大谷さんにいわれるままに参加しました。だから、日露戦争前後からお亡くなりになるまで、実に六十数年にわたってお世話になったことになります。 …… (俳優) (『百人が語る巨人像 大谷竹次郎』一四二頁)
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『大谷竹次郎 百人が語る巨人像 』07
曽我廼家十吾の以下の発言は楽天軍が楽天会に変わった経緯を説明していて興味深い。これが曾我廼家五郎研究との唯一に近い接点だな。
曽我廼家十吾「大谷さんが巡査に頼んで」
……
大阪・二輪加の人気が落ちはじめたのを見て、演劇としての喜劇に目をつけ、これを育てたのも大谷さんです。
私は、明治三十二年に九歳で二輪加の大門亭大蝶に弟子入りし、その後、伊藤博文が殺された明治四十年に、大谷さんが面倒をみられた「楽天軍」という喜劇団につれていかれました。この劇団は、今の京都ピカデリー劇場のところにあった戎座を根城にしていた喜劇団ですが、座長格のの松平良太郎と深沢恒造とが喧嘩して一旦解散したのを、大谷さんが「樂天会」として改造したものですが、私はやはりここで働かせていただいていました。
また、嵐儀三郎を中心とした「瓢々会」というのを大谷さんがつくられたときも、私は大谷さんにいわれるままに参加しました。だから、日露戦争前後からお亡くなりになるまで、実に六十数年にわたってお世話になったことになります。
……
(俳優)
(『百人が語る巨人像 大谷竹次郎』一四二頁)